カテゴリ:BLOG研究( 29 )

逃げ足の速いモンサント社

住友化学の殺虫剤禍の続報である。ネット検索では、メインサイトのgooでは再び検索基準を厳しくしているのに気が付いた人がいるかもしれない。マニュアルで検索基準を弄る情報操作がサイト側で行われている証拠である。そのジカ騒動と住友の責任の学術的な証明はある程度の時間が掛かり、その情報の確かさが吟味されるのは時間が掛かるであろう。しかしそこに面白い動きがある、そしてそれを伝えておくことは情報の吟味以上に重要と考える。

その情報によると、親会社とされたモンサント社は「住友化学は子会社ではなく、只ライセンス契約を結んでいるだけだ」と説明して、件の「ピリプロキシフェンに関してはそのライセンス契約とは関係なく、住友化学独自の製品であり、モンサントは一切関与していない」との報道である。

これを聞いて、東芝やウエスティングハウス社やGE社との原発プラントの製造責任問題を思い出す人は少なくないだろう。要するに世界市場において二流の日本の大企業がどのようなことになっているか、その顛末はまさしく日本の経済力の世界での低下と合衆国との関係において落ち着くところに落ち着くという良い例示である。

このようなモンサント社の逃げ足の速さを見ると、今回のジカヴィールス騒動の顛末が余計に気になるところなのである。そして、第一報を出していない日本の報道機関は、当然ながらこうしたモンサント社の声明をも伝えることはないのである。これが今の日本の経済であり社会なのである。

そのようなことを考えるにつけ、合衆国大統領候補トラムプ氏が益々支持を得てきていることにも理解が得られやすくなる。合衆国の在り方が問われているのである。一方でここまでサンダース候補が選挙戦を戦っているのも同じような背景があるのに違いない。このような産業構造の中で、TTPなどによって日本の市場を開放しても、もはやどれほどの経済効果を一般の国民が享受できるかといえばとても疑問だからである。クリントン候補などの政策によって、その恩恵を受けることは難しいと多くの合衆国市民が感じるようになってきたからであろう。当然のことであり、トリクルダウンなどというような幻想を持てなくなってきているからである。

指揮者のニコラウス・アーノンクール死去のニュースが入っている。死因は書いていないが、二年以上前から引退興行を計画していたので、癌に違いないだろう。一昨年のベルリンでのサヨナラ公演の時にも回想したが、個人的にはザルツブルクでの「ポッペア」の上演に尽きる。その時に初めて古楽器でも大劇場を響かすことを経験したのだった。その意味からはパイオニアには違いないが、同じモンテヴェルディのオペラにしても既に後継のルネ・ヤコブス指揮が音楽的に評価されていたのでそれ以上の成果とはならなかった。ヴィーンに本拠を構えたこととも関係するかもしれないがどことなくローカルな印象は免れなかった。録音においてはインターナショナルな成功を収めたものの今振り返ってその成果を見るとオペラではキャシーバーベリアンとのモンテヴェルディとチューリッヒでの「イドメネオ」、そしていくつかのバロック録音以上の成功作は見当たらない。そのモーツァルトにおいても新奇性を超えて表現として卓越したところまでは至らなかったというか、最初からなにかボタンの掛け違いのようなものがあったのではないだろうか?兎に角パイオニアとして活躍したからこそのその後の成果が生まれてきたことが何よりもの芸術的な価値ではなかっただろうか。



参照:
ジカ熱被害の住友化学の責任 2016-02-17 | マスメディア批評
都合の悪い真実を窺う 2016-02-23 | 雑感
成果を挙げて摩耗する 2014-11-14 | 生活
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by pfaelzerwein | 2016-03-06 15:30 | BLOG研究 | Trackback

席次次第ではない味

2013年産シャルタヴァインを開けた。久しぶりなのでその変化に驚いた。もともと酸が大変効いていながら、樽で寝かしてあったので、秋にはとてもよい感じで楽しめたリースリングだった。その分、その背後にあるミネラルや素性が見えにくかったのかもしれない。そして、ここにきて酸は決して丸くはなっていないのだが、背後で支えるようになると、とんでもなくおかしな味が出てきているのだ。所謂2013年のスパイシーさの一種で、この場合はどちらかといえば拗ねた印象であまり快適ではない。それでも2013年産の特徴の優れた酸が通っているので、しばらく寝かして瓶熟成をするようになるのが待たれる。明らかにロベルト・ヴァイル醸造所のリースリングは正しい道を歩んでいるが、これだけ味に変化があると通以外は失望するかもしれない。2013年産のスパイシーさはまさにこの特徴にあり、酸が下支えしていることでどれだけ寝かす判断が出来るかどうかが評価の鍵となる。それでもプファルツのそれでも現在明らかに谷に入りつつあるので、飲み頃が難しくなってきている。追加購入しようと思っているので、勝負どころである。2014年産よりも本格派のリースリングになるわけではないが、きっりっと輝く通向きの繊細極まりないリースリングが将来話題になるのは間違いない。

何気なくアクセス数を見ていると、大きな数が混じっていた。5267件の訪問者数で、6559の観覧数であった。通常ならば三倍ぐらいの観覧数になるのだが流石にその様にはなっていなかった。二百十四万件のGooブログの中で29番になっている。長くやっているとスロットマシーン的にこのようなことがあるのだが、流石に二桁はなかった。日蝕であれ何であれ凄い席次である。入学試験模擬試験席次ならば東大の理科三類合格有力である。考えてみればその数からすれば数年前の数分の一の数でしかないだろうから、決して天文学的な数ではない。そもそも席次などは、合理的に目指していけば行き着くところに行きつくのである。それでもやはり一桁となると可成り空気が薄くなりそうだ。



参照:
合わせものの楽しみ 2015-01-27 | 生活
胸がパクパクする運動 2014-11-24 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2015-03-28 08:07 | BLOG研究 | Trackback

いつものフェードアウト

久しぶりに一っ走りした。これで何とか不調から抜け出せれるだろうか?先週には短い距離を走ったが立ち入り禁止で距離も時間も走ったうちに入らなかった。それでも今回は峠への中間地点まで走って、12分1975歩とまずまずの走りが出来、車まで走り降りてきたときは十分に汗ばんでいた。

床に就いてから感じたのだが、夏と変わらないまま半袖で半パンツの寝巻きでは体調を壊すのは当然かと感じた。冬の用意をした方が早く体が馴染むかもしれない。季節の変わり目はこの体温調整などが難しくて毎年苦労しているのだ。

そして一汗掻いて、決して気温は高くないのだが午後に窓を開けて清々しい気分になった。あれはやはり一種の風邪引き状態だったのだろうか?十日間以上調子が悪かったことになる。

昔ほどそうした落ち込みの起伏は感じなくなったのであるが、やはり何らかの身体的な調子の悪さで閉じこもり気味になるのだが、客観的に見てあれだけ体調が悪ければ当然というような気もする。なにかと区別に悪い病気でも背負っているような感じである。

久しぶりに体重計ると暫くは見なかった74KG台に太ってしまっている。体調がよければ食欲も出て、食事量も増える傾向にあることを考えれば当然なのであるが、運動から減量を企てている者としてはかぐわしくないのである。

ライヴドーアのrssリーダーが終了になるという。事情は知らないが、blogのみならずsnwの事情が変わってきているのだろう。相変わらずネットでの情報収集も基本はそこに現れるようなサイトの時事ニュース報道であり、決してツィッターのようなものではない。正直ツィッターは使うことがない。その内容も今まで読む内容も殆どなかった。理由は、読みにくく、短く事情説明がなされていなくて、状況が正しく把握できないことに尽きる。

この度、終了のお知らせを受けて他のrssリーダをタブレットとwindowsで試してみた。現時点で使えるのは、前者の一つと、後者のネットヴァイブスと称するものである。前者もライヴドーアのそれよりも使いが悪く、後者も悪い。しかし、今までの使用の慣れがあるので、もう少し使い込んでみないと客観的評価は出来ないかもしれない。表示の方法や選択などの自由が利くものが最も使いよいのだが、兎に角個人のblogのみで660件ほどあるのだから、それを正しく掲示させるだけで大変なのである。

タブレットの方は場所もあるので、既にurlが存在しないものをマニュアルで消去した。既に止めてしまって久しいものもあったが、殆ど忘れているものもあり、気がつかないうちにフェードアウトしたものもあった。しかしその多くは、その投稿内容から、おそらくフェースブックで名を名乗って登場している者、まったくそうした時間がなくてなにも発信していない人、明らかに最初から続きそうになかったものなのが窺い知れた。

おちゃらけで書いていたものもとても真剣に書いていたものも両方ともなかなか続かないものであることは最初から明らかだった。書き方の手引きとして出ていたように、特定のテーマに沿って書き続けているもので残っているものはむしろ希少な存在である。原因は至極当然でどのような職業的な専門について語っても専門的な内容を深めていかない限り、同じことを繰り返すしかないのは授業のクールの作り方と同じだからだろう。



参照:
RSSリーダーを新調する 2009-07-29 | BLOG研究
少し咳き込んでの不安感 2013-02-18 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2014-10-08 23:21 | BLOG研究 | Trackback

一体どうなっているのか?

XPを立ち上げるとまたアップデートが出てきた。一体どうなっているのか分らないが、一つはオフィース関連のKB2825635で、もう一つはアンインストール関連のKB890830であった。XPプロもホームも同じようである。いい加減安全を期して自動アップデートを停止しようと思っていたのだが、この調子ならば当分はアップデートが続きそうである。そもそも市場があれば市場にあわせた供給が為されるのが市場経済に違いない。

フクシマ鼻血「風評被害」問題でBLOGを見ていると面白い。やはり、「風評」を叫べば叫ぶほど少なくともネットでは「実害」が話題になり、恐らく広くその実態が世間に知られることになるのだろう。

福一のバイパス放水問題にしてもあまり知られていなかったことを、日本からメールを貰うことで確認する。テプコは、基準値を超えない時点で自己判断して海洋に放水するとしていたが、先日から一部で基準値を超えていたことから結果的に希釈効果で対応すると発表していた。こうした情報も多くの日本人に知らせれば、まともな知能を持った人間ならば誰でもおかしいと思うに違いないのである。しかし汚染の総量規制がない以上基準値以下の汚染は理論的に無尽蔵に出来る法体制になっているのである。

そこで気がつくのが所謂閾値と言う概念で、最終的には科学的であるよりも認知の概念であるのだろうが、それが社会通念というよりも似非科学が関与した洗脳に類するものだと感じさせるのが、低放射線被曝のそれである。そのことはフクシマの鼻血の原因解明の科学的な見地以上に興味深く思った。

永遠の時を把握しないでも - 永遠の垂れ流しのように - その場限りで処理していくことで自らの役目を全うしていると感じるこうした日本人の精神構造や、同じような認知の共同体で生きることで生を全うしていると感じる日本人の精神構造がそのまま日本社会の特異性を示している。

なぜか不思議なことに、米国の主導する核の世界が、こうした日本人の精神構造に適合することになっている。広島・長崎を楯にとって自らの正当性を主張しているとも言われる日本人であるが、その人体実験を含む研究成果の結果を自らの認知として享受していることの不思議さをフクシマ禍に考えずにはいられない。

このように振り返って眺めると、フクシマ禍に関して、新たに気がつくこともある。その一例は、明仁天皇の避難民へのオファーで、「那須の御用邸」を解放しようとしたことである。今そのことを考えれば、宮中においても「那須の無視できない汚染」が共通認識として語られていなかった傍証となっていることである。外交筋とも親密な交流のある宮中においても世界中で知られていた汚染状況すらが共通認識となっていなかった状況をどのように説明すればよいのだろうか?歴史的にもとても興味深い事象であるとともに、それを取り巻く権力の中枢内部を含めて、そこになにか日本の精神構造が反映されているように見えるのである。



参照:
原発の安全神話こそ最大の風評被害 (猫のひとりごと)
世にも奇妙な鼻血の社会 2014-05-13 | 雑感
活性化とは被曝すること 2014-05-11 | アウトドーア・環境
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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by pfaelzerwein | 2014-05-14 21:14 | BLOG研究 | Trackback

最も著名なブロガーの人格

先日ラディオ番組でドイツで最も成功しているブロッガーが出演していた。日本などでは衰退が激しいようだが、フェースブックへの拒絶反応があり、そもそも短いツイッターを中途半端と思う向きには今でも根付いているに違いない。

興味深く思ったのは、我々と同じようになにも実名を隠すでもなくブログ上のキャラクターとして存在することの意味を語っていることだった。例えば政治的意見などに対しても、職業や社会的な立場を持った実名の発言ではあまりにその影響が大き過ぎたり、ネットでの発言がそのまま公式な発言として受けとめられる危険性を指摘していた。

これはとても大切な視点であって、社会的な枠組みで発言できないようなことを書き綴れるからこその意味がブログにはあって、もし実名ならばとても慎重にならざるを得ないのは誰にとってもそれほど変わらないであろう。

反面、ポストプライヴァシー社会と言う概念で、ほとんど性的なライフスタイルまでをあからさまにしていくことは、まさしく情報管理された社会におけるネットの活用の重要な意味合いを持ち得るのは明らかなのである。

少し考えてみればわかることであるが、個人情報を一部の為政者に握られたり、フェースブックに代表されるように権力掌握として握られたりするよりも、自らの日常としての情報を公にすることで、そうした個人情報との釣り合いをとる行為となるのだろうか?

その実際例が、公式見解としては出せないような感興や想いなども、そうした管理されて個人情報像を補うどころかそれを超越する人格の全体像ともなりえる訳である。こうして書き綴っていることも、例え社会的な影響などは殆ど無くとも、公式な見解としてならば何一つとして提示できないのであるが、様々な分野において重要な視点を含有しているのみならず、人格像として普段対面している人に示すよりも多くのことを語り掛けていることも自覚しているのである。



参照:
心を揺さぶる貴く強い振る舞い 2011-05-11 | 雑感
環境の一部である全人格的な行い 2011-01-16 | 文化一般
ライカ社のエルンスト二世 2007-03-12 | 雑感
天皇陛下のための硫黄島 2007-02-23 | マスメディア批評
ワイン街道浮世床-ミーム談義 2005-05-25 | 文化一般
敬語の形式 2005-01-27 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2013-03-13 23:54 | BLOG研究 | Trackback

容易な人種主義の程度

BLOG「あるホルン吹きによる音楽の部屋」で面白い話題の記事が紹介されていた。「ドイツの管弦楽団と人種差別」と題するヴェルト紙の記事である。その内容自体は特別に新しいものではないが、今またこうしたことが繰り返し記事になる状況が興味を引いた。

管弦楽楽団員の市場は小さくなるばかりで、その芸術的な意味も益々限定的に縮小して行く社会状況の中で、アジア人と呼ばれる極東からの楽師予備隊の進攻が止まらないからの記事であろう。嘗ては日本人に混じって僅かばかりの極東からの訪問者だったのが、今は音楽際などでも日本人が中心とは限らない様にである。

ベルリンのヴィオラ奏者土屋氏が「余り日本人の顔が増えるのは喜ばれない」と、彼の同僚に日本人が増えるのを危惧していた発言をNHKでしていたのは1970年前半のことだったろうか?それからコンツェルトマイスターも日本人になって、更に朝鮮人などの団員の顔が目立つようになり、そのような穿った見方は否定されてしまったのである。

カーテンの向こうでのオーディションなどの状況を様々に聞き、間近でも優秀な日本の音楽家はそうした壁を軽々と越えて行くのを何件も見ている者にとっては今更何事をとは思わないでも無い。職人的な技能的な能力と俗に言われる音楽性というのは容易に峻別出来るものではないのであるが、そういう文化的な背景を背負っているものがあるからこその文化であり、万が一個人的に知っているようなドレスデンの若い弦楽奏者とシナから来て数年間無料でドイツの音楽学校で修行したものとの差が無いぐらいならば、そのような文化は即破棄してしまった方が良いぐらいである。

非常に微妙な事柄であるのは承知のうえで放言してしまうならば、そうした文化的な価値を含めてずばぬけていることが求められるわけで、自らの文化的な背景をもそこに投影させることが出来ないぐらいものは芸術と呼ぶのもおこがましい。現に放送交響楽団のクスマウル門下の欧州出身の若い女性コンツェルトマイスターリンを辞退した実力は身近でみていても大したものなのである。

本質的な意味で、先ずは自らを鏡でじっくりと見つめるべきなのである。なるほど、一流の芸術家と楽師とはその文化の意味が異なるのかもしれないが、求められているのは芸術性であることに他ならない。

寧ろ、我々納税者にとって気になるのは、そうした無駄な教育システムへの予算の投資と、芸術活動への投資である。管弦楽団などは経済的に全く重要な労働市場ではないので、本当は傭兵のように外国人がその任を負っていてもなんら社会的な影響はない筈である。しかし、管弦楽団とは言えども芸術文化的な継承の意味合いがあるからこそそこに慎重な議論が欠かせないのである。

記事にも出てくるように、「アジア人の予備隊が本気でプロの楽師になる覚悟が出来ているとは思われない」とする意見は正論であり、そもそもこの記事のように人種主義を出せば人の目を引くと思われるような新聞編集の程度が低い。



参照:
Deutsche Orchester und ihr Rassismus-Problem (Die Welt)
文化的な話題と三面記事 2012-06-16 | 文化一般
つまらないには短過ぎる人生 2012-03-19 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2012-09-25 23:52 | BLOG研究 | Trackback

フクシマ後の現状認識研究

独日協会経由で回ってきたアンケートに答えてみよう。フクシマ後の現状認識を研究しているライプツッヒ大学日本学科の学生の研究資料である。

全部で18問あって、ドイツに在住していて日本となんらかの関係のある者に配られているようだ。しかしその基本は質問者のブログ読者となっている。よって誰でも答えられるので、詳しく紹介する。

1.性別
2.年齢
3.国籍

4.どのように日本の原発政策の現状について情報を得ていますか?(複数の会等可)― 新聞ラディオ・TV(ネット配信を含む)・ブログ・公的機関(消費者センターなど)・NPO(グリーンピースなど)・専門書・友人や親戚・情報を取らない

5.フクシマの大惨事は今も変わらず私の身の回りの話題である。― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

6.原発事故に拘らず日本への旅行は考えられる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

7.日本に滞在する場合福島原発に近いので、大都市東京は避ける。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

8.日本に滞在のとき、友人や家族は健康上の危険性を警告する。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

9.日本滞在の場合、食料品の出所に注意する。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならない・全く話にならない

10.日本滞在での健康上の危険は、現在今日フクシマ以前のそれと全く変わらない。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

11.原子力に纏わるドイツの政治経済関係者による取り巻きは、日本よりも安全だ。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

12.日本の政府やメディアによる原子力政策に関する情報はあてになる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

13.放射能汚染の危険は、福島の管理地域を越えて及んでいる。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

14.福島第一原発の危険はもはやないのは確実である。 ― 全くその通りである・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

15.福島原発ゆえに日本の将来を不安に思う。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

16.福島原発事故は、チェルノブイリのそれよりも過酷なものである。 ― 全くその通り・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない

17.チェルノブイリの事故で、食料品の購入にその出所に注意を払った。 ― 全くその通り・その通り・分らない・そのようなことにならなかった・全く話にならない

18.経験したチェルノブイリや福島で起こった事故については、ドイツの原発はあたらない。 ― 全くその通りである・賛成・分らない・あまり賛成できない・全く話にならない


テプコが、極度に汚染された魚の発見を、会見で語った。河口から一キロほど沖らしい。原因は分っている。汚染の進みが既に検証されている河川に集められた核物質が最終的に河口に流れ込んで、海流で薄まった福一からの直接の汚染と交じり合ったものに違いない。残念ながら川の流れがここでは拡散よりも収斂へと働いたことは確かであり、更に植物連鎖の影響があるとすれば、今後三十年間ほどはとんでもなく汚染された食料品が市場で捌かれるに違いないのである。一年半ほど経ってこうして抜き打ち的な汚染が確認されるのだが、日本国民が皆知っているように、規制や報道などは事後処置としてしか表向きにされないのである。「ピーターと狼」状態は更に加速している。

上の質問者のBLOGに書き込んだ。「あなたは知らなかったのか、311以降日本で信用できる情報源は、IWJを代表とするネットメディアの中継でしかないことを?」と、回答の設定自体が間違っていることを質した。



参照:
Umfrage zur Wahrnehmung der Katastrophe von Fukushima (Fukushima 24/7)
福島の蛸とか大阪の盛り上がり  2012-08-04 | マスメディア批評
目が黒いうちに食いてぇ秋刀魚  2011-09-05 | 歴史・時事
セシウムか、カリウムか?  2011-12-12 | アウトドーア・環境
情報の隠蔽も未必の故意  2011-07-01 | マスメディア批評
Fuck you, everybody!  2011-12-06 | マスメディア批評
秋へのスパートが楽しみ  2012-08-12 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2012-08-21 21:46 | BLOG研究 | Trackback

日隅一雄のジャーナリズム

どれほど多くの人がBLOG「情報流通促進計画」を訪問したか知らない。ここ暫く所謂ペインコントロールの闘病生活が語られている。個人的に知己のない我々でも東電・統合記者会見での日隅氏の活躍を知らずには居られまい。そして、麻薬投与を始めてからのBLOGでの報告は、そうした既存の情報が少ないとしてプロフェッショナルなジャーナリズム的な決断で急遽行われている。

その飽く迄も理性と冷静さを失わない客観的な視点は、ややもするとそれまでの氏のBLOG訪問者にとっては鼻持ちならないような一種の唯物論的な視点と映ったに違いないのである。少なくとは個人的にはそのように感じていた。

しかしここに至ってのその現状報告は、痛みをこらえ、麻薬で薄らいだ意識などを全く感じさせないとても強い表現意志となっている。最新の報告には、「マスメディアを批判してきた私の渾身の一枚」として称して、癌によってやつれて肋骨が浮き、癌によって膨れた腹部の自画像が掲載されている。なんと意志に満ち溢れた強い表現だろう。

末期癌の本人のBLOGなどは少なくないが、正しく日隅氏が確信したように十分なこうした冷静な視点での情報は皆無に違いない。要するにそこにあるのはジャーナリストを超えての表現者の意志なのである ― そうした意志が個人の肉体が消滅した後も受け継がれることを我々は文化と呼ぶ。

一昨年に肺癌で死去した舞台映像表現家シュリンゲンジーフなども同年輩であり、最後まで自らの闘病を含めての生を表現の対象ともしたが、これほどまでにザッハリッヒであり何処までも冷静で客観的な表現は知らない。恐らく、そのこと自体が法学を学んだ日隅氏にとってのジャーナリズムの本質なのであろう。

なるほど受け手によっては、その内容の感じ取り方は異なるかもしれない。その写真を観て、皮肉にも殆ど逆説的に世紀の芸術家が渾身の力を振り絞って表現したまるでイエスキリストの受難のそれを思い浮かべるかもしれない。勿論、受ける人其々であるが、そうした表現の強い意志をそこに感じさせることだけで十分なのである。

自由報道協会は社団法人となり公共性を増すと共に、ジャーナリストへの賞を授けることになるようである。その賞は既に日隅氏の名を冠すると内定されているようである。こうした何処までも理性的で客観的でありながら意志に満ち溢れた表現の出来るジャーナリズムにその賞が授けられるとなれば、それはとても素晴らしい。

生物であるから万人に訪れる死であり、経験談すら聞けないために未だに最大の人類の未知でもあるが、哲学や宗教を含む芸術とか表現とかは ― どのような文化的な背景があろうとも ― その前提を無視しては一切表現できないのである。特に文学の一形態でもあるジャーナリズムが、そうした根源的な表現意志もないままにマスメディアを形成していては本当のジャーナリズムにはならないのである。

もう一度繰り返すが、この自画像を観て、受け手が何を読み取るか、何を感じるか、何を考えるかが大切なのである。



参照:
反社会的犯罪組織を解体せよ 2011-08-01 | マスメディア批評
セシウムも降り注ぐマイホーム 2012-01-07 | アウトドーア・環境
文学としてのジャーナリズム 2012-01-04 | マスメディア批評
最も同時代的な芸術家の死 2010-08-24 | 文化一般
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般
若き芸術家の癌病闘日記 2009-06-07 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2012-01-16 18:37 | BLOG研究 | Trackback

ハレルヤ!晴れるや?

終日雨だった。この際積んであるまだ真新しい「ケプラーの月旅行」を読もうかと思ったが、なにやら音楽のことなどが気になって、LPなどを立て続けに流した。

思いがけずヘンデルのオラトリオ「メサイア」の推薦CDを、自ら合唱で歌われたBLOG「風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句」の風信子さんより尋ねられた。

最近の演奏実践のトレンドについてコメントを書き込んだからである。実は、自身これといった推薦盤を手元においている訳ではなく、これまた安売りで購入したライヴ録音のトン・コープマン指揮のCDなど以外には、やや昔風の演奏でマッケラス指揮のLPを隠し持っているのである。晩年大変評価が上がり、ブレンデルとのモーツァルトなど、まさしく先日扱ったネヴィル・マリナーとは違って、ドイツ語圏でもそのヤナーチェックのオペラ作品の演奏実践を超えて芸術的に受け入れられた音楽家の60年代の録音である。

要するに、一時は持て囃された軽薄軽佻なテムポやリズムをもったBGM的な音楽に比較すれば、重厚鈍重な印象さえ与える演奏形式が実はなかなか丁寧な表現で聞かせることに気がつくと、一概にそうした芸術が必ずしも保守的で古色蒼然としたものとは限らないことも分かるのである。しかし、古典派のモーツァルトとバロックのヘンデルの差は大きく、ヘンデルにおいての現代楽器奏法での表現の可能性は限られている。

また、同じところをライヴCD盤で聞くと、なるほど合唱の十六人の歌は言葉もニュアンスも優れているのだが、コープマン指揮のしらけ振りは徹底していて、第六曲合唱のアイロニー振りも悪くは無いが、やはり先ず聞き比べをしたい十二曲の"For unto us a Child is born"においても徹底してしらけ通すのである。全然ワンダフルじゃないのだ。

そこで、この第12曲から比較してみよう。先ずはガーディナー盤である。この楽団がパーセルなどで初期に成功したテムポ感を思い起こすが、少々雑な感じも免れない。

次にアーノンクールの旧盤を聞くと可也テムポも遅く、ソロイスツにオペラ歌手などの名前も見え、合唱もなにか歌い難そうである。さて新盤の方はシェーンベルク合唱団が歌っていて、基本的な解釈は変わらないようだが、言葉のアーティクレーションなど鮮やかで惚れ惚れとさせ、テンポの真価がここで始めて表現として聞こえる。しかし、その音響と技とらしい合間はライヴ録音の悪さで反復し難いあざとさとなる。

鈴木のテンポはガーディナーよりも速そうだが、印象はコープマンにも近く、まるで東京の地下鉄の会話の生意気な響きを聴いているようで、敢えてこのような表現を取っているのだろう。まるでテプコの慇懃無礼を聞いているような非常に険がある表現なのである。ユダヤ人の謀議風景のようだ。

ジョン・バット盤のテムポ感覚も似ているが合唱というか声楽パートの地声風というか安物の突っ張り調の発声と叩き付けたような弦楽が、どうしても粗雑な印象を受けていけない。受け狙いも良いが、これで全曲を演奏されては堪らないのである。

ホッグウッドも中庸な解決方法で、さらにボーイソプラノなどを入れると全くケムブリッジのチャーチなどのまさにローカルな雰囲気で、これも全曲となるとなかなか聞くに堪えないかもしれない。もちろんこうしたローカルな音楽文化があるのはたいしたものであるのだが、なにもそれにお付き合いする必要もないのである。

以下にそのリストの一覧を貼り付けたが、所謂有名演奏家のハーノンクールやガーディナー指揮などのCDを中心に日本でも入手できるだろうとする目的から挙げたが、それ以外にも面白そうな英語の上手そうな演奏団体のつまり英語で歌われるメサイアの録音を挙げたのである。

リストアップしてみて気がついたのは有り余るアマチュアなどの録音が溢れているのだが、所謂名学伯がプロフェッショナルな合唱団を指導しての最新制作録音は殆ど無い。世界で最も多く歌われるであろうバロックの曲であり、その録音の市場は大きくても、それ以上に一流の演奏家を使っての制作録音などは商売にならないことを物語っている。まさしく作曲家が経済を考えて作曲公演した作品であるからそれで正しいのかもしれない。

また古楽器を使った合唱を場合によってはソロパートにまで切り詰めたプロフェッショナルな演奏実践が、実際にダブリンで初演された何百人の合唱とは異なることも事実であり、そもそもオリジナルの響きなどは実は作曲家の脳みそを覗いてみても分らないものであるということで、初演の響きなどが「オリジナル」とはいえないのは芸術的に正しいのである。理想とした響きを初演で得られる作曲家や曲などは一体どれぐらいあるだろうか?その多くは失敗の積み重ねであるのだ。



参照:
Baroque Soloists, Gardiner,
Taverner Players & Choir, Parrott,
Nikolaus Harnoncourt,
Harnoncourt,
Bach Collegium Japan, Suzuki,
Dunedin Consort & Players, John Butt,
Christopher Hogwood (JPC)
オランダ・バッハ協会のロ短調ミサ (♯Credo)
「シトー派修道院の円蓋に響く聖歌」と題する11世紀から12世紀の聖歌を収録したCDを聴く (私的CD評)
小澤のマーラー9番(後)~思い出の名盤・44 (TARO'S CAFE)
デイヴィス指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でハイドン作曲、交響曲第99番 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真)
微睡の楽園の響き 2005-02-22 | 文学・思想
ヘンデルの収支決算 2005-03-20 | 歴史・時事
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
旨味を増すBGM環境 2011-12-01 | 音
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by pfaelzerwein | 2011-12-06 20:55 | BLOG研究 | Trackback

自らの権利を自ら掴み取れ

ネット散歩をしていると面白い。それも身近なつぶやき方ではなくて、しっかりとした考え方や姿勢が伝わる記事や映像は勉強になる。

回覧しているBLOG「モリモリキッズ」のキノコシリーズの記事は秀逸であった。放射能を受けた最も危険なキノコを研究しながら、それでも何を食して何を食さないかについて様々な判断をする。本来ならば「キノコは食さない」でそれで終わってしまうものかもしれないが、何処までも拘りを持って食せるキノコを捜し求めるのである。

本当に危険なことも知らないまま「大丈夫だろう」と横着な態度で、もしくは当てにもならない基準値とかそれ以下だからという理由で何でも口に入れてしまう強欲な人間が多い中で、一つ一つ吟味してその危険性を知りながらも食することを決断していく営みは全く異なることなのである。

そもそも自然の中だけでなく市場にも危険な食物などはあり溢れているのである。その前提に立って、それでも食べていなければ生きていけない。それが食であり、営みなのである。これほど単純なことを改めて思い起こさせてくれるのである。

全く同じように自主避難についても考えるべきで、その処置を巡っての公聴会の様子をネットで観る事が出来る。避難をした人、しなかった人に同じように弁償しなければいけないことが認識されたようだが、委員はそれでも事故当初の避難とそれ以降を別けようとする。その理由として都内からの脱出を挙げているが、それは理屈に合わない。

なぜならば各国の駐東京在外公館は避難勧告をしたが、都民や首都圏の住民に対しては日本政府は一言もそうした勧告を出しておらず、その後に一斉に戻ってきた後のホットポイントへの広報も初めて今なされている状態なのである。柏市からの今後の避難の権利を尊重するのかどうか?既にそれらの情報は政府やマスメディアとは関係ないところで信頼性の置ける情報として世界中に知れ渡っていたにも係わらず、未だに十分な情報の開示や処置がとられていない。そのような状況下において、適切な判断としての合理的な避難などはありえないのである。

最初のキノコの話題に戻れば、もはや日本国内において安全な食物同様安全な場所などはないのだが、それでも危険なホットスポットや東北、関東地方から少しでも安全な場所へと移住しようとする権利や動きに関しては積極的に保障をして、全て東電に支払いをさせるべきなのである。柏市をはじめとする千葉県や埼玉県の一部をもはや居住には適さない土地不動産としてしまったのは東電であり、福島県の殆どの土地やその近郊県の土地を含むその補償だけで東電が今後継続して企業活動出来る筈がない。時間の問題である。

それでも多くの日本人は日本国内で生きていくしかないのである。その国民に対しても何一つ補償しないと言うのであろうか?「仕方無い」ことなのか?日本国憲法に健康に暮らせる権利は保障されていなかったのか?

年間積算放射線量が一ミリを越える地域の住民は全て東電に善後策を要求して、避難などに要する請求書を送りつけるべきなのである。何人も人や行政などを頼ってはいけない、自らで自らの権利を掴み取るべきなのである。



参照:
【信州の里山】キノコの放射能汚染と除染について
野生キノコの汚染と除染について。(妻女山里山通信) (モリモリキッズ)
2011/10/20 原子力損害賠償紛争審査会ヒアリング(意見陳述)
2011/10/20 原子力損害賠償紛争審査会文科省前アピール (IWJ)
遅過ぎた自主避難などない 2011-10-04 | 雑感
自主避難の自主判断基準 2011-08-14 | マスメディア批評
共同体に警報が鳴り響くとき 2011-03-27 | アウトドーア・環境
点在する首都圏の熱いスポット 2011-10-13 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2011-10-24 03:01 | BLOG研究 | Trackback