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ブルックナーの真価解析

バーデン・バーデンで八十六歳のミヒャエル・ギーレン指揮の放送交響楽団の演奏会があった。プログラムは、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲とブルックナーの第九であった。副見出しにブルックナーの十二音楽性とあった。演奏会に先駆けて二回にわたってオリエンティーリングがあるが、皆が期待した両独音楽の共通性への言及は残念ながら限定的であった。

シェーンベルクへの解析は全て省略して、ブルックナーの第三楽章へと話題を集中させた。20分の持ち時間である。しかし、二楽章に関してはとても面白い指摘をした。つまり、十九世紀の神秘思想家としてのブルックナーは典型的な産業革命の世代の芸術家であって、まさにそのスケルツォ楽章の動機自体が大工場の機械音其の儘であって、そうしたイメージは時代性として全く奇異では無いというのだ。土地柄カトリック系の聴衆が多いことであり、その真意は咄嗟に理解されたようであった。話者が指すような当時の工場はまさに教会を似せた建物であったと説明する必要もなく、ああした巨大な人智を超えようかとするような蒸気の強大な力こそは一神教の神に直結するものそのものなのである。

ブルックナーのスケルツォに関しては、この最後の創作に限らないが、その徹底した反復感が無骨な神経の田舎者の代名詞のようにして言及されることが多い。しかし、それをのちの二十世紀のモダニズムの工場の騒音のように捉えてしまうと、もはやそうした観念連想から離れることが出来ないような動機が存在するのである。

田舎生まれで、ザンクトフローレンス教会に籠っていたような雰囲気のこの神秘思想家のヴィーンでの生活を思い起こさせるそれは、その第三楽章にも十分に隠されていて、その第二主題の展開にそのものヴィーン風のユーゲントシュティールや唐草のアールデコを目の当りにするのである。全く田舎のそれではないことは確かなのだ。

ブルックナーに関してはなぜか可笑しな風采がそのままその創作と思われている節があるが、そもそも三楽章の第一主題群に注目していくと、全く異なった風景が拓けるというのが今回のオリエンティーリングの主題となっている。つまりホ長調の跳躍の旋律が、第七交響曲の上昇旋律に飾られるだけでなく、その旋律自体が反行形に繋がれて、それが展開されて対位法として響くという具合にまさしく12音技法の作曲となっているということになる。ここで初めてシェーンベルクとの共通項が現れる。

そのようにして、神への合一の動機や光の動機、そして聖霊の動機などが組み合わされての第一主題群と、その後の展開へとブルックナーの創作世界が広がっていくのである。もちろん、オルガン弾きの創作は、ストップ変換が其の儘管弦楽法として使われて、シェーンベルクが辿り着いた音色旋律などのそれから対位法的な扱いへと牽き繋がっていくことは付け加えることもないのであろう。更にもう一歩そうした創作の背景へと想像を膨らませれば、シェーンベルクのその一神教への神秘主義的な面にも光が当てられることになる。

こうした視点からこの楽曲を捉えると、なるほど椅子に腰を沈めたギーレン指揮の放送管弦楽団の演奏は非常に巧くデジタル処理されていて、可能な限りの対位法やその他の動機の重ね合わせやぶつかり合いを綺麗に整理して提示していたのは間違いない。なるほどLPで聞くシカゴ交響楽団のダニエル・バレンボイムの録音とはその精緻さやダイナミックスでは比較にはならない。それでも、名盤とされているシューリヒト指揮のヴィーンの座付管弦楽団などの演奏はもはや用無しであり、フォン・カラヤン指揮のベルリンフィルハーモニカ―の演奏ですら、その管弦楽団の演奏法がこうした対位法的なぶつかり合いを描き出すには不向きであり、シカゴの妙技などとは水準が異なるのを思い知らされるのである。そのピラミッド型のサウンドはこれはこれでど迫力があるのだが、ブルックナーのインティームな創作意図とは大分離れた場所での演奏実践なのである。そのように思ってブルックナー協会の会長であったオイゲン・ヨッフム指揮のベルリナーフィルハーモニカ―のLPを鳴らすと、驚いたことに絶妙なバランスで対位法の綾を描いている。流石の見識の高さとその演奏実践に唖然とした。その圧倒される音響にベルリンの管弦楽団もやればできたのを思い知り、嘗ては少々退屈気味に思っていたこの日本版LPの真価を悟るのである。(続く



参照:
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
我が言葉を聞き給え 2007-02-09 | 音
試着に悪戦苦闘する午後 2013-03-24 | 生活
by pfaelzerwein | 2013-12-16 19:39 | | Trackback
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