細身の四年ぶりのジーンズ

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ジーンズを発注した。前回のものは四年前の購買になる。まだ痛んでいないと言われる。それでも流石にオペラの立ち見などに履いていくのは憚られる。ウィッシュリストに入れてからでも半年ぐらいになるが、その時よりも3%安くなったので手を出した。サイズが無くなれば一貫の終わりで、今普段着に下している33インチから二段階下の31インチなのであまり長さも含めて数が出ない。寧ろ売れ残るサイズで定価からすれば大分安く、前回は86ユーロ出している。色合いは前回ほど良くないが、なによりも新しく、細身で形は良くなるのではないかと期待している。

大きめのジーンズは股ズレもしないで痛み難いのは分かっているが、現在使用中の32インチでも全く傷みが無く、更に腹回りがずる感じがするぐらいで、間違いなく小さめの方が都合が良い。先ずは足を通してみなければ分からないが、太ももなどがすっきりとするのではないかと思う。幅でとると、同じ長さでも長目でなくなると思われる。しかしこればかりは更に長目が履ける訳ではない。

五月のミュンヘンは初日シリーズなのでジーンズは履かない予定だが、新しいシャツもあるので気候が良くなってお出かけやデートなどになるとやはり古くさいといけない。更にだらだらしたジーンズは更に暑苦しい感じで良くない。

前日に発注したものが届いた。色は予想よりも濃い目だが、緑がかっているようで、今普段着にしている33インチのものとは違うようだ。冬は暖かそうな感じがするが夏はどうだろうか?上着も若干合わせにくいかもしれない。まあ、送料込み63ユーロなら文句は言えない。

何よりも違うのは、太ももが確りと包まれてスリムになっていることで、腹回り以上に効果がある。腹回りはもう一つ下の30インチでも履けるのではないかと思わせる。嘗ての無理をして履いていた時とはまだまだ大分余裕があるが、あの当時は脂肪が多かったのでまた意味が違うのかもしれない。走り込んでこれ以上細くなると今度はスーツなどのズボンに困ることになる。目的は脂肪を落とすだけなのでこれ以上細くする必要はない。なによりも太ももなどはこのリーヴァイスのオリジナルフィットでパンパンなのでこれ以下は履けても直ぐに股ズレが起きそうだ。



昨晩、「タンホイザー」新演出の写真が掲載された。注目は、ヴィルフラム役のゲルハーエルに充てられた楽譜がドレスデン版ということで、テクストのあるところはあまり差が無いのかもしれないが、そこにパリ版が付け合わされるということで、管弦楽のパート譜にも付け加えられることになるのだろうか?週末は、ドレスデン版としてネットにあるコンヴィチニー指揮の豪華キャストの録音で調べてみよう。この指揮者は、ゲヴァントハウスとのベートーヴェン交響曲全集などで有名だが、障りを流してみるとなかなか良さそうでレファレンス版として充分に使えそうである。



参照:
足を通してみてドキドキ 2013-03-12 | アウトドーア・環境
三年振り新調のジーンズ 2006-12-29 | 生活
ジーンズの裾の綻び 2008-10-29 | 生活
締まりの良いストレートな買物 2009-12-22 | 雑感
伸びる仏印ジーンズを購入 2015-04-09 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-04-22 17:45 | 生活 | Trackback

なにか目安にしたいもの

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ランニングコースの沢沿いは霜が降りていた。駐車場の車も霜取りの痕があった。沢の流れも叢が凍っていたようにも見えた。しかし車の外気温計は摂氏四度である。今年の記録的に暖かい二月の天候のようだ。それでも異なるのは明るさで、春の太陽だった。だから手袋が欲しいほどではなかった。まるで日本の太平洋側の二月に走っているように錯覚した。日本の冬はやはり温かい。相変わらずジョギングテムポの25分30秒で往復した。それでも髪が汗で濡れて寒さに耐えれるような体になった。

居間に暖房を入れた。今シーズン初めてである。冬篭りしていた間は消してあったからで、前日に寝室に暖房を入れて就寝してそれはそれで熟睡できなかったので、階下に暖房を入れてその温もりを一日中利用することでこの数日の寒気を乗り切ろうと作戦変更した。厳冬期ならば風呂場がヒートショックで怖いのでそこに暖房を利かすだけなのだが、春となると東日が入って更にお湯の温もりでそこは暖かい。しかし居間は陽が入っても広いのであくまで充分に温まらない。恐らく南からの陽射しが高くなって奥には入らないのだろう。それに合わせるようにして、暖房を利かすことで最も効果的になるだろうか。

陽射しが差し込まなくなったので夕刻、階段上のサンルームで休もうと思った。そこにもソファーが置いてあるので寝転べるのだが、陽射しが当たらない。窓枠の下においてあった寝椅子はバルコンに移動してある。そこでキャムプ用の椅子をそこにおいてマガジンを開けた。調べ物の目的は違ったのだが、興味深い情報を得た。いつものFAZで御馴染みの音楽評論家女史がバーデン・バーデンのそれに書いてあるものだ。

パリで演奏旅行中のミュンヘンの座付き管弦楽団の稽古を見学していてsehr gutと褒めていたのは知っていたが、そこでの指揮者ペトレンコの発言を書き起こしている。

"Ja, das war gestern sehr gut, sehr gut, ich bin glücklich, danke.
Aber wir könnten, Buchstabe H Takt 5, bitte die Klarinetten..."

「そう、昨日は(ボンでのチャイコフスキー五番の演奏は)とても素晴らしかった、とても素晴らしかった、幸せで、どうもありがとう。
それでも練習記号H五小節目から、クラリネット(重奏)は…」

Stringendoの記号が付いて、アゴーキクが効かされるところであろう。やくざ刈りの一番のおじさんとブロンドのおねえさんの二番が上手く合っていなかったのかもしれない。つまり三度からオクターヴへと重要なクラリネット重奏が響かないことになって、音の凝縮度が変わってしまうのだろう。なるほどこの辺りはボンの公演の記憶では若干バタバタしていた感じであったのを記憶している。

指揮者キリル・ペトレンコは、指揮台の楽譜をいつも熱心に捲っている。モーツァルトの交響曲でも小まめに捲る。故岩城宏之の文章ではないが多くの指揮者は目線を離したくないのと、権威の為にも暗譜するというようなことのようだが、どうもこの天才指揮者の場合は楽譜で演奏上の問題点を確認して記憶の目安にしているようだ。それならば我々でもチェックしておかないと忘れるのと同じで、鉛筆があるかないかだけで、それこそ岩城のように視覚的に記憶しておけば練習記号とも記憶に残しておける。



参照:
Glückliche Erscheinung, Eleonore Büning (MAGAZIN 2017/1 Festspielhaus Baden-Baden)
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-21 19:59 | 雑感 | Trackback

入場者二万五千人、占有率93%

バーデンバーデンとザルツブルクでの復活祭が終わり、各々がその成果が発表されている。先ず前者は25000人の入場者を迎え占有率93%、後者は24000人、95.5%と、どうしても二者が比較される。後者の会員とその歴史から比較すれば、五年目の前者が健闘していることも分かる。後者の大ホールが2179席に対して前者が2500席である。来年は、今度は前者が「パルシファル」で、後者が「トスカ」となるので、その占有率の差が縮まるのだろう。

今年前者で公演された「トスカ」のヴィデオを観た。恐らく、初日などよりも質は高くなっているようだが、基本的な批判点はこの公演でも変わらない。演出や歌手に関しては批評を超えてそれに付け加えることはそれほどないが、演出に関してはバーデンバーデンでの公演の質を体現しているようでこれまた具合が悪い。ベルリンとの協議のやり方は分からないのだが、現監督のオペラ界での人脈から考えるとこの程度のものしかできないのも理解できる。これも次期監督に期待が集まるところで、少なくとも歌手に関してはレヴィン事務所が出て来るので全く質が変わるだろう。しかし最大の問題点は、現監督のオペラ指揮やその在り方で、これは今更なんだかんだ批判してもはじまらない。それがプッチーニとなると、より歌手を充分に歌わせることが出来ないとなると、たとえ立派な管弦楽を清潔にコントロールしてもはじまらないのである ― 改めて次期監督が2011年にフランクフルトで同曲公演の音を聞くと、下手さが目立つ管弦楽であってもその歌の運びなど、プッチーニの演奏に関してもこの二人のオペラ公演での実力における雲泥の差が際立つ。来年は、「五年間の功労に盛大なお別れ公演」として「パルシファル」が公演されるが、演出にも金を欠けるようだから、ある程度は期待できる。何よりも音楽的にも通常のオペラ指揮者にとっても難物なので、ある程度はアドヴァンテージを付加できるのではなかろうか?

ハムブルクでのリヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」新制作への新聞批評が載っている。これまたフランクフルトの「トスカ」と同じくアンドレアス・クリンゲンブルク演出らしいが、ケント・ナガノ指揮の管弦楽団が賞賛されている。あの楽劇で管弦楽団が主役になるというのはやはり問題が大きいかもしれない。以前のフォン・ドホナーニ指揮の演奏でもそれほど目立つことはなかったので、やはりナガノは交響楽的に鳴らしていることは障りを聞いても分かる。同時に最初期から変わらぬように鳴らし過ぎという批判もあるがそれなのになぜか交響楽団ではもう一つ成功していないのが、如何にもオペラ指揮者らしいところだろうか。一流二流とか様々あっても、ティーレマンなどの指揮者にも通じるものがある。

先日公演のあったキリル・ペトレンコ指揮で父親がコンサートマイスターを務めていたフォアアールベルクの交響楽団の演奏会がラディオで聞けるようだ。それもブレゲンツの会場からではなく、モンタフォンの会場の録音が、月末30日日曜日と翌週に分けて放送されるようで、今秋都民劇場で座付き管弦楽団で演奏されるマーラーの交響曲五番とマーラーの歌曲である。ローカル番組の枠組みなので一回のコンサートが二回に分けられるのは、まるで嘗て大阪のABCが大フィルの演奏会をAMで放送していた時のようである。



参照:
REICHLICH ÜBERFRACHTET (BR-KLASSIK)
Ein Klangmagier, der sein Wort hält (Vorarlberger Nachrichten)
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-20 21:42 | 文化一般 | Trackback

フェイクニュースの脅し

朝七時半のアポントメントだった。タイヤ交換である。だから車中で七時のニュースを聞いた。トップニュースは北朝鮮問題でのフェイクニュースである。空母が北朝鮮向かうと大統領までが語って、北朝鮮に圧力を掛けたのに、実際には反対方向のインド洋へと向かっていたことが知られていたというのである。要するに口だけの脅しだったとなるが、この件に関しては内部での情報の混乱として処理されるらしい。子ブッシュや金正恩などの一貫した政治姿勢とは異なり、このように未熟大統領トラムプの方が一貫性が無いので危ないというのが解説だった。

折からの戻り寒気で、霙も降り、冬タイヤが欲しいと思ったが、それでも夏タイヤの走り心地は抜群だった。地面が温まっているので、気温は摂氏四度であり、週末にかけて早朝は零下になるというが、出かける予定もないので来週になればまた暖かくなるだろう。途上買物も済ませて、九時にはデスクに付いた。

朝のラディオでもう一つ興味深かったのは、今回の国民投票に参加したトルコ人のドイツ人化の問題が危ぶまれていたことに対して、政治信条や民主主義的意識とドイツ化の問題は別けるべきだとする意見だった。つまりドイツでもAfDなどを支持するとんでもない非民主主義的な連中が多く、それはトルコ人でも同じだというのだ。二重国籍が二百三十万人といわれ、彼らが必ずしも非民主主義的な人達ではないという背景も話されていた。

流石に寝室も冷えて来て、布団に包まって寝るのであまり熟睡していない。上掛けを準備するか、暖房を薄く入れるかなど考えるが、陽射しがあると直ぐに暖かかくなるので、完全に切ったままにしてある。



参照:
Alternative facts 2017-02-04 | 歴史・時事
多重国籍の奨めと被選挙権  2017-03-15 | 歴史・時事
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# by pfaelzerwein | 2017-04-19 17:40 | マスメディア批評 | Trackback

需要供給が定めるその価値

早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-18 21:33 | 文化一般 | Trackback

明るく昇っていく太陽

先週も三回走った。最後の峠攻めはゆっくり上がった分早く下りれて33分28秒で帳尻を合わせた。このところの不調は四旬節の食事が絶食まではいかなくても肉食が普段より減っているのでもう一つ意気が上がらなかったこともあるのかと思う。菜食でも先日のクライミングのパートナーでありツアースキーのリーダーのように二メートルの巨漢の元気な人がいるが、どうも私の場合は血圧が上がるようでなければ駄目なようだ。

失われたとされていた楽譜が確認されたという。グスタフ・マーラー作曲「亡き子を偲ぶ歌」のピアノ版で、管弦楽版として知られているものだ。「今しがた、太陽が明るく昇っていく」という第一曲で、残りの四曲とは異なって、ピアノ版が失われていたものである。道理でフィッシャーディースカウの全集に含まれていない訳だ。当時のアルマと作曲家が通っていたヴィーンの音楽サロンを催していたコンラート家の娘さんがミュンヘンへと移ったことで、見つかった楽譜もその時に搬送されたとされる。そのノートから、1901年から1904年に作曲されたこの第三曲、第四曲と同時期の作曲とされる ― 第六交響曲に関連して、アルマによって縁起でもないと言われていたリュッケルト詩に付けた曲集である。

承前)三月のペトレンコ指揮のコンサートをベルリンで体験して、それを称して「猛獣ショー」と書いている東京の人がいるようだ。その旨はなんとなく分かる。つまり、ベルリンのフィルハーモニカ―に戦後付き纏っていた高度成長からのイメージが被るからである ― 当時は合衆国のビッグファイヴもレニングラードもどこも同じようなものだった。そこの入団試験を受けたかどうかは知らないが、現在ミラノのスカラ座で弾いている二代目の団員がフィルハーモニカ―を称して語ったことを思い起こさせた。つまり彼に言わせると「そのアンサムブルの在り方や雰囲気が特殊で」と、所謂我々がイメージする戦後の西ドイツのあの雰囲気がアバド時代でもあまり変わらないとした見解であった。どこの交響楽団も、座付き管弦楽団とは当然異なるが、所謂ドイツの合理主義的なものに、これまた根源的な闘争心のようなものが加味された雰囲気である。そうした雰囲気が先入観念を形成しているのだろう。

しかし現実には、先日のバーデン・バーデンでも「冷たい音楽」と評されていることに関してその仲間の音楽家に話すと、モーツァルトの演奏のあとで即座に「楽員は充分に温まっている」と反応があったぐらいである。つまり誰が見ても分かるように、それどころかベルリン初日には緊張した楽員が上手く乗れなかったことを評して「とても人間的だ」という批評もあった位で、思い込みと現実の間には大きな隔たりがある。

芸術的な見解としては、先日のインタヴューで「音楽することと楽曲演奏実践の関係が議論」となっていた訳だが、現監督のそして同時にフィルハーモニカ―の弱点としてもこの問題が立ち覇だかっていて、前者の責任としては正しいテムポを絶えず与えたとしても、それを状況に合わせて、更に音楽作りをしていくということに関してつまり恐らく指揮のテクニックであり、その音楽的才能に弱みがあるということになるのだろう。この問題は、この指揮者のデビュー当時から我々のような熱心なファンは分かっていたのであり、それは将来とも変わら無いと指摘されていた。それでも演奏実践の完成度やそのプログラミングなどを含めて彼以上の才能が居なかったのも事実であろう。そこで、まさしくそこが自由自在の次期監督が選出された訳で ― 一例としてバイロイトでの楽劇「ジークフリート」当該箇所での歌いこみを挙げれば充分である ―、その棒に付いていくことが求婚した側として至上命令なのである。それによって、戦前戦中を引き摺る反作用としての戦後のクールなイメージから抜け出て、例えばフルトヴェングラー時代以前の恐らくニキシュ時代の新生交響楽団の一夜一夜完結するイヴェントであるようなコンサートが出来るようにという目標が設定される ― 例えばペトレンコ指揮コンサートのプログラムは、古典的なプログラム構成で、休憩前に協奏曲などを入れて、力の入れ加減を調整していて、演奏上の注意力などが失せないようになっている。それだけに120%も求められる高い目標が設定されている。「猛獣ショー」とは勿論カラヤンサーカスから観念連想する言葉であるが、実際には甚だしく的外れな言葉であろうことは、この事情からまたその目指すものからも明白であろう。



鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-17 22:19 | 文化一般 | Trackback

殆んど卑猥な復活祭卵の巣

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朝からパンを買いに行って、一っ走りしてきた。峠への上りはブルックナーの交響曲四番を頭でさらっていた。それでもまだ四楽章を勉強していないので紛らわしいが、最後のコーダまでなんとなく動機の連結は描けた。交響曲とはこのように作曲していくのだと体感できるような気がした。

なにはさておき四楽章までさらって、時間があれば録音を流して、夕方のバーデンバーデンでのコンサートのネット再放送までに、ザルツブルクの楽劇「ヴァルキューレ」を少し観てみたい。障りだけは聞いたが、指揮者のティーレマンは、テムポを抑え、音量を抑えてマニエーレの極致を行っているようで、これは楽譜を見ながら聞かないと適格な批評にならないと思った。無駄になるかもしれないが、歌手陣も大変健闘しているようで、先ずは観なければ話しにならないと思った。

聖週間は昨週末からの疲れもあって、音曲自主規制としたので、打って変わっての一日中音響漬けは厳しいかもしれないが、砂漠に溢す水のように体に染みていくかもしれない。それでもやはり楽譜を見ながらヴィデオ鑑賞なんて苦痛でしかなく、楽譜も無しに音楽ヴィデオなどを二時間どころか短い一曲も気を散らさずに観ていることなど出来ない。それでもああしたものが売れる市場があるのだから、多くの人は余程気が長くて我慢強いのだと思う。

これを書き乍ら、「ヴァルキューレ」を流しているが、子供の時から乍ら族なのでそれは堪えない。しかし、何か独特の節回しの音楽が流れると気になって仕方が無くなる。独特のアーティキュレーションの根拠はどこにあるのだろうと気になると楽譜を開けてみないといけなくなるから、やはり乍らでは流す価値はあまりない。まるでミュージカルか何かのようで、まるでテムポやリズムが定まらないと気持ち悪い。これを専門家を称する人達は拍を数えているのかどうか、極限の殆んど卑猥なアゴーギクと呼んでいるようだ。まあ、多くの専門家の絶賛を受けた公演であるから最後まで観よう。

パン屋で取って来た復活祭の卵の巣である。一度、写真を上げたことがあるが、毎年のお飾りのようなものなので仕方が無い。勿論、復活祭のウサギと言われるようなものは卵を産む訳がないのだが、ウサギは多産の象徴であることには変わりない。



参照:
満ちる生まれ変わる喜びの日 2010-04-06 | 暦
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-16 22:54 | | Trackback

曇天の聖土曜日の騒々しさ

聖土曜日は朝早くから買い物客が押し寄せた。例年の如く、厚い雲が覆う聖土曜曜日の天候だが、復活祭で火曜日まで休みになるからだ。先ずはパン屋で並び、八百屋に行くのに遠めのところで駐車した。おばさんが牛蒡を渡すのを忘れていたので帰宅後電話した。帰りにはバイパスが地元の南インターチェンジまで開いていて、いつも使うところはラムぺが殆んど出来上がっているので、旧道の混雑は解消されて、もう一息で工事以前よりも更に静かになるだろうことを確認出来てよかった。

立ち寄った肉屋では青胡椒入りミニザウマーゲンを購入した。残っているマウルタッシェと合わせてこれで火曜日まで暮らせるだろう。一食は米があり、一食はジャガイモがある。復活祭初日はパン屋も開いているので、リースリングを一本開ければ充分だ。

途上のラディオは予定されている復活祭の平和行進の予定などをニュースとして伝えていた。ラムシュタインの沖縄と並ぶ世界最大の海外米軍基地へと向けてシリアへの攻撃などへの抗議行動を行うという。その行動の規模は知らないが毎年のことだろうからある程度は分かっていることであり、こうして朝のニュースとして伝えることは中立の公共放送としては公平なのだと思う。

そこで、トラムプ大統領が北朝鮮を朝鮮半島の非核化に向けて交渉の場に引き出そうとしている挑発の報道は、丁度冷戦時代の戦略核構想を想起させるが、あの当時の西ドイツの報道はどうだったのかなどと思わせた。当時は右左両翼の政治勢力と報道姿勢などがはっきりあったわけだが今はどこの国も異なっている次元ではやはり質の良い冷静な報道などが必要とされるのだろう。先日、米中の両首脳は今回の件で協議したことだろうから、ある一定の効果は計算できているのだろうか?

北朝鮮と謂えば、先日シュネーベルガーのお弟子さんと話したときに、金正恩とも平壌で会う可能性はあったと語っていたが、それは冗談ではないと分かった。逆に会っていなかったのだろうと分かった。それほどスイスでの滞在は後継者となる本人にとってはあまり表に出したくない事だったのだろうと推測する。スイスの全方位永久中立政策ゆえになせる業だろうか。

南朝鮮と謂えば、ベルリンの尹伊桑の家構想に韓国政府が経済的援助を惜しんで暗礁に乗り上げているという話しを聞いた。貧しい国でもなく、サムスンなどの大企業は連邦共和国において大きな利益を上げているのであるから、ソニーが首都にセンターを作った様に、韓国を代表する作曲家であり、政治的にもとても世界の注目を集めた人物であるから構想に財源を出すべきである。勿論彼を迫害して、死刑判決を与えたのは先頃弾劾された朴の父親の朴正煕大統領であり、あまりに北朝鮮と近かったことからその援助が難しかったのは理解可能だが、この時点で方針が変わらないのだろうか。その政治信条以上に、朝鮮民族にとっては重要な芸術家であることは間違いなく、金大中と並んで時代の証人であったことも間違いない。韓国人も慰安婦像などに市民の募金を集めるならば、尹伊桑の家構想に資金を集める方が将来的にも価値があり、民族の誇りとやらに繋がるのは間違いない。



参照:
聖土曜日から復活祭にかけて 2013-04-01 | 暦
ポストモダンの貸借対照表 2005-09-02 | 歴史・時事
詭弁と倹約 2005-02-18 | 料理
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女
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# by pfaelzerwein | 2017-04-15 19:24 | | Trackback

聖金曜日のブルックナー素読

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オバマ前大統領が五月にベルリンを訪問するという。プロテスタントの教会大会に出席してメルケル首相と面談して、その足でメディア賞授与にバーデンバーデンを訪れるらしい。子ブッシュとは異なりその世界的影響力は健在のようだ。

ラディオは、電気代が上がることを伝えていた。理由は連邦共和国が進める電気自動車の充電機の設置のために新規投資が必要だからのようである。既にアウトバーンの脇のマクドナルドなどでも見かけるが、充電時間を考えると本当に実用的なのかどうか分からない。少なくとも、自宅では今後とも更に節電する方向で最後の微量電流までを抑えて行くことになりそうだ。今年になって殆んどワークステーションを点けていないので既にこれまた期待できる。

ランニングのスピードが出ない。理由は分からない。気温摂氏六度もあれば十一度もある。それほど変わらない。どこがどう悪いわけではなく、絶食をしている訳でもないが、もう一つである。先週、週末の疲れが残っているのだろう。コンサートに行くだけでも結構厳しい。十代の時の年間百何十回かの記録が一度だけあるが、二時間近く集中しているだけでも疲れるのである。それが三日に一度ほどとなると堪らない。あの頃は好奇心の方が強かったのだろうが、それでも厳しかったのを覚えている。

2015年から再びフランクフルトの演奏会とバーデンバーデン以外にミュンヘンのオペラに通いだしたが、フランクフルトは定期を止めた。それでも今年、来年の計画を立てると、そこにこれまた極力減らしているスキーと山を加えるとダブルブッキングの可能性が高い。今は泊まりで仕事に出かけることもなくなっているので幸いだが、そのようなものがあると仕事先からオペラやスキーということになってしまうのだ。

忙しく動き回っているとやはりじっくりと色々な勉強ができなくなる。音楽のお勉強だけに限ってもあの忙しくしていた時の時間に追われてのそれと今ではやはり大分異なり、深く勉強出来る。ブルックナーの交響曲四番の「素読」を第一楽章から始めた。最初の版も写譜屋さんの筆ではなくて直筆譜だった。古楽の場合などは苦手なのだが、これはシステムがはっきりしているので、なによりも書き込みが分かり易くて余り苦にならなかった ― 余談ながら、通常の文章とは違って、音楽の記号は速読に適していて、視覚的に文字とは違ってそれは瞬間的に捉えられるからである。寧ろ、動機の扱いなどを見るとその勢いとか書き込みに流れが見えて分かり易い印象である。同時に後年の成功と攻撃から対位法の大家のような印象があるが、この交響曲をこうしてみると可成り隙間だらけでそれほど密に書かれてはおらず、精々その辺りの学校の先生という感じである。実際にオルガン弾きとしてと同時に、ヴィーン大で講座を持つとなっているが、現在もどこにでもいるような普通の音大の講師程度ではないだろうか。流石に第一版は冗長なところがあって改定の必要に迫られただけでなく、今は誰も使わない楽譜であるというのは感じられた。少なくとも動機の扱い方においてということである。まだよく分からないので先に進もう。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
夏タイヤについてのファクト 2017-02-24 | 雑感
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-14 19:47 | | Trackback

フランスのチーズとワイン

バーデンバーデンへの途上でワインを二本購入した。一本はブルゴーニュだが、もう一本は白ワイン代わりにロゼを購入した。いつもはプロヴァンスの安く軽いものを購入するが、魚などに合わしたいので探してみた。あまり飲んだことのない、フランスで最も高価なと呼ばれるタヴェルを購入した。他のロゼの倍ぐらいの5ユーロぐらいだったが、アルコールが14%とと高いのには気が付かなかった。二度ほど滞在したニームとアヴィニョンの間だが、現地ではあまり飲まなかった。高価だったからだろうか。

サケのパイに合わせて、悲愴交響曲から帰宅後に開けた。何よりも甘みが口に広がるので、最近はフランスのワインの甘みに閉口するかと思ったら、苦みが急に広がって来てまるで仁丹のようだった。あの石灰土壌でこれだけ苦みが走るのは高アルコールでしかありえないだろう。魚の焼いた苦みとか貝の苦みとかには合いそうだ。それにしても可成り強引なワインである。あの辺りから地中海にかけてのフランスワインは、繊細とか柔らかみとかとは正反対のワインを何とか石灰岩のカルシウム丸みのようなテロワーで飲ませるものが殆んどである。兎に角ロゼの割には赤のような色をしていた。暑い2015年産ということで、ドイツにおいても繊細さを求めるのが間違っており、フランスでもそれは同じだろう。

スーパーでは直前にドイツの親仁達がエビを買いさらってしまったので、烏賊を買った。自宅で初めて掃除した。そして一回はゲソを使ってイカスミスパゲティーにした。これは、味も色合いも丁度良かったのだが、腹がごろごろした。下痢をしたわけではないので毒性はなかったのだろうが、翌日も腸が疲れた感じは残った。もう一回はトマトを入れずにスパゲティーにした。こちらの方も若干腹にもたれたが、イカスミほどではなかった。兎に角、魚介類の料理は処理するだけでも指が臭くなり、臭いが気になる。普段あまり弄っていないからだろう。

次にバーデンバーデンに行くときも何を買おうかと思うが、今回何よりも良かったのはサヴォア地方の山チーズなど二種類だ。期限も19日までで、5ユーロぐらいで塊を二つ購入できた。地元のドイツのスーパーでは到底無理な量で、更にドイツやオランダのチーズ文化とフランスのそれでは差があり過ぎる。

なるほどスーパーワインも安くて様々なワインがあるが、それ以上にチーズはお買い得だ。そしていつものようにフリゼーを購入した。価格は安くはないがあれほど新鮮で大きなものはドイツではなかなか買えない。



参照:
破局に通じる原発銀座の道 2012-04-11 | 文化一般
原発銀座で息を吸えるその幸福 2011-04-26 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-04-13 21:02 | ワイン | Trackback

復活祭音楽祭のあとで

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次のコンサートとオペラに向けてのお勉強準備である。オペラの方は、もう一つドレスデン版と、パリ版と楽譜を両方を用意して、欠けるのはドレスデン版でのメディアマテリアルだけだ。コンサートの方は、ブルックナー交響曲4番とモーツァルト交響曲39番である。前者は1878*90年版ということなので、一番長い1874年版とその第二版の手書きのファクシミリをダウンロードした。当初は交響曲34番になっていたのが変更になっている後者も、紙のものを購入したものがあったと思ったが見つからないので、これもついでにダウンロードする。

これで漸く、ロシア音楽を終えて、ヴァークナーとブルックナーで独墺に戻り、その時代背景も二十年も違わない二曲を同時にお勉強すると余波効果があるかもしれない。特に前者のドレスデン版と1860年以降の影響が顕著なパリ版から取捨選択されるということで、当然のことながら「トリスタン」以降の影響がみられるようだ。聖週間は極力音曲を避けて楽譜を眺めることにしてみたい。二つの版の違いから後年の影響が分かるようならばたいしたものだが、さてどうなるか。

ヴィーナーフィルハーモニカ―のどさまわり公演が増えて入りが芳しくないようだ。だからより有名な変ホ長調の交響曲に替えられたとは思わないが、管弦楽団としての評価は平素の演奏水準からすると致し方ないかもしれない。それはベルリンでも同じで、ラトルの指揮で80%の演奏でも水準に達していると言っても、ドイツの地方管弦楽団の水準が場合によっては東京のそれよりも劣ることからすれば話しにならない。そのようなことではアメリカのビックスリーには敵わないから、次期監督の下では120%が求められているというのは正しい見解だろう。

ザルツブルクでの「ヴァルキューレ」公演が新聞で絶賛されている。昨年は惨憺たる「オテロ」上演だったが、今年はティーレマンファンのおばさんがバーデン・バーデンの「トスカ」が終わってから駆けつけている。確かに歌手陣も充実しているようで、慣れている楽曲だけに管弦楽もそれほど問題が無いのは予想できるところだ。それどころかこうしたセミコンツェルタントなやり方で充分とすると、そもそも歌劇場なんて最早要らない。すると座付き管弦楽団も解散である。要は、音楽劇場が如何に現代社会の劇場として機能するかであり、娯楽ではない音楽劇場の在り方が問わなければ何も書いたことにはならない。この高級紙の水準に満たない歌芝居感想記である。

承前)先日の悲愴交響曲で書き加えておかなければいけないのは、四分の五拍子のヴァルツャーに関する解説で、有名な弦楽セレナードと異なるのは、一二がナポリ風の若しくは南イタリア風にと、五拍子のロシア音楽と組合されているということだ。これを意識すると更にまたこの交響曲の全体の構図が分かり易くなる ― 更にそうした楽曲解析を超えて作曲家の創作意思まで考えていくと切りが無い作業となる。キリル・ペトレンコの演奏の特徴は、あのムラヴィンスキーでも充分に示せていなかったこうした創作の妙や機微に気付かせてくれることであり、如何に楽譜などから創作に可能な限り忠実に演奏していくことがその楽曲を深く知ることへの唯一の方法でしかないことを教えてくれることだ ― 要するに演奏芸術の手練手管の話ではないのである。同時にそうした演奏解釈への信頼感があってこそ、管弦楽団も楽曲に忠実に全力で奉仕することへの動機づけとなるのである。私自身にとって二度目の悲愴交響曲の実演体験だっただけでなく、キリル・ペトレンコ指揮の演奏が何時も同じように唯一無二の体験であるのは、そうした楽曲創作を具に音化しているからに他ならない。(続く



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
価値のあるなしを吟味する 2017-04-05 | ワイン
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-12 22:15 | 生活 | Trackback

今日か明日かの衣替え

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衣替えの季節である。毎年四月が目安になっている。半年もつという虫除けを購入して納めると十月までは効果があることになる。そのような計算である。今年もスーパーでぶら下げる紙を10枚購入した。箪笥にこれを吊るせば先ずは大丈夫だ ― 更に昨年から使いさしの蚊取り線香がそこに入っている。寝室の箪笥だが、臭い等でそれほど問題になったことはない。天井が高く、風通しが良いからだろう。

毛の衣料などは、水洗いすべきかどうかなども考えるのだが、虫除けさえしておけば使えなくなることはないので、出来る限り致命的になりかねない水洗いは後回しにする。そろそろ余所行きから自宅での衣料に下すというときに洗ってみるというようなことが多い。以前はドライクリーニングもしばしば使っていたが、価格やらその効果にはあまり期待しなくなった。

兎に角、明日寝室を掃除する前に、箪笥の中の冬物を整理して、衣替えして、紙を吊るして行こう。来週には夏タイヤになり、これで復活祭と同時に一先ず本格的な夏支度となる。

パン屋から森に入って、朝早かったので八時のニュースを車の中で聞いていた。三つ目のニュースとして、アムネスティインターナショナルの人が電話で日本を批判していた。新聞のフランクフルターアルゲマイネ紙と並ぶ独自の特派員を東京に置く独有数の知日・親日メディアSWRの朝のニュースである。それによると、死刑執行は中共の数と日本の扱いが大問題なのだという。つまり合衆国でも執行までに猶予日時があるのに、日本では当日一時間前に突然やってくるというやり方への批判である。死刑囚は、毎日今日かどうかと拷問状態に置かれているというのである。これが重要な人権侵害とされるところである。なるほどまるで日隠の世界だ。

日隠はそうした覚悟を説いているのだが、死刑囚がそのような貴い精神状態に至れるとは思わない ― そもそも二割にも満たない武士階級のそれらをその他もに強要したのが帝国軍事教育で、とんでもない結果になったのは歴史の知るところだ。拷問であるとの批判が恐らく正しく、死刑制度を継続させたいならば死刑囚の健康を第一に考えていかないと、拷問として更に批判が強まっていくと思われる。

このニュースの数分前には、今日の一言として、聖週間の意味つまり神は生贄を求めず、自らの犠牲でもって人々を救うという、人を裁かずの話が流れていたので、このニュースを聞いた教養のある人々への語りかけは強かったに違いない。



参照:
衣替えの季節 2006-04-22 | 生活
日本社会の文化的後進性 2013-02-21 | マスメディア批評
同じ穴の狢が議論をすると 2010-08-27 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2017-04-11 19:47 | | Trackback

運命の影に輝くブリキの兵隊

承前)グスタフ・マーラーの最高傑作交響曲六番の冒頭はブルックナー作曲第一交響曲の行進曲の引用である。それゆえにポストモダーンの時代にマーラーの交響曲は最も人気が出たとするのは正しいだろう。そして、その引用が謡曲にも及んでいるのは、丁度途上のラディオでフランス人音楽家がバーデン・バーデンの放送局で話していた中世の音楽からルネッサンス音楽への特徴と繋がる。そうしたメタシムフォニーとしての第六交響曲では、一楽章の第二主題のコラールからその展開の鐘の音や遠くの山城、鳥の囀りやカウベルに交じってきらきらと彩光を放つと、その音達に注目したのがダリウス・シマンスキーのオリエンティーリングだった。それは、例えば12世紀に流行ったバイエルンの金箔の聖画に表れるように、丁度クリムトの画風と並行している。そこまでは周知の事実として、その意味合いが考察される。それは、このマーラーの交響曲の場合の所謂悲劇的な運命が大きければ大きいほどその投げかける大きな影に、丁度幼児期に退行するように、光り輝く子供部屋の世界に引き戻されるというものだ。それが、ブリキの兵隊であったり、お城の王子の世界であったりとするということで、この幼児の世界つまりきらきらと光り輝く所謂砂糖菓子のような風景が音響になるということである。

今回のバーデン・バーデンのコンサートは、前夜の悲愴交響曲そしてこの六番と、まるで音楽監督サイモン・ラトルのプロデュ―サーとしての手腕を見せたような構成になっている。前日のオリエンティーリングも19世紀の時代背景、つまりロココの18世紀にはなかった職業選択の自由などに代表される市民社会の勃興が背景にあって、それ故のネオロココ趣味だった。それがまたドイツ語圏のビーダーマイヤーとは異なるフランス趣味の美学の中でのチャイコフスキーの創作であり、勿論そこには18世紀にはなかった悲哀つまり自己実現とその挫折というようなものが人々の人生観に強く影を落としているということになり、そもそもチャイコフスキーの悲愴におけるような主題はそれ以前には存在しなかったとなる。これらをして、一波絡げにまるでドイツロマンティシズムの傍系の民族主義の影響のように取り扱ったのが可笑しいと気が付かせる視線が東欧の人から提供されることはとても幸福なことではないだろうか。

指揮者としてのサイモン・ラトルは、残念ながらフィルハーモニカ―との関係において離婚直前の夫婦のように不幸だった。前日と二日続けて訪れた人を何人かは見かけたが、前日とは異なり楽員の意気はとても低かったと皆気が付いたのではなかろうか。直前まで練習をしていたようだが、一楽章などは、そのままザルツブルクに行っても大丈夫かと思う程、箍が緩んでいたが、最終的にはホルンのシュテファン・ドールが引っ張ってある程度の水準を維持した。管弦楽団の鳴りとして、二日間を比較すれば、どこがどう違うかは明らかだったのではなかろうか?前夜に下りていた楽員が中心となっていて、編成も楽曲も異なるとしても、その響きの充実度の相違は決して演奏者の意気だけの問題ではなかった。要するに、楽譜の音符をどのように一つ一つ拾っていくかに関わっているようだ。

それでも、三楽章の「亡くした愛娘のよちよち歩きの動機」がコーダではあれほど痛切な悲しみとして響くとは今まで知らなかった ― これを看過できる人などいるものか。それだけではないが、このスケルツォを三楽章とする版の内容的な根拠はこれだけでも充分に示されている。これが二楽章に置かれて三楽章アンダンテに繋がるのとでは、このスケルツォ意味が、繋がるのがアンダンテかフィナーレでこれだけ異なり、二楽章とされることで、聞き落とされるものは余りにも大きい。それは動機的連関や動機的処理だけでは説明不可のものではないか?当日のプログラムには、この議論に関して開かれたままの記述があり、結局それを受け止める時代の美意識に拠るのではないかと思う。恐らく、キリル・ペトレンコも二楽章をアンダンテとすると思う。(続く



参照:
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
多感な若い才女を娶ると 2005-08-22 | 女
第六交響曲 第三楽章 2005-08-21 | 音
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-10 19:25 | 文化一般 | Trackback

鼓動を感じるネオロココ趣味

承前)高揚感の中で目覚めた。このままでは血圧が上がっていけない。早速パン屋に出かけ、峠まで走って下りてきた。準備体操をして走り出すと、悲愴交響曲のファゴットが鳴り響く。何時も馴染みのダニエル・ダミアーノの素晴らしい響きである。そして先日指摘した力任せのヴィオラ陣の力を抜いた運弓の音の深みが広がる。謂わば硬いワインではなく、こなれた熟成したワインの深みである。正直、ここまで抜けてしまうと、これはどうなるだろうかと思ったのだった。そしてアレグロノントロッポへのリテヌートからの主題の提示がとてもうまく運び、そのあとの聞いたことのない盛り上がりが、第二主題へと流れていく、美しさが際立つ。そしてクラリネットの郷愁を呼ぶ歌声からアタック厳しく展開部へ、そして警句的な金管の鋭いパルス ― 第五交響曲のボン公演でのそれを思い出した。テムポ運びもしなやかにそしてコラール。

同行の仕事仲間のヴァイオリニストがその合奏ぶりにいたく感心していた二楽章の五拍子のヴァルツァーが響き出す。当日のオリエンティールングで取り上げられた、サロンの笑い声の第二動機部を殆んど人の声のように奏する弦楽合奏。これ程実体感のある擬音をリヒャルト・シュトラウスは書けているだろうか?そしてトリオ主題の動機連結。

カーヴを超えて走り続けるが、なぜかどうしても三楽章のマーチの主題が出てこない。視覚的に楽譜を頭の中で捲ろうとするのだが、なぜかヴァルツァーの一二三、一二の一二から再び第一楽章の展開部へと巻き戻ししてしまうのである。先日までは走り出すと流れてきたあのマーチはどこに行った。八分の十二拍子がマーチになることもタランテラでの細かな音型もある程度頭に浮かぶ、それでも無理してでも歩調を整えないとあのマーチが出てこない。そして一楽章の主題に、その一二の刻みから漸くマーチ主題に入れた。何と鋭い刻みだろう。そしてクライマックスへと、会場の聴衆の心拍数を上げ、血圧を上げさせる ― あのボンでの公演を再び彷彿させる追い込みだ。最後には、ペトレンコ指揮「悲愴交響曲」としての二度目の正直が三度目になるか、つまり拍手が鳴るのか鳴らないかが気になって更に心臓がどきどきしてきたのだった。そして二回目に成功した時のように両腕を広げたまま心臓の鼓動に耳を澄まさせる ― 会場では嗚咽のような溜息が漏れ聞こえる。

その心臓の鼓動の響きに、そのままから振り下ろされる指揮棒で、まるで心の真空地帯に吸い込まれるように第一主題が紡がれるのである、そして第二主題へと慰めへと、しかしまだまだ鼓動は収まらない。生きているのだ。当然のことながら、葬送のトロンボーンが鳴ろうともそれを私たちは耳にしている実態がある。だから死のピチカートで終わるとは限らない。この交響曲は、そうしたキリル・ペトレンコに言わせれば、典型的な白鳥の歌ということになる。

峠から下りには、四楽章の主題が流れて胸をうった。心臓の鼓動が中々収まらないが、無理して急ぐ必要はない。嘗て、吉田秀和が「魔笛」の音楽を称して悲しいのか何かわからないが涙が流れると書いたが ― ああ、彼の小林の道頓堀のモーツァルトの焼き直しだ ―、まさしく当日のオリエンティーリングにあったようにこの曲は19世紀におけるネオロココ趣味のそれもフランス文化の影響を受けた美学に立脚した創作であり、敢えて言えばこの終楽章のラメントーソもそうした美学に裏打ちされている。要するに19世紀の自然主義的なブルックナーなどの交響曲とは世界が違うということになる。峠から下りて来て34分35秒、勿論全曲短縮版であった、そして心の汗で全身がびっしょりになっていた。これをカタリシスというのが正しいのか、それとも。(続く



参照:
あれやこれやと昂る気分 2017-04-09 | 雑感
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-09 19:35 | | Trackback

あれやこれやと昂る気分

とても気分が昂っている。私事もあるのかもしれないが、土曜日のキリル・ペトレンコのバーデン・バーデンデビューがここまで気分を昂らせるとは思わなかった。自分が演奏する訳でもなく、なんら理由はないのだが、いつものように分析的に冷静に居れるのかどうか心配になる。昨秋の座付き管弦楽の演奏会は今回の予行の心算でボンまで行ったのだが、その結果は想定以上で、今回もネットで既に確認したとしても本格的な管弦楽団とのコンサートは初めてなのだ。どのようなコンサート指揮をするかは完全に分かっていてもとても期待が高まる。

前日に買い物も済ましておこうと車に乗ると、フィルハーモニカ―のクヌート・ヴェーバーというチェリストが話をしていた。初日の「トスカ」の前に放送局に来て、それから谷を散歩をして、着替えてから会場入りするという。歩いてスタディオからクーアハウスの方へ、ホテルへと戻ったのだろうか?あのヨハネス・ブラームスのように。とてもいい天気で、爽やかだ。

翌日はペトレンコとの演奏会で、ベルリンでの五年ぶりのコンサートは練習からとてもうまくいき ― 私の言うように「将来への方向性を定める」という言葉を使っていた ―、また少しだけ今回も合わせてから本番だという ― つまり同一メンバーが乗る条件だろうか。当然の如くミュンヘンから前乗りすると思っていたが、練習は何時ものように開演前まで続くのだろう。トスカ初日を覗かないと歌劇の場合の音響はあまり分からないだろうが、登場は来年はないので、まだ時間があるということだろう。

悲愴交響曲の練習でもペトレンコは、三楽章の後で拍手のファールが無かったのは今まで一度しかなかったと。そして23日に初めて二度目を経験したということだ。確かに体で聴衆に示唆するだけの静止をして、そこから終楽章へと流れた。これも経験の積み重ねということになるのだろうか?さて、祝祭劇場ではどうなるだろう。

ベルリンでは聴衆の期待に圧倒されそうになったとヴェーバーも語ったが、バーデン・バーデンでも我々のように将来のスーパーオペラの本拠地としての始まりへと寧ろこちら側が胸がはち切れそうになってしまっている。YOUTUBEなどにはバーデン・バーデンで期待しているという書き込みもあり、そのような人達もいるのだ。



参照:
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
ギリギリの悲愴交響曲 2017-04-06 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-08 16:31 | 雑感 | Trackback

漸く時差ボケから解放される

木曜日の走りは疲れが残っていた。早く走れるとは思っていなかったが、走るうちに攻める気持ちが出て来ていたので、ひょっとすると真面な数字が出るかもしれないと期待していた。しかし結果は、25分30秒往復とジョギングテムポで、往路に12分も掛かっていれば致し方が無い。やはり初速が早くなければ比較的平らなコースでは記録は難しそうだ。

足の筋肉の疲れなども少々のストレッチングでは治らない。肩の柔軟を丁寧にしたが、関節のそれと筋肉痛はやはり異なる。目下の課題は、乳酸の溜まらないような運動とその回復を如何に早くするかで、今までの疲れによる運動能力の低下を是正していかないとあまり使い物にならないと考えている。

久しぶりに熟睡した。どうも夏時間に入ってから昨夜までは夜中の三時前に目が覚める傾向があったからだ。要するに11夜は夜中に目が覚めた。時差ボケが続いていたことになる。今まであまり意識していなかったが、それぐらいかかるのは普通かもしれない。それでも僅か1時間ほどの時差は寧ろそれに気が付く方が難しいのかもしれない。その意味では良く身体で意識できたと思う。気持ちが良い。

ミュンヘンの劇場の極東ツアーの日程をみると、なかなか上手に出来ている。勿論東京にソウルと台北を付け加えたわけだが、少なくとも日本公演初日の一週間前以上に台北に入っている。つまり時差が殆んど抜ける頃から東京公演が始まるのである。これはなかなかよく考えられた日程だ。面白いのは台北ではベートーヴェンプロが演奏されて、ペトレンコ指揮ではイスラエルフィルぐらいでしかなかったのではなかろうか?熱心な日本のファンはこれに出かけるのも面白いかもしれない。交響曲七番は直接クライバー指揮との比較が可能だろう。

Ludwig van Beethoven 
Klavierkonzert Nr. 3 c-Moll op. 37 
Symphonie Nr. 7 A-Dur op. 92
Leitung Kirill Petrenko 
Klavier Igor Levit
National Concert Hall, Taipeh 
So, 10.09.17 
npac-ntch.org/en 
T +886 2 3393 9888
veranstaltet durch die Konzertgesellschaft der Musikalischen Akademie e.V

昨夜、YouTubeへリンクを貼ろうと思うと、そこのGOOマークがあるのに気が付いた。貼れることは分かっていたが、リンクするのが早いと思っていたので今まで貼っていなかった。しかしこの方法ならリンクよりも手軽だ。そしてクリックするだけで簡単に観れて、サムネイルの写真がるのも悪くはない。そこで、遡って劇場関係のものを貼った。今後も沢山貼れるかと思う。

自分で撮ってアップロードしているものはないが、目下の課題のボールダーの動画などもアップされているので使えるものは沢山ある。短い時間で印象を得るにはやはり文章よりも動画が早くてわかりやすいのは当然だろう。しかし、テュイッターなどと同じで、短い文章や印象で納得できるものは構築的、高度な理解には至らない。その意味では、如何にTV文化などというのは20世紀後半文化の仇花だったかというのがよく分かるだろう。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-07 19:17 | | Trackback

オンドラ、東京オリムピック否定?

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久しぶりに南プファルツの岩山を登った。前回は肩を痛めている時だったと思う。気温は摂氏20度には満たないまでも陽射しもあってアウトドア―に快適な条件だった。肩を痛める心配も少なく、それでいながら比較的乾いていて。陽が陰ると寒くなるような天候だった。寝不足だったが、簡単なスタンダードルートとトップロープで何回か登ったことのある六級上を初めてリードした。パートナーはその岩場は初めてだったのが、ベルクヴェークという私が肩を痛めている時に時間を掛けて登って顰蹙を買ったルートを試した。難易度は六級しかないのだが、全てフレンズで支点をとっていかないといけないので、結局我慢出来ずに降りてきた。そのために二本目も私がリードして、三本目は上部を彼が登った。降りて来て、スタンダードのフォアバウという五級のルートを彼がリードした。14時半過ぎに待ち合わせして、帰宅したのは20時過ぎだった。シーズン始めとしては肩も傷めずある程度の挑戦が出来たのでよかった。但し傷だらけになった腕や手以外にも腕や足も可成り筋肉痛である。ボールダーリングでは、足が使い切れていないことは当然だとしても、腰から背中まで堪えた。

先日購入のDMMのピヴォットは優れものだった。下降器としてもコントロールが思いのままで強すぎたり弱すぎたりもせずに、思うように走らすことが出来る。計算つくされた構造になっている。また所謂ガイド機能の後続者確保時もザイル入れや設置などとても扱い易く、横に書いてある図示もとても役立つ。写真を写す時に手を開放する時もとても使い易い。当然のことながら下降のザイルを挟むときも今までよりも大分手に落ち着くので手を滑らす危険性が少なくなっている。但し金属加工でザイルの表面を擦るのか表面が今まで以上に色素を手の方に落としているような感じがした。

新聞のスポーツ欄にチェコ人のアダム・オンドラが大きな庇を登っている写真が載っている。東京オリムピックで正式種目として初金メダルを獲るべき人物としてその競技方法に異議を唱えているという話しだ。だから出るかどうか熟慮が必要という。現在まではボールダーリングとリードクライミングが複合された競技として行われていて、その実力だけでなく新ルート開拓などでも第一人者も26歳という年齢で金メダルへの最後のチャンスだというのである。但し東京でされようとしているのはそこにスピードクライミングというのが加わり、要するに今までのクライミングの実力とは関係ない競技が加わるというのである。これは詳しく知らないでもよく分かることで、自分自身もアルパインクライミングにおいても結局リードクライミングとボールダーリングを合わせたトレーニング方法が最も効果的であり、それに基礎体力などを育成することで成果が出ると確信しているからである。つまりそれ以外のものは従来のアルピニズムとは関係のない観るためのつまりTVメディア向きのショー化された競技となる可能性が強いということであろう。もう少し考えると、怪我の質もさらに悪くなるのではないかと思う。そもそもクライミングの筋力自体は充分に敏捷的であって、静的なそれではないからである。それ以上にどのような動が必要なのであろうか。疑問である。八月にこの種目によってはじめての世界大会がインスブルックで開かれるという。その結果が注目される。



参照:
右足の脹脛の攣りに思う 2015-04-25 | アウトドーア・環境
技術的な断層を登る 2014-06-07 | アウトドーア・環境
割れ目登攀の煩わしさ 2014-06-08 | アウトドーア・環境
購入したDMM社PIVOT 2017-04-02 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-04-06 20:05 | アウトドーア・環境 | Trackback

ギリギリの悲愴交響曲

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承前)悲愴交響曲である。予想以上に難しかった。動機の扱い方と曲の構成との関係から運弓指示などのアーティキュレーションなどが係っているからだろう。この曲に関しては、土曜日の本番で体験してから改めて纏めたいと思うが、23日の演奏から分かったことだけでもメモしておかなければいけないだろう。先ずはテムポだが、メトロノームで数えてはいないが、第二楽章のヴァルツァーなどを聞くと、もう少し第一楽章と第三楽章を早く出来るのではないかと思った。

なるほどベルリンのフィルハーモニカ―は、第一楽章主題のヴィオラでの提示などでとても力強い響きで奏でていて、これは断然の特徴であろう。特にこの交響曲においてファゴットやクラリネットの低音部と弦楽、管と弦の掛け合いなどがとても重要な要素となっているから尚更だ。

現在のロシアの交響楽団でも木管や金管の機能的な問題は甚だ多いが、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード管弦楽団の演奏などを聞くと芸術以前の響きとなっていて、ヴィーナーフィルハーモニカ―のオーボエを笑える程度ではない。要するにハイカルチュア―の音楽芸術としては楽器が鳴っておらず、今やどこの軍楽隊でもこれよりはマシなのではないだろうかと思わせる。

流石にフィルハーモニカ―の管も健闘していて、座付き管弦楽団とは異なりとても機能的であるが、その響きには嘗てのように特別な響きが無い。しかしながら弦との掛け合いやそのバランスという意味では、今回の演奏で大きな課題が突き付けられた形となっている ― 恐らく、次期監督の狙いとしては早めにこうした課題を明確にすることで、2019年までに底上げできるような指標を示す意図もあったのだろうか?賢明なフィルハーモニカ―であるから、指針さえ示されれば自らが改革していくことが可能ということなのだろう。だから今回の練習は鉄のカーテンの裏側で行われたというのも理解できる。それ故に22日は奏者の緊張のためにフィルハーモニカ―らしからぬアンサムブルの出来だったと想像可能だ。

第三楽章のスケルツォにしても主兵の管弦楽団ならばと思うところは少なくなく ― キリル・ペトレンコは客演としてここでも可成り安全運転をしている、しかし何よりも第一楽章の展開部が数年後にはどのように響くべきかは今回の演奏でよく分かった。週末も同じようなメムバーが乗るとすれば学習効果は出ないこともないかもしれない。とても楽しみである。勿論会場のアコーステックも異なるので、基本テムポに影響する。(続く

フィルハーモニカ―は、今秋東京公演をするというが、次回は少なくとも2021年まではないだろう。そしてペトレンコ音楽監督の日本でのオペラ公演も今回が最初で最後になるかもしれない。あり得るとすれば、バーデン・バーデン祝祭劇場が力をつけて引っ越し公演という場合ではなかろうか。まだまだ三万円ぐらいの席が入手出来るとなると都民が羨ましい。フローリアン・フォークトはダブルキャストとなっていて、最後のコンサートに掛けて訪日するようで、嘗ての初日云々というようなシリーズとはなっていないようだ。中二日、三日? ― ネット情報はダブルキャストが消されてしまっている、理由は分からないが、東京から苦情が入ったのだろうか?私なら歌手などどちらでもよいと言いたい。声が強ければ、スケデュールさえ調整すれば全部歌えるのだろう。



参照:
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker YouTube
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
ハフナー交響曲を想う 2017-03-28 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-04-05 17:25 | | Trackback

価値のあるなしを吟味する

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サヴィニー・レー・ボーヌを開けた。一月にバーデン・バーデンへの途上で購入した2014年物である。一口で言うと甘い、果実風味というよりも甘みを感じた。だから口当たりがよくて飲み過ぎて明くる日に残った。決して悪いものではない筈だが、ミネラル風味どころではなかった。価格からしてもクリストマンの2014年物にかなり劣っている。クリストマンのギメルディンゲンの方が雑食砂岩のミネラルもあり、また涼しいテロワーの表出もはっきりしていた。それにしても甘みがこれほどあると高級感も何もいない。そもそもブルゴーニュのミネラルは単純なのでその意味からすると、雑食砂岩や花崗岩は本格的辛口のピノノワールとして長所があると思う。やはりブルゴーニュでも特別なテロワーでなければ駄目なようだ。

アーモンドの花は完全に散った。今年ほど咲いたアーモンドを暇も無く、嵐に見舞われることもなくこんなに早く散って葉アーモンドになって仕舞うことはなかった。気象の特徴なのだろう、この影響がどのようにワインに表れるか、表れない筈はないであろうが、また開花していなければ影響は限られるのか?それとも?

月曜日にはミュンヘンで新制作「タンホイザー」の稽古が始まったという。歌手と合わせることからだろうが、パリ版とドレスデン版の折衷の楽譜とはどれぐらい異なるのだろう。ドレスデン版は既にダウンロードしてあり、パリ版の上演ヴィデオは保存したので、音を聞けばその取捨選択は分かるようになるだろう。

最近はネットのストリーム放送を時間があれば簡単にコピーしておく。特にオペラ公演のものは役立つことも少なくない。ミュンヘンからでは先日の「アンドレア・シェニエ」も録画した。ヨーナス・カウフマンとヘルテロスのものだった。しかしオペラ作品でもコンサートの画像と同じように中々じっくりと見る暇などが無くて、よほど勉強のためになるものでないと必要が無くなる。要するに自宅でホームシアターさながらに楽しむという時間も興味もないのである。

それでも、先日ベルリンで上演されたピーター・セラーズ演出の「ルグランマ―カーブル」は時間が出来ればじっくりと観てみたい。その他リゲティ作曲ヴァイオリン協奏曲、そしてブーレーズを追悼してのリームの作品、これらは価値のある動画である。ざっと見てシーズンに幾つかのコンサートから幾つかの曲目の演奏録画がアーカイヴに値するものだろう。



参照:
ブルゴーニュ吟味への投資 2013-10-05 | ワイン
大分マシの今日この頃 2013-03-05 | ワイン
子供錠剤の甘味料に注意 2013-03-01 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-04-04 21:32 | ワイン | Trackback

FFmpeg出力でハイレゾ

雨が降りそうだった。その前に走り終えるつもりで出かけたが、結局まとまっては降らなかった。金曜日の疲れが残っていて、軽く流して峠まで上がって下りてきた。20分40秒で峠、下りて来て33分5秒は、この冬の走り具合だが、足元が異なるので気分は大分違った。一週間で三回の走りと2回のボールダリングで運動量は十分だった。怪我無く、それだけで良しとしよう。陽射しが無くて肌寒かったが、摂氏11度だったので戻って来た時は汗びっしょりになっていた。

先日ルートを開いたKingoRootの動作の不安定は直らなかった。そのうちにアンドロイドの方が消去するかと尋ねてきたので一先ず消去した。もう少し安定してくれれば使いたいときに使えたと思うと残念である。ルート化していなくてもそれほど不便ではないので、このまま暫く使おう。どうしても必要な時にまたルート化すればよい。問題はメモリーが一杯になってきている様子で、PCでと同じようにそろそろ限界に来ているのかなという印象もある。現在使用しているRAMが1024MB、CPU1GBなので、倍ぐらいの性能は欲しい。

モニターへとHDMIで繋いでPCオーディオを鳴らしている。籠もり部屋からドッキングステーションのノートブックをデスクへと下してきたからだ。そして大きなモニターで総譜を映し乍ら音楽お勉強する。そして音を流すとハイサムプリングへとアップサムプリングしている筈なのに、なぜか録音と同じ48kHzしか出ていない。Realtekの調整は間違っていない。192kHz出力に上げてある。そこで気が付いた。キャストに出す以前にHDMIに繋いでいるからそれに合わせた仕様つまり48kHzでキャスティングすることになるようだ。

そこでHDMIを外して内部スピーカーへと送る信号をキャスティングするようにすると96kHzに上がった。つまりクロームキャストに192kHzで入力している。それならば問題なく楽譜や映像を観乍らハイレゾリューションサウンドが鳴らせる。その時点で出力段はFFmpegになっていて、スピーカー出力もオフにしてある。これならば問題なくLINUXでもハイレゾリューション出力が可能だと思われる。ということはRealtekに依存しないでもアップサムプリングが可能になって、クロームブロウザーの出力も上げることが出来るのではなかろうか?

録音したドイチュラントラディオの音が俄然よくなる。それに比較してデジタルコンサートの方にあまり差が出ないのは、入力自体がスピーカーに近いどころでその時点でアップサムプリングしているからだろう。つまり、そもそも流れている音質は艶消しのような味気ない音のようなのだが、ノートブックの回路によるものなのかラディオ放送のネット配信システムの特徴なのかは分からない。



参照:
一皮剥けるキャストオーディオ 2016-10-21 | テクニック
アンドロイドのルートを再開 2017-03-31 | テクニック
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# by pfaelzerwein | 2017-04-04 02:55 | テクニック | Trackback

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich..

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ミュンヘンからのネット中継を観た。新シーズンのプログラムお披露目である。12月にプッチーニの三部作、2018年6月に「パルシファル」となる。前者は想定内だったが、後者は想定外だった。まだまだ時間を掛けると思ったが、やはり後のことを考えると早めにやってしまう方が良いとなったのだろうか? ― ブラームスを取り上げるのも同様で、明らかに将来のレパートリー構築から逆算していて、この曲の影響として印象派や初期シェーンベルクに言及した。カウフマンやシュテェムメ、コッホの豪華キャストとなるとまたまた券を確保するのに苦労しそうである。個人的にはプッチーニの方が楽しみだが、バーデン・バーデンで3月末に一度、そして6月となると、もはや8月にバイロイトに出かける価値もなくなってしまう。

日本旅行、ロンドン、ニューヨーク公演についても言及があったが、初めての日本への期待も語られていて、そのプログラム内容よりも旅行という感じだ。

(Was würden Sie zum Akademiekonzert sagen wollen?) (アカデミーコンサートに関して何かおっしゃりたいことは?)

Ich würde als das Wichtigste gerne erwähnen, dass nicht nur in Hinblick auf die zwei Premieren, ist das für mich, eine Spielzeit mit vielen anderen Premieren, nämlich, ich freue mich sehr darauf nach Japan... 「私にとっては、ただ二つのオペラ新制作に止まらない、初めての重要なことが盛り沢山のシーズンであります。言えば、つまり、とても楽しみにしている日本への旅行です。」

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich irgendwie ein Aufbruch in die neue Welt. 日本は未知の国で、新世界への旅立ちといった感じです。

東京では、「タンホイザー」の三回のオペラ公演に加えて、「ヴァルキューレ」第一幕マーラーの作品などを二回のコンサートで指揮する ― これの台湾韓国公演もあるようだ。「ヴァルキューレ」は、ミュンヘンでは指輪四部作の第一夜として、ベルリンでつまりバーデン・バーデンで上演するまでの最後の機会として、コッホのヴォータンとシュテェㇺメのブリュンヒルデで再演され、そこで新たな面を見せたいと言われると、これまた幾つかは行きたい気持ちにさせる。

早速、恒例のCD落穂拾いをした。今回は先ず先月から気が付いていたクリスティー指揮のヘンデル作曲「ベルサザール」に食指が動いた。この曲はピノック指揮のものを所持しているが、三枚組10ユーロしないとなると手をつけずにはいられなかったのである。もう一つはアルティメス四重奏団のベートーヴェン全集の一つが二枚組でこれも9.99ユーロで出ていたので発注した。中々よいのは各々三期の曲が組み込まれていて、マーケティング的にも気が利いていることだ。その他は、ウィッシュリストに入っていたフィラデルフィルをムーティーが振ったもので、一月に聞いたシカゴとの演奏からより豊満な響きでも聞いてみたくなった。もう一つ超高級管弦楽団クリーヴランドでブラームスのヴァイオリンをツェートマイルが弾いたもので、フォンドホナーニが付けているのでこれも発注した。先に購入したムター演奏のカラヤン盤が何時ものようにその管弦楽団が余りに良くなかったので、ソリストだけでなくクリーブランドの管弦楽団に期待したい気持ちもある。それで値引き最低額30ユーロを超えているが、ロバート・クラフト指揮のヴェーベルン集が2ユーロしなかったので発注した。探しても探しても購入する価値の見つからなかったナクソス盤をこれで初めて購入することになる。



参照:
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
消滅したエポックの継承 2016-10-23 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-04-02 19:39 | | Trackback

購入したDMM社PIVOT

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夕方ボルダーに出かけた。気温は高いが週末にかけて湿度も上がって来た。身体が動きやすくなっているので、少しでもこの条件を見逃すことはないだろう。買物を済まして、その足で向かうと、二輪車などは多かったが、ハイキング客などはまだ見かけない。不思議なものである。

車も停まっていなかったので、先ずは前々回に手も足も出なかったトラヴァース課題のアレックスに向かった。その前に真新しいチュークがついているアクセルシュヴァイスを試みようとしたが到底駄目だった。先ずはその横の目的の課題を試していると、若い兄さんが降りてきた。チョークの主だったようで、水曜日に試したというから、私が奥の課題をやっていた時にいた車の主だったようだ。各々、黙々と課題に向かい合っていて、ちらちらと覗くとアクセルシュヴァイスの上ののエッジにまで手を伸ばしながら断念した。そこで話しとなった。刺青をいれたお兄さんだが、中々引き締まっていても愛嬌のある顔立ちをしていて、黙々とやっている姿や喋り口調がとても真面だった。

結局自分自身も切り切りには課題が通るのだが続けて出来ないというような話をした。大分課題が通るようになったが、湿気の為に水曜日よりも条件が悪いというのはお兄さんのいう通りだった。繋がりの一カ所で力を使い過ぎてよくない。彼に言わせると手掛かりの入れ替えで解決するというのだが、なかなか難しく苦手だという。彼の中堅の実力でそういうなら、私が簡単に出来なくても仕方がない。それでも長い時間靴を履いていても、爪先を押し付けられるようになったのはとても助かる。この靴をもう一つ、次は半サイズ大きめを購入しても良いなと感じた。それでも結構登れそうだ。同じところを今年最初に試したときに比較すると大分数を試したが体の調子はその時ほどにダメージが無い。

懸案のアクセルシュヴァイスの登り方をお兄さんに教えてもらった。自分自身の最後の詰めはやはりその足場からでは右手が次の手掛かりに届かない。やはり違う方法を考えなければ駄目で、彼らが使わない途中の足場を使うしかないだろう。そして彼が言うには、その時の手掛かりの更新が最も難しいというから私が苦労しているのは当然だろう。そのあと、右の手掛かりをとってから右足を膝の上に上げるのも高いので厳しいという。つまり私が途中の足場に立って、右手が取れれば左の足場の位置次第では上手くその上の立てる筈だ。まだ身体の芯が定まらない感じがあるのでこの先の見通しは余りたたない。

確保・下降器を注文した。昨年九月にアルゴイの岩壁から愛用していたブラックダイヤモンド社のATCガイドを落としてしまったからだ。終了点近くの尾根に近いところだったので最後の日の最後の確保に近かった。手でもて弄んで踊って下に落としてしまったのだが、ザイルを入れる穴が小さく入れにくいことや時間が掛かったりする、そのようになる可能性は何度も思っていたので ― 実際フランスでパートナーのものを落としたこともあった、何時かはとは思っていたが気の緩みと思い、よい反省材料だった。そこで同じものを再購入する気はなかった。最もヒット商品であるATCに対抗する商品は各社から出ていて、選択の為にネットで色々と読んだ。結果、重量も88gに対して72gと軽く、大振り乍ら、好ましいDMM社製からのピヴォットを試してみることにしたのである。価格は、チャイナ製に対してウェールズ製と五割高であるが、送料とも33ユーロならば文句はない。色は三色あるが、人気のブルーは高所では寒そうなので、赤にした。

手にとるとATCよりもしっくりときてとてもおさまりが良い。またジョーカーの9ミリ強のザイルを入れてみても滑りが良い。これならもたつく心配はあまりない。あとは懸垂下降や後続の確保などで実際に試してみないと分からないが、以前のものと比較して欠点などはあまり考えられない。第一印象はすこぶる良い。



参照:
収支決算をしてみる 2016-09-08 | 生活
収容所送りとなる人たち 2011-04-04 | 雑感
保湿状態などで変わる出来 2014-09-10 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-04-01 23:24 | アウトドーア・環境 | Trackback

もう一つの第六交響曲

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もう一つの第六交響曲のお勉強を始めた。グスタフ・マーラーの悲劇的と呼ばれる交響曲である。バーデン・バーデンでは、キリル・ペトレンコ指揮の悲愴交響曲の翌日、サイモン・ラトル指揮で演奏される。この曲は、ベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーなどと並んで第六番とされるものだろう。交響曲作家グスタフ・マーラーの最も完成された作曲としてもこの一曲は欠かせない。そのような訳で、他の六番に比較すると実演でも何度も体験している。

そこでデジタルコンサートから、2011年にラトル指揮で演奏されたものをダウンロードした。二楽章に緩徐楽章を演奏していて、最新の楽譜を使っているようだ。そのためか手元にあるオイレンブルク社のポケットスコア―にはないことがなされている。特にリタルタンドの指定などは早めにかけるにしてもその必然性などはよく分からない。この指揮者が準備して演奏している限り、何らかの示唆が新版にはあるのだろう。

全体の印象としては、テムポの設定が全く今までと異なる。そうして初めて、この二楽章と三楽章の入れ替えが違和感なく合理的に響くのは確かなようだ。この版の演奏では、ミヒャエル・ギーレン指揮SWF放送管弦楽団のザルツブルクでの演奏が一部では評価が高かったが、このベルリンでの演奏を聴くととても比較できないと思った。何よりも、校訂楽譜にどのような指示があるかは知らないが、そのテムポ配分が素晴らしく、ギーレン指揮のそれとは大分印象が異なる。それでも、共通しているのは、今までは早めのテムポで音響として鳴らされていた密に書き込まれている部分が、遅めのテムポで演奏されることで対位法的な枠組みの中での音程通しの引力・斥力を感じさせるところだろう。そのような力感覚はこの曲の有名な一楽章の第二主題などにも感じられていた訳で、シェーンベルクの初期作品での無重力感に繋がっていたことは皆認識していた。しかしこうして演奏されることで、嘗てのベートーヴェン的な動機の作曲技法以上に、なぜ新ヴィーン楽派にこの曲が直接の影響を与えたかがより実感されるようになった。

そしてラトルは、この曲の前にアルバン・ベルク作曲三つの作品を演奏しており、遅めのテムポのこの交響曲とベルクの曲で正味二時間に迫ろうというコンサートになっている。流石にバーデン・バーデンでは一曲上演となっているが、この2011年の演奏会はラトル監督時代の代表的な演奏会だったに違いない。まだ一週間ほど時間があるのでもう少し調べてみたいが、この交響曲の二楽章三楽章とその演奏形態などがどこでどのように変遷してきたのかなどもとても興味あることとなった。少なくとも、このラトル指揮の演奏実践は、細かなアゴーギクの必然性を除いては、とても説得力がある。

そこでどうしても思い出すのが、2014年12月に予定されたこの交響曲の演奏会をズル休みしたキリル・ペトレンコのことである。一体どの版で演奏するつもりだったのだろうか?こうした演奏を目の辺りにすると、違和感どころか中々以前の版には戻れない。しかし同時に、一客演指揮者として、決定的な楽曲解釈を演奏実践として示すのは決して容易ではなかったであろうと想像するのである。



参照:
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-03-31 22:01 | | Trackback

索引 2017年3月


アンドロイドのルートを再開 2017-03-31 | テクニック
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
爪先で荷重可能な喜び 2017-03-29 | アウトドーア・環境
ハフナー交響曲を想う 2017-03-28 | 音
夏時間最初の七時間 2017-03-27 | アウトドーア・環境
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
とても豊かな気持ちの清貧 2017-03-25 | 暦
ALPINA仕様のランニング靴 2017-03-24 | アウトドーア・環境
時間が無くて焦る日々 2017-03-23 | 生活
待望のランニングシューズ 2017-03-22 | アウトドーア・環境
お得なバーデン・バーデン 2017-03-21 | 生活
ロールオーヴァーべートヴェン 2017-03-20 | 雑感
否応なしの動機付け 2017-03-19 | 生活
ヴィスコースジェルの座布団 2017-03-18 | テクニック
ボールダーリング事始め 2017-03-17 | アウトドーア・環境
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
核廃棄物最終処分の戯けた法制化 2017-03-14 | アウトドーア・環境
ラズベリーのアップグレード 2017-03-13 | テクニック
秘められた恋の温もり 2017-03-12 | 女
獅子唐と梅干しでゴロゴロ 2017-03-11 | 生活
取り付く島もない女性の様 2017-03-10 | ワイン
悦に入る趣味の良さ 2017-03-09 | ワイン
気が付かないスイスの揺れ 2017-03-08 | 雑感
原因と結果の科学的な認識 2017-03-07 | 雑感
日曜は一寸した祝祭気分 2017-03-06 | 暦
まろみが嬉しい自然な呼吸 2017-03-05 | 試飲百景
モティ―フという動機づけ 2017-03-04 | 音
移り変わりの激しい日々 2017-03-03 | 雑感
海原にそよぐ潮風のよう 2017-03-02 | ワイン
トレイルランニング準備 2017-03-01 | アウトドーア・環境

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# by pfaelzerwein | 2017-03-31 16:29 | INDEX | Trackback

アンドロイドのルートを再開

タブレットを再びルート化した。アンドロイドのキットカット4.4.1から4.4.2にアップデートすると苦労してルート化したものが戻ってしまっていたのである。ルート化で出来ることは分かっているので、それほど必要ではなかったが使い慣れたアプリケーションの幾つかは使えなく若しくは使い難くなっていた。床に入ってから、アップデートの確認ついでに更なるルート化を調べるとあまりに簡単にできるようなことが書いてあった。KingoRootと称するルートを開くアプリケーションで、眠気眼で始めてしまった。居眠りして目が覚めて、何度か試していると簡単に開いてしまった。

最初にルートを開いた時は、シナのRoot大師と称するものを使ったのだが、使い初めて二ヶ月ほどだったので暇な午後に汗を掻きながら悪戦苦闘したのだった。何よりもそのまま文鎮つまりなにも使えない箱になってしまうという話もあって、またブートの同時押しの方法なども知らなかったものだから、必死に調べながらの神経戦だった。一時はもう使えないと思った時もある。そのような経験をしているものだから半分居眠りをしながら始めてしまって、ソフトのお陰で大事に至らずに二度ほどブーストアップするだけで開いたのには驚いた。

いざ無事開いてみると、使い難くなっていたアプリケーションが再び使い易くなるとか、大小の利点は間違いなくある ― 現時点では若干動作が不安定になっている。要するに携帯電話でもタブレットでもその機器をとことん使いこなすことに繋がる。その代わりメーカーが保証していることが全て無くなるということだ。だから居眠りしながらやるものではないのだろうが、再び開いてしまったのである。

このレノボのヨガタブレットももう少し動いてくれたら丸三年となり万々歳である。特徴の強力充電池は未だに弱みを見せない。重い乍らこれは天晴で、次機の選択での大きな要件になりそうだ。ドルビーの音質も悪くはない。WLANの反応も良いので使い易い。

壁掛け時計の夏時間切り替えは上手くいかなかった。初めてのことである。仕方が無いのでリセットした。直ぐに電波を受けて正しい時刻になった。夏時間が戻るときには問題なく戻って欲しい。

スピードコースを走りに行ったが、時計を忘れていた。体調もあまり良くないので、また動機つけも薄いのでゆっくりと駆け上がった。森の中の足場の悪いところもグリップが効いて助かる。加速も出来たりするので、下りも楽しく速く走れた。頭の中には悲愴交響曲の強制のマーチが鳴り響き、息が正しいリズムを刻んでいた。記録の可能性は遠からずあるのではないか。足元が引き締まって、硬い林道も、とても走りやすい。



参照:
ルート化の月謝代は如何に? 2014-09-06 | テクニック
比較的良いヨガの初印象 2014-08-13 | テクニック
21世紀に生きている実感 2016-01-10 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2017-03-30 21:03 | テクニック | Trackback

ペトレンコにおける演奏実践環境

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承前)ベルリナーフィルハーモニカ―のデジタルコンサートホールのティケットを初めて購入した。なによりも前回お試しした時に生で再生不可だったミュンヘンの座付き管弦楽団の演奏会中継後半の録画は無くなっていてがっくりした。仕方がない。とは言ってもアンコールの「マイスタージンガー」序曲だけのことで、あとは音声や動画など全て手元に保存してある。またどこかで欠けているものも出るだろう。

今回の主目的は先週生放送された「ハフナー」と「悲愴」の交響曲がジョン・アダムスの作品を挟む構造のプログラムである。ラディオと同じく録音技術的な傷はあるが、充分に使える音質でラディオよりも明晰である。ドイチュラントラディオは昔からRIASのものと比べて明晰さを犠牲にした音質で流していたのが今もなぜか傾向が変わらない。それもこれもマイクロフォンは同じ筈だが各々が別のミキシングをしているのだろう。

動画では悲愴交響曲の運弓などが確認できて助かるのだが、まだもう少しその辺りを纏めてみたい ― しかしその回答はインタヴューに奇しくも用意されている。ハフナー交響曲に関しては既に書いたが、キリル・ペトレンコのインタヴューでそれらが裏打ちされた感じになる。要するに、ハイドンに関しては言及していないが、ヴィーナークラシックにおける古楽器などのサウンド志向に対して、モーツァルトの場合はオペラをオリエンテーリングしながらアプローチすることで本質に迫ることが出来るということだ。同時にビーダーマイヤー的な快い響きに対して、もう少し刺激的な同時代的な感覚が折衷されるということだろう。コン・スプリトーソの展開部の短調へのその前の休止が、ラディオ放送とは違って、はっとさせないのはそこに視覚があるからだが、まさしく天才アマデウスの本質はピアノ協奏曲に表れるような歌劇におけるようなそうした心理の音楽構造となる。それを如何に交響曲として、その構造として明らかにするかということである。

このインタヴューにおいて興味深いのは楽員とのムジツィーレンとその演奏実践との関係への問いかけがフィルハーモニカ―からなされたことであろう。これはまさしく時間を掛けないと解決しない問題であり、ペトレンコがミュンヘンで実現していることが客演のベルリンでは出来ていないという当事者からの認証ともなる。特にフィルハーモニカ―の場合は、発し発しとそれでもクールに合奏することをカラヤン時代から旨としてきたことから未だに抜け切れておらず、これが次期監督に期待して、脱皮する可能性が希求されている点である ― そもそもサイモン・ラトル指揮の弱点と見做されているのは、ライヴにおけるムジツィーレンの現象への懐疑であって、ペトレンコがそれを埋め合わせることが期待されたのだ。歴史的にはフルトヴェングラー時代のフィルハーモニカ―はその点で全く違った訳で、現在特に弦などは楽員が高齢化しているようなので、新監督が二三年も仕事をすれば大分変わるのではなかろうか?

そこでは指揮者の職人的技術を超える話しとなっているのだが ― パブリックコミュニケーションが苦手とされる新監督は、話し出すとどうも止まらないような感じで、寧ろ自らかん口令を布いているとしか思われない ―、新聞はその職人的技量を他の指揮者と比較している。先ず同世代の指揮者の中で、キリル・ペトレンコはウラディミール・ユロスキーとその指揮技術の経済性と明晰さで双璧とされる ― 名前は聞いているが、そもそも指揮者など全く興味が無いことなので、正直だからどうだということになる。そして、アンドリウス・ネルソンズ、ヤニック・ネゼ・セガンやクリスティアン・イェルヴィなどのような無駄が無く、テューガン・ソキエフのように焦点が定まらぬことも無く、しかしながらテオドール・クレトツィスのように、表面的な無造作な音響に賭けるということはしないとされる。

インタヴューで本人も、指揮者の職人的な技量そして楽員のそれを日々問いかけながら仕事をしているというのは、既に周知であるようにその客演の状況によって ― つまり管弦楽団の技量や質、その演奏する環境によって、制約の中で狙いを定めていることがここでも語られている。演奏実践の難しくも面白いところは創作の抽象的な解釈や再現だけでなくて、芝居でも同じだがコンサートもある種の劇場の壁を超えた劇場空間のそうした固有の環境に存在するということであり、はからずもキリル・ペトレンコは創作事情をして、歴史的社会的なコンテクストの中でのそれを理解することとしている。まさしくこれは、創作における環境から影響を受けたインプットと、それが演奏実践されることでのアウトプットにおける環境への影響ということが出来るであろう。(
続く




参照:
Mozart: Symphony No. 35 “Haffner” / Petrenko · Berliner Philharmoniker YouTube
Interview Kirill Petrenko im Gespräch mit Olaf Maninger (Digital Concert Hall)
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2017-03-29 18:05 | 文化一般 | Trackback

爪先で荷重可能な喜び

気温が摂氏20度近くになった。アーモンドが咲き乱れるワイン街道は、折からのバイパス拡張工事で昔のような交通量になっていて、騒がしい。そのうち慣れない大型車が立ち往生して軒先を壊す事故が起こるだろう。早く再び静かになって欲しい、空気が悪い、環境が悪い。

時間を掛けてそこを通ってボルダーに向かった。暖かいので今年になってから試していない庇の下の課題に向かった。今年になって誰もやっていないようで、チョークの痕が全くなくなっていた。暫く挑戦したが肩が痛むので適当に断念した。

そうなればその近くにある課題を試みる。これは庇の腕力系と異なり壁登攀系なので全く異なる。難易度も高くはないが、はめ込まれていた石が剥がれてからはもう一つしっくりいっていない。幸いにも靴を履いていても暫くは痛まなくなっていて、爪先荷重がまだできる、そこで試してみた。

以前苦労していた右手の手掛かりをとるときのバランスが、左の足先を斜めに押し付けるようにすると重心が外に逃げずに上手く手掛かりを変えることが出来た。そこで、左手を上の頭の首元に置き変えて、左足を上げて小さな石の突起に擦りつける。上手く左手の摩擦が効いたが、右手の子頭の上の手掛かりが安定しない。そこで思わず、左足をボルダーの肩へと上げてしまった。そのまま右手を探ってさらに上部の手掛かりに掛けて終了。

これでは如何にも正しく登ったことにならないので、登り直そうと思った。同じ課題を繰り返すのは特に小さな靴で爪先が痛んで厳しいのだが、それが出来るようになった。今度は左足を上げることなく、右手の頭の上の手掛かりを安定させてから、左足に荷重しながら、上部の足場に右足を掛けて、更に最上部の手掛かりを掴んだ。完璧だった。技術よりも繰り返せたことが何よりも嬉しい。流石に足が痛んだ。終了。

前日晩のボールダリングの疲れがあった。遅くなったが走りに出かける。新しい靴で初めて沢沿い往復である。動機つけは充分である。あまり傾斜の強くないコースであるから通常のランニングに近くなる。疲れが残っているが森の陽射しの中を駆け抜ける。スピード感はある。テムポを保っている。しかしピッチが伸びない。それでも往路10分45秒で自己記録の39秒に迫っていた。但しそのあとの折り返しが遅く、スピードが乗るまでに時間が掛かって、それでも往復23分24秒で昨年11月並みに戻った。

平地でも石が出ているところなどは新しい靴で走りやすい。そして何よりも爪先からの返しの感じが強く蹴れるようで、スピードランニングの可能性もこの靴で出てきた。問題はそこまで蹴れるだけの跳躍力に欠けることのようで、こうした靴でトレーニングすることで跳躍力も付いてくるだろうか?改めて、この靴は本格的なトレイルランニングシューズだと再認識した。今度この靴でスピードコースを走ろう、どうなるだろう。



参照:
「天才ソコロフ」の響き 2016-11-17 | 音
二度と繰り返せない制覇と達成 2014-11-17 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-03-28 21:11 | アウトドーア・環境 | Trackback

ハフナー交響曲を想う

目覚ましはいつの間にか夏時間に変更されていた。しかし比較的新しい壁時計はまだ冬時間の儘だ。いつになったら変わるのだろう?電波が上手く届いていないのだろう。もう一日変わらなかったら、取り外してバルコンに持ち出してやろうか。

先週のベルリンからの放送録音を聞いた。次期音楽監督キリル・ペトレンコが五年ぶりにフィルハーモニカ―を振る演奏会の二日目である。第一印象は、交響楽団が編成を切り詰めて大ホールで演奏する、牛刀割鶏の如くの問題の多いモーツァルトのハフナー交響曲が殊の外上手くいっていたことだ ― 前日は楽員の緊張のため大分ホルンなどに乱れがあったということである。

第一楽章アレグロコンスプリトーソでのファゴットとフルートと弦の上昇音型のバランスなども見事であり、また主題がニ短調へと、展開への八分音の休止が一息置かれて大きな効果を上げていた。新聞評などはこうしたことを含めて可成り視覚的と言及するが、こうした近代的な管弦楽でモーツァルトを演奏する場合、結局譜面の深読みしかないのではなかろうか?

なるほどカール・ベーム指揮ベルリナーフィハーモニカ―の録音はそうした演奏形態での歴史的な頂点であったろうが、自らモーツァルト指揮者では無いと自認するキリル・ペトレンコ指揮でモーツァルトの交響曲形態があからさまにされることは喜びである。アーノンクール指揮などの演奏を楽譜を前に聴くとその演奏の出来に失望しないまでも、天才作曲家の交響曲としての価値の再認識までには至らない。その意味からもメヌエット楽章トリオでのクレッシェンド指示の弾かせ方も中庸なものとして、明らかに表現すべき主体がそこに如実に表れていると感じられる ― 正しくそこがサウンド的なものだけではなくて、古楽器演奏でも如何にアマデウスの創作意思に迫れるかということでしかない。

コーミシェオパーにおいての連続上演でも批判もあり、ミュンヘンでただ一つ大成功となっていないモーツァルトのオペラセーリア「ティートスの寛容」の演奏実践であるが、敢えてここで選曲されたのも、既に分かっている2019年夏のザルツブルクデビューやルツェルンへの客演を先行したものだというのは理解できる ― するとバーデンバーデンと同様に2018年はまだ客演指揮者が振るということである。サイモン・ラトルにおけるハイドンの交響曲までの意味は持たないとしても、モーツァルトの交響曲が、少なくとも選りすぐりの交響曲が次期監督の指揮で演奏されて、現代のモーツァルト演奏実践を代表することになるともいえよう。するとミュンヘンでもモーツァルトのオペラ公演が2020年までに取り上げられる可能性も高い。

二曲目のアダムスの曲に関しては、なぜ現監督サイモン・ラトルがこの作曲家を取り上げることにしたのかは一向に分からないと改めて思わせた。なるほどラトルは武満作品を頻繁に取り上げていて、それと比較してということになるのだろう。指揮者の選曲としてはまあまあ聞かせどころを用意したということでもあろうか。客演指揮者としてのレパートリーとしてはまずまずだろう。

お待ちかねの悲愴交響曲に関しては、新聞評などでは ― 恐らく初日のものが多いのだろうが ―、予想通り充分にフィルハーモニカ―が演奏出来ていないことが指摘されていて、放送のものはそれよりはよくはなっているのだろうが、まだまだミュンヘンの座付きのようには上手くいっていないのは明らかだ。それ故ではないだろうが、ミュンヘンから座付きのソロオーボイストのグヴァンゼルダチェがエキストラとして入っており、アカデミーの助っ人は完全締め出されたと書かれている。それだけでなく、通常は練習会場に楽員は入れるのだが、特別の身分証明書を出してそれが無いと入室も出来ないようにしてあったと書いてある。

座付き管弦楽団ではないので、そもそもの目標とされる程度が全く異なるのは当然としても、最初からとても高い実践が求められていればこそ、ミュンヘンで行ったようにまたバイロイトでもあったように本格的に要求に応えられるようになるには何回もの演奏会が繰り返されなければならないのは周知の事実である。少なくとも今回のプログラムで、バーデン・バーデンではもっと上手くいくようにと期待したいところは幾つも散見されるのである。(続く



参照:
時間が無くて焦る日々 2017-03-23 | 生活
否応なしの動機付け 2017-03-19 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2017-03-27 23:44 | | Trackback

夏時間最初の七時間

下りを楽しみ過ぎた。新しい靴で山道を下り走るのはとても楽しい。流石にアルプスでも走れる靴だから、通常のハイキング道では快適だ。爪先が当たって痛むこともない、小石や枝なども苦にならない。本格的なトレイルランニングシューズである。今まで履いていた旧モデルとは雲泥の差がある。それで頂上から下りて来て56分15秒だった。上りも35分35秒で両方とももう少し記録を狙っていたら完全自己新記録樹立になるところだった。少なくとも下りを30秒短縮するのは可能だった。

しかし、頂上に辿りついたとき吐きそうになった。あまりに負荷を掛け過ぎたのだろう。脈拍は軽く180を超えていたと思う。帰宅後シャワーを浴びてコーヒーを飲むと急に胸に応えた。神経がまだ落ち着いていなかったようだ。これはいけない。

最初からとても足取りが軽く、爪先が靴のバネで上手く荷重できるので攻めるのが楽しい。どんどんとスピードは落ちて行ったようだが、頂上までテムポを保つように心がけた。それどころか下りもそのテムポを意識したので、無理な加速をしなかった。歩幅で負荷を調整しようと思ってもそれ以上に蹴りが効くので、推進力が維持される。凄い靴だ。101ユーロはとんでも価格だった。

夏時間が始まった。無線時計が上手く変更になっていない。二つの時計がそうだから電波が届いていないようだ。冬時間最後の夜は九時前に床に入った。前夜の寝不足が効いて、朝七時ごろまでぐっすりと寝た。八時間以上は意識が無かった。

この二日ばかり寝不足ゆえか歯茎の調子が悪かったのだが、走ってきて昼過ぎに行者大蒜のジェノヴェーゼのスパゲティーを食して、前日の残りのポイヤックの古酒を飲むと調子が良くなった。やはりこれも循環器系の調子のようだ。



参照:
出遅れた朝の記録 2016-11-27 | アウトドーア・環境
ALPINA仕様のランニング靴 2017-03-24 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2017-03-26 23:36 | アウトドーア・環境 | Trackback

まずまずの成果だろうか

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今秋日本公演のあるオペラ「タンホイザー」新制作の席が漸く確定した。正直これ程入手困難な理由が分からない。所謂ヴァークナー狂信者が多いということだろう。確かに、昨年の楽劇「マイスタージンガー」と比較をすると、パリ版とドレスデン版を取捨選択した版を使うということでの専門的な関心は高い。しかしこうした発券状況はそのようなコアな聴衆ではなくてただ単にロマンティックオペラ好きという層が多いことを示しているのではなかろうか。登場する歌手の主役のフォークト、ヴォルフラム役ゲルハーエルなどへの期待などもあるのだろうか?個人的にはヘルマン役のツェッペンフェルトが楽しみだ。

今回も初日のラディオ生中継が楽しみで断念したが、初日なら最前列などの可成り条件の良い席が入手可能だった。文字通り若干プリミエ割高となっていることと、中には同じように放送が楽しみの人もいるのだろうか?今まで入場券の入手に苦労したのは、カール・ベーム指揮ヴィーナーフィルハーモニカ―日本公演とアバド、クライバー指揮のミラノスカラ座の割引券の入手ぐらいで、それに匹敵するような困難があるとは思ってもみなかった。同じ出し物の三回ある日本公演はとても高額なのだろうが金さえ出せば買えるのではないのだろうか?それに比較しても、なるほど初日シリーズ五回とオペラフェストは豪華キャストなのだが、高額席の240ユーロまでが一瞬にして完売してしまうのはやはり本場というしかない。バーデンバーデン辺りではありえない。

ミュンヘンの劇場のネットによる発券システムもこちらも経験を重ねてノウハウが貯まって来たが、正直その需要過多には驚いた。なるほど常連さんが簡単に購入する席などが入手困難なのはよく分かるのだが、こうした完売状況を見ると凄い。なるほど高額の席でも特別に良い席ならばとは思ってもこれだけ競争が激しいとなかなか入手が難しいということである。

という事情で、いつものように立見席をなんとか獲得した。何時もの配券とは違うので今まで立ったことのない場所であるが、舞台への視覚は良さそうである。音響に関しては、ラディオ放送もあり充分に情報を取捨選択可能なのであまり問題ではない。またネット放送も7月にあり、都合三回以上あらゆる角度から楽しめることになる。券代21ユーロ、駐車料金の方が高くつきそうであるが、交通費、プログラムなどを入れて120ユーロの観劇トリップならまずまずではなかろうか。



参照:
お得なバーデン・バーデン 2017-03-21 | 生活
バイロイト音楽祭ネット予約 2017-02-14 | 雑感
バイロイトの名歌手たち? 2016-03-11 | 音
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# by pfaelzerwein | 2017-03-25 20:25 | 生活 | Trackback