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対照とされる音楽劇場演出

承前ロストロポーヴィッチが指揮したマドリッドでの上演のTV放送録画があった。試しに見てみた。どうも翌年モルティエー博士が再びこの作品を取り上げているようで、新制作には今年バイロイトデビューをしたヘンヒェンが指揮をしている。録音や画像を悪さを通してもロストロポーヴィッチの指揮の悪さが甚だしい。技術だけでなく音楽的にも楽譜が読めているのかどうか怪しい。あれだけのチェロ奏者も指揮者としては三流であったことが明らかになるようなアーカイヴである。なぜあの年齢になってからこのような仕事を引き受けたのか不思議である。それには前史があって亡命とその後の「マクベス夫人」復興上演によって西側で経済的だけでなく政治的な宣伝としても任を担った背景があり、そうした過去を最後まで引き摺ることになったのだろう。

そして今回のハリー・クッパーのような演出でこの「マクベス夫人」を体験すると後を引く。同じようなことを感じた人もいるようでツァイト新聞には最近になってようやく批評を書いている。発刊回数の問題があるにしても時間を掛けて熟成させている。そして私が「新劇」と書いたことに対して、明白に「ブレヒト」を対照として挙げている。つまりその流れからのクッパーの舞台演出家としての仕事が現実化した結果としてこれを捉えている。舞台下に沈む陰の主役の音楽監督については絶賛していても、演出に関してはなかなか充分に書き切れないということでもある。

その演出と音楽に関して一つだけ挙げておくべきことがあった。それは当日の冊子にもあったように先ごろ亡くなった米国の作曲家エリオット・カーターがこの改定された作品の上演を1950年代にドイツで観て発した言葉である。それによると、旦那が知らせを受けて戻ってきて現場を抑えると直ぐに浮気相手と妻によって殺害される場面の音楽が可笑しいというのである。手元にある楽譜と今回演奏されている最新校訂版とは相違はないようだ。この作品で重要な役目を果たすBクラリネットの旋回音が鳴らす息途絶える音はあるのだが、作曲家の鋭い耳の評価は分からない。但し今回も初日のラディオ中継では「人形」と呟いたところで笑いが起こったようだ ― そもそもこの曲ではクラリネットからファゴットの使い方など固執しているような組み合わせや管弦楽法にも気が付く。その後は「手違い」が無くなっているので演出上の所作とかの改正でそれを防いだとみられる。批判した作曲家の真意は何だったのか?

知れば知るほどパロディー満載で、マーラーのアーダージェントならず愛のアダージョを、「ばらの騎士」のヴァルツァーなど恥ずかしもなく引用変容させているが、ここまで意味も無く遊びで多くの曲を書いている作曲家は珍しいのではなかろうか?そこが全くヒンデミットなどとは大違いである。そこまで気が付くとキッチュな映画音楽やその他のパラフレーズのような曲も同じ感覚での創作としか思えない。(続く)



参照:
電光石火の笑いの意味 2016-12-13 | 女
一様に誤解なく伝わる芸術 2016-10-26 | 音
by pfaelzerwein | 2016-12-28 06:29 | | Trackback
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