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女手で披露する音楽文化

ユリア・フィッシャーのヴァイオリンは矢張り良かった。我々の会で聞くのは二度目であるが、前回以上に良かった。技術的にも安定してきたようで、このレベルでも上手になるなんて言うことがあるのだろう。師匠のツュマチェンコ女史の後を受けてミュンヘンの教授になっているというから、教えることでも何かを身につけてきているのか、それとも音楽演奏実践の経験を積んだことで表現に確信が生じてきているのか。前回は、もしかすると現在使っている1742年産のガダニーニが与えられていなかったのかもしれない。楽器や弓が良くなったのなら納得である。

彼女の品の良い立派な音楽には懐疑は無かったが、その演奏が技術的にも完成しているとは考えていなかった。しかし今回の公演で、もはやどこに出しても恥ずかしくない一流の音楽家であることが分かった。ドイツ人では数少ない一流の演奏家の一人である。

バッハのパルティータホ長調で始まったが、なるほど冒頭の暫くだけは若干不安定でも全く破綻が無く、まるで息を整えるかのように、直にバッハの音楽世界へと我々を誘うその音楽性は見事に尽きる。もはや、しっかりしたドイツ風のアクセントとかそうした次元を超えて、そのアーティキュレーションの的確さは名人の域である。以前よりも運弓法や指使いに特に古楽的な奏法の影響を感じさせないのは、それらが決まりに決まってしまっているからなのだろう。

ガダニーニ繋がりで語れば、あのクレーメルの弾くバッハのあまりにも求心的で、音の喜びやバロックの遊び感覚からはほど遠い禁欲的なそれとはまったく異なって、自由に呼吸をしてまるでバッハの小部屋から気持ちの良い初夏の窓辺に洩れてくるような音楽の喜びに満ちているのである。それでいながら決して他の若い女流のヴァイオリニストが弾くような着せ替え人形化したバッハ像ととはならず、その意味からもシゲッティーが弾くそれよりもグリュミオーなどのそれよりも素晴らしいかもしれない。勿論ストラディヴァリウスを唸らせるミルシュタインなどのそれとはまったく別世界の現在の我々のライフスタイルに寄り添ったものである。

賛辞を重ねるだけのようで情けないが、何が素晴らしいかと言うと、バッハのその楽曲のフランスからの舞曲であろうがそれ以外の歴史的背景までをじっくりと味あわせてくれる演奏は現在のプロフェッショナルな演奏家からは長く消え失せていたものではないだろうか。やはり、女性教授としてドイツ人の血を持った女性としてその歴史的な文化への確かな知的な視線があるからに違いないのである。これは、若い安ものの女性演奏家が「バッハでどんな自己表現が出来るか」の妄想を抱くような行為とは似ても似つかない活動なのである。

当日のプログラムには、ライヴァルの一人である女流ヴァイオリニストヒラリー・ハーンの言葉として「重音をしっかり惚けずに発声することが音楽の構造上不可欠」と挙げられているが、前回にも触れたが彼女のフーガは構造ではなく「あっちこっち」の本来の姿であり、そこにあるのは建築物である以前に音の喜びとしての音楽があることを思い起こさなければいけないだろう ― まさしくこれと正反対のバッハ像を追いかけているのが、日本の鈴木などの活動である。

会場を見渡そう。頭にまともに髪の毛があったり白髪でない聴衆などは全くと言ってよいほどいない。一体、能狂言に集まる聴衆に接するように、もはやこうした音楽をどのように披露したら良いんだろうか?そのような意識も無しにはこれだけ立派なバッハなどは現在において演奏できる筈がないのである。

しかし、当夜の演奏は決してそこにプログラムのコンセプトがあったのではなく、前回にアンコールとして取り上げたイザーイのイ短調ソナタを並べて、バッハと同じ出だしで第二曲を始めるのだった。そしてその曲こそは「ディエスイラーエ」そのものであって、こうした若い女性が老人に向けて贈る音楽としてこれほどのものは無かろう。案の定、休憩時には「あの影の踊りのサラバンドが気に入った」と初老の紳士の声が耳に入るのである。なるほど彼女よりも技術的に立派に弾きこなすヴァイオリニストは幾らでもいるかもしれないが、イザーイの曲を決して安物にして仕舞わないのが偉い。

後半は、ト短調ソナタで始まり、フーガとシチィーリアとメリハリをつけて聞かせて聴衆を満足させたうえで、いよいよ締めにヒンデミットのあまり知られていないト短調ソナタをもってくる。この曲は、段階的に終楽章から作曲されていったようで、比較的若書きに拘わらず全曲がまとめられて出版されたのが2002年であったから、それ以前は部分的にしか演奏されていなかったのだろう。

初めて聞く音楽であったが、ヒンデミットの音楽に慣れた耳にもその調性の移行の期待をとんでもなく上手に外してくれる作曲技法は、終演を待たずに退席する客を若干一名を出していたようだが、改めてこの作曲家が目指した芸術的なコンセプトを改めて思い知らせてくれる名曲でもあった。同じシチィリアーノだけでなく、バッハとの関連性だけでなく、まさしく当日示したバッハの本来の姿と同時に、もはやどのようなメタルやロックのヴァイオリンに負けないほどの終曲の激しさに会場は十分に反応した。ああした音楽は、中途半端なメタルなどよりも「いかして」いるのである。

こうして過不足無く、四割も埋まらない大会場を大満足させながら、バッハのアラマンドニ短調で快く締めたのであった。まだまだ若々しい女流であるが、ある意味文化的な意味においてはブレンデルのリサイタルに匹敵するほどの価値を持っているシリーズとなってきている。本来は昨年の十月に行われるはずのリサイタルであったが健康上の理由で、五月のシーズンの締めとなった。来シーズンの会への登場は無いようであるが、次の機会が今から楽しみである。



参照:
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
スポック副船長が楽を奏でると 2010-11-08 | 音
by pfaelzerwein | 2013-05-18 00:06 | | Trackback
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