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写真に見る日本のピクニック

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Saar Weineさんから送ってもらった写真と、その翌日にヘリコプターで撮影した一号機カヴァー取り外しの映像を比較する。この写真を見てなんとも思わない人間は精神病院に入った方が良い。もちろんそうした人が多いから東京では毎日のように投身自殺が繰り広げられているのである。もはやそれによって都市機能は麻痺するのが日常化しているようだ。日本は確実に解体して行っている。

撮影場所が先ごろ開通した国道六号線で、即死の照射量の二号機横の鉄塔下から僅か2.5KMしか離れていない。私が走る沢沿いの片道ほどの距離だ。どんなにゆっくり走っても15分も掛からない。そして手も付けられない双葉郡大熊町長者の原が目前に広がっている。左から三つ、四号機の南側の排気塔までが並んで見えるのである。僅か標高40Mほどの崖の向こうに隠すように設置されているのが福島第一原子力発電所である。だから国道からの写真では山陰に関連の白い建屋しか見えない。

不要不急の通行を避けるようにとアナウンスしながら、この国道の交通量が増えることが謀られている。いわきから郡山への近道となるので事故前と同じようにこの経路が利用されているようである。一時間辺りの被曝量も政府によって明示されていて、徹底して自己責任が要求されている。

もちろん怖いもの見たさで各地から観光客などがここを通過するのを計算に入れているのである。間違いなく、関東平野から若者がやってきて、プルトニウムや重い放射性物質の蓄積する原っぱで弁当を広げるYOUTUBEが公開されるだろう。

なにがあろうが直ちに健康に影響が出ない限りは、政府役人なども告訴されることはないと高を括っているのである。それどころか、社会のあらゆる業務的な必然性をして、不要不急でない往来が一般化するのが見込まれているのである。

この状況こそは、大日本帝国陸軍の物資の補給無しの無謀な進軍や神風特攻隊や竹竿演習と全く同じ状況であって、日本国民の隅々までが一種の集団催眠現象でその行いの正当性を確信しているのと変わらない。そのうちに国道六号線の通過を厭う者などは意気地なしか病的な心配性と看做されるようになるに違いない。

このようにしてありとあらゆる責任は誤魔化されて、なんら失敗や被害などは省みられることなく、次の幕へと永遠に不断無く続いていくと考えるのが日本人の心理構造であり、その世界観なのである。日本人は被曝を通してより強い国民になり、日本は美しい国となりえるのだろう。なるほど学問も科学も無縁の人たちがそのように唱えているのである。

イスラムやシナ人の世界観を否定することが出来ないようにこうした日本人のそれを否定することは出来ないのかもしれないが、こうした狂気がその社会の中では社会の圧力として、人間本来の正常な感覚を破壊していることが大きな問題なのである。本能的に不快だと思われることでも家畜のように飼い慣らされることで、人間にも出来てしまう社会の構造こそが、日本社会の特徴のようである。

視線を写真の海岸線に移せば、格納容器の僅か先に海が広がっていて、その近くで殆ど核燃料が溶け出しているような廃液が流れ込んでいるのである。それでも止水できていると思う正常な感覚の人間は、この写真を見たなら、いないのは当然である。

一号機のメルトスルーした核燃料の取り出し作業が東京オリムピック開催予定時期には不可能だとようやく発表になった。それまでの間に排水は増え続けるのである。写真の防波堤などが拡散を止めていると誰も思わないであろう。もしその中に流れ込んでいるのであれば現在の観測値の値の範囲に収まらない。六ヶ所村の遥か沖にまで延びる取水口のように潮の流れの速い場所を目指して刻々と強烈な放射性物質が排出されている。これでも海水浴をしたり、危険な魚介類を食する日本人は自らを欺いているだけなのである。その日本人は同時にそうした日本の社会構造を下支えしていることを忘れてはならない。

団塊の世代の日本人は、「なぜ大人たちは帝国日本軍の侵略戦争を阻止できなかったか?」と親たちを攻めたが、今現在の全く同じことが行われていることを強く自覚すべきであり、同じように子供たちに攻められることは必然なのである。

薩摩川内原発の再稼動で明らかになったことは、体の不自由な人たちに福島であったことを反省して、はじめからマニュアルとして一箇所に集めて見捨てるという姨捨山状態が採用されている。こうしたことを許す経済力もある社会は、野蛮な社会でしかなく、断じて許してはならないと考えるのが健全な市民である。



参照:
いじめの支配構造 2014-10-30 | 歴史・時事
枚挙に暇のない杜撰さ 2014-10-23 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2014-10-31 21:35 | 歴史・時事 | Trackback
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