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これからの大きな期待

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ネットの高速化が完了した。最高速度で51Mbps出ている。アップでも10Mbpsだから先ずはスタンダードな高速化は果たせた。何年ぶりのスピードアップだろうか。WLANの方も殆ど設置完了した。後は追々端末を組み入れていくだけだ。気のせいかルーターの伝送速度が速いのでキャスティングの音に実体感が増してきたように感じた。とても良い音がする。デジタル伝送のパケット化などでの有利性があるのだろうか?

時間が出来たので夕方早速デジタルコンサートホールに入った。一週間券を購入してから二月以上になるが、ネットの伝送速度が遅かったのでライヴはおろかオンデマンドでも最高速度では観れなかったからだ。そして先ずは来週までの参考資料として「パルシファル」のサイトを開いた。なぜか幕ごとに別れておらず、DLするのを断念して、一週間のうちに必要なだけ観ようと思った。それならばと4月のワンとペトレンコの協演のコンサートをDLした。そして、二つのインタヴューを含めて一通り観た。

とても良い出来だった。恐らく、昨年の「悲愴」のプログラムを含めて、ペトレンコ指揮のものでは秀逸だと思う。昨年の「名曲プログラム」もバーデンバーデンではよかったのだが、ベルリンではそこまでの出来ではなかった。なによりも今年は昨年のミスを招くような緊張感は無かった ― 指揮者の方は緊張していると語っている。そして前日初日ではワンも調子が悪く、演奏の精度もまだまだだった。

なによりもフランツ・シュミットの交響曲四番は圧巻だった。ヤルヴィ指揮のフランクフルトの演奏も前日のラディオ放送も知っていたが、弾きこめば弾きこむほど壮絶な演奏になる交響曲だとは気が付かなかった。特に二部の葬送行進曲はチャイコフスキーの悲愴やマーラーの六番と比べるまでも無く、若しくはベルクのヴァイオリン協奏曲など以上に直截でこれほど胸を打つ交響曲を知らない。七月に再演されるヤホの歌での「三部作」も同様、ペトレンコによって喚起され、長く忘れていたこうしたエモーショナルな音楽のあり方というのを再認識している。

ペトレンコ指揮の楽員への表情付けを待つまでも無く、フィルハーモニカーがこれほどセンシティヴに演奏するのを初めて見た。その後にバイロイトでヤルヴィの演奏をしているのでなるほどと思った。ペトレンコは短時間にラトル時代の硬直を一挙に解してしまっている。それほどオーソリティーがあるという事にほかならないだろう。そもそもこの曲はフィルハーモニカーへの課題練習曲でもあるのだ。

同様に二曲目のプロコフィエフでもまだまだやれるのは管弦楽団で、多くの批評でワンのピアノについての批判があったが、私は現時点で批判しようとは思わない。ワンのこの曲は完全に出来上がって仕舞っているからだ。これ以上、「棘とか何とか」勝手なことを書くが、二楽章のどの和音をどのようにという事だろうか?インタヴューで彼女は其れに関して予め語っていて、三楽章なんて簡単だとハッキリ言明している。批判するジャーナリストは具体的な例を挙げていない。

インタヴューをしているクラリネットのオッテンザムマーへのワンの返答が電光石火で、彼女の教育の高さを示している。それどころか「ハ長調だから簡単ってことは」とまで、ペトレンコの全体のプログラミングのカギについての議論にまで一言でコメントしていてその切れ味は鋭い ― 私と全く同じ言い方をしている。そしてペトレンコに関しては、「イスラエルで何回も協演したから、私のテムピを知っているから」とその主導権を言明していて、インタヴュアーは「我々管弦楽団がお邪魔するんだ」と突っ込んでいて、「その課題」を明白に言語化している。

これらのことは現場を少しでも分かる者ならば誰でも感じるのだが、どうも二流のジャーナリストと称する人種は、殆どシナ人ワンへの先入観念のようなもので音楽を聞いていて、なにもそこで行われていることに耳が開かれていない人が多いようだ。勿論その欠けるとされるものが本当に楽譜に書かれているのかどうかも確かめなければ批判とはならない。カーティスのような世界の頂点で揉まれてきたような人たちとその辺りのドイツの教育を受けた連中と比較するのが間違いかも知れないが、高尚な芸術を報じるならば少なくとも虚心坦懐に臨んで欲しいものだ。

一曲目のぺリを含めて、八月からの第二ラウンドが楽しみになるプログラムであり ― 「ラぺリ」にファンファーレの一曲が新たに加わる ―、ベートーヴェンプログラムの方が話題性はありながらもどれだけの成果を出せるかは分らないが、このシュミットの曲の絶対的な成功とプロコフィエフでの更なる精妙さはエポックメーキングなコンサートになると予想される。

インタヴューでペトレンコがフルトヴェングラーに言及しているのを初めて知った。こちらのインタヴューの方はそこが味噌だったが、ハルトマンとヒンデミットを挙げていて、それらは初演曲となるのだろうが、それらが核レパートリーとして顧みられていないことに言及すると同時に、フィルハーモニカーの本来の伝統という事について示唆している。これはここ暫く強調しているように管弦楽団で言えばカラヤン世代によって破壊されたドイツ音楽の伝統なのだが、先日のラディオ番組に聞かれたようにそこへの共通認識に欠けている現状がドイツにおける最も怪しいところなのである。兎に角、今回の映像を観て、来年以降は年間何週間かはベルリンで過ごすことになると確信した。



参照:
解像度が高まると 2018-04-14 | 音



by pfaelzerwein | 2018-06-19 19:01 | マスメディア批評 | Trackback
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