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靴が汚れるだけのコロニー

水曜日にマンハイムに赴いた。町の中心の地下駐車場に車を停めて敢えて裏通りを歩いた。マンハイムであろうがフランクフルトであろうが、大都市を歩くことなど一年に一度ぐらいしかない。買い物はネットでより良いものをより安く探すことができ、用件は先方の近くに駐車して、街をぶらぶらすることなどはないのである。

もし日本に住んでいても神戸の街を歩いたり、東京を歩いたりしているかどうか疑問である。仕事で目的地に立ち寄る以外はどうだろうか。勿論日本でならば四輪でなく二輪車を使っているかもしれない。それでも靴を汚ごすだけに町を歩き回るなどはもはや考えられないのである。

それでも裏町を歩くと、連邦共和国の真実が見える。トルコ系の店の並びのクルドを掲げた店に人々が屯していて、その近くのアジアショップにはキッコッーマンなどが並んでいる。我々からすると異文化であり、我々のライフスタイルとは一切接触点がない。

日本では、民族や人種で棲み分けをするべきだという大新聞のコラムが話題になったようだ。そのようなことは論じないでも、こうして棲み分けがなされているのが連邦共和国である。道路が汚いと思えば間違いなく外国人出稼ぎ労働者の居住区であり、市も他の区画ほどには清掃もしないのだろう。要するにスラム化しているのだ。ドイツの大都市ではトルコ語が標準語と言われる所以なのだ。

トルコ人やクルド人と接することはあっても個人的な付き合いはない。当然のことで、共通した生活基盤がないからである。同じように合衆国の軍属の済まない地域を最初から探していたので米国人との付き合いも限られている。ワイン街道周辺では、ポーランド人を中心にイタリア人とギリシャ人が外国人の主力である。なるほどトルコ人やクルド人などは居ないことはないのだが、都心のような大きなコロニーは存在していない。

東欧出身者やムスリムなどがドイツでは住居を借りる場合苦労することはよく知られている。前者などは札束を積んで大家と交渉するなどの話を聞いたことがある。要するに雇用主の給与証明などが出せないので現ナマを積むというのである。そうすることで余計に信用を無くすということだ。半年後一年後のことは分からないからだ。棲み分けと呼べば聞こえが良いが、そこには明かな社会的落差があることは事実であり、容易には埋まらないものなのである。

昨年の暮れに歩いたミュンヘンは決して悪くはなかった。私がベルリンなどとは違って、街を歩いてもそれほど違和感を覚えない文化がそこにあるからで、そうした外国人のコロニーを包み込んでいるやはり保守的な分厚い街柄がそこにあるからだろう。



参照:
不可逆な我々の現代環境 2014-10-12 | 歴史・時事
自由民主主義への忠誠 2008-03-14 | マスメディア批評
by pfaelzerwein | 2015-02-21 06:30 | 生活 | Trackback
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