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無教養な反市民的市長

大阪のヤクザ市長の発言が問題になっているらしい。日本社会や文化は本質的なことから目を背けて一生を終えることを良しとしているために、知識人も文化人もこうした話題にはそもそも十分な回答を持ち得ていない。なにが問題かと言えば、近代の小市民的な良識とか教養と言うもので、そうした教養の有る無しで真面な人間かどうかが判断される。

しかし、60年代の時代の変換と、そうした小市民的な得体の知れない拘束から逃れることでポストモダーンと呼ばれるような文化的な思潮が一般社会においても規範として再考されたあたりから、修正主義者などが世界中で勃興してきたのは周知のことである。そうした前世紀後半の歴史の中でも、極東の日本は独自な歩みを進んできたのである ― あのフランスにおいて、同性愛結婚を勝ち取り、それを社会に認めさせたその過程をもう一度凝視すべきであろう。

今回の発言のその朝鮮半島への眼差しや帝国主義への考え方には今更興味は湧かないが、「個々の性的な制御を商業を超えて軍隊と言う公の機関にて行う」という熟成した近代社会ではもはやありえない考え方を世界に向けて提示したことに問題がある。それは、書類上大日本帝国が慰安婦に関わった証拠の有る無しの問題ではなく、そのものずばり同じことを在日米軍にまで勧めたことでなる。このことは、そうした考え方を受け入れる日本人や社会が過去に遡っても責任が無い訳がない証明となる。学ばぬ民族は同じことを繰り返すばかりである。それにしても安倍政権を象徴する時代錯誤の感覚は何処から生じるのか?

真面な家庭教育を受けたこともないであろう教養の無い大都市の市長がそれを公にしたことで、大阪の選挙民がどのような態度を示すかに興味が注がれる。なるほどそれほど教養も何もない人物が選挙で選ばれて市民の代表として政治活動をしていくことはあり得ないことではなかろう。しかし、市民を代表する者は少なくともその健全な市民生活の規範や尊厳を護る者でなければいけないのである ― まさしくこの点が連邦共和国のエリート教育の必要性への議論であり、学校教育の改善点なのである。

それどころか性を商業的にばかりか統治機構として利用していくために市民の尊厳を無視するということで、大虐殺をも含めて何もかもがその先には必ず存在する。コソヴォ紛争において、市民が犠牲になり中共の大使館が爆破されるような決断を当時の与党であった緑の党が決心した過程は、まさしくその先にあるものが分かっていたからである。先日「本焼きの記念日」に、それをすることは「人を焼くことと同じ」であるとする名言がラジオで繰り返されたが、慰安婦の様な機能を政治家が口外する時、そこにはガス室も何もかもが目前に見えているのである。

それを、独自のレトリックで政治をやる権力志向の強い教養の無い人物の戯言ととして片づけてしまうのは破廉恥でしかないであろう。なるほど、マルキズムの影響を受けた日教組の教育こそが、人民の平等を説いて同じように教養のある者をもない者をも同じように扱い、その差異を一切認めないとする平均化した平等主義を教え込んだが、その申し子こそがこの大阪市長そのものなのである。

それでも、大阪市庁をヒューマンチェーンで囲む大阪人を観て感動した。こうしたややもすると偽善となりかねない抗議行動の苦手な歴史ある大阪人であるが、その主催者が朝鮮のオモニ支援団体であるとしても、行動を起こすことで少なくとも世界に強い意思を示すことが出来る。谷崎潤一郎が描いたように大阪の商道徳やその後の大正デモクラシーの大きな流れの中で、決してこうした反市民的なことを受け入れない素地は存在するのであり、古くからの商都市の庶民の文化程度を示す行動なのである。

大阪市長のリコールが成立するような運動に発展するかどうかは分からないが、市民はこうした市長を許さないことこそが地方自治の原点である。そもそも文化には全く興味の無い無教養層の支持を集めたポピュリストの勃興であったが、大多数の健全な庶民の良心を代弁しないような代表を引き摺り下ろさないようでは市民も何もあったものではない。



参照:
橋下さん もう辞めて!市長の資格はありません ~橋下大阪市長の「慰安婦」問題発言に抗議する~ (IWJ,OSAKA)
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
「魔笛」初日の解読の鍵 2013-03-25 | 文化一般 
by pfaelzerwein | 2013-05-18 18:58 | 歴史・時事 | Trackback
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