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キリル・ペトレンコの十年

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2007年6月29日のターゲスシュピーゲル紙が面白い。キリル・ペトレンコの残されたインタヴューとして数少ない貴重なものだ。そしてその内容を読むとこの天才指揮者の今の活動の伏線の様なものが読み取れ、過去の十年から先の十年が想定可能となる。勿論相手は天才であるから量子的な跳躍までは我々凡人には予想もつかない。折角であるから忠実に訳しておこう。

ペトレンコさん、丁度コーミッシェオパーが上昇機運にあるというところで去られますが、本来は今こそ、過去五年間のお仕事の実りを摘み取ることも可能だったのではないでしょうか。

私は、辞めるのにこれ以上にまたとない時と思ってます。コーミッシェオパーがベルリンのオペラシーンでそのプロフィールが強化されたので、いい感じで去れるのです。そのプロフィールというのは、スターテアターではない、毎晩指揮者から舞台の裏方さんまでの尽力で出来上がっているという劇場です。最後の数年間は、市の劇場として本質的に求められているものに新たな感覚を注ぎ込めたと思ってます。そして聴衆は、ここに来てただ娯楽をするのではなく、一緒に考えなきゃとなっている。強い反応から拒否までそこでは想定されているのです。

その考えてみようというのは、先ず何よりも演出となって、その限りにおいてはですね、音楽的には別な結果を出すということにはなりませんか?

私のいつもの目標の最上位は、伝統やルーティンによって楽譜に溜まっている埃を取り除くことです。最後の新制作となった「微笑みの国」がとても良い例です。しばしばこの作品はポップ音楽に下げられて、いくつかのカットがなされて、テキストの厚いところでは管弦楽のパートも削られます。そこは、レハールの楽譜ではとても豊かな色彩とユニークなハーモニーがあるところです。それは、しばしばマーラーの、初期シェーンベルクをのも想起させ、宋チョン皇太子の動機は、殆ど「ヴォツェック」のように響きます。ですから、その深層を音化するのです。

演出からの影響を実践するということはありますか?ツェリカート・ビエイトの「(後宮からの)逃走」の激しさは、モーツァルトの響きとして尋常ならない過激さに反映されていたと思いますが。

あれは、寧ろ幸運な例で、上手くいきました。しかしモーツァルトの響きはヴィーンでの学生時代に形作られたもので、理論的にはニコラウス・アーノンクールのを批判的に研究したものです。コーミシェオパーでは、モーツァルトは可能な限り集中的に音楽を言語として扱い、その動機が、舞台上では全く語られていないのにも拘らず、溢していることです。エッジの効いた、透明なモーツァルトの響きにはとても満足で、この後五年間はモーツァルト休止にするつもりです。自身のモーツァルト演奏は恐らくその後は今ほど過激には響かなくなるでしょう。

古楽器の演奏実践は、指揮者キリル・ペトレンコのモーツァルトにとって重要なのか、それとも様式的にとても注意深いとされるのか?

それは本当に私にとっては基本的なことであります。ヴァイルの「マハゴニー」では、`20年代のジャズを聞くのです、昔のジャズです。古い録音で、とても重要な考えに当たります、しかしそれはドグマではありません。「ローゼンカヴァリエ」などは初演当時は今私が振るよりも間違いなく早いテムポで演奏されていました。細部まで明白にしようとして、しばしば遅くなることがあります。それでもきっとそれらの個所を今は再び早く指揮していると思います。自問自答すると、屡それが好ましいと思っているのですね。そのようなこともあって、コーミッシェオパーでは、「イェヌーファ」、「ローゼンカヴァリエ」とか「オイゲンオネーギン」などを何年かに亘って指揮して、そうやって自身の見解を発展させる機会を活かしました。(続く



参照:
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般

by pfaelzerwein | 2017-11-11 23:18 | 文化一般 | Trackback
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