カテゴリ:文学・思想( 61 )

近代天皇の意味、国体

ツィッターなどを見ていると、日本国民の多くはどのような職業についていてもあまり変わらないと思った。天皇を知らない、もしくは自国の権力構造というものに無頓着という事だ。要するに少々学問をしていると自ら信じている人たちが、先にも書いたように科学的な思考に達していないという事なのである。

「天皇が個人であり、それを尊重する」などという論調はどうしたことか?ここが分かっていないと、立憲君主制も美濃部の天皇機関説も分からないだろう。王権などの支配権を盤石とする権力の正統性つまり権威がどこからやって来るかは西欧のその歴史をみれば明白である。同じように古いプロシア憲法を参考にしながら天皇制を取り込んだ訳であるから、その天皇の権威にはそれなりの根拠がある。要するに天皇は決して個人ではない。このようなことは子供の時に考えたことがあるが、その時の共和主義者としての解決方法は「選挙権を持った皇居煎餅の元祖として平民化して貰う」というアイデアだった。それに近いような論調には本当に呆れた。

それに関して、フランクフルターアルゲマイネの特派員パトリック・ヴェルターが流石に上手に纏めている。老舗のズルヒャーツァイトュングの記者もしているようで、なにか慣れないような感じもみられたが、流石に超高級紙に書くジャーナリストは伊達ではない。

彼は書く、その生中継を観る日本人を観察していて、必ずしも皆が何を差し置いても耳を傾けるようなことはなくて、だから天皇は市井の人々に直接訴えかけるために人間的なお面を被り、馴染みやすいように努力する必要があったとする。多くの人、特に若い日本人にとっては天皇などは生活において余白でしかないのだからと観察する。

しかし、そのように装って今回為された明仁天皇の発言こそは、今までの就任直後からの品行方正な「役人の操り人形」のような、そして親しみやすい一つ目の天皇像だけではなく、それ以上に二つ目の顔である民主主義的な、アジアでの戦後の日本像や、右翼修正主義者に対抗する戦争責任への言及の平和主義日本の天皇像を示す以外の何ものでもなかったとする。同時に、世論調査から、「象徴天皇」への支持は85%に達しており、「天皇不要論」は10%を割って、「天皇主権」はそれ以下の支持しかない状況が長く安定的に続いている事実を挙げる。

そして、生前退位への希望を可能にするとは、侵略戦争と共にあったを戦前の超権力の天皇への回帰から撤退することを意味するとある。だから、日本は今週の世界のスペクタクルなニュースとなったのだとしている。同時に、明治以降近代日本の立憲君主制の天皇の意味合いを知らしめて、その区切りとしたとする。それは、右翼筋には、天皇の希望に沿わないようなありとあらゆる努力させることを意味することになると社説を締めくくっている。

カトリック教会においてもフランシスコ教皇などが同様の努力をしているが、どちらも秘儀があってこその権威である。その点においても、明仁天皇の思考は当然のことながらそこまで熟慮されているものと想像される。同時に今回「市井」との言葉が使われた。安倍政権などに50数パーセントの支持率があり、首都東京にポピュリスト知事が当選したように、改憲提議そして国民投票への危機感からも日本津々浦々の人々に呼びかけたのだろう。あとは本当のジャーナリズムや文化学識に携わる人々の科学的な思考とその表現力に掛かっている。象徴天皇におんぶにだっこばかりの生かされている日本人では、一体何のために近代化の歴史があったのかさえも分からなくなる。



参照:
Japanische Scharade, Patrick Welter, FAZ vom 10.8.2016
象徴天皇を庇護するとは 2016-08-10 | 文学・思想
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2016-08-10 23:24 | 文学・思想 | Trackback

象徴天皇を庇護するとは

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週明けの車中のラディオはお昼のニュースで明仁天皇のヴィデオメッセージについて報じていた。東北震災以来の異例の二度目の語り掛けであるという事である。私も朝から生を観ようと思っていたが最初の数十秒は欠けた。文字起こしで内容を再確認した。

「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する機能を有しません。」の「始め」が気になったからだ。どうもメッセージの題目の「象徴としての天皇」を指すらしい  ― これに関しては、宮内庁の公式文書で再確認すると、「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,」もしくは「本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇…」となり、題目は「象徴としてのお務めについて」である。そして、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」と締める。つまり、「これを弄るようなことは認めがたいが、それに対して発言することが出来ない。」という事である。最高級の形で護憲を声明したことになる。

新聞は第一面の二大トップニュースとして伝えている。因みにもう一つは先週から続いている当局のリーク情報の続きで ― 電話で、人の殺し方を車でひき殺ろせとアドヴァイスしたが、アフガニスタン難民の方は免許を持っていなかったという電話会話の中身であった ―、ヴュルツブルクとアンスバッハのイスラム国テロ犯罪とサウディアラビアの関係についてである。その一面で、「(これまでのように、全身全霊をもって、象徴の務めを果たしていくことが、)難しくなるのではと案じています」と言葉を引用して副見出しを付けて、先ずは「右翼日本政権自民党は天皇の退任希望に拘わらず、憲法改正で象徴天皇を元首としようとしている。」と書いて、第三面の写真入りの記事に繋いでいる。

そこでは、病後に長く考えていたことが今回七月の予告に続いて公にされたことで、必要で困難な法改正などに迫られるが、二つの対処法があって、一つは時限立法にするという方策で、これも時間が掛かるという、そしてもう一つは一切無視して、これまでの様に負担軽減で誤魔化すという方法だったが、今回のヴィデオメッセージでそれが明白に否定されているので、これも儘ならなくなったとする。

つまり象徴天皇制が議論される。ここでも七月に伝えられていたように、そこで右翼筋が問題にするのが、空位になる皇太子に女子を選ぶかどうかの議論を再び呼び起こすことだとされる。日本のネットメディアも今回漸くこれを扱った。どうも女子の継承権は日本ではもはやタブー視されているようで、小泉政権から安倍政権への性質の変化がここにもみられる。

しかし女子継承権の議論は、何も男女平等の問題だけではなくて、今後の天皇家の維持を考える場合の重要策だとする。つまり、次世代の男子ヒサヒトはまだ九才であり、それでは危ういとされる。一部の見解として、政治的発言を許されない明仁天皇が平和主義を堅守して、修正主義や民族主義の大きな流れの防波堤となっていて、日本国の良心とされていると書く。

そうした良心も責任も天皇に担保出来ないのが象徴天皇なのだ。つまり、天皇の政治利用を認めないという根拠で天皇発言を無視したり、そもそも象徴天皇をも認めないというならば、私の様に移民するしかないのである。さもなければ自身の科学的な立場に懐疑せよ。男女同権を語る前に女子の継承権を語るのがそれを専門とする学者の仕事であり、市井のものは象徴天皇制の下でこうした発言に真摯に向かい合うことが求められているのである。

新聞には、放送のモニターの前で頭を垂れる者もいたという。戦時戦争世代の人だと思うが、どうなのだろうか。少なくとも私の周りにはそうした人はいなかったので分からない。震災時にも労い、時間を掛けて率直に話しかける姿は、映像を意識する政治家とは全く違うと書いてあったが、象徴制を排して元首としたい人たちの立ち振る舞いをしっかり見届けろと言いたい。



参照:
Beginn einer neuen Zeitrechnung, Patrick Welter, FAZ vom 9.8.2016
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
天皇の「悔恨」の意を酌む 2015-08-16 | 歴史・時事
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-08-09 19:54 | 文学・思想 | Trackback

ツケを残し利子を払う税制

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正月以来初めてTV受信機に電源を流した。サッカー観戦である。前回のイタリア戦は翌日パン屋のおばさんに話しかけれたが観てなかったのでいい加減に誤魔化した。イタリア戦は興味が無かったがフランス戦は違う。付き合いもあって話の種としても観ておきたかった。フランスのそれが好きなのもある。結果は見事だと思った。ドイツ側もそもそも人材に欠けることもあるが、恐らく今が過渡期なのだろう。継続して王者であるのは不可能だ。そして、AfDに屈辱されたボーティング選手の試合ぶりをみて、更に腹が立った。ああした人種主義者を政界に送る連中はやはり叩かなければいけなと強く感じた。EU市民として非常に情けないことである。

文化欄に緑の党の元環境大臣ユルゲン・トリティンが超金満家税の恩恵について書いている。要約すると、金満家に財産を任せていても1991年と2011年を比較してその投資が増えていないことが実証されているとして、悪の公共投資よりも善の個人の投資とするネオリベラリズムを送別することで、いかに多くの公共投資が必要かがハッキリするとしている。つまり、傷んだ交通網や環境や教育に回せて、そこに仕事を生み出し、付加価値も生じるというのだ。

しかしこれは決して強引な経済成長へと向けられるものではなく、人口減少と高齢化の社会へのつまり成長無き経済への提言として、同時に次世代への継承としての環境の持続性を重視する考え方として語っている。

それならばアベノミクスの様な大規模の財政出動はどうなのか?これに関しては冒頭から国の財政として1928年の合衆国における一割の収入が全体の半分を稼いでいた時、その極一部が四分の一を稼いでいた時恐慌が起きた。それは2007年にも繰り返されて、未だにEUはそこから抜けきれておらず、アイルランドの予算の六倍の負債などの原因として、金融経済としての財政出動を指摘する。つまり赤字国債自体は、財政の悪化であり次世代に借金を残すだけでなく、その反対側で利子収入として財産を増やす資産家の存在を明らかにする。その資産は、借金を次世代に残した人々同様に次世代に受け継がれていくのである。

そこで何千億円相当の企業資本を相続として受け継ぐことが現在の新興貴族たる家族資本の大企業の資本家であり、その不公平さを知らしめる。同時に、連邦共和国においては下から上への富の分配はもう充分になされたとして、今は戦後のエアハルト首相時の「全てに豊かさを」の時代とは異なることを明示する。つまり、金融収入と勤労収入の分離課税についてである。今や二十年前には14倍だったサラリーマンと重役の収入の差は50倍に広がっていて、益々労働賃金の割合は小さくなっているというのだ。これを下から上への富の再分配と呼んでいる。そこで総合課税が前記の問題を解決する方法ということらしい。こうして、緑の党は、迫る総選挙で必要な議席を獲得すれば、メルケル首相と連立内閣を形成する準備をしている。

ここで東京に目を向けてみると、分離課税の問題点を指摘しているのは三宅洋平候補である。そして驚くことに、私よりも自由主義者である古賀茂明が、生まれて初めてと言う候補者応援をしているではないか。少なくとも三宅候補の主張は最も先端な議論の叩き台を用意している。それは確かである。正直、今までは東京選挙区の有権者だったら小川敏夫に入れるかどうしようか分からなかった。しかし、三宅洋平で間違いないだろうと今は確信する。

もし、分離課税で恩恵を受けていると思う人は考えてみるべきだ。アベノミクスの期間に数億円を利益確保として換金したかどうかである。それが出来ていないならば、儲けより子孫へのツケを増やしているに過ぎないと考えるべきだろう。



参照:
Vom Segen einer Superreichensteuer, Jürgen Trittin, FAZ vom 6.7.2016
月2500スイスフランの魅力 2016-06-05 | マスメディア批評
ポストデモクラシーの今 2016-07-08 | 文学・思想
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
富の再配分より機会均等! 2016-05-13 | マスメディア批評
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-07-08 19:01 | 文学・思想 | Trackback

ポストデモクラシーの今

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今朝のSWR2トップニュースはハーンフランクフルト空港の身売り話しだった。この話題はラインラント・プファルツ州では最も熱い政治話題となっている。今回も緊急会議が開かれた。そもそも上海の会社が投資することになっていたのだが、送金出来なかったことでご破算になった。この話で面白いのは、比較的払い易い額であったので、その裏にはマネーロンダリングがあるだろうということである。要するに個人の恐らく中共の高官の賄賂がその資金だろう。そして今日のニュースによると新たにワイン街道のダイデスハイムの独中企業ADCがオファーを出したというのだ。裏事情を想像するに同じ資金源ではないかと思う。

また、新興勢力AfDのアンチモスレムキャムペーンに関して、一種のアンチセミティズムであるとする見解が話されていた。この話の背後には、AfD発祥地であるバーデン・ヴュルテムベルクでの分裂騒動がある。正直うんざりする話なのだが、これらの話には一般化可能なものがある。

要するに中道右派から極右までを巻き込むPEGIDAやAfDなどに代表されるポピュリズムであるが、なるほど彼らの主張やスローガンには広く大衆を共感させるものがある一方、彼らがやっているのは広い有権者層のための政治ではなくて、権力掌握と集中への活動であって、当然のことながらそこに自ずから権力闘争が発生する ― ナチが好例である。

大阪のやくざ政党が主張している議会の縮小や報酬の削減などは一般受けするが、その背後には修正主義的な主張や、タブー視されている言動を起こすことで、如何にもエスタブリッシュな社会に風穴を開けるかのような錯覚を有権者に与え続けているなど、合衆国大統領候補トラムプや失脚したボリス・ジョンソンまたは左翼コービンなど全く同じ手法を採っている。

なるほど英国の脱EUの旗手だったフェラージュの退任は任を為したとしてのものであったようだが、それ以外の政治家の無責任さこそが、こうしたポピュリズムの正体である。ポピュリスト達の口車に乗せられて一票を投じて、梯子を外されるのはいつも有権者である。何回も騙されていては救いようがない。

三宅洋平の選挙フェスでやすとみあゆみこと安富歩東大教授が話していた ― 奥様と兼用のブラジャーにパッドを入れては無理か。本郷や駒場の学生と品川港南口の聴衆を区別しない内容は流石で、結構な拍手が生じていたのには驚いた。いつもは泡沫候補のマック赤坂を応援しているのだが今回は違う泡沫候補までに手を伸ばしたのか?ここに来て第二集団の背が見えてきているという情報もあり、小川敏夫候補、自民党候補など混戦になっているのだろうか。東京選挙区で容易に改憲勢力を勝たせてしまうようではもはや東京オリムピックはヒットラー政権下でのベルリンオリムピックと同じようになってしまうかもしれない。

歯痛で数週間休んでいたボールダーに出かけた。天気も良く、涼しくて、岩肌も乾いていたのだが、久しぶりで十分には力が入らなかった。なによりも歯を強く食いしばるようなことは出来るだけ避けたので、完全に力を出し切るまではいかない。続けて通わないとそれは難しい。午後からは暑くなりそうだが、朝は陽射しは暑くとも気温は低かった。体解しに準備体操して、軽く走った。とても気持ちが良く、心配の歯の調子も歯ブラシしても寧ろ違和感が少なかった。



参照:
英国EU離脱を観察する 2016-06-25 | 歴史・時事
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2016-07-07 19:14 | 文学・思想 | Trackback

自分らしくあれる社会

歯を磨いた。歯ブラシで問題のところを振動させた。違和感は無くなった。歯根がしっかりしてきたようだ。買い物に出かけるときに朝の静けさを感じながら考えた。確かべート―ヴェンの晩年の四重奏曲に「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」とかあったなと、脳裏に響いた。そしてまさしくそうした世界観こそが啓蒙主義のそれだったと思い起こした。そうした精神世界が今でも教養として活きている一方、私たちの今日も刻々と動いでいる。

秋のボンでの音楽会まで二月に迫っていたことを思い出した。プログラムのチャイコフスキー第五交響曲しか頭になかったが、他の重要な二曲を思い出して焦った。幸い、十分ほどの間に、注目のリゲティ―作曲ロンターノとバルトークの第一ヴァィオリン協奏曲の資料を集めることが出来た。リゲティ―はポケット版ぐらいがあれば価格次第では購入してもよいかと思ったが、ショット社のサイトでそれどころか貸し譜しか無いことが分かった。さらに調べてみるとpdfコピーがあったので落とした。これはとても助かる。チャイコフスキーにはそれほど時間を掛けることはあり得ないと見積もっていたが、他の二曲は関心が深まると演奏時間の割にはお勉強に時間が掛かるかもしれないので要注意である。

秋のベートーヴェン祭のこのコンサートは会場の小ささから完売していた。初めの発券の出だしは悪かったが、ある程度の関心ある向きには聞き逃せないプログラムである。バーデンバーデンのベルリナーフィルハーモニカ―演奏会の方はまだ完売していなかった。

山本太郎の外国特派員クラブでの会見を観た。日本の政治家でここまで立派に世界に向けて話をすることが出来る人がどれぐらいいるのかと思った。やはりこの人も現在東京選挙区で格闘中の三宅洋平に決して引けを取らないタレントだと確信した。ここでも初当選後の時期に元俳優というのは、その習った職人的なものに加えて役者ということでは文化人でもあると書いたが、本人は大した俳優などではないと語り続けていた。それがどうだろう、やはりその喋りの確かさだけでなくて、下手な通訳を通じてでも聴衆に合せて話の要旨を伝える能力は抜群である。以前にも役者としてのレトリックやそうしたものこそタレントであると書いたのだが、こうした外国向きによく練られた脈絡と内容を臨機応変に滔々と語る。それどころか耳が良いのか英語にも十分に反応していて驚いた。これほどの日本の現役の政治家を知らない。目標は総理大臣だと冗談めかして言うが、この人たちが政治力を持つようになれば、そのような選挙制度や選挙がなされるようになれば日本は変わるだろう。二世、三世の盆暗よりも、本当の意味でのタレントが政界で働くようにならなければ駄目である。

ネットでは三宅洋平の選挙フェスに鳩山由紀夫が登場するかもしれないと流れていたが、本当に登場するのだろうか?まさしくこの人は三宅洋平が指す累進課税で納税して貰って、相応の尊敬を集めなければいけない一パーセントの人である。その財産は日本の政治を変えたが、その使い道は本人の意思次第である。現在の巨大な対米従属の官僚組織に自らの財産を委ねようとするのだるうか?自己矛盾とはならないか?国の使命の一つに富の分配があるのは間違いないが、その組織が富を食ってしまうのではどうしようもない。だからこそドイツの緑の党は秋の選挙でのキリスト教民主同盟との連立に配慮しながら「機会の均衡」を上げ出したのである。これは正しい。機会均衡で目指すのものは「自分らしくあれる社会」であるべきだ。



参照:
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
選挙フェス020716 (Lignponto)
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by pfaelzerwein | 2016-07-02 18:48 | 文学・思想 | Trackback

脱資本主義社会への加速

足を引きずりながら買い物をした。前日のスーパーや眼鏡店、パン屋に続き、負傷後三回目の買い物である。靴履きの時に左足に力が入らないのでもたもたする。駐車場までもやはり左足を引きずる感じだ。まだまだであるが、大分動きは良くなってきた。

前夜からもう一つの膏薬を貼ってみた。同じように期限切れの十五年ほど前のものであるが、冷シップ感があって十分に効果がある。薄めのものなので剥がれにくく、動き回る時には大変役に立つ。

同じように軟膏を見つけた。それをじっくり塗り込んで、ひと眠りする。目が覚めて、足に神経を巡らすと何か違う。軽くなっていて、足が無くなってしまっている感じすらする。動かしてみると抵抗が無くて、意識と神経の違いが明らかに薄くなっている。如何に平常時には身体の動きと能が直結しているかということであろう。それでも歩き出すと違和感が戻って来た。それでも一時間ほどで快方に向かっている。これで大分明るい光が見えてきた。

車中のラディオでは、重力波などの話題があったが、資本主義が十年以内に終焉を告げるという話題もあった。旅行前には、現金払い5000ユーロまで規制のことも話題になっていたが、資本主義の終焉は、合衆国でサンダース候補が一勝したことからオキュパイ運動が世界を変えることに繋がるというもので全く次元が異なるものであろう。

5000ユーロ以上の売買などは現金では出来なくすることで、マネーロンダリングを抑えるということで発議されたものであるが、最初からその効果には否定的な見解が押し寄せたが、金融工学的なものを完全に打ち切ることが可能ならばまた違う意味合いで捉えられるのだろうか。

欧州では決してこうした話題は絵空事でもなく、重力波の実証に一世紀が掛かったことと比較しても、二世紀ほどの資本主義を大転換させてもなにも不思議ではないのである。こうしたEU的な考えの基礎には次の時代を開拓していくことで如何に現在の社会の富などを維持しつつ、文化的文明的にもそのリーダーであり続けるかという基本理念がそこにある。

現在のままの金融世界にいる限りそれが不可能となれば、なによりも率先して次のシステムを構築してしまえば有利に立てる訳で、合衆国にそうした動きが出てくることで大きく一歩を踏み出せるとなる。脱資本主義が社会の話題になって十年以上経ち、オキャパイ運動などがある程度の伝播をしたところで今政治社会的にも徐々に現実化してきているということかもしれない。

トラムプ候補の勝利を誰も信じていなかったようにサンダース候補の勝利もあり得ないと考えられていた。現在の金融世界の在り方がフェアーだと思っている人は殆ど居ない。真っ当な経済を取り返さなければいけないと思っている人々の意思を正しい方向へと向けることが出来れば世界は思うよりも簡単に変わってしまうであろう。



参照:
保守系経済高級新聞から 2015-10-06 | マスメディア批評
脱資本主義へのモラール 2006-05-16 | マスメディア批評
剰余商品価値の継承 2006-05-05 | BLOG研究
ブロキュパイの果てに 2015-03-23 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2016-02-14 19:18 | 文学・思想 | Trackback

天皇の「悔恨」の意を酌む

明仁天皇が、前日の安倍の発言を覆すように、終戦七十年目に際して初めて踏み込んだ発言をした。そのように朝八時のSWR南西放送ニュースは伝えた。つまり国民代表して先の大戦に悔恨の情を示したということだ。これを日本人は真摯に受け止めるべきだろう。本来、総理大臣が必要十分な政治をしていたならば、日本で流行の言葉で言うならば、天皇の法的安定性を揺るがしかねない発言などをする必要がないのである。

天皇家が、戦争責任に言及して、日本国民に懺悔するのは当然としても、そうした政治的な発言が法的に許されていない立場に拘らず、修正主義の立場をとる政治勢力に対して一喝するのも、その輩が再び開戦、敗戦へと、原発事故と同じような日本の破滅へと導きかねないからなのだ。そうした政治勢力に対して、日本市民がなすべきことは明白だ。今度こそは各々がそうした輩の共犯ではないことを示さなければいけない。そうした行動を通じてこそ、「戦後レジーム」を終了させて、そこから初めて脱却できるのである。ノンパサラン!

連邦共和国の消費者保護団体は、先ごろ正式リリースされたWIN10に対して注意を呼びかけている。特にそのプログラムが加入させようとするマイクロソフトショップは必要がないと声明している。先ごろWIN10にアップグレードして問題と認識したのもこの点であり、その後全てのWIN10関連を消去してからもGWXマークが出続けていて、おまけにマイクロソフトショップへの署名を誘ってくるのである。

グーグルショップはアンドロイドで快適に使っているが、そのビジネスモデルをを利用したマイクロソフト社の陰謀なのである。ドイツでは、同じようにファースブックへの注意も呼びかけられたが、少なくとも日本のネットではそうした注意は見当たらない。如何にネットの世界においても商業的な検閲が行われているかということであって、中共のそれは知られているが日本のそれには誰も言及していないということに注目すべきである。

日米の政治関係や、日本の独立性ということを考えれば、ネットにおける米国の支配構造がそこに存在することは当然としても、多くの日本人はそれを全く意識していないことの危険性を感じるのである。しかし最も重要なことは、前述の問題と同じく裏切り行為を絶対許さないことであって、それは文化人であれ、企業人であれ、政治家であれ、公務員であれその責任を後々も追及していくという態度を市民が示すことである。一体どこにいるのだ、本物の愛国者は?



参照:
普通の日本人たちの責任 2013-05-20 | 歴史・時事
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
天皇陛下!万歳!万万歳! 2011-04-06 | 雑感
危机と紙一重の良机の七十年 2015-07-21 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2015-08-15 18:19 | 文学・思想 | Trackback

無用な台詞へのその視線

先日購入したヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を読み始めている。ベルク作曲の「ルル」のヴォーカルスコアの勉強と並行しての作業である。原作自体が二つの作品名があって、オペラ化に当たって適当にアイデア流用したような印象を持っていた。しかしこうして作曲家が当時原作に創作力を刺激されたのと同じように原作を読んでみて、明らかに思い違いしていたことに気がついた。

なるほど原作自体が数年の間を挟んで、各々全四幕と全三幕の戯曲として1900年前後に創作されていて、後にルルとして統一化されている。そのような原作の創作過程から、原作から作曲家がイマジネーションを強くして音楽化されていると誤解しやすいのだが、とても丁寧に描かれている戯曲であって、作曲家は入念に台詞を割愛しているに過ぎない。こうして読書してみると、必ずしも台本にかあけているところを感じるわけではないのだが、作曲者の創作過程に少しでも近づくには決して欠かせない作業であると認識を新たにする。

オペラの一幕に相当するのは、「地霊」の第四幕三場までである。面白いと思ったのは、画家が印象主義をして、「現代芸術が嘗ての大芸術に引けをとらないで済むことだ」と語らしていることである。1900年前の芸術的な状況を思うと同時に、所謂表現主義的な創作時期とされるようなその現場での視座を示している。これに作曲家が三十年後には全く視座から視線を投げかけていたことを感じさせる「無用な台詞」である。



参照:
燃え尽きそうな味わい 2015-05-02 | 文化一般
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-05-21 18:26 | 文学・思想 | Trackback

ブロキュパイの果てに

土曜日に燃料を35Lほど入れた。このところのユーロ安で一時は120セントを割ろうかとしていた価格が133セントなら仕方ないと感じるようになった。折角車を走らせることが多くなると思っていたのだが、これでは直ぐにEZBの金融政策の成果が出て、インフレ率が上がるだろう。

今週はEZBの新事務所オープンでオキュパイが暴れた。流石にフランクフルターアルゲマイネ新聞は、ヘッセンの左翼党の言動を強く批判して、警察の過剰警備を批判した緑の党も叩いた。左翼のTAZもブロキュパイの「不測の事態」も伝えると同様に100人を超える傷害と緊急車両などへの放火、一億円相当を超える被害額の責任を問うている。世界から合流して一万人規模の活動となったようだが、アルテオパーの前の広場などでも放火をしていることからすれば、警察の発表のように同時多発的に計画されたものには間違いない。

この間長い間支持も広く受けたフランクフルトのブロキュパイ運動であるが、ここにきて暴漢がここまで騒ぎを広げるとなると、一線を画す市民が増えて来るに違いない。そもそもこの運動自体が時を経て、若干その意義を失ってきたような気もするのは私だけだろうか?アタックなど反グロバライズ団体などもあまり聞かなくなってきている。反資本主義やその類の言論が色褪せてきたのは当然で、十年前とは大分世界が変わってきているのだ。

フランクフルトから帰ってきた。やはりあそこに行くと、ニューヨークなどのチンピラとは違うグローバリズムを感じる。スイスなどの大銀行のビルを眺めるにつけ、反グローバリズムの声があそこで起きないならば、どこで起きるのかと感じるほどだ。運動自体は当然であろうか。



参照:
ブロキュパイの週末を終えて 2012-05-22 | 歴史・時事
情報の集約を阻止する運動 2011-10-30 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2015-03-23 07:45 | 文学・思想 | Trackback

啓蒙されるのは誰なのか

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シャーリ・エブドの最新刊のカリカチュア―がエジプトのスンニ派から批判された ― イスラムの国で最高の文化を誇るシーア派のペルシャも批判した、世俗のトルコはカヴァーの画像のあるサイトを見れないようにして、大統領はPEGIDAとISISを同一視した。批判されるのは想定内であろう。トルコ語やアラブ語でも出版する確信的な行動である。それによって啓蒙されていない人々に何かを訴えかけることが出来ていると信じているのだろう。そうした希望がなければできない行為であり、ドン・キホーテ的な英雄行為である。

その記者会見ぶりや仕事ぶりを見て、我々啓蒙された近代人はその姿に感動する。そしてその雑誌のカヴァーの表現に全てを読み取る。そして連帯を誓うのだ。少なくとも何らかのものを表現したり、創造したりする人々は、こうした英雄的な活動を無視したり、第三者的に中立的な立場では報じたりできない筈である。

この件に関して文化欄が解説をしている。この預言者が誰のことを嘆いているか?と単刀直入に問うている。人殺しにか、命を存えた人にか、これならばあまりにも軽薄すぎる。それならば、残された人々にか、そのもの殺された人々にか?緑の背景はイスラムの色であり、希望の色であると分析する。我々世俗の人々にとっては、その穏やかな預言者はキリスト教的隣人愛に満ちていて、描くこと自体が問題としてもこれ自体が挑発などとは考えられないと確信するのだ。しかしイスラム社会の反応は「世界的な共通認識としての宗教的権威への尊重があるべきだ」と違っていた。そして、今回の事件を通して、預言者を描くことを禁止することの表現の自由の考察で落着するのではなく、宗教的権威にまたは不当な死罪に疑問を抱くところが問題になるのだとする。要するに預言者の具象化などは一つの軋轢でしかないとされる。

テレグラム紙は、そもそもカリカチューアの表現が攻撃の目標ではなくて、イスラミズムが夢想するモスリム対非モスリムの世界市民戦争が目標だと書いたようだが、そもそもイスラム社会での表現への制限は布かれていて全く繰り返す必要のないものであるとして、その事例を挙げる。西側のジャーナリストに対するもの以上に厳しく罰せられたり、凄惨な現状が書き連ねられる。カヴァー以外の内容の紹介もあるが、結局はこの表紙で語り掛けられたものは、我々の連帯へのメッセージであるとする結論に他ならないだろう。

水曜日IWJの生中継で辺野古ゲート前の闘争を見た。五六台のバスがやって来て、一時間半ほどで牛蒡抜きとなった。沖縄県警が行った反対派のゲート封鎖に対する強制撤去である。トレーラーがゲート内に入ると中での作業を阻止する方法がないらしい。夜の22時に遂行する抜き打ちの方法がとられた。どうしても市民の数が少なく、手薄な割にはかなり抵抗していた。大飯原発の時の抵抗運動との違いは、警察力を指揮する知事が市民運動の背後にあることで、警察権力の暴走を露わにしたことだろうか。その後、沖縄県知事の一言を観たが、「残念」としか漏らしておらず、県警に関しては一言も言及はなかったのではないか。東京の政府と沖縄の「自治政府」の間に対話がなされていない状況は異常であり、この状況からすれば東京の政府が独裁政権であることが明らかだ。諸外国がそのように認識していても、気が付いていないのは日本人だけだという指摘が木魂する。

なるほど、24時間体制で作業阻止を企てた100人ほどの住民や支援者は立派であるが、情報が流れて、メディアや二人の参議院議員が駆けつけているのにも拘らず数百人規模にもなっていなかった。学生などは幾らでも時間がある筈で、その示唆行為の価値つまり表現の価値を理解しているならば当然のごとく集合する筈なのだ。ここにイスラム社会との共通点がある。モスリムとして生まれ育って、その社会の中で一生を暮していると、なんら疑問も覚えずに、預言者の像に憤慨するのである。そして、そこでは日常茶飯に悲惨な人権の蹂躙がなされている。

これを許してならないとするのが西欧であり、こうした価値観を戦略として、世界を指導していくのである。新聞が書くように、今回のシャーリー・エブドの再刊で、更なる攻撃に晒されて、世界中でそれが流されて、さてなにが変わるだろうかとの問いかけがある。その通り、このカヴァーやこの雑誌の手法で啓蒙されるのは西欧人でしかない。ムスリムの反感を煽るだけかもしれない。それでもさまざまな方法を通して、我々の連帯を通じて、語り掛けていくしか方法はないのである。それは、ロシアに対しても、中共に対しても、日本に対しても全く同じことなのである。それがジャーナリズムと呼ばれるものなのだ。

毎日新聞編集部の見解などを読んだ。また今回の件は以前のデンマークのそれよりも判断を日本で難しくしているという論文も目にした ― 私の場合は全く正反対であった。前者は、ムスリムの心情を害したくないとする論調で、ジャーナリズムとは一切関係のない表明を編集者がしている。後者は、サイードの言葉などを例にとっての脱構造主義からの視座を想起させているが、まさしくこれが戦後レジームからの脱却と叫ばれるような社会の低脳化の典型に収斂されることになっている。一体日本人はなにを学んでいるのだろう?科学をどのように考えているのだろうと改めてその付け焼き刃の近代文化を確認することになる。文化人がこれでは、神道も天皇制などの扱いも明治の宰相の知恵の域を一つも出ておらず、まともな対話が出来ない元凶となっている。


今日の音楽:モーツァルト作曲「後宮からの逃走」



参照:
Um wen weint Mohammed?, Michael Hanfeld, FAZ vom 15.1.2015
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
不可逆な我々の現代環境 2014-10-12 | 歴史・時事
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2015-01-16 01:59 | 文学・思想 | Trackback