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不可逆な無常の劇空間

YAHOOジャパンにとんでもない記事が載っていた。てっきり注意を促す記事だと思ったら、公表されている数字から見て「福島は危険というのはイデオロギーだ」という御用社会学者の記事だった。意図的に取捨選択をした数字と、専門家と素人たる普通の市民を峻別する官製の修正主義のようでとても恐ろしいと思った。真実などは想定できないが、進行中の被曝被害を淡々と観察していく科学的な姿勢とは別に、行政やジャーナリズムなどは予防を目的とした政策と情報を確りと出さないといけない。これほどの破廉恥な記事を読むと、中立的な立場からして、どうしてもやはりおかしな核政策がその背後にあるとしか思えないのである。

マンハイムの劇場で東京の新国立劇場で2013年に世界初演されたシムメルペニッヒ作「AN UND AUS」がドイツ初演された。土曜日の初日が各方面で報道されたので早速二日目に出向いた。筋書きは、海岸にあるラヴホテルに毎週集まる三組のカップルが、ブラックアウトつまり電光が点き、消える間に世界が一変する一方、ホテルの受付にいる愛され、誰も居なくなった海岸線のホテルに残る青年が山に住む恋人との想いの中で描かれるというものだ。

ローラント・シムメルペニッヒは、現在ドイツで最も活躍する劇作家であり、新国立劇場はこの劇作品を委嘱するにあたって、日本人が外にどのように伝えてよいのか当惑し直面している問題をという驚くべきことがテーマとなったのである。今も総力を挙げて作業が行われているフクシマは東京からは遠く、もはや忘れ去られている。

芝居は、この劇作家の特徴らしく演じ手によってナレーションされる。そして、浮世の刹那を営む三組のカップルのブラックアウト前後の内面心理が各々によって語られる。それを機に、口が無くなってしまった男性、頭が双頭になってしまった女性、陸に打ちあげられた魚になってしまった男性と、そこで世界が変わってしまうその心理が語られる。しかしそれは決して具体的な形ではなくシュールレアリズム的な感覚で認知されるにとどまる。

その時の前と後、舞台は日本的な寂びと質素さとして、全ては紙の壁やドア、そして食卓、食器、プラカードとして表される。空からはひっきりなしに紙の黒い雨が降り、紙の大津波が舞台を飲み込む。愛人たちは再び各々の家へと戻るが、もはや元の鞘へは収まらない。時は無常であり、不可逆なのである。そうした中でも若い恋人たちは、離れ離れに各々クジラと蜂として、各々が達することのない天空へ、深海へとの夢を膨らませる。

今回の演出は、この劇作家の作品を三回目というブルクハルト・コスミンスキーによる手慣れたもので、東京初演についてはなにも知らないという劇作家も総稽古を見てとても満足したようだ。そして、当夜のプログラムには、ライプツッヒの日本学出身のドロテア・ムラデノーヴァが詳しく日本の核政策について触れていて、広島・長崎、ビキニ環礁福竜丸被曝、そしてその後のフクシマへの道が丁寧にコムパクトに書かれている。三種の神器、新三種の神器、高度成長から安定成長、そして、宝石、ジェット旅行、マイホームへとバブル経済への流れの中で、光り輝く「明るい生活」の蛍光灯からクーラーへと中産階層をエネルギー消費浸けにする社会経済の背後にある核政策が誰にでも分かるように描かれている。

「全て昔のようになって欲しい」と思っても、時は無常で不可逆である。緑の党批判の社会学者はブルノ・ラトゥーもフランケンシュタインを例にテクノロジーの利用を問うている。「ホクサイ、ファーストマンガマスター」の著者ジョスリン・ボウキィヤードの無常と神道イズムの一文を含めて、劇作家の短文がここでも冴えている。「視覚は、なによりも早い」と映画監督デレク・ジャーマンが引用した15世紀のイタリアの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの言葉を挙げながら、そのあまりにも早い速度の危うさと、視覚にならない温暖化やフォールアウトの恐ろしさは奇形などが表れて初めて映像化されると警告する。

このドイツ初演を扱ったSWR文化波は、600人がフクシマ禍で亡くなり、今後一万人の犠牲者が予想されているとしている。土壌汚染を考えれば必然的な数字かも知れない。いわき市などは初期被曝が酷く、中通りでもカリウム置換等で農作物の汚染が100Bq以下に抑えられている。如何に犠牲者の数を抑えるかが予防処置として強く求められている。しかし、御用学者や御用メディアは日本国の核政策を更に推し進めようと躍起になって情報を攪乱しようとしている。

それ故に、余計に上の劇の意味が改めて大きな価値を持つ。我々が幾ら書いても至らないのは、この劇作家がジャーナリズム的な取材と視点を持ちながら言語化して言葉として綴るのは、福島の人たちの心の中の声であり不安であり、深層の心理なのだ。こうした芸術作品を通して、はたと私たちは、その現実を、そのブラックアウトの時を、初めて自分のものとして感じることが出来る。「この世界は無くなったが、今までになかったほど夜空に星が輝いている」、こうした殆ど吉本バナナばりの限られた文学的な台詞によって詩が語られる。こうして覚醒するのは他者でなく、自分自身なのである。

それにしても、新国立劇場の委嘱作の世界初演の記事がネットで一つも見つからない。一体これはどうしたことか?これほど被災者とそして福島に今住む人たちの心情に寄り添った作品がなぜ大きな話題になっていないのか?日本には劇文化などはないのだろうか?今、明日の事は分からない、知らないうちに世界は変わってしまっている。



参照:
お通夜のような顔ぶれの様 2016-01-12 | マスメディア批評
開かれた平凡な日常に 2005-12-30 | 文学・思想
フラメンコの巷のほこり 2005-12-29 | 生活
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
by pfaelzerwein | 2016-01-17 19:57 | 文化一般 | Trackback
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