習っても出来ないこと

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小澤征爾登場のNHKの朝番組を有料で観た。ベルリンに登場することになっていたが、誰も期待していなかった。前回のデジタルコンサートすら見ていない。ラディオ放送の内容で充分だった。しかしこのインタヴューには興味を持った。

小澤の語る拍子の難しさは、まさしく「とんとん拍子」と戦っている天才日本人指揮者の永遠の葛藤であり、喜歌劇「こうもり」序曲のニ分の二拍子の打ちは、今キリル・ペトレンコがミュンヘンで「コルセットの紐を締めるように」課題として指示しているものと関連していて、今し方聞いたバイロイトからの中継録音でも気が付いたことにも相当している。

なぜ先日の「ラインの黄金」であれだけ時短をしながらも反対にゆったりとしたリズムを刻めているかのまさしく歌手のアーティキュレーションを超えた音の流れでもある。それは後者では、「ヴァルキューレ」一幕で歌っているのは亡くなったボータであり、今週登場するカムペなのだが、カムペのまさしくテキストのデクラメーションと同じくする謡いぶりの相違でもある。要するにメトロノームは大切なのだが、それはただの基準であって、それだけで決まるのは大枠だけでしかない。

ヨハン・ボータを生で聞いてからもなぜあれほどに有名なのかは全く分からなかった。なるほど声もその質も役に合うのかもしれないが、既に2014年でも必ずしも充分ではなく2015年の録音も威力もない。なによりもここで話題になっている歌詞のそれがそこまでには至っていないので、言葉も聞き取り難く、カムペのそれと比較するまでもなく逆に自由度が全く取れていない。小澤が「度胸が要り、日本の音楽家などはおとなし過ぎる」と言うことになる。この場合は言語が絡んでいるので特に判断しやすいと言うか、それ以外にはないと言うことになり、オペラにおける歌手と指揮者の合わせ方の聴き所でもあり、ヤホの歌でも話題として触れた点でもある。まさしく、「オペラは、歌手の歌が上手いこと以上に、管弦楽が大事。」とする小澤の発言を奇しくもここ暫くここで触れているのだ。

しかし小澤ほどの才能があり乍らも、まさにトウサイ先生の下でその楽譜の読み方を修行しても、未だに苦慮して、それでも儘ならぬことが存在するのだから「天才の世界」であるというその通りなのだ。凡人はこうした芸事にはそれも職業として手を出すべきではない。教えて、習ってどうにかなるものではない。

「ヴァルキューレ」一幕の録音なども聞き始めた。NHKホールでのそれは、持ち歌の声とは違うのかもしれないが、クラウス・フォークトのそれは格別素晴らしかったと思う。あれほど立派に歌うパントラーコーヴァのそれがその領域まで行かないことと対照的だった。なによりも言葉のリズム感が違うので、ドイツ語の特にホッホドイチュの小気味よい感じが出ない。まさしくツェッペンフェルトの良さもそこにある。それが管弦楽にフィードバックされるのだが、そこはまさにヨーナス・カウフマンがペトレンコを指して言うように「ちょこちょこっとやってしまう」能力が驚異なのである。なるほどボータのそれは演出的にも受け身で、能動的なジークリンデがリズミカルに切り込んだのと対照的だったのだが ― 恐らくそこがパスキエ女史のアーティストプロデューサーとしての腕の見せ所だったのだろう ―、今回はもう少し丁寧に更に制御されたカムペの歌唱が聴けるのではないかと期待する所だ。



参照:
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
とんとん拍子でない帰還 2016-04-10 | 文化一般
WalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2018-01-16 22:07 | 文化一般 | Trackback
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