カテゴリ:雑感( 310 )

爺さん殺しの音楽監督

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そろそろ初日までに一月となった。プッチーニの三部作新制作の情報も少しづつ出てきた。先ずは、ミュンヘンの歌劇場最古参の男性の紹介だ。先ごろ日本で大歓迎を受けた指揮者と同じ90歳の現役で、舞台の背景を埋めるような通行人役が専門の団員である。

齢が語ることはそれだけの説得力がある。若い頃にリヒャルト・シュトラウスの指揮を、その死の数年前に「ローゼンカヴァリエ」の三幕前奏曲で体験しているようだ。そして70年間劇場の聴衆として、ハンス・クナッパーツブッシュやヨゼフ・カイルベルト、エリカ・ケートなどを愛してきて、63歳で務めていた銀行の課長として定年を迎えたことから、憧れの舞台に通行人として応募することになる。それ以降、演出家に重宝されて、シーズンに幾つかの制作に登場しているようだ。ヨーナス・カウフマンとは傍にピッタリ離れずで登場したりしている。

それでも過去の時代を夢想したりすることはないらしい。それは、彼に言わせると、キリル・ペトレンコ指揮の現在のよリもよかったことは嘗て無かったからだそうだ。そして今、「無口な女」に続いて、「三部作」に登場して、手回しオルガンをひいて後ろを音も無く通るらしい。そのヴィリー・ブルンナー爺は、初めて指揮者のところに行き、その登場を音楽に合わせるために総譜に説明を受け取ったというのである ― キリル・ペトレンコからである。それを思い出しただけで鳥肌が立っているブルンナーさんは、長い劇場経験の中で音楽監督が時間を取ってくれることなどと感動しているようだ。

爺さん殺しの音楽監督だと思うが、恐らくこの爺さんが熱心に仕事をしているのは明らかだったのだろう。新演出までの四週間の稽古中に一キロ痩せるという。フィットネスであり、趣味であり、生活だという。演出家女史のところに行っても相手にされず、経験で適当にやってくださいとしか言われなかったのであろう。音楽的にはそれほど厳密ではない演出家なのかもしれない。この情景がどこに出てくるのか?そろそろお勉強をしていかなければいけない。

週末は、先ずは「アインドイツェスレクイエム」の第二回目放送だ。楽譜を見ながらブロムシュテットの解説とともに聞いていこう。プッチーニのお勉強もそろそろ始めるとなると、またあまり時間が無くなってきている。

週間に四回走った。日曜日に山登りが出来れば、先週分のなまけが取り返せる。体重も増加分を再び戻せるかもしれない。動機付けが出来るかどうか?リースリングを冷やして、出来上がりのローストビーフを購入しておいた。これぐらいか?




参照:
Der Dienstälteste, Milena Fritzsche, Süddeutsche Zeitung vom 14.11.2017
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-11-18 22:49 | 雑感 | Trackback

自分流行語「香辛料」の翁

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セヴンスデー・アドヴェンティスト教会の放送が面白い。そもそもこの教会にも管弦楽団の況してや爺さんの指揮者にそれほど興味がないのだが、卒寿の指揮者ブロムシュテットが登場して、音楽や身辺の話をしているのが面白い。日本で人気があり、馴染み深いこの音楽家への興味は、こちらでは先ず何よりも最初にその健康の秘訣への関心ということになり、それは世界のどこでも同じではなかろうか。日本や極東の儒教の教えから導かれる漠然とした気持ちはないかもしれないが、高齢者がこのように生き生きとして楽しそうに話すのを聞くと、少なくとも一体何がそんなに素晴らしいのだろうと関心を引き起こすのは当然だと思う。

二つのヴィデオを観て、芸術に関してはゲヴァントハウスの管弦楽団を称して、お勤めの日曜礼拝での任務が、キリスト者でない楽員の若者にも与える影響を語っていて、音楽に対する真剣なものを皆自然に持ち合わせるようになると言う。そして、「最もゲヴァントハウスの管弦楽団は、音楽に対峙する真摯なものを持っている。」と語る。

これは札幌公演でも感想の中にその舞台での態度などについて触れたものがあって ― 後ろを振り返るのは新ゲヴァントハウスで慣れているからだろうが、そのようなところまで見られているのかと思ったのだが、ブロムシュテットのこの言及はこれに通じるところがあると感じた。我々はどうしてもカトリックにおけるそれとプロテスタントにおけるその態度の差をどうしても先入観念として持っているので、プロテスタント圏のある種のふてふてしさを思い描くのだが、簡単に日曜礼拝の雰囲気と読み替えてもよいだろうか。ごく一般的な日本人が神社参る感覚と寺廻をする感覚の相違の様なものを想像して貰えるとよいかもしれない。恐らく仏教の家庭にとっても、神社のそれの方が国家神道的な権威をどこかに感じているかもしれないということだ。

そしてこの老指揮者は、「コンサートの前にはお祈りなどすることがない」と言っている。番組上その信仰との関係に触れるのは当然で、この教派がどのようなものかはよく分からないが、そのように簡単にあしらって、「自分自身の生活自体が信仰だ」と言うのはとても強いメッセージ性があった。その一方で、番組に配慮して、「お祈りはしますけど」と断っているのが、おかしかった。

もう一つは、ルツェルンの娘さんの多世代家庭の自宅からの風景で、お誕生日のプレゼントの料理本を手に語る場面だ。「ポルシェやピカソの絵画をプレゼントされるよりもこれに価値があるんだ」と言うのがまた面白い。なるほどあの爺さんならばポルシェでぶっ飛ばすぐらいお茶の子さいさいだろう。その朝食が簡単なオートミールの様なものに野イチゴ類の季節のものを混ぜるようだが、スェーデンの暮らしとか本人のルーツを強く感じさせて、これがまた味わい深い ― まるで、終止の音の後で立ち尽くすこの老指揮者が感じている、余韻の様なものだろうか。

そしてそうした贅沢品をして、ブロムシュテットは「それらは人生のただのスパイスにしか過ぎない」と、全く同じようにゲヴァントハウスにおける「19世紀以外のバッロックや近代音楽のレパートリーをスパイスだ」と断言する ― このあたりにこの人が18代首席指揮者をしていた時の管弦楽の冴えない響き感がよく出ている。

月曜日にはNHKホールから「アインドィツェスレクイエム」の中継がある。土曜日からデンマークでの同じ曲の演奏会中継録画が30分づつ放送される。11月の時期がらとても楽しみにしている。まさしく鬱陶しい11月の生活での香辛料だ。



参照:
Selig sind, die da Leid tragen,
Das Gewandhausorchester Leipzig,
Freude statt Luxus, (HopeChannel)
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音 
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by pfaelzerwein | 2017-11-09 21:06 | 雑感 | Trackback

遠隔から取捨選択する

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ザルツブルク音楽祭2018年の詳細内容が発表された。数日前からハイライトは知らされていたが、これで2018年のベルリンのフィルハーモニカーのオープニングプログラムが分かった。交響詩「ドンファン」と「死と変容」、ベートーヴェンの交響曲七番のようだ ― 七番は台北でお披露目していたので、あとはブラームスが気になるところである。このプログラムで、キリル・ペトレンコはザルツブルクデビューとなるのだろう。どこかの新聞のバカ親仁が「2019年のデビューに向けて古典派を準備しなければいけない」などとデマ情報を流していたものだから、私も騙されていた。いつものように二つ目のプログラムは、四月のベルリンで演奏されるデュカ作曲「ラぺリ」、プロコフィエフ作ピアノ協奏曲三番、シュミットの交響曲4番となる。

こうして二つのプログラムの曲を合わせると多彩な内容となり、殆どこのコンサート指揮者のメインレパートリーの外堀を徐々に埋めてきている。兎に角、ベルリンにまで行かなくても手近なところで、二つのプログラムをよくさらった状態で、本拠地以上のその演奏を体験することが可能となる。こうして徐々にバーデンバーデンでのオペラデビューへと近づいて行っている。

クロームキャストが届いた。早速取り付けてみた。先ず、セットアップとアップデートに10分以上時間が掛かった。同じミュージックを使っているのだが、このような記憶はなかった。どんなデーターをグーグルに送っているのか釈然としなかった。そもそも精々YouTube程度でネットからのストリーミングには使わない。つまり自身のネット内だけの問題なのだが、煩わしい。

それに続いて、キャストをクロームブラウザーから送った。想定以上に上手くいったのは、音声をミュージックに送りながら、画像だけを送ることが可能だったことで、メディア再生にはVLCメディアプレーヤーの音声と映像のズレを調整することで問題なく使える。映像は若干落ち、HD再生となると動きが完璧ではない。

肝心の仕事には使えるのだが、最も具合が悪いのはマウスの動きが悪いことで、まるで昔のマウスを使って仕事をしているようなイライラ感がある。これが解決されない限りメインとしては使い難い。並行して入力しているラズベリーパイの方はマウスは使いやすいのだが、画像の動きにストレスがあり、キャストの方は画像が使えてもマウスが使い難い。一長一短だ。

纏めると、遠隔のドッキングステーションとして使うときもあれば、そのままHDMIで接続して使うことも可能なので、その間で陽射しとか気候や仕事内容によって使い方を変えてもよいと思う。



参照:
とうとう暖房を入れた日 2017-11-08 | 暦
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-11-08 23:39 | 雑感 | Trackback

パリとベルリンからの中継

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無料のデジタルコンサートを一週間分を使い果たした。今回は忙しくて殆ど使えなかったが、先ずはルクセムブルクの公演当日の零時過ぎにアップされたピーター・セラーズ演出の「利口な女狐の物語」を観て、最終日にはライヴで「ペトリューシュカ」1947年版、南鮮のウンスク・チンの初演とラフマニノフの交響曲三番を見た。

最初の曲は来年の復活祭で演奏される曲でこれまた先に聞けて為になった。二曲目の新曲は同じ楽器編成での短い曲との制限ながら中々今日的なサウンドで上手に書けていた。賞も獲っているようで、ブージーアンドフォークス出版契約なので、そうかなとも思うが、今まで聞いた南鮮出身の作曲家として卓越していると感じた。今回の極東ツアーに同行するらしい。

放送の伝送状態はあまりよくなく、何もこちらのネットの規格だけでなくて、どうしても込みそうなラフマニノフなどで落ちたので、供給側の問題だろう。いつものことである。お陰でチン女史の曲は完全に聞けた。ただし映像はよくないので初めからあまり観ていない。

前日にはパリからの中継があって、アンサムブルにはいろいろと感じるところがあった。やはり通常の意味ではベルリンのフィルハーモニカーは巧いのだが、その会場の特質もあってか上手に目立たないように管が合わせることもなく、弦も特徴である強い音が先だって、しなやかな合奏をすることはない。それは前日のパリ管の特徴である管でも弦楽奏法でも同じだった。

どうしてもクリーヴランドやゲヴァントハウスなどの合奏との比較になるのだが、結局はキリル・ペトレンコが振る時のようにもう一つ精妙な合奏をしていかないと管と弦は合わせ難いのかもしれない。そう思って、ラトルが内田に合わせるヴィデオを観た後に ― 内田のモーツァルトは更に普遍的な表現に近づいて来ていて、比較するものが見つからなくなってきたほどだが、ラトルの合わせ方には不満を感じた ―、大分以前にペトレンコがベートーヴェンの三番のピアノ協奏曲を振ったヴィデオを改めて観ると今まで思っていたよりも難しいことをしているのが分かった。やはり協奏曲の合わせ方は、棒が自由自在なので、どんなソリストを相手にも絶妙だと思った。

その後に時間切れまでに見つけたのは、ブロムシュテット指揮のブルックナー八番交響曲だった。残り時間がなさそうなので、先ずは四楽章から流して、その後に三楽章、そして一楽章に二楽章を流した。先ごろの誕生日のヴィデオコラージュにも使われたものだが、もはや無視出来なくなった。

早々に前日に発注したモニターのアームが届いた。先ずは寝室の机に取り付けてみる。気になっていた机への設置は無理があったが、奥においてあるガラス張りの置き机に設置出来た。予想していたよりも足などが大きめで、書き机に設置すると邪魔になるので丁度良かった。先ずは、仮にモニターを設置して、使えるかどうかを試してみよう。予想以上にパイプも太く、足元もしっかりしているので、送り返す必要はなさそうである。



参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-11-04 23:46 | 雑感 | Trackback

新鮮な発見に溢れる卒寿

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ブルックナーの交響曲七番のお勉強である。ブロムシュテット指揮シュターツカペレの録音を聞くと、二分の二拍子の一楽章第三主題のアクセントのアレグロモデラートの中での躍動感で、いつも田舎の踊りのように聞こえていた主題なのだが、ここではもっと洗練されて軽快に奏される。これをこの楽譜の見た目通りに「組み合わせカムが連なって動いているよう」に印象するのが頓珍漢かどうかはまた改めて考える。

第一、第二主題、そして展開部、再現部、終結、更にラシドの動機などとても重要な働きをしているのは交響曲の構造として当然なのだが、この交響曲における対位法手法からの逆行・反行などの動機のカノンなどを対旋律として浮かび上がらせるではなく正しく配置されるかどうかは、特にこの交響曲の価値を吟味する場合にはどうしても重要な視点に違いない。兎に角、素人感覚では最も簡単で単純に見えるこの一楽章の二拍子をしっかり振れている一流指揮者があまりいないことに気が付いた。

二楽章の主題も昔から風変りと思っていたのだが、四度、五度の跳躍などが四分の四拍子の中でうまく組み合わされて七度の跳躍へと繋がり、例の都会的で装飾的な三拍子の第二主題と組み合わされている。後に第九交響曲へと広がりゆくのが目に見えるほどだ。

三楽章は、一楽章を試みた後に、このトリオのスケッチ、総譜が完成していったという。いつものブルックナーのトリオなのかもしれない。スケルツォのスタッカートのついた動機的な関連や二連桁の動機などがそこに見られる。

結局同じく二拍子の四楽章の第一主題で二楽章での動機や、また第二主題のコラール対旋律に二連桁などがまたまた用意されていて、それが第三主題へと次から次へとネタバレのような推移になっている。そこが、少しいつものブルックナー作曲とは違うという感じがするのかもしれない。しかしその直ぐ後の主要主題を想起させた後の「農民踊り」のような節は今度はトレモロまでを伴って明白になっている。それどころかこれは牧歌的なホルンを鳴らす経過句となっている。この提示部のぐっと圧縮したような構成はそれぞれに絵を描こうとすると殆どコラージュ紛いなのかもしれない。そのあと一気呵成にクライマックスへと辿り着いてしまうので、この曲がコムパクトというような印象を偏に与えているのだろうか。

評価の高いオイゲン・ヨッフム指揮のベルリンでの全集からのこれも聞いた。テムポも早めであるが、充分に音化されていない印象もあった。その他の多くの評価の高いブルックナー指揮の演奏も比較したが、結局この指揮者の制作録音が最も楽譜を反映していた。やはりこの作曲家の交響曲を熱心に勉強する指揮者は殆どいないということなのだろう。もしくは真面な演奏をして録音できるような環境にいる指揮者が殆ど存在しないということらしい。その数少ないギュンター・ヴァント指揮の録音がただただ喧しいだけでコントロールされていないので使い物にならなかったのは大変遺憾だった。

90歳のヘルベルト・ブルムシュテットは、最近ブルックナーを熱心に取り上げており、昨年のバムベルクなどでの出来の悪いものもあるが、管弦楽団が上手ければ楽譜の情報を充分に音化してくれると期待する。さてゲヴァントハウスはどの程度の交響楽団なのだろうか。

未だに楽譜を勉強していて初めて気がつくがあると感動した面持ちで語る指揮者である。なるほど芸術音楽とはそうしたものなのだろうが、その一方で暗譜で指揮するこの老指揮者に一言疑念を呈したくなることもある。一般的に老人になると記憶が薄れる。するとこの暗譜で指揮する指揮者が毎日のように同じように新しい発見をして毎日のように忘れているとしても決しておかしくないであろう。それでも毎日が新鮮な発見に溢れているとすればやはりそれほど素晴らしいことはないだろう。



参照:
Klassiker der Woche: Löm-tödödöm-po-popfff(Tagesanzeiger)
腕次第で高くつくかも 2017-10-26 | 料理
齢を重ねて立ち入る領域 2017-07-01 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-10-26 22:52 | 雑感 | Trackback

親しみ易すすぎる名曲

ブルックナー、メンデルスゾーン、「女狐」と並行してお勉強している。

ブルックナーの交響曲七番には実はそれほど親しみが無い。この曲は、不成功ばかりのこの交響作曲家の作品の中でも、初演、生前から成功を収めていた曲であり、現在でも最もポピュラーな交響曲として演奏回数も多い。その理由は、比較的コムパクトに構成されていることと、やはりなんといってもあの第一楽章の上昇旋律が永久に続くかのように響くことに加えて、第二楽章のヴァクナーヘの葬送のコーダーが書き加えられていることも、1884年ライプツィッヒでのアルテュール・ニキシュ指揮での初演時から注目されたのだろう。

それだからかは分からないが、そのホの調性と共にどうしてもリヒャルト・ヴァークナーの派手やかさのようなものを感じてしまい、更に二楽章第二主題での連桁の処理などの都会的で洗練された印象があるかもしれない。これは、どうしても時代的にユーゲントシュティールというのを憚るにしても、少なくとも髭文字活字的なもう一つ行くとジャポニズムの北斎的な彫塑の印象から免れられない。それらを締める葬送のコーダを入れてとても上手に創されている。この辺りがポピュラーになる要因であり、ブルックナーファンにはよそよそしさのような印象を与えるのかもしれない。まさしくヴィーンの中央墓地の墓石などを想起させるのだ。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は名曲中の名曲で、好むと好まざるぬに拘わらずCD等が手元にある。先ずはブラームスの協奏曲のために昨年購入したムター独奏のフォンカラヤン指揮のものである。いつもこの20世紀を代表する指揮者の録音は楽曲勉強の参考にならないのは知っているのだが、協奏曲では更に酷かった。なるほど創作の書法のテクスチャ―までは描き出す必要も無く、「和声上の注意を促すだけでそれ以上に透明性を以って響かすなどは節度が無い」というような言い方も出来るが、この指揮者の手に掛かると全ては指揮者のために響いているようで、聴衆の関心が著作権者へと出来る限り向かないように尽力しているかのようにさえ聞こえる ― たとえ作曲者が小器用に筆を走らせていたとしても、そこに何らかの創造者の環境の反映があるということまでを読み取らなければ楽曲を解釈することにはならない。

これは、そもそもこの指揮者の専門である「名曲」というのは著作権者の手を遠に離れた、唯の意匠や素材でしかないということを立証している。時代性や趣味となどは別にして、やはりこの指揮者の演奏解釈はインチキでしかなく、それどころかベルリンのフィルハーモニカーの鳴りも精度が想定されるほどには全く高くない。1980年当時のDG録音の評判の悪さと、その主要な管弦楽団の鳴りの悪さも無関係ではないように思った。

そのような使い物にならない録音と、それに引き換え全く期待していなかったネヴィル・マリナー指揮の伴奏でムロ―ヴァが弾いているものが思いがけなく良かった。その楽団にエキストラが入っているためか録音のための本格的な管弦楽団演奏になっていて、更に細かく楽譜を音化しているので、この故人になった指揮者を見直した。明らかにいつものセントマーティンの楽団の演奏とは違っている。

YOUTUBEで今回聞く初演者であるゲヴァントハウス管弦楽団が、ムターに付けているものがあって、クルト・マズーアが明らかにカラヤンの影響を受けた西側の指揮者とは異なる指揮をしている。晩年の公演であろうが、ムターの強度のアゴーギクにも合わせていて、管弦楽団も流石にオペラでもやっているような感じがよく出ている。巨体でも甲高い声を出した連邦共和国大統領候補にも挙がった指揮者だったが、なかなか器用なところもありそうで、なるほど伊達にニューヨークの音楽監督をやっていなかったのだろう。当時よりも管弦楽団も上手になっているとすれば、ブルムシュテット指揮での演奏会が楽しみで、中々合わせものは上手いと管弦楽団だと分かった。二年前にはベルリン、アムステルダム、ヴィーンについで四番目の管弦楽団とされていたが、しかしこのヴィデオの時期では到底そのような審査対象にもならない。そしてブルムシュテットとシャイーの二人の指揮者の薫陶でそこまでの域にまで達しているとも到底思えないのである。



参照:
正しく共有されない情報 2015-09-08 | 雑感
ユダヤ啓蒙主義者の社会活動 2010-08-25 | 文化一般
小恥ずかしい音楽劇仕分け法 2010-06-06 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-24 00:50 | 雑感 | Trackback

世界に憲法改正へ速報

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日本の総選挙開票予想で世界中に速報が飛んでいる。注目点は三分一越の憲法改正に至るかどうかということだ。直ぐには九条は改正されないかもしれないが、緊急事態条項を議論に出すことで、即臨戦態勢に道をつけるかもしれない。兎に角、合衆国の意向に沿う形で、好戦的な一部は日本をそれによってリセットしようとしているようだ。日本に難民が流入するどころではなく、日本から難民が出るようになるかもしれない。

いつものようにパン屋から峠を攻めて帰って来る。半ズボン半袖では肌寒く、足元も濡れていて、更に夜間の降雨と風で落葉が激しく、とても足元も悪かった。夏太り気味で74㎏を超えたままで身体も切れが悪く嘆かわしい。

先週あたりから、公共放送の役割分担による規模の縮小が話題になっている。簡単に言えば第一放送ARDを国内地方向き、第二放送ZDFを全国国際へと分けることで大きく改革する案である。最早大規模のZDFを観ている人は少ないと思うが、なぜかそこが国際網を残すとなると問題になっている巨大化が避けられない。その反対にSWRなどの海外特派などが全廃されるとなると高品質の日本情報などが車中のラディオで聞けなくなる。それでも巨大化したメディアの組織を圧縮していくことは必然だと思う。

席をネットで確保した翌日には郵便桶にミュンヘンからティケットが入っていた。またバーデンバーデンからは2018年リヒャルト・ヴァークナーと表する冊子が入っていた。ハルテロスのヴェーゼンデュンク、復活祭でのパルシファル、ゲルギエフのオランダ人などが、アルザスやシュヴァルツヴァルト、プファルツへのショートジャーニーの旅行パックとともに纏められている。やはり頼れるのはヴァークナー人気であり、稼ぐための鍵なのだろう。

「女狐」のBBCでのアニメと一幕の声楽譜を見た。BBCのものは演奏はケントナガノ指揮のベルリン放送交響楽団だった。演奏は音が悪くて今一つ分からないが、この指揮者のいつものように交響的に鳴り響くというものだ。アニメに関しての描き方は現時点では何とも分からない。一幕のピアノ譜を見る限り、主題に選定も厳選されていて、それだけにどうしても名演奏を繰り広げる必要性も感じた。

二日続けて、パリからとロンドンからのオペラ中継を観聴きした。前者のフランス語版の「ドンカルロ」は興味深かったが、管弦楽がガタガタで続けて聞いていられなかった。日本にもファンがいてヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダンの指揮はバイロイトに続いて二度目だが、いつも同じようだ。それに引き換え翌日に一部聞いたコヴェントガーデンでの「オテロ」はパッパーノという一流オペラ指揮者の仕事として響いていた。



参照:
「三部作」お勉強の下準備 2017-10-22 | 雑感
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
現代的聴視料の集め方 2016-03-24 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-23 03:15 | 雑感 | Trackback

「三部作」お勉強の下準備

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再び急に冷えてきた。それでもまだ暫くは雪の降るようにはならないだろう。遠出のミュンヘン行までに冬タイヤへの交換を準備しておけばよい。次のミュンヘン行はクリスマスの前なので、その前に一滑り行けるかも知れない。今週末のボーデンゼーでの音楽会行きは何度か残券状況を確認して考えた。特にフェルトキルヘでの演奏会と前日の総稽古には興味があった。放送は日曜日のブレゲンツでのものとなる。

なによりも遠く、スキーでザンクトアントン周辺には出掛けても日帰りはあまりしたことが無い。特に夜のコンサートの後で帰宅するとなるとミュンヘンよりも遠く、道も必ずしもそれよりも快適ではない。眠くなりそうな暗闇を走る部分が多く、走り慣れないところもあって厳しいと思ったのが断念の理由である。更に来週も二つの演奏会が並んでいて、車を走らせる距離はしれているが、その準備を週末にしておかないと週明けが厳しくなる。

ミュンヘンのプッチーニ作「三部作」は、ネットであったようにそれほど競争が激しくなかった。それでも新しい配券システムで、見当は付き難かった。初日の残券状況から確実に入券出来ることは分かっていたが、初日よりも安く、放送も無い日なので競争は厳しい反面、平日の発売なのでその分は有利だったかもしれない。

今回から前回使った所謂裏口が使えなくなった。その分ウェイティングルームが綺麗に管理されたことで、不公平も少なくなったと思う。何よりも朝早くから頑張らないでも仕事の片手間に発注出来るのが良い。更に今回は発売時の待ち人数が恐らく300人台と限られていて、前回の「指輪」や「タンホイザー」の800とかいう数字とは大分少なかった。だから一挙には売り切れない。それでもウェイティングルーム入りで割り当てられる番号はランダムなので、予めの予約と同じで悪い番号が当たれば欲しいものが買えない。

この度貰った番号は130番台で、今までの経験から一寸厳しいと思ったが、実際には今までよりも早めにカウントダウンして20分過ぎにならずに入場可能となった。その通り売り切れクラスは出ておらず、39ユーロの席が残券僅かだった。その上と両方狙ってみたが、結局上の64ユーロしか買えなかった。それほど良い席ではないのだが、91ユーロを敢えて購入する気もなかった。立ち見席も好んで買われるのがよく分かった。何回も通う地元の人たちが少なくないのだろう。もし数分後に入室していたら、15ユーロと91ユーロのどちらかになって、自分自身もやはり立見席に落ち着いていたと思う。結局売れ残るのは117ユーロ以上とスコア―席で、経済力があればこれぐらいならば上も買えるので問題ない。映像だけはネット配信に期待してスコア―席を選択する人もいないことは無いだろう。

個人的には、街は込んでいるかもしれないがクリスマス前に買い物も出来るのと、これで少なくとも続けて三回の公演を放送等合わせて聴けるのが良い。第二希望としてはクリスマス直後もあった。もう一回の12月30日も先に申し込んでいたが、今年は土曜日で最終の買い出し日となっていて、買物に不便そうで、観光客が増えてくるような時期でだったのであまり乗る気ではなかった。元旦公演はミュンヘンの店が開いていないことと2日の午前様になるのが嫌だったので最初から希望から外しておいた。最初の抽選に漏れたことで、結果として今回は第一希望の日時と価格の入券が可能となった。兎に角、座る席があるだけでも有り難い。

それにしてもテノールのクラウス・フォークトの「日本人は本当にヴァークナーが好きだと思う」との発言ではないが、プッチーニの発券状況との差がそれなのだろうと思う。丁度こうして忙しければ後で少し高い券が買えるぐらいが一番良い売れ方で、30分も経たないうちに完売というのは需要過剰だと思う。なるほどキリル・ペトレンコ指揮のヴァークナーは従来のその演奏実践よりも遥かにしなやかで、音楽的にその革新性や創意工夫が実感できるのだが、バイロイトに通っている殆んどの人にとってはそんなことはどちらでもよい筈だ。ミュンヘンの公演は歌手も粒よりで、価格的にも魅力があるのだろう。プッチーニの近代性やその表現方法に比べてもそれほど人気があるのは理解に苦しむ。

早速、楽譜をDLして、メディアも落とした。最も基本になりそうなのはシャイー指揮のもので、その他には話題のウラディミール・ユロウスキー指揮の「ジャンニスキッキ」があって、有名な「O mio babbino caro」を流してみた。なるほどネットではクレムペラー風と囁かれているように、独特の緊張の弧を描く歌い口が共通していて、一種のユダヤ人的な持久力が感じられる。へたをするとシャイーのそれがあまりにゆるゆるでと思わせるのだが、やはりそのイタリア語の歌の抒情性などではシャイーに軍配が上がる。シャイーも流石だと思うが、流石に指揮技術の頂点に立つと言われる棒捌きから湧き出る音楽にも感心した。あの独特のゆったり感はとても魅力で、レパートリーによっては途轍もない効果を上げると思う。しかし、新たに加えたアントニオ・パパーノ指揮のを聞くと、オペラ指揮者としては秀逸で、CD制作録音の質を裏切らない。オペラ指揮者でこれほど実力のあった人がいたのかと思わせる。



参照:
ああ、私の愛しいお父さま 2007-01-27 | 雑感
まずまずの成果だろうか 2017-03-26 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-10-21 19:33 | 雑感 | Trackback

ランランは引退するか?

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忘れないうちにバイロイト祝祭のティケットも注文しておかなければいけない。今年も初日の安い席で充分である。「ローエングリン」はハムブルクの日本公演で出かけた記憶があるが、それ以後知らない。指揮はソヴィエトからのヴォルドマール・ネルソンで歌はペーター・ホフマンだったろうか?兎に角だらだらと長いオペラなので、初代音楽監督が振ったら余計に暑苦しそうである。先ず当たらないのでどちらでもよい。当たっても適当に日帰りなので全く問題がない。資料には何も書いていないが、ネットで調べるとアラーニャとハルテロスにツェッペンフェルトとマイヤーが絡むというものらしい。水曜日である。新制作以外には歌手の名前が載っていないのはなぜなのだろう。あまり関心がないので、どちらでもよいが。

興味が無くても関心をもって読んだ記事はランランのキャンセルの話しで、べルリンのフィルハーモニカ―との極東公演は券の払い戻しが行われたと聞いていたが、結局は四月までは全てキャンセルしたようで、それ以外にはカーネギーホールでの子供の左手を借りてのコンサートと、今週末のミュンヘンの医学部でのプライヴェートコンサートでお目見えするらしい。つまり来年四月のベルリンとミュンヘンでのリサイタルをキャンセルしたことが話題になっている。

左腕を痛めたのは右手も左手も同じようにトレーニングしてきたのだろうからスポーツ選手と同じで痛めたのだろうが、最後のフィルハーモニカ―との極東公演もキャンセルしたので完全に痛めたのだろうかと思った。想像するにやはり最後の公演ということなどが影響を与えたようにしか思えない。まさか次期音楽監督にあれだけ貶されていて、それでも共演するなんていうことは今後とも無いだろう。

もしかすると、左手の事情などがあるのでそれを口実に引退するのではないだろうか。自分自身も、あれだけチャンスを貰っておきながら、音楽が何時まで経っても奏でられていないことぐらいは気が付いているだろう。なにも満州人には無理だなどとは言わないが、代わりに滑り込む下品なシナ女性にしてもあまり変わりないことである。それでもその先には巨大な市場があるので何とかしようと、それで食っているマネージメントの連中には、シャラポアなどと同じように何とか売り物を用意しておかなければいけない八百屋の大根や蕪のような代物なのだ。

新たな市場や聴衆ということをベルリンの新任のチェッチュマン女史が語っている。具体的には分からないのだが、ペトレンコ新任と共に、先ずはレパートリー、国内外の新たな公演地や市場、そして紹介へと2019年以降のプロジェクトが動いているようだ。勿論個人的に期待するのはバーデンバーデンの復活祭での充実と、そのスーパーオパー上演形態の可能性の追求である。

同時に聴衆の高齢化と若返りとして現在のエデュケーションプロジェクトをさらに推進させるとともに、デジタルコンサートとSNSなどとの連携も考えているようである。フォーラムとしていて、キリル・ペトレンコと聴衆の繋がりを試みているようで、恐らくインターアクティヴとまではいかないでも、彼女自身がそこに係って来るような心積もりもあるようだ。今回の極東公演でのSNSの情報量をみれば、それほど難しく考えるまでも無く、劇場が取ったような形式で充分な効果があったので、その程度のポータルサイトの準備ではじめられるに違いない。恐らく今回の成果を参考にしていると想像する。



参照:
Intendantin der Philharmoniker vermisst junges Publikum, Matthias Wulff, BerlinerMorgenpost vom 15.10.2017
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
アクセスをインタープリート 2016-02-08 | 文化一般
形而上の音を奏でる文化 2007-12-21 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-18 23:56 | 雑感 | Trackback

無いとなると想う有難味

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漸くタブレットの機能が殆んど戻って来た。リセットしてから三週間ほどになる。それほど不便はしなかったが、次々に使っていた機能が欲しくなって来る。ざっと機能を挙げると、NAS接続呼び出し、VPNを使ったラディオ受信、VNCヴューワーを使ったPCのリモートコントロール、dlnaメディアのNAS等からの呼び出し、オーディオキャストでHiFiから音を出す機能ぐらいが通常のインターネット機能に加わるだろうか。使う必要が出て来て初めて欠けていたことに気が付く。

一通り機能するようになったのでデスクトップも整えた。新しいカヴァーで使い勝手が良くなった。なんといっても作動状況が良くなってストレスが少なくなった。先ずはこれで基本動作は元通りになった。

肉屋に行くと夏の間は無かったロウラーデが戻って来て、これで再び毎週のようにこれが楽しめるようになった。夏の暑さで腐るので涼しくならないと出ないのである。早速冷蔵庫に残っていた青ピーマンを細切りしてオーヴンで焼いた。前日に開けたブルゴーニュを合わせる。

2014年産マルサネである。初日からデキャンターに移したのだが、やはり酸が強い。酸が強いのと同時に薄っぺらいので良くない。近々バーデンバーデンに出掛ける途上、また違ったのを買ってこようと思う。流石に二月前に開けた2012年産シルヴァン・パタイユのそれとは大分異なる。価格で10ユーロほどの差だっただろうか?それがまだ残っていたら買っても良いと思った。

前日はダルマイーヤで購入したフィレパイとバムビのテリーヌを楽しんだ。そして雉のテルーヌとロウラーデとした。ワインがもう少しよければよかったなと思う。それ以上にジャガイモをグリルしだしてからもなかなか仕事が終わらなかったのでイライラした。お陰で夜も三時過ぎに目が覚めて寝不足となった。

明け方に約束があって電話しようと目覚ましを取ろうとしたらサイドボードから落ちて傷んだ。購入早々に手を滑らすほど手にしっくりこない形状と素材なのだが、針音がせずに、無線時計なので使い易くて愛用している。五年を超える。電池が飛び針の動きが可笑しくなった、何とか直ったようだが暫く使って見ないと目覚ましを信用してよいものかどうかは分からない。

そもそも目覚ましを使わなくても目が覚めるのだが、逆に目覚ましを使うときは未明に早起きして出かけなければいけない時でその時に作動しないと大変なことになるのである。暫くはテストしてみなければいけない。

眠い。兎に角、普段は使わないでもないと困るので、同じものを購入しようと思えば、2012年に17ユーロだったものが今は25ユーロになっていて、激しいインフレである。その割には有価証券などは充分には伸びていない。30ユーロも支出するならば他に買いたいものがある訳だ。やはり無駄に思う。



参照:
貧血気味に二回の肉食 2015-12-22 | 料理
なによりもの希望 2017-10-10 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-10-13 23:32 | 雑感 | Trackback