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親しみ易すすぎる名曲

ブルックナー、メンデルスゾーン、「女狐」と並行してお勉強している。

ブルックナーの交響曲七番には実はそれほど親しみが無い。この曲は、不成功ばかりのこの交響作曲家の作品の中でも、初演、生前から成功を収めていた曲であり、現在でも最もポピュラーな交響曲として演奏回数も多い。その理由は、比較的コムパクトに構成されていることと、やはりなんといってもあの第一楽章の上昇旋律が永久に続くかのように響くことに加えて、第二楽章のヴァクナーヘの葬送のコーダーが書き加えられていることも、1884年ライプツィッヒでのアルテュール・ニキシュ指揮での初演時から注目されたのだろう。

それだからかは分からないが、そのホの調性と共にどうしてもリヒャルト・ヴァークナーの派手やかさのようなものを感じてしまい、更に二楽章第二主題での連桁の処理などの都会的で洗練された印象があるかもしれない。これは、どうしても時代的にユーゲントシュティールというのを憚るにしても、少なくとも髭文字活字的なもう一つ行くとジャポニズムの北斎的な彫塑の印象から免れられない。それらを締める葬送のコーダを入れてとても上手に創作されている。この辺りがポピュラーになる要因であり、ブルックナーファンにはよそよそしさのような印象を与えるのかもしれない。まさしくヴィーンの中央墓地の墓石などを想起させるのだ。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は名曲中の名曲で、好むと好まざるぬに拘わらずCD等が手元にある。先ずはブラームスの協奏曲のために昨年購入したムター独奏のフォンカラヤン指揮のものである。いつもこの20世紀を代表する指揮者の録音は楽曲勉強の参考にならないのは知っているのだが、協奏曲では更に酷かった。なるほど創作の書法のテクスチャ―までは描き出す必要も無く、「和声上の注意を促すだけでそれ以上に透明性を以って響かすなどは節度が無い」というような言い方も出来るが、この指揮者の手に掛かると全ては指揮者のために響いているようで、聴衆の関心が著作権者へと出来る限り向かないように尽力しているかのようにさえ聞こえる ― たとえ作曲者が小器用に筆を走らせていたとしても、そこに何らかの創造者の環境の反映があるということまでを読み取らなければ楽曲を解釈することにはならない。

これは、そもそもこの指揮者の専門である「名曲」というのは著作権者の手を遠に離れた、唯の意匠や素材でしかないということを立証している。時代性や趣味となどは別にして、やはりこの指揮者の演奏解釈はインチキでしかなく、それどころかベルリンのフィルハーモニカーの鳴りもその精度が想定されるほどには全く高くない。1980年当時のDG録音の評判の悪さと、その主要な管弦楽団の鳴りの悪さも無関係ではないように思った。

そのような使い物にならない録音と、それに引き換え全く期待していなかったネヴィル・マリナー指揮の伴奏でムロ―ヴァが弾いているものが思いがけなく良かった。その楽団にエキストラが入っているためか録音のための本格的な管弦楽団演奏になっていて、更に細かく楽譜を音化しているので、この故人になった指揮者を見直した。明らかにいつものセントマーティンの楽団の演奏とは違っている。

YOUTUBEで今回聞く初演者であるゲヴァントハウス管弦楽団が、ムターに付けているものがあって、クルト・マズーアが明らかにカラヤンの影響を受けた西側の指揮者とは異なる指揮をしている。晩年の公演であろうが、ムターの強度のアゴーギクにも合わせていて、管弦楽団も流石にオペラでもやっているような感じがよく出ている。巨体でも甲高い声を出した連邦共和国大統領候補にも挙がった指揮者だったが、なかなか器用なところもありそうで、なるほど伊達にニューヨークの音楽監督をやっていなかったのだろう。当時よりも管弦楽団も上手になっているとすれば、ブルムシュテット指揮での演奏会が楽しみで、中々合わせものは上手い管弦楽団だと分かった。二年前にはベルリン、アムステルダム、ヴィーンに次いで四番目の管弦楽団とされていたが、しかしこのヴィデオの時期では到底そのような審査対象にもならない。そしてブルムシュテットとシャイーの二人の指揮者の薫陶でそこまでの域にまで達しているとも到底思えないのである。



参照:
正しく共有されない情報 2015-09-08 | 雑感
ユダヤ啓蒙主義者の社会活動 2010-08-25 | 文化一般
小恥ずかしい音楽劇仕分け法 2010-06-06 | 音
by pfaelzerwein | 2017-10-24 00:50 | 雑感 | Trackback
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