永遠の歓喜に寄せて

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承前)週末に「アインドィツェスレクイエム」の二楽章までをヘルベルト・ブロムシュテットの解説で観た。二楽章では、葬送行進曲が勝利の行進曲になる。ここに来て初めて登場するヴァイオリンの、その音高が雨降りのように上から届き、主題が変形される。弱音付きの響きと、「肉が草になる」無常という同じ教会コラールの変形が響く ― 勿論、雨が降らなければ草は萎れる。

テイムパニーの三連符に注目する。それが上のコラールの大きな盛り上がりに鳴り響く。その交響的歴史と同時に、故郷スェーデンで聞いた反ナチの英国からの放送の思い出が語られる。そのロンドンコーリングのジングルとして、そこにも三連符が使われていて、迫り来るものと同時に開放の響きとして使われていたと追憶される。

そして「Aber」の叫びとともに救済へと勝利の行進へと向かうと、フーガとなる訳だが、その意味合いがこれまた適格に説明される。「フーガを何か複雑なもとと考えるかもしれないが、難しく考える必要はない」と、例えばそれは説教であったり、講演であったり、政治家が語ったりするとき、特に強調したいと思うことをどう表現するか?

「二つの方法があって、一つは声を大きく張り上げてみるとか、もう一つは繰り返すことだ。しかし何度も繰り返すとなると、正気を失ったかなと思われるだろうが、音楽においては物語を綴っていくことができるのだ」と。「それをフーガと称するのだ」と。

そして喜びの感激へと進むのだが、最後に再びティムパニが響いて来るのだが、もはやそこでは脅迫のリズムではなく、永遠に永遠にと引き続く。するとヴァイオリンが天から降りて来て、静かに静かに、それをして音楽芸術にのみなせることで、他の造形芸術などでは不可能な永遠性の表現とする。聞こえるか聞こえないように。それをして、平原に遥かに続く二本の線路を見るように、その二本が平行に続いているのを想像するのと同じだというのだ。それが永遠への想像である。「当然のことながら物理的な弱音の限界はあるのだが、聴衆は音が出ているのか出ていないのかまでを想像する」というのだ。

一楽章の最初は、低弦による永遠性のオルゲルプンクトであると、同時にその変遷を示すとなる。Selige sind, die da Leid tragenの最初のSの濁った響きと第二節の母音での慰めを、ルターの翻訳として評価する。ここは、明らかに今回のヴィーンの合唱団とのツアー公演では、そこの緊張感が充分に構築されていない。なるほど言葉のアーティクレーションの代わりに響きを作る合唱となっている訳だが、その下で管弦楽が出来る限りの仕事をしている。逆行形の主題の上行の喜びへと、ブラームスがあまり使わなかったハープも涙の下行、そして最後の慰めの上行へと、ヘ長調の平安の園へと至る。

このレクイエムの特徴である慰めと平安にも幾らかの不協和音のスパイスが散りばめられていて、甘ったるい危険な蜜のセンチメンタルは混ざっておらず、射影のある深い喜びとしている。その点でも嘗てのゲヴァントハウス管弦楽団とは一味も二味も違う演奏をしているのではなかろうか。その証拠に「我が管弦楽団」と呼ぶデンマークの放送交響楽団はとってもそこまでの演奏をしていない。東京公演の演奏を聞けば聞くほど管弦楽団が全てを支えていることが分かってくる。(続く



参照:
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-11-20 23:04 | 文化一般 | Trackback
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