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ギアーチェンジの円滑さ

楽劇「トリスタンとイゾルデ」第一幕を流した。前奏曲部分以外の楽譜を見るのは初めてだ。バイロイト音楽祭の初代音楽監督ティーレマンの言う通り、音で流れてくれると音符だけを追うのとは違って、その構造や流れがよく分かる。天才キリル・ペトレンコなどとは違って我々凡人にはそのようにするしかこうした楽曲では中々俯瞰が得られないのは当然なのかもしれない。

バレンボイム指揮の実況録音を流したが、それはそれで色々と気が付くところがあった。現役の指揮者として最も美しくこの楽曲を奏でる音楽家と思うが、意外にもテムポの変化が要求されるようなところでのギアーチェンジがぎこちないことに気が付いた。フレージングの山などを丁寧に作っているだけに余計にまるでギアーの良くないオートマティック車のようにその繋がりが良くないのに気が付く。ペトレンコ指揮などに慣れてしまうと、ここでというその瞬時の拍打ちの変化やそのヴェクトルの確かさをどうしても要求してしまうのである。

今回のお勉強の目的は、バーデン・バーデンでのサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏となるが、そうしたテムポのギアーチェンジは稽古において万全を期すことになるのだろう。パーカショニスト出身のこの指揮者がどれほどそうしたギアーチェンジにおけるリズムの変化を厳しく指導するかは、最近のフィルハーモニカ―などのインタヴューから漏れ聞こえてくることで、そうした指導が無ければあのハイドンの演奏などは不可能に違いないと思わせるに十分である。その分、歌手などにおいてはそれに乗って来れるかどうかが求められることで可成り酷な歌唱が強いられるのは当然かもしれない。経験のみならずそのオペラ指揮での評判の悪さはその意味からも裏付けされているようなものだ。

ヴァークナーの書物を紐解いていると、そうしたテムポの自在感に関しては、ベートーヴェンの合唱交響曲における指揮としてヴァークナー自身が書いていて、その旋律の山をどのようにフレージングしていくかなどの楽譜には表れないものとして解釈していたとする。勿論、楽匠自体はそのテキストのアーティキュレーションとそのフレージングの間で、また楽曲のこうしたギアーチェンジを出来る限りを記譜しようとしたのは当然の帰結である。しかし、その楽譜の意味するところを十二分に引き出すというのは中々難しいようで、前述のバレンボイム指揮の演奏でも歪なところが多々表れる。

反対に昨年のティーレマン指揮の演奏で語られたことは、アゴーギクとそのアクセルワークへの賛辞だったが、そうした演奏方法が上のギアーチェンジを円滑さを埋め合わせるものとして、真面な方法なのかどうかも、もう少し詳しく楽譜を勉強することで分かっていくだろう。そうした方法で歌手と共に妥協することに対しての見解も示す必要が出て来る。

ベートーヴェンの交響曲の演奏においては、表現主義という枠の中でそうした流れを正しく扱ったのは指揮者フルトヴェングラーであって、その解釈の頂点に位置したのだったが、ヴァークナーの演奏に関してはトリスタンの名録音以上に成功しているものはあまりないといわれるのは何故なのか、この辺りも今回のお勉強で回答が出せるかもしれない。(続く



参照:
バーデンバーデン復活祭まで 2016-02-18 | 暦
これからの予定に備えて 2016-01-28 | 生活
by pfaelzerwein | 2016-03-03 19:29 | | Trackback
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