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見かけによらず土台が肝心

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オーディオ趣味など卒業して久しく思っていた。実際に、予想外の成果だったが、とても勉強になった。そしてそうした趣味人の感覚を少し思い出して、一寸纏めてみたい。初めてのスピーカーのスパイクを試してみて感じたことである。

Dynavox Sub Watt Absorberと称する製品で、四個入っていて、13ユーロだった。高さ調整可能だが、三つ足にしたので必要ない。先ずは下の軸受けを置かず、スパイクの先端が絨毯の下のウレタンに刺さる状態では、高音域まで音が暈けてしまった。理由は分からないが、今まではゴムの上でウファーの箱が振動・減衰していたのだが、今度はスパイクを伝わって、振動に乗って箱が物理的に移動しまうのかもしれない。低周波での移動で、必要な音も出ないのだろう。

そこで音に色付けする可能性のあるとされる軸受を置いてみた。軸受自体は絨毯の間に押さえつけられるような感じでがっちりと収まっている。暈けは直り、なるほど箱が振動しないからだろうか共振するような響きは殆どなくなった ― 可成り硬質のカーペットの化繊の毛で吸振されている可能性がある。その分、全体のバランスが変わってきて、色付けは少ないと思うが、顕著に改善されたとは言い難い。但し、上から下までの音の繋がりは以前よりも自然になった。要するにウファーの存在自体が目立たなくなってきた。

ある程度鳴らしているうちに足元が決まって来たのか、音は大分引き締まるようになってきた。そして全体のバランスがまだ悪いことに気付いた。特に生中継の録音の像がハッキリしない。明らかに重低音が出なくなっている。今までは殆ど地べたにあったのがスパイクで持ち上げられば、当然の変化だろう。

そこで今までは背後の壁から50CMほどあった距離を縮めてみた。20、10、5CM と縮めると、再び中継録音などでは臨場感が出てきたが、制作録音のそれもホールを鳴らしているものになると、若干混濁してきたので、7CMへと戻す。コントラバスの音が許容できるほどにはっきりしてきた。

超低音が出ない事は構わないのだが、あまり絞るとバランスが悪くなって、オペラ歌手の声などが上手に管弦楽に包まれなくなる。要するにベースからの倍音成分によって上手にバランスされなくなるのだ。作曲家がどのようにバス部に音符を書き込んでいくのかが分かるような作業である。要するにサウンドに大きな影響を与えてしまうのである。

今回試聴に使ったメディア素材は、ブレンデルの弾くシューベルトの鱒五重奏曲、同じくアバド指揮のブラームスの第二協奏曲、コンセルトヘボウ管弦楽団のラフマニノフ全集とアシュケナージが弾くブラームスの第一協奏曲、2015年バイロイト音楽祭から「ヴァルキューレ」である。

そして、録音によって差があると考える一方、本来は超低音が重要ではない筈のピアノの録音などを鳴らしてみて、またクリスマスオラトリオをヘルヴェッヘ指揮で鳴らしてみて、肝心なバランスが見えてきた。やはり、どれほど家屋の屋台骨の厚い壁でも低音の折り返しが増強されすぎると通奏低音がオルガンとバスとファゴットのように分離せず綺麗に聞こえないで混濁してしまい、ピアノでは楽器の鳴りばかりが強調されてしまう。

そこで再び背後の壁から9.2CMと離して、回り込みを抑えた。するとどうだろう、ハイドンのソナタでのアルフレード・ブレンデルの細心の左手のタッチなどが綺麗に聞こえるとともに右手の高音部の音がそれに綺麗に調和してタッチが丸みを帯びて来る。言い換えれば打鍵音に芯が出てくるのだ。再び通奏低音を鳴らすと、問題点が解決して、高音部のエコーが綺麗に再生されてくる。そして、音量を落としてもニュアンスまで明確に聞こえるようになる。

正直驚きである。100HZ以下の超低音を調整することで、ピアノの鳴りが鮮明化して、枠の鳴りから弦が鳴る倍音成分までがくっきりと聞こえるようになった。ピアノの録音では指向性マイクロフォンの位置を見当つけるのだが、それを設定するときにもこうして再生するときとまったく反対方向に試行錯誤が繰り広げられる。要するに超低音が勝ち過ぎると胴音のようになり、ハムマーに近づけ過ぎるとメカニックの雑音が多くなるに過ぎない。指向性マイクが、磨かれた高音を捉えるためにはその場所での周波数特性がとても大切になる。それにしても、あの弦が減衰して空間に消えていく響きと超低音の鳴りがここまで関係しているとは思わなかった。

教訓、超低音をバカにしてはいけない。これによって高音の鳴り方まで変わってしまうので、低音が低音として響いているようでは駄目である。寧ろ中高音が喧しくなくなり、高音や倍音成分が今までになく綺麗に出てくることで、超低音がおかしな干渉なく上手に再生されてきている証になる。そして音量を下げても伸びたバランスの取れた低音が綺麗に出てくるのだ。オペラファンならば、声の強さと管弦楽のバランスがどうもうまく再生できないという経験は誰にでもあると思うが、これも低音の出方に関係している好例だろう。低音が上手に出ないとどうしても中高音が張り出して音量を上げるとますます声が喧しくなる。逆に混濁して綺麗に出ていないと口元が分かり難くなるだろう。

結局大晦日に入手して、試行錯誤してこの段階に来るまで三日ほど掛かった。測定機器も何もないので、少しづつ移して試聴してみるしかない。そして上のようなことに漸く気が付いた時点で確信が持てた。勿論微調整の余地はあるだろうが、凄い成果である。逆に今まではそれほど場所を細かく設定したつもりはないのは、室内の周波数特性以上に箱を鳴らしていたからかもしれない。そのお蔭で、中高音は比較的綺麗になっていたのだが中低音との繋がりが悪かったのだ。そして今回初めて超低音から高倍音成分まで綺麗に統一されるようになった。

新しいケーブルに替えて、中低音の鳴りが鮮明になったことから、なぜか倍音成分が引っ込んでいたのだが、それは周波数特性が変わったからで、耳の検査までしたのだった。まさか超低音からの影響だとは思わなかった。まさしく音響の問題であり音楽の問題だった。

音楽ファンを自認する人達がその財政的な余裕に応じて大枚の金子を投じてオーディオマニアになってしまう背景はこうしたところにある。そして多くはなかなか音楽ファンへと戻って来れないのも趣味であるから仕方がないのかもしれない。

その一方、例えばブレンデルの録音などを上手に再生すると、なぜこのピアニストが内田光子をはじめとする多くの専門家から特別に慕われていたかが耳から解る筈だ。また、楽劇ヴァルキューレのキリル・ペトレンコの演奏実践が、生の舞台での歌手への指揮が「聞こえる」と、こうした上演を以て初めてこの作品が人類の遺産となるのを耳にする筈だ。たかが複製芸術でしかないのだが、こうした本質的なところに繋がっていることも否定できない。そして、楽器も舞台もホールの空気も振動していることを忘れてはいけないのである。



参照:
今年最後の試しごと 2016-01-01 | 暦
雀百までの事始め 2016-01-04 | 暦
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
by pfaelzerwein | 2016-01-04 22:57 | | Trackback
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