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あまり機能的ではない展開

日曜の朝のラディオは日本での「閉じこもり」取材が流れていた。なによりも興味深かったのは、日本ではそれらを称して「機能障害」と診断するという言葉である。その単語はファンクションであり、まさに中共で言えば共産党幹部ということになる。要するに社会が機能するための歯車ということであり、それに不適応と診断するのがこの機能障害なのだろう。日本の社会はもはや追い付け追い越せでもないのに、そうした機能性が要求されているということの証であり、日本社会が真面な社会として落第であることを彼らの存在が示しているということになる。しかしその奥は深く、如何に日本社会が近代化の中で病み続けてきたかという事だろう。そして明治維新以前もその社会はあまり変わりなかったのかもしれないとすると、なんら可能性の無い社会となる。日本独自の社会が優れているとかどうとか以前の病弊のようなものだろう。

フランクフルトのアルテオパーでのプログラムが変更になっている。アンドレ・プレヴィンが自作自演でロンドンのシムフォニカーを指揮することになっていた演奏会で、恐らく動けないのだろう。バイエルンの放送交響楽団は、フランクフルトで演奏してから関空に飛ぶらしい。西宮で同じプログラムを演奏するようだ。

承前)引き続き「マクベス夫人」の全曲盤の残りを聞き通した。ストラヴィンスキー並に民族的なものも豊富に取り入れる一方グスタフ・マーラーのパロディーのようなところもあるが、基本的には表現主義的なものを狙っていて、そこが西欧モダニズムとして批判されたのだろう。場の通し番号も参考になるが、もう少し映像の資料なども集めて繰り返し調べてみたい。最後の最後までおいしい所が用意されていて、作曲家の才気を再認識するとともに、充分に楽譜が音化されていないのも確認した。可成りしっかり合わせないとグロテスクで終わってしまう所もあるので、初演からこの方もう一つ真意が聴衆に伝わっていないところがあるのかもしれない。この時点で具体的にキリル・ペトレンコ指揮に期待できるのは、なんといっても重なり合った音響での丁寧なバランスで、今までは聞けなかったサウンドである。それに値する創作をしているということでもあり、サイモン・ラトル指揮の交響曲の痙攣したフォルテシシシシモとは異なる柔軟な鳴りが期待出来るということでもある。ラトルなそうした楽曲の読みが本当に正しいのか、それとも解釈に過ぎないのか。

その意味からはこの世界初録音盤は限られた目的を達成している。また感じたのは1970年代のEMIの優秀録音でアナログステレオの完成期の録音の優秀さである。同時代のDGでさえも立派な録音が出ていた時代である。カラヤン指揮録音などはあまり良くないのだが、ここでは成功している。それでも効果音などの不器用な扱いはデジタル時代でなくても考えられないほど稚拙である。

ソコロフのリサイタルツアーが始まっている。シューマンの作曲技法に関心を以てその準備もしたいと思う。上手くいけば今回でシューマンのそれが大分分かるようになるのではないかと期待しているのである。あまり時間がないので参考素材など早めに集めなければ間に合わなくなる。いつものことであるが、付け焼き刃とならないようにしなければいけない。



参照:
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
笑ってしまう靴下の右左 2016-09-30 | 生活
by pfaelzerwein | 2016-10-31 20:25 | 文化一般 | Trackback
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