胃がん風に表れる夏の疲れ

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土曜日は短くスピードコース、日曜日は峠攻めを走った。それだけなのだが腰が張っている。気温が関係するのかもしれない。そして短いコース二回ながらも四回も走っている。ここのところリースリングの酸も堪えたのか、それともストレスか、コーヒーでも若干胃に感じるようになった。毎年残暑に感じる胃がん状態である。少しホルモン不足かも知れない。デートにでも行かなければいけないだろうか、健康のためにも。

ネットで先週始めにヴァルター・レヴィン死去の情報が流れていた。新聞の訃報記事を待っていたが金曜日になってからだった。それも短めの記事だった。その時差が気になった。直ぐに書ける人がいなかったのだろうと思う。コッホ氏が纏めているが、やはり楽器を置いてから後のことに触れようとするとセミナーなどに参加していた人でなければ難しいのだと思った。私は一度だけ短く挨拶した程度だが、その教授風の人柄は直ぐに感じ取れた。

新聞記事は60年代末から80年代初めまでの初演の数々を挙げていて、録音としては新ヴィーン楽派全集やケージ、ルストワフスキー、リゲティなどを挙げている。最初の二つは愛聴盤であり、これは二十世紀音楽の代表例として人類の歴史的遺産であるに違いない。

そして1987年に四重奏団を解散してからのバーゼルなどでの後進の指導の成果は、今現在まだまだ開花している。アルバン・ベルク四重奏団を筆頭にそのラサール四重奏団から手ほどきを受けていない弦楽四重奏団は珍しいかもしれない。録音等で知られるところの声部間の透明性と後期のベートーヴェンで響かせた多声楽的な側面はまさに二十世紀の中盤の響きである。

技術的な面も含めて多くのレパートリーでは、アルバンベルク四重奏団の録音の方が優れていたり、若しくはジュリアード四重奏団の名演奏あったり、更にエマーソン四重奏団以降の世代の四重奏団の演奏した録音に取って代わられるが、上の全集の価値は時代の記録であり続けると同時に、私も最後まで手離せないLPボックスであると思う。

LPのステレオの溝の分離度とかがこれまた微妙な音盤文化なのだ ― 容赦ないデジタル録音となるとまた別のところに耳が行く。関連するかのようにトュイッターで小澤征爾が録音の声部の分離に疑問を呈した発言をしているというようなことを読んだ。事実関係は知らないが、これもなかなか面白い。要するにそこでは分離ばかりを考えると声部間の和音の累積が和声音楽として綺麗に響かないということであろう。

そもそも小澤の指揮演奏はボストンにおいてもその透明な声部が見通せる管弦楽演奏指揮に定評があり、それも最終的にはそれ以上の和声的な精妙さに繋がらないとして飽きられたと理解しているのだが、当時からカラヤンサーカス客演の節はそのアンサムブルと同時にカラヤンサウンドをも上手にパレットとして使っていたのである。そして今、所謂そのカラヤンサウンドが二十世紀後半の特殊な管弦楽サウンドであったというのが明確になってからその大量の録音が美学的に見て過去の遺物になって仕舞った経緯がそこある。それとはちょうど反対の形で上のベートーヴェンの演奏録音なども乗り越えられてしまうものとなっているのである。その反対に上全集のシェーンベルクなどはなかなかこれを超える演奏は今でも見つからない。



参照:
走り抜ける黄金の森 2016-11-06 | ワイン
初秋のメランコリーに酔う 2012-09-04 | 暦
ズタズタにされた光景 2007-08-10 | 音
袋が香を薫ずる前に 2005-07-14 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-08-14 21:08 | マスメディア批評 | Trackback
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