カテゴリ:マスメディア批評( 303 )

いつも同じことの繰り返し

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毎年同じころに同じことをしている。昨年9月に購入したNASの容量が一杯になってきた。2TGの容量に倍増したので二三年は大丈夫かと思っていた。その後ストーリミングの動画をコピーするソフトを常用するようになったので、録画が飛躍的に増えて、予想を超える勢いで保存するファイルの容量も増大した。

そこで、ノートブックのHDDを交換したのもその後の11月だった。NASの中にはバックアップが終了した2016年12月までのファイルが入っていた。幸い乍ら壊れたHDDもデータを取り出しだけならまだ使えそうなので、それ以前のファイルのコピーは消去しても構わないと結論した。これで180Gほどの容量が開くので、再びバックアップとしての容量が獲得できるだろう。

同時にHDDに入っていて不要なファイルを消去した。ザルツブルクの「アイーダ」とかバイロイトの「マイスタージンガー」とか、「アンドレアシニエ」などをどんどん消去する。消せなかったのは酷い音楽が流れていた「ティートの寛容」ぐらいだろうか。デジタルコンサートホールのものをNASにアーカイヴに入れてHDDから消し去る。こうしてバックアップすべきファイル容量が削減可能となる。

結局1.8Tの半分以上を消去した。これで、1TのHDDのバックアップは完全に叶いそうだ。ただしHDDの容量自体がそれほど余っていないのでこちらもできる限り早めに整理しておかないとバックアップが済んだところでNASの容量もやはり一杯になる。

序に、NASの外付けHDDもスキャンチェックをしてデフラグを掛けた。一部修正が必要で、更にフラグメーションも7%ほど進んでいた。バックアップが壊れていると用をなさないので、早めに修正しておいてよかった。

タブレットのアンドロイドの方も調子が良い。なによりも改善されたのはパーフェクトヴューワーという画像ソフトで、NASからの呼び出しにストレスがなくなった。その他にもNAS対応のアプリケーションも増えて使いやすくなってきた。二年前とは状況が大分変わってきている。やはりこれは、WLAN内でのコマンド等の端末が主力商品になってきていることと関係していて、ソフトも洗練されて来ているのだろう。音源もタブレットでコマンドを与えておくと、タブレットをダウンさせても音が鳴っているようになった。

NASに必要なファイルを入れておけばPCなどにはファイルを貯めておく必要が無くなり、次期ノートブックなどもHDDからSDDへと移行し易くなってくる。なによりもメカニックなストレージがなくなることで動かしやすくなるのも、ノートブックのドッキングステーション化とは別方向での可能性が高まる。

新聞の文化欄にジェームス・レヴァインの件が触れられている。未成年者へのセクシャルハラスメントだが、三人の一人は17歳のセントポ-ル室内管のベーシストでクリス・ブラウンというらしい。なるほどこのような具体性があると、四月に告訴されたミュンヘン高等音大の校長だったジークフリード・モイザーと殆ど変わらない。パワーハラスメントにもなっている。昨年NYから強制送還されたゲヴァントハウス弦楽四重奏団のシュテファン・アルツベルガーのような単純な婦女暴行とどうしても比較してしまう。新聞にもあるように音楽の世界も芸能界であり、学生として教えを受ける方も、授ける方にも一種の合意があるということになる。何も音楽学生の経験談などを聞いてみる必要もないことだ。その一方で、昨年の写真家のデーヴィト・ハミルトンなどのように自殺へと追い込まれるような大事になるのは、80年代では到底考えられなかったような未成年者保護への意識が厳しくなった世論背景がある。全く好悪の問題ではない。

但し、モイザーやアンスベルガーの数多くの録音を楽しめるかどうかはその罪状や噂とは関係ないだろう。駄目なものは最初から駄目なのだ。因みに個人的には、充分にあるバーンスタインの録音以外にもレヴァイン指揮のも幾つかある。なにも今後ともそれに手が伸びるかどうかは変わらないが、そもそもそれほど有難味を感じているものではなく、最近はほとんど関心がなく元来優秀な管弦楽の演奏録音として興味があったもので、デビュー当時から知っていても生で聞こうと思ったこともない指揮者である。モイザーの録音もご近所のヘルシャーとの録音ぐらいだろう。演奏会もそれを聞いたが、あまり琴線に来なかったこともそうした面の表れともいえる ― その時は健在だった彼の宰相メッテルニッヒのお孫さんと一緒に聞いた。アルスベルガーはその活動からして箸にも棒にも引っかからなかった。要するに演奏実践に全てが表れるというような妄想を持ってはいないが、少なくともまともな音楽をしている人物かどうかが分かるぐらいでないと、聞き耳とは言えないのではなかろうか。音楽愛好家に言うのではなくジャーナリストと称する連中に言いたい。シュターツカペレを指揮したマーラーがどうだったとかいう前に芸術を報じろと、それが仕事である。そうすることで、1980年に逮捕されていたとか、1997年にはミュンヘン政界で話題になっていたとか、ミヒャエル・プレトノフへの言及など要らぬ言い訳を書く手間が省ける。



参照:
つまらない音楽家たち 2016-07-01 | 文化一般
ドナウヴェレという菓子 2016-02-12 | 料理
公共放送の義務と主張 2005-12-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-12-06 20:42 | マスメディア批評 | Trackback

大人ではない子供の世界

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プッチーニの三部作第一部の「外套」を見た。なるほど子供の時には関心がなかった筈だ。痴話物で、「道化師」などは分かってもこれは流石に幾らませていても分からなく関心がなかった筈だ。流石にであるが、若い嫁さんをもってという前提となると、また今少し揺すぶるものがある。

イタリア語の「外套」の意味は分からなかったのだが、恐らくこの日本語訳はそれほど決まっていないと感じた。細かくテキストを見ていくともう少し真っ当な訳が浮かぶかもしれない。少なくともその「外套」は嘗て若い嫁さんを温めて、そして最後にはその愛人の死体を隠しているというだけの意味ではなかろう。文学的に二人の関係がタイトルとしてしっかり表れているような和訳でなければいけないと思う ― 歯に衣着せぬの反対の感じになるのか。

音楽的には、最後のドラマティックな殺人シーンよりも丁度中間の浮気シーンが中心だと思った。その前後の流れでが全体の三部作に繋がるのではないかと感じた。更に最初の12拍子や三拍子系が当然のことながらセーヌの流れや舟唄に通じるのは在り来たりだが、その後にヴァルツァーに持ってくるなどの工夫が面白い。更に歌の線とユニゾン楽器などの書法がメロディーの線を重視するとともに、それが歌い易いだけではなくて、厳密に合わせていく必然性を感じる。

ダウンロードしてあったシャイ―指揮のスカラ座の演奏では、あまりにもお手のもののスカラ座の管弦楽団をそこまで厳密に振ろうとしていないようで、明らかに歌に合わせるような指揮をしているようだ。それはそれで本場物の感が強く大変な強い効果を上げているのだが、なにか手持無沙汰な感がするのは、クラウディオ・アバドがあまりプッチーニを得意としていなかったことと似ているような気がする。イタリア人にとってはあまりに日常過ぎてこの作曲家の書法に関心を抱くほどの距離感がないのかもしれない。(続く

ペトレンコ指揮の「子供の不思議な角笛」と「ヴァルキューレ一幕」を無事に鑑賞した。ラディオで聞いていたから改めてとは思うが、前半の「角笛」は四回目のミュンヘンでの本番とは大分異なっていて、動画を見ると上手く行っていない部分が見て取れた。管弦楽団の精度も異なるが、歌手のゲーネの方も流石に合わせてきていたので、上手く運んでいたところもNHKでは全く駄目だった。熱心にマーラーの歌曲を歌っているようだが、どこまで読み込んでいるのか疑問に思われ、この歌手の本領は「ヴォツェック」の様なオペラの狂人の役ではないかと思う。更に、それなりの音質なのだが、カメラアングルが歌手に集中していて重要な音楽的な情報にも欠けていた。資料的な価値はある映像かもしれないが、芸術的にはあまり意味ない映像だった。それに引き換え後半の方はやはり興味深いところが更に前半でも見つかった。NHKのカメラディレクターもマーラーの歌曲よりは「ヴァルキューレ」の方が曲に馴染みがあるのだろう。



参照:
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-11-28 23:58 | マスメディア批評 | Trackback

「ヴァルキューレ」一幕後半の放送

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キリル・ペトレンコ指揮「ヴァルキューレ」一幕後半の放送を観た。コンサートのヴィデオは無駄という持論だが、予想以上に興味深かった。先ず何よりもラディオ放送のそれとは、少なくともオンデマンドにおいて、音響が異なっていた。ミキシングが変わっているのかなと思ったぐらいだが、恐らくドルビーサラウンド放送もしているのだろうから、2CHでのそれは変わらないと思う。しかし視覚的な錯覚とは別に明らかに高音も低音も伸びているようで、前に出てくるとともに定位感があって、低弦やティムパニーの迫力などはラディオでは全く分からなかったものだ。全コンサートをしっかりと観たいと思っている。

しかしハイライトでも視覚的に座付き管弦楽団の面子だけでなくて、その表情などがとても面白かった。一番気が付いたのは昨年の欧州ツアーにも乗っていたピッコロの女性の好奇心溢れる視線だ。今回は第三フルートを吹いているのだが、やはり手持無沙汰になると会場の様子を窺っている - 私個人的にもこれを見ていて気になるのは東京の聴衆である。特に音楽が静まってくる時も聞き入るような雰囲気があって、どうしてもどのような顔をして静まり返っているのだろうと気になるのだろう。

クラウス・フォークトが語る「日本人のヴァークナー愛」は舞台裏での話題になっていたことは確かなのだが、それを受けて歌手としても、熱心なファンにもいいところを見せようと、一生懸命に歌っていることがひしひしと伝わってきて、パントラコーヴァ―が絶叫で想定以上の大見えを切ってしまったものだから、ペトレンコが「あれあれ、仕方ないな」となって、それがコンツェルトマイスターリンの表情にも反映されたりしていてとても面白い。

指揮者は暗譜をすることでアイコンタクトを楽員と取れるというのがあるが、チェリビダッケの凝視するようなものとは全く異なるコンタクトがとてもしばしば取られているのを見て、教壇の先生と生徒の様なものだと感じた。特にトュッティ弦楽器などでもコンツェルトマイスターよりも指揮の一撃を見るような俊敏で精妙さがこの演奏の価値を表している。

指揮者本人もこうした形での上演は本望ではなかったであろうが、これだけのタイムレスの歌手とのアンサムブルは舞台ではありえないので、一月の最後の「指輪」での特に「ヴァルキューレ」が益々楽しみになってきた ― そもそもこれのためにツィクルス券を購入した。こうした精妙でリリックな演奏が可能となれば所謂蓋無しの上演での極致を示してくれる可能性がある訳で、それによってようやくこの楽劇を心底楽しめることになる可能性が生じてくる ― アンニャ・カムペのジークリンデの弱音での発声も「マクベス夫人」で実証済みなのでこれまた楽しみである。

この東京公演での「ヴァルキューレ」は、音楽監督が長らく振っておらず、最後に指揮したのは2015年のバイロイトであり、その前の公演では管弦楽団が音を出し過ぎていて評判が悪かったので、また楽団も演奏するのはその秋のシモーネ・ヤングの指揮以来なので、どのような演奏を短時間で纏めてくるのかにとても興味があったのだ。楽団は慣れているとはいいながら少しの練習時間で天晴としか言わざるを得ない ― この練習風景が一番見たかった。

やはり座付き管弦楽団は基本的に舞台の上でオペラを演奏することがないので ― シャンゼリゼ劇場公演やカーネギー公演などを除くと ―、なるほど指揮者が語った「明るい音響だから、いつもよりも明白に演奏してください」の意味を考えさせられるのだ。四週間ほどの演奏旅行で一部の楽員は交代で帰国していたようだが ― 第三オーボエもべルリンフィルでソロで共演した奏者が吹いている ―、疲れも見せずにここまで覚醒して演奏しているのはやはり上手に動機付けが出来ているということなのだろう。

余談であるがヴィデオでこそ感じた印象は、特に女性団員がホテルの美容院かどこかでやってもらっているのだろう、なんとなくその髪の扱い方に東京の美容師のそれが見える。カメラが入るとなるとやはり準備するのだろう。一方まだ熱気の残る東京でお髭を手入れするかと思ったが結局はむさ苦しいままに通したようだ。

それにしても放送のカットなど、少なくともこのヴァルキューレ一幕のハイライトに関しては、最初のマネージャーらしきの口止め風景なども含めて、とてもよく出来ていた。このハイライトだけでもとても貴重な映像となっている。



参照:
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-11-23 21:08 | マスメディア批評 | Trackback

針が落ちても聞こえるよう

週末は、暖かかったのだが、運動が出来なかった。とても時間も余裕もなかった。次のコンサーツも二週間後に迫っていて、二種類のプログラムもお勉強しておかなければいけない。一つは、バーデンバーデンでのゲヴァントハウス交響楽団の演奏会で、ブルックナーの七番とメンデルスゾーンのヴァイロリンコンツェルトである。両方とも比較的問題の無い曲なので時間は掛からないと思うが、先ずは無難に後者はブライトコップ社の楽譜をDLしておく。

このコンサートの個人的な聴きどころは、何よりも初めてのゲヴァントハウス管弦楽団の生体験なのだが、この管弦楽団が本格的な由緒のある本格的な交響楽団なのか、それともその大規模所帯で当地のオペラ劇場で弾いている座付き管弦楽団なのかである。今まで考えたことが無かったのだが、今回ツアーの指揮を執る九十歳のブロムシュテットに言わせると、クルト・マズアーが残したその楽団に苦労した話しや、今年になって聴いたコンヴィチニー指揮「タンホイザー」の録音を聞くとどう見ても地方の座付き管弦楽団としか思えないからである。

ミュンヘンの座付き管弦楽団が舞台上でも向上しようとしているようだが、現在のそれと比較してゲヴァントハウスは全く違うのか、似た方向にあるのかなど知りたいと思う。少なくとも指揮者リカルド・シャイーが長く留まるような管弦楽団ではなかったようで、後任指揮者アンドリス・ネルソンズもどこまでやれるのかなどと、とても疑問に思っているからである。

もう一つのクリーヴランドの「利口な女狐」が結構厄介である。楽譜はピアノ譜を落としたので、音源として週末土曜日にデジタルコンサートでライヴで流された土曜日のベルリンのフィルハーモニーからの映像がULされるのを待つ。それを落として一通り確認しておきたい。ピーター・セラーズは今度はどのような仕事をしているのだろう。そして、ベルリンのフィルハーモニカ―とクリーヴランドのそれを直接比較出来るのが何よりも嬉しい。

陽が射して室内にいると黄金の10月が漸くやってきた気がすると同時に眠くて眠くて仕方がない。(承前)そこで先日のミュンヘンでのコンサートでの二つの批評記事に目を通す。先ずは前半の「子どもの不思議な角笛」に注目して目を通すと、思わず吹き出してしまった。一つは南ドイツ新聞なので日刊紙の書き方でもあるのだろうが、もう一つはネットでのクラシック音楽サイトであり、何よりもマティアス・ゲーネの「高等な芸術」を報告している。

前者は、彼の声がまるで高圧に閉じ込められたバスの力強い声のようで、柔らかな高音も絶えず基音に脅かされているようだと書き、その雷音は、まるで国立劇場の壁を震わすようだと表現している。声の大きいドミンゴではないので、まさかNHKホールを共振させるようだと思った人はいないと思うが、こういう表現も日刊新聞向きで面白い。

後者での叙述は若干専門的になるが、基本は変わらず、なによりもこの歌手の風貌とその芸風が殆んど狂人的な雰囲気を醸し出していて ― それ故にウラディミール・ユロウスキー指揮のザルツブルクの「ヴォツェック」の名唱がボツになったことが惜しまれるのだ ―、ここでは狂気と信心が最早かわらず、彼が丁寧に歌えば、聴衆はこの歌手が言葉を忘れたのではないかと凍り付きそうになるというのである。

そしてその声をして、まるでくすくすと火が燻っているようで、「この世の営み」での„Und als das Brot gebacken war, / Lag das Kind auf der Totenbahr.“ を挙げて、そこでは殆んど無色彩の声が、「トラムペットが鳴り響くところ」の„Allwo die schönen Trompeten blasen, / Da ist mein Haus, / Mein Haus von grünem Rasen.“ では、ぱっと燃え上がっていたと書く。勿論そのような無防備な道すがらを伴奏して、ペトレンコは只の名人芸を超えて、色彩と影でゲーネの「高等な芸術」を可能にしたと書いている。

キリル・ペトレンコは、この後期ロマン主義的な管弦楽のマーラー作品を古典現代曲の室内楽的ばりに、丁度ショスタコーヴィッチのそれのように扱い、そこでは千変万化のリズム的自由自在だけでなくて、木管、金管、弦の合成で色彩的な「イディオム」で彩ったとして、そうしたマーラーの近代的な音述だけでなく、屡々オペラ的な繋がりを感じさせたと書く。

そして、「聴衆は、今晩はいつもの食傷気味の粉ものマーラーでは無いと逸早く察知して、曲間では肺炎のサナトリウムかと疑わせるような、言葉の綾ではなく針が落ちても聞こえるかのようだった」と興味深い記述があり ― 到底コンサートホールのそれには比較出来ないと思うのだが ―、日本の聴衆は今後ともこのような記述がある度にほくそ笑むのではなかろうか?(続く)



参照:
"Musik als Gewaltakt", Reinhard J. Brembeck, SZ vom 11.10.2017
"Petrenko beeindruckt mit Mahler und Brahms", Bernhard Malkmus, KlassikInfo.de vom 11.10.2017
夕暮れの私のラインへの旅 2017-09-29 | 試飲百景
秋雨で10月のような気配 2017-08-12 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-10-16 23:26 | マスメディア批評 | Trackback

逆説の音楽的深層構造

強い雨音で目が覚めた。明け方の雨で、その後晴れたが頂上まで走り上がる気持ちがすっかり失せた。休日明けのことを考えれば無理することは無い、一日お休みするだけだ。

ブラームスのお勉強をしなければいけないのだが、なかなか端緒につけない。朝から前日にネットに出た「タンホイザー」の朝日新聞の評の独タイトルを考えていると時間が掛かった。理由はとても短かな字数の紙面に内容を書き込もうとしているからで、その内容の要約に手間取った。朝日のネットに先ず無料ログインしてそれを読んでも何が言いたいのかよく分からなかったが、いざ要約しようとするとその最も分かり難い部分を読み解く必要が出てきたからだ。以下の部分になる。

「不条理劇のごとき演出に、ペトレンコの音楽は驚くほど一体化している。…とりわけドラマの深層の微細な心理…しかし深層において音楽の構造は完全に組み替えられている…」

新聞の見出しはこの「一体化」を引用しているが、それ自体も全く分からない。「不条理劇のごとき演出と音楽、驚くほど一体化」のその説明が更に難しい。「しかし深層において音楽の構造が組み替えられる」というのは、なにか作為的な演奏解釈によって劇的構造が変わったようにも読めるが、その直後に「決して奇をてらった演奏ではない」と断っていて、それならば深層がどこに掛かるかとなる。ここから学のある人ならばディープストラクチャーなどの用語が出て来て、すると組み替えられるのは、音楽的なマニエーレンとかそうした表層的なことではない、深層のことと理解するのかもしれない。これを訳そうとでも思わないと、そこまで読み解こうとは誰も思わない。すると完全に記号論やチョムスキーなどの用語となって来る。書いているのは音楽学者となっているので、古典的な楽曲分析のようなものを期待すると全く異なる。要するに大衆紙朝日新聞のこの小さな記事を読んで、肝心の箇所を理解できる人などどれぐらいいるのだろうか?

提携紙である南ドイツ新聞のアーカイヴでミュンヘンでの「タンホイザー」初日やアカデミーコンツェルトの評を読んだりすると明らかにフランクフルターとは程度が異なる。この朝日新聞のようではなく、フランクフルターでは少なくとも三分の二紙面ぐらいは充てられるので、専門的な概念も一行では終わらせないので最低索引も想像がつくようになっている。それに比較すると明らかに音楽会短報とエッセイが混じったような形でとても無理をした紙面つくりの文章となっていて残念だ。

少なくともこの記事の要点は、今回のキリル・ペトレンコ日本デビュー公演で万人がその職人的なその腕に関しては認めたところで、その先の芸術的な意味合いについて深く切切り込もうと試みている事だ。その点に関しては、こちら本国でも、流石に最近は否定的な懐疑は見られないが、切り込んだ文章を読んだことが無い。この指揮者の譜面やその他の第一次資料へ考究的な矛先がその職人的な手腕によってどのように演奏実践として表れているかの言及は、こうした美学的な概念が上手く当て嵌まる。特に今後レパートリーとして耳にすることが増えるであろうシェーンベルクの演奏実践解釈などにおいては重宝することは間違いないのである ― ブラームス解釈はその点でも興味深い。

ベルリンの新任公演となったウラディミール・ユロウスキーの評判がとても良くて、ミュンヘンの次期監督候補にもその名前が上がって来ている。今夏のザルツブルクの「ヴォツェック」の放送を聞こうと思ったらボツにしたようで、これまたヴィーンの座付き管弦楽団の演奏では致し方なかったのかもしれない。指揮技術的には凌駕するようで、ペトレンコを除く50歳代以下の指揮者では断トツに業界での評判が高いようだ。今回もシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、運命交響曲をマーラー編曲の大編成で演奏するだけでなくノーノを集中的に演奏していて、マーラーの交響曲二番をダイナミックスを極力落として、優しい音楽としているから東京のペトレンコとも共通していて恐らくそれなりの共通とする根拠があることなのだろう。



参照:
バイエルン国立歌劇場「タンホイザー」 演出と音楽、驚くほど一体化、岡田暁生、朝日新聞
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
定まるテムポの形式感 2017-09-04 | 音 
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by pfaelzerwein | 2017-10-03 22:52 | マスメディア批評 | Trackback

想定を超える大きな反響

峠へと雨露が滴る森の中を駆け上がりながら、二週間前と同じように東京でのコンサートの響きを想い浮かべていた。YOUTUBEにあった「原光」が気になっていた。ネルソンス指揮の演奏があまりに浄化され過ぎているような感じがして、あの交響曲の一楽章と最終楽章のごつごつしたお上手にも芸のある作曲でない第二交響曲からするとおかしいと感じた。マティアス・ゲルネの選曲配置にしても、キリル・ペトレンコが指揮するとなるとそこにもあたって準備している筈だとか考えていた。

今回のアジアツアーの最終公演のこのプログラムの成果の行くへは最も分からなかったものだ。一つには、前半の「子供の不思議な角笛」はこれから一週間後にミュンヘンで演奏されるものであり、同時にNHKのマイクとカメラが入っているとなると、初めての本番でどのように纏めて来るのかは想像がつかなかった。もう一つは、「ヴァルキューレ」で、この指揮者にとっては最も評価が定まらなかった演目で、2014年のバイロイトでも指揮者よりも何よりもアンニャ・カムぺのジークリンデに喝采が集まり、2015年の上演で漸く他の夜と同様に評価を決定的にしたぐらいで、殆んどこの音楽監督には鬼門であった。

それ故にかどうかは分からないが、あのごたごたのあったバイロイトの後の2015年10月には指揮をシモーネ・ヤングに譲って ― その12月の「神々の黄昏」は名演だった ―、より気になっていたのであろう「ルル」の指揮を急遽受け持った。またミュンヘンでも所謂「蓋無し上演」においても完全な評価は得ていないのである。なぜこの楽劇だけがそれほど成功しなかったかにはそれなりの作曲上の理由がある訳であるが、これに関しては何度が言及しているので今は述べない ― しかしその内容を吟味することで音楽創造理解への端緒になることが多く、先月の台湾の作曲家女史の「演奏会に興奮しておらず、勉強しなさい」というのは正しい。その意味からもキリル・ペトレンコの演奏実践には汲み尽くせない教えがあるのだ。

そのようなこともあってミュンヘンでの最後の「指輪」上演で「ヴァルキューレ」だけは行きたいと思ってツィクルス券を購入したのだった。そして今までの日本公演での反響を見ていると、なるほど「蓋無し」でも上手く行く可能性が高まったと感じた。それどころかNHKホールでの反響を読むと、明らかにバイロイトの「蓋付き」では出来なかった譜読みをしているようで、更に一月公演に期待が高まった。実際、この作品では「蓋付き」が必ずしも有利な訳ではない。

今回のツアーの評価は、独逸からのジャーナリストの報告などを含めてもう少し時間が掛かるが、凱旋公演となる10月のアカデミーコンツェルトの演奏内容に表れてくると思う。マーラーは、私が聞くのは同じプログラムの四回目公演となるので今度は逆にこちらで間違いなく精度が上がっている予定だ。そこにキリル・ペトレンコにとっては新しい領域であるブラームスも管弦楽団の表現力の向上から期待が高まって来た。そもそもベルリンのフィルハーモニカ―よりもその個性からして音色的にも先ずは好演になりそうだ。そうなると念入りにお勉強しなければいけないのでとても時間が足りない。

放送予定の無いミュンヘンでのコンサートが終わった後でNHKホールでの公演はNHKラディオ放送で聴ける。TV放送の方は直接観れるかどうかは分からないが、先ずは聴けば今回の最終公演の意味合いが確認可能な筈だ。それにしてもバイロイト巡礼者をはじめとする日本からのオペラファンやそのNHKからの放送、そして専門家と称する人々が、今ドイツで起こっている現象を何人も体験しながら本当のことを充分に伝えていなかったのは、なにも個々のジャーナリストとしての素養だけでなく、やはり日本のそれが商業ジャーナリズムの冠をつけたものであるかを示すからではないだろうか。このメディア現象についても関心事なので改めて考察したい。



参照:
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-01 21:42 | マスメディア批評 | Trackback

ベルリンから見た日本公演

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ベルリンからまた別の視点でミュンヘンの劇場の日本公演をベルリナーモルゲンポストが報じている。最も異なる視点は、キリル・ペトレンコに逸早くベルリンへと来て欲しいという願っている立場からである。一寸嫉妬のようなものさえ感じさせる日本公演のようだ。

ホルン奏者で楽団役員もしているクリスティエン・ロフェラーにインタヴューしている。45歳の音楽監督は初日の打ち上げや飲み会など少しだけ座して本当に直ぐに居なくなるので、次の公演のことに気が付いてしまうというのだ。そして毎朝ピアノに向かって、終わり無き勉強をしているというのだ。これだと思う重要なことは直ぐに手をつけて、改善してしまうという。そのような集中した仕事ぶりから管弦楽団としても市場で高い評価をものにして、「遅くともペトレンコがベルリンの後継者に推挙されたことで、幾らかは注目度が高まったが、コンサートの管弦楽団としての評価は我々はまだまだと思っている」と付け加える。

今回の日本デビュー演奏会のリハーサル風景を伝える。管弦楽団が静まったところに、その体操選手の様な体つきで、首にタオルを掛けペットボトルを携えてニコニコと入って来ると、まるでヨガの先生のようで、「こんにちは」と軽く会釈すると、楽団からくすっと笑いが漏れたとある。

先ず最初のトラムペットの休止からして細心の注意で稽古が始まり、「明確に」と綿密になされたフレージングに対し管楽器に、「ピアニッシモそして歌って」とまるで何も練習していなかったかのように求める。四回も既に本番で演奏しているにも拘わらずにである。それを三回繰り返すと、死にそうな朽ちそうな音が出て、またアダージェットでは何よりもダイナミックを注意深く指示したとある。

また「タンホイザー」のリハーサルでは、ロメオ・カステルッチの演出の一幕二場の舞台への繊細極まりない照明のお陰で、ヴィーナス役のパンクラトヴァが指揮者が見えないといなり、技術屋さんによって解決されなくてはならなかったが、バッハラー支配人は「ペトレンコは、楽譜や彼の頭にあることは最後までやり遂げないと承知しないが、一方で現実的な劇場というものをよく知っている。」とその妥協の出来る人柄を休憩時に語ったという。

その妥協性というのは、ベルリンで指名されてからの2021年までの契約延長への決断に表れており、「彼は、只仕事のモラルだけでなく、エトスというものをもっており、ミュンヘンに関しては私との間でも、またベルリンとの間でも、どちらにも良かれと思って決断しようとする」とバッハラー氏は繋ぐ。

2019年以降の彼の計画の判断が下されたことで、更にペトレンコへの評価が高まったとあり、先のロフェラー氏は言う、「基本的に他の指揮者なら言うよね。ベルリンが呼ぶから、逸早く行くよって。そもそも彼のことは信じられないぐらいみんな評価していたけど、彼が信義を重んじるというのを特別に評価してるよ」。

こうして社交の場でもある「タンホイザー」初日の幕が開き、序曲では美的な構造が、弦楽器の透明な音がその重量感を失うことなく響き、管楽器は精密にそれでも輝いて、ペトレンコの両手は宙に優しく浮かんだという。ヴィーナスの場面では、パントラコヴァのレガートと管弦楽のエレガンスに殆んど夢想するだけしかなかったと、リサイタルで繰り返された最初の男声合唱も同質化してリズム的に揃っていたとある。終演後に歌手や彼に喝采が集まると職人のように、その仕事ぶりで伝統を引き継いだとしている。

それにしても、このようなまるで藤山寛美の芝居の様なウェットな内容の文章がベルリンの立派な有力新聞に、それも最高品質の芸術のなされる最高のキャリアに係るところで綴られる、そのことを殆んど奇跡のように思う。



参照:
Üben, üben, üben - Mit Kirill Petrenko auf Tour, Rebecca Schmid, Berliner Morgenpost vom 27.09.2017
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-09-27 23:32 | マスメディア批評 | Trackback

「徹頭徹尾はっきり正確に演奏…」

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南ドイツ新聞ネットの無料お試し2週間を始めた。ドイツの完全ぺーパーレスの試みとしては先駆的なようだ。正直新聞の内容には期待していない。文化欄となると更に興味がない。左派なら更に左のTAZなどの方が興味がある。マルキズムの顔が出してくるから文化批評も鋭くなる。その点では付け焼き場の様な教養に問うような文章では致し方が無い。

ワクワクして有料のページを開けると ― まるで雑誌の袋とじのようだ、案の定、文化批評文明批評までは到底及ばないが、身丈のあったジャーナリズムがそこにあって、まるで朝日新聞のようでシニックな見方が少し引っかかる。要するにドイツの中堅層の一般的な視点がそこにある。そして同時にフランクフルトアルゲマイネのエリート購読層の差がクレパスのように開いていて、まさしく今回の選挙の本当の争点、つまり「如何に広がる意識的社会格差をも狭めていくか」という国内政治の世界的な共通課題がそこに隠されている ― AfD支持層は、決して社会の底辺層ではなく、少なくとも西側では高等専門教育を受けた層が中心だろう。

国民政党が軒並み票を減らしたのは大連合という連立政権で見捨てれられたと感じる社会層で、その人たちは代替としてAfDに票を投じた ― つまり予想されるジャマイカ連合政権は各々の支持層に近い社会層の声をしっかりと聞いて政策に活かしていかないと政治離れとなる。そのポピュリズム右翼政党は独自の政策すら持っておらず不満を吐き出す本音の便所の落書きの様なものであるが、連邦議会第三党となると政策の一つ一つに解決策を示していかなければいけない。そうなると更に内紛が予想される。先ずは選挙速報に出てきた女性が大きく胸を開けて見せるのも如何に男性の支持を集めて主導権争いを勝ち抜くかを示していた。何一つ語る政治が無いので性事に訴えるのがこの手のポピュリズムの典型だ。

無料のお試し有料ページで何よりもの情報は次のようなキリル・ぺトレンコのタンホイザー初日前のリハーサルでの言葉であった。

NHKホールは、とても明るく、とてもダイレクトに響くので、「ここでは、徹頭徹尾はっきり正確に演奏してください」。

これを知るとそこでどのような音楽が鳴り響いているかは明白だ。初日の印象をこの記者は絶賛していて、兎に角、管弦楽がまことに綺麗に響いて ― それほど聞いていないが私自身は文化会館の響きよりもNHKホールのそれの方が好きだった ―、しばしばとても優しくとある。

具体的には、東京でのカステルッチの舞台の浅くなった奥行きから視覚的にその暗示力が落ちている分、ペトレンコは音の力で克服しようとするのを避けていたとする。それに関してヴォルムラム役のゲルネは、歌手として押さえて管弦楽を聞こえるように「夕べの星」を歌い、最高の繊細で底光りするような魔術だったと、今までオペラでなかった新機軸とまで感嘆する。最後にミュンヘンでの知的なゲルハーエルの歌とは異なるがとしているが、とても評価している。ネットでの反響を合わせると俄かには信じられないのだが、ペトレンコがどのような判断をしたかは想像出来る。恐らく客席で日本の状況を観察してその静けさに気が付いて、更に弱音の方へと表現の幅を伸ばす試みをしたと思う ― 記者会見での日本通のダッシュの言葉に耳を傾け、そうした示唆がそうさせたのだろう。この人は、バイロイトでも実演に何度も通って客席の音響を研究したような指揮者である。そのために管弦楽は、一心不乱に威風堂々としかし緻密に演奏しなければいけなかったのだが、その通りの音量を保ちながらというのである。

そして歌手陣をも絶賛している。これに関しても疲れ云々の批判もあったのでとても意外に思った。再演の歌手がコンディションさえ整えばより精緻な歌になって来るのは想像できるが、初のゲルネも評価されていて、エリザベート役のアネッテ・ダッシュの歌に至っては、音量を落とせば落とすほど威力を発揮して、ハルテロスよりも壊れやすいタンホイザーへの愛歌を歌っているとされ、全体の音量の幅も考えるとこれはミュンヘンよりも出来が良くなる可能性を感じ、日本向きの配役の成功を感じる。

そして、聴衆の反応をここでは三種類に分けている。一組は通常の日本で見られる喝采、一組はピットへと駆け寄り聴衆で、まるで垣根の低いパドックに群がる家畜のようだったと皮肉らしきが交えられる。そして半数以上が話題の組で、幕が下りるかどうかで急に立ち上がり出て行く人々などサッサッと会場を後にする人達である。この報告が正しいとすればやはり招待客だけの問題ではないと思った。



参照:
Es war ein Wagnis, Egbert Tholl, SZ vom 21.9.2017
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-09-25 21:32 | マスメディア批評 | Trackback

文化会館でのリハーサル風景

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週末には2015年のゲルュンペルを開けてみた。試飲していないので初めて口にするものだ。半ダースあるので無駄でも良いから一本開けた。2015年産であるから強すぎて楽しめないと思っていたが、PCながらGCのような感じで楽しめた。勿論熟成はこれからなので、本当の味は開いていなかったが、充分な複雑なミネラルと共に完熟感と清潔感があって決して悪くはなかった。20年もつかもしれない酸であるが、ビュルクリン・ヴォルフ醸造所のリースリングにによく有り勝ちな明くる日になるとバランスが崩れていて、全く飲み頃が分からないという難しさもあった。これで安心して予約した2016年産を引き取りに行ける。

引き続き東京から様々な情報が入って来ている。先ずはキリル・ペトレンコへの接近の任務を得た南ドイツ新聞の記者が、少なくともリハーサルに潜り込めたようで、その報告をしている。ミュンヘンに本拠のある新聞社で日本の朝日新聞と提携している左派の全国紙である。その記者でさえ、今までにリハーサルに入れたのは「サウスポール」の時の1時間だけだという ― 前回の欧州ツアー時にもシャンゼリゼなどで取材の機会を設けていた。

キリル・ペトレンコがやって来ると、「こんにちは」と日本語で挨拶してから、軽く冗談を言って、早速冒頭のトラムペットソロが鳴り響き所謂サウンドチェックの音出しである。「ここは響きがとっても明るいから、暗くと考えてください。」と指示する。

それから一楽章の一部終わりから激しいトリオへと移る前の経過的な151小節は3度も繰り返したようだ。レントラーでの第一ヴァイオリンの高音の「イントネーション」をまるで歌のように指摘して、上手くいったところで日本式にお辞儀をして見せたとある。その反対に、トラムペットに「余り歌わないで」と、そしてアダージェットに際して「記憶の彼方のように、もっと軽く、地球から離れて、無重力のように」と述べたとある。実際に本番ではここは消え行くようで、ペトレンコのマーラーはセンチメンタルとはならずにとても雄弁だとしている。

通常のツアー中の指揮者と違って、ペトレンコは楽員に自身の希望を一方的に伝えるのではなく、試して見るといった塩梅で協調して音楽つくりをしているように感じて、この指揮者の言葉は尋常ではないほど的確で、何かオーラによって指令するというものではないとしている。

朝日新聞が、キリル・ペトレンコを「若手指揮者ペトレンコ」と表したとあって話題になっている。その意図は分からないのだが、ジャーナリスティックなことではないように思った。要するに、朝日新聞らしい、その背後には巨大な経団連企業の束縛から抜けられないという事情があるのだと思う。そこにはソニーを代表とするような巨大メディア産業の締め付けがあるのだろう。

つまり、キリル・ペトレンコは飽くまでも「新鋭」や「気鋭」であって「大師」などであっては困るのだ。市場は、なぜそんな「大師」がCDもDVDも専属契約で制作していないのだとあからさまに声を上げると、もはやそれらのメディア企業は立つ瀬がないからである。そのようなマスメディアは新聞などとの名称を止めて朝日大広告社と名前を直ぐに変えるべきである。つまりメディア専属契約をしていないような芸術家はどこまでもアマちゃんとして扱いたいのである。

そしてそのような広告媒体における音楽評論記事などは読む前から分かっている。そもそも比較対象にもならないようなメディアで売り出したい二流の指揮者など対抗軸に挙げて、これはこうだがあれはあちらの方が良いとか何かを書く限りは商売になる広告になるのである。

バイエルン放送局も同じような音付きの報告をしているが、インスタグラムには文化会館でのリハーサルに小澤征爾が駆けつけている写真がある。あとは皇族のご臨席だけだろうか。



参照:
twitter.com/pfaelzerwein
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-09-18 22:54 | マスメディア批評 | Trackback

胃がん風に表れる夏の疲れ

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土曜日は短くスピードコース、日曜日は峠攻めを走った。それだけなのだが腰が張っている。気温が関係するのかもしれない。そして短いコース二回ながらも四回も走っている。ここのところリースリングの酸も堪えたのか、それともストレスか、コーヒーでも若干胃に感じるようになった。毎年残暑に感じる胃がん状態である。少しホルモン不足かも知れない。デートにでも行かなければいけないだろうか、健康のためにも。

ネットで先週始めにヴァルター・レヴィン死去の情報が流れていた。新聞の訃報記事を待っていたが金曜日になってからだった。それも短めの記事だった。その時差が気になった。直ぐに書ける人がいなかったのだろうと思う。コッホ氏が纏めているが、やはり楽器を置いてから後のことに触れようとするとセミナーなどに参加していた人でなければ難しいのだと思った。私は一度だけ短く挨拶した程度だが、その教授風の人柄は直ぐに感じ取れた。

新聞記事は60年代末から80年代初めまでの初演の数々を挙げていて、録音としては新ヴィーン楽派全集やケージ、ルストワフスキー、リゲティなどを挙げている。最初の二つは愛聴盤であり、これは二十世紀音楽の代表例として人類の歴史的遺産であるに違いない。

そして1987年に四重奏団を解散してからのバーゼルなどでの後進の指導の成果は、今現在まだまだ開花している。アルバン・ベルク四重奏団を筆頭にそのラサール四重奏団から手ほどきを受けていない弦楽四重奏団は珍しいかもしれない。録音等で知られるところの声部間の透明性と後期のベートーヴェンで響かせた多声楽的な側面はまさに二十世紀の中盤の響きである。

技術的な面も含めて多くのレパートリーでは、アルバンベルク四重奏団の録音の方が優れていたり、若しくはジュリアード四重奏団の名演奏あったり、更にエマーソン四重奏団以降の世代の四重奏団の演奏した録音に取って代わられるが、上の全集の価値は時代の記録であり続けると同時に、私も最後まで手離せないLPボックスであると思う。

LPのステレオの溝の分離度とかがこれまた微妙な音盤文化なのだ ― 容赦ないデジタル録音となるとまた別のところに耳が行く。関連するかのようにトュイッターで小澤征爾が録音の声部の分離に疑問を呈した発言をしているというようなことを読んだ。事実関係は知らないが、これもなかなか面白い。要するにそこでは分離ばかりを考えると声部間の和音の累積が和声音楽として綺麗に響かないということであろう。

そもそも小澤の指揮演奏はボストンにおいてもその透明な声部が見通せる管弦楽演奏指揮に定評があり、それも最終的にはそれ以上の和声的な精妙さに繋がらないとして飽きられたと理解しているのだが、当時からカラヤンサーカス客演の節はそのアンサムブルと同時にカラヤンサウンドをも上手にパレットとして使っていたのである。そして今、所謂そのカラヤンサウンドが二十世紀後半の特殊な管弦楽サウンドであったというのが明確になってからその大量の録音が美学的に見て過去の遺物になって仕舞った経緯がそこある。それとはちょうど反対の形で上のベートーヴェンの演奏録音なども乗り越えられてしまうものとなっているのである。その反対に上全集のシェーンベルクなどはなかなかこれを超える演奏は今でも見つからない。



参照:
走り抜ける黄金の森 2016-11-06 | ワイン
初秋のメランコリーに酔う 2012-09-04 | 暦
ズタズタにされた光景 2007-08-10 | 音
袋が香を薫ずる前に 2005-07-14 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-08-14 21:08 | マスメディア批評 | Trackback