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予測可能な環境の修辞法

先日岩場で確保していた時の話の続きである。「日本は原発安全神話などがあって、地震や津波の訓練は出来ているが、全く原発事故には対応出来ていなかったから」と言うと、「ドイツでもそんなことはしたことがないから同じだよ」と諦め顔に親仁は答えた。

ここでも先日、災害危機対策の避難決定などは地元の共同体が執り行う事案だという、日本のそれとの比較を朝のラジオ番組で取り上げていたことを紹介した。キール在住の危機管理の専門家がSWR第二で説明していた内容である。必ずしも日本のそれが間違っているとはしてなかった。この件に関して様々な考え方があるのは周知の事実であるが、日本政府のそれの評価については今更改めて繰り返す必要もない。

それではなにに重点を置いて優先させて考えるかと些か戦略的な考察をしたが、やはりそれだけでは足りないことに気がつく。たとえば、「デマ情報にご注意下さい」などと銘打って如何にも正しいことを書いているような似非ジャーナリズムが存在する。それらの見分け方が、まさにその「もの足りなさ」に隠されているものなのだ。

つまり、どのような視線でその文章が書かれているかを読み取ればそれで十分なのである。内容などは分からなくても良いのである。そもそも科学的な事象が文字で表わされる所で、あまり科学的に厳密とは言えないのである。それならばそうしたものを読取る力が無い者は自らの力で判断出来ないのだろうか?そのようなことはないのである。文章化されている修辞法をしっかりと読み解けば良いだけなのである。

高度な修辞法ゆえに高度な芸術となっているバッハやベートーヴェンの音楽を愛でるようなお利巧さんの日本人が、あの枝野官房長官の会見を聞いていて黙っているのがおかしい。本来はジャーナリズムを含む文化的活動は、修辞法の精華以外の何でもないのである。しかしその修辞法もなかなか手の込んだ難しいものから誰でも直ぐに解かるようなものまで含まれるのだ。

そして似非ジャーナリズムが用いる修辞法は、官公庁が発信する嘘のない情報とは異なり、情報が欠落しているにも拘らず断定的に表現するもので、如何にもブルーヴァードジャーナリズムと呼ばれる大衆を対象としたものなのである。それは、安全側にも破局側にも振れる事になり、余計に読者を混乱させるばかりではなく、正しい情報を審査させ難くしている。

今回の福島の場合最も重要なのは、破局によるパニックを避ける事であり、出来る限り被曝者を減らすことで、それには異論はないだろうが、やはりそれから先に修辞法があると言うことだろう。どのような論調にしても肝要なのは実際に起こっているもしくは起こりつつある事象に注目して、筆者がもしくは恐怖に覚えながらも日常生活を送る読者の居る環境に読者を覚醒させ環境を認識させることであり ― 寧ろ、この行為は後述するように最も科学的な観察眼が要求される ―、それはそもそも特定のイデオロギーとは相容れないものなのである。

それにしても、今回の福島事故のドイツにおける反応を、また日本のネット等のそれを具に観察すると、68年以降の運動や反核運動などが全く市民生活の中に浸透しておらず、その中心である団塊の世代は辛うじて現役であるに拘らず十分その知識などが発揮されていない。世代交代に関しては、原発開発第一世代の本当に優秀な人材は現役には居らず全て引退しているのだが、前述したような団塊世代は丁度左右のイデオロギーの津波に襲われていて今や使い物にならないことも明白となった。丁度菅首相の世代だろうか。

つい先日も繰り広げられていた環境運動家の核再生燃料の輸送妨害行為なども一般市民には十分にはその意義が伝わっていなかったことを知るにつけ、非常にそうした運動の無力さを思い知らされる。平常時には自らの事としてそうした事象を認識する能力は限られているという事なのである。しかし、こうした破局が起こる、起ころうとする時に、それにはじめてかのように覚醒した時には既に不可逆な現象は進んでいて、時遅しなのである。

福島の事故の終結は到底見えないが、些細な動きでも細かく観察することで、次に起こる確からしい事象は確率論的に考察出来て、予測は可能なのである。その確からしさとは、まさにその観察者を含めた環境の変化の認識ということに他ならない。
by pfaelzerwein | 2011-04-08 16:29 | マスメディア批評 | Trackback
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