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伝承される文化の本質

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第二夜「ヴァルキューレ」二日目の放映が迫っている。一日目の記憶だけを書き留めておかないと、混同してしまう。細かな音楽的なポインツはメモしたもの以外には楽譜を見て行かないと書けないが、大まかなことだけでも挙げておく。

先ずは、聴衆の反応だが、「ラインの黄金」よりも熱かった。歌手陣も健闘したが、やはり最終的にはキリル・ペトレンコがいつものことながらみな持って行った。しかし細かく観察するとやはり前夜祭とは異なった。端的に言うと前夜祭は管弦楽への熱い反応と指揮者が五分五分の感じだったが、第一夜はやはり指揮者への熱い支持が圧倒的に聞き取れた。つまり、そこまで「演奏出来ましたね」以上にそこまで「やりましたか」と言うような、恐らく新聞紙上などでのそこまでの「必然性への質問への回答」を多くの聴衆が実感したということだろう。私を含む一部の聴衆は最後まで頑張ったので、明らかに控室でシャワーでも浴びようかとしていたニーナ・シュテムメが一人遅れて出て来る有様だった。その夜のスターだったカムペは一緒に直ぐに出てきたのと対照的だったので、その日の出来具合によっての楽屋裏での雰囲気がよく分るシーンだった。

やはり最後は数十人だったが、戻ってくる者も少なくなく、明らかに聴衆側の強い支持が感じられた。タンホイザー二日目よりも知的な支持だったと感じた。オペラ劇場の聴衆でどれほどの人が所謂音楽通かは中々計り難いが、その人達の音楽的な趣味の良さは素晴らしいと思う。その人達にとって、三回目の夏の上演は残っていても、一先ずオペラ劇場での「ヴァルキューレ」上演の到達した演奏実践への支持を聴衆の間でも確認しておく必要はあったと思う。フルトヴェングラーがベートーヴェンの演奏実践に終止符を打ったように、ペトレンコはヴァークナーの「指輪」の演奏実践に終止符を打つと考えていたかもしれない。とは言っても、第二夜「ジークフリート」そして第三夜「神々の黄昏」を通さなければと、私などは思うようになったが ― まさにそのように考えてペトレンコは指揮をしている、これは間違いない ―、恐らく後ろの二つに関しては前の二つほど2015年との差異はないだろうと思っている者も少なくないかもしれない。そもそも私自身もこの夜に賭けていた根拠はそのあたりにも存在する。

同時に夏に上演される「パルシファル」を考えるときに、先に書いたようなつまりクロード・ドビュシーが聞いたヴァークナーの楽劇の音楽的な真価を、その芽吹きをこの第二夜までに見つけたとすれば、これはこれでとても大きな演奏実践の成果と言えるかもしれない。キリル・ペトレンコのプロジェクトは、サイモン・ラトルのとても気の利いたプログラミングとはまたそのスケールの大きさで異なるのを、オペラからコンサートに跨り明らかに2018年はその芸術的比重が半々になっているような時、恐らく殆どが専門的な音楽通はそれを徐々に実感してきていると思う。オペラ上演では2017年がキリル・ペトレンコの頂点であったと思うようになった。

前半二つを終えて、楽匠の音楽歴史上の成果を、その劇作家としての匠と同時に、まさしく「過剰な分析」と言われるほどに示してくれたことに最大限の感謝するしかないのである。それは、一夜の娯楽な熱狂や昔話となる記憶ではなく、私たちの財産そのものである。なるほどその芯にあるのは、もはや録音されたり録画された記録の追体験ではない聴衆や演奏者の肉や血になるつまり伝承されている文化であり、やはりそれが音楽芸術のその芸術文化の本質だと思う。ペトレンコが「ライヴに来てくれ」と言うのは、まさにそうした伝達でしか伝わらない文化でしかなく、メディアの記録とはまた別な口移し的な演奏実践的な伝授を意味しているからだ。ラトルの若者への働きかけやその社会文化活動は知的文化的にも素晴らしかったが、ペトレンコのそれは楽譜の読み込みから始まって途轍もなくスケールが大きい。それをして本当の天才と言うべきだろう。



参照:
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
by pfaelzerwein | 2018-01-22 22:18 | 文化一般 | Trackback
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