カテゴリ:マスメディア批評( 294 )

胃がん風に表れる夏の疲れ

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土曜日は短くスピードコース、日曜日は峠攻めを走った。それだけなのだが腰が張っている。気温が関係するのかもしれない。そして短いコース二回ながらも四回も走っている。ここのところリースリングの酸も堪えたのか、それともストレスか、コーヒーでも若干胃に感じるようになった。毎年残暑に感じる胃がん状態である。少しホルモン不足かも知れない。デートにでも行かなければいけないだろうか、健康のためにも。

ネットで先週始めにヴァルター・レヴィン死去の情報が流れていた。新聞の訃報記事を待っていたが金曜日になってからだった。それも短めの記事だった。その時差が気になった。直ぐに書ける人がいなかったのだろうと思う。コッホ氏が纏めているが、やはり楽器を置いてから後のことに触れようとするとセミナーなどに参加していた人でなければ難しいのだと思った。私は一度だけ短く挨拶した程度だが、その教授風の人柄は直ぐに感じ取れた。

新聞記事は60年代末から80年代初めまでの初演の数々を挙げていて、録音としては新ヴィーン楽派全集やケージ、ルストワフスキー、リゲティなどを挙げている。最初の二つは愛聴盤であり、これは二十世紀音楽の代表例として人類の歴史的遺産であるに違いない。

そして1987年に四重奏団を解散してからのバーゼルなどでの後進の指導の成果は、今現在まだまだ開花している。アルバン・ベルク四重奏団を筆頭にそのラサール四重奏団から手ほどきを受けていない弦楽四重奏団は珍しいかもしれない。録音等で知られるところの声部間の透明性と後期のベートーヴェンで響かせた多声楽的な側面はまさに二十世紀の中盤の響きである。

技術的な面も含めて多くのレパートリーでは、アルバンベルク四重奏団の録音の方が優れていたり、若しくはジュリアード四重奏団の名演奏あったり、更にエマーソン四重奏団以降の世代の四重奏団の演奏した録音に取って代わられるが、上の全集の価値は時代の記録であり続けると同時に、私も最後まで手離せないLPボックスであると思う。

LPのステレオの溝の分離度とかがこれまた微妙な音盤文化なのだ ― 容赦ないデジタル録音となるとまた別のところに耳が行く。関連するかのようにトュイッターで小澤征爾が録音の声部の分離に疑問を呈した発言をしているというようなことを読んだ。事実関係は知らないが、これもなかなか面白い。要するにそこでは分離ばかりを考えると声部間の和音の累積が和声音楽として綺麗に響かないということであろう。

そもそも小澤の指揮演奏はボストンにおいてもその透明な声部が見通せる管弦楽演奏指揮に定評があり、それも最終的にはそれ以上の和声的な精妙さに繋がらないとして飽きられたと理解しているのだが、当時からカラヤンサーカス客演の節はそのアンサムブルと同時にカラヤンサウンドをも上手にパレットとして使っていたのである。そして今、所謂そのカラヤンサウンドが二十世紀後半の特殊な管弦楽サウンドであったというのが明確になってからその大量の録音が美学的に見て過去の遺物になって仕舞った経緯がそこある。それとはちょうど反対の形で上のベートーヴェンの演奏録音なども乗り越えられてしまうものとなっているのである。その反対に上全集のシェーンベルクなどはなかなかこれを超える演奏は今でも見つからない。



参照:
走り抜ける黄金の森 2016-11-06 | ワイン
初秋のメランコリーに酔う 2012-09-04 | 暦
ズタズタにされた光景 2007-08-10 | 音
袋が香を薫ずる前に 2005-07-14 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-08-14 21:08 | マスメディア批評 | Trackback

旧ビジネスモデルをぶっ壊せ

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ダウンロードしたVIDEOを流している。色々と面白い ― 余談ながら、ザイテンロージュに映されていたのは、音楽監督キリル・ペトレンコのお母さんのようだ。音楽的に二幕の続きは、演出を一通り見極めてからになるが、DLしたMP4ファイルのオーディオはAAC4800kHzで出ているようだ。新鮮度が足りないのは16Bitだから仕方がないのかもしれない。

やはり画像が良く、真剣に見ていると今度はWifiで出しているために音声と画像がずれるのが気になって来る。これはプレーヤーで同調を調整するが限界を超えているので中々完璧には音を先に進めるのは難しい。クロームキャストオーディオ再生の限界である。

そして現代の映画ファンがするように細かなところまでを繰り返し確かめたりできるのがHDの解像度のお陰である。そもそも舞台ではTV的なアップなどでは誰も見ていないのだが、演出のカステルッチが語っていることが、カメラでこそ捉えられていることもある。

例えば自身の眼を鏡の反射など無しには観察できないというようなやや哲学的な観想にあるように、舞台ではオペラ歌手でも役者として演じているのをズームしたカメラが捉えている。要するにこのヴァージョンは殆んど音楽劇場Videoになっていて、中継放送の枠を超えている。

例えばアップなどが続くと舞台の枠組みが分からなくなったり、オーケストラピット内が映されたりすると今度は全く別な映像になってしまう。そのあたりのカメラカットの使い方が中々凝っているのだ。それ故に舞台作品としての演出についての印象とはまた異なってくるところもあり、他の二種類の違う角度からのカットを異なる動画で改めて確かめてみなければいけない。

こうした完成度の高いヴィデオ制作を、我々は聴視料を払っているとしても、無料でダウンロードできることはやはり素晴らしいと思う。なるほどオンディマンドでDLする時、自分のPCで鑑賞するのと同じことで、一定のDL速度に上限が決まっているということである。だからDLとオンライン試聴の相違は、その伝送速度に関わりなく時間を掛けて高品質で落とせるかどうかで、視聴中に固まったりして不愉快なことが無く後でゆっくり楽しめることだ。

そうしたダウンローダーを昔は使っていたが今はフィアーフォックスをDL専用に使っている。クロームでもダウンロードヘルパーのAddOnを使えば同じなのだが、こちらの方が視覚的にも大変使い易い。都合Win8に三種類のブラウザーを使っている。メインはオペラを使っているのだが、先日プロキシが用意されていて使い易いと知って試して見ると、そこに組み込まれているのはドイツやオランダ、カナダ以や米国以外ではシンガポールしかなかった。なるほど日本の人はドイツ経由にしてこれが使い易いのだろうが、こちらからシンガポールや米国のものを経由してもメディア産業が強い国だけにあまり役に立たない。同時にスパイソフト疑惑が噂されているが、少なくともAddブロックを使って、それのブロックなどは使わない方が良いのかもしれない。

ソニーなどが幾ら立法府に圧力を掛けてコピーなどの利用に制限をつけても、コピー防止の方策を練っても無意味である。私は立場上も決して以前勃興した海賊党の支持者でもないが、こうした公共放送局が限られた予算の中から撮影したものを少々弄って製品化して売り込もうとしても最早無理である。そうした殆んど汗を掻かないメディアと言うだけの従来のビジネスモデルは成立しない。市場も無く、金も無く、自主制作も出来ないようなメディアが何をか謂わんかである。

そのように上のオンディマンドのヴィデオは十二分に芸術的な制作になっている。必要ならばハイレゾリューションの音声を合わせて、各々の言語のテロップを入れて、自分でブルーレイ―化すれば今市場に出ているこの種のオペラヴィデオと比較して推薦ものでしかない。これ程の完成度の製品はそれほど出ていないと思われる。



参照:
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
膿が出来らない限りは 2013-05-17 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-08-04 15:58 | マスメディア批評 | Trackback

芸術的に配慮したarte新動画

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久方ぶりに夜更かしした。arteにカステルッチ演出「タンホイザー」がアップされているというのを知ったので、ダウンロードしに行った。7月9日の公演に限っても、劇場のストリーミング約13GB並びにarteの生放送直後にDLしたものの二種類の映像を保存してあり、更に音声は生で24Bit4800kHz約3GBで録音してあるので、先ずは障りを観てみる。直ぐにカットも異なりカメラアングルも未知の部分が続々出てきた。

今回の演出は乳房丸出しなので、arteは、半分は仏国営でカトリック圏のTV放送がそうであるように殆んど裸体自主規制は無いが、それでもZDFが半分であることを考えるとやはり配慮されるものと想定していた ― だから出来ることならば劇場の生放送を鑑賞したかったのだ。それでも生放送分に関しては殆んど配慮は感じられなかったのだが、こうしてアップロードするまでに時間が掛かったのは「芸術的な配慮」によるものと思われる。

実際に序曲からの「乳房祭り」部分では必要最小限にピット内の指揮ぶりと演奏風景が映されて綺麗にカメラのカットが差し入れられる。arteのディレクターは同じ人であるが、まさしく「芸術的配慮」が施されていて、このカメラ扱いならば劇場でいらいらした乳房とその間の無駄な間隙が無くなって音楽に集中できる。その一方序曲部分だけを観てもバレリーナの脇腹の黒子が分かるなどとんでもないHDになっている ― ただし音声の質は悪く、到底生放送時のそれとは比較できない。画質に比較してここまで音質を落としている理由は分からない。

兎に角、オンデマンドからダウンロードするが最初にドイツ語字幕版をクリックしてしまったので、それから映像だけのものと二回続けてダウンロードした。TV局のものなので安定はしているがとても速度は遅く、3.47GBを三時間づつほど掛かった。プロクシを使わないでも海外から落とせるのではないだろうか ― いずれにしてもダウンロードはストリーミングと異なって時間を掛けて後でゆっくりと鑑賞できる。月末まで置いてあるので時間を掛ければいずれにしても観れるだろう。このタンホイザーは、特に演出を更に詳しく観て行く。

高画質TV放送として、arteでは昨年の「サウスポール」世界初演があり、ARDで五月に再放送された「影の無い女」も永久保存版の記録であるが、今回の映像も素晴らしい。こうした非コマーシャルな映像記録制作が可能ならば、バイロイト音楽祭でカストルフ演出「指輪」の中継を認めつつ製品化を拒絶したキリル・ペトレンコの真意は明白だろう ― 要するに本当のイヴェントには公の資材が投入さる。なるほどバイエルン放送協会の予算を計上して準備していた訳であるが、恐らくユニヴァーサルとバイロイト音楽祭の契約に縛られたのだろう。

バイロイト音楽祭と言えば ― パンクラトーヴァや、ツェッペンフェルト、グールドの歌唱の評判が良いが ―、先日の「トリスタン」での遅速で始まり急加速の演奏などについて伝えられている初代音楽監督ティーレマンのことが、フィリップ・ジョルダンがヴィーンの歌劇場の音楽監督に決まったことを伝える記事で言及されていた。それによると、クリスチャン・ティーレマンは、そのヴィーンのポストを狙っていたということらしい。そして数週間前にドレスデンのシュターツカペレの音楽監督の契約延長が発表された際に、「これで、全く問題は無くなった。」とそれを暗示していたというのである。つまりその時点で再びティーレマン就任は消えていたということだろう。なるほどその才は二人とも似たり寄ったりで、そのオペラにおける実力も経験程に差はないと思われるが、マネージャーとしてはジョルダンの方が優れているのかもしれない。そしてなによりもソニーが映像を中心として売り込むにはティーレマンでは困ったのだろう。

ペトレンコ指揮の記録といえば、この間先日のバート・キッシンゲンの二曲も良かった。ラロの交響曲を再び録音してレーピンの音に気が付いた。嘗ては子供のような軽い感じだったがとても良い音を奏でていると感じた。調べてみるとガルネリのデルジェスだったようだ。一曲目も含めて更に良い音で聞き返すと、既に放送交響楽団はヤンソンスが振っていたので仕方がなかったかもしれないが、バイエルン放送協会内ではペトレンコとの関係で今でも複雑な心理があるのではなかろうかと感じさせる。

その他、2003年2月12日にバロセロナでの公演からのセクエンツがあった。ペトレンコ指揮の「ピケダーメ」はヴィーンでの小澤に代わって指揮した放送録音があるようだが、これはそれ以前の指揮者31歳の時の演奏で私が知る限り最も古い録音録画の一つである。その秋からコーミッシェオパーの指揮者になっている。質の悪い映像ではあまり変わらないようで、音楽だけ聞いていてもまた歌手の視線などを見ていても今と変わらぬ厳しい指揮をしているのは間違いない。



参照:
延々と続く乳房祭り 2017-07-10 | 文化一般
「笛を吹けども踊らず」 2017-07-29 | 文化一般
39.99ユーロという額 2017-07-30 | 生活
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-08-02 18:30 | マスメディア批評 | Trackback

寛容の海を泳ぐ人々

朝一番で銀行に行くと、中に自転車が荷物をつけて置いてあった。最もモダーンなライフスタイルの野宿おばさんである。自動引き下しのところに行くとガサガサ音を立てて寝返っていたようだが、見ないようにしておいた。

その後いつものようにパン屋に向かい、森に向かった。久しぶりの峠攻めである。前回はアルプスから帰宅後、パン屋が夏休みに入る前の7月9日だった。高度順応はかなっていても踵の皮が捲れていて、上りに23分以上かかっていた。今回は気温17度ぐらいで比較的涼しくて21分ほどで上がった。徐々に走れるようになって来ている。二日続けて走った。

気になっていたのは車の燃料で、銀行に行く前は燃料計が一度下がっていて、スタンドに向かおうかと思ったが、また上がったのだった。そして予備燃料を示しているということで残り1リットルになったらうスタンドに駆け込もうと思っていると、見る見るうちにその値になった。仕方がないが回り道してスタンドによって20リットル入れる。すると25リットルを指している。兎に角これぐらいの余裕をもってこれからは走りたい。帰りに地元に戻るとそこのスタンドの方が安かった。態々遠回りする意味はなかったのだ。

特段言及するつもりはなかった。それでも車の南西ドイツ放送局文化派SWR2ラディオは、とってはかえで異なる人が、木曜日のザルツブルクの「ティートュスの寛容」を絶賛する。なるほどピーター・セラーズの演出は面白そうだが、なんといっても局の楽団の次期音楽監督テオドール・クレンツィス指揮の音楽もセンセーショナルと感動して語る。即座におかしいと思った。更に南ドイツ新聞の援護射撃まで紹介するとなると異常事態である。

その指揮者に関しては、キリル・ペトレンコの指揮技術に関する記事で比較対象として挙げられていた。だからどのような音楽をするのかは想像が付いている。そしてこのザルツブルクデビューに関しても知っていた。但しあまり興味が無いので生放送は聞いていなかった ― 悪い音質で今も全曲が聞ける。新聞に評が出ていたので障りも聞いてみた。予想通りだった。

FAZに「このご時世の市場で既に多くのフォロワーを持っている」と書かれているように、要するに短絡に刺激を求める大衆人気を示しているようだ。モーツァルトの演奏実践に関していえば、嘗て脚光を浴びだしたアーノンクールの演奏をして顔をしかめたカール・ベーム博士を思い出す。それとは異なるのは、こちらは明らかに指揮者としてのプロフェッショナルであって、更に多くの聴衆を魅了する能力を持っているということだろう。半分は聴衆に対しても指揮をしているようなところを含めて、歴史に残らないであろう天才音楽家マゼールをも想起させる。

しかし同時に「ブレーキ、アクセルばかりを、モーツァルトをまるで鞭を入れ支配するかのように自身で制御する」ことで生じる「深淵も結局は荒っぽい印象を残す」演奏実践と書かれる。放送局にとっては二つの放送交響楽団の合併の汚名を払拭すべく、次期監督を持ち上げることで二倍以上の芸術的市場価値を獲得して、少なくとも経営的に成功させることは最低の条件であるだろう。とても強い圧力が掛かっているようだ。

そしてこの指揮者の演奏をこうして垣間見るととんでもないことになりそうな気がするのである。今回のモーツァルトのテムポ設定にしても一体どこに根拠をおいているのか、はたまたどのような楽譜校訂どころか読みをしているのかもほとんど分からない。まさか二流指揮者のように正しいテムポを保持できないとは思わないのだが、要するに信用するに足らないのである。丁度テュィターでメッセージ送り続けるどこかの大統領のようにである。肝心の動画は8月19日3SAT放送となっている。



参照:
地方の音楽会の集客状況 2017-01-23 | 文化一般
ギアーチェンジの円滑さ 2016-03-04 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-07-30 18:37 | マスメディア批評 | Trackback

フェイクニュースの脅し

朝七時半のアポントメントだった。タイヤ交換である。だから車中で七時のニュースを聞いた。トップニュースは北朝鮮問題でのフェイクニュースである。空母が北朝鮮向かうと大統領までが語って、北朝鮮に圧力を掛けたのに、実際には反対方向のインド洋へと向かっていたことが知られていたというのである。要するに口だけの脅しだったとなるが、この件に関しては内部での情報の混乱として処理されるらしい。子ブッシュや金正恩などの一貫した政治姿勢とは異なり、このように未熟大統領トラムプの方が一貫性が無いので危ないというのが解説だった。

折からの戻り寒気で、霙も降り、冬タイヤが欲しいと思ったが、それでも夏タイヤの走り心地は抜群だった。地面が温まっているので、気温は摂氏四度であり、週末にかけて早朝は零下になるというが、出かける予定もないので来週になればまた暖かくなるだろう。途上買物も済ませて、九時にはデスクに付いた。

朝のラディオでもう一つ興味深かったのは、今回の国民投票に参加したトルコ人のドイツ人化の問題が危ぶまれていたことに対して、政治信条や民主主義的意識とドイツ化の問題は別けるべきだとする意見だった。つまりドイツでもAfDなどを支持するとんでもない非民主主義的な連中が多く、それはトルコ人でも同じだというのだ。二重国籍が二百三十万人といわれ、彼らが必ずしも非民主主義的な人達ではないという背景も話されていた。

流石に寝室も冷えて来て、布団に包まって寝るのであまり熟睡していない。上掛けを準備するか、暖房を薄く入れるかなど考えるが、陽射しがあると直ぐに暖かかくなるので、完全に切ったままにしてある。



参照:
Alternative facts 2017-02-04 | 歴史・時事
多重国籍の奨めと被選挙権  2017-03-15 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-04-19 17:40 | マスメディア批評 | Trackback

日本国民への警鐘

フランクフルターアルゲマイネ新聞は、音も無く迫る日本国の変革に注意を促している。それはフランスのルペンや合衆国のトラムプのようには目立たないが、確実にやってきているというのだ。この新聞としては珍しい名前が出ていて、ハムブルク大教授ガブリエレ・フォークトへの取材と、ジェフ・キンストンら専門家共著の新刊「現代日本の報道の自由」(Press Freedom in Contemporary Japan)などを参考に記事を綴っているのは編集者アクセル・ヴァイデマンである。

フォークト教授が言うように、今進められている回帰的なつまり安倍首相の「日本を取り戻せ」のスローガンに代表される日本会議や伊勢神宮を代表とする神社本庁の考え方を日本国民の多くは支持していないとして、現在音も無く進む変革への警句としている ― これは一部で囁かれている右翼革命であるという認識に近い。

具体的には、憲法九条に代表される合衆国占領以降の骨抜き教育や社会を21世紀に適応した憲法に変えようとする動きである。それに対してプロパガンダ組織である日本の報道機関が全く手も足も出なくなってきているということへの強い疑念が示される ― この件に関してはガウク前大統領が日本訪問した節の発言では事の軽重が逆になっていたが、なぜ今こうした見解がこの政財界にも大きな影響を与える新聞で大きく紹介されているのかがとても興味深い。

恐らくそれは前記の新刊本に書かれているようなNHK司会者の更迭やそこに存在する黄色本とよばれる政府に対して配慮したハンドブックの内容がジャーナリズム業界で大きな話題となって、また朝日新聞のような未だにリベラルと思われている新聞のお手上げ状態を見かねての発言であろう。我々ジャパンウォチャーにとっては今更と思うことでもこうした研究本が出ることで世界の言論になるということだ。

また「日本会議の研究」著者菅野完への日本会議の正会員からの脅迫電話がYOUTUBEにアップロードされているとして、それを取り巻く状況を紹介している。また、アパホテルの客室に置いてあって、シナの「微博」で炎上したような内容の書籍でも日本では問題にならないこと、そうした正会員が2014年秋の時点で全国会議員722人中289人もいるというニューヨークタイムスの記事も紹介している。それでも大多数の日本国民の抵抗の声はいつものように静かであるとしている。

2014年秋に発生した坂本フランクフルト総領事のFAZ本社強襲事件以降この新聞の安倍政権への批判記事は巧妙なジャーナリスト的な記事に終始していたが、ここにきてガウク大統領訪問以降にベルリンの外交部の日本担当で何かの変化があるのだろうか?あり得るとすれば、トラムプと安倍の関係からEUの新たな軸足のあり方に変化があるのだろうか?題して「国民不在の島国」。



参照:
Kein Volk ist eine Insel, AXEL WEIDEMANN, FAZ vom 21.2.2017
自虐的国家主義安倍政権 2015-07-24 | マスメディア批評
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-02-21 23:05 | マスメディア批評 | Trackback

クリスマスマーケットなんて

月曜日の夕刻第一報が入って来た。日本のネットのサイトからだった。テロとか何かに飛びつくのは日本のマスメディあの頭の悪い外信局の連中のお得意である。要するに事の大小を審査しないでも流しておけばお仕事となるからだろう。自己取材やその内容の吟味などが出来る語学能力が無くても構わないからである。要するに日本のマスメディアは大衆報道のスキャンダル報道を専門としているジャ-ナリスト気取りの有象無象の社員しか就業していないことの証明である。

とは言いながら事件の波及が気になるのでネットを見ると直ぐにYOUTUBEで現場の状況が流れていた。とても落ち着いていて、通常の交通事故と変わらないほどの雰囲気で安心した。そもそも西ベルリンの象徴だったあの教会の前の広場に屋台を並べているようだが、嘗てとは違って西側のショーウィンドーのクーダムの始まりの感も無い寂れたような場所で、人通りも場所が広いだけにそれほどではない。それが十年ほど前に向かい側のホテルに宿泊した時に感じた印象で、嘗ての面影は全くない。そのような場所であるから車止めの規制も大したものではなく ― フランクフルトでは事件を受けて規制などを張らずにソフトターゲットにはソフトで挑むとFAZは伝えている ―、犯人は敢えて寂れた場所を狙ったのだろうか?

翌日のラディオでは犯人はパキスタン人の身分証明書を所持していたが本人かどうかなども分からないようで、爆弾などは所持していなかったのだろう。ああした事件が連続で起こると怖いのだが、最初から落ち着いた雰囲気だったのはその状況に何か相違があったのだろうか。ニースで起こったような大変な人通りもないところでああした犯行を行う感覚が最初から外れているということなのだろうか。

ベルリン特派員からの報告を受けての番組での話は、こうした事件に対して「我々西欧の生活感とか価値観を守る」ためにも、こうしたそれを狙う犯行には怖気づいてはいけないという感想をSWRの記者が話していて驚いた。正しくポピュリズムのAfDなどとの考え方と殆んど変わらない発想だ。怖いと思う人はクリスマスマーケットなどには行かなければよい訳で、態々人ごみに出て、グリューヴァインで体を温めて事件に巻き込まれるならば本望とでも言いたいのだろうか?なるほど理不尽な攻撃であって、それに対しては怒りを禁じえないとしても、クリスマスマーケットなどはどうでもよいことなのである。

人出が無いと経済に悪影響を起こすという口実ならよいが、ああした犯行に対してキリスト教の価値観とか文化とかをぶつけていくのは馴染まないのである。そもそもあの連中が反キリストで行動している訳でもないのは確かなのだ。あの連中に、そうした思想的な基盤があり、ある秩序をもって攻撃対象を選別しているようならば話はとても容易である。

英語圏のメディアとは異なってベルリン市民やドイツのメディアや西欧がフランスを除いてはこうしたことに冷静に反応するのはまさにそこにあるのであって、理不尽な連中になんだかんだといっても始まらないからである。やはり一方ではスキャンダルマスメディアといわれるようなものを使って物事への反応をエスカレートさせようとしている輩がいるということでもあろう。



参照:
深圳からの直送便 2016-09-29 | 生活
過剰反応の醜聞報道 2016-01-14 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2016-12-21 05:49 | マスメディア批評 | Trackback

プロテスタンティズムの焦燥

昨日車中で聞いたラディオからである。リベラルな文化波からの内容で、若いドイツ青年がアフリカの援助で得た体験を語っている。アフリカと書いたが車中のことなので滞在地などは聞いていなかった。それでも重要なことは、青年も最初はパシフィズムの武器を持たない援助というものを想像していたようだが、現在の彼は「そのような考え方は冷戦時代のそれで、イスラム国などの現在武器を持たない活動はあり得ない」としている。

この発言で気が付いたのは先日訪日中に早稲田で講演して「日本は武器を持って責任を果たすとき」と提案したガウク独大統領の発言と通じるところがあるからだ。要するに日本で未だに隠れ蓑とされている九条と言われるパシフィズムに対する批判として認知することが可能である。勿論このラディオ番組の南ドイツ放送局の制作者は日本の九条信仰についても認識があるに違いない。

もう少し身近な問題として、フライブルクでの連続婦女殺人事件騒動から、町中の武器が売り切れたという話がある。婦女子にしてみれば何らかの防御武器を身につけなければ安心して外出できないとするのは当然だろうと確か上の番組の直前に話されていたと思う。

軍事力を使った治安維持と、日常の自己防衛手段とは異なるが、合衆国などの銃の所持問題などとも共通する思考もそこにはある。前記の青年が現場の感覚からそのように考えるようになったことも充分に理解もするのだが、一方では現実的な対応としての限界を感じてしまうのは当然ではなかろうか。

ここで注目しなければならないのは、ある意味特殊な信仰でもあるパシフィズムに対するこうした公な批判の声が大きくなってきていることであろう。ある意味、今までは真面な批判と対象とならなかったそれが議論の対象になってきているということかもしれない。そしてこうした動きの一方にはプロテスタンティズムを掲げる大統領や首相がいて、その政策こそが現実離れした理想主義から難民政策などが大きな問題となっていて、自己正当化しなければいけないという批判の矛先に立っているということだろう。

このブログのタイトルにあるように、関心を寄せてそのプロテスタンティズムを観察しているが、前教皇のカトリックの時世に続いて、ここでも国民の意識がそうしたプリテスタンティズム少しづつ乖離して行っていると肌で感じるのは私だけだろうか?

LINUXシナモンの最初の調整は一通り終えた。SAMBAは最小の形で、WIN8とファイル交換するように設置した。新しくSMB.CONFを書き込んだので勉強になった。再び遠隔操作の設定も、前回問題になったXfceを使わなくてもTIGHTVNCをインストールするだけでXrdpとして使えることが分かったので助かった。YOUTUBEの説明はMINT17に対してであって、MINT18はその点で改良されているのだろう。右クリックで打ち込みが出来、終了や再起動などもSHUTDOWNやREBOOTコマンドで可能なので全く問題なく遠隔操作が出来そうである。

久しぶりに今度は本格的にWiFi温度計が使いたい時期であり、再びラズペリーパイの方に戻ろうかと思う。こうして行ったり来たりしているうちに少しはLINUXの腕が上がるのではないだろうか。



参照:
違和感が消えるときは 2016-11-20 | 雑感
婦女暴行殺人事件の容疑者 2016-12-06 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2016-12-07 17:19 | マスメディア批評 | Trackback

パリ北部で排除される人々

もう十日ほどになるだろうか?新聞やネットを熱心に見ている人なら覚えているかもしれない。私は日本のヤフーニュースで見た写真が、通信社の配信した写真だと思うが、パリの北部の難民排除のニュースがとても気になった。写真だけならば事情はよく分からなかったが、当局に強制撤去された難民たちについて気になったのだ。そして日本語の説明にはアフガニスタンからの難民などと書いてある。そして写真はアフリカの黒人の写真だ。これを見ておかしいなと思った人は少なくない筈だが、文章を読んでも意味が分からなかった。

そしてその夕刻車中のラディオニュースで聞いた。排除された難民はアフガニスタンやスーダンからの難民だと。なるほどと思った。日本ではスーダンからの難民は折から禁句なのかもしれない。通信社からの配信もこうしてマニプレーションされている好例である。日本の報道機関の外信などが真面な情報を伝えていると思ったら大間違いである。彼らは海外音痴の日本人読者を知っているのである。

それにしても日本人はスーダンから三桁四桁の難民を受け入れる覚悟はあるのだろうか?軍事的に内戦に介入するということはそういうことである。歴史文化的に関係のあるフランスでも邪魔にする難民たちを喜んで受け入れるだけの経済的にも精神的にも余裕が日本社会にはあるのかどうか。その時の日本のマスメディアは何を語るのだろう。

メルケル首相は大統領選挙で勝利したトラムプ氏と電話会談したが、遅くとも来年の七月にハンブルクで開かれるG20までにお会いしましょうとなって、英国首相メイに対してとは全く対応が異なったといわれている。つまりメイ首相は早期に招待を受けたがメルケル首相にはそのようなことはなかったということである。誰が次期首相になってもワシントンとベルリンや西欧との関係は少なくとも先四年はこのように冷えた感じで進むのであろうか。



参照:
ありのままを受容する 2016-09-24 | 歴史・時事
厳戒態勢ではない国境線 2016-02-25 | 生活
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by pfaelzerwein | 2016-11-16 18:46 | マスメディア批評 | Trackback

デジタル演奏会の品定め

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デジタルコンサートホールお試し券を使い切った。一週間足らずで、途中三回の生中継を含んで、六十曲以上を視聴した。多くは仕事をしながらBGMとして流しておいた。繰り返して観るべきものは殆どないが、永久保存物もある。ざっと、キリル・ペトレンコ指揮の六曲に続いて、ピエール・ブレーズの自作自演やストラヴィンスキーなどを中心に、そしてクラウディオ・アバド指揮のベルク作曲作品、またブロムシュテット指揮のヒンデミットや北欧作品、フランソワ・サヴィエー・ロート指揮のデビュー演奏会などである。

そして、現音楽監督のサイモン・ラトル指揮の数々の演奏会からである。先ずは何よりもシェーンベルク作曲「グレの歌」が永久保存版だった。在任中の音楽的な頂点ではないかと思う充実した演奏会だった。シュテファン・グールトの歌唱も素晴らしい。こんなに立派な歌唱が出来る人だとは知らなかった。シェーンベルク作品は後任監督のメインレパートリーになると思うが、この初期の曲に関してはそう簡単には凌駕しないのではないか。それ以外のシェーンベルクも名演揃いだ。

充実した響きという事ではブルックナーの交響曲第九番の四楽章完成版の演奏が取り分け素晴らしかった。これほど音響的に充実した響きで鳴らされた事は嘗て今までなかったのではなかろうか。この指揮者も完全に二十世紀後半のカラヤン亜流を逃れているのが大勲章である ― 同じようにどんなに美しく立派に鳴ってもハイティンク指揮の五番では亜流を一歩も出ないのが歯痒いばかりである。前監督も同様だ。

マーラー作品は今回は二曲しか聞いていないが、ブルックナーの方が音響的に充実しているのは意外だった。その他も当代一のハイドンの演奏やシベリウスの交響楽曲、生で体験した魔笛全曲、内田光子とのモーツァルトやメシアンなどレパートリーが広い。まだマタイ受難曲は聞けていないが、ピーター・セラーズ演出シリーズの「ペレアスとメリザンド」など立派な演奏が多い。

話題のアンドリス・ネルソンズ指揮「アルペン交響曲」はなるほど立派に鳴り、流石にソヴィエトのエリート教育システムの秀才で、楽譜も完全に読み切っている。これから鳴り響く音響をしっかりと和音連結で描いているところが憎い。それだけに完璧に鳴るのだが、シュトラウスだから月並みな鳴りでそれで終わりとは限らない。少なくとも指揮者ロートが指摘したカラヤンやティーレマンの風呂場での鼻歌シュトラウス程は行かなくてもそれほど変わらないのが嘆かわしい。この人を合衆国の名門が監督にして、東ドイツの名門が監督にするのは分からないではないが、その市場がエンターティメントを一歩も出ないことになるので反動も大きいのではなかろうか。少なくともドイツではこの人への評価は今後も限定されるだろう。要するにラトヴィアからの出稼ぎでしかない。そして顔写真と違ってあの体格や腹の出方は仲違いしたティーレマン監督にそっくりである。頭脳が良く似ているのだろうか。

三回の生中継を試聴してみて、完璧に流れることはなさそうで、こちら側の問題ではないことも窺い知れた。例えばペトレンコ指揮のアンコールの時はアクセスが集中したのか中断して、明らかに容量の問題だと感じた。ミュンヘンの歌劇場もベルリンのフィルハーモニカ―も一法人なので、公共放送のそのネット設備とは比較のしようがない。有料で映画館で流す時にはそれなりの態勢を取っているのだろう。アーカーヴ化が一週間後というのは一週間券の人に再度買わす効果があるのは理解できる。

レジデント作曲家ジョン・アダムスの自作自演コンサートも観たが。あの手のキッチュさは欧州ではキッチュ以外の何ものとしても通じないであろうから、その需要の可能性は限られているだろう。競演のヴァイオリニストもなにかタイ出身のスキー選手メイのヴァイオリンを思い起こさせた。これもアジアやアメリカ市場限定なのだろうか。

音響録音の技術的には、AACなのでそれ以上は期待できない。だから日本の企業がグレードアップしようとしているとあるが、そうなると今度はマイクロフォンセッティングなどの技術が問題になる。現時点のそれでは、なるほど現監督のラトル指揮の場合は比較的上手に録っているものがあるが、音質が良くなっても耳だけで音楽を聞けるような程度では全くない。要するにこの計画の問題点である。嘗てのカラヤンやネルソンスのような単純な鳴らし方を追求しているならば録音も容易なのだが、現在の音楽的な要求に堪えようとするならば正しいマイクロフォンセッティングは全く容易ではない。

今回一月以上前から準備万端を整えて、そしてボンでのコンサートを踏まえて、ペトレンコ指揮の最後のベルリンでの演奏会を再視聴した。辛うじてホールトーンなどが識別できる条件でになって初めてその演奏会の一端が掴めた。なるほどストラヴィンスキーから始めて、二曲のルディ・シュテファン、そしてスクリャビン「恍惚の詩」のプログラムは客演として十二分に力を証明している成功例だったと確認した次第である。

サイモン・ラトル指揮のリゲティもベリオもクルターク作品の演奏実践も充実している。エリオット・カーター作品はバレンボイムが振っている。管弦楽団は充分に新しい響きを身につけていて、その色彩のパレットはロート指揮のフランス音楽プログラムでも実証されている。管弦楽団自体は将来への可能性を残しているのを確認した。そこで、このデジタルコンサートホールがエンターティメント以上のものになるかどうかは不明である。優秀な人材を自前でやるのは、経済的にも上手にやらなければ、ドイツェバンクの寄付に頼っているだけでは難しいだろう。



参照:
価値ある管弦楽演奏会 2016-09-20 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
伯林量子化演奏会の響き 2016-08-09 | テクニック
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by pfaelzerwein | 2016-09-20 18:50 | マスメディア批評 | Trackback