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ポスト儒教へ極東の品格

先日車中のラジオで、中国の今後のあり方として、儒教の可能性が専門家によって話されていた。しかし、同じ文化波の番組とは言ってもいつもここで扱うような高級な番組ではなくビジネス絡みの内容であった。

要するに、バーデン州にあるジーメンス社の売り払った部品工場を中共の資本が買い取り経営していると言う事象であった。何れにせよ中国の近代化の問題を、新儒教主義を触媒としてなんとか世界の中に取り込もうとする極東専門家?の考え方には驚かされた。

ここでも新儒教主義と呼ばれる日本の朱子学思想分析に関しては触れているが、そうした折衷のものでない純粋な儒教の利点を西洋文化との接点にしようとする試みには聞き耳を欹てたのだった。

同じように年末の新聞で、ここでもお馴染みのジーモンス氏が、北京からその現在の思想的な動きについて伝えている。つまり19世紀に始まった外界との接触がこの三十年においてあり得るべき方向が定まり、本年のオリンピックにおいて頂点に達するとの観方である。

アヘン戦争による列強から受けた屈辱と自己破壊については今更繰り返すことはないが、現在の状況を、「そこから稼ぐ収益よりもグローバリスム自体への懐疑が増大している」とIDの喪失への危機感を報じている。ここでも既に登場した俞可平教授は、「最終的には西洋が覇権を握り、中国の経済や文化的主権を侵すことになりかねない」としている。しかし、1922年に梁漱溟(Liang Shuming)が目指したような近代化とそして世界の中国化の理想が上のラジオ番組で示された道なのである。

つまりこれはシンガポールが行なったような方法であり、新華大学の汪晖(Wang Hui)教授によれば、これは西洋近代を別格視してアジアをそれに近づく古代の前近代と見做すことになると批判する。実際にはアジア貿易あっての西洋の資本主義化と言うのである。それどころか13世紀の宋朝の儒教批判をアジアの近代化の祖とする。勿論これは宋学のつまり朱子学の新儒教主義の起りなのである。

そのような西洋主導の世界観への抵抗と懐疑は赵汀阳教授においては、更に激しく現在の国連は明確な世界ヴィションを持っていないとして、結局はナショナリズムの勃興となるとしている。

それゆえに、「天下」の概念に表わされるように、中国が中国所以である軍事・経済・文化的な中心として存在する必要が考慮される。つまり、周辺国には野蛮な文化があり、天下を修めて「真ん中の帝国」中華が、ヘーゲルが呼ぶ「継続する帝国」となる中華思想である。それは19世紀の列強に曝されるまで、その正統性が儒教のその概念によって証明されていて、途中のモンゴル族による同じ概念での支配を経たことは、その概念がナショナリズムでないことの証明とする。そして、こうした考えこそが世界の秩序でありえることを示唆しているのである。

勿論ジーメンス氏は、上からの支配に下からの民主的な意思が天空にぶら下げられる形で抱合される構造に、独裁者を持つようになるものではないのかと疑問を投げ掛けて、現在の資本主義的共産主義におけるポスト儒教主義が、一つの世界の「天下」のモットーであるかどうかは、ごく一部のエリート学者によってのみ議論されているだけだと指摘する。要するに数限りない厳格な国の規制は、「その中国文化が世界のものとなるかどうかなどは、我関せず」にしてしまっていると結んでいる。

その「天下」とは、宗の新儒教での形而上の「理」が、「気」をもって政治化した状態を指すのだろうか。その朱子学から徂徠学を通して国学への流れをして、日本の近代化への芽吹きをそこにみてとるのは丸山真男である。

「近世日本の思想が単なる 空 間 的 な 持 続 に非ざる所以、換言すればその発展性を最もよく証示すると考えたからである。結局、日本における近代的なるものの持つ二面的性格、即ちその後進性(第一の論点)と、それにも拘らずその非停滞性(第二の論点)」を、各々の論点に従って「儒教思想の自己分解過程を通じての近代意識への成長とする」論旨を、カール・マンハイムの「イデオロギーとユートピア」を参考に浮き彫りにしている。

このように中国文化や後期スコラ派から宗教改革への流れと比較して、朱子学の連続的思惟によって束縛されていた政治、歴史、文学等の諸領域が夫々その鎖を断ち切って、文化上の市民権を得て、政治は「修身斉家の単なる延長」から「安民」へ、歴史は「教訓のかがみ」から「実証」へ、文学は「勧善懲悪」から「物のあわれ」へと、「花から実へ」と固有の価値基準を持ちはじめるときの、その自立性を「分裂の意識」としての近代意識としている。

そして「近代思惟の困難性は果たして前近代的なものへの復帰によって解決されるかという点」を、「市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代なそれの素朴な連続を受け入れることは出来ない」と、元来の儒教が持っていた形而上の合理性から天下に正当性をもつ国は聖人の道をもって治め、また事細かに形而下の人生論まで連続する壮大な教えに還る事が出来ないのは、なにも品格がとやかく言われる漢意を排した国学だけではないことを、ここに記しているのではないか。

これを執筆した二十歳台後半の時代を振り返って1974年に丸山は、その課題である「近代の超克」がしきりに論じられて、「先進国が担って来た近代とその世界的規模の優越性が音を立てて崩れ、全く新しい文化にとってかわられる転換点」におけるあらゆる知識人にとって「世界新秩序」の建設が使命であったと述懐している。それは、まさに冒頭にあった考え方の今日の社会背景かのようですらある。

ジーモンス氏が今日見返される歴史上の古代の思想に暴君への危惧を挙げるのと、丸山が全体主義的な社会での「古代信仰と儒教をはじめアジア大陸渡来の 東 洋 精 神 とが渾然と融合して美しい伝統を形成し、それが文化・社会・政治の各々の領域で歴史の風雪に耐えて保持されて来た。したがって、いまやわれわれの祖先の美しい伝統を 近 代 から洗い清めることこそが、 世 界 新 秩 序 の建設に対する日本の貢献でなければならぬ」とする当時の主張に対して書いたこの戦前の論文の意味は良く似ている。そして二人とも、一言も「民主主義」など薬にもしていないのである。



参照:
Alles Barbaren unter dem Himmel, von Mark Siemons, Peking 27.12.2007
丸山真男著「日本政治思想史研究」 - 
近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
by pfaelzerwein | 2008-01-05 05:05 | マスメディア批評 | Trackback
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