人気ブログランキング | 話題のタグを見る

美学的に難しい話し

引き続き寒気が居座っている。それどころか週の中半にかけてアルプス圏は大雪になるそうだ。ワイン街道に住んでいてよかったと思う。五月になろうかというのに冬タイヤが離せないなどとはシュヴァルツヴァルト周辺でも住みにくい。

だから、朝起きも辛く、ランニングの方もパンツを履いたままのジョギングペースから抜け出せない。胃腸の調子が完璧ではないのも寒さによる縮こまりが原因しているのだろう。暑いのは嫌だが、典型的な四月の天候でストレスが溜まっている。手足先なども冷えて、まだまだ靴下も必要だ。我慢して暖房を入れないとあとで頭痛がしている。

承前)週末に「タンホイザー」ドレスデン版を流した。そのEMI盤の演奏に関しては改めて付け加えることもなく、正直苦痛になるところも少なくはなかった。それでもその後の補筆やら死の直前まで気にしていた作曲家の逡巡のようなものをそのまま感じられたような気にさせるのである。もしかするとコンヴィチニー指揮のあの鈍いリズム感や演奏実践への配慮などが極一般的なドイツ音楽演奏環境の史実なのかもしれない ― 如何にフルトヴェングラー指揮の芸術が孤高だったかが分かり、本人がSWFで語っていた「指揮の才能があったから」が響き渡る。調べてみると、パリでの補筆で創作のロマンティックな不均衡なようなものに手入れされているようで、ベルリオーズが献呈された譜面に赤線を入れたり、また当時のシューマンの批評、更にどうしようもなかったメンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウスでの序曲演奏などに、「タンホイザー」の問題点が歴史的に傍証されている。

そもそもヴァークナーの初期中期のロマンティシェオパーに関心のない者にとって、「タンホイザー」が今ミュンヘンで上演される価値が分からなかったのだが、パリ版での楽劇「トリスタン」の直接的な音楽的影響以上に、ドレスデン版を扱うことで、そこへ向かう衝動のような流れがあからさまになるのではなかろうか?引き続き、パリ版とされるドミンゴがタンホイザーを歌っているシノポリ指揮の録音を聴いてみる。

版に関しても背後事情を調べると、かなり複雑でとても興味深い。これはどうも、先日探していたブライトコップ人民公社のハース版のミニチュアスコアがCD棚に見つかったブルックナー交響曲4番の版以上に、美学的に難しい話しのようだ。

ヴォルフガンク・ヴァークナー博士の書いたものによると、1985年にこの作品をバイロイトでリヴァイヴァルさせるにあたって、指揮者シノポリとドレスデン版を採用することに合意して、要するに1861年のパリ版の前の一幕冒頭のバレーを除いた1860年版を選択したということになるようだ ― 因みにコジマはバイロイト初演にあたって1875年のヴィーン版に1867年のミュンヘン版を混ぜたことになる。するとロンドンでのドミンゴが歌う1988年録音盤は1861年版採用ということになるのだろうか?(続く



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
by pfaelzerwein | 2017-04-24 19:18 | 文化一般 | Trackback
<< 力尽きそうになる石切り場 時間と共に熟成するとは? >>