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身震いするほどの武者震い

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キリル・ペトレンコの管弦楽団への言葉を知って身震いした。彼が自兵の管弦楽団に「はっきりと正確に」と言うとは、そこまで来たかという思いだ ― 楽団員は武者震いしたのではなかろうか。音楽監督が、ホールの音響故にとは言いながら、ある意味究極の目標を示したことになる。如何に管弦楽団が曲を弾きこんでるかということだ。

そして弱音への表現の幅の拡大は、とても座付き管弦楽団の仕事の領域ではなく、それでも芯のある通る音を発するというのは器楽奏者にとっても声楽家にとってもとても高度な課題である。交響楽団においてもそれに近い弱音の表現はラトル指揮ベルリンのフィルハーモニカ―によるベルリオーズ演奏とかシカゴ交響楽団のもしかすると若干異なるがパリ管の演奏会などでしか経験したことが無い。オペラではベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―ぐらいだろう。

我々凡人が考える二歩も三歩も先を見据えているのが天才である。テノールのカウフマンは、「キリルは難しいことでもちょいちょいと簡単にやり遂げてしまう」と言い、バリトンのコッホには「この世界で生きていて本当の天才と思ったのは彼しかいない」と言わせるように、日本の聴衆は今回そのなせる業を目(耳)の当たりにしたことになる。オペラにおける弱音への試みは驚愕そのものである。想像するにいつか彼は、「日本デビュー公演はとても大きな成果があった。管弦楽団にとってのみならずコンサート指揮者としての表現の幅を広げるために、そして日本の聴衆の集中した聴態度には大きな示唆を受けた。」と語るのではないか。要するにコンサート指揮者としての管弦楽表現の大きな可能性を試したということになるのだろうか。

勿論今までも昨年のオペラ「南極」世界初演での繊細極まる管弦楽などは大きな効果を上げていたが、通常の奏法でそうした弱音の効果はオペラの特に奈落の中では更に難しい。なるほど新聞が書くように歌手が管弦楽に合わせて音量を落とすなどは前代未聞だ ― ブレーキを掛けるのはアリアであまりに力み過ぎる歌手を抑える位でそれとこれはまた違うだろう。

なるほどミュンヘンでの蓋の無い「指輪」上演で最も問題になったのはあまりに管弦楽が生に聞こえる事だったが、2015年の「神々の黄昏」再演ではダイナミックの頂点を「ジークフリートの葬送」に持ってきてとんでもない効果を出していた ― ティムパニーの叩きもあるがその音の充実度は、彼のフルトヴェングラー指揮で天井が抜けそうとされたようなもので、ショルティー指揮のシカゴ響などの軽い金属質のそれとは比べ難い凄みがある密度の高い深い響きだった。そして今回弱音の方にスカラーが広がったとなると、ペトレンコ指揮のバーデンバーデン上演までの最後の「指輪」も棄てることなしに出来る限り聴きに行こうと思った。南ドイツ新聞には、次の日本公演に関する会議が持たれるとあったが、新たな支配人の下でのこととなるので具体的な話しにならないだろうということだった ― アントニオ・パパーノが次期音楽監督とされている。

「タンホイザー」二幕において合唱がずれたと話題になっていたが、一幕や三幕とは違って歌合戦前は正対しての音楽的に緩い部分での合唱であり指示が明確に出されているので事故の起こりようがない、アインザッツの問題も重唱になる部分は、ソリスツとのアンサムブルで作品の要となるので、最も更っていて最大の注意が働いている筈だ。ここが決まらなければ台無しである。それもあり得ないと思うので不思議で堪らない。コーダ前での一小節でのアッチェランドどころの話ではない。するとエリザベートの歌の直前の掛け合いとなる。

そうした興奮冷めやらぬ思いで買い物前にボールダーに寄った。久しぶりに天気が良くて乾いていた。最近は腹具合も悪く腹の膨らみが気になるので全然ダメかなと思ったが、簡単なところながら全然悪くはなかった。寧ろパワーを感じたので乾燥度と気候が幸いしているのかと思った。その後の疲れもあまりなかったので、なかなか体重をベストに持っていくのは難しいなとも思った。



参照:
徹頭徹尾はっきり正確に演奏… 2017-09-26 | マスメディア批評
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
by pfaelzerwein | 2017-09-27 01:45 | | Trackback
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