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ハリボ風「独逸の響き」

バイロイトの祝祭劇場からの2015年初日の生中継放送をPCで流していた。聴取条件も悪く、流しているだけだからその音楽も十分には判断できないが、それでもその退屈さは十分に実感できた。二幕が始まる前に、一幕前のメルケル博士に続いて、八億円のギャラを公共放送から受け取って問題になったゴットシャルク氏にロビー中継アナウンサーが感想を聞こうと試みる。結局どこかのおばさんが「前奏曲から惹きつけられるあらたな解釈だと思う」とそのビーダーマイヤー風のそれがお気に入りのようだった。それが初代音楽監督ティーレマンの真骨頂だったのだろう。それは、我々が特別の楽劇「トリスタン」に期待する音楽文化歴史的な全てを完全に裏切って、ただのフォン・ウェーバーからの継承としてのロマン派音楽でありながら、まるでそれを乗り越えれない音楽創作かのようだ。

これをしてドイツの響きだとかなんとか新たに定義したいのならば、ここまでの全ての歴史を文化を全てなかったことにしなければいけないだろう。そもそも初演のその時直前に仮想的に響いていた音楽などを再現できるわけがないのである。そこには、時間軸などを想起できないアナクロジカルな反知性主義が存在するのである。ティーレマンのインタヴューを聞いていると、そこに至る楽匠の創作過程とか、それがどれほどの創造的な破壊力を有していたか、その必然性などへの視線などがさらさら見つからない。

引けてからいつものように放送局の立ち話会放送が始まった。イゾルテ評が散々なのは、ピンチヒッターとしての登場やその前にエレクトラをミュンヘンで歌ってきたことを差し引いても、仕方がないであろう。トリスタンの歌唱とも管弦楽団のテムポとも合わないのも仕方がない。カタリーナの演出は、ブーイングが全く起きないほどに箸にも棒にも引っ掛からなかったのはその通りなのだろう。指揮者も演出家もこうしたものが持続性があるような弁明をしており、それならば時間を凍らせて、何もかもをハリボのゴム菓子のようにしてしまえばよいのだ、適当に甘く。それとも売り上げだけが目標か。

そして、ティーレマン派のFAZの評論家女史は、アゴーキクが素晴らしくて今まで聞いたことのない声部が浮かび、透明性がなどと昨年のペトレンコ指揮のそれと同じ言葉を吐き出すのを聞いていて、本当にこの人は音楽を分かっていない人だなと改めて認識した。オペラ舞台演出評論家でしかないのである。「ティーレマンファンではないけど」としながらそれに符丁を合わせる評論家も話にならない。

なるほどPCでは分からないことが多いが、少なくともバイロイトからの中継を知っており、そこの音響を知っており、そしてティーレマンの指揮を知っている者としては、管弦楽を含めてとても程度の低い上演であったと認識する。昨年のペトレンコの前代未聞と思われるほどの音響は誰も求めてはおらず、初登場までにバイロイトの劇場に何年も通って指揮者仲間の演奏する音響を研究尽くしたといわれるペトレンコには及ばないとしても、少なくとも何年もそこで指揮をして初代監督の座を獲得した指揮者のトリスタンとしてはお粗末過ぎた。

「ドイツの響き」などは、彼の「美しい日本」と同様のもので、フルトヴェングラーの名録音でも戦前のそれとは異なり、そもそもその管弦楽の響きはとんでもないものだったことが知られている。要するに戦後のフォン・カラヤンのピラミッド型の壁を厚塗りしたようなサウンドとも、またイタリア人のアバドの美的に磨かれた響きでもなかったのだが、当時の管弦楽の響きとしては途轍もなく斬新に響いたのだった。それは当然で、過去のビーダーマイヤー風の耳辺りのよいサウンドを完膚なきまでに破壊して行った芸術的な作業であったから当然であろう。躓きの石のプレートが嵌められたヴァーンフリード亭の歴史と環境を正しく認知することこそが芸術心であって、もしネオロマンティズムのノヴァーリスなどの効果を狙いたいのならもっともっと管弦楽を磨かないと話にならない。

何週間ぶりに初めて窓を閉め切って就寝した。流石に熟睡できた。朝も街中は摂氏17度で、森の中は12度以下だった。久しぶりに気持ちよく走れた。一週間前に痛めた左足首もこれで大丈夫だ。そろそろ本格的に身体を動かせるような感じになってきた。



参照:
Neuer "Tristan" in Bayreuth" (BR-Klassik)
市場であるより美学の問題 2015-07-22 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
by pfaelzerwein | 2015-07-26 18:51 | 文化一般 | Trackback
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