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誤りの自覚と認識

誤りを犯さない者はいまい。要は、誤りを自覚して認識出来るかどうかにかかっている。

些細な誤りに目くじら立てる必要は全くないが、自覚がないのは具合悪い。こうしてなにかを書いていても注意力の散漫からの誤りは日常茶飯であるが、誤りに気がつかない場合も多い。指摘がなければ、裸の王様状態でそのまま誤りが罷り通る。

その多くは、学説として証明されたり法として合意された正統性が確立している事象に対して、反論したりする訳でなく、容易に自らの見解から誤った説明を行なう場合であろう。その多くは、正当性を維持した体系の外側からある事象を観察したような視点に寄り添われることが多い。ここでも何度も言及、言い訳をしている門外漢としての発言であろう。

そうした観察の中には、それ故に常識の壁を破るような発想があるかも知れないが、その必要の全くない語学の文法のような例外多き掟も存在する。ドイツ語などでも注意しないといけないのが男性単数名詞や複数名詞の格語尾変化であり、なかなか面倒である。そのように注意しなければいけないと考える時に既に認識が生まれるのだが、端から気がつかなければ決して誤りの自覚も出来ない。こうせいする事は不可能なのである。

これは軽犯罪に当たるような事象であるが、こうしたものにこそ罰則や注意を与えると抑止効果どころか、それ自体が自覚を促す必要条件となるように思われる。誤りである自覚があるのか無いのかは、本人以外には理解不能であり、なんらかの認識があって、敢えて誤りを犯しているのかどうかは判らない。

反対に誤りとの意識があっても確信をもって行なうような罪も多く存在する。マッケイン候補は、先頃の上級審判断が「子供に対する暴力行為への極刑の可能性*を憲法違反とした」件で、「厳しい前提条件を設ける」オバマ候補をも批判したが、実際にはオバマ候補自らの著書**でも「死刑を容認」しており、今回の上級審の多数を批判しているという。ビル・クリントン大統領は、選挙期間中に精神薄弱黒人の死刑に署名したという。米国の死刑制度や拷問はアジアのそれと並んで中国人民共和国とアメリカ合衆国の社会事情が世界の人権の問題となっている。そして、極刑の確信犯には殺人を奨励するような法律が存在している。そうした殺伐とした社会には自覚や認識は生まれない。

面白い中国の話を聞いた。驚いた事に道路で唾などを吐くのは禁止されているという。20人民元が警告金として徴収されるのだ。ある男がそのとき監視員に咎められて、現金を求められた。生憎、その男は50人民元しか持ち合わせていなかった。釣り銭がないといわれて、その男は罵りながら金を渡してもう一度その場で唾を吐いてみせたという。

*ルイジアナ州では1995年以降再び「子供に対する暴力」に死刑が課せられている。これによる最後の死刑執行は1964年となっている。
**"The Audacity of Hope"


参照:
伊の大聖堂落書き (産経新聞)
鳩山法相のエキセントリックな怒り (tak shonai's "Today's Crack")
裸の王様、ビル・クリントン、黒人初の大統領 (虹コンのサウダージ日記)
by pfaelzerwein | 2008-06-29 22:48 | マスメディア批評 | Trackback
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