舞台祝典とはこれ如何に

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承前)二幕においては月夜の枕もとのアルベリヒの場面から ― この演出では女を侍らせたハーゲンをしてMeTooと書かれる場面だ ―、 白み始め、日の出、ライン河面の輝き、屋敷、丘へと時間の経過して、光の具合が変わる。まるで教則本のようになるが、それをどのように楽匠はイヴェント毎に和声的にも綴っているかである。まさにそこが精妙に示された公演でもあったのだ。

三幕の狩りの合唱共にもう少し男性合唱は出来たかと思うが、2015年の時よりは纏まっていたかもしれない。バイロイトほどの人数が恐らくいないので、蓋の付いた奈落の管弦楽の競演とも異なり、蓋無しとしてはこれでよいのではないかと思う。しかし先ずここで触れておかないといけないのは三人のラインの乙女であり、これも以前中村絵里が歌っていたそれをアンサムブルとして遥かに超えていた。ノルンと共に大きな役目を果たしていたのは当然なのかもしれない。また2015年の配役を調べると、ヴァルトラウテは、前回まではシュスターが歌っていたようだが、今回は乙女から出世したノルンを引っ張ったフォンデアダメローでより柔らかい。小振りとの批評が多いマルクス・アイへのグンターを喰ってしまった言われるグートルーネ役のアンナ・ガーブラーもノルンから出世して特筆すべき存在で、今後お呼びが増えることは間違いない。そしてフィンケのジークフリートのモノドラマはとても大きなヤマを作っていた。恐るべき疲れ知らずの歌唱だけでなく、ここはとても重要な音楽で、懐古調のセンティメンタルから抜け出た音楽運びが本当のクライマックスへと繋げる。

そして「ジークフリートの葬送」は、2015年12月よりも早かったかもしれないが、バイロイトよりはゆったりとしていた感じだった。なによりもダイナミックスに注目していたが、完全に明らかに落とし気味で、続く三場に更なるヤマ場をもってきていたことは明らかだった。改めて過去の記録を調べると、なんと全く声が出なくて存在感の無かったブリュンヒルデは日本で有名なぺトラ・ラングだった。私は間に合わせの歌手だからブーイングも出ずに、最初から管弦楽が抑えめに合わせていたものと今まで信じていたので経験の豊かな人だとは思わなかった。あの人がブリュンヒルデを務めた前回の「指輪」と、そもそも小振りでしかなく体調が優れないとか書かれていてもシュテムメのそれではやはり月と鼈だ。

ニーナ・シュテムメの歌唱はやはり立派である。なるほど子音がはっきりせずに字幕を読んでいても音符しか聞こえないのは相変わらずだが、どうもこの人は体調が良ければヴィヴラートも全く問題なく制御して、声が出る人であることを確認した。要するにテクニックである程度はカヴァーしている人なのだと認識した ― ラングはそもそも声が出ないのでペトレンコが労わるかのように付けていても、その歌の構造がふにゃふにゃで言葉どころか歌の骨格が浮き上がらないので殆ど事故状態だった。あの長い自己犠牲を立派に歌い上げ、それにメリハリ良く管弦楽がフィナーレを飾っていた。とても美しい放射線が第三夜に、そして前夜祭からの大きな虹となってヴァルハラ落城に掛かっていたのである。そして彼女の歌唱は、誰かが「カラスのメディアの様」と評したがまさしくそうしたギリシャ的な様式感がある。

同時にペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践は慎重にミトースを捌いているのだが、もはや下らないアンティテーゼではなく、恐らく今回のクリーゲンブルクの演出のように楽匠の意図していたミートスの形式化相対化の正しい表現だと思う。否、エートスと対象化なのか。四部作を通して第三夜のフクシマの演出が乖離していると思われているようだが、あれは歴史的にバビルの塔のような本当に情けない世界の歴史であり、七年たった今それが明白になって来ていて、クリーゲンブルクの見識の高さを見直した。ペトレンコは、何時かイスラエルで演奏禁止となっているヴァークナー作品を実演することがあるだろうか。

余談だが、予定通りペトレンコ47歳のお誕生日の祝福があり、管弦楽だけでなくあの歌手陣による「HappyBirthday」の合唱がとても贅沢だった。流石に声が出る人たちが軽く歌うだけでも輝くソプラノだった。歌手陣も可能な限りの歌を披露して存分な喝采を受けた。シュテムメ、フィンケ以下皆がその指揮と指導にとても感謝したのは間違いないだろう。(終わり)



参照:
HappyBirthday, Wanderer (FaceBook)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-17 20:10 | | Trackback

零下7.5度の寒さを超えた

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灰の水曜日はこの冬最も冷えた。車の外気温表示が壊れていると思った。零下7.5度だった。そして森に辿り着くと、零下1.5度まで上がった。ついに温度計まで壊れたかと思った。しかし充分に寒く、期待した太陽は森の陰に隠れていた。青空で恩恵が殆ど無かった。走り出して直ぐに左足の膝に違和感を感じた。寒さである。何とか戻ってきたが、温まるとまでは行かなかった。

そして街へ戻ってくると再び低い外気温を指すようになった。明らかだった。冷たい空気が街に溜まっているのである。春ならば霜被害が出るところだろうが、まだアーモンドの花が咲き始めたぐらいで、葡萄には関係が無い。それにしてもこの気温差は信じられなかった。地元の公式気温計は山の上にあるので、この気温は出ていない。精々零下5度までの予測だった。

駐車場に先日から木こり仕事の案内が出ていた。前日は冷えた地面に十分な積雪があった。寒さも緩むと、そろそろ時期なのだろう。ヴァンダ―ヴェークが閉鎖されることが増える。そのご案内である。

冬のミュンヘン行が終わって、次はバーデンバーデンの音楽祭だ。その幕開けの「魔笛」を指揮したサイモン・ラトルの最後の登場ということで最後の販促を行っている。この二日間ほどで大分の券が掃けたようだ。ラトルのオペラや指揮以外のハーデング指揮やフィッシャー指揮の演奏会は29ユーロでもなかなか売れない。

そしてマガジンが届いた。「パルシファル」に関するインタヴューなどが載っている。こちらは、先ずは一通り楽譜を落とした。「パルシファル」は一昨年バイロイトのそれを聞くために落としたと思うが見つからない。新たにペータ―ス版を落としたが、最終的にはショット版を研究しなければいけないだろうと思う。

そして、ラヴェル「シェーラザード」、「ドンファン」、「ペトローシュカ」を落とした。流石にベルクの「初期の七つの歌」はピアノ譜しかなかったが、これで十分だ。まさかこれだけの資料が数分で揃うとは数年前までは考えられなかったことだ。バーンスタインは無くても仕方ないが、時間を掛けて探せば結構な資料が出て来ると思う。

要するに私のような人間でさえ一通り楽譜に目を通して出掛けるのであるから、新聞等に何かを書こうと思えばその手間を惜しんでいる者は殆どサヴォ―タージュでしかない。少なくともそれぐらいは最低の準備としてジャーナリストに要求されているのだが ― さもなくば貴重な紙面を酔っぱらいの殴り書きに金を払っているようなものだ ―、そして昔と今ではその便利が大違いで、同時にそうしたプリントメディアに物を書き糊を凌ぐ者への世間の目は更に厳しくなっている。分野に拘わらず、ジャーナリストになにも高度な解析などを誰も期待しないが、少なくとも職業人としての襟は正して欲しいと思うのが当然である。少なくとも金に群がったり、権力や権威に縋り付いているようなそぶりを見せれば、全面的に攻め立ててやるべきだ。そのようにしてしかジャーナリズムは健全にはならない。

今年は、「パルシファル」、「七番イ長調」とベルリンの前任者後任者の聞き比べが出来るのだが、そこに「ペトローシュカ」まで加わる。次の日曜日にテルアヴィヴからのYouTube中継がある。生中継は日頃試聴しているが今まで音楽を録画したことはない。それまでの間に同様の放送で様子を見てみたいのだが、イスラエルフィルの様にやっているところはあまりない様だ。調べてみたい。イスラエルは政治的に大変問題があるのだが、生放送を見ると何か分ることがあるだろうか?



参照:
爪先走りで膝を立てる 2012-08-16 | 生活
遊び心のエゴイズム賛 2007-03-08 | アウトドーア・環境
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# by pfaelzerwein | 2018-02-16 21:04 | アウトドーア・環境 | Trackback

バラの月曜日の想い

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承前)アンドレアス・クリーゲンブルクの演出にも触れておこう。批評などを読むと、そのコンセプトとなる構造を読み取るのは、風刺などと考える多くの人には一寸難しいようだ。もしかすると音楽的な構造理解度に準拠するのかもしれない。今回は座席も2015年12月に観た時とは視角も変わって、どちらにも死角があるので確証はないが、少なくとも最初のディスプレーで東北の大災害らしきが映されているのは気が付かなかった。冒頭のノルンの場は、世界中に報道された福島県の子供たちが防護服を着た男たちにガイガーカウンターを突き付けられている情景である。

予定調和の破局の向こう側にあるのがフクシマであったのだが、その後の情景にもフクシマ禍が描かれていることにもなる。勿論フクシマは、金に代表される欲望の世界の経済成長の資本主義の惨禍として捉えて、欧州同盟のユーロ批判の対象とされているとしてもしてもよいのだが、どちらも楽劇とは関係が無い。それでも、シェロー演出の資本主義批判よりも遥かに本質的な「指輪」解釈がそこになされていると思ったのは、前記したような音楽の流れが正確に実践されていたからに違いない ― 残念ながらケント・ナガノの音楽を完全に超えており、古い写真の入った当時のプログラムを態々買う気にはさせなかった主な理由である。

芝居としても音楽としても記録することには欠かないのだが、楽匠のテキストにも興味が向かった。一つは言葉遊びのようなジーク・フリートであったり、グート・ルーネであったりと所謂「おやじギャグ」を書き込んでいるのだが、そこに留意をすると、見えて、聞こえてくることがあった。これは昨今の字幕のお陰であり、何度楽譜を見ていてもシラブルが切れて読み切れていないことが殆どだ。要するにテキストが楽譜の読みの助けになるということもあるに違いない。それは、構造主義的な読みとなるだろうか、そうなるとブーレーズの演奏実践が外していたものを、もしかするとペトレンコの譜読みをこれが特徴付けるかもしれない。

劇作としての面白さに、二幕の隠れ兜を被ったジークフリートが兄弟杯を交わしたグンターに変身してブリュンヒルデの岩山に到達して、征服する場面がある。その複雑さについては既に触れたが、これに関する話しを往路の車中で聞いた。折からのカーニヴァルでの仮面についての話しでフライブルクの教授は質問に答えて、「(アレマンの仮面の行進が)異教の影響というのはあれは間違いで、それはプロテスタントが古いカトリックの影響を落とそうとした」解釈だとして、「例えばロットヴァイルの悪魔でない善のお面は、バロック以前のもので、まさしくルネッサンス時代のカトリックのそれだ」と言明していた。そして、「仮面を被ることで仮面の下の社会的なそれを超越する本性を示す」こともこの仮面の文化としていたのだ。それをこの隠れ兜に重ねて観察することは決して無駄ではないだろう。勿論私たちは、楽匠自身のテクストを通してそれを如何に音楽化していったかの経過とその読み取りに関心があり、それがどのように音楽実践されるかを批評しなければいけない。因みに、この舞台では全面舞台縁に前向きに立ったブリュンヒルデと舞台奥にその背を眺める兜の黒っぽい男がこちらを向いて立っている。この演出の幾つかの映像映えする場面の一つである。

楽匠の関心が、「タンホイザー」でも、ここでも、また「パルシファル」でもそうしたドッペルゲンガー的な人格を描くことでその方面の関心に向かっていたことはたとえそれが劇作的な手法であったとしても無視できないであろう。同時にこの四部作では、それが空間的、時限的なパラレルワールドへと通じていることは繰り返すまでもない。舞台祝祭劇と命名された所以である。その意味からクリーゲンブルクの演出が、前夜祭から第三夜まで一貫して、文字通り人海(まさにラインの波や炎などであるが)を使いながら、見えない世界を「もう一つの事実」から浮かび上がらせている。(続く



参照:
アレマン地方のカーニヴァル 2005-02-07 | 暦
非俗物たちのマスケラーデ 2005-02-08 | 文学・思想
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-15 17:32 | | Trackback

ミュンヘンのアラキー

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ピナコテークデアモデルンで、ゲオルク・バーゼリッツの特別展示を覗いた。記憶は無かったが1986年に訪問した。当時は所謂クラシックなものにあまり関心が無かったので、肝心のアルテピナコテークだけは入っていない。そして今回も時間が無かった。情けないが、駐車場や日曜日の割引を使えばミュンヘン詣での序に機会があるだろうか。

観光客も多いが、地元の人はアラキーを求めてきている人が多かったようだ。写真にあるようにアラキーのパネルにおばさんたちが見入っている。荒木と言えば我々世代には、ビニ本収集の小室直樹と同じように東京の深夜番組の常連だった。サブカルの人である ― そう言えば山本信也も中央線沿線で見かけた。おばさんたちがどのような感興でそれを見るかは知らないが、世界のアラキーになってからその受け入れられ方が分からなかったので、腑に落ちた感じで、アラキーの展示物を入り口で探し、それに見入るその人達の方が鑑賞対象になった。

その他の展示は、ロ-トレックやマティス、キルヒナー、ピカソなどに混じって、ボイスの展示もあったのだが、規模からするとヴィースバーデンのそれには到底及ばないような気がした。兎に角、昼飯の方が重要なので流した。やはり、バイエルン王室ヴィッテルスバッハ家の美術品は当然のことながら王権を失うまでのものでなければあまり価値が無い。例のルートヴィッヒス二世がどのような美術品の中で育ったかなどは、勿論レジデンスの方の展示にもあるのかもしれないが、家族の美意識はアルテピナコテークを訪問しなければ分からないかもしれない。

さて肝心のバーゼリッツのカビネット展示だが、結論からするとあまりにも小さなもので1ユーロの日曜日割引でなかったら文句が出たろう。それでも本物を見ることで印象はついた。連邦共和国の国宝法の強化に反対して、自らの作品のを引き上げて、ザルツブルクへと移住したという俄かオーストリア市民である。八十歳の記念にパトロンでもあるフランツフォンバイエルン公爵のコレクションが今回展示されたようである。6月上演の「パルシファル」の美術を担当したことで、今回も初日には公爵とバーゼリッツが王のロージュに並ぶのだろうか?私もディナージャケットを着て行かなければいけないかもしれない。

古い1960年代のものはモダーンで、輪郭がハッキリしないものなのだが、1980年代のものは文字が書き込まれている連作や、また色差見本のようなものがあった。当然オペラのそれは最新のコンセプトで来るのだろうが、文字だけはやめて欲しい。ただでさえ情報量の多い舞台神聖劇で更に文字情報が加わるのは御免だ。演出家もあまり信用の置けそうなことを語っていないので、その仕事ぶりには懐疑的なのだ。その点、バーデン・バーデンのディーター・ドルンの方が安心だ。

バーデン・バーデンで、ツェッチマン女史、クヌート・ヴェ―バーのベルリンのフィルハーモニカ―を迎えての記者会見があったようだ。第一報を見るとやはり2019年はオテロ上演で、指揮者は三月になって発表と言う。誰になるか分からないが、ムーティが断ったことまでは最初から知られていたが、それに匹敵する人でフリーの人は誰だ?イタリア人では浮かばない。ズビン・メータしか浮かばない。これならばと思う人も居ない。安ければとは思っても、主役を昔のドミンゴ以上に歌える人もあまり浮かばない。シャイ―ならばと思うが、時間がある筈がない。もしかすると先日メトで名前を見かけたロベルト・アバドぐらいなら一度聞いてみたいと思う。まあ、どちらでもよいなと思う。

肝心のキリル・ペトレンコは、どうも登場するようだ。それも「オペラ指揮者としてのバイエルン音楽監督は違う背景」を強調して、「新たな魅力」というのだ。それ以上は秘密で、ただ「ペトレンコは、祝祭劇場の音響にとても魅了された」と付け加えたのが味噌だろうか。

「違う背景」で余興でピアノを弾くとは考えられないから、また昨年同様の通常の交響曲を並べる訳ではないだろう。つまり音響を駆使した作品且つミュンヘンのアカデミー演奏会では取り上げないような作品となる。バロックなども片手間では出来ず、20世紀の作品ならばある程度モニュメンタルでなければ話題性にも乏しい。ああ、そうか、マーラーの八番はミュンヘンではやらないかもしれない!ギーレンの指揮で聞いた印象では音響的に問題ないだろう。「グレの歌」まで勉強する時間は無い筈だ。ここまで推論するのに三時間ほど掛かった。

すると、2019年4月21日の復活祭に「千人の交響曲」、その前の3月頃か、6月末に「トリスタン」上演か?またオペラフェストになる。また並ぶのか、仕方ない。カムペがベルリンで既に歌っていることからすれば、自然な成り行きだ。2018年8月末オープニング、小演奏旅行、9月末の「マイスタージンガー」に続いて、10月マーラー、12月暮れに一つ目の新制作か?インサイダー情報も何もないところで、これぐらいの予想が精々である。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
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# by pfaelzerwein | 2018-02-14 19:14 | | Trackback

細部から明らかになる

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熱狂的な歓声が響いた。それは事実だ。そして最後まで執拗に呼び出す何時もの人たちがいた。私たち数寄者である。四回の公演を顧みての喝采である訳だが、やはり最後は予想以上に纏めてきていた。その一つは、ブリュンヒルデを歌ったニナ・シュテムメだろう。初夏の「パルシファル」での登場もあるので、「ジークフリート」までの出来では期待が高まらなかった。少なくとも私自身は、彼女の歌唱を生で聞いて、幾つかの不満点が残った。聴衆はもう一つの成果を求めた。そのような塩梅だろうか。あれほどの名歌手になっていても、最終的には会場を唸らし喝采を浴びなければ駄目な世界なんだろう。

この落日二日目は、一回目の上演でキャンセルをしようとしていたのに登場して大向こうを唸らせており、それを新聞も扱っていたので、「言い訳無し」の大一番であったことは知れた。少なくとも序幕の愛の二重唱からの歌唱に、こちらは我を忘れて仕舞った。声も素直に出て明晰な高音を発声するのである。こんな音楽劇場体験として経験したことが無い高揚感のある歌唱で、本当に生で響いたのかのどうか不思議な気持ちにすらなった。すると不思議なことに洟がぽたぽたと垂れてくるのである。どうも交感神経が緩んでしまったようである。頻繁に日本のクラオタさん達のなかでは直ぐに泣く話が出るが、洟が出る話はあまり知らない。どうしたのかと思って、幕が終わると洟をぐずぐずさしているのが前列中央方向から聞こえた。あれはあっけにとられたというか、全く涙どころではない場面であり、そうした感情とはこれは関係ないのだ。要するにショックとか何かそういうものに近い。それはどうもこの楽劇の全体の枠組みにも関係するようである。

そして、その直前のノルンの三重唱の音楽の網の目を透かすかのような精密と同時に気配のある響きと歌唱も素晴らしかったが ― 一日目の新聞評にもあるように、断言できるのは2015年の暮れの上演ではなせていなかった精度であり、まさに指揮棒から赤い糸が張り巡らされている様だった ―、なんといっても続く夜明けの音楽には度肝を抜かれたのだ。このように正しく演奏されれば完全にドビュッシーの「海」の日の出に匹敵する創作だと分かったからである。これはバイロイトの奈落でも難しく、2015年ミュンヘンでの演奏でもそこまでは至らなかったものだ。管楽器、弦楽器、發弦楽器、打楽器群が有機的に各々が音を選んで演奏しないことには生じない響きである。その効果が生じているのは全編であって、そこだけでは決してないのだが、各々の楽器奏法の所謂ノウハウが集結されている。超一流交響楽団が当然の如くしていることなのだが、劇場ではいつもの効果音程度のこと以上はしないものだと一般的に思われているところである。

その具体例としてアーティキュレーションがある。一番音色との関係で分かり易いのが木管群であるが、それらがレガートなのかノンレガートなのか、更にどのようなリードで吹くかで、ソロでなくとも音色が変わる。それらがいつも完璧に成功しているかどうかは判定不可能でも大変留意されてていることは明らかなのである。同様に低音楽器がスタッカートに刻むかヴィヴラートで響かすかで全く音響が変わる。そうした備えがあってこそ、しっかりと指揮することで愁いを以ってもしくは鋭く響くサウンドが最初から最後まで鳴り響いたのだ。

こうして小さな動機を通して振り返って見ていくと、そうしたアーティキュレーション上の特徴が、ファフナーの動機やもしくは鍛冶の動機若しくは隠れ兜や契約の動機、またラインの波に角笛の動機など何を挙げても構わず見て取れる。それらはレガート系やノンレガート系など大きな区分けも出来て、その中でも気になっているのは巨人の動機が再び最後に出て来ることである。

二幕で問題となっていたアルベリヒの木管などは音量的にバランスを取るというよりも正確に吹かせるようにしっかり振っていたのだろうと思う。つまりそのシンコペーションの基本リズムを精査することでバイロイトの奈落の時の様に突出してしまうということが無くなるということであろう。全く違和感が無かったどころか、寧ろそうしたが故意にぞんざいそうに吹くその響きへと余計に注意を促すのであった。そのように楽匠が書いているのである。当日はまた別のオーボエソリストが入っており、第二コンツェルトマイスタリンは何時ものおばさんだった。

そうした細部から一体に何が明らかになるかというと、要するにそのように夫々の楽節がそうあるべきに響くことで、そこに時間の経過と言うか、変容が示されていることに気が付くのである。例えばノルンの運命の糸はそのもの時の継続と断絶であり非連続な破局を予告する。そして暁となり、河の流れとなり、または平地から森、岩山、暗闇から光、炎、金から指輪などとなる。これらが一挙に終局へと向かって流れるのがこの第三夜である。(続く




参照:
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-13 19:38 | | Trackback

山場を越えた安堵感

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ミュンヘンから無事帰宅した。安堵感と同時に充実感もある。四部作「ニーベルンゲンの指輪」のツィクスルAから精々二回ほど出かけるつもりで、一回当たり13ユーロの52ユーロの件を購入した。ネット販売システムの以前のアルゴリズムの時で、最初で最後の裏技購入であった。そして目当ての「ヴァルキューレ」の翌日の特別発売も購入の目的の一つだった。だからツィクルスで4回の往復する心算は無かった。しかし、前夜祭に行くとその熱気と特別な出来にもはや休めなくなった。

それでも700㎞を四回、冬場に車を走らせるとなると、とても計算が出来なかった。結局スキーを兼ねることは無かったが、二回宿泊して、一回ピナコテークデアモデルンに出かけた。外食は、四回ぐらいだろうか。

最後の一回も降雪が予想されたので、美術館訪問も兼ねるとその強行軍は割に合わないと思い宿泊にした。日曜日から月曜だったので39ユーロの部屋があり、先に手配しておいたので全く問題が無かった。川の写真がネットにあったのだが、空が白ばんで、窓の外を覗いて驚いた。窓の外に川が流れていた。静かだったので気が付かなかった。数十メートル先に小さなダムがあるのでその下は少し騒がしそうだ。その分堰き止められた上流は静かに流れていた。まるで黒沢映画「夢」の最終章のようだ。

往路は予想以上に乾いていて、ミュンヘンの街に入って初めて路面が濡れていたぐらいで、陽射しが射していた。これならば全く問題が無かったのだ。それどころか美術館に出かけるにも靴を履き替える必要が無かった。時折小雪が舞っていたが、比較的穏やかなミュンヘンだった。

しかし、期待していたピナコテークの駐車場は一般には閉鎖されていて使えなかったので、駐車場を見つけるのに大分周りを走った。そもそもピナコテークを見つけるのに時間が掛かった。ミュンヘンの旧市街周辺はやはり複雑だ。それでも歩いて数分のところの駐車場に入れた。

そこまで、朝7時41分に車を動かしてから、途中いつものところで車を止めてピクニックをして、ホテルのレセプションに立ち寄って、美術館に入ったのが12時15分ほどで、食事をして、駐車場から車を出したのが14時30分過ぎだった。燃費は可成り良く、市街に入るまでは半分以上残っていたのだが、駐車場を探すまでにある程度消耗していた。

劇場の駐車場に15時過ぎに入れて、食事をしてから23時過ぎに車を出すときにも小雪が舞っていた。路面も融雪が重かったので、翌朝を心配したのだが、陽が昇ると青空が出てきて、路面も前夜よりも乾いていたので走行に問題の無いことが分かった。案の定、明るい陽射しの反射が眩しい中をゆっくりと走らせたので、無給油で帰宅可能となった。燃費も復路としては大分よかった。復路は高地ドイツからライン平野へと下りになるのだが、いつもは夜道を吹かすので燃費が悪い。その分お得だった。

なによりも前の晩の市街地でも雪がフロントガラスに当たって乱反射して見え難かったので、宿泊無しの帰宅は堪えたと思う。劇場をはけたのが22時過ぎであるから、帰宅していても未明1時半は過ぎていた。ベットに入るのは明け方だったろう。なによりもかなり疲れていたと思う。朝5時半に起きて、よく明け方までの一日は長過ぎる。

車の番号札のライトの一つが切れたが、これは警察に指摘されない限り問題ではない。自分では球を替え難いようなので、次のインスペクションまでもう少し時間稼ぎする心算だ。復活祭前後になるだろうか。それ以外はエンジンオイルを消費して、また路上駐車するので洗浄液に氷化防止剤を入れたぐらいで、どこかでスピード違反とかしていないならばその点では損失はあまりなかった筈だ。兎に角、車が動かなくなったり、積雪で交通がマヒしたりすると、近くならばなんとか都合がつくがミュンヘンまでとなると、やはり覚束なくなるのである。その距離はやはり大きい。

次のミュンヘン詣では6月の「パルシファル」の予定で、今回の四回を入れると、回数からして残りはもう少なくなったかもしれない。個人的にも大きな山場を越えたという感が強い。



参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2018-02-12 22:43 | 雑感 | Trackback

論評できない異次元

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承前)オペラの世界に引導を渡す天才指揮者と、何かを更に繰り返していこうとする愚鈍二流オペラ指揮者との世界を同次元で論評することは不可能だ。こうした高級一般紙が紙面を割いて伝える場合は同じジャンルの話しと見做されてしまうのが具合が悪い。

なるほど高級紙として、楽匠が考えていたような開かれた世界が911以降に変わったと書くが ― ティーレマン指揮をベルリン時代から何度も聞いてきたと言い ―、この指揮者が変わったなんてことはあり得ない。その後のPEGIDAへの参加など以前に、この新聞紙などと挙って我々は彼を攻撃している訳だから、そんなものではない。

しかし先の南ドイツ新聞の内容と、FAZの内容を一方の批評に充ててもそれほどおかしくはないのである。例えば今まで気が付かなかった管弦楽団のラインをとか、歌声と一体になった管弦楽とか、プッチーニなどベルカントと違わない感情的な音楽などであるとかである。最後のは例えばそれをドイツ的感情とすればアンナ・カムペ示したジークリンデの歌唱そのものだ。しかし、「嘗ての戦車仕立てとは違って傷つきやすいメランコリーと柔らかく流れる音楽を奏でる」と評されるオペラ劇場指揮者と、天才指揮者のそれを入れ替えようがない。「全ては総譜である」としても、結局はシュターツカペレの専売特許に乗っかっているという風にも読み取れる。要するにこの書き手は音楽を知らないクラオタのようなジャーナリストに違いない。そもそも、よりによって、「ヴァルキューレ」の死の予告の前の所謂「運命の動機」に纏わるところを挙げて、そこはヴァルキューレの騎行や森の囁きやラインへの旅のような管弦楽の目立つところではないなどとぬけぬけと書ける程度の音楽教養しか示していない。

なるほど、その場面を楽譜以上に強調する可能性はオペラ劇場ではあっても決しておかしくはない。そこが問題なのである。名曲をそれらしく鳴らしたり、大衆の期待に沿うように響かせることは罪ではないのだが、議論はまたそこにある。つまり最高品質の娯楽を提供するような指揮者ムーティなどがセンス良く響かすものへの許容と賛辞との大きな差異、またソニーレーベルの才能あるカラヤン二世が非音楽的に響かせることへの拒絶以上に否定し容易いものでもないことが、まさしくAfDなどの修正主義紛いの政治主張を否定することの難しさと相似なのである。

それでもバイロイト初代音楽監督の四部作を聴き通した感想として、宇宙の一部となり、漏らすことなく全てに合一化されるという感覚はキリル・ペトレンコのそれからは生じないだろう。ミュンヘンの方はドレスデンとは違って、場合によれば、上手く行けば行くほど醒めていく感覚も無きにしも非ずで ― 誰かが東京公演に接して漏らしていた感想でもある ―、必ずしも熱狂渦巻くということではありえない。コンサートの純音楽的な興奮とオペラ劇場のそれは違うということである。

宜しい、高級紙にも拘らずシュターツカペレから昨年は16人の弦楽奏者と3人の木管奏者がバイロイトの奈落に入っていたとか、どうでもよいことで貴重な紙面を汚しているのだから、それ以上には期待できない。しかし、なにも市場としてのオペラ劇場だとか、社会的な音楽劇場だとかの考察とは別にして、この人たちつまり少なくないこうした演奏行為を支持する人々の存在こそが書くべきことなのである。それは政治的に言えばやはりAfDとかの支持層に重なるものであり、要するにその人達の文化的感性であり、好意的に見ればライフスタイルの問題なのである。

なるほどそこで書かれていることの幾つかはなるほどオペラ劇場が音楽文化として伝えてきたもののひとつであることも間違いなく、それが19世紀のビーダ―マイヤー風であったとしても一概に否定されるべきものではないであろう。しかし、そこには社会の病理がある。なるほど、キリル・ペトレンコが今回ミュンヘンで示したことは、ある意味終焉してしまっているオペラ文化の発掘作業に近いものかもしれない。そしてそのような素晴らしいシステムが存在したなんて誰も信じてはいない。その一方その連中のやっていることは、「美しいxx」とか、まるで嘗て存在したかのようなことを言明して、それを実現化しようとしている妄想であることとの差が大きい。

それはもしかするとクリーゲンブルク演出のフクシマ禍であり、「文殊」のような永久システムの将来と過去をパラレルワールドとして境界を接して繋ぐものかもしれない。最終日を待たずにこうして結論までを書くのもポストモダーンの批評態度かも知れない。高級新聞は書いている、「ハンディ」電話の世界は違うと。



参照:
Geborgen in einem Kokon aus Klang, GERALD FELBER, FAZ vom 7.2.2018
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
MTBには負けないぞ! 2016-08-29 | アウトドーア・環境
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-11 23:00 | マスメディア批評 | Trackback

なにが黄昏れたのか

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承前)「神々の黄昏」を一通り目を通した。食事をしてからタブレットをつけると、立ち上がらない。週初めにタイルに落としてから動作が不安定だった。ハードの損傷は分からない。再び時間を掛けて修復を試みないといけないかもしれないが、ハードに問題があるとソフトの設定も覚束ないかもしれない。GPS腕時計もファームウェア―を入れてから安定していたが、峠を攻めて帰ってくると、再び充電が上がっていて、全てが蒸発していた。充電池を見ると入れ替えは難しそうだった。これもタブレットも同じような時の購入なので両方とも駄目になるかもしれない。旅行にタブレットを携行する心算だったが、潔く断念した。ミュンヘンから帰宅したら少し時間が出来る。

先日来楽譜があるのでタブレットを携行していたが、タブレットで頁を捲って行くのには問題なくとも、流して見るにはPDFの動きも悪くてPCのようにはいかない。時間があればやはり先に見ておく方が為になるだろう。後はメモを取るしか記憶に残す方法はない。公演一日目木曜日の短報が載っていて、その聴衆の反応のようなものは少なくとも伝わった。「何十年も心に残る公演」らしい。空間を揺るがした「ジークフリートの葬送行進曲」でのクライマックスも変わらなかったようだ。

その三場を調べると、音楽的な強調としてのそれは楽譜にはそこまで指示されていない。2015年の印象はその通りだったが、その時はブリュンヒルデの歌手があまりにも弱かったので当然の帰結だと思ったが、今回はニナ・シュテムメである。彼女は、ネットで話題になっていたように、キャンセルをも考えていたようだが、それを忍て歌っても、「カラスのメディア」ではないかと絶賛されている。もしそうならば是非お誕生日会にはしっかり合せてきて欲しい。要するに「葬送行進曲」と「自己犠牲」のバランスが、評にあるように「理想的な、ペトレンコ版の最高に素晴らしいジークフリート」を歌ったシュテファン・フィンケのそれの上に輝く筈なのだ。

しかし今回調べてみて、やはり前奏曲から一場の前夜祭「ラインの黄金」の始まりの始まりとの座標軸を見据えるかのような音楽構成に気が付いた。そもそもこの四部作では、冒頭の変ホの中抜けの和音を基準点にしてしまうのだが、結局はハ長調へと絶えず空間を開いている。葬送行進曲と三場への流れや同短調の扱いが、当然ながら設計図には予定調和的に指し示されているのだろうが、その意味からも二場における音楽はもう少し調べてみたい。要するにあまりにも単純な構図がそこに描かれているとすれば、そもそも偉大な芸術にはならない。この二場にしても回想から終結への感とするとまるでTV「太陽に吠えろ」の殉職場ではないか。実際そこはバイロイトのカストルフ演出では前夜「ジークフリート」からの続きとして、裏寂れた印象のチープを演出していたのだがクリーゲンブルク演出は違う。上の評にも従来の演出評の延長としての扱いがあったが、大きな音学的な構造をこうやって押さえていくと演出は最後まで全くずれていないことを確信し始めている。密かに今回その真価を体験出来るのではないかとも期待しているのである。つまり、管弦楽の、歌手の絶対的な演奏は想定内である。しかし、音楽的な細部の演奏実践を通して、この四部作がどのような感覚を齎すかは、たとえその演出を知っていても全く想像がつかない。

新聞には、もう一半シーズンしか専属でしかない音楽監督ペトレンコとのお別れの喪章が毎晩毎晩付けられていると、聴衆の気持ちを代弁して書いている。しかし「それほど素晴らしかった」からであるというのは間違いだ。何度も繰り返しているように、引導を渡し、何を残すのかを区分けしている作業がそこにあるだけなのだ。南ドイツ新聞にはそこまで高度なことは求められない。しかしフランクフルターアルゲマニネ新聞が、未知の書き手にクリスティアン・ティーレマン指揮のドレスデンでの成果を大きな紙面を割いて書かせているのには呆れた。勿論そこに驚かされたように響いたと表現された「ヴァルキューレ」での「死の宣告」の数分前のイングリッシュホルンやその色彩などと評することにどのような意味があるのかは議論の為所だろう。(続く)



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
槍先の鋭さで一刀両断 2015-09-26 | 音
秘義とはこれ如何に 2015-09-09 | マスメディア批評
事実認証とその意味の認識 2015-09-07 | 音
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-10 23:38 | | Trackback

パラレルワールドの構造

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承前)一幕一場は、以前は弟のグンターに纏わる動機群の方が耳についたのだが、全体の流れでハーゲン関連への認知が強くなった。やはり前夜祭から動機群を細かく見てきたからだと思う。同時に今回の演奏で執拗に分析的な音を刷り込まれている影響が無視出来なくなった。つまり以前ならば、次から次へと指輪の指示動機やらが鳴ると、殆どその関連を求めて煩わしさえ感じたのだが、これがもう一つ細かな動機群として刷り込まれることで、殆どマーラーか何かの交響楽的なそれとしてあるいはエピソードとして響くことになる。

それは劇作設定上においても、ハーゲン・グンター兄弟、グートルーネなどが、アルベリヒ・ミーメ、ファーゾルト・ファーフナー、ヴォータン、フリッカ、フライヤなどとの並行宇宙が音楽的に展開することになって、漸く解説書などにある神話物語の設定と創作の芸術的な構造の繋がりが明らかにされる。

するとである、今まではあまり注意していなかった三場などでも、指示動機云々よりもさらに小さな動機が気になってくる。今回改めてヴァルトラウテの歌の重要性に気づき、それはヴォータンを肩代わりするとされているが、猶更そうなると大変な役となる。今更と思うが、そもそもヴァルキューレの数が多過ぎて、性格付けが難しい。兎に角、序幕、一幕だけで巨大で、楽匠が目した音楽劇場の宇宙は既にここでその並行宇宙として認識されるのではなかろうか。このように考えると、今までこの舞台祝祭劇の構図が充分に見えていなかったことになる。

そしてジークフリートによるブリュンヒルデの汚辱が、隠れ蓑によって人物設定が二重構造になりより内容を複雑化させるのだが、この解決も音楽的なその意味付けに求めるとなると、まさしく膨れ上がった楽譜のシステムがどのように響くかに回答を求めるしかないのである。

二幕前奏曲から一場は、バイロイトでも話題になった夢枕に立つアルベリヒと息子ハーゲンの情景で、そこで使われている動機の響かせ方に批判があったのだ。これに関してはもはやはっきりしていて、実際の演奏実践上の問題であるよりも、どこまでそうした細かな音型を意識するかだけの話しである。ある意味、そうした音楽捉え方の相違がこの第三夜「神々の黄昏」解釈へのキーポイントであるかもしれない。

それに続く二場でも所謂指示動機を如何に展開するかという創作上の妙となり、そして三場になって初めて合唱が表れてスぺクタルな展開へと同時に現代の我々からするととても鳴る音楽になるのだが、それ故に細かな動機に意識が及ばないと、とてものっぺりした「神々の黄昏」管弦楽曲メドレーのようになってしまうのである。最も劇的な四場から激しい五場へと進むのだが、もう一度調べてみなければいけない和声的な流れ以上に、もはや間髪を入れない動機進行などが意味を持つことになっている筈なので、益々そこを確認しておかなければいけない。

場面数は第一夜「ヴァルキューレ」の様に増えているのだが、とても手際よく進行することになっていて、まさしくその音楽的な構造に準拠しているということだろう。続けて三幕を見ていくのだが、既にここで2015年当時には分かっていなかった大構造が見えてきていて、ツィクルス上演のお陰となっている。もう一息だ。(続く

街道筋のアーモンドの木に白い花が青空の下に広がっていた。写真を写そうと思ったら冬空になってしまった。週末は広く降雪が予想されている。1ミリ2ミリ程度の降雪のようだが積雪状況によっては除雪作業などが済んだ頃を見計らってミュンヘンに到着したい。早めに出て美術館による予定なのだが、道路状況で敵わないなら仕方がないだろう。先週同様好転してくれると嬉しいが、少なくとも気温は零下9度の予想である。路面が乾いてくれれば助かる。



参照:
再びヴァルキューレ二幕 2018-01-20 | 音
雪渋滞に備えよう 2018-02-02 | 生活
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-02-09 19:45 | | Trackback

ARD真夜中の音楽会

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1時半まで夜更かしした。ARD夜のコンサートでNDRからの放送を聞くためだ。当番の局は勿論自主制作の録音を出してくる。どの放送局でもアーカイヴの棚卸のようなところがある。それでも夜中の時間とあってそれ程意欲的なものは流れない。SWRチェリビダッケ指揮などや古いシューリヒト指揮などもあまりない。そこで流れたのは2007年にライスハーレでNDR交響楽団をキリル・ペトレンコが指揮して、ムスオーネンというピアニストが弾いたベートーヴェンのハ短調である。同じようなプログラムをベルリンで振っているのだが、ピアニストも違い管弦楽団も違う。しかしどちらも客演で条件はそれほど変わらない。

なによりも興味深かったのは、ソリストがどのように弾きたがろうが、それに極力合わせながら、曲を壊さないような最大限の配慮が見えるところだろうか。ベルリンのフィルハーモニカーになるとどのような客演指揮者が振ろうが、ソリストが弾こうが、枠を壊さないぞと言わんばかりに頑なに演奏してくるので、実際アーカイヴされているペトレンコ指揮のそれでも遣らせてる感が強いが、このハムブルクでの演奏はその分余計に参考になる。

まるで歌手に寄り添うかのような合わせ方が、明らかに当時まだ35歳のこの天才指揮者の技量と経験を見せつけているようで、恐れ入る。同じ年齢でこれだけ出来た伴奏をする人がいるだろうか?ベルリンのそれでは気が付かなかったような音楽をつけていて、楽譜を確かめてみなければいけないようなところが次から次へと出て来る。ピアニストのコンセプトは冒頭からはっきりしているが、それを活かしていて、ベルリンでのそれよりも遥かに成功している。名演と言ってもよいのではなかろうか。こういうのを聞けば、この指揮者がオペラ劇場指揮者ではなくて、コンサート指揮者でしかないことが分かるだろう。

日本公演の際に現地に乗り込んで新聞評を書いていたマルコ・フライのキリル・ペトレンコに関するPDF記事が劇場のネットにあって、その内容は当時の新聞の内容を残すものとして更に纏めてある。新聞での人格的なことに代わってここでは、その仕事ぶりについて焦点が当てられていて、上記の面を特に歌手との関係でいつものホルニストのレフラーが語っている。「一緒に呼吸をしてとことん合わせてくれるものだから、歌手陣はとても気持ちよく、尊重されていると感じるんだ、そして彼が思い描いたことはなんでも出来てしまうんだね、彼が上手く纏められなかった点なんてなかったな。」と、歌手陣でなくても器楽奏者にとっても、一緒に呼吸してくれて、一緒に仕事してくれる指揮者はあまりいないと、基本的には歌心があるという評価だ。

同時にその練習の厳しさが語られていて、「15時から22時まで時間を無駄無く、オペラを更って、弦楽器奏者なんて限界域に来るんだ。」と12年間の業界生活で無かったことだといい、「その反対にコンサートでは、簡単に追い込むということは無い。」と漏らす。

歌手を代表してヨーナス・カウフマンが語る。「ペトレンコは、完璧主義者だけどペーダントではない。彼は、とても正確で、開演五分前であろうともう一度細部に還って遣り直そうっていう人だ。その意味からすると、全然落ち着いていられない人だね。」、「彼は、その晩の舞台の出来に満足しているが、頭には一物あって、機械的に完璧であるべきでも、それはライヴということでやっているんだ」、「そして彼は、正確に聞いて、見て、感じ取っているように、とても注意深い。」、「彼は、首を上げて全て正確に観察しているよ、比較できるような指揮者は個人的にあまり知らない。」と賛辞する。

ここまで書いてあることは、注意深い聞き手や業界人には当然のように思えることで、それはライヴだけでなくても前記の録音などからでも十分に分かることである。しかし、先のレフラーは、「演奏家として彼を前から観れて、有り難いよ、彼の仕草やその姿がそのもの楽譜を表しているんだ。信じられないよ。」そして、2019年からベルリンに行ってオペラ界が懐かしくならないだろうかと語りかけると、「そう思うよ、彼は複雑が同時進行するほど気持ちよく感じる人だからね」と答えている。

勿論、これはいつもの話し、つまりオペラ指揮者かコンサート指揮者かの話しになって行くのだが、私に言わせると全く馬鹿げている。彼の音楽をしっかり理解している限り、このような戯言は出てこない筈だ。なぜ、オペラ上演で例えば「ジークフリート三幕」のようになるか、また「コンサートではまた違う」となるかは、明らかで、我々と違って彼は、何をミュンヘンに残していくか、オペラ業界に何を貢献出来るかだけを考えている。制限のある中でなにが出来るかを絶えずそのキャリアの中で熟慮してきた人で、天才は我々とは違って将来をしっかり見定めていて、その達成可能なところをしっかりと押さえている。それにしてもミュンヘンの劇場演奏家たちはとても幸運である。業界人であろうとレッスンを受けようと思えば授業料を払わなければいけない。自由時間も使わなければいけない。それが日々のお勤めの中でお金を貰い乍ら音楽を高度に学べるのである。オペラ―ではなく音楽劇場界に与えるその影響は大きい。



参照:
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2018-02-08 22:44 | | Trackback

尽きそうな節電の可能性

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2017年度の電気代の清算所が届いた。一年前に書いている、初めての試算で更に25%圧縮が目標と。残念ながらそれどころか微増になった。11月の同じ頃の検針の積算で、その点に関しては誤差程度しかないだろう。暖房などは関係なく、あり得るとすればオーヴンの使い方ぐらいであろう。洗濯を増やすことも無かった。

増えていたことは残念だが、それ以上に今後の節電の可能性が尽きたように思うのが辛いのだ。初夏からもう一つスタンバイを落としたので、その効果は若干出るかもしれないが、プラスになったところを気をつけないとまた増えてしまう。終わり無い、節電努力が必要である。それ以外は、冷蔵庫とキッチンのオーヴン等を買い替えなければ駄目だ。これで、1774kWhが1845kWhに増えて、追加に13.30ユーロ支払い、月毎54ユーロだったのが、55ユーロと値上がりした。

増えたのは、DACとキャストを長時間点けっ放しにしていることだろう。それでも微量増なので、差し引きと言うことなのだろう。少なくともDAC等の消費増は今後は無いと思うので、もう少し無駄を抑える方法を点検したい。今後はドッキングステーション用にモニターをもう一つ購入する予定なので、それも消費増となるか。

GPS時計の充電池が駄目になった。フル充電は出来るのだけどGPSを使い始めると直ぐに上がってしまう。やはり駄目になっているのだろう。一度分解して取り出せるものかどうか試してみたい。購入してから2015年5月であるから三年弱だ。三年として、充電を月二回としても72回しか充電していない。500回の充電可と書いてあるのにやはりおかしい。

雪は消えて、陽射しが気持ち良かったが、午前中は零下だった。それでも週初めとは違って乾燥しているので、空気が軽かった。



参照:
フクシマ前消費の半分へ 2017-01-29 | アウトドーア・環境
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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# by pfaelzerwein | 2018-02-08 02:54 | 生活 | Trackback

腰が張る今日この頃

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雪が残っていて、外出は億劫である。なによりも走るとなると足元が悪い。柔らか過ぎても、硬過ぎても、腰に負担が掛かる。怠けているかと言うと、先週も沢往復と峠攻めが出来ているので、それほどサボっていない。週末に出かけるとなると、三回走るのが時間的になかなか厳しいだけだ。

それでも急に空が明るくなった。日が射すとかなり眩しい。その分放射冷却で冷える。左の腰に張りがあるた。スキーをしていないでもこうなる。車に座って、劇場で同じ姿勢を取り続けたからだろうか。そして寒いところで走ったからだろう。酷くならないようにしたい。入浴して温めてみよう。そう言えばローティーンの時に山の本などを読んでいる時に炬燵に入っていたのか、とんでもないぎっくり腰になった記憶が鮮明だ。やはり寒さが直接影響するらしい。

教えて貰ったニューヨークのメットからの中継を録音した。丁度夜中になるのでPCを動かし続けた。どうも完璧に録音されたようだが、その音質は何とも判断がつかない。そもそも劇場の響きを生は当然のこと録音でもあまり知らない。ストリーミング中継はある程度の情報量はあると思ったが、如何にも劇場的な丸まった音である。暗雑音も高音が出ていないような籠った感じである。WDRでも中継があるらしいから比較してみよう。

第一印象は、管弦楽団は流石に上手いと思ったが、典型的な座付き管弦楽団で、指揮者も技術は高いのだろうが、そのアンサムブルを変えるようなところまでは行っていない。ストリーミング技術的な音質の影響もあるかもしれないが、やはりかったるい。テムポを数えてみないと分からないが結構早いにも拘らず弛緩している感じで、バイロイトの「指輪」でも成果を上げた指揮者アダム・フィッシャーがこの曲では引きづってしまって評判の悪かったことを思い出す。また一昨年かのバイロイトでのヘンヒェン指揮のそれに比べるとやはり腕が違うのも確かである。リズムとテムポの維持が難しいのだろう。だからピエール・ブーレーズが得意としていて、今回もその一回目のバイロイト出演と二回目のシュリンゲンジーフ演出時の録音が、ハンス・クナパーッツブッシュ指揮の名盤などと共にレフェレンス録音として音資料になるに違いない。これに関してもキリル・ペトレンコの独壇場だが、サイモン・ラトルがどのように纏めて来るかが興味深いところである。要するにこの曲ほど下手に指揮すると禅のように退屈する曲もないだろうということで、メルケル首相も来ていたケント・ナガノ指揮のバーデンバーデンでの公演もその域を出なかった。バーデンバーデンで今回歌うことになっていたヘルツィウスが歌っていることにも興味があった。

合わせるのが難しいまたは容易ということでは、「神々の黄昏」の序幕を調べたが、やはり「ジークフリート」などよりは容易に感じた。そもそも曲自体が材料が手元に出揃っていて、あとはそれを組み立てて、少し新しいものを入れてといった感じだから、未完のものを弟子が完成したような風合いがこの第三夜にある。要するにそれほどの創作上の飛躍はあまりないとしても間違いではないのではなかろうか?(写真:2015年12月19日「神々の黄昏」)

どうでもよいことだが新聞にマンハイムの演奏会評が載っていた。指揮者はベルリンのフィルハーモニカーのソロオーボイスト、マイヤーである。地元のプファルツ管弦楽団のレジデンス音楽家になっているようだ。所謂地元の劇場などを回って演奏をしたり時々コンサートを開く楽団で、連邦共和国では放送局の交響楽団と並んで公的な州立管弦楽団である。但し対岸のマンハイムのような歴史的な市立オペラ劇場ではないので、何件かの劇場を回って演奏をする。本拠地はルートヴィッヒスハーフェンのプファルツバウであったが、州都マインツの劇場との合弁で今後動くのだろう。それでも以前は日本でも有名だったクレーとか、髭のセーゲルシュタムとかエシェンバッハ、知らなかったがグシュルバウワーとかスイトナーとかコンヴィチニーとかが音楽監督を務めているからN饗クラスか?マイヤーはラインガウフェストにも出るようで、奥さんがプファルツの人なのかどうかは知らないが、後任のソリストにはどのような人が入るのだろうか興味深い。まだ辞めるという話しは出ていないようだが、時間の問題のような感じで、ペトレンコが就任する2019年以降のシーズンには居ないと想像している。



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
カーネギーホールなど 2018-01-27 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2018-02-07 01:52 | 文化一般 | Trackback

ごついのはこれからじゃ

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承前)第二夜「ジークフリート」一日目の公演の評が載っていた。歌手の調子もあって、二日目とはフィンケへの評価は控え目なようだが、管弦楽へのつまりキリル・ペトレンコへの賞賛と、アンドレアス・クリーゲンブルク演出の効果に関しては正しい。

但しそこでは、その陰影に富んだ響きやプリズムを通されたような音色、瞬時の色変化をして、額縁に収まったようなワーグネリアンの幾らかが喜ぶようなルーティンな喧しくフェットな音がこの偉大な国立管弦楽団からは一切響かないと評する。それは、その劇内容に想起され、コメントし、対照化される殆ど実験音楽である素材をペトレンコは示しているということになる。

その一つとしての森の囁きであり、一幕での弦のクラスターと同じように、上の言及の具体例とされてもよいだろう。二場ではそこに旋律が乗ってくる訳だが、ソロヴァイオリンのオブリガートから管楽器間での鳥の囀りの呼応があって、フライヤの動機由来の三連符など出て来る。それが丁度その前のミーメとジークフリートとのディアローグに対応する形となって、その歌における受け渡しの秀逸さが、ここに改めて楽器間の受け渡しとして呼応してくる。恐らくここは楽匠が書いた最も美しい場面であると思うが、正しいテムポをしっかりと刻んで、そこに各々の奏者が制御されたソロを披露しないとこの場面が活きてこない。一幕では一番のホルンにはいつもと違うおじさんが座っていたので訝ると、二幕からはいつものデングラーが座った。舞台裏での吹奏での移動なのだろう。勿論ここでのソロなどは、注意して目指す響きを出すだけなのだが、やはり声に寄り添うような響きは格別であり、交響楽団の響きではこうした効果は出ないと改めて思う。今回は第二夜までは目立つ音外しは「ラインの黄金」のフィナーレのトラムペットぐらいでその他は万全に進んでいる。

一場におけるファーフナーの登場も演出上とても目立つ舞台仕掛けなのだが、信頼のおける舞台職人であるアンドレアス・クリーゲンブルクが、敢えてバスのファーフナーを上から歌わせたことを聞き逃してはならないだろう。これを、新聞にあるように効果とみるか、四部作創作の核心へと迫るかの評価の仕方で大きな違いだろう。なるほどポストモダーン的な舞台解決とするのは正しいかもしれないが、そこで思考を停止してしまうとこの作品への理解は特に音楽的には深まらないと思う。蛇足乍ら新制作としてこれを指揮したケント・ナガノの音楽ではそこまでは深まらないことは確かで、殆どファンでもあるだけに、天才というものが存在する世界ではあれだけの超一流オペラ指揮者が哀れにさえ見えるのである。

三場におけるミーメ、アルベリヒ、ジークフリートの絡みとの並行関係が管楽器におけるそれにも表れていて、ペトレンコ指揮の技術的な秀逸がそのアゴーギクとリズムの組み合わせにも明らかだ。チェロが柔らかな音色でカンタービレで歌いと、カラヤン指揮の抒情的なベルリンのフィルハーモニカーのスタディオ録音でも到底出来なかった細かで豊富なニュアンスで、そして一際ダイナミックを下げながら終えるフィナーレまでの流れは神業であった。

それゆえに、三幕での演奏が、到底座付き管弦楽団ではとても実現不可能な次元である限界を改めて認識させたと述べておこう。なによりも不満が大きかったのは例のハイライトへと繋がる山なりの一節がクリーゲンブルクの演出のフォイルの漣の雑音にマスキングされてしまったことで、これは看過できなかった。ペトレンコは、少なくとも再演として、それを受け入れた訳だ。もし舞台一杯に広がる透明フォイルを他の材料で調達しようとしたら可成りの費用が予想されたのでもあろうが、音楽的にこれを受け入れたことも留意しておく。いかんせん、この三楽章の大変奏曲のような音楽はベルリンのフィルハーモニカーとのバーデンバーデン公演を待つしかない。バイロイトでも独占的に行わなければ難しく、これだけの精度を要求するとなると殆ど演奏不可能な感じさえする楽譜である。何時かの楽しみに仕舞っておくべき三幕である。

まさしく、南ドイツ新聞の見出しにあるように、そこで「ごっついフィナーレはまだこれからじゃ」となる。このように恐るべき舞台祝祭劇の上演となって来ている。木曜日に第一日目となるが、その第三夜に関してはお勉強を始めると同時に、2015年の印象を下ろしてきて夢想することになる。その時のダイナミックの頂点は「ジークフリートの死」にあった訳だが、それは今回も変わらないだろう。それを思い出すだけで胸の動機が高まる思いだが、楽譜を最初から最後まで見てそのダイナミックの音楽的な根拠が読み取れるだろうか。少なくとも最初の「三人のノルン」や「ラインへの旅」のそれは分かっている心算だ。

当日の観客の反響は、第一夜「ヴァルキューレ」に比較して、より多くの人が数回後のカーテンコールでも残っていた ― 平土間前半の人々がそこまで熱心に喝采するのは珍しい。同じ回数で第一夜には二ケタだったのが、第二夜には三桁以上の人が残っていて、それも300人を軽く超えていたかもしれない。その後いつものように二回続いたのだが、私は前夜祭と同じく最後の最後は駐車場に急ぐべくロージュまで降りていた。



参照:
Das dicke Ende kommt noch, Harald Eggebrecht, SZ vom 1.2.2018
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-02-05 23:24 | 文化一般 | Trackback

ジークフリートの鞴

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舞台祝祭劇「ニーベルンゲンの指輪」第二夜「ジークフリート」である。この作品を生で最初に観たのは2014年バイロイト第一クールでの上演であった。録音ではローティンの頃から馴染んでいたが、この作品が一番良いと確信するようになったのは、カラヤン指揮のLPを購入してからかもしれない。勿論ベーム指揮の実況録音も、フツトヴェングラー指揮の録音も聞いていたのだが、細かくはよく分からなかった。その後に、デジタル録音のヤノフスキー指揮の安売りCD「ジークフリート」をカールツルーヘで物色して購入したのだった。

古い録音ではよく理解できなく、二流の指揮者の演奏では確認できなかったものが、バイロイトの上演ではっきりして、カラヤン指揮の演奏では楽譜が充分に音化されていないことを知れば、如何にフォンカラヤンと言う指揮者が創作を冒涜しているか分かる筈だ ― カラヤン指揮を否定出来ない者はしっかり楽譜と照らし合わせてみれば議論の余地のないことを知るだろう。

だから今回も今回の演出で舞台を一度観た「神々の黄昏」同様にこの作品を体験するにはそれなりの心の構えが必要であった。それどころかミーメ役があまりよくなかった2015年バイロイトでのフィンケの絶賛された歌唱でさえあまり受け付けなかった。それが今回はミーメ役のアプリンガーシュペルハッケの歌唱特にそのドイツ語のアーティキュレーションにも技術にも満足した。そして肝心のタイトルロールのフィンケの歌唱も演出は異なり蓋の有無が大きいとしてもその声楽的な進化に満足した。なによりも弱音を活かせるような方向に向かっていて、そもそもの疲れ知らずの声に技術が加われば第一人者になることは間違いなかった。中々ドイツ語をしっかり歌える歌手がおらず、この夜でも、北欧勢と上の二人とフォンデアダメロウを比較すれば明らかだった。

歌手の精査についてはいつも無駄と諦めているのだが、キリル・ペトレンコが振ると余計にその正しさが際立ってくることが分かって来たのだ。テキストを正しく歌うことで音楽が流れだす好例以外にも、上手く行かなかった例としてニーナ・シュテムメの歌の子音がハッキリせずに残念にもその音の粒立ちが丸まってしまうことがある。今回は三幕三場になって初めて登場するので、声には余裕があっていつものヴィヴラートも抑制されていてよかったと思ったのだが、残念ながら何を歌っているのかわからない。スェーデン語はなるほど深い母音が特徴だと思うが、子音が大分違うようだ。

一幕だけに限っても、これが歌だけの課題でないことが明らかだ。幕開けからして、ミーメが金床を打っているのだが、その軽い響きからして面白いのだが、楽譜を見ての答え合わせは出来ていない乍らも、ファゴットからクラリネット、オーボエ、フルートなどの木管や各々の音色を活かしての受け渡しとその弦や管との混合、前打音のような連桁、それとファーフナー動機のようなスラーで伸ばされた符との並立した関係が、同時に上下の空間認識の中でも生きている。楽匠がどのような楽想のスケッチブックを使っていたのかは知らないが、とても気が利いている。

同時にそのリズムが司る構造を考えるとやはりどうしてもベートーヴェンの第七交響曲へと思いを馳せてしまうのだ。そうした交響楽的な演奏実践を考えても、座付き管弦楽団が例えば管楽器だけを挙げてもこれほどコントロールされているのを知らない。弦楽器のトレモロのクラスタートーンも含めて再び二幕でどうしても耳を傾けざるを得ない演奏実践となっている。このように楽劇を演奏した座付き管弦楽が今まで歴史的にも存在したことがあるだろうか?

上の軽いハムマーの音は、三場においては演出的にもミーメの包丁を叩く俎板の音に引き継がれている訳だが、演出的にもとかく評判の悪かったクリーゲンブルクのこれは、少なくとも一幕から二幕へと大きな世界観を示しており、先日に書いたような俯瞰的であったりのその視座こそがこの四部作の核心であり、マスゲームのように使われるバレー団の動きはコンセプト的に大成功している。特に三場のジークフリートがふいごを吹かすシーンでの人間ポムプなどはこの楽劇の本質を舞台化する演出方法の一つに違いない。(続く




参照:
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2018-02-05 03:02 | | Trackback

「舞台祝祭劇」の疲れ

疲れた。幸い乍ら往路は雪の影響をほとんど受けず乾いたところを走れたが、帰路は零時半過ぎに北シュヴァルツヴァルトのプォルツハイムからライン平地へと下りフランスとプファルツとの三角地帯になるカールツルーヘへと坂のところで可成りの降雪となり、少し遅れていたら再び前回のようなホワイトアウトでとても怖い思いをしていた。最後の数キロの坂道がそれでも雪がついて怖かった。あの後事故が起こっていたかもしれない。

往路は思いがけないほど燃費良く走れ、100㎞8リットルと冬タイヤでは記録的だったので、ミュンヘンに着く頃には復路の残り燃料も充分だった。そのお陰で帰りも飛ばしたが、まだ8リットル燃料が残っている。次回は日曜日なので金曜日ぐらいの給油になるだろうか。

休憩の無い前夜祭「ラインの黄金」は早く引けたが、第一夜、第二夜と上演時間が長くなってくる。第三夜が一番長い。「ヴァルキューレ」は宿泊したので分からなかったが、「ジークフリート」となると日帰りは結構辛かった。帰宅時間が午前一時半になるとやはり眠い。カフェインで眠気は騙しても、上演時間が長いとその集中力だけで疲れる。

残すところ第三夜「神々の黄昏」のみとなった。舞台は2015年に観ていて、フィナーレもYOUTUBEに上がっている。歌手に関わりなく素晴らしい公演で、正直のところここまでの続きとしてあまり繋がらない。この辺りも、メモを読み起こしながら、疲れた身体で、一日掛けて纏めて行かなければ、来週のための更なるお勉強が始められない。とても不安な強迫観念がある。それほど重く受け止めていて、そもそも一音たりとも疎かにせずに聞いてやろうというこちらの根性も殆ど病気である。

その不安の背景には、ここにして初めて理解してきた「舞台祝祭劇」と称するものの所謂蓋付きのバイロイトの劇場と蓋無しの通常の劇場での上演、またその楽譜に書かれていることの演奏実践などを考えていくと、知っている筈の第三夜との繋がりが分からなくなってきたからである。それ以上のことは改めよう。

確かバイロイトの時は一週間に二度のブロックに別けて往復したと思うが、今回は一回は「パルシファル」入場券取得のために宿泊以外は日帰りになっている。次回も当夜泊ならば翌月曜日には美術館が開いていない。前夜泊は宿がなかなか空いていない。当日泊ならば昨夜土曜日に宿泊して日曜日に美術館もあり得たのだが、この天候からすればそれはそれで帰路が辛いことになっていたようだ。

午前1時半帰宅してもやはり列車での5時過ぎの帰宅とは違う。ベットに入ったのが3時過ぎでも、朝はそれなりに目が覚めた。次回は更に遅くなるので帰宅は2時頃だろう。最後の小さなセレモニーまであると、更に遅くなる可能性もある。

朝一番で出かけて、美術館に午前中に入るには、7時出発である。帰りはきつい。その日に宿泊するとなると、街外れのホテルに先に鍵だけを取りに行けないか?すると大分楽である。それならば宿泊する方が楽かもしれない。先ずは、39ユーロの部屋を予約してみて、尋ねてみる。



参照:
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
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# by pfaelzerwein | 2018-02-04 19:33 | 生活 | Trackback

生という運動の環境

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予報天気が好転している。予想されたような降雪量も降雪時間もないようだ。それどころか午後には太陽も拝めそうで、気温も低いので足元は悪くないかもしれない。上手く行けば、アウトバーンでも雪が飛んでしまって、路面状況は良いかもしれない。そうなればそれほど余分な走行時間を逆算しないでも良くなる。燃費も悪くはならない。燃料だけはさらに安くなっていて、ほぼ2.5ユーロほどは高くついたかもしれない。

実は金曜日から土曜日の安い39ユーロの最後の投げ売りの部屋を見つけて、予約直前までしたのだが、当然ながらキャンセルが効かないので断念していた。金曜日にチェックインしてもある程度早めに出て行かなければ、遅くなって、夕飯にまた困るだろうと思っていた。チェックアウトは12時なので、そこまで休んで、直接昼飯に出かければよいと思っていた。それにしても、積雪があって足元が悪いと不都合なことも多く、前回のことを考えるとげっそりしていた。オペラやコンサートに旅行で移動しながら訪れる数寄者も多いが、そのようなことを考えると大変だなといつも思っている。

小雪ならということで、前回も使ったティロル帽子を毛糸石鹸で手洗いして、車に積んでおくことにした。面白かったのは他所の街ではそれほど注目されないのだが、ミュンヘンでは目立たないかと予想していたが逆に人の目を引いてしまった。その関心の眼差しを見ると想像していたものとは全く違った。

勿論私の帽子には羽もついていないし、特に目立つものでもない訳だが、ミュンヘンの男たちはどうしても見る目が発達していて、あれはどこで買ったやつなのだろうと、すれ違いながら品定めするのである。そのような視線を幾つも確認した。これは完全に想定外だった。そこで今度はしっかりと手洗いをして、天気が良くても街を歩くときには被ろうと思ったのだ。流石に夏ではないのでレーダーホーゼの男は見かけないが、やはりミュンヘンは特殊なところだと今更ながら感じた。何処で購入したかは記憶に定かでは無いが、ネットで調べるとドイツの老舗大手らしく、各地で購入可能だ。山登りのために購入したので、オーストリアで購入したかシュヴァルツヴァルトだと思う。手洗いしても型崩れしなかったので、流石と思った。

承前)再び8月31日モードである。楽劇「ジークフリート」三幕三場を残すだけで、一幕、二幕と再び通して、今度は音資料として2014年バイロイト祝祭のあまり音質の良くない録音を流す。2015年の優秀録音を流したことはあるが、自身が会場にいた2014年をつぶさに聞いたのも初めてである。思っていたよりもアンサムブルは2015年とは落ちる分、録画が予定されていた2015年の三幕などでは綻びも逆によく目立ったが、なによりもミーメ役の歌が違った。録音を聞くと技術的にも声的にも2015年の若い人の方が優れているようだが、アーティクレーションがなっていなかった。だからその歌では楽曲の真意がなかなか読み取れないと思う。二幕においては一幕ほどに中心にはおらず、三場のアルベリヒとの掛け合いと、死に至るジークフリートとの場面、その前の二場でのジークフリートを唆す場面
となるだけである。しかしミーメが音楽的に要になっていることが、一幕の歌の重要さで分かる。

二幕一場のさすらい人とアルベリヒのディアローグが、これまたこの楽劇の特徴で、その入れ替わりと対話の仕方が、他の場面におけるディアローグ例えばエルダとのそれとは大分異なり、間髪を入れない受け渡しとなっていて、それが劇的な緊張感を意図したというだけではなく、音楽的な構造になっているようだ。ようだというのも、最終的には歌が先が音楽が先かという問いにここでも出合うことで、要するに適当な通奏低音をつけたテクストではないのが楽劇だから当然である。そして自身が書いたテキストとその作曲の過程を考えると興味が尽きない。例えばこのアルベリヒとの対話自体が、「ラインの黄金」や「ヴァルキューレ」でのフリッカとヴォータンとのディアローグなどよりも如何に当時の作曲家のある意味社会的な姿が剥き出しに出ているのではないかと思う。なるほど当時楽匠の書いたものなどを読むと、ある意味そうした自身の環境を自己観察しているようで、まるで小説家の様な塩梅だった。そうした観察力と洞察力が、まさしくミュンヘンの劇場が今掲げている「愛されて、憎まれて」の愛憎世界を芸術としているところだろう。

一幕一場におけるもしくは全編を通しての管弦楽法の低音と高音領域のしばしば中抜きをしたその音響構造自体がここでは高低の空間認識と結びついていて、勿論調性的にもであるが、当然の如く三幕三場で高みへと至る構造になっている。ニーベルンゲン族自体が下であることや指輪による世界支配というような鳥瞰的な視野との対照となっているのみならず、小鳥などがこれまた重要な歌を歌っていることと必ずしも無関係ではないであろう。二幕なども下手をするととても漫画的になりやすい舞台と音楽となっているのだが、触れたようにディアローグの精妙さ味噌であろう。こうした音楽劇場においてのディローグはモノローグで無ければ「定常状態」であるのだが、そのように注目させるのは全てその音楽的な秀逸さでしかない。それほど霊感に満ちた、まさしく舞台祭典劇を書いている。

山なり旋律のその重要性は通常の分析でも説明可能な訳だが、宇宙人へのメッセージにこの四部作の楽譜とCDを託したかどうかは知らないが、少なくとも宇宙人はこれを見て地球には重力があって、まるでそれに逆らうかのような運動があって、そこに生と言うものが存在することまでは認識可能ではないかと思う。



参照:
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
高みからの眺望 2005-03-09 | 文学・思想
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# by pfaelzerwein | 2018-02-02 23:43 | アウトドーア・環境 | Trackback

雪渋滞に備えよう

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週末にかけて降雪が予想されている。前回のミュンヘン行では帰路9時間掛かった。土曜日の夜だったので、除雪作業が間に合わずに、アウトバーンで三時間ほど立ち往生した。これを逆算すると16時に始まるとなると、早朝6時には出かけなければいけない。流石に現実的ではない。予想されていて、夜半から午前中の降雪が予想されているので予め準備はしているだろうが、交通規制無しには難しい。通常ならば9時に出れば昼食をして、買い物をしてと充分な時間である。

そこで代替策を考えた。列車旅行である。金曜日の夜にスキー場に前乗りは宿が無かった、忙しくてとてもそこまで気が回らなかった。例えばマンハイム発でミュンヘン往復ならば、往復40ユーロである。驚いたのは夜行が走っていて、ミュンヘンを零時過ぎ発なので、劇場が終わってからビールをたらふく飲んでから乗車可能だ。但しマンハイム到着が4時半で四時間もかかる。帰宅してベットに入ろうと思えば6時である。たとえ車中でタブレットを弄っていても、ビールを飲んでいても、辛いと思う。なるほど往路は楽譜を見ていけるのだが、復路となるとメモしたものと楽譜を合わせるだけの作業になる ― ペトレンコ組の試験の答え合わせである。そして冬ならば古い頑強なコートを羽織っていかなければいけなく、積雪があれば足元も悪く、靴まで替えなければいけない。更に手荷物も限られるので、とても面倒なのだ。一等料金も10ユーロ増しなのだが、人に聞くとそれほど良くないらしい。空調フィルターが効いている自分の車とは比較にならないようだ。

駐車料金は中央駅地下駐車場に停めても30ユーロほどなので、まだガソリン代80ユーロに比較すると余裕がある。劇場の駐車料金を20ユーロとして、その他では飲み食いの金子が必要となる。車ならピクニックで充分だ。これが日曜日ならば美術館も安く入れるので無駄が出なかったが、土曜日は数ユーロする。差額は益々縮まる。出来れば車で往復したいが、状況によっては途上の最寄りの駅で高額の切符を買って列車に乗り換えることなども考えておかなければいけないかもしれない。いずれにしても今回は8時ごろには出発しなければ確実でないかもしれない。帰宅は道が開いていれば未明1時には帰宅出来るだろうか。雪雲レーダーと交通情報から目が離せない。

承前)その楽劇「ジークフリート」三幕である。前奏曲の中身は逆戻りしてもう一度見なければいけないが、先ずは一場のヴァンダラーとエルダの絡みだ、二人の前夜祭でのそれよりもここでは第一夜の二幕二場のヴォータンとブリュンヒルデとの絡みの場面をどうしても対照化してしまう。ここでは和声の絡みの境界を超えてしまっているのだが、同時にエルダとの対比などが付けられていて、管弦楽法的にも興味が尽きない。二場のヴァンダラーとジークフリートの絡みにおいても二つほど動機の扱いがとても気になってきた。三場は何度も触れているがまさしくルツェルンのトリプヒェンの風景であり、氷河を仰ぎ見る音楽としてこれほどのものが書かれたためしはないが、やはりハ調で締めてきて、そうした山なりの旋律構造はこの四部作でここぞというところに出てきている。とりわけ面白いのは、ここでいうヴァンダラーとか、その歌詞がどうしても独墺ロマンティックの様相つまり一方における自然賛美などに傾きつつ、そのホッホロマンティックとは可成り離れた工業社会との対比を描くブルックナーなどの相似性が顕著となるのである。もう少し時間を掛けて見てみないと、まだ十分な把握が出来ていないで、少々混乱している。要するに楽匠がそこでどうしてそのような楽譜を書き込んでいったかの思考過程が、感興が分かってこないと幾らアナリーゼを進めても意味が無い。これだけ素晴らしく密に書き込まれているだけに、一音たりとも疎かにしたくないというのは、指揮のキリル・ペトレンコの気持ちと変わらないのではなかろうか。あまり時間が残されていないが、どうなることか?



参照:
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-02-01 22:52 | 生活 | Trackback

素人に分らない世界

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ミュンヘンで購入してきたヴェ―レヴルストの写真である。名物の白ソーセージの中身である。これが通常の焼きソーセージならばブレートと称する。これはここでも二回触れている。その肉自体がメットと呼ばれるもので、それを焼くからブラーテンするブレートである。プファルツはバイエルン王室の一つの親元にもあたるが、行政的には属領であったり、フランス領であったりした。そして白ソーセージの食の歴史は伝わっていない。同じようにザウマーゲンはバイエルンには無い。

だから、この白ソーセージの中身は知らなかった。ビアホールで食したことがあるかどうかも記憶にないが、白ソーセージだけでなくこれをお土産にするだけでも、一寸変化が出る。白ソ-セージはヴィーナーと同じように焼かないのに対して、これは通常の焼きソーセージのように焼くからである。いつも食するとなるとつまらないかも知れないが、時々食すると旨い。

これも白ソーセージと同じように蜂蜜入りの辛子が合うのかもしれないが、油が混じっているだけにあまり拘らない。付け合わせには作ってあったザワークラウトを、残りの黄色のピーマンを一緒に炒めて、とても上手く行った。また次回も買いたいと思った。

2016年産ゲリュンペルを開けた。これは試飲無しで特別に六本だけ譲って貰ったもので、初めて試すものだ。先に開けた2014年産の二年経過後の出来とその最初の時点を思い起こすと、どうしてもまだまだ若いことが分かっていながらも勉強のために開けておきたかったのだ。

一言でいうと、酸は十分に鋭く、まだまだ寝かさないといけないが、ザールなどのワインと同じように2016年産はとてもとっつきやすい個性がある。逆に、2014年のような開いていない塊やミルキーさなどが無く、ミネラルが強く香り、炒った青っぽいナッツ系の味もあり、果実風味もいつののように拮抗している。印象としては2014年ほどは長く楽しめなくても10年経過までは慌てなくても楽しめる。それが分かるだけでこの価格はお得である。それゆえに飲食業者などの業界が先を争って購入するのである。毎年何パーセントづつか販売価格を上げていけるからである。要するに投資対象でもある。それが保証されていることが商品価格を押し上げるという構造を素人の数寄者は考えない経済なのである。どの世界でも同じだが、如何に素人と言うのが、その玄人の世界に気が付かずに生きているかというのが分かるような話しである。



参照:
ロールキャベツを食せば? 2009-08-09 | 料理
符丁に酔って、芥子を落とす 2005-08-02 | 料理
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
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# by pfaelzerwein | 2018-02-01 00:15 | 文化一般 | Trackback

索引 2018年1月


予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
ご奉仕品特売をあさる 2018-01-28 | 生活
カーネギーホールなど 2018-01-27 | 雑感
むちむち感の深層心理 2018-01-26 | 生活
東京からの土産話し 2018-01-25 | 雑感 TB0,COM2
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
再びヴァルキューレ二幕 2018-01-20 | 音
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
習っても出来ないこと 2018-01-17 | マスメディア批評
引けてから一直線 2018-01-16 | 雑感
ポストモダーンの波動 2018-01-15 | 音
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
Crazy soprano!!! 2018-01-13 | 女
ぼちぼち週末の準備 2018-01-12 | 生活
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
初茹で豚で芯から温まる 2018-01-10 | ワイン
スキー宿をキャンセル 2018-01-09 | 雑感
二種類目のヴィデオ 2018-01-08 | 雑感
様々な角度から再吟味 2018-01-07 | 文化一般
どうも初走りだったようだ 2018-01-06 | 生活
初買いでの野菜の高騰 2018-01-05 | 生活
腐臭と紙一重の芸術 2018-01-04 | 文化一般
はんなりした初夢心地 2018-01-03 | 暦
ジルフェスタ―を祝う 2018-01-02 | 暦
2018年ごみカレンダー 2018-01-01 | 暦

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# by pfaelzerwein | 2018-01-31 21:13 | INDEX | Trackback

予定調和ではない破局

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舞台神聖劇「パルシファル」の美術を担当するゲオルク・バゼリッツの特別展が開かれている。ミュンヘンのピナコテークかどこかに常設展示があると聞いていたが、2月18日まで特別展示がピナコテークデアモデルネであるということで、計画している。それが終わるまでには、この土曜日「ジークフリート」と翌週の「神々の黄昏」の二日しか機会が無い。日曜日の安い日に出かけようかと思うが、17時始まりの楽劇だけでも長く、その前に早く出かけようと思うと20時間近く頑張らなければいけない。

天気さえ良ければ、ゆっくりと往復するだけなのだが、肝心の楽劇に集中力が欠けないようにと思うと、無理は出来ない。土曜日に出かけても交通量も多く、日曜日よりも無駄が出そうなので、楽しみにしている「ジークフリート」が疎かになるのも嫌である。もう少し考えてみようと思う。

承前)その「ジークフリート」二幕へとお勉強を進めると、新たに感動してしまった。つまり一般的にこの幕は様々に分類された指示動機が次から次へと巧妙に組み合わされて、三場がかなりくっきりとコムパクトに収められているように思われるのだが、もしその指示動機と称する分類から更に解体していくとなると、それどころでない音楽的な面白さが浮かび上がってくる。今回は2015年暮れに「神々の黄昏」を見たからかもしれないが、逆戻る感じで、例えばアルベリヒの場面を見ると、とても簡単に何々の動機などと識別していられなくなる。流石に第二夜になると様々な動機と情景などがオーヴァーラップするだけでなく、音楽的な背景へと思いが移る。やはり第二夜「ジークフリート」が四部作「指輪」の芸術的な頂点であると思う。なるほど「神々の黄昏」の序幕をつけた構成とその音楽的な伸展は比較しようがないが、音楽自体が謂わば「ラインの黄金」ではないが何もないところから出でて、入ってくることを考えれば、「神々の黄昏」の予定調和的な流れは音楽的にも然りだと思う。要するにこの「ジークフリート」ほどの創造性を第三夜には感じなくても決しておかしくはないと思う。兎に角、霊感に富んでいるところとその匠さに感動する。正直この残された短時間にそうした高度な音楽把握が上手に出来るかどうか自信が無くなってきたが、新たなヴァークナー認知への道が開けてきたような気もする。それは「パルシファル」への道だろうか?

先日教えて貰ったハムブルクの「フィデリオ」新制作の放送を少し聞いて、レオノーレ序曲の始まりの最初のテーマは古楽器演奏の技も使いながら上手く行っていたなと思ったら、二つ目の主題でこれは駄目だと思った。そのまま一幕だけでは台所に立ってBGMとして流していたが、二幕は切って、「ジークフリート」勉強に移った。本日のフランクフルターアルゲマイネの酷評を読むと、ケント・ナガノ監督がこのまま務まりそうが無いほど大失敗だったようだ。確かにあの序曲を聞けばこの人はもうドイツ音楽を演奏しないといけないドイツでの活動は難しいと思ったので、ある程度正論だと思った。本当にこれがあのケント・ナガノであるかと、新聞も問うているが、背後事情はいろいろあると思う。私個人的には、やはりキリル・ペトレンコのオペラ革命と言うかスーパーオパーへの移行が大きな影響をしていると思う。まともな指揮者ならばそれまでのように交響楽的な管弦楽を奈落で鳴らしているだけでは済まなくなったからである。新聞の筆者は必ずしもその水準をペトレンコ並みに上げている訳ではないと思うが、半拍づつ遅れる歌とか、日常のオペラ劇場では常の事でも流石に名門のハムブルクの初日では許されないようで、この程度なら北ドイツの地方劇場の方がマシと書いている。終演後のブーイングも凄かったようで、カタストロフが管弦楽と指揮者までに及んでいるようなので、ケント・ナガノ危うしである。そもそもナガノのオペラは交響楽的な管弦楽演奏との批判も初めからあったのだが、ここに来てベートーヴェンなどを気が利いた風に演奏しようとして大失敗となった。しかし、ミュンヘンでの今進行している再演「指輪」の初日シリーズのヴィデオを観てもとてもその音楽は受け入れ難く、稚拙でさえある。ペトレンコのような外国人が訛り無しに上手に熟していくのが当然で、それほど鳴らさないでも素晴らしく存在感のある奈落の管弦楽団とのアンサムブルに慣れてしまうと、多くのものが受け入れられなくなる。ヨーナス・カウフマンが評すように「なんでも簡単にちょこちょこと解決してしまう」天才などなかなかいないからだ。

だから私などは初めから言っている。オペラ劇場などは潰してしまえと、同じように二流の交響楽団なんて要らない、そんな贅沢な娯楽なんて出来る筈がない。ネットでの情報が収斂すると、そうした無駄なものは淘汰されていく。どんどんと引導を渡してやれ、肝心なのはそこから新たなものが生成されていくかどうかだけなのだ。



参照:
Dieser „Fidelio“ ist eine Katastrophe, JAN BRACHMANN, FAZ vom 30.1.2018
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
引導を渡す線香の刹那 2016-08-08 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-01-31 01:56 | 文化一般 | Trackback

二流と一流の相違

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久しぶりにゲリュムペル2014年を開けた。人によっては2015年に飲み干しているようだが、いよいよその真価が問われる時期になっている。そしてコルクを開けて、黄昏感が漂い、再びペトロ―ル臭への暗示があった。実際に開けた初日はなんとなくヒネタ感じがあった。

そして明くる日に期待せずに試すと断然若返っていて、新鮮な酸が伸びやかだった。再びデキャンタ―に移すのを忘れていた。この程度のPCになるともはやグランクリュワインのように扱ってやらなければ駄目なことを忘れていた。特にブュルックリン・ヴォルフ醸造所の果実味に富んだ作りはそのエキス分満載故に開け方飲み方が難しい。殆どの人が価格の割に不満を持つ原因となっている。実際にここ何本か開けていて自分自身満足したものは少なかった。一つには醸造親方が変わったためかとも思ったが、やはり長持ちに作られていると最初のうちの嗜み方がとても難しくなってきている。

価格も簡単にGC一本100ユーロ超えるようになっていて、ドイツのリースリングの価格を上昇させる機関車役を担っているので ― 勿論品質を引っ張っているという意味でもある、そのような長期間寝かすようなリースリングは特に必要ないのでPCで充分なのだ。これでも通常の年度でも10年後にも楽しめることは殆ど保証されているようなものである ― その割には安く買えるので争奪競争となっている。

お味の方は基本的には果実風味とミネラルの拮抗だが、現時点ではホウランダーのような味が感じられて、ミネラルの砂岩の砂地系の比較的ケイ素の多い感じで、何処かシャムパーニュにも繋がる高級感が嬉しい。最初にあったミルキーな感じは完全に華になっていて、その塊りが無くなっているので、開いていることには間違いない。但しまだ酸がこなれるというほどに丸くなっていないため、経過十年ほどは全く心配が要らずに楽しめる。価値がとても高かった。あと三本以上は残っている筈だ。

水曜日から始まる第二夜「ジークフリート」の主役はシュテファン・フィンケだ。バイロイトでは2015年に歌った。そのプロフィールなどを調べていて、もしかするとどこかで話したことが無いだろうかと思った。自宅はナーへのバートクロイツナッハのようで、恐らくマンハイムで知り合った奥さんの関係だろう。写真を見ると他人の空似かもしれないが、ワインの試飲会でよく見た感じがする。今後気をつけてみよう。そこからライプチッヒに通っているようで、その途上車を走らせながらハンディーフリーの電話でインタヴューに答えている。

バイロイトのジークフリートとしてキリル・ペトレンコの指揮で絶賛されて、そして今面白いことを語っている。

Anfangs hatten wir einige Reibungspunkte. Er forderte mich auf, mein gewohntes Fahrwasser zu verlassen. Ich bin ein Sänger, der sich gerne Zeit nimmt, mit breiter Stimme agiert. Das geht mit Petrenko nicht. Er ist perfektionistisch, detailversessen, das Musizieren ist bei ihm wie Mathematik, alles muss zusammenpassen. Aber das Ergebnis ist ideal. Um so schöner war es bei den ersten Proben in München, es hat sich angefühlt, als hätten wir nie etwas Anderes gemacht, als zusammen den „Siegfried“ aufzuführen. Die Saat ist aufgegangen.

最初は幾つかもめる点がありました。彼は、自分自身の進路から離れろと求めたのです。私は、ゆったりと幅広い声でやろうという歌手ですよ。それがペトレンコとではならんのです。彼は、完璧主義で、細部に拘る人で、彼にとっては音楽をするというのはまるで数学のように全てが統一されていなければいけないのですよ。しかし、結果は理想的です。ミュンヘンの最初のプローベで上手く行けば行くほど、そもそも「ジークフリート」を一緒にやる以外の何物でもなかったのだと言うことになるんですね。種が開芽ということです。

この「自分は違うように歌う歌手だ」という発言はバイロイトの時からインタヴューで答えていて、態々そのように話す意味が納得できなかった。なるほど彼は、1999年から2005年までアダム・フィッシャー監督のマンハイムの劇場にいて粗い歌をつまり典型的な「二流のヴァークナー」を歌っていたことは分かるのだが、その声の威力だけでキャリアーを積んできたらしい。そこで50歳になるここ暫くレッスンを受けていたという。声楽の技術を磨いて無理せずに歌い続けられるようにと言うことだが、漸く一流への道を歩もうとしているかのように思われる。その素養からして、現在のジークフリートの第一人者であり得るのだが ― その他バイロイトに欠かせない歌手となりそうで、実際にその成果を今回披露してくれるのだろうか。確かに2015年の時には緩いところも残っていた。



参照:
スレンダーながら多層的な23歳 2014-10-16 | ワイン
今年初の頂上往復 2018-01-29 | 雑感
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
消滅したエポックの継承 2016-10-23 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-01-29 23:09 | ワイン | Trackback

今年初の頂上往復

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頂上を往復してきた。どうも今年初めてらしい。パン屋が休みになって大晦日、それ以降は雨が降って駄目だったようだ。土曜日に買い物に出掛けて峠攻めをしなかったのが幸いした。ゆっくりでも一時間以上走ればいい運動になる。帰りに向こうからおばさんが一人で登ってくると思って近づいて顔を見るとフランケンタールの山岳協会支部でお馴染みのおばさんで、最後に一緒に山スキーに出かけて以来だった。細かなことは忘れたが何日か寝食を共にした仲間なので流石に顔は忘れない。その場で足踏みしながら近況などを聞いて別れた。こちらも日の出と同時に準備したが、お互いにご熱心なことだと思う。

第二夜「ジークフリート」のお勉強を始めた。またもや一週間しかない。一幕を見て、こんなにオタマジャクシが多かったかと驚く。なるほど楽譜のシステムの数だけでなくて、その各声部も違う。例えば前夜祭「ラインの黄金」では繰り返しの斜線が引いてあったり、第一夜「ヴァルキューレ」まで叙唱に寄り添うような声部が、通常のオペラの伴奏のように、通奏低音のように演奏されるだけだったが、もはやこの一幕からしてこれは違う。

「ジークフリート」は、楽匠が「栄養の糧」と称した一幕を持つ「ヴァルキューレ」の後、また作曲途中で「トリスタン」創作で中断してからの後半への大きな量子的跳躍を成し遂げた作品と呼ばれるのだが、やはり音楽的に見て最も興味深い楽劇であることは間違いない。しかし、この一幕での状況は以前に自分が書いたものを読むと、一つはプリングスハイムの初演記に関するもので、一つはミーメの歌のアフフタクトが八分音符か十六分音符かという手書き原稿に準ずる読みなどで、比較的音楽的な言及に限られる。

今度分かったところもある。一幕における旋律線の動きが明らかに「ヴァルキューレ」までとは異なっていることを、「ヴァルキューレ」の特に二幕でのベートーヴェン的な手法による表現の限界を試していたことを通じて、初めて認知した節もある。要するに一般的に言われているような創作の中断など以前から、どんどんと先へと進んでいたことを再確認したということになる。なるほど唐突に無限旋律などが天から降ってきた訳ではなくて、試行錯誤が繰り返されて例えばアルバン・ベルクにおける無限の下行とかような旋律ラインが引かれていて、その劇作家としてのアイデアと共に流石の匠だと思わせる。そもそも前作までなら所謂指示動機と言われるものに従った筆の運びがあったかもしれないが、ここでは寧ろそうした経済的な効率性以上に、聴衆が分かり易いようにそうした動機が組み合わされていると考えても決しておかしくはないだろう。つまり台本上のもしくは劇作上の必然性として「ノーテュング」などの動機が生な形で響くというよりも、その経過の音楽的な経過を追えない聴者にも目印を指示してあげているという方が正しい感じである。そこが既に前夜までとは違っている。あまりにも音符が多いのでもう一度繰り返して一幕を細かく見て行こうかと思ったが、敢えて先ずは二幕へと進もう。(続く

ここからは、クラシックオタク向きの話題であるが、過日教えて貰ったYouTubeのヴィデオを観ての感想である。ラファエル・クーベリックが地元の放送交響楽団指揮者を務めていた頃、その団員を集めての四つの鍵盤のための協奏曲をミュンヘンのあと三人の指揮者をピアニストに迎えての、弾き振りの練習風景映像である。その三人とは先ずはバイエルン州の音楽監督ヴォルフガンク・サヴァリッシュ、フィルハーモニカーの首席指揮者ルドルフ・ケムペ、もう一人はその両方でシェフを務めたフリッツ・リーガーである。リーガーとケムペ二人が1910年生で同じ年齢、あとクーベリックが1914年、サヴァリッシュが1923年生まれである。人間的にも音楽的にも四人の個性が溢れる映像なのだが、先ずクーベリックがやはり音楽名門の御曹司らしくてその振る舞いも、音楽的にも弦楽器奏法をオリエンティーリングしながらの大きな枠組みでの音楽作りもとても懐が深いのである。それだけに後の三人を上手く纏めていて、同じ人が*東京文化会館の響きにマーラーの交響曲の演奏拒否をしたなどが嘘のような人柄にしか思われない。人柄と言えばゲヴァントハウスでオーボエを吹いていたケムペが如何にもオケマンらしく、そのように音楽を作っていたような人らしく一歩引いたところで協調性をとても重んじていて、この人の録音などのジャケットには大きな顔写真は似合わないな思わせた。何処にでもいる円満な人物である。それ以上にこの指揮者に求めても仕方がないような感じである。その意味ではリーガーが丁度ノイエザッハリッヒカイトの音楽家のようで楽譜の読み方もとても硬直したような印象を受けた。その割にはピアノなどがよれよれなので如何にもマンハイムの音楽監督を務めていた地方の音楽劇場出身の典型だと思った。サヴァリッシュのピアノはある意味その域を超えているようだが、なによりも楽譜の読み方が他の三人比べて細かそうで、それなりの説得力があるのだが、プロデューサーでもないのだからやはりクーベリックの音楽も人物もやはり一番大きかったのが良く分かるヴィデオだった。但しそのドイツ語の発音と同じでどことなく締まりが無いのが彼の芸術だったろう。恐らくどの一人も生では聞いたことが無い。

*東京文化会館は日比谷公会堂の間違いだったようだが、そもそも公会堂で交響楽団演奏会をしていたのには更に驚きで、あの文化会館よりも劣悪な演奏会会場があったのだった。


参照:
愛があるかエコの世界観 2014-07-21 | 音
お話にならない東京の文化 2013-02-26 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-01-28 23:31 | 雑感 | Trackback

ご奉仕品特売をあさる

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久しぶりの眩しい太陽を拝めた。走ることよりも、買い物を優先させた。腰にも張りがあり、前日の鱒が腹でもう一つ収まりが悪かったからだ。そしてスーパーで買い忘れた安売り77セントのスパゲティーの細いのを買い足しておきたかった。嘗てはバリラの五分から八分の太さを使っていたが、最近は濃いソースをあまり使わないので細い三分の消費が一番多い。ヌードルスープにも使え、なによりも調理時間が短く燃料が節約可能だ。2011年以前は考えなかったことで、明らかにライフスタイルが変わった。それ以外にもこのところ急騰して手が出なかったスペイン産のキュウリとレタスを双方とも各々99セントで買えた。ご奉仕特売である。因みにビールの安いのは一缶29セントである。生キュウリなどが有り難いと思ったことはないが、1ユーロを超えるとなると手が出なかった。必要なトイレットペーパーなども補給できてよかった。キュウリ二本の価格でネットショッピングした。

恒例のCD落穂拾いである。最近は忙しくて、そして籠り部屋でPCオーディオは手元でNASまで全てコマンド出来るので、CDプレーヤーを動かさない。勿論籠り部屋から出れば身近にプレーヤーもあり、スピーカーも大きくなるので、制作録音の良さは録音芸術として楽しめる。だから前回11月に入手したCDさえ十分に聞いてはおらず、DVDに至っては一枚をコピーしただけであとのSACDは聞いていない。未聴と言うことが全く理解出来なかったのだが、PCオーディオ主体となるとなるほどと思う。

それでも今回はソニーの棚卸で1.99ユーロが大分出たので、馬の録音を中心に購入した。今でもシナ人としては最も信頼置ける音楽家で、王を聞くまではそれは変わらないと思う。同じチェロの名手でもマイスキーほど趣味が悪くない印象がある、勿論マイスキーの技巧には誰も敵わないと思うが ― マイスキーは生で聞いたが馬は知らない。

一つはスターン、ジャレード、アックスと入れたデジタル初期のモーツァルトピアノ五重奏曲二曲である。些か重苦しいかもしれないが、スターンは分かっているが、若馬を聞くのも悪くはない。次にマゼール指揮でドボルジャ―クの協奏曲で、この名曲のディスクはロストロポーヴィッチ、カラヤン盤しか所持していない。最後に、クレメル、カシュカシュアンとのディヴェルティメントである。

同じシリーズから同じ価格でプロテスタントのミハイェル・プロティウス作曲マグニフィカートなどである。それより高い3.99ユーロでアリオンレーベルのルドォヴィーコ・ロンカリのギターのためのカプリッチョなど、もう一つジョヴァンニ・マリオ・タバーチのナポリ楽派のオルガン曲集の二枚。最も高価な4.99ユーロのモンテヴェルディのマドリガーレ第二集はレザールフロリサンが歌ったものだ。指揮はいつものクリスティーではない。

あれぐらいのグループになると看板がいなくても商売が出来るようになる。音楽的にクリスティーは今でも悪くはないと思うが、殆どの古楽演奏で名を売った音楽家が古典派などを始めて、成功している例をあまり知らない。ヤコブスなどはまだ評価が高い方だろうか。誰も期待していないのに、やはり市場が大きいのでどうしても銭の虫が騒ぐのだろうか。残念なことの方が殆どだ。

合わせて21ユーロを終えるところを、今年から一律6ユーロ引きでなくて、5%引きになった割引を使って、七枚組で19.88ユーロとなり、CD一枚当たり2.84ユーロとなった。さて、安いか、高いか?



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
熟成の可能性を探る 2014-08-12 | ワイン
開かれた陽画の舞踏会 2009-01-23 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-01-27 22:04 | 生活 | Trackback

カーネギーホールなど

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カーネギーホールのサイトを覗いた。初めてみて驚いたのは入場料が欧州よりも安いことだ。なるほど席によっては明らかに経済力の無い人しか座らないような視界の悪い席も少なくなく、予約してあるボックス席との差は大きそうだが、それでも通常の席の高額券が高くない。バーデンバーデンの二十数ユーロは田舎価格と思っていたがニューヨーク価格である。そしては遥かに素晴らしい席だ。

それでも出し物による価格差も明白で、日本の業界のようにピンからキリまでの出場者の各々の価格帯の中で利ザヤを稼ぐような商法がそこにはなさそうである。大西洋横断と太平洋横断では距離が違うが、その演奏者毎の差額によってやはり日本のそれは明瞭会計でないと思う。カーネギーには、ポップスも含めてきっと三流は出ないのだろう。

ラインガウからプログラムが送られてきていた。早速内容とざっと一瞥する。昨年はイゴール・ヨベットがレジデンスアーティストだったので出かけたが、今年はベルリンのフィルハーモニカ―のアルブレヒト・マイヤーと歌手のアネッテ・ダッシュである。なにか日本の興行師のプログラムのようだ。前者をけなすつもりはないが、昨年我がデスクからも歩いて三分以内で二回演奏会をしたが、結局行かなかった。同じフルーティストのパウだったら出かけていたに違いない。オーボエで彼より上手い人も音楽的に優れている人も幾らでもいる。後者は生で聞いたことがあるかどうかは知らないが、フランクフルトの地元の人なので態々ラインガウに滞在する必要もない。それにいろいろと情報を総合するとそれほどの歌手ではないように感じている。昨年と比較すると如何にも安上がりな感じがする。その他の演奏会も日本公演程度のもので全くこれといったものが見つからない。シュヴェツィンゲンも同様だ。嘗てはショルティが振って、リヒテルが弾いてジュリーニが付けて、ヤコブスが歌っていたので、世代交代してもせめてヤンソンスが振って、ソコロフが弾いてハイティンクが付けるぐらいでないと話しにならない。

2018年は場合に拠れば再びザルツブルクに出かけたかもしれなかったのだが、ルツェルンで全てが片付いたので、態々夜中の高速をブッ飛ばす必要が無くなった。夜間の視界システムが付いた車を使えば昔と同じようにオペラなどが引けてから、4時間少しで帰宅出来るだろうが、そのような価値を見つけられなくなって久しい。

ネットを見ると来る第二夜「ジークフリート」のさすらい人の配役が変わっていた。ヴォルフガンク・コッホに代わってリガからエギールス・ジリンスと言う人が入っている。ドイツ語歌唱的には明らかにあまり期待出来なくなった。こうなるとジークフリート役を歌うステファン・フィンケに任せるしかない。キリル・ペトレンコの下で歌うのは2015年以来の二度目となる訳だが、あの驚異的な声だけでなくて音楽的にも更に良くなって最高のジークフリート歌唱が望まれる。経歴を見るとカールスルーヘの後にライプチッヒに行く前にマンハイムで歌っている。ホルスト・シュタイン以降指揮者は兎も角、やはりヴァークナー歌手の登竜門なのだろうか。あのバカ喧しい荒っぽい管弦楽団に負けないようにあの声に鍛えられたのだろうか?

それにしてもコッホはどうしたことか。少なくとも「ラインの黄金」では声も好調ではなかったが出ていて、丁寧に歌っていた。但し得意のベルカント的な輝きはなかった。その点で批判されていたわけだが、十分に技術的には補っていた。但しあの声で輝きが無いとヴォータンの存在感が薄くなるのは当然で、全体の出来に影響したことは間違いない。さすらい人はそこまで重要かどうかの判断もあったのだろうか。そもそもペトレンコ指揮の公演ではどうしようもない歌手の不具合もしばしばあるのでそれなりにつじつま合わせしてあまり大きな問題とはならない。

先日の第一夜「ヴァルキューレ」の録音を何度も鳴らしているが、やはりFlacで録ったものよりもリニア―のPCMが遥かに鮮度の高い音で響く。驚異的な臨場感で、今まで録音した中で最も優れている。弦の細かな動きがどうやってこの音を出しているのかと思うぐらいで、ホルンソロも一日目に特に賞賛を受けていたようだが、どの楽器も聞いたことのないとても配慮した響きを出している。カルショー制作のショルティ盤以上に驚異的な響きで到底劇場実況録音とは思えない。兎に角、鋭いところの音の粒立ちが到底座付き管弦楽団のものではなく、二流の交響楽団では出すのが無理な響きである。因に写真のところがブリュンヒルデの眠りにつく前の一声だが、ヴィヴラートがよく分かる。典型的なニーナ・シュテムメの歌唱であるが、先のオランダの女性歌手のような粗いことにはならずに細かく制御されている。

相対的に音響に関しては、一幕冒頭での入力が落ちていたためにその後は上げていて、二幕以降はそれよりも落としてある。そのお陰で二幕以降はこちらの入力も若干低過ぎた。それゆえに一幕を流しているとカムペの歌も突出しているが、こうして落ち着いて室内で聞いていると胸がパクパクするほど興奮してくる。会場ではそもそも興奮状態なのでそこまでは感じなかったのかもしれない。また近接したマイクが音を捉えているためその迫力が尋常ではない。



参照:
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
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# by pfaelzerwein | 2018-01-26 23:43 | 雑感 | Trackback

むちむち感の深層心理

そのもの性的な夢を見た。日本のベットで若いそれも十代の女とイチャイチャしているのである。周りの雰囲気は明らかで、久しぶりにそこで寝ている雰囲気を感じた。そこで寝たのは何年前のことか思い出せない記憶だが、印象としては四十数年前の春の感じである。性的な衝動はどうでも良いのだが、深層心理を解きたい。それにしても今自分のベットで寝ていて、そのころのベットのある特定の情景を目の当たりに見て吃驚した。記憶に全く上らなかった情景であり感覚だったから余計である。

フロイトのそれからすると全ては性的なものに結び付けられるとして、直截に性的なものが今度は何を意味するのか。一体あの女は誰なのだ?いやに口元の感覚が残っている。あの視界の距離感とか音の反響感とかの生々しさには驚いた。あのようなものが脳のどこかに残っているとすると、やはり自身の空間意識とか音場感とかの一つの基準になっていることを知るのである。

日本からの土産話でもう一つ理解出来なかったのは、豆腐で作った糸を引いた料理というものである。納豆でないようで、更に今考えると、豆腐の上に片栗かなんかを乗せた揚げ出し豆腐だろうか、今度会ったら写真を出して尋ねてみよう。その他では寿司のシャリの話しになったが、やはり甘いと言うのはよく分かった。そしてワサビが入っていなかったと聞いた。即座に思ったのは、こちらでは別によけてあるように外人向けのアレンジなのだろうか?それなら安上がりな話した。そして昨年の大阪のすし屋で韓国人旅行者に思いっきりワサビを入れて退治するという事件を思い出した。すし屋の職人ごときなら考えそうなことだ ― 日本食料理人がすし職人をバカにしているのに倣う。

もう一つはサンドウイッチでそのパンがもちゃもちゃしている話しもこれは承知である。日本人の食生活と言うのはやはり水稲のもちゃもちゃ、むちむち触感が基本になっているので、パン食でもなんでもそれらが米食に近づくほどポピュラリティーを獲得するということであり、要するに外国文化の日本化の過程がここでもよく表れている。昔の日本人の多数が白米などを食していなかったことを考えれば如何に白米のシャリに近いことが嬉しかったかがよく分かるのである。

個人的にも初めての欧州旅行での特に英国でのサンドウイッチのパンのそれで気が付いたのだが、その前から日本のそれが上顎に引っ付くのが億劫になっていたので直ぐに英国のライムギパンなどの方が有り難くなったのである。当然のことながら、若干スイスのそれは英国のそれに近いが、シュヴァルツヴァルトのブロッツェンなどを食するようになるとその旅の最中から日本のそれどころか英国のそれも無用のものになったのは言うまでもない。勿論どちらが上等でどちらが優れているなんて言うようなことではなくて、まさしく日本のあの気候の中でのそれであり、英国のそれであるのだ。やはり、だからここより少しうらやましいのは南仏のそれかなとも思うのだ。

南仏と言えば、やはり日本植生のその密な森などを見て、松などを感じさせたようで、南仏のそれに近いという話しになった。これは自分自身の体験であり、もし晩年を悠々自適で過ごすというならば南仏が一番気候的に気持ち良い。地面の関東ローム層と関西の花崗岩の違いも感じたようで、関西と関東のファッションの違い大阪のおばちゃんのそれも説明しておいたが、時期が時期だからあまり分からなかったかもしれない。

停まった新宿のホテルは成田からの送迎が無料でそれは素晴らしいと思った。そこには多くのオーズィが泊まっていて、雪観光だなと分かった。シナ人の爆買いの話しはしていなかったがやはり目に付いたらしい。次の機会には、他の飛行場から飛ぶようにしたいと言っていたが、東京自体を観光しようとしても限界があると事前に言っていたことが分かっただろうか。十年住んでいてもある意味足りないようなものでそもそも観光対象の町ではないと思う。ベルリンの方がまだ大分観光向きである。それでも二週間も滞在するなら郊外にすると話した。

そろそろ「ジークフリート」の勉強を始めないといけない。ここまで来ると俄然関心が高まった。どのようになるだろうかという興味よりも、二種類の七番交響曲や「パルシファル」、「マイスタージンガ―」そして「トリスタン」を見据えて更にマーラーの八番が来るので、音楽的興味が尽きなくなってきた。生半可な毎晩やフェスティヴァルのプログラミングどころでない大プロジェクトになっている。それに付き合って準備するだけでも単位が取れそうな勉強量が必要になってくる。



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
オージーの天狗裁きの朝 2016-12-22 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2018-01-25 23:18 | 生活 | Trackback

東京からの土産話し

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昨日東京から戻ってきた人と話した。初めての日本旅行で子供連れだった。新宿の高層ホテルに二週間居た。天気は良かったようだが、それほど眩しくは感じなかったという。但し、最初二日ほどはカルチャーショックがあったようだ。なんだろうと思うと、至る所で聞こえる音だったようで、ホテルの寝室でも救急車のサイレンで目を覚ましたという。異国のことで通常以上に敏感になっているということもあるかもしれないが、そこまで聞こえたというのが少し不思議である。ショックは、それだけでなく横断歩道や自動販売機などでしょっちゅう音を立てる騒音であり、確かに日本は騒がし過ぎる。イルミネーションの話しもあって、未だにクリスマスツリーが出ていると知ってこれは驚いた。

部屋から毎日富士山が見える写真を見せて貰った。東京も高層に住むとそうなのだと初めて知った。明治公園の辺りをうろついて、渋谷や浅草、上野のパンダ、銀座界隈更にお台場辺りもうろついたようだ。写真を見せて貰うと知らない建物ばかりで、名前は知っている新東京タワーぐらいは分かった。古い東京タワーも残っているのを初めて知った。タカノフルーツパーラーなども立ち寄ったらしい。特大イチゴの写真も見せて貰った。

もう一つ驚いたのは、野宿者が多いということだ。なるほど嘗ての高度成長時代も居なくはなかったが、私が欧州を旅行して驚いたのは乞食の多さだった。そうしたベルリンにも住んでいた人がとても目に付くとなると私などが知っている日本ではないと思う。その反面、右の前方角に棒を建てた左ハンドルの高級車がドイツでは目が付かないほど多いと言われると驚く。特にドイツ車となる訳だがそれにレクサスを合わせると可成り裕福な人が多いという印象らしい。これもドイツにおける高級車の比率はそれほど少なくないので、なるほどメルセデスでもSやGなどの比率は東京は多いのかもしれない。それだけ貧富の差が大きいのが日本ということだろうか?そう言えば先日劇場の前で久しぶりに小銭を恵んだのを思い出した。東欧から比較的若い男性だったが、あの手の物乞いにはなぜかこちらも簡単に財布に手が掛かり、出てしまうのである。不思議な相性があるようだ。どうも威圧感が無いのが良いらしい。乞食の威圧感って言うのもなんとなく面白い。

時間内にオンデマンドのファイルを落とした。大変時間が掛かった。一回目には七十数パーセントで落ちてしまっていた。数時間掛かって、更にやり直すと7時間ほど掛かった。もしそれで失敗したら1080Pのダウンロードは時間切れで断念するところだった。生ストリーミングでの録音と録画が先方の放送事故以外は完璧だったので、MP4で9.24GBのHD映像だけが欲しかったのだ。

相変わらず音声はAACで361kb出ていても本格的な視聴には物足りない。そもそも画像自体も4238kbなので知れている。生録は6602kb出ていて、音声は480kbPCAだから、ストリーミングのスピードが出ている時の映像も比較にならないぐらい良い。せめてオンデマンドの音声の質はもう少し上げた方が賢明だと思う。因みに生録の映像は一幕から三幕まで、4GB前後であるつまり合わせて12GBとなる。

映像を観て気が付いたのは、管弦楽のチェロのトップが一日目とは変わっていて、フルートのトップも変わっている。しかしコンツェルトマイスターもその隣の馴染みのない親仁も同じである。年配な感じなので他所から移ってきたのだろうか?完全にメムバーを揃えないでも放送可能な水準までもっていけるというのは立派である。指揮者さえ良ければ、今ユロウスキーが振ってもこれぐらいのアンサムブルはいつでも出来ることになる。これは大した置き土産だ。



参照:
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
それで十分な銅色の施し 2015-09-12 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2018-01-25 01:23 | 雑感 | Trackback

GeliebtGehasst

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月曜日の夜はミュンヘンの劇場からの中継があった。それ意外にも二種類のコンタクトがあった。一つは「パルシファル」公演予約のキャンセルの申し出の確認の個人的なメールで、もう一つは昨秋日本にも帯同してツイッターでコンタクトのあった広報責任者の名前でのアンケートのお願いだった。オペラフェストの特別販売でのアンケートだった。なるほどこちらもノウハウが蓄積されてきたが、あと四つか多くても五つぐらいの新制作を残すぐらいで、キリル・ペトレンコと同じようにフェードアウトする心算である。しかし劇場はスタッフも充実しているが、SNSなどを使って独自の広報活動を積極的に繰り広げていて天晴だ。ヴィーンのように観光客目当ては夏のフェスティヴァルだけなのだが、同時にこうして常連さん対策も欠かさないのは偉い。

ネット中継は音量が最初あまりに絞ってあって、また二幕で誰かがマイクに息を吹き付ける事故があったが、それ以外は素晴らしいサウンドで放映された。やはり専門のバイエルン放送局の方がドルビーサラウンド対応でステレオには難がありそうだ。そして前回の「三部作」の時にはアジア向きにもライヴを流していたが、誰も見ていなかったのだろう、今回は取り止めになっていて、その分本放送のキャパシティーが上がったようで、ストレスの無いストリーミングが可能になっていた。但しこちらのネット事情でHD1080Pは再生は不可能なので落とした形で、録音を主体に流した。録音はどうも完璧なようで、映像も今回から48000kHzFlac対応にしたので音質は上がった。あとはオンデマンドで高品質映像が落とせれば完璧である。最初の音量がどのように修正されているかも気になる。

次シーズンのプログラムお披露目の話しが出ていて、個人的には先週末にこの夏までのシーズンの予定が立ったところなのだが、既に次シーズンへと関心が向けられている。なにか劇場の広報戦略と言うよりも音楽監督ペトレンコの芸術的思考形態などをどうしてもそこに感じさせる。今回の「指輪」から「パルシファル」への流れと同時にどうしてもベートーヴェンの第七交響曲がそこに繋がってくるのである。

面白いのは、上のアンケートの回答者に抽選で入場券が当たるのだが、2018年9月下旬10月初めに掛けて劇場200年祭「ゲリープト・ゲハスト ― 愛されて、憎まれて」のフェスト週があり、ペトレンコ指揮「マイスタージンガー」再演のあることが分かった。ペトレンコは、ベルリンのフィルハーモニカーと8月末には七番「舞踏の神化」を振る。そして、ロンドンには6月にマーラーの「夜の歌」で登場するので、結局一度参加を断られたプロムスには参加しないから ― BBCのバカバカ! ―、9月はそこまでお休みなのだろう。しかしヴァルターを誰が歌うのか、エーファーには誰が入るのかとても気になるところだ。コッホのザックスは間違いないだろうが、ベックメッサーにアイへが入るかどうかはあの演出では大きい。

更に気になるのはアニヤ・カムペの任命式で、宮廷歌手になるとミュンヘンに現われなくなるという笑い話で、次の「トリスタンとイゾルデ」での彼女の登場は欠かせないと思われるのだが、それは意味深なのである。いずれにしても、「マイスタージンガー」に続いて春に「トリスタン」があるだろうか?「トリスタン」でヴァークナーは打ち止めだとすると、その他三つは一体何が掛かるのか?コンサートの方でプロコフィエフとデュカとシュミットが入っているのが気になる。劇場でリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」はあるのかどうか、それよりプフィッツナー、ブゾーニやヒンデミットの辺りがあるのか。

ストリームの映像を観ていて、やはりクリンゲンブルクはそのアイデアに関しては別にしても技術的にはとても職人的に程度が高いと思った。金曜日の公演に関して書き忘れていたが、とても小劇場的な音楽とそのセリフならぬ歌の細やかさは、アップにした映像からはあまり伝わらなかったが、左右に分かれたペア―の間を黒子が取り持つなど中々上手い解決法をしていた。劇場では細かな黒子などは殆ど背景に沈んでしまうのだが、ズームするとそれに気が付く。

秋からSWR放送管弦楽団に就任するカラヤン二世の演奏会評がフランクフルターアルゲマイネに載っていた。いつものように疑問しか湧き起こさない状況が報告されている。逐一、散々に叩かれている。 仕事とはいいながら態々シュトッツガルトまで出かけて、無駄な活きない批判をするのもご苦労様だ。ブルックナーの第九で最初からクライマクスを作ってしまうのであとは喧しいだけで、カトリックのこの作曲家のそれがまるでフォイヤ―バッハ風に料理されて、指揮者ご本人は音楽哲学的と自称しているからと嘲笑されている。あれが自称精神的で、今やその意味が変わっているのだろうかと、この新聞を読む各世界のリーダーにこのまやかしものの正体を見せつける。ソニーの広報の資金がどのように交際費として処理されているか知らないが、SWR文化波などは州の重要な文化の泉である。この指揮者が就任しても長持ちする可能性はないと思う。これだけはっきりと書けるということは当日のリーダーハーレの会場の反響にそれほど反してはいないと言うことだろう。放送局自体がその関連で大きなスキャンダルとなりそうである。次はバイロイトで「指輪」指揮か、能力の無い初代監督とは比較にならないぐらいの才能と魂胆があるからこそカラヤンの本当の後継者である。



参照:
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
熱心なもの好き達 2018-01-21 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-01-24 00:04 | マスメディア批評 | Trackback

伝承される文化の本質

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第二夜「ヴァルキューレ」二日目の放映が迫っている。一日目の記憶だけを書き留めておかないと、混同してしまう。細かな音楽的なポインツはメモしたもの以外には楽譜を見て行かないと書けないが、大まかなことだけでも挙げておく。

先ずは、聴衆の反応だが、「ラインの黄金」よりも熱かった。歌手陣も健闘したが、やはり最終的にはキリル・ペトレンコがいつものことながらみな持って行った。しかし細かく観察するとやはり前夜祭とは異なった。端的に言うと前夜祭は管弦楽への熱い反応と指揮者が五分五分の感じだったが、第一夜はやはり指揮者への熱い支持が圧倒的に聞き取れた。つまり、そこまで「演奏出来ましたね」以上にそこまで「やりましたか」と言うような、恐らく新聞紙上などでのそこまでの「必然性への質問への回答」を多くの聴衆が実感したということだろう。私を含む一部の聴衆は最後まで頑張ったので、明らかに控室でシャワーでも浴びようかとしていたニーナ・シュテムメが一人遅れて出て来る有様だった。その夜のスターだったカムペは一緒に直ぐに出てきたのと対照的だったので、その日の出来具合によっての楽屋裏での雰囲気がよく分るシーンだった。

やはり最後は数十人だったが、戻ってくる者も少なくなく、明らかに聴衆側の強い支持が感じられた。タンホイザー二日目よりも知的な支持だったと感じた。オペラ劇場の聴衆でどれほどの人が所謂音楽通かは中々計り難いが、その人達の音楽的な趣味の良さは素晴らしいと思う。その人達にとって、三回目の夏の上演は残っていても、一先ずオペラ劇場での「ヴァルキューレ」上演の到達した演奏実践への支持を聴衆の間でも確認しておく必要はあったと思う。フルトヴェングラーがベートーヴェンの演奏実践に終止符を打ったように、ペトレンコはヴァークナーの「指輪」の演奏実践に終止符を打つと考えていたかもしれない。とは言っても、第二夜「ジークフリート」そして第三夜「神々の黄昏」を通さなければと、私などは思うようになったが ― まさにそのように考えてペトレンコは指揮をしている、これは間違いない ―、恐らく後ろの二つに関しては前の二つほど2015年との差異はないだろうと思っている者も少なくないかもしれない。そもそも私自身もこの夜に賭けていた根拠はそのあたりにも存在する。

同時に夏に上演される「パルシファル」を考えるときに、先に書いたようなつまりクロード・ドビュシーが聞いたヴァークナーの楽劇の音楽的な真価を、その芽吹きをこの第二夜までに見つけたとすれば、これはこれでとても大きな演奏実践の成果と言えるかもしれない。キリル・ペトレンコのプロジェクトは、サイモン・ラトルのとても気の利いたプログラミングとはまたそのスケールの大きさで異なるのを、オペラからコンサートに跨り明らかに2018年はその芸術的比重が半々になっているような時、恐らく殆どが専門的な音楽通はそれを徐々に実感してきていると思う。オペラ上演では2017年がキリル・ペトレンコの頂点であったと思うようになった。

前半二つを終えて、楽匠の音楽歴史上の成果を、その劇作家としての匠と同時に、まさしく「過剰な分析」と言われるほどに示してくれたことに最大限の感謝するしかないのである。それは、一夜の娯楽な熱狂や昔話となる記憶ではなく、私たちの財産そのものである。なるほどその芯にあるのは、もはや録音されたり録画された記録の追体験ではない聴衆や演奏者の肉や血になるつまり伝承されている文化であり、やはりそれが音楽芸術のその芸術文化の本質だと思う。ペトレンコが「ライヴに来てくれ」と言うのは、まさにそうした伝達でしか伝わらない文化でしかなく、メディアの記録とはまた別な口移し的な演奏実践的な伝授を意味しているからだ。ラトルの若者への働きかけやその社会文化活動は知的文化的にも素晴らしかったが、ペトレンコのそれは楽譜の読み込みから始まって途轍もなくスケールが大きい。それをして本当の天才と言うべきだろう。



参照:
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
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# by pfaelzerwein | 2018-01-22 22:18 | 文化一般 | Trackback

宮廷歌手アニヤ・カムペ

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アニヤ・カムペの歌が素晴らしかった。今回の宮廷歌手への任命が当然の実力だ。バイロイトでの歌唱も立派だったが、2006年からのミュンヘンでの歌唱でも一番出来が良かったのではなかろうか。演出にも影響されるが、なによりも呟くようなテキストから強く高い一声まで言葉の綴りが壊れない。ドイツ語でしか分からないものもあるが、これだけ言葉を歌える女流を知らない。ヴァ-クナーでこれが出来るのは男性でもあまりいないと思う。

一幕では特に抑えていて、カストルフ演出のようにアナ雪を歌うこともないが、呟きを活かしながら心理的な細やかさも情感も高揚も全く過不足なかった。二幕三場も五場も良かったが、兎に角この人が一節歌うだけでとても流れが上手く収まって、場面が引き締まった。三幕一場でもドラマ的な重要性は分かっていてもあれだけの歌が存在するとは気が付かなかったぐらいだ。月曜日に放映、翌日にオンデマンドで観れるようだから、詳しくは改めて触れよう。

殆どの人がカムペの任命の儀は知らなかったと思うが、彼女に一番の喝采が集まっていたのも無理からぬことで、それはバイロイト祝祭でもそうであった。しかし今回の歌唱の内容は全く異なり、キリル・ペトレンコが奏でる管弦楽ととても呼応していて、流石に気心知れた仲だっただけのことはあり、よく芸術的にも理解し合っている。二人が強く抱き合う場面は結構うけていた。それどころか、前夜祭「ラインの黄金」でのスーパードライな音楽から導かれて乍らも、第一夜「ヴァルキューレ」ではいい形で情感づけられて、それも例えばヤホの究極のセンティメンタリズムとは異なる、とてもドイツ的な表情として承けていた。楽匠がこれを聞いたらきっと喜ぶと思う ― いつもの席に座って最後まで拍手を送っていたのは今回も曾孫さんのパスキエ女史と見えた。

キリル・ペトレンコ指揮「ヴァルキューレ」はこれで蓋無し上演の最終回答だと思った。ベルリナーフィルハーモニカーはどう演奏するかは未知として、コントラバスの刻みもNHKホールでのようには辛口にせず、つまり適当に開放していて、明らかに「ラインの黄金」とは異なった。それでも三場の「レンツ」の部分になると締めてきていて、どうしてもその前の部分との差異など楽譜にある以上に意識をしていると疑わせる。これは楽譜を見ながら放映でもう一度考えてみたい。つまり、オーボエを中心に一枚リード二枚リードの木管群と低弦でとても「その乾き具合」を調整しているかに聞こえた。同じようにチェロのソロとチェロ群がNHKホールの時とは違った。ソロを弾いていたのは同じフランス系の人だ。NHKホールではあまりに艶を出し過ぎていたと思ったのだが、今回はとても良い響きになっている。兎に角、「Dunkel」や「Forst」のテキストで和声が音色がさっと変わるところの音場を聞いて欲しい。それを印象派風とは呼ばない。ヴァークナーはこのような楽譜を書いているのだ。指示動機がなんたらかんたらに注意しているうちは、野蛮な音楽がドイツ的なヴァークナーだと信じて止まないのかもしれない ― プロシアの軍楽隊とか、近所のブラスバンドの音楽とは違うのである。少なくとも昔から通奏低音の上に和音がしつこく乗っかるようなものが美しいハーモニーなどというような美学は近代ドイツには存在していなかったのは、その社会状況を見れば明らかではなかろうか。如何にも田舎臭く、野暮なものを珍重するのは趣味が悪いだけなのである。要するに、ペトレンコのヴァークナーは、更にザッハリッヒに ― 前世紀のノイエザッハリッヒカイトとの意味の違いに注意!、陰影の変化に富んだものになって来ていて、そこにカムペの歌などがとても素晴らしいバランスを提供している。

歌手に関しては、シュテムメとルントグレーンの北欧ペアーは悪くはないのだが、どうしてもカムペの歌唱と比較するとそこまでの域には達していなかった。オーネイルのジークムントの声も予想以上に良かったのだが、そうして比較するとそれ以上は期待しようがない。フンディングも全く同じで、ヴァルキューレたちも全く悪くはなかった。敢えて言えば期待された重唱までには至らなかったが、放映の時に更に良くなるだろうと思う。

今回も偶然にアニヤ・カムペの任命式を見届けることが出来た。前回は、「影の無い女」上演終了後のヴォルフガンク・コッホの任命式だった。授与式で、カムペを称して、いつもその役に全力投入でカムプつまり闘うと評していたが、確かに丁寧に役を熟して仕事を選んでいるような姿勢はとても好ましい。1月22日月曜日の放映がまた楽しみだ。



参照:
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
古の文化の深みと味わい 2014-12-24 | 文化一般
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# by pfaelzerwein | 2018-01-21 23:52 | | Trackback

熱心なもの好き達

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ミュンヘンから帰宅した。午前2時になった。レジデンスの駐車場を出たのが17時だったから9時間を要した。前回の「ラインの黄金」帰路は3時間しか掛からなかったので三倍の時間だ。雪の事故と渋滞で本当に3時間ほど停まったままだった。ストップアンドゴーでもなかった。一度は雪雷が光った後にウルムとシュトッツガルトの間のアウトバーンの坂を下っていて、降雪に何もかもは乱反射して車線だけでなくて何もかもホワイトアウトとなり、徐行して緊急停止ラムプを点滅させた。真ん中か端が、退避帯を走っているのかさえ識別しかねた。急いで次の出口で一般道に出ると、ABSが効き続けた。除雪が全く追いつかない状況だった。

SWRの情報波は、イライラを予想して、「永遠に動けないと思っているかもしれない人たち」に、ウルム警察の担当の電話インタヴューを録って流した。「雪状況で対応が儘ならないという」あまり癒されないものだったが、少なくとも状況が知れた。アウトバーンの雪道で雪上ジョギングする者、犬の散歩をする者などが表れた。私はアイドリング運転の燃料2リットルが堪えた。帰り道のカールスルーヘで安い燃料を探さなければいけなかったからである。それでもリッター137と充分に高かった。それが無ければ無給油で帰れていたか?今回は宿までミュンヘンの街中を少し走ったので雪道が無くても少し距離が増えていた。

そもそも目が疲れていた。前夜の観劇はよいとしても、翌朝の下見、その後の食事探し中の降雪やホテルまでの移動など雪まみれで厳しかった。結局木曜日の夕飯以来帰宅まで50時間以上温かい食事を口にしなった。50ユーロ近くするコンドミニアムで就寝したのも4時間以内で、滞在時間も5時間に満たなかった。価値があったのは劇場まで歩いて10分ほどしか掛からなかったことだろう。駐車料金24時間54分で34ユーロもお得だった。

今回は初めてキリル・ペトレンコ指揮の新制作がミュンヘンのオペラフェストで初日を迎えたことから、入券が今までのノウハウでは対処しようがなかった。そこで半額売りに並ぶことにした。その予定で「指輪」ツィクルス券も入手してホテルも10月中に予約しておいた。それでもそもそも音楽会ごときに並ぶなどは民音のスカラ座日本公演とかぐらいしか殆ど経験がないので、またミュンヘンのオペラフェストなどは1986年に行ったぐらいで関心の対象ではなかったので全くノウハウが無かった。今回も年間プログラム紹介で日本公演とこの半額発売の話しがあったなかでアンテナが伸びていて、問い合わせしただけなのだが、やはりノウハウが無いと厳しいことが分かった。まさしく半額提供は、努力賞と熱心な常連さんの認定と謝恩の様なもので、自らもその列に並びながらも「そこまでやるかなもの好き達が」と自嘲気味に思った。勿論私のように皆それなりの理由を挙げるのだろうが。

ベルリナーや朝からプッチーニの「ミミ」など無料で提供してくれてたいへん配慮をした方法を取っているのだが、そのSNNにあるように本当に天晴な客達でやはり劇場にとっては特に若い年齢層の人たちは重要なお客さんだと思う。最初の整理券は500枚以上出したようだが、最終的に購入しに来たのは四百数十名のようで、発売の列の中でも整理券を取りに来る人がいて、その数字を出していた。つまりその人達も20時頃までにはなにかは買えたようだ。

一番売れたのが次の比較では、「パルシファル」初日、プリンツレーゲンテン劇場でのハイドンのオルランド・パラディーノ、「三部作」、「指輪」ツィクルスとなっているようだ。私は、「パルシファル初日」には余りがあったので、一種類しかない「指輪」と思っていたが、違ったようだ。各上演ごとに立ち見を合わせてクラス5以下の400席が提供された。つまりここで長く立つが上演の時に立つかの選択か?私は今回はもう十分立った思う。兎に角、最前列に座らせてもらう。

結局人気のあった二日目や三日目ではなくて、初日にした。端の方だが、下の方の回廊の最前列は初めてになる。管弦楽も指揮もよく見えるだろうが、舞台の奥は切れるかもしれない。82ユーロの座席が41ユーロとなり、利鞘41ユーロしか出ないのだが、なによりも観劇を確実にしたことが大きい。金のことだけを考えている人は殆どいないと思う。これで今まで発注していた272ユーロまでの券を断るのでその差額は250ユーロ近くとなる。それよりも何よりも気が向けば明日からでもバーデンバーデンでの「パルシファル」初日のお勉強に精が出るのが嬉しい。これでベートーヴェン第七交響曲と「パルシファル」を数か月の中で二回づつ聞くことになり、お勉強の効率が上がり、認知が深まる。



参照:
普遍的なネットでの響き 2017-07-21 | 音
お得なバーデン・バーデン 2017-03-21 | 生活
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# by pfaelzerwein | 2018-01-21 19:41 | 文化一般 | Trackback