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竹取物語の近代的な読解

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楽劇「影の無い女」の二回目の体験だった。リヒャルト・シュトラウス作曲ホフマンスタール作のこの楽劇は、大成功作「ばらの騎士」がモーツァルトの「フィガロの結婚」に対比しているのに対して、「魔笛」に対比しているもしくはそこから「ファウスト」に対応しているのはよく知られている。それではなぜお手本ほどには成功していないのか?本当ならばドイツ語の歌芝居の流れをたどれば「ばらの騎士」よりも容易だったのではないか。しかし実際には、竹取物語がベースになっているメルヘンに拘わらず理解が比較的難しいと考えられている。実際に開演一時間前から始まったのオリエンティーリングでも益々哲学的な考察へと傾いていった。バーデン・バーデンのそれに比べるまでもなくこの劇場の解説はややこし過ぎる。それはどのような楽劇の台本にしても読み解きほぐすのがあまりに容易ならば、誰の関心も薄れてしまい再演などはされないのは当然であるとしてもである。なによりも音楽的な魅力が無ければ音楽作品は成功しないのであり、その音楽的なつくりもある程度時代を超えていないと劇場のレパートリーとして残らない。その意味からこの楽劇辺りが、作曲家記念年での一つの試金石となっているか。

記念年ということで、復刻上演的な意味合いから、この楽劇と後の楽劇「アラベラ」などの上演が目に付くが、今回20年ぶりほどでミュンヘンに駆け付けたのはバイロイトで体験したペトレンコ指揮の音楽への魅惑が大きかった、そしてハムブルク歌劇場の日本公演でのこれが体験として深く残っていたからである。つまり、この楽劇の核心は掴めているつもりだったのだが、その後にメディアで聞いたサヴァリッシュ指揮の録音やカール・ベーム指揮のヴィデオなどでも、それ以上の体験も理解の深まりもなかったのも事実である。

立見席からは指揮者どころか、舞台の中央も全く見えないのでその演出に関してはなんとも論評できないが、少なくとも三幕だけは空いていた席に滑り込んだので、十分に体験できた。ハイライトとしてこの楽劇の出来の真価は最後の情景に集約されるが、登場する二組の夫婦の対比と変容が組み合わされるその音楽的な成果を確認できただけでも十分であった。その二組とは皇帝と皇后であり、染物屋とその女将なのだが、各々に新たな次元へと突入するのは「ばらの騎士」における三者三様の歌声として真骨頂を示すものよりも、複雑になるのは決してその人数の問題ではないであろう。

「ばらの騎士」よりも明らかに複雑なのは、そこでの架空の肉感性よりもメルヘンでありながら可成り時代的な課題をそこに含んでいるからではないだろうか。今回のプログラムにも記載されているように、当時の戦災の人口的な変化や医学的な中絶が議論となった文化的な背景は、古き良き時代への意識よりもフロイトや同僚のマーラーの交響曲の意識が背景にあるからだ。それは、作曲技法的にみても、肝心の複調など多層性がそこで現出することになっている。この楽劇が他の大成功作品よりも厄介な理由はそこにあるのだろう。ホフマンスタールもその音楽を指して「重く暗い」と評し、アドルノに至っては「フィナーレをしてけばけばしい」と非難する。

実際に作曲家自身もその頃になって自身の舞台作品におけるマンネリ化に留意をしていて、この三幕の完成度にも半信半疑の感じを抱いていたようだ。要するに、作曲家自身もライヴァルのグスタフ・マーラーの交響曲を強く意識していたのは確かであり、音楽的にその台本の内容に匹敵する真面目さを以て創作に挑んでいた様子が読み取れる。管弦楽法ひとつをとってみても、ソロとテュッティーの掛け合いや使い分けそして何よりも転換へと軌道を外す和声展開など、それなりの意欲を示しながらも、そうした音楽的な工夫が十分に熟れていないと感じられるのは、飽く迄もこの作曲家が追従者と言われるその作曲であるからだ。つまり同時期のアルバン・ベルクら新ヴィーン学派との差異でもあり、ミュンヘンの保守性というようなものをそこに重ねてもあながち間違いではなかろう。

その多層性は、昨年度上演されたツィンマーマンの「ディ・ゾルダーテン」にも一種共通するのかもしれないが、この楽劇上演を体験して、嘗ての体験では分からなかった最重要点であった。既に三十年近くも前のことなので細部に関しては思い出しようがないのだが、その演出ともども今回のものに比較するとあまりにも単純化されていたのではないかと感じたのである。なるほどその時もとても強くカソリック的な世界観に打ちのめされる気持になったのだが、このミュンヘンでの雰囲気は大分異なったのである。その多くはご当地の文化圏を客観的に見れるような場所柄ではないからなのだろう。ハムブルクのフォン・ドホナーニの演奏は素晴らしかったのだが、肝心の多層性と肉感性では程遠かったような印象が強まった。

ミュンヘンの歌劇場はやはり香りが違う。このような出し物の場合、お当地ものであることを感じるのは、そこに社会文化的な基盤があるからなのだが、舞台上で示される二組の夫婦関係や、この楽劇の中心課題でもある近代社会的な構造をも自らの文化圏のそれとして引き寄せられる想像力が全く違うからなのだ。東京でハムブルクの上演を体験した時に、ほとんどの入場者はその本質的なものを感受していないと悟ったのだ、それが今こうして中欧に暮らすことになる確信に繋がったのである。

丁度同時期に完成された「アリアドネ」のプロローグの楽屋落ちの効果が絶賛されるのだが、ここではそうしたロールプレーを使った劇場空間への認識よりも、舞台上での出来事への内省的な効果が狙われている点では、ある意味より普遍的な効果を上げたのは「ばらの騎士」なのかもしれない。しかし、それがややもするとミュージカル的になりかねないのに比べて、寧ろここではとても近代社会的な議論が展開しているのである。

つまり生殖、結婚、生活、決して順不同ということではなく、なにも決してここでは婚前交渉が扱われているのではないが、最新のハリウッド映画でも遠く及ばない現実性が劇場空間に展開されるものとして、当然のことながら大変な税金を投資してでもこの歌劇場が運営されている由縁なのである。そして、隣の室内劇場での芝居のボート・シュトラウスの作品に決して引けを取らないということをここでも示さなければいけないのである。

さて、今回第三幕で初めて、キリル・ペトレンコの指揮ぶりを眺めることが出来た。なるほどと思う適格な指示は、その拍打ちとともに印象に残った。どうして限られた練習時間であれほどまでに楽譜に新たな光を当てて音化することが出来るのか不思議に思っていたが、とても合理的な指示を与えていたということで、疑問が解けた。前任者のオペラでも交響的に鳴らすケント・ナガノの時は結局ミュンヘン訪問はならなかった。しかし今回訪問が叶って、なるほどその絶大の信頼感や人気が全く異なっていると改めて実感したのである。



参照:
心躍らされるお知らせ 2014-09-23 | 雑感
意味ある大喝采の意味 2014-08-06 | 文化一般
by pfaelzerwein | 2014-12-31 04:10 | 文化一般 | Trackback
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