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そこが味噌なのですよ!

ラディオ放送をネットで聞いた。2015年バイロイト音楽祭の第一クール7月30日に上演された楽劇「ジークフリート」である。結論からすると2014年のジークフリート役とミーメ役の歌手が替わったことで、総じてこの楽劇が谷となってしまっていた。なによりも第一幕ではインテリのミーメを演じたブルクハルト・ウルリッヒの存在はとても大きく、新たな配役では話にならなかったのである。指揮のペトレンコも破綻がないように配慮していたのか、前年のような大きな効果はあげていないようだ。

この第一幕は交響作曲家マーラーのスケツォ楽章などを想起させるが、前年のウルリッヒが語るように八分音符のアウフタクトか十六分音符かで、全く歌詞のアクセントも異なり、手書き原稿を基にその正確な歌唱が要求されていたとされる。密に書かれているこの音楽からすれば当然で、如何にこの歌手の選択が重要な課題であったかを改めて思い知らされるのだ。ウルリッヒ氏は、エクサンプロヴァンスなどの時から追放されたヴォルフガンクの娘パスキエ女史との付き合いがあって、バイロイト初登場となったようだが、それゆえに息の掛かった者として、一掃されたその一人だったのだろうか ― ペトレンコが「本当なら指揮を辞退するところだったが、仲間のために思いとどまった」とする事情の一例だろう。

それでもここはというところは幾つかあった。具体的には第一幕からは三場の最初の管弦楽をあげておけば十分だろう。そこでは、二部に分けられた弦の漣の上に、木管のフルート、オーボエ、B管のクラリネットへと同じ旋律が下方へと音色旋律として受け渡されていくのだが、この効果によってその後の流れがどこまでも繋がる循環旋律として機能する。今までそれに気がつかなかったので、こうした場合の決まりとして作曲家ピエール・ブーレーズ指揮の録音と比較すると、そこでは全くそのようには配慮されていない。そのシェロー演出の舞台を見ると釜から光が漏れる情景となっている ― カストルフ演出ではミーメの料理の場面以外あまり思い出せない。

そのほか、第二、第三幕についても触れたいとは思うが、先ずは一幕だけをとっても数箇所、これといった注目すべき場面が奏でられ、そこをよくよく楽譜で観察すると、装飾音やクレッシェンド、リタルタンドなどの指定があって、多くの演奏の場合は他の声部によってそうした表情が隠されたりしている場合が殆どである ― 機能的和声の中でのバランスと響きのみが追及される。再びバイエルン放送局のライポルト氏の批評をのぞくと、膝を叩くことばかりだが、そこで「アヴァンギャルドな音色の豊かさ」と言うのは実はとても大きなテーマなのである。これに関しては簡単には述べられないが、前記の実例などの箇所においても、作曲家がなにを本当に響かせていたかという問い掛けであり、指揮者の総合的な判断であり、そしてそこに必然性を感じるか感じないかの受け取り側の判断に委ねられる面もある。同時に今まで誰もそのように譜面を読み取れていないということも美学史的な問題でもあるのだ。ただしそれを現代性とか今日的とは表現せずにライポルト氏は、それをして敢えて美学史的な用語で表現している、そこが味噌なのだ。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
二十世紀前半の音楽効果 2013-11-28 | 音
安全に保護される人質 2007-07-30 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2015-08-13 02:23 | | Trackback
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