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仏の宣戦布告への懐疑

週が明けてからはじめて走った。雨がちであることと、走る前に立ち寄るパン屋までの街道筋が封鎖されているからだ。迂回するので時間も距離も伸びる。それも今週末には開くらしい。日曜日の山登り以来で運動不足気味だ。ゆっくりと走り出すが、往路後半に前からおやじが歩いて来るのに出合い、その足取りがあまりに遅かったのでどこで復路に抜くかなどを考えた。それでも風が強くいつもより厳しい。結構苦しんで折り返してしばらくすると、遠く前方に杖のおやじではなく緑のウィンドブレーカーが見える。あれは確か駐車場への道を入ってくるときに抜かしたおやじで、しばらくするとすれ違った。なにか顔に余裕があるのだ。少なくともこちらよりは片道で1.5KMほど余分に走っているのにである。

これは後ろからつかれるとやばいと思って、急いで逃げる。ようやく復路もゴールの目星が突いたところで、先ほどの歩いていたおやじを抜かす。あれほど遅い歩みなのに、結構先に進んでいて、驚いた。汗を確りかいて、手を洗い、靴紐を緩めていると、先ほどの緑が駈け抜けた。走り方はジョギングなのだがなぜか早いのだ。小柄でピッチは短くともテムポが早いのだろう。そして、少なくとも自宅から7KM以上は走っているのだ。要注意だ。

新聞の文化欄に、フランスの宣戦布告への懐疑が、ハムブルクの刑法学者によって表明されている。そもそも空爆を始めなければいけなかった状況が今でも理解できないでいるが、そのごく一端がここで解説されている。つまり、今回の事件の背景でもあり、受けての布告には法的な根拠が十分ではないということである。先ずは、宣戦布告はジュネーヴ協定上も存在しない概念であり、ありえるのは戦闘能力を要した敵からの防衛でしかない。その敵とは、正式な戦闘能力を有した国でしかなく、軍を持った国となる ― ここで思いつくのは法技術的に敵とはなりえない日本の専守防衛国防政策などだ。

しかし、どのような見地に照らしてもイラク国内はまだしもそれ以外のテリトリー地域を代表する国としてイスラム国が認知されているとは言いがたいとして、要するにフランスにとってイスラム国は防衛を必要とする敵国ではないということだ。むしろ、911のときの合衆国からすれば、アフガニスタンと深く結びついたアルカイダは防衛すべき敵として認められる程度のものなのだ。

つまり今回射撃されたテロリストなどは宣告するべき戦闘相手ではなくて、ただの重犯罪犯でしかなく、なりゆきでは、容疑不十分で釈放されるだけとなる。こうしたフランス政府の姿勢で、デモの禁止だけでなく、通常の法的な枠組みを超えた非常事態宣言下でテロ対策として権力の行使が進んでいる。

話を戻せば「テロの猛威」というものが、必要な防衛を合法化する具体的な攻撃ではなくて、ただのあり得る危険性でしかないとすれば、これまた自衛権の行使に当たらないなど、昨年から日本で大きな問題となっている自衛権の正当性にも係わっていることである。こうした状況の中で、ロシアも協調するという方向で、所謂世界の警察的な活動の可能性も示唆されることで、法的な正当性を模索する。



参照:
Wen sollen wir denn da bekriegen?, Reinhard Merkel, FAZ vom 19.11.2015
今後の進展を見守りたい 2015-11-18 | 雑感
13日金曜日の情報錯綜 2015-11-15 | 暦
by pfaelzerwein | 2015-11-19 23:20 | マスメディア批評 | Trackback
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