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次世代にとって途轍もないこと

「次世代にとって途轍もない好機である。」と「原発全廃に際して演説」したメルケル首相は、輸出、開発、技術、労働市場を指してその限りない可能性を挙げた。

そしてこの勇気溢れる大志に関しては、技術的な問題もさることながら、政治的な課題が山済みになるとされている。既にシュレーダー政権から十年間の試行錯誤があったとしても、今後の具体的な停止順序やその手順などには行政の介入とともにその反面自由市場での活発な投資が必要となることにはかわりない。

要するに、如何に投資を促しつつ、電力料金や税金の負担などとして、首相の口を借りた国民の意志が耐えられるかの勝負だというのである。もちろんそこでは政治学としてのプラトンやアリストテレスとの討論やカントから新カント論への流れを無視できないというのである。

しかし少なくとも、同じ情報を得た国民各層の合意と議論の結果として、スリーマイルやチェルノブイリでは覚醒出来なかった福島を受けての結論なのである。停電があろうともそれを甘受しなければいけないということでもある。

福島で成人を迎えることすら出来ないかもしれない多くの子供たちの、そしてその近親者たちの、また毎日を脅えて暮らさなければいけない関東一円の人達の人生よりも遥かに甘んじやすい自らが選んだ運命であるともいえるのだ。

一変して日本の衆議院の党首対談を観ると、そこにはただ嘆かわしさしか感じられない。一体日本人は、一体あの人達はどういった考え方で日々の暮らしをしているのだろうと訝しい。

菅首相の原発堅持とその代用エネルギーの開発という、福島以前のメルケル首相でさえ考えていなかった原発依存症は、「連合」がそれを改めるといっても未だに修復されていないようである。まさに、支持基盤とそれに乗っかった権力構造こそが最重要であり、将来のエネルギー政策への哲学などは一切無いことが良く知れた。

そうした姿勢をモットーとして福島に当たってきているので、市民の安全や収束への対応が後手に回っているだけでなく、情報共有に関して非常に慎重になっているそうした事情が明らかになったのであった。

さらに輪をかけて悪質なのは自由民主党の総裁の弁舌であって、原発推進は石油危機の状況下での当然の政策であったので一切の反省や責任は感じていないとの表明であり、さらに今後とも重要なエネルギー政策として「原子力の明るい未来を進めて行きたい」との表明と思われた。

これが二大政党制政治の正体であって、ドイツ連邦共和国の国民の声をそのまま代弁する政府とは異なり、最重要な争点を議論をさせない、議論をしないで、有権者を手なずけるために許認可権をもった大マスメディアとともに国政を進めるという政治体制なのである。まさに日本戦後共産主義体制と称されるような茶番劇の民主主義政治体制である。その延長線上に、イデオロギーにとらわれない反原発の環境政党すら育たないからこそ、大新聞の記者までが未だに世界的に権威ある環境市民団体グリーンピースを反捕鯨団体と敢えて矮小化して見せるのが日本の文化程度である。

福島の市民が、移住も何も出来ないことから自らを騙して、「放射能からの安全を信じたい」と思う自己欺瞞をそのまま国政が代弁しているような非科学的な政治が先進七ヶ国に含まれているのが不思議なのである。近代化していない社会には脱近代化も無いのであろう。

自由民主党の総裁の顔を見ていると、中共の幹部が過去を反省して修正していく姿よりも遥かに醜く、その反省も何も見せない姿勢には安物の高級官僚以下の人物像しか浮かび上がらない。大衆日刊紙の新聞記者の能力程度もみすぼらしいが、日本の高級官僚もみすぼらしい。

そもそも事故管理会社で解体されるべき東電と協力して一体誰が何が出来るというのだ。電気供給における自由化と本当の民営化以前には誰もなにも出来ないから時間稼ぎをしているだけなのである。本当の野党というものがあるならば、一刻も早く更なる被曝を防ぐための緊急提議をする以外には何も無いのである。

連邦共和国の政治を衆愚政治と批判することは容易である。しかし、それを批判する者は日本の政治に眉をひそめる。反対に、日本の政治を批判する者は、少なくともドイツ連邦共和国政府が国民の選挙権を行使する成人としての遥かに立派な判断を代弁していることぐらいは理解できるに違いない。



参照:
Merkel:Eine riesige Chance für kommende Generationen,
Noch eine Häutung, Berthold Köhler,
Kosten der Wende, Andreas Mihm,
Machen Sie sich erst einmal unbeliebt, Wolfgang Kersting,
FAZ vom 11.05.2011
by pfaelzerwein | 2011-06-02 01:20 | 歴史・時事 | Trackback
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