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愛があるかエコの世界観

さていよいよ第二夜「ジークフリート」である。この楽劇の良さは、なんといっても叙唱とアリアが完璧に解消された形としての楽劇の完成によるところが多いだろう。第三幕が「トリスタン」や「マイスタージンガー」以降の作曲ということで、その対位法的な技法やそれに伴う和声的な自由さは有名であるが、第一幕においてもリズミカルな進行などで大変魅力ある作品となっている。

7月20日木曜日、シークフリート第一幕の稽古で、数学者プリングスハイムは、まだ一場の新鮮で力強い鍛治の情景に比べて、二場のさすらい人とミーメの謎解きのディアローグは一寸長過ぎと、作曲家の意思を理解しながらも批評する。ということで若干モノトーンに聞こえるというのだ。

その反面、第二幕におけるミーメとアルベルヒのニーベルング族の争いの場における不協和音の連結に苦言を呈しており、更に多くの部分はレヴィも認めるように非音楽的で、全体の印象も分かれるものだとする。つまり「森の鳥の歌声などはとても素晴らしいものだが」というのである。

プリングスハイムも、既に当時評価が定まっていたのか、その音楽技法上の発展を評価している。つまり、第三幕には顕著になる和声展開の自由さから得られるようになってきた多声的な扱いと同時に、叙唱的な流れを淀めるものがなくなることを指すのである。それをして、プリングスハイムは、ヴァルキューレの二重唱と、ジークフリートのそれを比較してみるがよいとしている。勿論、そこでは「トリスタン」と「マイスタージンガー」のヴァークナーの作曲技法の進化を称えているのだ。

しかしその進化とは、具体的に挙げられるとしても、例えば第一幕二場から始まるさすらい人の折角の音楽が、歌手とのバランスのために、奈落の底ではっきりせず、バスチューバの合奏などであまりにモノトーンになってしまっているということに表れているというのだろうか?これは、なるほどその作曲技法の問題があるとしても、進化前と後で容易に峻別されるのか?

今回色々と調べる中で面白い記述や指摘があった。最ももやもやとした思いが晴れたのは、プリングスハイムも指摘しているジークフリートと鳥との対話とそしてその森の音楽の捉え方でもあった。ヴェステルンハーゲン著「ヴァークナー」に、スイスでの体験と三幕でのクライマックスの心象が重ねられていることだ。ヴァークナーが初期アルピニズムの影響を当時の文化人として受けていたことは驚かないのだが、我々が知っているあの帽子を被った伊達姿でアルプスを歩き回り氷河を仰いで感動している姿とは重ならなかった。

スイスでの滞在は、チューリッヒ湖やルツェルントリプヒャンの対岸やアルプスの遠望や、ヴィリアム・テル縁の場所の探訪だけでなく、インテルラーケン方面へと足を伸ばしたアルプス紀行と重なっているのである。そうした影響が直接その音楽や歌詞に表れているとされるのが、selige Öde auf wonniger Höheやブリュウンヒルデが眠る岩壁からヴァルハラ城への高みであって、勿論それは鉛直状への三次元的思索ではなくて、訪問者の一人でもあるニーチェの思想などと同一の時代性であったことは間違いない。

そのような視点からすると、「ヴァルキューレ」の後の度重なる中断の成果であるだけでなく、既に述べたその第二幕などでの試行錯誤から継続した創作活動として、決して「ジークフリート」の第三幕において解決を得たことにはならないのは当然であって、実際に「トリスタン」と「ジークフリート」の作曲が複雑に前後しているのである。更に見落としてはならないのは当時世界の工場であったロンドンでの安らぎの無い滞在などが途中にある。

アントン・ブルックナーが交響曲において、英国の蒸気機関の大工場を音楽としているならば、その先駆者である楽匠は、ニーチェもしくはショーペンハウワ-などの時代の気分で、アルピニズムにおける工業化と自然の克服というある意味相反する意識を芸術としているのである。例えば、「ジークフリート」における第二幕の森の場面から第三幕の断崖そして高みへの構図と、それらを模倣したリヒャルト・シュトラウス作曲のアルプス交響曲を比較してみると、如何に後者がツーリズムというレジャーの世界のそれであるかが一目瞭然となる。面白いことに、既に述べたように家庭交響曲という名で描かれているその世界もヴァークナーにおいて、その御手本がここにあったのだ。

周知の通り、この楽劇四部作はゲルマンの神話を扱っているのだが、実際には十九世紀後半の工業化社会において、科学技術による自然の克服が、一方においてはアルピニズムなどに代表される近代的自我の挑戦と一方においてはビーダーマイヤーなどに代表される小市民的な生活感覚の葛藤があり、その裏側には無限に膨らむ巨大な欲望と世界観への恐れが対峙していたのだ。

先頃逝去したパトリシス・シェローのバイロイトの1976年の演出は、マルキズムの側面が強調されていた訳だが、それから四十年も経つと流石にその社会思想自体が歴史的なものとなってきている。今ここでこうしてこの作品を読み直していくと、そこにはっきりと見えてくる風景があって、当然の事ながらあの時はダムや工場として描かれていたものは現在からすればフクシマやチェルノブイリの爆発した原発でしかなく、その他の風景も全く異なっているのだ。正しく権力掌握する指輪こそは、金融市場のコムピューターシムレーションでしかないのである。そこには愛などがあってはいけないのである。



参照:
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
前夜祭ならではの祝祭感 2014-07-08 | 音
by pfaelzerwein | 2014-07-20 23:47 | | Trackback
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