人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ザルツブルク、再び?

ザルツブルク、再び?_d0127795_22203311.jpg
歌手のラッセル・トーマスが、ネット活動を、フォロワーを増やす為に、頑張ると書いている。今までは殆ど自身の書き込みをしてこなかったからで、キャリア的にも重要だとなったのだろう。今年の夏のザルツブルクのハイライトは「ティートの寛容」でのピーター・セラーズの演出だったと確信しているが、その中でも絶賛されたフランス人女性歌手や非芸術的な指揮者よりも、もし新生ザルツブルクがあるならば、アフリカ人歌手ゴルダ・シュルツや最も歌唱的に評価の低かったトーマスがその中心だったと確信している。

前者の方は大阪出身の中村絵里や先ごろ日本公演にも同行したハンナ・ミュラーに代わってペトレンコ指揮の最後の「指輪」に登場するが、トーマスの方は先日メトロポリタン初のアフロアメリカンの「ラボエーム」を歌っている。そこで、メトロポリタンで「黒人による黒人のためのキャスティングをやるべき」と書いていて、正直そのような社会状況は欧州にいるとよく分からない。我々からするとアパルトヘイトにしか映らないく、その主旨は想像するしかないのである。少なくとも同じく「寛容」にも出ていたワイヤード・ホワイトが先月ラトル指揮の「女狐」に出ていて、その出演を黒人云々を感じる人などはまれな筈である。

そもそもピーター・セラーズの演出自体は、そうした社会的な環境をも投影しながらの本質的な劇表現へと、その配役などを熟慮しており、各々の表現の可能性をとことん追求したことから、とても力強い演劇性をもたらしていた。その演劇性が劇場空間を取り巻くそのザルツブルクの環境へと広がっていくのはいつものことながら天才的と言わざるを得なかった。そこにこそ、初めてペトレンコの謂わんとする「考えてみる」劇場の娯楽を超えた、芸術的な価値があるのだ。

その中で、ザルツカムマーグートなどでの蛮行をバイエルンの放送局が伝えて、その舞台にそうした環境が反映しても不思議ではないと語ったのがこのトーマスであり、今繰り返しその終幕の終景の歌唱と演技を観ると、フランス人の歌唱などよりも、現地に足を運んでいないながらも、その歌唱とシュルツの終幕のシーンにこの夏のザルツブルクの集約されていたのではないかとの思いに至る。

余談ながら、来年度の夏のプログラムを見たりするのに、ログインしようとしたらパスワードを忘れていた。メールアドレスを入れるとしっかりと戻ってきた。更にパトロンの金額まで書いてあった、驚いた。パトロンを辞めてからしかネット申請はしていない筈だが、個人情報は活きているのかもしれない。しかし上の上演にしても少なくとも音楽的にはもう少しましでなければ、再び遠くザルツブルクまで日帰りするほどの気持ちは湧かない。バーデンバーデンに逸早くそこまでの芸術性を発揮してもらいたいと願わずにはいられない。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ピリ辛感が残る最後 2017-08-22 | ワイン
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
by pfaelzerwein | 2017-11-16 22:23 | 文化一般 | Trackback
<< 居心地もいけるかな 汲めども汲めども尽きない >>