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個性が塗り潰された音響

アルテオパーでの演奏会は散々であった。兎に角入りが悪い。二階席は二割も埋まっていない。一階席は見ていないが四割に達していただろうか?

張本人はプログラムを作ったエリオット・ガーディナー卿である。ベートーベンのコリオラン序曲で始まりブラームスの交響曲で終わるなかに、それに合わせたルネッサンスからバロックの合唱曲とブラームスのそれを挟むものである。

手兵の合唱団と管弦楽団を引き連れての演奏会ならば、双方をもっと上手く使いたい。アンコールで合唱曲が聞かれたかどうかは判らないが主催者泣かせの芸術家先生である。もし経済的な負担が出たとするならば、今後は我々の会での登場はご遠慮願いたい。

さて合唱団を使った休憩前の六曲はそれなりに面白かった。バッハの一曲はブラームスのパッサカリア主題としての意味合いがあったのかも知れないが、それ以上に復古主義者ラッソーや取り巻き陣や弟子としてジョバンニ・ガブリエリやヨハネス・エッカルト、ハインリッヒ・シュッツを演奏したのは良かった。

当然の事ながらこの団体が、これらの曲をどのように演奏するかはバロック音楽レパートリーで馴染んでいる者にとっては分かっており、その機能和声を強く押し出す調性感はその指揮者の独特のアーティキュレーション感覚と共にお馴染みのものである。

予想通りブラームスの良く言えば緻密な和声は、これまたラッソーの殆ど宗教裁判官のようなドグマに塗りつぶされたようなそれを思い起こさせた。全く違和感のない響きが鳴り響いたのであった。

フルトヴェングラー信者の英国人指揮者であるが、ブラームスを弦楽奏者を前に立たせて演奏させる昔式の演奏形態にて示したものは、何だったのか?少なくともこうした演奏形態では、鋭く自然倍音を響かして鳴り響く管楽器なども、高弦のレースに囲まれるような感じにバランスが取られる。劣悪な録音からさえ聞き取れるフルトヴェングラーの響きの鋭さと繊細さの表現主義的和声感はこの指揮者から求めようもない。

各々の楽器の表現力以上に全体としての響きが重視されて、管弦楽団という無個性な楽器となり果てる。想像されるロマンテックな響きこそは近代精神の行きつく個性が塗りつぶされた「響きの世界」である事を教えてくれる。それは丁度、ラッソーが活躍した復古主義の社会の響きのような「ドグマの響き」に近いものかもしれない。

さてこうした金の掛かるプログラム以前に、こうした団体のドイツ音楽実践がドイツ音楽の先進国ドイツにて受け入れられるかどうかは、当日の会場の入りが全てを語っているのではないだろうか。



参照:
目の鱗を落とす下手褒め [ マスメディア批評 ] / 2008-10-07
ガーディナーのブラームス1番 (ガーター亭別館)
18世紀啓蒙主義受難曲 [ 音 ] / 2007-03-22
by pfaelzerwein | 2008-10-03 22:48 | | Trackback
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