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「誇りを取り戻そう」の戯け

水曜日の新聞文化欄を見た。クライスト賞の授賞式がこの日曜日にあり多和田葉子が受賞するので彼女の書籍が紹介されている。クライストに関する書籍が多い筈なので驚かないが、賞与理由はそうした研究に関係するだろうか。二冊の新著が紹介されている。

ヴァイマール共和国下でのこの文学賞はその受賞者リストを見ただけでその意味が分かる。ブレヒトやツックマイヤー、ムズィルなどドイツ文学の馴染みの名前が挙がる。1984年からの再授与はその意味合いは変わったといっても、ハイナー・ミュラーなどのお馴染みの名前も見られる。財政的にはドイツェバンクの二万ユーロが支えのようだ。

朝のラディオは前夜のオバマ大統領ベルリン滞在初日の話題があった。それによるとメルケル首相の招待で食事をしたようで、通訳も誰も付かなかったようだ。これは色々と想像させて面白い。もちろんメルケル首相にとっては来年の総選挙でも大統領ではなく首相候補になるということなので政治的に重要な情報を得る機会だったろう。なんら力のない辞める大統領でもその情報と政治的視点はとても重要である。先ずはねぎらいから、今後の合衆国外交の向かう方向に関しての話題となったのだろうか。

新聞には分裂騒ぎのAfDバーデンヴュルテムベルク議会での連中の締め括りの言葉が英語で出ていた。「再び誇りあるドイツにする」というトラムプ次期大統領の言葉を捩ったものだ。連中は気がくるっているとしか思えないのはこうしたところで、職業的にはそこそこの社会を代表する立場に居ながらこうした見解が生まれてくるところである。一体連邦共和国をどのように、敢えて言えばトルコ人二世などにとっても誇りあるものにしようというのだろうか?

日本の人には分からないかもしれないが、現在の連邦共和国の何処をどのようにしたら誇りに結びつくのだろうと大変不思議に思う。彼らの視座では現在のこの社会を恥ということなのだろう。どこが一体?である。

同じようなおかしな視座と思考を持つのは世界中この手の政治勢力層では変わらないようで、そうした政治情勢を作っているのは有権者でしかない。要するに社会に不満があるということなのだろうが、連邦共和国は日本とは異なって合衆国から独立しており政治的にも経済的にも世界の優等生であり続けている。グローバル化に対しても主体的に動ける立場であり、治安などに関してもアンダーコントロールであり、制御不可には陥ってはいない。なるほど急激に押し寄せた難民問題はあっても、国民の生活を脅かしているものではなく、制御さえ出来ていれば問題がない。

1990年代前半の外国人排斥や襲撃などの時と現在の状況は大分異なるというのが実感で、あの当時の「仕事が奪われる」とか言った切実なスローガンの方が現在の「誇りを取り戻す」よりも凄みも実感も強かった。



参照:
国際的競争力が無い実証 2016-09-09 | 雑感
ありのままを受容する 2016-09-24 | 歴史・時事
青い鳥が、飛び交うところ 2007-06-22 | 女
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by pfaelzerwein | 2016-11-18 23:16 | Trackback

ホモのチャイコフスキーは?

ヴァレリー・ゲルギレフというロシアの指揮者がいる。二十五年ほど前からその噂については聞かされているが、生で聞いたことは無い*。聞く予定もない。その評判に拘わらずその音楽に興味がないからである。ティーレマンなどもよく似た状況だが、こちらは来年三月に聞く予定だ。

そのペテルスブルクの指揮者がロンドンのコンサート前に大デモンストレーションをやられたのは速報で流れていたが、プーティンとの繋がりでの反対運動と聞いていたので、それには触れなかった。プーティンの独裁や人権無視もシナのそれと同じように批判するのは容易いが、なかなか複雑な裏事情があるからである。EUがソチのオリムピックボイコットなどをするのは賛成だが、先日の恩赦などでそれなりに対応しているから、東京の安倍内閣より外交的にはましかもしれない。

さて木曜日の新聞に載っている情報は、2015年からミュンヘンのフィルハーモニカーの指揮者になるというこのロシア人へのデモがミュンヘンでも行われたことで、その真意はロシアの同性愛法への西欧同性愛者の怒りという。それならばミュンヘンのオペラ支配人の言葉ではないが、とても「芸術の核心」に関することなので、触れない訳にはいかない。

支持しているSPDが公聴会などを開いて市民の反感を抑えようとしたようだが、それどころかこのロシア人は「そのロシアの法は反同性愛ではなくて反ペドフェーリア」としてプーティンの立場を支持したようである。そして、子供たちにはそのようなことよりも「プーシキンやモーツァルトを語って欲しい」と主張したものだから「チャイコフスキーは?」と突っ込まれた。

ホモセクシャルは「伝統的なライフスタイルではない」からと主張する。まるで極東の政党の綱領のようである。このような音楽家は西欧では働けない。国家主義だからか、保守主義者だからか、人権を無視しているからか?

そういうことではないのである。指揮者といえども芸術家の文化人の端くれである。そして音楽を通じて様々な芸術的な主張をするのである。その行為を通じて、現在の社会の趨勢や人々のライフスタイルに無頓着であってはなんら人々の知性や感性に直接話しかけることは不可能なのだ。少なくとも芸術家は、そうした文章化されていないような時代の雰囲気を芸術という形で表現しなければ芸術ではないのである。

なぜこの指揮者の音楽に興味をひくことが無かったかは、この指揮者の振るコンサートのプログラムやオペラ公演の出し物、そして音楽家から聞いた練習風景などの情報から、全く無頓着で知能の低い指揮者と知っていたからである。伝統伝統と主張する輩は、伝統という歴史の流れを知らないからこそ、時代錯誤の感覚しか持ち得ていないのである。これは政治家でも同じである。

言い換えると、こうした人物は固定観念中で生きているので、自分が生きている環境から閉ざされているのである。たとえ自身が保守主義者であろうが、信仰的な主義主張を大切にしていても、環境を感知していないこととは違うのである。それでもそうした主張を押し出すのはイデオロギーでしかないのである、そしてそれを人に押し付けようとする。そのような人物が芸術家や文化人面をしていてはいけないのである。

これで2005年から新任の代替案への具体化が進むのは間近ではないだろう。それにしても、このミュンヘンの交響楽団ほどチェリビダッケの後もレヴァインの辞任などと頻繁に問題が起きる楽団も少ないだろう。

そしてゲルギエフは、政治と芸術の独立を主張しているが、今時そのような単純な言い方をする外貨稼ぎの出稼ぎ者がスター指揮者として活躍しているのが、如何に音楽やオペラの世界が商業主義の世界かであるかということを証明している。新聞にあるようにそこは 決してホモセクシャルの世界だけではないのである。

*実は十五年ほど前にザルツブルクで「ゴドノフ」を聞いていて完全に忘れていた。勿論アバドの指揮ならばそのようなことは無かっただろう。


参照:
映像の賢い使い方 2013-11-10 | マスメディア批評
塀の中に零れる泡銭文化 2008-11-23 | マスメディア批評
オーラを創造する子供達 2007-09-24 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2013-12-23 17:47 | Trackback

ヘルメットを色々試めす

注文したヘルメットが届いた。残念ながら人一倍横に張った頭には合わなかった。ヘルメットには苦労するが、古典的なプラスティックの殻の中には収まることが多いが、現代のスチロール製のそれが欲しいのだ。今まで使ってきた従来タイプとの組み合わせのハイブリットタイプが最も安全性は高いが、頭に合うならばスポーツクライミングに出来るだけ無駄のない邪魔にならないものを試してみたいからである。現在使用中のサレワの大きめのものだとどうしても邪魔になってしまうので、ぎりぎり頭に合うものを探しているのである。そして重量も半分近くまで落ちているとなると、素晴らしいことなのである。

そこでまず注文したのがペツル社のメテオールIII∔であった。しかし箱を見るなり幅が足りないことを理解した。案の定頭が入らない。如何に優れていそうでも、これでは話にならないので早速送り返した。そして、他の幅のありそうなキャムプ社のスピードと称するものを注文した。明日早朝に届いて試してみる。これが合わないとなると可能性はかなり薄くなる。

それは夕方にマンハイムで一通り試してみて理解が進んだ。ネットに書いてあるようにサレワ社のピウマ230プロと称するものがなんとか頭が入った。それでもサイドに押さえられる部分があった。高価なだけあって調整機能も大変優れていて、これだけはイタリア製であった。もう一つ天頂の押さえが薄いので、眼鏡の縁に当たりやすい。

その他のマムムート社のリーダーは横の当りが激しく、ハイブリットのブラックダイアモンド社のヴェ―パーがどうやら頭が収まる形状であった。しかし、決して収まりが良い訳ではなく、サレワのそれが如何によく出来ているかである。

こうして試してみるとやはり頭がきっちりと収まるこのタイプのヘルメットはとても使いやすいことも分かった。当たるところが無く、通風が良いものが見つかれば嬉しいのだが、さてどうなることだろうか?



参照:
上着を脱ぐようになって 2013-04-25 | アウトドーア・環境
本年第三登の気持ちよさ 2012-08-24 | アウトドーア・環境
バンジージャムプ並の転落 2012-06-18 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2013-04-27 13:30 | Trackback

グローセスゲヴェックスとは?

程度の低い日曜日版の新聞に2011年産グローセスゲヴェックスの講評が載っている。誰が書いているかは別にして、どのようなワインをどのような曰くでどのように書いているかに興味がある。なによりも私の関心ごとはそれを制定したVDPの運動の後援者として、どの程度一般社会やジャーナリストに理解されてきているだろうかというのに尽きる。グランクリュのリースリングの将来性などが私以上に分る者はその辺りにはいないからである。つまり私以上に評価の出来る者など皆無である。

それでもファムフォルクセム醸造所のPCクラスのグローセスゲヴェクスであるシャルツホーフベルガーを三重星にしているのはそれほど誤りではない。試飲出来なかった二重星のゴッテスフースの方が将来性は高いには違いないだろうが。

すると当然の事ながらビュルクリン・ヴォルフ醸造所の二重星のペッヒシュタインなどの将来性など全く分っていないのも明らかだ。そもそも全く葡萄の木の状態の違うヴィニンク醸造所のそれを並べてあげるなど事情やワインの質について皆目知らない人に違いない。

ほかの品種に関しては、ピノノワールを除いては瓶熟成など殆どしないので、それなりにボディー感や長い余韻があれば皆満足するのだろうか?正直、ミネラルの深みや複雑さで殆ど期待できないこともあり、全く興味が湧かないので勝手にしてくださいという按配であるが。

先々週のある日に書いたものである。昨日は運動して良かった。しかし掻いた汗が冷えたのか、足に堪えたのか、全身運動量が多過ぎたのか、十分の睡眠にかかわらず寝起きが悪かった。

夕飯はザウマーゲンの小型のものを湯がいて食した。大きさは異なるものの昨年のクリスマス以来の食事である。試飲したザールのワインも無くなったので、新しいワインを開けた。料理用のワインは先日購入したばかりである。

バッサーマンヨルダン醸造所が間借りをしているニーダーキルヘンの農協ヴァインマッハーの2012年産リースリングである。リッター瓶で三ユーロ弱なのでソアヴェよりも安いので購入した。

そして一日はグラスに注いで飲んでみたが、アルコール11%に拘わらず、夜分喉に渇きを覚えた。嘗てはお気に入りの蔵出しレストランで喜んで飲んでいたノンネンシュトュックのリースリングである。しかし、もはやこうしたものは飲めないことが分かった。慣れていないと直ぐにケミカルなどの混入で酔い心地が悪いことが直ぐに分かる。初めは理由が分からなかったのだから体は正直である。

グラス数杯ぐらいのワインを飲んで喉が渇くと思う人は、如何に質の悪いワインを飲んでいるか思い知るべきである。少しでも不快に思うような趣向品ならば止めた方が良いのである。それも高い金を出してそうしたものを飲んでいるとしたら馬鹿者でしかない。

その代わりに開けたのが2010年産のヴァッヘンハイマー・ゴルトベッヘルである。高等な酸処理をしたこのリースリングは典型的な2010年の猛烈な酸の強さがあったので置いといたのである。今でも酸は突出しているが、大分丸くなってきていて、最初の飲み頃を迎えようとしている。



参照:
Einmal die Großen, bitte! Fabian und Cornelius Lange、FAS vom 14.4.2013
遅咲きでもそれなりに試す 2013-04-04 | ワイン
グローセスゲヴェックス解禁日 2012-09-03 | 試飲百景
読者層に合わせた興奮度合い 2011-11-22 | 暦
志向の俗物記事 2011-11-16 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2013-04-18 12:06 | Trackback

とても感じの良い謎の電話

知らない男性の声で電話が掛かった。スピーカーの音を止めて電話に出ると、私のファーストネームらしきものに「さん」をつけて呼んだようだった。その電話番号で、ファーストネームを呼ぶのは全く分かっていない者か、女性ぐらいしかいない。しかし「さん」付けは一人だけだろう。前者でもなければ、後者でもない、あるのは省略したあだ名で呼ぶぐらいで、ドイツ男性では思い浮かばない。

先日からナーデャのことを思い出していた。今回「愛しの彼女」に対して賽を投げたと書いたが、あの時も同じような状況で、ナーデャを悲しませてしまったことが思い浮かぶ。それ以上に口説くことのなかったのに失望させてしまったのだった。今まで言い寄った女性中で最も美しかった彼女であるが、その涼しげな面長の顔立ちをしても、匙を投げてしまったのであった。

そのときも謎の人物から二回ほど電話が掛かったのだった。丁度彼女のおじいさんとおばあさんといった感じで間違い電話として少し喋ったのだった。そして今回の間違い電話は、否に愛想が良くて、感じが良い声でとても丁寧だったのだ。背後には食器洗い機かなんかのような小さな機会音と、誰かが働いている雰囲気があったのだ。

もしかして、愛しの彼女の親父さんかとも思ったのだが、それにしても「さん」と聞こえたのは不思議なのである。厳しい彼女の家庭であるから、親父さんが電話を掛けてくるということは無いことは無いだろう。電話番号は隠してあったので、真偽は分らない。

要するに賽を投げてしまってはいけないということを、ある女性のアドヴァイザーから聞いた。機会があるならばやはり言い寄らなければいけないということのようだ。いつまでもそうしなければいけないということらしいが、まあ、こちらもそう若くは無いのだから、そもそも永遠などでは決して無いのだ。



参照:
匙ならず賽を投げたその時 2013-03-10 | 女
囀りましょうか? 2005-06-01 | 女
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by pfaelzerwein | 2013-03-22 23:48 | Trackback

ポストモダンと自嘲した男

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ハンツ・ヴェルナー・ヘンツェの死亡記事が文化欄を飾っている。週末はドレスデンで自己の作曲の回顧シリーズのために滞在中だったようで享年86歳であった。幾つかの聞きなれない情報がそこには詰められているが、それ以上に悼辞を書いている作曲家の顔ぶれの方が興味深かった。

先ずはヴォルフガンク・リームであって、「音楽への君への付き合いから私の芸術への道」を示した作曲家としてこの先輩作曲家を評価している。そこでは、当時の恋人であったインゲボルク・バッハマンのテキストに作曲した「夜の音楽とアリア」のドナウエッシンゲンでの初演で、まさしくリームの師匠であったシュットクハウゼンやブーレーズそしてノーノが席を立って示唆行為をした件で、後々も大きな傷心としてその示唆行為が故人に残ったことを、故人の音楽へのロマンティックな対応として十分に手短に説明している。

ペーター・ルチカは、まさしく故人の劇場音楽の成功が示すような、「劇場の問いかけ」とその方向性を重視していて、同じように言葉の音楽を作曲して成功しているアルベルト・ライマンは、自らのそれとの相違を故人と近年話し合ったことについて触れている。

まさしく、アドルノのアウシュヴィッツ以後にアリアは書けないとするそれとは異なって、器楽曲の何処彼処に言葉の歌が読み取れるその作曲法を再確認させる記事となっている。そうして他の前衛作曲から孤立して、「売れる」自らの芸術を推し進める一方、自嘲して「ポストモダン」と名乗る世代違いのこの作曲家は、1953年以降はイタリアに居を移して、そこにて自らの地所からのワインと野菜などの収穫で伴侶と養子縁組した同性愛の恋人であろう息子とともに作曲に勤しむゴージャスな生活に触れられている。

そうした芸術的な心情は、その教育の欠損や独自のキャリアーを積むその時代のプロフィールからすれば、故人の社会的思想的な傾向や些かアウトサイダー的な芸術人生に十分に投影されている訳で、その意味から回顧折衷的な居直りの芸術に投げかけれれる大きな謎は存在しないであろう。故人の舞台作品やその他多種多様の作品が、今後どのような形で経済的な価値を維持するのかどうかが興味の的となるのであろう。

故人とは、その交響曲七番のプロミスの演奏会で同席しただけでなく、一度は挨拶する予定になっていた。しかし交響曲十番の初演に追われていたのか、結局対面することはなかった。もし三島由紀夫の話などをしていたらと思うのだが、その代わりに招待された演奏会も辞去して帰宅したのを思い起こす。個人的には縁がありそうで、お門違いのすれ違いの作曲家だった。



参照:
Er suchte die Schönheit und den Glanz der Wahrheit, Elenore Büning, FAZ vom 29.10.2012
海の潮は藍より青し 2005-08-28 | 文学・思想
暁に燃えて、荒れ狂う 2005-08-30 | 歴史・時事
非日常の実用音楽 2005-12-10 | 音
スッキリする白いキョゾウ 2007-12-11 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2012-10-30 13:45 | Trackback

緑の党京都のイヴェント

緑の党の京都でのイヴェント風景をIWJのサイトの中継録画で見た。興味深かったのは、中央の組織とは別に地方政党としての緑の党京都の存在と、それらを緩く繋ぐネットワークである。

なるほど地方からのボトムアップの政治結社としては矢張り地方議会や共同体にその土台を置くことは当然であり、様々な市民団体とのネットワークの上でも都合がよいのだろう。

イデオロギー以前にその組織が中央集権化されていないことだけでも、従来の革新政党との相違を明白にする。その基本には、様々な市民運動からのボトムアップとネットワークが欠かせないということがある。

ここが、所謂蛸壺社会からの脱皮が出来るかどうかの分水嶺であって、日本が68年紛争で敢行できなかった服装の自由化などの視覚的な瑣末な問題だけなくて、社会の本質的な変化となるに違いない。

その兆候は、シングルイシューだから実現していると言われる総理官邸前の抗議行動の党派性を超越したネットワークにも見られていて、その背後にはツィッターなどのネットの活用がある。

長谷川代表の発言で面白かったのは、従来の政治結社をオジサンたちの政治活動と呼んだところで、最初の集まりに呼ばれた部屋が霞んでいて、それがタバコの煙とは分らなかったと言うエピソードであろう。「タバコのオジサンたち」で68年世代を切ってしまうのはとても痛快で、先日のチバレイの昭和レトロ発言にも通じていて面白い。

いづれにしても、緑の運動から様々な示唆を受けることで、日本の文化が本来尊重してきたシムプルライフへと脱近代化を果たして、文化先進国としての地位を確立して欲しいものである。それが産業経済的な未来の安定と社会の繁栄に繋がるのは言うまでもない。中華主義や共産党独裁では決して完成しない社会なのであるから。

いつもの様にARDの取材が最もこうした動きを正しく伝える重要な情報源であるのはかわらないが、大阪の朝日放送が東京まで追いかけて取材をしていると言う。毎日放送ならば今までの経過で分るのだが、あれだけ関電の圧力に屈していた朝日放送が反原発の緑の運動を伝えているのはとても特筆すべきことである。FAZが伝えていたように、なるほど情報カルテルの日本のマスメディアも浮き足立ってきたのだろうか?



参照:
2012/08/03 京都で!日本で!緑の党オープニングイベント (IWJ Independent Web Journal)
昭和レトロの動員労働者 2012-07-19 | 歴史・時事
揺らぐ霞ヶ関と情報カルテル 2012-08-03 | マスメディア批評
「緑の党」結党と国会大包囲 2012-07-31 | マスメディア批評
涼しげな緑のライフスタイル 2012-07-29 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2012-08-06 05:08 | Trackback

福島の蛸とか大阪の盛り上がり

福島の蛸の話が経済欄に出ている。明石の蛸しか知らないものにとっては福島のそれが柔らかくて築地で人気がある商品とは知らなかった。六月頃から調査漁が続けられていて、無検出を確認して初めて市場に出荷されたと言うことで、福島県の許可を得たものとされる。

漁の場所や蛸の生息などによって汚染の状況は変わるのだろうが、なによりも生物学的な半減期が短いようで、セシウムが直ぐに排出されるのがもっとも効いているようだ。他の放射線物質については分らないが、科学的真実としてとても興味深い。

そして築地市場では他所の蛸よりも三割高値で商いされたようで、平常時よりも割安のようで、外食産業向けに一挙に買い付けされたのだろう。実際に外食での客にとってみればセシウムであろうがプルトニウムであろうがそのような味の無いものよりも柔らかくて新鮮であれば高い金を喜んで払うに違いないからである。

しかし、個人客は違っていて、ここで紹介されている中山みゆきさんも「お宅の食卓に相馬の蛸が上りますが」と問われて、「さあね、一寸慎重になるわね」と答えるのであった。

県や国などが幾ら正式に安全だと言っても、まともな市民ならばもはや安全デマには誰も騙されない。

大阪での脱原発・再稼動反対のデモの様子がIWJで中継されている。徐々に底力が増してきているように思われるが、その規模などはどうだったのだろう?関西電力においては全く電気の安定供給とは異なるところでの再稼動と原子力発電への固執と必要性を訴えているわけであり、そもそも節電キャンペーン自体が市民への恫喝でしかなかったことが分っている ― たね撒きジャーナル廃止問題は話題となっているが、在阪の朝日放送などの番組内容に対する介入はもはや解体を市民は運動すべき卑劣な地域寡占企業である。

さらに大株主である京阪神の市が最終的に再稼動を容認した経過も興味深い。特に大阪市においてはその経営上の理由ゆえの再稼動を関電から聞き出しておきながら、「安定供給」ゆえの容認をしたという恥さらしな行政を前にして大人しくしている大阪市民の方が不可解ですらある。

そうした意味からは、ネット中継での関心度はあまりにも低いようであるが、その盛り上がりの行方は東京の官庁街のそれと同じぐらいに重要性を帯びてきているように思われる。それ以上に重要なものがあるとすれば福島市内での蜂起ぐらいしかないであろう。



参照:
Tintenfisch aus Fukushima, Carsten Germis, FAZ vom 3.8.2012
Es gibt wieder Tintenfisch, Carsten Germis, NZZ
外国人記者クラブ登録法 2012-07-20 | マスメディア批評
創造力豊かな無広告社会 2012-07-11 | マスメディア批評
核政策へのレクイエム 2012-04-06 | アウトドーア・環境
福島禍に見舞われたら 2012-03-28 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2012-08-04 06:07 | Trackback

ちまちましこしことした競技

相棒の医者が遅くなるというので、ボルダーリングに切り替えた。なかなかそうした機会がないと態々小さなところでしこしことやる気はしないのである。

思っていたほどには登れなかったが、最後まで果てしまう事はなかった。最初ウォーミングアップのときに息が上がりかけたが、重量挙げなどと同じで酸素が急に必要になったのだろう。しかしその後は、握力が弱まることもなく、いくつかの課題は克服できた。

それでも歯が立たないものの方が多く、筋力がもつので何時間でも試していれそうでとても時間が経つのが早い。これが嘗てとは異なる最大の成果で、もう少し早く課題が目で読め取れるようになればボルダーリングもこなせるようになるだろう。

兎に角、目で見てある程度道筋がわからないと、受験の数学のようなもので、手をつけてしまってからがさがさやっているようでは駄目なのである。場をこなさなければいけないのだろうが、それこそしこしこやるのは結構根気もいる。

特に庇の下は、全く上下がないので、横から見ていてもなかなか埒が明かなく、やはり自分の体で試して見ないと分りにくい。

一度は最上段の石を握りそこなって、横向けに落ちてマット上に顔をぶつけた。下に何もなかったから良いが、何かあったとしたら靴一つでも怖い。

予想以上に足が疲れているのは技術の表れだろうが、腹筋などは如何だろうか?明後日が楽しみである。少なくともボルダーリングの初級程度の実力はついてきていそうだ。

相棒にその先の技術を示そうと思ったのだが、そもそもこうしたちまちました技術的な面白さが理解できないと、心の目が開かない。基本は腕力ではないということなのだが、理解しただろうか?足掛かりの位置や足の置き方、力の方向などに無頓着であり続ける限りは通常のクライミングでも進歩はないであろう。あれだけ足捌きが悪くて困難度六級を登る者を見たことがない。



参照:
陸で待っているだけでは駄目 2012-01-14 | 雑感
台地を越えて走り続けると? 2012-01-17 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2012-01-19 20:28 | Trackback

台地を越えて走り続けると?

車中のラジオがクオリティ・オブ・ライフについて議論していた。何時もの夕方の討論番組である。健康を意識するばかりに病気になるとかの話しでもある。「放射線を気にすると余計体調が悪くなる」と言うのと似ている。そもそもなにもせずにどこも痛くも痒くもなければ肉体は死んでいるのである ― 同じように不具合があるならば動かしておいた方が使えるのである。

なるほど平均寿命が長くなって特に60歳過ぎの男性の更年期障害によるホルモンの変調から高血圧などの問題が一般的な話題になった面もあるようだが、そもそも加齢は避けれない訳で、如何に体を動かせるようにしておくかだけしかないのである。

同じような意味合いで、アンティエージングを考えると、大げさに言うと肉体と精神の乖離を如何にコントロールして行くかにあるだろう。最も若くして顕著に現れるのは、腹具合で、既に少年期から青年期においても成長を終えた人間が盛んに腹いっぱい食べ続けると肥満になるのは当然なのである。

そうした食生活や低下した運動消費の生活が続けられると、ある時点で様々な生活習慣病となり、それを放置していくと身体の障害へと直ぐに結びついていくことは明らかなのである。問題は、直接間接的に制御できる肉体を如何に乖離させずに制御していくかに掛かっているといえるのかもしれない。

この冬初めての本格的な寒気である。外気温摂氏零下五度で霜だけでなくて至るところが凍りついた。昨日運動できなかったので、漸く冬休み開けのパン屋に今年最初の訪問である。その足で二十分コースを走った。冷始動だったので危ぶまれたが、丁度万歩計を忘れていたので、ゆっくりとあせらずに走り出すと、先日の急坂に慣れたのか登りが殆ど平坦と変わらなく感じた。これならばいつでもスパートできる走り振りである。そのまま降りてきても十分時間があったので、もしかすると記録的な速さになっていたかもしれない。少なくともそのまま峠まで駆け上がっても良さそうであり、足に来ないことを急坂で確認していたので登りを走る自信がついてきた。

そのことはクライミングにおける壁の威圧感への心理とよく似ていて、威圧感が消えるだけでも可也登れることを保証する。要するに庇を含む急勾配を厭わないようになると、大きな一歩を踏み出すことになる。殆ど同時に走りに進展が見られるようになったのは、足の先までに酸素が回るようになったからに違いない。これは楽しみになってきた。急坂も含めてこのままもう一押し負荷を増やして行きたいところである。プラトーを乗り越えて走り続けるとその先には一体何が見えるのだろう?
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by pfaelzerwein | 2012-01-17 18:54 | Trackback