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入場者二万五千人、占有率93%

バーデンバーデンとザルツブルクでの復活祭が終わり、各々がその成果が発表されている。先ず前者は25000人の入場者を迎え占有率93%、後者は24000人、95.5%と、どうしても二者が比較される。後者の会員とその歴史から比較すれば、五年目の前者が健闘していることも分かる。後者の大ホールが2179席に対して前者が2500席である。来年は、今度は前者が「パルシファル」で、後者が「トスカ」となるので、その占有率の差が縮まるのだろう。

今年前者で公演された「トスカ」のヴィデオを観た。恐らく、初日などよりも質は高くなっているようだが、基本的な批判点はこの公演でも変わらない。演出や歌手に関しては批評を超えてそれに付け加えることはそれほどないが、演出に関してはバーデンバーデンでの公演の質を体現しているようでこれまた具合が悪い。ベルリンとの協議のやり方は分からないのだが、現監督のオペラ界での人脈から考えるとこの程度のものしかできないのも理解できる。これも次期監督に期待が集まるところで、少なくとも歌手に関してはレヴィン事務所が出て来るので全く質が変わるだろう。しかし最大の問題点は、現監督のオペラ指揮やその在り方で、これは今更なんだかんだ批判してもはじまらない。それがプッチーニとなると、より歌手を充分に歌わせることが出来ないとなると、たとえ立派な管弦楽を清潔にコントロールしてもはじまらないのである ― 改めて次期監督が2011年にフランクフルトで同曲公演の音を聞くと、下手さが目立つ管弦楽であってもその歌の運びなど、プッチーニの演奏に関してもこの二人のオペラ公演での実力における雲泥の差が際立つ。来年は、「五年間の功労に盛大なお別れ公演」として「パルシファル」が公演されるが、演出にも金を欠けるようだから、ある程度は期待できる。何よりも音楽的にも通常のオペラ指揮者にとっても難物なので、ある程度はアドヴァンテージを付加できるのではなかろうか?

ハムブルクでのリヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」新制作への新聞批評が載っている。これまたフランクフルトの「トスカ」と同じくアンドレアス・クリンゲンブルク演出らしいが、ケント・ナガノ指揮の管弦楽団が賞賛されている。あの楽劇で管弦楽団が主役になるというのはやはり問題が大きいかもしれない。以前のフォン・ドホナーニ指揮の演奏でもそれほど目立つことはなかったので、やはりナガノは交響楽的に鳴らしていることは障りを聞いても分かる。同時に最初期から変わらぬように鳴らし過ぎという批判もあるがそれなのになぜか交響楽団ではもう一つ成功していないのが、如何にもオペラ指揮者らしいところだろうか。一流二流とか様々あっても、ティーレマンなどの指揮者にも通じるものがある。

先日公演のあったキリル・ペトレンコ指揮で父親がコンサートマイスターを務めていたフォアアールベルクの交響楽団の演奏会がラディオで聞けるようだ。それもブレゲンツの会場からではなく、モンタフォンの会場の録音が、月末30日日曜日と翌週に分けて放送されるようで、今秋都民劇場で座付き管弦楽団で演奏されるマーラーの交響曲五番とマーラーの歌曲である。ローカル番組の枠組みなので一回のコンサートが二回に分けられるのは、まるで嘗て大阪のABCが大フィルの演奏会をAMで放送していた時のようである。



参照:
REICHLICH ÜBERFRACHTET (BR-KLASSIK)
Ein Klangmagier, der sein Wort hält (Vorarlberger Nachrichten)
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-04-20 21:42 | 文化一般 | Trackback

需要供給が定めるその価値

早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-04-18 21:33 | 文化一般 | Trackback

明るく昇っていく太陽

先週も三回走った。最後の峠攻めはゆっくり上がった分早く下りれて33分28秒で帳尻を合わせた。このところの不調は四旬節の食事が絶食まではいかなくても肉食が普段より減っているのでもう一つ意気が上がらなかったこともあるのかと思う。菜食でも先日のクライミングのパートナーでありツアースキーのリーダーのように二メートルの巨漢の元気な人がいるが、どうも私の場合は血圧が上がるようでなければ駄目なようだ。

失われたとされていた楽譜が確認されたという。グスタフ・マーラー作曲「亡き子を偲ぶ歌」のピアノ版で、管弦楽版として知られているものだ。「今しがた、太陽が明るく昇っていく」という第一曲で、残りの四曲とは異なって、ピアノ版が失われていたものである。道理でフィッシャーディースカウの全集に含まれていない訳だ。当時のアルマと作曲家が通っていたヴィーンの音楽サロンを催していたコンラート家の娘さんがミュンヘンへと移ったことで、見つかった楽譜もその時に搬送されたとされる。そのノートから、1901年から1904年に作曲されたこの第三曲、第四曲と同時期の作曲とされる ― 第六交響曲に関連して、アルマによって縁起でもないと言われていたリュッケルト詩に付けた曲集である。

承前)三月のペトレンコ指揮のコンサートをベルリンで体験して、それを称して「猛獣ショー」と書いている東京の人がいるようだ。その旨はなんとなく分かる。つまり、ベルリンのフィルハーモニカ―に戦後付き纏っていた高度成長からのイメージが被るからである ― 当時は合衆国のビッグファイヴもレニングラードもどこも同じようなものだった。そこの入団試験を受けたかどうかは知らないが、現在ミラノのスカラ座で弾いている二代目の団員がフィルハーモニカ―を称して語ったことを思い起こさせた。つまり彼に言わせると「そのアンサムブルの在り方や雰囲気が特殊で」と、所謂我々がイメージする戦後の西ドイツのあの雰囲気がアバド時代でもあまり変わらないとした見解であった。どこの交響楽団も、座付き管弦楽団とは当然異なるが、所謂ドイツの合理主義的なものに、これまた根源的な闘争心のようなものが加味された雰囲気である。そうした雰囲気が先入観念を形成しているのだろう。

しかし現実には、先日のバーデン・バーデンでも「冷たい音楽」と評されていることに関してその仲間の音楽家に話すと、モーツァルトの演奏のあとで即座に「楽員は充分に温まっている」と反応があったぐらいである。つまり誰が見ても分かるように、それどころかベルリン初日には緊張した楽員が上手く乗れなかったことを評して「とても人間的だ」という批評もあった位で、思い込みと現実の間には大きな隔たりがある。

芸術的な見解としては、先日のインタヴューで「音楽することと楽曲演奏実践の関係が議論」となっていた訳だが、現監督のそして同時にフィルハーモニカ―の弱点としてもこの問題が立ち覇だかっていて、前者の責任としては正しいテムポを絶えず与えたとしても、それを状況に合わせて、更に音楽作りをしていくということに関してつまり恐らく指揮のテクニックであり、その音楽的才能に弱みがあるということになるのだろう。この問題は、この指揮者のデビュー当時から我々のような熱心なファンは分かっていたのであり、それは将来とも変わら無いと指摘されていた。それでも演奏実践の完成度やそのプログラミングなどを含めて彼以上の才能が居なかったのも事実であろう。そこで、まさしくそこが自由自在の次期監督が選出された訳で ― 一例としてバイロイトでの楽劇「ジークフリート」当該箇所での歌いこみを挙げれば充分である ―、その棒に付いていくことが求婚した側として至上命令なのである。それによって、戦前戦中を引き摺る反作用としての戦後のクールなイメージから抜け出て、例えばフルトヴェングラー時代以前の恐らくニキシュ時代の新生交響楽団の一夜一夜完結するイヴェントであるようなコンサートが出来るようにという目標が設定される ― 例えばペトレンコ指揮コンサートのプログラムは、古典的なプログラム構成で、休憩前に協奏曲などを入れて、力の入れ加減を調整していて、演奏上の注意力などが失せないようになっている。それだけに120%も求められる高い目標が設定されている。「猛獣ショー」とは勿論カラヤンサーカスから観念連想する言葉であるが、実際には甚だしく的外れな言葉であろうことは、この事情からまたその目指すものからも明白であろう。



鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-04-17 22:19 | 文化一般 | Trackback

運命の影に輝くブリキの兵隊

承前)グスタフ・マーラーの最高傑作交響曲六番の冒頭はブルックナー作曲第一交響曲の行進曲の引用である。それゆえにポストモダーンの時代にマーラーの交響曲は最も人気が出たとするのは正しいだろう。そして、その引用が謡曲にも及んでいるのは、丁度途上のラディオでフランス人音楽家がバーデン・バーデンの放送局で話していた中世の音楽からルネッサンス音楽への特徴と繋がる。そうしたメタシムフォニーとしての第六交響曲では、一楽章の第二主題のコラールからその展開の鐘の音や遠くの山城、鳥の囀りやカウベルに交じってきらきらと彩光を放つと、その音達に注目したのがダリウス・シマンスキーのオリエンティーリングだった。それは、例えば12世紀に流行ったバイエルンの金箔の聖画に表れるように、丁度クリムトの画風と並行している。そこまでは周知の事実として、その意味合いが考察される。それは、このマーラーの交響曲の場合の所謂悲劇的な運命が大きければ大きいほどその投げかける大きな影に、丁度幼児期に退行するように、光り輝く子供部屋の世界に引き戻されるというものだ。それが、ブリキの兵隊であったり、お城の王子の世界であったりとするということで、この幼児の世界つまりきらきらと光り輝く所謂砂糖菓子のような風景が音響になるということである。

今回のバーデン・バーデンのコンサートは、前夜の悲愴交響曲そしてこの六番と、まるで音楽監督サイモン・ラトルのプロデュ―サーとしての手腕を見せたような構成になっている。前日のオリエンティーリングも19世紀の時代背景、つまりロココの18世紀にはなかった職業選択の自由などに代表される市民社会の勃興が背景にあって、それ故のネオロココ趣味だった。それがまたドイツ語圏のビーダーマイヤーとは異なるフランス趣味の美学の中でのチャイコフスキーの創作であり、勿論そこには18世紀にはなかった悲哀つまり自己実現とその挫折というようなものが人々の人生観に強く影を落としているということになり、そもそもチャイコフスキーの悲愴におけるような主題はそれ以前には存在しなかったとなる。これらをして、一波絡げにまるでドイツロマンティシズムの傍系の民族主義の影響のように取り扱ったのが可笑しいと気が付かせる視線が東欧の人から提供されることはとても幸福なことではないだろうか。

指揮者としてのサイモン・ラトルは、残念ながらフィルハーモニカ―との関係において離婚直前の夫婦のように不幸だった。前日と二日続けて訪れた人を何人かは見かけたが、前日とは異なり楽員の意気はとても低かったと皆気が付いたのではなかろうか。直前まで練習をしていたようだが、一楽章などは、そのままザルツブルクに行っても大丈夫かと思う程、箍が緩んでいたが、最終的にはホルンのシュテファン・ドールが引っ張ってある程度の水準を維持した。管弦楽団の鳴りとして、二日間を比較すれば、どこがどう違うかは明らかだったのではなかろうか?前夜に下りていた楽員が中心となっていて、編成も楽曲も異なるとしても、その響きの充実度の相違は決して演奏者の意気だけの問題ではなかった。要するに、楽譜の音符をどのように一つ一つ拾っていくかに関わっているようだ。

それでも、三楽章の「亡くした愛娘のよちよち歩きの動機」がコーダではあれほど痛切な悲しみとして響くとは今まで知らなかった ― これを看過できる人などいるものか。それだけではないが、このスケルツォを三楽章とする版の内容的な根拠はこれだけでも充分に示されている。これが二楽章に置かれて三楽章アンダンテに繋がるのとでは、このスケルツォ意味が、繋がるのがアンダンテかフィナーレでこれだけ異なり、二楽章とされることで、聞き落とされるものは余りにも大きい。それは動機的連関や動機的処理だけでは説明不可のものではないか?当日のプログラムには、この議論に関して開かれたままの記述があり、結局それを受け止める時代の美意識に拠るのではないかと思う。恐らく、キリル・ペトレンコも二楽章をアンダンテとすると思う。(続く



参照:
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
多感な若い才女を娶ると 2005-08-22 | 女
第六交響曲 第三楽章 2005-08-21 | 音
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-04-10 19:25 | 文化一般 | Trackback

ペトレンコにおける演奏実践環境

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承前)ベルリナーフィルハーモニカ―のデジタルコンサートホールのティケットを初めて購入した。なによりも前回お試しした時に生で再生不可だったミュンヘンの座付き管弦楽団の演奏会中継後半の録画は無くなっていてがっくりした。仕方がない。とは言ってもアンコールの「マイスタージンガー」序曲だけのことで、あとは音声や動画など全て手元に保存してある。またどこかで欠けているものも出るだろう。

今回の主目的は先週生放送された「ハフナー」と「悲愴」の交響曲がジョン・アダムスの作品を挟む構造のプログラムである。ラディオと同じく録音技術的な傷はあるが、充分に使える音質でラディオよりも明晰である。ドイチュラントラディオは昔からRIASのものと比べて明晰さを犠牲にした音質で流していたのが今もなぜか傾向が変わらない。それもこれもマイクロフォンは同じ筈だが各々が別のミキシングをしているのだろう。

動画では悲愴交響曲の運弓などが確認できて助かるのだが、まだもう少しその辺りを纏めてみたい ― しかしその回答はインタヴューに奇しくも用意されている。ハフナー交響曲に関しては既に書いたが、キリル・ペトレンコのインタヴューでそれらが裏打ちされた感じになる。要するに、ハイドンに関しては言及していないが、ヴィーナークラシックにおける古楽器などのサウンド志向に対して、モーツァルトの場合はオペラをオリエンテーリングしながらアプローチすることで本質に迫ることが出来るということだ。同時にビーダーマイヤー的な快い響きに対して、もう少し刺激的な同時代的な感覚が折衷されるということだろう。コン・スプリトーソの展開部の短調へのその前の休止が、ラディオ放送とは違って、はっとさせないのはそこに視覚があるからだが、まさしく天才アマデウスの本質はピアノ協奏曲に表れるような歌劇におけるようなそうした心理の音楽構造となる。それを如何に交響曲として、その構造として明らかにするかということである。

このインタヴューにおいて興味深いのは楽員とのムジツィーレンとその演奏実践との関係への問いかけがフィルハーモニカ―からなされたことであろう。これはまさしく時間を掛けないと解決しない問題であり、ペトレンコがミュンヘンで実現していることが客演のベルリンでは出来ていないという当事者からの認証ともなる。特にフィルハーモニカ―の場合は、発し発しとそれでもクールに合奏することをカラヤン時代から旨としてきたことから未だに抜け切れておらず、これが次期監督に期待して、脱皮する可能性が希求されている点である ― そもそもサイモン・ラトル指揮の弱点と見做されているのは、ライヴにおけるムジツィーレンの現象への懐疑であって、ペトレンコがそれを埋め合わせることが期待されたのだ。歴史的にはフルトヴェングラー時代のフィルハーモニカ―はその点で全く違った訳で、現在特に弦などは楽員が高齢化しているようなので、新監督が二三年も仕事をすれば大分変わるのではなかろうか?

そこでは指揮者の職人的技術を超える話しとなっているのだが ― パブリックコミュニケーションが苦手とされる新監督は、話し出すとどうも止まらないような感じで、寧ろ自らかん口令を布いているとしか思われない ―、新聞はその職人的技量を他の指揮者と比較している。先ず同世代の指揮者の中で、キリル・ペトレンコはウラディミール・ユロスキーとその指揮技術の経済性と明晰さで双璧とされる ― 名前は聞いているが、そもそも指揮者など全く興味が無いことなので、正直だからどうだということになる。そして、アンドリウス・ネルソンズ、ヤニック・ネゼ・セガンやクリスティアン・イェルヴィなどのような無駄が無く、テューガン・ソキエフのように焦点が定まらぬことも無く、しかしながらテオドール・クレトツィスのように、表面的な無造作な音響に賭けるということはしないとされる。

インタヴューで本人も、指揮者の職人的な技量そして楽員のそれを日々問いかけながら仕事をしているというのは、既に周知であるようにその客演の状況によって ― つまり管弦楽団の技量や質、その演奏する環境によって、制約の中で狙いを定めていることがここでも語られている。演奏実践の難しくも面白いところは創作の抽象的な解釈や再現だけでなくて、芝居でも同じだがコンサートもある種の劇場の壁を超えた劇場空間のそうした固有の環境に存在するということであり、はからずもキリル・ペトレンコは創作事情をして、歴史的社会的なコンテクストの中でのそれを理解することとしている。まさしくこれは、創作における環境から影響を受けたインプットと、それが演奏実践されることでのアウトプットにおける環境への影響ということが出来るであろう。(
続く




参照:
Mozart: Symphony No. 35 “Haffner” / Petrenko · Berliner Philharmoniker YouTube
Interview Kirill Petrenko im Gespräch mit Olaf Maninger (Digital Concert Hall)
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-03-29 18:05 | 文化一般 | Trackback

三段論法で評価する

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竹で木を継いだような歪な構成で上演されたのがピーター・セラーズ演出のアンティオペラ「ルグランマカーブル」らしい。その一度目の挑戦であったザルツブルクの初日はグロテスクのみがサロネン指揮によって強調されていたことで、作曲家リゲティの怒りをかったのを目の辺りに見た ― それ以降全集録音は取り止めになって、この指揮者の欧州大陸での活動は限られることになったのが事実だろう。だから演出家にとっては不幸にも大きな称賛を浴びるまではいかなかった。しかし今回はサイモン・ラトル指揮の演奏会形式でヴァイオリン協奏曲などが歪に挟まれたことなどと、何よりもフィルハーモニカ―が中々の熱演をしたようで、より抽象化されたそれが大変上手くいったようだ ― 核廃棄物などが意匠として使われているようだが、原子力マフィアだけでなくアンティ原子力マフィアが扱われているようでとても興味津々である。ベルリン以外でも公演があったが北ドイツに限られて態々出向くほどでは無かったので、デジタルコンサートでの映像が楽しみである。

チャイコフスキーの悲愴交響曲のお勉強を始めた。先ずは参考資料として三種類の録音を流した。小澤征爾指揮ボストン交響楽団、フルトヴェングラー指揮ベルリナーフィルハーモニカ―、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハーモニー管弦楽団の演奏など代表的な録音である。一番楽譜に忠実に丁寧に情報を取り出して演奏しているのはフルトヴェングラーの1938年のSP録音原盤だった。傷はあっても演奏技術的にもサウンド的にも、恐らく歴代この交響楽団が残した制作録音の代表的なものではないか。第一楽章などは本場ものとは違っていることは分かっていても交響曲芸術としてとても優れたものだ。しかしその他の楽章ではどうしてもブラームス作曲などのように聞こえてしまって明らかにリズムの譜読みが間違っていることが分かる。ムラヴィンスキーの演奏はその点は間違いなくても、三楽章のスケルツォなどは流しているところもあってリズムが弛緩するところもあり、旅先のヴィーンでの恐らく一発勝負の録音だから仕方ないのかもしれない。また弦の合奏などは超絶技巧なのだが木管楽器などの音色や合わせ方などは当時の流派らしく、またプロレタリアートの簡易な音楽になってしまっている。それでもダウンボーでの弱起から最初のテーマの全体的な意味付けが明晰になって、流石に当時最もこの交響曲を指揮していたであろう巨匠の実力が示されている。小澤の演奏は期待していたほどに細部や対・内旋律などが浮かび上がらなくて、軽やかさどころかとんとん拍子の浪花節になっていて失望した。当時日本で言われていたようなニュートラルな演奏解釈などでは決してなく、ツルツルテンテンの管弦楽演奏になっていて、伝えられるところの一音一音、一点一画もゆるがせにせずのトウサイ先生流とは全く異なるということだろうか。

フルトヴェングラーの超名録音で思い出したが、丸山眞男の愛読書が宇野功芳著「フルトヴェングラーの名盤」とは気がつかなかった。考えてみれば当然の帰結なのかもしれないが、あの二人が全く結びつかなかったのである。これだけを考慮しても、吉田秀和よりも宇野功芳の方が褒賞に値するのは言うまでもない。「丸山眞男音楽の対話」に載っている手書きのメモを見るとこれ程熱心に宇野の文章を読んでいる人物こそが日本を代表する学者なのである。

ネットを見ているとミュンヘンの座付き管弦楽団が17席も募集していた。世代交代もあるのだろうが、管楽器などを中心に先ずはキリル・ペトレンコの下でオペラをやって、力がある人はベルリンのフィルハーモニカ―にでも行こうと思う人がいてもおかしくはないと考えたのだろうか。少なくとも今ならば可成り優秀な若い応募者が集まると考えたのかもしれない。少なくともあと数年はまだまだ上手くなる管弦楽団であるから楽しみである。



参照:
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-02-27 19:38 | 文化一般 | Trackback

地方の音楽会の集客状況

エルブフィルハーモニー会場関連の記事は続いた。興味深いのは開会の時のメドレーからリーム作曲の世界初演曲が独仏文化放送局ARTEの番組からはカットされて放送されたということだ。勿論この専門局は必ずしも大衆文化向きの放送局ではないのでまた北ドイツ放送政策の放送権の問題ではない。寧ろ不思議に思うのはZDF系のこの放送局が態々ARDの制作ものを流す必要があったのかどうかということだろうか。フランス人に見せたかった意味も分からない。

兎に角、本当の芸術的な会場はその後のケント・ナガノ指揮のヴィットマンの新曲の初演にあったとあり、またムーティ―指揮シカゴ交響楽団の素晴らしさが書かれている。名匠に棒によって弱音が響きとか書いてあるので同じプログラムがバーデンバーデンでどのように響くかが楽しみである。また昨年前の席でガールフレンドと一緒に聞いていたフリードリッヒ・ハースの作品がアンサムブル・レゾナンスで中劇場で演奏されて、なぜ大劇場でできなかったかなどと書かれていて面白いと思った。編成は分からないがハースの作風も大ホールで集客可能なものである。

そしてベルリンでの管弦楽団について同じ新聞で書かれていると、コンサートというのがやはり北欧のものだと感じさせる。それでもハムブルクは七割程度と連邦共和国内では下位で、八割から九割の客席占有のベルリンの聴衆は飽きもしないコンサート好きとなっている。東ドイツの旧放送交響楽団が未だに存在して演奏活動をして、RIASのそれと並んで存在しているというから驚きである。片や戦前からのMDRに続く二番目に古い放送交響楽団で片や進駐軍のとなり、東ベルリン、西ベルリンの異なる聴衆層がいるのだろう。

前者は新任ユロフスキー指揮で意欲的なコンサートを行いミュンヘンの放送交響楽団に競り合いたいというのである。前任はマルク・ヤノフスキーであってあくまでもローカルな指揮者であったのがペトレンコのあとを受けてバイロイトデビューしたことが驚きだったとされる。なるほどヴィデオにある通り、フィルハーモニーを一杯にする人気老指揮者が振る演奏は如何にもローカルな放送交響楽らしくない荒っぽいもので、マタチッチ指揮N響ののそれを思い起こさせる。新指揮者の指揮は魅せるものを自覚しているようだが、腰振りのクリスティアン・イェルヴィやダンスマスターのネゼセガンなどとは異なりとても演奏とシンクロされていて息遣いのようだとされる。

もう一つの西側の後者もティチアーティという1983年生まれの指揮者が就任するようで、コンサートを開いた。それによると、前任者のテーュガン・ソコロフのシューマンを引き継いでも、不干渉で殆んど叶わなかった幻想性や瞬発性をもったフレージングという面が、新任者ではなくなったと評価が高い。

合唱団を入れて四つの団体の資金面は2020年までは確保されているという。しかし一流の管弦楽団を二つ維持することはバイエルン放送局でもなく、最大のNDRでもんない。SWRの一つは潰された。東西ベルリンの特殊事情や聴衆の数はあるだろうが二つが同じ方向で維持継続されることはあり得ないだろう。所謂ポピュラー音楽名曲演奏の管弦楽はまだほかにもあるようだから、フィルハーモニーよりも意欲的なプログラムを提供する放送交響楽団ならば存在理由はあるのかもしれない。



参照:
ヤノフスキーのワンパターン 2016-07-28 | 文化一般
TV灯入れ式を取り止めた訳 2017-01-02 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-01-22 15:00 | 文化一般 | Trackback

復活祭音楽祭の記録

ムソルグスキー作曲「ボリスゴドノフ」を流している。来週のシカゴ交響楽団演奏会への準備でもある。手元にある録音は、ザルツブルクの復活祭で演奏された機にフィルハーモニーで録音されたものである。クラウディオ・アバド指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の代表的な録音だと思うが、今回聞いてみるとなぜか物足りない。響きも美しく明晰な線も出ているのだが、歌詞と音楽の特に歌詞の多い場面に来ると違和感のようなものを感じだした。夏にはゲルゲーエフ指揮でヴィーンの座付き管弦楽団演奏で同じものを体験しているがこれと比べて優れた面はそれほどなかった記憶しかない。この曲も前任者のフォンカラヤンが得意としていたのだ。

先日腰痛で横になりながらつまらない新書本を開いた。丸山眞男の音楽に関する証言として書かれた本だが、上手にエピソード等をまとめているが如何せん「不肖の弟子」の仕事なのでその音楽への見解が充分に読み込めていない。フルトヴァングラーへの見解以外には全く期待していなかったのだが、ヴァークナーなどについても触れられていて、逆に丸山の音楽や芸術恐らく美学や哲学に関する見識の限界が弟子によって明らかにされることになっている。趣味教養の音楽愛好者としては素晴らしいものであるが、我々はどうしてもこうした日本を代表する学者にはそれ以上のものを期待してしまうのである。

例えばヴァルキューレ第二幕二場のヴォータンの歌からフリッカの責めに移る部分での下降旋律の挫折といわれるような動機を挙げて語らしているのだが、なるほどそこからの変容が大きな意味を持っていても、ここにおいては明らかな進行になっていてそこで話題となっている様な楽譜を読み込む個所ではない。寧ろ我々は丸山がそうした権力の滅亡についてどのような意識でいたかなどに興味が向かう。それは同様に楽匠がスイスでの個人的な一悶着を超えてどのような世界観で創作にあたったかということにもなる。正しく芸術の受容の本質はそこにあって、不肖の弟子たちのような大衆が娯楽にどのように反応するかというようなことではないのである。

折角であるから、お蔵入りにしていたフルトヴァングラー指揮の最後の録音とフォンカラヤン指揮のザルツブルクの復活祭のあとに録音された演奏を聴き比べる。キリル・ペトレンコ指揮でも2014年と2015年を比較してみる。大成功の2015年の録音でも寧ろ当該の動機よりもその前に同じように剣の動機が鳴り響いたあとに出て来る指輪の動機の方が印象に残る。フルトヴェングラー録音の方はズートハウスなどの達者な歌手が歌う叙唱風のところが絶品である。

こうして音盤などを聞き比べしてしまうとどうしても一つの結論めいたことへと思考が向かってしまう。特にフォンカラヤンの「ヴァルキューレ」などはこの復活祭に復活上演されるというが、この録音を聞く限りにおいては、とてもその企画を疑問視するしかないこととなる。

そのLPボックスの解説書にはカラヤンの演出に関しての文章が載っている。それによると音楽面でフォームを大切にして対位法書法などに留意しながら指揮者の経験の中でヴァークナーの楽劇を主要レパートリーにしていったというような書き方をしている。そしてヴィーンに続いてザルツブルク復活祭を始めるに及んで「権力者とその葛藤」を中心に描くことになったのだという。つまり、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」並みの意識での自己陶酔の演出だったとなる。

この文章を読んでも分かるように、まさしく音楽の正しいスタイルを全く表出できなくても同じように自らの舞台つくりにこの楽劇を利用するというその姿勢が演出の特徴となる。それをこの復活祭に50年目の記念ということで1967年のカラヤン演出を復刻させるというのだ。バイロイト初代音楽監督はカラヤン財団との関係でその娘などを利用しながら芸術監督になろうとでもいうのだろう。兎に角考えていることが時代錯誤が激しいようで、ビジネスモデルが極東市場狙いとはいってもそのようなものを有り難がる人が今時いるのだろうか?



参照:
水道水に癒されるこの頃 2016-07-02 | 雑感
ネットでの記録を吟味する 2015-11-30 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-01-20 16:00 | 文化一般 | Trackback

ピエール・ブーレーズの家構想

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エルブフィルハーモニー開館の話題が新聞に載っている。しかしその前日のロマーン・ヘルツォーク元大統領の訃報ほど関心はない。何といっても大統領として最も価値のある発言を数多く残した大統領であり、最も印象に残った眼はヴァイツゼッカー元大統領のそれだったが、言葉においては遥かに知的で深みがあった ― そして死の直前にも最高勲章の授与を辞退して話題になっていた。このように書けばどのような元憲法裁判所の判事だったか分かるだろう。

フィルハーモニーの開館は式典がネットで中継されることは知っていたが直ぐに忘れていた。昨年からのいろいろなプログラムを見ていたがフランクフルトのアルテオパーで聞けないものはNDRの放送管弦楽団とハムブルクの座付き管弦楽団演奏会位でその他は殆んど興行師が同じだった。要するに現支配人は、ベルリンでペトレンコ体制の支配人となるのだが、あまり業界で企画などが出来る人ではないということだろう。

それよりも興味深いのはバーデンバーデンのピエール・ブーレーズ邸が売りに出されているという記事である。同時にその利用の可能性が提議されている。ハムブルクのそれとは違って僅か三億円ほどのことであるから税金を注入しても容易い筈だ。

1958年にその50部屋ある家の二階の間借り人となってから次々と買い足していったということである。550平米あるその家で数々の名作が作曲された。丁度トンネルの反対側のブラームスの夏の短い滞在とは異なる創作の場所である。遺言等はなくとも本人の意思から、ミュージアムやその他の扱いではなくて、フェストシュピールやZKMなどと活きた音楽の館として使っていきたいという案がある。

既に所有のクレーの名画などは相続人11人の中で売却されており、また音楽的な自筆譜などの資料はバーゼルのパウル・ザッハー財団に寄与されていることから、この自宅が大きな相続物件となっている。ブーレーズアカデミーにバーデン・ヴュルテムベルクの援助がされる可能性があり、ベルリンのフィハーモニカ―やSWR音楽部や元管弦楽団員、カールツルーヘのZKM、ドナウエッシンゲン音楽祭のシュペートケーラー未亡人などが名を連ねているが、まだまだハウス維持への協力者を広く求めているということである。既にロシア人から不動産物件への投資の問い合わせが入っているというので急がなければ売却されてしまうというのだ。

バーデンバーデンの祝祭を文化的にも定着させようと思えば何らかの形でブーレーズの家構想に地域社会も協力すべきだろう。ベルリオーズとかリストなどとの公爵時代の関係とブラームスやロシアの文豪の夏の保養地というだけではモーツァルトのザルツブルクとは勝負にならない。ブーレーズから連なる現代音楽の新たな活動拠点として定着すれば若い人々の活動や行き来も増えるに違いない。


写真:赤丸の大きい方から、クアハウス、祝祭劇場、ブーレーズハウス。



参照:
ピエール・ブレーズ追悼記事 2016-01-08 | 文化一般
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
右の耳が痒いから 2005-04-23 | 歴史・時事
普通の国のまともな大統領 2010-06-02 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-01-13 21:59 | 文化一般 | Trackback

イスラム化を阻む漫画化の威力

車中のラディオは、ムスリムを取材して、インタヴューを流していた。女性の祈りや金曜午後の仕事時の祈りの時間やその作法などについてである。そして一人がムスリムとしての信心について語る。「神は命」であるのになぜ自殺テロなどが起きるかとの問いに答えてである。それによると、「今起きていることは神が与えた試練であって、皆がムスリムになれば解決する」ということらしい。キリスト教の救済もユダヤ教の何もかも同じであるが、簡単に現実的に成就するようなことでは宗教にはならないのである。それを称して信心という。イスラム教も宗教としてサブカルチャー化して仕舞えば解毒出来るのだがカトリックなどと同じようにその勢力も衰えていくことになる。

新聞にクララ・シューマンが日本の漫画化されていることが報じられていたが、音楽芸術などもサブカルチャー化されることで本来の爆発力も影響も失われてしまうので、ムスリムがモハメッドをコミック化することに過激に反対するのもある意味正しいのである。コミック化というのは ― デフォルメと言い換えることが出来るが ―、それがアニメ―ションでありどのような形であり、解毒化、サブカルチャー化としての非文化化にとても大きな威力があることがこれでもよく分かる。このことは美学的にとても興味深い。

またニュースでは、連邦共和国の税収が再び膨らんだと伝える。労働市場の好況とまた相続税の伸長などで増えているらしい。更にアウトバーン用の通行税をEU市民からも徴収するとなると可成り公共投資にもまた将来のための研究開発などにもテコ入れが出来るようになる。モスリムもその他いろいろ外国人労働者も含めての税収であって、皆喜んでドイツで仕事をしている限り何一つ文句の出ない好況である。政府を小さくして無駄を省いていくことは大切であるが、役人も含めて公共事業などで豊かになるならば、文句の言いようもない。



参照:
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
啓蒙されるのは誰なのか 2015-01-16 | 文学・思想
クリスマスマーケットなんて 2016-12-21 | マスメディア批評
愛おしくて、侮れない 2016-08-23 | ワイン
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by pfaelzerwein | 2016-12-23 19:43 | 文化一般 | Trackback