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環境の一部である全人格的な行い

ピアニストのアンドシュ・シフがベルリンのフィルハーモニーの室内楽ホールで千五百人もの聴衆を集めてバッハの平均率第二集のリサイタルを開いた。その演奏会評が新聞に載っている。この現代を代表するピアニストの音楽を多少なりとも知っている者ならば、彼がどのようなバッハを奏でるかは凡そ想像がつくだろう。その魅力についても今更語る必要もないのだが、逆にそれ以上のものを期待する者は彼のリサイタルに態々足を運ばないかもしれない、またはその最新録音などの数々の名演を態々購入しないかもしれない。

つまり、新聞評が鋭く指摘するように ― 三つのペダルを駆使して古楽器の模倣など朝飯前であり、その可能性は遥かに大きいにも拘らず ―、濁らない対位法の線をまるでモーツァルトのように奇麗に描き出すこととと、バッハの音楽のこれまた重要な一面である不協和音のぶつかりやそのアタックの核を描き出すこととは異なるということ、つまりバッハの音楽のその歴史的、本質的な面を認識している聴衆にとっては、この名手が奏でるバッハはただのその一面でしかないことぐらいは皆知っているのである。

ワルシャワブロックが存在していた頃に西側で売り出された演奏家の中で定着した数少ない演奏家の一人であり、間違いなく我々の音楽市場に欠かせない一部となったその音楽性が、前述したようなものであり、我々がそれを強く支持していることには違いないのである。その賢明で多くの共感を集める音楽性について、それ以上ないものねだりをしても仕方がないのである。

それが今、ハンガリー政府の音楽行政をザルツブルクのあまりにも美しい湖畔地帯から批判したかどで、ハンガリーにおいて叩かれることになり、その反撃のあり方がハンガリーに根付く人種差別であるとして同地所縁の一流芸術家による署名活動として、ブリュッセルのEUへの直訴となったようである。この件に関しては、首唱であり高名な指揮者であるアダム・フィッシャーの追っかけブログ「クラシックおっかけ日記」に詳しいので、興味ある向きはその方で正しい情報を収集して頂きたい。

そこで我々このピアニストの音楽に接して尚且つそれを高く評価する者にとっては、そのプロフィールや信条などとは無関係に、なぜこうしたことになったのかと不思議に感じるのではないだろうか。まさにそれが我々が受け取っているこの演奏者の美学であり感性であり、それが創作者の場合の表出方法 ― その典型が大バッハの高度な修辞法に違いないのだが ― とは異なっていても、公に知られているこの芸術家像なのである。その意味から、先日のリサイタルの演奏評を読んで、また一般的な芸術の創造や表現を改めて考察して、興味深く感じるのは当然なのである。創造や表現とはその環境の一部としての全人格的な行いであることを前提と考えるからである。



参照:
Ein Bach für Studienräte und Stiftdamen, Jan Brachmann, FAZ vom 13.1.11
ハンガリーの人種差別の現状 (クラシックおっかけ日記)
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by pfaelzerwein | 2011-01-16 18:29 | 文化一般 | Trackback
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