人気ブログランキング | 話題のタグを見る

積極的手法のパートナー

積極的手法のパートナー_d0127795_7113028.jpg
日本人人質の晒首の写真がネットを駆け巡り ― 日本では写真の信憑性が話題となっているようだが、あのVIDEO中の写真では何とも言えないのは当然であろう、その新たな条件提示のVIDEOで、日本政府へと直球ボールが投げ返された。漸くこれで世界中が安倍政権を注目するようになる。ご本人としてはご満足ではないだろうか。外務省が描いた通りの事件の進展である。

金曜日の討論番組は、ユダヤ人問題が俎上の載った。ホロコーストの記念日を契機とする企画であったが、まさしく今世界で起こっていることを背後から説明するような番組となっていた。二人のイスラエル人が登場して、「ドイツ人はイスラエル人よりもユダヤである」と話すのがとても興味深かった。

彼女に言わせると、「イスラエルでは誰もそのような日には関心もなく、ホロコーストと関係がないのが普通だ」ということで、そのような活動をしているユダヤ系組織の異常性を、名前は挙げたがらないながらも、説明していた。要するに、ベルリンにある記念碑や各地に埋められた躓き石などはそもそもドイツ人のためのものでユダヤ人には関係がないもだと語ったのだ。

それほど、「戦後のドイツ人は、ナチの犯罪をこれでもかこれでもかというほど執拗に真剣に扱っていて、敬意に値するもの」だが、それがユダヤ的だとなる。そして、もう一人の女性も、強制収容所観光などは全くイスラエル人にとっては関心がなく、観光としてのそれには懐疑的だとする。当然の事であろう、あのようなところに好き好んで立ち寄るのは、ユダヤ人ともドイツ人とも地元とも関係のない物見遊山の外国人観光客だけであろう。

なるほど、シオニストが、ホロコーストの被害者を侮蔑していながら、いつの間にかそれらを政治的な道具として使うようになったのはよく知られている。シオニストとアウシュヴィッツへと送られたユダヤ人と間の葛藤は芝居等でも十分に表現されているが、イスラエルが政治道具化する限りは、ドイツは、ガザ虐殺であろうが、どのような非人道的な行いをイスラエルがしても、一言もコメントできない様になっているのである。

その意味から、このSWR2の放送内容は画期的なものだと直感した。高級紙のFAZなどは以前から高度な次元でユダヤ批判も繰り返してきていたが、公共放送の文化波が討論の形をとりながらここまで踏み込んでいたのには驚いた。今回の安倍のイスラエルでの演説やその反響が人質の斬首として表れたことには、この件には全く触れていない新聞に次のような記事が載っていた。

それによると、日本は、合衆国が安倍の国粋主義なポーズがあまりにも度を越しているとはしながらも、米日関係はかつてなかったほど良好で、尖閣の保護にもオバマ大統領が一言触れたことにも表れているとしている。そしてEUよってもNATOにとっても、年内締結の欧日の経済協定のみならず安全保障上の協調があるとなる。つまり、安倍が示すような西側の対応が欠かせない、アジア情勢であり、インドやオーストラリアの民主主義国、またヴェトナムへと広げられるパートナー構築が日本の役割であるとするが、とどのつまりもはやそうした国際的な安定が存在しないことであるとする。

積極的に自由と繁栄の欧州に寄り添う形で、地理的、地勢的また歴史文化的な制限を乗り越えて、この国際安全保障に積極的に係わることであり、アフガニスタンへの経済的な尽力に留まらず「イスラム過激派への戦い」に一層強く係わっていくことをブリュッセルで樫田外相が指し示したとある。そしてそれが、つまりドイツのように世界に貢献するということが、どのようなことになるかというと、丁度ブリュッセルでの会見中に明らかとなった、誘拐されていた二人の日本人への身代金要求であったとする。安倍はイスラエル滞在を切り上げ、東京へと戻ったのだとある。

日本の制裁外交は、ロシアのウクライナ問題に関しても欧米と一体となり、ロシアの孤立を諮るのだが、そこは北方領土問題があるから、ドイツと同じように譲歩の余地を残りているという。勿論欧州では、ロシアが日本の優先順位を同等に置いている訳ではないことを人は知っている。つまり、日本がやろうとしている地域では勃興する激しい国益政治の中国がその地位を独占しているという事実である。そのような状況下で、安倍は予想通り、国防費を増加して、特に海兵隊を重視する。

そのような日本のレトリックが欧州の安全保障や経済分野で示唆するところは、アジア太平洋において完全なものとなり、反対に欧州もアジアにおいてよりプレゼンスを増すこととなる。つまり日本の荒々しい隣人中国は日本にとってと同様に欧州にとっても欠かせない意味を持っているからと解説する。

これらを読んで、新聞が日本人人質について不用意に報道しなかった意味が分かった。私が知る限り、この記事が最初であり、それでもどこにも見出しにはなっていない。記事を読み進めなければ気が付かない様になっているのである。ドイツの報道は、公共放送やその他、公な議論が始まらないうちは記事にならないことが多い。今回の件もドイツの外務省などの動きが定まったところで記事になってきたのだと想像する。そして放送にあったようにイスラエル問題が、いよいよ連邦共和国でも公平に議論されるような状況に近づいてきているのかもしれない。



参照:
Vorzeigepartner, Klaus-Dieter Frankenberger u. Peter Strum, FAZ vom 24.1.2015
首を喜んで差し出す外務省 2015-01-21 | 歴史・時事
ポストモダーンの歴史化 2015-01-19 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2015-01-25 07:11 | マスメディア批評 | Trackback
<< 主の居ない打ち出の小槌 玉に瑕のメードインチャイナでも >>