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甘酸っぱい野いちごの風味

イングマル・べルイマンの「野いちご」を観た。子供の時からその荒筋や内容には並々ならぬ関心を持っていたものである。初めてそれもスェーデン語のそのものが観れるとあって、早速堪能した。英語の字幕なのでどうしてもそこに目が行ってしまって、スェーデン語は結局分からなかった。これが字幕が無いとかドイツ語の字幕であったならもう少しは理解できただろう。それでも思っていたほどスカンジナヴィア語は理解できなかった。やはりオランダ語とは大分違う。

冒頭の場面はライオンを下肢付かせ書き机に向う聖人ヒエロニウスそのものである。そして、それは有名なデューラーの絵を思い起こさせ、さらにハインリッヒ・マン原作マレーネ・ディートリッヒの「青い天使」無しには語れないだろう。要するにそこへと繋がる文化的な背景がこの映画監督四十歳前の大成功作の大前提となっているからこそ、この映画の価値があると判断しても間違いなかろう。

例えば、カトリックとプロテスタントの論争などはスェーデンのデンマークとはまた違う独自の気風を見るようであり、基本的にはここではプロテスタント的なエゴの「主体」が検証される ― まさに先日逝去したシュリンゲンジーフに言わせるとロマンティックなそれとなるのだろう。

想像してもいなかった素晴らしい軽やかさは、後年の更に苦渋をなめたような作風と比べてもこの映画の人気の一つとなっているのだろう。それが悪夢のシーンでの、殆ど月並みと感じるようなエピソードと良い対象をなしているようだ。霊柩馬車から滑り落ちた棺の中から自らの手が伸びてくるシーンに於いても、街灯の足にその車輪が引っかかる情景は圧巻で、針の無い時計やのっぺらぼうの町の人よりも効果が高いように感じられた。

「針の無い時計との再会」もそこでは伏線となっているのだが、如何にもありそうな悪夢の情景はとても上手く仕組まれていている。そうした情景にも通じるのが、この映画の最も優れた表現である情感の肌理細かさであると合点した。ああした抑えた情感の表出は中欧ではあまり見られないものであり、なるほどスカンジナヴィアがそれもスェーデンが舞台においても名役者を多く輩出しているのはこうした文化的環境があるからだろう。

比べてはいけないかもしれないが、そうした細やかさに比べるとなんとドイツのそれは大雑把なのだろう。しかし、ここで扱われている材料は、まさに批判的なプロテスタンティズムでしかなく、そしてその視線があるからこそ、演技のもしくは情感に深みと共に軽妙さを与えている。

なるほど小津や黒澤の映画が如何に優れていても、機微の細やかさと呼ばれるものの奥行きが定まらず、如何にもセンチメンタリズムと背中合わせになっているかは改めて指摘するまでもないだろう。この老教授を扱った映画に於いても、制作者の若気の至りか、夢の情景の月並みな表現が適度な塩胡椒とはなっているが、主演のヴィクトル・シェストレムの名演技に依存している面は少なくない。それゆえかオスカーや金の熊の映画賞を受賞する一般受けを達成している。

さてこれまで気になり続けていた映画であるが、まさに今年の秋の風情にふさわしい映画鑑賞となった。もし十年ほど前にこれを観ていても、あのシベリウスのトレモロの漣のような針金細工の肌触りはなかなか理解できなかったに違いなかったと、自らの加齢以上に欧州での生活の長さをそこに感じるのである。



参照:
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まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
馭者のようにほくそ笑む 2007-10-22 | 文化一般
半世紀の時の進み方 2006-02-19 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2010-09-01 15:21 | 文化一般 | Trackback
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