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楽譜が読めたならの持続力

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ショスタコーヴィッチ作曲「マクベス夫人」上演での覚書。その二幕五場への間奏曲「パッサカリア」へと、これまた神父のシニカルな看取りの歌から続く。それが、その前には毒殺される御舅のソロヴァイオリンに伴われるご臨終の言いぐさと、犯人のお嫁さんのとってつけたような泣き女風の歌へから導かれる。そしてパッサカリア主題を持った間奏曲での四分の三拍子の付点八分音符十六分連符の繰り返される音型が、和声的にもクライマックスを迎えて、今度は三拍目へと十六分音符からスラーを掛けられる情景へとこの音型が導く。恐らくもっともこの作曲家が奏でた輝かしい響きとともに、局面が移っている。

劇では性から死へと推移であるのが常ではあるが、ここでは劇の最終局面を先行した死から性へと、ここにこの音楽劇表現が凝縮している。ここでは夫人の欲望に、一幕の夢心地の性への憧憬の三拍子の情欲を想起させて睦の第五場となり、先ほど毒茸のスープで毒殺した姑の亡霊が表れる。この間の音楽的な途轍もない持続力は、この創作の演奏実践で恐らく今まで聞かれたことのないものだと想像する。

そのパッサカリアの間奏曲の澄んだ和声から、情欲のシンコペーション動機の相似としてのスラーの音型が発展してフォルテッシシモに再び至る音楽運びの鮮やかさにショスタコーヴィッチの作曲の才気の全てを聞き取れるのではなかろうか - 一般的に聞かれる一幕におけるエクスタシーへの音楽と果てるトロンボーンのようなグロテスクな表現は、ここでは舞台と同じく、暗示に留まり全く強調されない。なぜならばそこに大きな意味はないからである。強いて言えば、包茎の指揮者のような早漏ではありえない持続力であるということだ。

少なくとも今回のように正しく演奏される限りにおいては、殆んどジョン・ウイリアムスの映画音楽になるようなキッチュな音楽表現はここには見出されない。それどころか、その響きの微細さにおいてオペラの歴史の中でも類稀な持続と表現がなされていて、なるほど第一交響曲で世界的に注目された作曲家であるが、このまま劇音楽創作活動が続いていたならば舞台作品で同僚のベンジャミン・ブリテンを軽く超えていたことは間違いなかっただろう。

こうした音楽表現だけでなくて、若干筋運びなどは凝縮され過ぎている感もあるが、これ程緊張感が継続するような音楽劇作品があっただろうかと思わせる。歌わないときにも出ずっぱりの主役の夫人役のアンニャ・カムぺの歌もロシア語の響きを除いては見事で、その演技指導の細やかさとともに芝居的な緊張感も与えていた。

もう一つ面白いのは、そのパッサカリアの最後は手元の楽譜では上記連符の繰り返しはチェロによって弾かれているがどうもオリジナルはファゴットのようで、モーツァルトの「魔笛」ではないがまさしく男根をイメージさせる楽器が去勢されているようだ。今回演奏に使われたのは批判的な校正の最新の初演版のようだが、出版社の実力からして、それがどれほどのものかは分からない。それでも、依然としてその楽譜の読み方を見なければいけない。例えば件の三拍子のそれがロシアのリズムにおいて、ヴィーンのそれとはまったく異なって読み取られるときにも、通常のリズム感覚では決して読み取ることが出来ないことになっている。今回のような譜の読み方を見せられると、一体ソヴィエトで教育を受けたとか何とか言っている超一流指揮者と呼ばれるような人々も全く楽譜が読めない人々となってしまう。



参照:
氷点下の峠を攻める 2016-12-03 | アウトドーア・環境
割礼禁止の判決下る 2012-06-28 | 歴史・時事
by pfaelzerwein | 2016-12-04 19:26 | | Trackback
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