カテゴリ:暦( 251 )

殆んど卑猥な復活祭卵の巣

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朝からパンを買いに行って、一っ走りしてきた。峠への上りはブルックナーの交響曲四番を頭でさらっていた。それでもまだ四楽章を勉強していないので紛らわしいが、最後のコーダまでなんとなく動機の連結は描けた。交響曲とはこのように作曲していくのだと体感できるような気がした。

なにはさておき四楽章までさらって、時間があれば録音を流して、夕方のバーデンバーデンでのコンサートのネット再放送までに、ザルツブルクの楽劇「ヴァルキューレ」を少し観てみたい。障りだけは聞いたが、指揮者のティーレマンは、テムポを抑え、音量を抑えてマニエーレの極致を行っているようで、これは楽譜を見ながら聞かないと適格な批評にならないと思った。無駄になるかもしれないが、歌手陣も大変健闘しているようで、先ずは観なければ話しにならないと思った。

聖週間は昨週末からの疲れもあって、音曲自主規制としたので、打って変わっての一日中音響漬けは厳しいかもしれないが、砂漠に溢す水のように体に染みていくかもしれない。それでもやはり楽譜を見ながらヴィデオ鑑賞なんて苦痛でしかなく、楽譜も無しに音楽ヴィデオなどを二時間どころか短い一曲も気を散らさずに観ていることなど出来ない。それでもああしたものが売れる市場があるのだから、多くの人は余程気が長くて我慢強いのだと思う。

これを書き乍ら、「ヴァルキューレ」を流しているが、子供の時から乍ら族なのでそれは堪えない。しかし、何か独特の節回しの音楽が流れると気になって仕方が無くなる。独特のアーティキュレーションの根拠はどこにあるのだろうと気になると楽譜を開けてみないといけなくなるから、やはり乍らでは流す価値はあまりない。まるでミュージカルか何かのようで、まるでテムポやリズムが定まらないと気持ち悪い。これを専門家を称する人達は拍を数えているのかどうか、極限の殆んど卑猥なアゴーギクと呼んでいるようだ。まあ、多くの専門家の絶賛を受けた公演であるから最後まで観よう。

パン屋で取って来た復活祭の卵の巣である。一度、写真を上げたことがあるが、毎年のお飾りのようなものなので仕方が無い。勿論、復活祭のウサギと言われるようなものは卵を産む訳がないのだが、ウサギは多産の象徴であることには変わりない。



参照:
満ちる生まれ変わる喜びの日 2010-04-06 | 暦
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-04-16 22:54 | | Trackback

曇天の聖土曜日の騒々しさ

聖土曜日は朝早くから買い物客が押し寄せた。例年の如く、厚い雲が覆う聖土曜曜日の天候だが、復活祭で火曜日まで休みになるからだ。先ずはパン屋で並び、八百屋に行くのに遠めのところで駐車した。おばさんが牛蒡を渡すのを忘れていたので帰宅後電話した。帰りにはバイパスが地元の南インターチェンジまで開いていて、いつも使うところはラムぺが殆んど出来上がっているので、旧道の混雑は解消されて、もう一息で工事以前よりも更に静かになるだろうことを確認出来てよかった。

立ち寄った肉屋では青胡椒入りミニザウマーゲンを購入した。残っているマウルタッシェと合わせてこれで火曜日まで暮らせるだろう。一食は米があり、一食はジャガイモがある。復活祭初日はパン屋も開いているので、リースリングを一本開ければ充分だ。

途上のラディオは予定されている復活祭の平和行進の予定などをニュースとして伝えていた。ラムシュタインの沖縄と並ぶ世界最大の海外米軍基地へと向けてシリアへの攻撃などへの抗議行動を行うという。その行動の規模は知らないが毎年のことだろうからある程度は分かっていることであり、こうして朝のニュースとして伝えることは中立の公共放送としては公平なのだと思う。

そこで、トラムプ大統領が北朝鮮を朝鮮半島の非核化に向けて交渉の場に引き出そうとしている挑発の報道は、丁度冷戦時代の戦略核構想を想起させるが、あの当時の西ドイツの報道はどうだったのかなどと思わせた。当時は右左両翼の政治勢力と報道姿勢などがはっきりあったわけだが今はどこの国も異なっている次元ではやはり質の良い冷静な報道などが必要とされるのだろう。先日、米中の両首脳は今回の件で協議したことだろうから、ある一定の効果は計算できているのだろうか?

北朝鮮と謂えば、先日シュネーベルガーのお弟子さんと話したときに、金正恩とも平壌で会う可能性はあったと語っていたが、それは冗談ではないと分かった。逆に会っていなかったのだろうと分かった。それほどスイスでの滞在は後継者となる本人にとってはあまり表に出したくない事だったのだろうと推測する。スイスの全方位永久中立政策ゆえになせる業だろうか。

南朝鮮と謂えば、ベルリンの尹伊桑の家構想に韓国政府が経済的援助を惜しんで暗礁に乗り上げているという話しを聞いた。貧しい国でもなく、サムスンなどの大企業は連邦共和国において大きな利益を上げているのであるから、ソニーが首都にセンターを作った様に、韓国を代表する作曲家であり、政治的にもとても世界の注目を集めた人物であるから構想に財源を出すべきである。勿論彼を迫害して、死刑判決を与えたのは先頃弾劾された朴の父親の朴正煕大統領であり、あまりに北朝鮮と近かったことからその援助が難しかったのは理解可能だが、この時点で方針が変わらないのだろうか。その政治信条以上に、朝鮮民族にとっては重要な芸術家であることは間違いなく、金大中と並んで時代の証人であったことも間違いない。韓国人も慰安婦像などに市民の募金を集めるならば、尹伊桑の家構想に資金を集める方が将来的にも価値があり、民族の誇りとやらに繋がるのは間違いない。



参照:
聖土曜日から復活祭にかけて 2013-04-01 | 暦
ポストモダンの貸借対照表 2005-09-02 | 歴史・時事
詭弁と倹約 2005-02-18 | 料理
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女
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by pfaelzerwein | 2017-04-15 19:24 | | Trackback

聖金曜日のブルックナー素読

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オバマ前大統領が五月にベルリンを訪問するという。プロテスタントの教会大会に出席してメルケル首相と面談して、その足でメディア賞授与にバーデンバーデンを訪れるらしい。子ブッシュとは異なりその世界的影響力は健在のようだ。

ラディオは、電気代が上がることを伝えていた。理由は連邦共和国が進める電気自動車の充電機の設置のために新規投資が必要だからのようである。既にアウトバーンの脇のマクドナルドなどでも見かけるが、充電時間を考えると本当に実用的なのかどうか分からない。少なくとも、自宅では今後とも更に節電する方向で最後の微量電流までを抑えて行くことになりそうだ。今年になって殆んどワークステーションを点けていないので既にこれまた期待できる。

ランニングのスピードが出ない。理由は分からない。気温摂氏六度もあれば十一度もある。それほど変わらない。どこがどう悪いわけではなく、絶食をしている訳でもないが、もう一つである。先週、週末の疲れが残っているのだろう。コンサートに行くだけでも結構厳しい。十代の時の年間百何十回かの記録が一度だけあるが、二時間近く集中しているだけでも疲れるのである。それが三日に一度ほどとなると堪らない。あの頃は好奇心の方が強かったのだろうが、それでも厳しかったのを覚えている。

2015年から再びフランクフルトの演奏会とバーデンバーデン以外にミュンヘンのオペラに通いだしたが、フランクフルトは定期を止めた。それでも今年、来年の計画を立てると、そこにこれまた極力減らしているスキーと山を加えるとダブルブッキングの可能性が高い。今は泊まりで仕事に出かけることもなくなっているので幸いだが、そのようなものがあると仕事先からオペラやスキーということになってしまうのだ。

忙しく動き回っているとやはりじっくりと色々な勉強ができなくなる。音楽のお勉強だけに限ってもあの忙しくしていた時の時間に追われてのそれと今ではやはり大分異なり、深く勉強出来る。ブルックナーの交響曲四番の「素読」を第一楽章から始めた。最初の版も写譜屋さんの筆ではなくて直筆譜だった。古楽の場合などは苦手なのだが、これはシステムがはっきりしているので、なによりも書き込みが分かり易くて余り苦にならなかった ― 余談ながら、通常の文章とは違って、音楽の記号は速読に適していて、視覚的に文字とは違ってそれは瞬間的に捉えられるからである。寧ろ、動機の扱いなどを見るとその勢いとか書き込みに流れが見えて分かり易い印象である。同時に後年の成功と攻撃から対位法の大家のような印象があるが、この交響曲をこうしてみると可成り隙間だらけでそれほど密に書かれてはおらず、精々その辺りの学校の先生という感じである。実際にオルガン弾きとしてと同時に、ヴィーン大で講座を持つとなっているが、現在もどこにでもいるような普通の音大の講師程度ではないだろうか。流石に第一版は冗長なところがあって改定の必要に迫られただけでなく、今は誰も使わない楽譜であるというのは感じられた。少なくとも動機の扱い方においてということである。まだよく分からないので先に進もう。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
夏タイヤについてのファクト 2017-02-24 | 雑感
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-04-14 19:47 | | Trackback

今日か明日かの衣替え

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衣替えの季節である。毎年四月が目安になっている。半年もつという虫除けを購入して納めると十月までは効果があることになる。そのような計算である。今年もスーパーでぶら下げる紙を10枚購入した。箪笥にこれを吊るせば先ずは大丈夫だ ― 更に昨年から使いさしの蚊取り線香がそこに入っている。寝室の箪笥だが、臭い等でそれほど問題になったことはない。天井が高く、風通しが良いからだろう。

毛の衣料などは、水洗いすべきかどうかなども考えるのだが、虫除けさえしておけば使えなくなることはないので、出来る限り致命的になりかねない水洗いは後回しにする。そろそろ余所行きから自宅での衣料に下すというときに洗ってみるというようなことが多い。以前はドライクリーニングもしばしば使っていたが、価格やらその効果にはあまり期待しなくなった。

兎に角、明日寝室を掃除する前に、箪笥の中の冬物を整理して、衣替えして、紙を吊るして行こう。来週には夏タイヤになり、これで復活祭と同時に一先ず本格的な夏支度となる。

パン屋から森に入って、朝早かったので八時のニュースを車の中で聞いていた。三つ目のニュースとして、アムネスティインターナショナルの人が電話で日本を批判していた。新聞のフランクフルターアルゲマイネ紙と並ぶ独自の特派員を東京に置く独有数の知日・親日メディアSWRの朝のニュースである。それによると、死刑執行は中共の数と日本の扱いが大問題なのだという。つまり合衆国でも執行までに猶予日時があるのに、日本では当日一時間前に突然やってくるというやり方への批判である。死刑囚は、毎日今日かどうかと拷問状態に置かれているというのである。これが重要な人権侵害とされるところである。なるほどまるで日隠の世界だ。

日隠はそうした覚悟を説いているのだが、死刑囚がそのような貴い精神状態に至れるとは思わない ― そもそも二割にも満たない武士階級のそれらをその他もに強要したのが帝国軍事教育で、とんでもない結果になったのは歴史の知るところだ。拷問であるとの批判が恐らく正しく、死刑制度を継続させたいならば死刑囚の健康を第一に考えていかないと、拷問として更に批判が強まっていくと思われる。

このニュースの数分前には、今日の一言として、聖週間の意味つまり神は生贄を求めず、自らの犠牲でもって人々を救うという、人を裁かずの話が流れていたので、このニュースを聞いた教養のある人々への語りかけは強かったに違いない。



参照:
衣替えの季節 2006-04-22 | 生活
日本社会の文化的後進性 2013-02-21 | マスメディア批評
同じ穴の狢が議論をすると 2010-08-27 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-04-11 19:47 | | Trackback

漸く時差ボケから解放される

木曜日の走りは疲れが残っていた。早く走れるとは思っていなかったが、走るうちに攻める気持ちが出て来ていたので、ひょっとすると真面な数字が出るかもしれないと期待していた。しかし結果は、25分30秒往復とジョギングテムポで、往路に12分も掛かっていれば致し方が無い。やはり初速が早くなければ比較的平らなコースでは記録は難しそうだ。

足の筋肉の疲れなども少々のストレッチングでは治らない。肩の柔軟を丁寧にしたが、関節のそれと筋肉痛はやはり異なる。目下の課題は、乳酸の溜まらないような運動とその回復を如何に早くするかで、今までの疲れによる運動能力の低下を是正していかないとあまり使い物にならないと考えている。

久しぶりに熟睡した。どうも夏時間に入ってから昨夜までは夜中の三時前に目が覚める傾向があったからだ。要するに11夜は夜中に目が覚めた。時差ボケが続いていたことになる。今まであまり意識していなかったが、それぐらいかかるのは普通かもしれない。それでも僅か1時間ほどの時差は寧ろそれに気が付く方が難しいのかもしれない。その意味では良く身体で意識できたと思う。気持ちが良い。

ミュンヘンの劇場の極東ツアーの日程をみると、なかなか上手に出来ている。勿論東京にソウルと台北を付け加えたわけだが、少なくとも日本公演初日の一週間前以上に台北に入っている。つまり時差が殆んど抜ける頃から東京公演が始まるのである。これはなかなかよく考えられた日程だ。面白いのは台北ではベートーヴェンプロが演奏されて、ペトレンコ指揮ではイスラエルフィルぐらいでしかなかったのではなかろうか?熱心な日本のファンはこれに出かけるのも面白いかもしれない。交響曲七番は直接クライバー指揮との比較が可能だろう。

Ludwig van Beethoven 
Klavierkonzert Nr. 3 c-Moll op. 37 
Symphonie Nr. 7 A-Dur op. 92
Leitung Kirill Petrenko 
Klavier Igor Levit
National Concert Hall, Taipeh 
So, 10.09.17 
npac-ntch.org/en 
T +886 2 3393 9888
veranstaltet durch die Konzertgesellschaft der Musikalischen Akademie e.V

昨夜、YouTubeへリンクを貼ろうと思うと、そこのGOOマークがあるのに気が付いた。貼れることは分かっていたが、リンクするのが早いと思っていたので今まで貼っていなかった。しかしこの方法ならリンクよりも手軽だ。そしてクリックするだけで簡単に観れて、サムネイルの写真がるのも悪くはない。そこで、遡って劇場関係のものを貼った。今後も沢山貼れるかと思う。

自分で撮ってアップロードしているものはないが、目下の課題のボールダーの動画などもアップされているので使えるものは沢山ある。短い時間で印象を得るにはやはり文章よりも動画が早くてわかりやすいのは当然だろう。しかし、テュイッターなどと同じで、短い文章や印象で納得できるものは構築的、高度な理解には至らない。その意味では、如何にTV文化などというのは20世紀後半文化の仇花だったかというのがよく分かるだろう。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-04-07 19:17 | | Trackback

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich..

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ミュンヘンからのネット中継を観た。新シーズンのプログラムお披露目である。12月にプッチーニの三部作、2018年6月に「パルシファル」となる。前者は想定内だったが、後者は想定外だった。まだまだ時間を掛けると思ったが、やはり後のことを考えると早めにやってしまう方が良いとなったのだろうか? ― ブラームスを取り上げるのも同様で、明らかに将来のレパートリー構築から逆算していて、この曲の影響として印象派や初期シェーンベルクに言及した。カウフマンやシュテェムメ、コッホの豪華キャストとなるとまたまた券を確保するのに苦労しそうである。個人的にはプッチーニの方が楽しみだが、バーデン・バーデンで3月末に一度、そして6月となると、もはや8月にバイロイトに出かける価値もなくなってしまう。

日本旅行、ロンドン、ニューヨーク公演についても言及があったが、初めての日本への期待も語られていて、そのプログラム内容よりも旅行という感じだ。

(Was würden Sie zum Akademiekonzert sagen wollen?) (アカデミーコンサートに関して何かおっしゃりたいことは?)

Ich würde als das Wichtigste gerne erwähnen, dass nicht nur in Hinblick auf die zwei Premieren, ist das für mich, eine Spielzeit mit vielen anderen Premieren, nämlich, ich freue mich sehr darauf nach Japan... 「私にとっては、ただ二つのオペラ新制作に止まらない、初めての重要なことが盛り沢山のシーズンであります。言えば、つまり、とても楽しみにしている日本への旅行です。」

Ich war noch nie in Japan. Das ist für mich irgendwie ein Aufbruch in die neue Welt. 日本は未知の国で、新世界への旅立ちといった感じです。

東京では、「タンホイザー」の三回のオペラ公演に加えて、「ヴァルキューレ」第一幕マーラーの作品などを二回のコンサートで指揮する ― これの台湾韓国公演もあるようだ。「ヴァルキューレ」は、ミュンヘンでは指輪四部作の第一夜として、ベルリンでつまりバーデン・バーデンで上演するまでの最後の機会として、コッホのヴォータンとシュテェㇺメのブリュンヒルデで再演され、そこで新たな面を見せたいと言われると、これまた幾つかは行きたい気持ちにさせる。

早速、恒例のCD落穂拾いをした。今回は先ず先月から気が付いていたクリスティー指揮のヘンデル作曲「ベルサザール」に食指が動いた。この曲はピノック指揮のものを所持しているが、三枚組10ユーロしないとなると手をつけずにはいられなかったのである。もう一つはアルティメス四重奏団のベートーヴェン全集の一つが二枚組でこれも9.99ユーロで出ていたので発注した。中々よいのは各々三期の曲が組み込まれていて、マーケティング的にも気が利いていることだ。その他は、ウィッシュリストに入っていたフィラデルフィルをムーティーが振ったもので、一月に聞いたシカゴとの演奏からより豊満な響きでも聞いてみたくなった。もう一つ超高級管弦楽団クリーヴランドでブラームスのヴァイオリンをツェートマイルが弾いたもので、フォンドホナーニが付けているのでこれも発注した。先に購入したムター演奏のカラヤン盤が何時ものようにその管弦楽団が余りに良くなかったので、ソリストだけでなくクリーブランドの管弦楽団に期待したい気持ちもある。それで値引き最低額30ユーロを超えているが、ロバート・クラフト指揮のヴェーベルン集が2ユーロしなかったので発注した。探しても探しても購入する価値の見つからなかったナクソス盤をこれで初めて購入することになる。



参照:
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
消滅したエポックの継承 2016-10-23 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-04-02 19:39 | | Trackback

とても豊かな気持ちの清貧

この時期は天候が悪くなると緩怠感が起こる。陽射しが無いと外気温が強くても肌寒い。そうなると赤ワインそれもピノノワールが美味い季節だ。それでもワイン街道はアーモンド満開である。以前は赤ワインを飲むとあまりに血管が膨張したような気持がして、落ち着かなかったのだが、この冬辺りは指先の抹消血管などが詰まって来たのか冷えるように感じた。そのために室内履きも一昨年辺りは指を出したサンダルを冬でも履いていたのだが、この冬は通常のスリッパに靴下までを履いている。冬山でも手の指が凍りそうになった。慢性的なものか一時的な健康状態なのかは分からない。少なくとも厳冬期でも半袖を着たり、ショーツで走ったりすることが出来るので通常の人よりは暑がりなのだが、抹消に関してはどうも違うようだ。

そのようなことでピノノワールを開けることが増えているが、同時にリースリングが飲み頃になるまで寝かさないといけないとなると、ピノノワールと比較して全く早飲みではなくなってきている。先日はクリストマン醸造所で購入したこの赤ワインのギメルディンゲン2014年を開けた。同時に購入した裾ものと比較すると、流石に高級感がある。何よりもテロワーを感じる。それもリースリングと同じような酸とその土壌を感じる。大した土壌ではないのだが、嘗てはカペレンベルクなどからのSCと呼ばれていた時よりもその個性は綺麗に出ている。なるほど色も薄めで、21ユーロならばフランスものでもあるが、質は決して悪くないと思う。なによりも雑食砂岩主体の地所というのがいい。

以前は冬に入る前の秋の寒さが堪えた。体が慣れていないからだろうが、ここ数年は記録的に暖かい秋などが続いていて、知らないうちに暖房が入っているような生活になっている。個人的には籠もり部屋に冬篭りするようになってから、暖房をあまり入れなくなった。昨日は車中のラディオで夏時間の弊害などが毎度のように話題になっていた。知らぬうちにこの週末に迫っている。四月末かと思っていたが、20日が春分だったのでそのあとの今月末となる。光熱費を節約するというのも狙いのようだが、放送では朝早く暖房を入れれば夜の電気使用が相殺されるというような話になっていた。それからすると、嘗ては復活祭以降でも暖房を入れていたことを思い出す。それどころか夏でも暖房を完全に切っていなかったぐらいだ。

それが今はどうだろう。三月になってからは必要な時だけ洗濯物の近くで暖房を入れる位で基本的には全切になっている。なるほど手足が時々冷える筈だ。しかし嘗てのように暖房の調子が悪くて寒くてもなかなか温まりなかったり、必要のない時でも直ぐに温まらなくなるのでいつもお湯を流していた時よりもとても豊かな気持ちで安心である。



参照:
まろみが嬉しい自然な呼吸 2017-03-05 | 試飲百景
旅行負担の総決算 2017-02-12 | 雑感
腰痛日誌五日目、柔軟 2017-01-11 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-03-24 20:09 | | Trackback

日曜は一寸した祝祭気分

火曜日の夜はバイエルン放送協会で中継録音が流れる。先月21日にミュンヘンの劇場で演奏されたアカデミーコンサートの録音である。プログラムは、スクリャビン「夢想」、ニコライ・メッドナーピアノ協奏曲二番ハ短調、ラフマニノフ「交響的舞踊」の純ロシアンプログラムである。ピアニストのフランス系カナダ人アミランも評判が高く、初めての曲である。

早速楽譜をダウンロードしておいた。協奏曲は初見で目を通しておこうかと思う。交響的舞曲は既にキリル・ペトレンコ指揮でバイエルンの放送交響楽団との演奏がYOUTUBEに出ているが、それと比べてどうなるだろうかも楽しみである。批評を見るところによると可成り突っ込んだ彫りの深い演奏になっているようだ。

先月「ばらの騎士」最終日に誕生日を迎えて45歳になった天才指揮者に毎度乍ら特別なコンサートが期待されるとされている。献呈されたラフマニノフのその友人であるメドトナーの1926/27年の作品が組み合わされている。

興味深いのは、最初の予定では二日分を録音して、どちらのどこが放送されるか分からなかったのだが、20日の演奏が流されるということで、曲毎取り換える必要が無いほど、それなりに上手くいったということだろうか?

週末の樽試飲会の疲れが残っている。瓶詰めされていないものなどは検査も通っていないのでケミカルの入り方も分からない。そのような影響もあるのかもしれないが、白と赤を行ったり来たりしたのでアルコール量が増えている可能性もある。

モスバッハ醸造所で昨年12月にテレコミュニケーションのセミナーで一週間神戸に滞在した人がお酌していた。神戸ビーフを楽しんだようだ。それも鉄板焼きを三回も食したというから可成りの出費になった筈だ。彼に言わせると霜降り肉は素晴らしかったが、ワインは薄くて頂けなかったということだ。最近は神戸でどのようなワインが醸造されているかは知らないが、日本ではどうしても甘みを残したワインが売れるので本格的なワインを醸造するまでには至っていないのだろう。しかし、彼に言わせるとビールのスパーアサヒドライなどは美味かったようで、小規模のブロイライの話しになった。アメリカなどでもレストラン付きの英国タイプのそれが流行っているようで、日本でやっているような小規模の新鮮なヴァイツェンなどは最早ドイツではなかなか飲めなくなっているという話になった。

2013年オェールベルクを開ける。食事のメニューを考える。材料であるのはジュースに浸かっているツナ缶詰である。それとほうれん草を合わせて炒め卵を絡めてみよう。ゴマ味でもマヨーネーズ味でも構わない。キプロス産の新ジャガがあるのでこれを蒸そう。付け合わせには獅子唐辛子炒めのバルサミコソースにしてみよう。香ばしいシュペートブルグンダーを、迎い酒代わりに楽しめればそれでよい。それでも小腹が空けばヌードルを残りのソースにでもつけて、茸でもまぶせば充分ではないか。一寸した祝祭気分である。



参照:
まろみが嬉しい自然な呼吸 2017-03-05 | 試飲百景
完走するための栄養分 2017-02-20 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2017-03-05 23:42 | | Trackback

春の躁がやって来た

春がそこまでやって来ている。春一番である。色々と準備をしなければいけない。先ずはロシア音楽勉強をチヤイコフスキーの悲愴交響曲で一旦終えることになる。まだその復活祭まで四旬節の期間があるが、これもあれよあれよという間に日が経ってしまうだろう。この曲も最後に生で聞いたのはレニングラードフィルハーモニーをムラヴィンスキーが指揮した時だった。今回のお勉強で深く楽曲に迫れるだろうか。少なくとも第五番をキリル・ペトレンコ指揮で体験したので、それを参考にすれば予め第六番も楽譜の読み方が大分わかる筈だ。

バーデンバーデンでの発券状況に不思議に感じた。何と最初の二三ヵ月殆んど出てしまったキリル・ペトレンコ指揮の演奏会よりも出だしが悪かった翌日曜日のサイモン・ラトルの方が殆んど売り切れている。状況からすると他のオファーと組合されて買券されたようで、業者が纏めて購入したのだろう。やはり、多くの大衆にとっては今でもサイモン・ラトルの方が知名度が高いから当然の市場の構造なのかもしれない。やはり、バーデンバーデンは、ミュンヘンともベルリンとも違うのは当然だろう。

そのミュンヘンの歌劇場の2017/18のプログラムの先情報が出ていた。先ずは関心のあるキリル・ペトレンコ指揮の新演出は二つで、その他は「ニーベルンゲンの指輪」再演ということだ。集客力があるので経済的な意味も大きいのだろうが、そこまで再演するとなるとライヴ録音でも残すのかもしれない。クリーゲンブルクの演出はケント・ナガノ音楽監督時の新演出だったが、再演でこれだけ集客力があればとても効率が良い。2018年7月のオペラ祭りに合わせて来るのだろう。カーネーギーホールの為の「ばらの騎士」も三回ほどあるに違いない。

興味津々の二つの新演出は状況からするとヴァークナーはないだろう。リヒャルト・シュトラウスは伝統を立て直して継承するという意味で、まだ一つ二つはあるのかもしれない。過去のミュンヘンでの演奏実績を見ると音楽監督就任以前からロシアオペラもボリス、オネーギン、ピケダーメなどやっている。チャイコフスキーやムソルグスキーを就任中に新制作する可能性も強いがさてどうだろう。「モーゼとアロン」は是非取り上げて欲しいが、その他にも20世紀の古典が存在する。いずれヴェルディなどイタリアものも一つぐらいは加わるのだろうか。古典ではハイドンなどは指揮のテクニックからしても興味深い。

ヴィーンでの「ばらの騎士」のヴィデオ映像を観た。カルロス・クライバー指揮で日本でも公演したものと同じであろう。予想通り、ミュンヘンでのそれよりも価値が低かった。なによりもヴィーンそのままで上演されているのでパロディーの在り方が全く時制的な視座の相違だけになってしまっていて、そこで奏され歌われるヨーデルもヴァルツャーもなんら意味を持たなくなってしまっている。なるほど日本の聴衆がその夢のような響きに陶酔したのも分かるそのもの観光地の歌芝居のような次元になり下がっている。まるでオーヴァ―アマルガウの四年に一度の受難劇と変わらない。そこで思い出すのが日本では録音やヴィデオで得た複製品の情報のそのままを芸術の本質と認識して、その通りの本物を目の辺りにして満足するという芸術需要の特徴がここでも当てはまる。観光情報のそのままを現地で確認してその他の現実への感覚を遮断して満足するというあれであり、芸術における感性とは一切関係が無い。それにしても天才指揮者カルロス・クライバーはどう見ても躁鬱の病に侵されていたとしか思えない映像で、流石に日本公演の後は躁の自身の非芸術的な行いを考えるとより鬱に落ち込んで仕舞ったのがよく分かる記録である。



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-02-22 19:21 | | Trackback

TV灯入れ式を取り止めた訳

今年のノイヤースコンツェルトには端から触れる必要はないだろう。電源タップを取り換えた時にTVの差し込みに気が付いて、今年は年に一回のTV点灯式は行わないことに決心した。それよりもやるならばネットで受信して、モニターで流す方が音響だけでなく視覚的にも臨場感が出るかとも思ったからだ。特にオーストリアの国最大のインタナーショナルな催しなのでネット転送技術的にも何か経験になるかとも思った。要するに中継内容よりも技術的な枠組みに興味がある。

その若い指揮者と彼の管弦楽団の演奏は旧年中のベルリンでの芸術際の生中継で観て、なるほどこうしたものに南米や極東を中心の世界市場があって、音楽芸術とは全く異なるものであることが分かったので、あまりにも商業的なストーリーものには気分が悪くなったのだ。それに尽きる。あんなもので商売をしているから国の売り物の座付き管弦楽団が使い物にならなくなってくるのである。

二三週間もするとシカゴ交響楽団でムソルグスキーのプログラムのコンサートに出かけるので、一連のロシアもの続きで少し勉強しなければいけない。ショスターコーヴィッチからロシア音楽の歴史的な関係にも関心が向かった。そして四月にはチィコフスキーのプログラムがある。

キリル・ペトレンコ指揮でクリスマス前に復活祭のと同じプログラムがRAIで演奏放送されていたのを聞き逃した。その前にはハフナー交響曲だけはBMWミュンヘン支店慈善コンサートでも演奏している。小澤征爾がオペラを和訳して日本で練習してから本番に臨んだように、ここでも些か雑なトリノの放送管弦楽団がいつも練習台になっているようである。2013年のバイロイト登場前にもそこで全曲を演奏していて、今回偶々その「ラインの黄金」全曲をDL出来た。

VIDEOでは練習風景か何かわからない断片がいくつか存在するが、全曲乍らなぜか音が悪い。放送録音のようなマイクロフォン録りにも思えるが、まるでフルトヴェングラーがローマで公開録音したもののような音質である。録音技術的にも横着だが演奏も勢いはあっても放送交響楽団とは思えぬ演奏ぶりで、指揮者の息遣いと共に勢いで突っ走っている。ある種の共通性があの2013年のバイロイトでの演奏にもあるようで、屡々各奏者のバランスがとんでもないことになるのは管弦楽団のアンサムブル技術なのだろう。どうしても各々のパートを明白にクリアに演奏しようと思うと管などはダイナミックスをコントロール出来なくなるのかもしれない。

今年もこの指揮者の演奏を何回も聞くだろうが、もう少し批判的に聞いてやろうとは思うのだが、2010年フランクフルトでの「トスカ」上演の断片を聞いたり、歌手の話を聞いたりすると ― つまり歌手も皆共々とても細部までにも留意させられて扱かれているのだが、皆苦笑いしながらも「楽譜の読み方」に目を開かされて、それでもとてもジェントルな指揮者だと心酔している ―、こうしてプロフェッショナルな音楽家が必死に指揮者の細かな指摘に応えようとしているのを見るととてもバランスが悪いだとか簡単に否定できないのである。だからトリノでのあのような演奏でも熱狂的に受け入れられているのだろう ― 聴衆はどうしてもトスカニーニを重ね合わせるのではなかろうか。RAIの放送管弦楽団とベルリンのフィルハーモニカ―が同じように演奏できないことぐらいは皆知っているからである。

ネットを見ていると10月に再演された「マイスタージンガー」新演出もはじめはヨーナス・カウフマンが出ることになっていたようだがキャンセルしたと書いてあった。また当初カメラが入る予定になっていた七月終わりのそれを観ての批評記事もあって、「この演出では流石にあの事件直後のミュンヘンでPVは出来ない」とあってはっとした。全てに敗れたベックメッサーが皆に愛されているハンス・ザックスを撃ち殺そうとして、結局は自害する終幕のことである。台本にはないがまさにそうした事象がミュンヘン市北部で起きたところだった。これを偶然とか予言とかとは言わない。少なくとも演出の本質はまさにそこにあったのだ。日本風に言えば「よき昭和と思われていたような街の人々の繋がりが薄れてシャッター通りになった」、そこがこの演出の舞台であったのだ。そしてその関連性に気が付かずにいた。また余談であるが再上演の時の舞台横のロージュでは、バイロイト音楽祭から一昨年駆逐されたパスキエー女史が招かれて観劇していたようだ。

音楽劇場には「演出など」というような意見もある。そもそも私などはブーレーズと同じでオペラ劇場などは放火して仕舞えと思わないではないが、音楽劇場の可能性は今後とも否定できない。そしてそれは決して商業主義的なものではないことを改めて先日のショスタコーヴィッチの作品の演出に纏わり演出家ハリー・クッパーが示してくれた。更に申せばあの手の劇場はミュンヘンのそれではなくベルリンのそれなのである。社民党、緑の党、左翼党の左翼政権のベルリン市の現在の姿こそが偽りもなくこうした劇場の源であり、シュツッツガルトにおいても大成功している演出家フランク・カストルフなどが現在のベルリンを体現しているのである。しかしミュンヘンは劇場的にも異なる。同じくシラー劇場のマンハイムも異なって当然であり、そこには紛れもなく現実の生活空間と劇場空間とのディアローグが存在するのである。何回も繰り返すことになるが、皆共産圏出身の人たちなのだ。そしてその人たちが西側で過ごした私たちの視座に影響を及ぼす。これはベルリン独自の東ドイツ文化だけでなくて、そうしたプロシアから遠く離れた我々の社会文化であるということである。東独出身のメルケル首相が世界の権力者であることを見逃してはいけないということである。なにも彼ら彼女らは、全体主義の下で虐げられた旧共産圏出身の人材ということだけではなく、明らかに我々西側で暮らした人々とは全く異なる教育を受けて異なった視座を与えてるということを肝に銘ずるべきなのである。そうした文化的な背景がそれらを先取りする芸術にも深く結びついているのは至極当然のことである。なぜ公共の劇場が、音楽劇場が必要なのかの明白な回答でもあろう。娯楽など本当にどうでもよいことなのである。



参照:
雀百までの事始め 2016-01-04 | 暦
ひしひしと積み重ねの喜びを 2013-01-02 | 文化一般
「ドイツ生まれのドイツ人」 2016-07-25 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-01-01 21:24 | | Trackback