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イリアスの発想の転換

午前中は熱っぽいだけで、咳が出ないので大分楽であった。咳が出て堪らなかったのは、ガレージを掃除した1995年だろうか?あの時は二月ほど続いて、癖になると言われた。今と同様脳震盪気味になったのだ。1993年産のヘアゴットザッカーの味は覚えている。それを戸外で飲んだ1994年の夏の天候も覚えているが、1995年のそれはあまり覚えていない。今年と似ているのかもしれない。兎に角、花粉だけでなく綿のついた種が飛び廻っている。目の痒みは相変わらず酷くはならないが、天気が良くなるとやはり咳が出て来るようだ。

熱っぽかったので、森の散歩を断念して、バルコニーで本を読むが、どうもこれもあまり身体に良くない。小一時間、久しぶりにラオウル・シュロット著「ホメロスの故郷」を開く。あまりにも内容が多岐に渡っていて、著者の講演会やホメロスの展示会に行けば行くほど興味の対象が広がってきて収拾がつかなかったのだが、やっとここに来てと構え方が分かって来たようである。言語学的な考察や意味論的な捉え方を含めて、現代文明を大気圏外から観察できるような視座に気がついてきた。多極主義の視点は其処にあると合点する。

一寸した発想の転換が必要であり、其処に至る作業は知的で学術的な思考を必要とするが、一度それを会得してしまうと、文明の歴史への視座を自由自在に泳ぎまわれるようになるのだろう。ギリシャやそれ以前の不思議な言葉などに違和感が解消されないながらも漸く本質的なところが見えてきた。繰り返すが発想の転換である。それは特に欧州文化の中でオリエンタルな源流へと遡って行く時にめくるめくようなタイムスリップが用意されているようで、こうした著作作業自体がとても人類の文化活動の粋と思わせる所以である。

現在のトルコ東域が扱われていると、どうしてもあのコメディー映画「メルセデス・モナムー」をどうしても思い出してしまうような貧困な想像力しか持ち合わせていないが、なるほどあの映画「メルセデス、わが愛」のラストシーンの大破するSクラスの痛烈な文明批判を理解するには、なにもPKKと行動を共にする必要はないのである。要するに現代文明への視座を自らの束縛から放つことは、表層的な多文化主義や白痴的な修正主義とは甚だ異なる将来への解決点を用意しているとみるべきである。

啓蒙主義者なら無知は悲劇というかもしれないが、無智はまだまだこれから新たな発想に至る可能性がある幸福に違いないのだ。


追記:パンを買いに行く時に車のラジオが作曲家ヴォルフガング・リームが仕事場でオペラ二ついての語りを毎週の音楽のインタヴュー番組としていた。やはり劇作家ボート・シュトラウスがテーマとなっていた。



参照:
出稼ぎ文化コメディー映画 2008-02-14 | アウトドーア・環境
欠けて補われる存在 2008-09-28 | 文学・思想
多極性文化土壌を求めて 2008-09-23 | 文学・思想
想像力を働かせろ! 2008-07-07 | 文学・思想
序 トロージャンの不思議 2005-03-17 | 数学・自然科学
by pfaelzerwein | 2009-05-03 04:56 | 文学・思想 | Trackback
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