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おそろしや商業ジャーナル

販促のために郵便桶に入っている新聞を開ける。フランクフルター・アルゲマイネ・ゾンターク新聞と称する同名の新聞社が市場拡大のために出している日曜家族新聞である。先ずは、連載のワインについて英国人「専門家」が書いているものをトイレに座りながらみる。ピノグリに関するものでなんだかんだとどうでも良いことを書いた挙句、インゲルハイムの商品を紹介する。これがこの人たちの仕事なのだ。新聞で取り上げられることで無名の醸造所へも注文が舞い込むというものだ。これが取材費の源である。事情通の読者からすると馬鹿にされているようなものなのである。専門家が素人に「教えてやろうジャーナリズム」である。その実はアドヴァタイズイング以外のなにものでもない。このようなビジネスモデルで知らされる情報などに全く価値がないのは当然であろう。

そしてこの英国人は、リースリングなんて一部の愛好家に愛されるだけで酸が避けがたいので ― 我々はこの酸について、このような書き方は絶対しない、なぜならばその酸の質についてよく分かっているからである ― 軽いピノグリジョが愛されると結局は南ティロルの高山の冷気の葡萄を賞賛している。なんでもない、それだけの価値しかないドイツのブラウブルグンダーを紹介している一方で、最終的には最も素晴らしいピノグリを知っているのだぞと専門家としての見栄を張っているのだ。

こうしたくだらない新聞の文化欄には、バイロイト紀行記のような2015年音楽祭第一クールでの感想を書き綴っている。ネットで無料で読めるようなもしくは個人のそれと比べてなにか価値のある読み物だろうか?このように、あまり厳しいことを書いていると、女流評論家のようにまるで私の書き物に反応しているような文章が今度はフランクフルターアルゲマイネ新聞に、「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」について評論として載っている。

それによると、ファンタジーに富んだ堂々とした舞台美術を指して、まるで凍った音楽のようにと評していて、まるで私が書いた「トリスタン」のティーレマン指揮演奏のハリボのたとえに対応している。そして音楽的な記述について全く書けていないとした事に対しては、ヴォータンとビュルンヒルデの対話の聞きところを時間を追って、でも演出がさっぱりと批評する。そしてあまりにも動きの多い舞台がなんら意味を得ていないとするのは、極一般的な見解であるが、このように書かれると、「年寄りには情報過多を捌く、スピード感や能力もないわな」と思わざるを得ない。

そして、歌手への絶大な拍手を伝え、更に過ぎるのは指揮者ペトレンコへの拍手であると、表面上は絶大な評価をしながら ― なにに遠慮しているのか分からないが ― 未だに奥歯に物のはさまったような書き方をしているのである。コマーシャリズムは恐ろしい。まあ、土曜日の第二クールの「ヴァルキューレ」生放送を楽しみにしよう。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
by pfaelzerwein | 2015-08-03 21:42 | マスメディア批評 | Trackback
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