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年の瀬はロココ劇場へ

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年の瀬にシュヴェツィンゲンのロココ劇場に出かけることにした。春の音楽祭や昔日系のジュン・メルケルがマンハイムで振っていた時に出かけたりしたが、真冬に入るのは初めてかもしれない。その庭も寒い時に出かけた覚えはあまりない。

機会を与えてくれたのは、我がツイッターの9人目のフォローワーであるカウンターテナーのレイ・チェネスだ。カウンターテナーと言えばショル氏などには仕事の関係で挨拶したことがあるが、それ以外ではリサイタルでのルネ・ヤコブスなどが印象に残っている。そのほかバロックオペラでのそれだが、アンドレアス・ショルなどと比較して印象に残る歌手は記憶にない。だからあまり期待していない。

それでも今回出かけようと思ったのは、ポルポーラ作曲「ミトリダーテ」がハイデルベルク市劇場の出し物として演奏されるからである。ハイデルベルクの劇場では瀬戸内寂聴原作、三木稔作曲のオペラ「愛怨」を独日協会関係で出かけたぐらいで、これまた期待しないのだが、ラシーヌの原作となると、芝居を見に行くつもりで出かけても悪くはない。なんといってもポルポーラが作曲した作品なので聞いておきたい。

ポルポーラは、彼のナポリ楽派のファルネリなどとの絡みでも有名だが、なによりもロンドンではヘンデルなどの商売敵であって、調べるとダルムシュタットの楽長として出始めたのは知らなかった。人気のユリア・レジェネーヴァなどもレパートリ-にしているが、オペラの歴史をこの作曲家無しには語れないのではなかろうか。また久しぶりに行くロココ劇場も楽しみだ。そこでスヴェトラノフ・リヒテルを聞いた時も、椅子のギシギシ音が気になったが、もう一度、今の耳でその音響を確認したい。

来週のミュンヘン行きの準備も整えている。ミュンヘンの名門山道具屋シュスターに電話した。スキーを前回の訪問時に預けていたからだ。10月10日の日本からの凱旋コンサートに出掛けた時だ。電話で聞くと、「修理の輪っかの入手に時間が掛かり」ということだったが、直ぐに送るというので、来週取りに行くことにした。どうせクリスマスの買い物もあることだから、早めに出かけて一日掛かりのミュンヘン行にしよう。これで漸く前シーズンに壊れたツアースキー道具が元通りになる。

新聞にエルブフィルハーモニ交響楽団を辞任する指揮者ヘンゲルブロックの話しが短報として載っていた。ヴェルト紙での「曖昧なインターヴュー記事」からの話しである。2019年までを一年早めて辞任したのは、後任者アラン・ギルバートが一週間も経たないうちに発表されたことなどの不愉快な出来事をとぶつくさと語っているらしい。そもそもエンゲルブロック自体が我々の会の公演で育ったような指揮者で、バロックの一部の合唱レパートリーに強みを発揮していて、とってもヴァークナーや通常の大管弦楽団でのレパートリーに強みを発揮するような指揮者ではなかった。それは既にモーツァルトの「レクイエム」でも大した演奏でなかったことから証明されていた。バッハでも名演奏を繰りひろげた印象が無い。だから最初のうちは彼の指揮する定期の券を捨てていた。それでもドイツ語の合唱に強みがあったのだが、バイロイトまで出演するとなって明らかに勘違いしていると思っていた。

そもそもNDRの交響楽団自体がそれほど魅力のある楽団ではないところに、凡庸な指揮者が振っていたのだから上手く行く筈がない。後任者の方が適任かもしれないが、こうした放送交響楽団の首席指揮者の人選などを見ていると如何にも役人的なそれで、シュトッツガルトがとても危ない川を渡るぐらいで、如何にも凡庸な指揮者ばかりが顔を揃えている。SWFのロートなどはまだよい方だった。

そのような人に身近に接して、如何にも好きな芸事で生活しているのは羨ましいと思いながらも、同じ舞台で一方には現人神のような人がいてとなるとどうしても考えてしまう。皆才能に恵まれて、必要な教育を受ける機会があって、更に人並みならぬ努力をしても歴然とした差が存在している世界である。皆同僚とはいいながらその芸術的な評価などからあまりにもの格差は致し方ない。



参照:
ヘテロセクシャルな胸声 2015-11-22 | 女
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
クリスマスの第一祝日 2012-12-25 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-12-12 23:50 | 文化一般 | Trackback

趣味の悪くない劇場指揮者

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発表間近の次期バイエルン州音楽監督である、話題のユロウスキー指揮の中継録音を聞く。ロンドンフィルのオープニングコンサートの模様だった。既にコンセルトヘボウでの協奏曲の動画を見て分かっていたが、楽譜を片手にブルックナーの第五交響曲を聞いた。

結論からすると故テンシュテットなどが振っていたころよりも管弦楽が大分よくなっていて、流石に指揮技術では頂点にいる人の業だと感心する。その職人的技術で玄人評価が高いだけのことはある。問題はその音楽性である。先日のバイエルン放送協会の番組でも「デモーニッシュなどと言われている」と話しがあったが、その静的であり乍ら聴衆を揺り動かす音楽性に注視した。

基本的には、音楽をよく知っていて、流石に二代目の指揮者だけあって、破綻を来すようなことはしないでも十分効果を上げる実力を擁しているということのようだ。だからSWRに任命される指揮者テオドール・クレンツィスの様な非音楽的で恥さらしなことは全く無く、とても質も高く、それどころか風格すら感じさせる。同じような技能があっても如何に音楽に語らせるかどうかの相違だろう。この二人は年代こそ異なるが、音楽的にはとても良い対照関係になる。

とは言っても、ブルックナーの楽譜にアゴーギクなどをさり気無くしっかりと加えてマニエーレンをしている。それが気づかれないような形で、まるで音楽がそのように動いているかのような風情なのだ。所謂クラシックオタクのコンサートゴアーズには受けるだろうが、幅広くはどうだろうか?少なくとも上のブルックナーの場合は、なるほど素晴らしく鳴っていて、味わい深いのだが、この指揮者の演奏ではこうした名曲が特別な意味を放つことはないだろうと思われる ― 要するに比較対照の聞き比べでの対象の域を出ない。

最も期待されるレパートリーはルイジ・ノーノとかの20世紀の古典になるのだろうから、上の様な構成感などもあまり重要ではないかもしれない。そうした期待されるレパートリーとやや古風な演奏実践からすると、やはりこの人は典型的な劇場指揮者タイプだと感じた。劇場の奈落では、そもそも現実的な対応に迫られることからしても、前任者のキリル・ペトレンコ指揮の様な理想的な様式を追い求めるよりも、寧ろ音楽劇場としての最大限の効果が求められるからである。

その証拠にこの指揮者の協奏曲演奏は、ペトレンコのように合わせものであるよりも、表現の可能性を追及しているところがあり、立場は異なってもイゴール・レヴィットの様な音楽性の指揮者であり、共演を越えた演奏をしている。いい舞台を奈落から支えるのにこれ以上の指揮者はいないのではなかろうか?ソリスツが際立つだろう。早速身近でのコンサートを調べてみるとフランクフルトで三月にロンドンフィルを振って、チャイコフスキープロがあった。ネットで購入すると手数料を10ユーロほど取られて、40ユーロを超えた。これは高過ぎると思った。ノーノプロならば払ったかもしれないが、バーデンバーデンでのヴィーナーフィルハーモニカーやゲヴァントハウスよりはるかに高価だ。マネージメントも興業主も完全なマフィア組織である。そこまでの価値はない ― キリル・ペトレンコ指揮コンセルトヘボウよりも少し安いだけである!。

彼らの経歴から、容易にキリル・ペトレンコは劇場指揮者で、ウラディミール・ユロウスキーはコンサート指揮者と誤解している向きは世界中に少なくないが、少しだけでもその音楽の実践を分析すれば、そうした印象はただの蒙昧でしかないと直ぐに結論が下されて、事実は全く逆さまであることが証明される。

最終決定は、賞与などの交渉を終えてその金額などを入れた予算編成とその州議会での承認が必要となるので、体制が整ったキリスト教社会同盟の政治日程次第と書かれている。序ながら、ベルリンのコーミッシェオパーの監督バリー・コスキーが選から落ちてセルジュ・ドルニー支配人推挙となったのは、コスキーがそもそも軽歌劇の演出家であり ― 反吐が出ると悪態をつかれるほどに -、高尚な音楽劇場には向かないということでしかない。バイロイトは同様なカストルフで成功したのだが、こちらは東独のノスタルジーなどを掛け合わせていて、その方の共感も得ることが出来たが、コスキーの悪趣味に共感する聴衆がいるのだろうか?社会同盟でなくとも少なくともあのような悪趣味は受け入れられまい。バイロイト祝祭の趣味の悪いこと極まりない。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-12-07 21:28 | 文化一般 | Trackback

エポックメーキングなこと

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3SACDと1DVDのセットが配達された。2014年にドナウエッシンゲンで行われたもののライヴ物で、記録的価値しかないもので、四枚組で20ユーロは決してお得ではない。それでも発注から四週間待ち続けたのは、DVDに入っているステーンアンデルセンのピアノ協奏曲を見たいばかりだったからだ。2016年にフライブルクでの再演を経験して、シェーンベルクのピアノ協奏曲それ自体を含めてそれ以降のこのジャンルにおけるエポックメーキングな作品ではないかと感じたからだ。そもそもその期間にまともにこのジャンルで創作されたことがあるのかどうか疑問であった。それはまさしくそのシェーンベルクの作曲にもそれが示唆されていた。

そもそもこの創作自体がフルクサスのまとめの様なマルティメディアの創作なのだが、その冒頭のピアノ破壊の映像やそのサウンドトラックだけの効果には止まらないサムプリングと映像の組み合わせがあり、言うなれば過去数十年間のそれらが統合された形になっている。

残念ながらコンサートを体験してから主催者のSWRのHPを探したが、こちらが見たい場面は見つからなかった。音楽的な核心部に近いところでもあるが、映像的にもユーモアに溢れてまさしくフルクサス的なそれからは最も遠い世界の場面だった。映像技術的には特別難しいことをしているのではないが、そのサウンドトラックの付け方と全体の音楽構成が並々ならぬ才能を思わせるのだ。

先ずはそのDVDをPCに入れるが映像が開かない。仕方がないので所謂リッピングソフトを使う。綺麗に読み取って、HDDにコピーする ― 簡単に読み取れるようにしておかないから余計に皆がこうしたソフトを使うようになる。今時DVDプレーヤーなどを購入する人がいるのだろうか?このDVDが見れない限り2013年の4枚組SACDと同じ価格で2014年のそれを購入する必要はなかったので、無事にコピー出来てよかった。なによりもピアニストの鏡像の様な親爺の顔に再会出来た喜びに満ちた。

しかし演奏も音質も再演には全く敵わない。演奏も再演で慣れていることにもよるのだろうか、その迫力が全くこれでは伝わらず、音の厳しさが全く違う ― これでは激しいトリルと特殊奏法の後でこちらを向く鏡像のピアニストと二度目のベートーヴェンの調べでこちらを向くときとの対照効果が薄れる。それはあのドウナエッシンゲンの会場とその録音の質とフライブルクのコンサートホールでの実演との差でもあろう。なるほど純器楽曲として同じロート指揮SWRバーデンバーデンで再演した微分音調律した四つのピアノためのハースの曲とは異なり、伝統通りのピアノ協奏曲でもあるのだが、殆どが特殊奏法の手袋を嵌めた打鍵かトリルなのだがまさしくピアノという楽器のための協奏曲である。

どうも来年にはミュンヘンの後継者が決定するようで、恐らくウラディミール・ユロウスキーとセルジュ・ドルニーのコンビになりそうだ。指揮者では、パパーノやネルソンズ、メストとの接触はあったようだが、最初のはコヴェントガーデンからの乗り換えにもあまり興味が無さそうで、最も楽団に人気のあったネルゾンズは他と競合となり、メストは人気もあまりなかったようだ。後者のモルティーエ門下のドルニーの方はドレスデンのティーレマンなどとは合わないのは当然で、ユロウスキーとはグライボーンやロンドンフィルでの協調から二人を組合わせでということになりそうだ。

個人的には、CDや録音などでパパーノのオペラ指揮者としての実力は評価してもその指揮のためにミュンヘンまで行くことは全く考えられなかった。ネルソンズはゲヴァントハウスの管弦楽団で先ずは真面なプログラムで演奏を聞いてみないと、そのオペラでの興味は起こらない。メストがミュンヘンで学びながらヴィーンに拘る理由もあまり理解できないのだが、ミュンヘンではやはり難しいと思う。しかしユロウスキーとドロニーの組み合わせでの企画によっては行きたいと思わないでもない。

寧ろ、ペトレンコ音楽監督体制ではどうしても音楽至上となるので、モルティエー体制であったような劇場としての面白しろさまでには至らなかった ― その点からもキリル・ペトレンコは全く劇場指揮者ではなくコンサート指揮者であることは明らかだ。バーデンバーデンでのスーパーオパーに期待したい理由はそこにもある。その点、ユロウスキーの技能的な秀逸さには疑いなく、一見更に地味乍らとんでもない効果を奈落から引き出してくれそうで、音楽劇場として更なる進展が期待できそうだ。恐らく「伝説的指揮者」が築いた土台を継いで、音楽劇場として開花させるのはこの二人しかいないように感じ出した。



参照:
MACHEN DORNY UND JUROWSKI DAS RENNEN?, IM GESPRÄCH MIT BERNHARD NEUHOFF (BR-Klassik)
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-12-01 19:39 | 文化一般 | Trackback

クリスマス向きのリスト

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降雪の合間に一っ走りした。週末にかけて摂氏零下五度ぐらいまでは予想されている。夜中にもちらついていたようだが、まだ雨交じりである。白くなっているかと思ったら全く雪はなかった。止んだ時に森に出かけて、最も短いコースをカメラを持って走った。下からもボールダーのある山肌には雪がついているのを確認したが、駐車場には残っていなかった。それでも少し高度を上げると雪が残っていた。積み上がられて三か月ほどになる丸太にも雪がついていて、その向こう側の白い山肌の前景になっていた。

新聞に恒例のクリスマスプレゼント向きの今年の文化商品一覧が出た。昔は興味を持っていた。書籍にしろ、マルティメディア商品にしろ、なにか文化的な記事のように感じていたからだ。しかしこの十数年ほどはそのリストをじっくり見ることもなかった。理由は、確かに情報源としては高級新聞の文化欄のリストだからそれなりの価値はあるのだが、年間で云々言っても仕方ないように感じたからだろう。なるほどクリスマスプレゼントとして普段とは異なったものに目を向ける価値はあるだろう、しかしどうもネット情報が増えてきている今日の状況からこうしたプリントメディアで新しいものに出合うという可能性が小さくなってきたと感じるようになった。

さて実際にはどうだろうか?購入しようとは思わないが、二人の選者がリストアップしているペトラ・モルスバッハの「裁判宮」という小説でなかなか面白そうだが、法律用語が飛び出すのでその方に関心がないとまどろっこしいかもしれない。同じようにテオドール・モムセンの「ローマ国法」などは研究者には欠かせないのだろう。政治社会分野では、イヴァン・ブーニンの「逃亡の日々」とロシア革命の日記らしく、最初の一冊以外は一生涯手にすることはないだろう。歴史ものでは新たな「イリアス」クルト・シュタインマンの訳本について複数が触れている。そうした難しいものよりも英語からのマテュー・スウィーニーの詩集「犬と月」が創作俳句のようでウイスキー好き以外にもとなっている。実用本ではペータ―・クラウスの鳥の鳴き声の教則本がある。トーマス・マッチョの「命を絶つ」は自殺の美学などを述べているようだ。

アニメでは、「化物語」全集とか「やかり」とかが挙がっているが、こび山田の児童書、写真集では金子隆一とマンフレート・ハイティンクのユーゲントシュティールとか広重・栄仙の木曽路とかがあるが、高価なものは到底手が出ない。

音楽では、9枚組LPのジョニー・キャッシュのビルボードソング集だ。それほど価値があるものなのか?お馴染みのところでは、二人が触れているゲルハーエルの「ミューラリン」の二度目の録音フィリップ・ヤロウスキーのヘンデル集がある。デーニッシュ弦楽四重奏団のアルバムはよいとしても、DGカラヤン全集を態々触れなければいけない破廉恥な職業環境には呆れる。

結局それほど目ぼしい情報がなかった。雑学的に少しの情報があったぐらいだ。あまり重要でないものには、自らどうしてもフィルターを掛けて行く訳だが、これはと感動するようなことがないのも悲しいことである。その分、ネットではヴィデオなどを含めて日々刺激的な情報も得ていることも間違いない。



参照:
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
読者層に合わせた興奮度合い 2011-11-22 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-11-30 21:07 | 文化一般 | Trackback

永遠の歓喜に寄せて

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承前)週末に「アインドィツェスレクイエム」の二楽章までをヘルベルト・ブロムシュテットの解説で観た。二楽章では、葬送行進曲が勝利の行進曲になる。ここに来て初めて登場するヴァイオリンの、その音高が雨降りのように上から届き、主題が変形される。弱音付きの響きと、「肉が草になる」無常という同じ教会コラールの変形が響く ― 勿論、雨が降らなければ草は萎れる。

テイムパニーの三連符に注目する。それが上のコラールの大きな盛り上がりに鳴り響く。その交響的歴史と同時に、故郷スェーデンで聞いた反ナチの英国からの放送の思い出が語られる。そのロンドンコーリングのジングルとして、そこにも三連符が使われていて、迫り来るものと同時に開放の響きとして使われていたと追憶される。

そして「Aber」の叫びとともに救済へと勝利の行進へと向かうと、フーガとなる訳だが、その意味合いがこれまた適格に説明される。「フーガを何か複雑なもとと考えるかもしれないが、難しく考える必要はない」と、例えばそれは説教であったり、講演であったり、政治家が語ったりするとき、特に強調したいと思うことをどう表現するか?

「二つの方法があって、一つは声を大きく張り上げてみるとか、もう一つは繰り返すことだ。しかし何度も繰り返すとなると、正気を失ったかなと思われるだろうが、音楽においては物語を綴っていくことができるのだ」と。「それをフーガと称するのだ」と。

そして喜びの感激へと進むのだが、最後に再びティムパニが響いて来るのだが、もはやそこでは脅迫のリズムではなく、永遠に永遠にと引き続く。するとヴァイオリンが天から降りて来て、静かに静かに、それをして音楽芸術にのみなせることで、他の造形芸術などでは不可能な永遠性の表現とする。聞こえるか聞こえないように。それをして、平原に遥かに続く二本の線路を見るように、その二本が平行に続いているのを想像するのと同じだというのだ。それが永遠への想像である。「当然のことながら物理的な弱音の限界はあるのだが、聴衆は音が出ているのか出ていないのかまでを想像する」というのだ。

一楽章の最初は、低弦による永遠性のオルゲルプンクトであると、同時にその変遷を示すとなる。Selige sind, die da Leid tragenの最初のSの濁った響きと第二節の母音での慰めを、ルターの翻訳として評価する。ここは、明らかに今回のヴィーンの合唱団とのツアー公演では、そこの緊張感が充分に構築されていない。なるほど言葉のアーティクレーションの代わりに響きを作る合唱となっている訳だが、その下で管弦楽が出来る限りの仕事をしている。逆行形の主題の上行の喜びへと、ブラームスがあまり使わなかったハープも涙の下行、そして最後の慰めの上行へと、ヘ長調の平安の園へと至る。

このレクイエムの特徴である慰めと平安にも幾らかの不協和音のスパイスが散りばめられていて、甘ったるい危険な蜜のセンチメンタルは混ざっておらず、射影のある深い喜びとしている。その点でも嘗てのゲヴァントハウス管弦楽団とは一味も二味も違う演奏をしているのではなかろうか。その証拠に「我が管弦楽団」と呼ぶデンマークの放送交響楽団はとってもそこまでの演奏をしていない。東京公演の演奏を聞けば聞くほど管弦楽団が全てを支えていることが分かってくる。(続く



参照:
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-11-20 23:04 | 文化一般 | Trackback

ザルツブルク、再び?

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歌手のラッセル・トーマスが、ネット活動を、フォロワーを増やす為に、頑張ると書いている。今までは殆ど自身の書き込みをしてこなかったからで、キャリア的にも重要だとなったのだろう。今年の夏のザルツブルクのハイライトは「ティートの寛容」でのピーター・セラーズの演出だったと確信しているが、その中でも絶賛されたフランス人女性歌手や非芸術的な指揮者よりも、もし新生ザルツブルクがあるならば、アフリカ人歌手ゴルダ・シュルツや最も歌唱的に評価の低かったトーマスがその中心だったと確信している。

前者の方は大阪出身の中村絵里や先ごろ日本公演にも同行したハンナ・ミュラーに代わってペトレンコ指揮の最後の「指輪」に登場するが、トーマスの方は先日メトロポリタン初のアフロアメリカンの「ラボエーム」を歌っている。そこで、メトロポリタンで「黒人による黒人のためのキャスティングをやるべき」と書いていて、正直そのような社会状況は欧州にいるとよく分からない。我々からするとアパルトヘイトにしか映らないく、その主旨は想像するしかないのである。少なくとも同じく「寛容」にも出ていたワイヤード・ホワイトが先月ラトル指揮の「女狐」に出ていて、その出演を黒人云々を感じる人などはまれな筈である。

そもそもピーター・セラーズの演出自体は、そうした社会的な環境をも投影しながらの本質的な劇表現へと、その配役などを熟慮しており、各々の表現の可能性をとことん追求したことから、とても力強い演劇性をもたらしていた。その演劇性が劇場空間を取り巻くそのザルツブルクの環境へと広がっていくのはいつものことながら天才的と言わざるを得なかった。そこにこそ、初めてペトレンコの謂わんとする「考えてみる」劇場の娯楽を超えた、芸術的な価値があるのだ。

その中で、ザルツカムマーグートなどでの蛮行をバイエルンの放送局が伝えて、その舞台にそうした環境が反映しても不思議ではないと語ったのがこのトーマスであり、今繰り返しその終幕の終景の歌唱と演技を観ると、フランス人の歌唱などよりも、現地に足を運んでいないながらも、その歌唱とシュルツの終幕のシーンにこの夏のザルツブルクの集約されていたのではないかとの思いに至る。

余談ながら、来年度の夏のプログラムを見たりするのに、ログインしようとしたらパスワードを忘れていた。メールアドレスを入れるとしっかりと戻ってきた。更にパトロンの金額まで書いてあった、驚いた。パトロンを辞めてからしかネット申請はしていない筈だが、個人情報は活きているのかもしれない。しかし上の上演にしても少なくとも音楽的にはもう少しましでなければ、再び遠くザルツブルクまで日帰りするほどの気持ちは湧かない。バーデンバーデンに逸早くそこまでの芸術性を発揮してもらいたいと願わずにはいられない。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ピリ辛感が残る最後 2017-08-22 | ワイン
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-11-16 22:23 | 文化一般 | Trackback

十年先のペトレンコを読む

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承前)キリル・ペトレンコへのインタヴュー、前半では古楽器とモーツァルトの演奏実践について触れられた。この件は、先週掲載された日本での記者会見での質問について触れたノイエズルヒャーツャイテュングにも、ミュンヘンでのただ二つ上手くいかなかった演奏として新演出の「ティトスの寛容」と「ルチア」についての言及があった。その後、ベルリンでハフナー交響曲を振って成功しているので、態々前任者のケント・ナガノとの共通性とするまでもないと思った。それに関しては歴史的な演奏実践として後半で再び繰り返される。

もう一点、見逃せない言及は。テムポに関してと同時代性に関しての「古い録音」への言及だろう。これに関しては、リヒャルト・シュトラウス演奏実践に関して作曲家の録音や同時代の録音をこの天才指揮者も聞いている筈だと書いたことがあるが、後半でこれに関連する方へと質問が進む。


ご自身を昔風の指揮者と考えますか?

確かに、80年代のサウンドフェチの指揮者よりは確かに昔風の音楽家でしょう。どんな音楽家もあまりに立派で鳴り渡る音響を追い求めようとすると、明確な表現を失いがちとなります。しかし今はその傾向は再び反転しているのは長く知られるところで、作品の本質へと迫ろうとしています。それどころか、チャイコフスキーの「悲愴」をノンヴィブラートで弾かせようとする指揮者までいます。全くバカバカしい!もし当時そのようであったならば、作曲家は同時代人から理解されないと感じたことであり、次代の人によってそのように刻まれていた。それは、当時の管弦楽のための音楽ではなく、想像の管弦楽のものだったのですよ。全ての色彩への精神の音楽というものです。

コーミッシェオパーの上演プログラムは、バルトークからモダーンまで至っていますが、座付き管弦楽団というのは専門化するクラシック音楽界という意味で、全く対抗できるのでしょうか?

全くもって。管弦楽というのは、様々な時代の音楽を演奏するものだという見解です。専門楽団と競争しないならそれはもはや必要ないということですよ。勿論それは、敗北しないで、挑戦するという課題です。例えばグルックのオペラでのある箇所で、古楽器がやるよりも更なるダイナミック一撃を、モダーンな楽器の構築的な音響的な可能性を以って可能にしようということです。

これだけの成功したコーミッシェオパーの時代でしたが、一つの初演も五年間で行っていませんね。

認めておかないといけないのは、それよりもモーツェルトでのことについて語る方が重要だということです。勿論新しい音楽へのスペクトラムを投げかけるのは当然です。しかし私がここに来ての、最優先課題は、レパートリー上演の質の向上でありました。そこでは、全くなんでもなく、新しい音楽に向けるというような時間はなかったのです。

ベルリンでは、あなたの管弦楽やフィルハーモニカーへの客演としてコンサート指揮者として登場しました。それでも主にオペラ指揮者と見做されています。それはキャリアーにおいて偶然だったのか、それともオペラは指揮者として背骨に当たるのでしょうか?

実際私のエージェントが、謂わばオペラへ放り込んだって感じですか。学生時代は、寧ろコンサート指揮者だと見てましたし、あんまり歌劇場の音楽監督なんて見ていなかった。八年間は歌劇場の音楽監督で、先ずはマイニンゲン、そしてベルリン、背骨になったとも言える、そしてこれからもまたそのようであり得ます。今モーツァルトの交響曲を指揮すれば、そこにとても多くのオペラを聞き、チャイコフスキーやシュトラウスにおいても変わりないです。これらの作曲家にとっては、オペラは創造の背骨でした。

ベルリンを後にしてからのご計画は、いつベルリンに客演に戻ってこられますか?

先ず何よりも二年間は間隔が欲しい、自身の地平線を広げるためにです。先ず定まったポストには就きません。過去八年間はとても大変でした。毎朝十時に劇場に行って、十時前に自宅に戻ることは殆どなかったです。劇場に食い尽くされた。コンサートには再びベルリンに戻ってきます。しかしここでオペラをやるまでには大分掛かるでしょう。今はこの間に欠けていたものを取り戻して:例えばベートーヴェンとブラームスの交響曲を継続的に研究することです。

つまり、ベルリンではペトレンコの半分も体験できなかったということですね。

そう、あと半分は後追いで配達しますよ。(終わり)


更に重要なキーワードが幾つか出てきた。古楽器、座付き、交響楽団などのあり方で、特に座付き管弦楽団のあり方に関して言及していて、その多様性のあり方を目していて、現在のミュンヘンのそれがどのような方向に進むべきかの指揮者としての視点が読み取れる。同時に逆に推測するとベルリンのフィルハーモニカーが今後どの方向に進むべきかの示唆がここにある。

もう一つは、ミュンヘンの歌劇場の日本公演でも話題になり、また恐らく現在世界最高のクリーヴランド管弦楽団の欧州公演でもはっきりした傾向であり、また反対に指揮者シャイ―の薫陶により管弦楽団として通るようになったゲヴァントハウス管弦楽団のように、嘗てのつまりカラヤン世代の響きは過去のものとなって、それ以前のように管弦楽団が音楽の本質的な表現へと向かうようになったとする私見も、キリル・ペトレンコがここで十年前に裏打ちしていた。またまたノンヴィブラートの指揮者ノーターリンなどを一撃する放言があって、これまた恐ろしい。シュトッツガルトには、政治と金しかなくて、まともなアーティストプロデューサーが存在しない。

もう一つは、あの時点でべ―ト―ヴェンは兎も角、ブラームスにも言及していることだ。これは注目に値する。先月の交響曲四番に続いて、来年はドッペルコンツェルトをカーネギーホールで指揮する。第四番の印象では、通常よりも細かに楽譜を読み解くことで、その形式感や作曲上の狙いを聞きとらせて、絶大な効果を上げる。それだけ十年も掛けて読み込んでいるということだろうが、この指揮者はただブラームスに集中することだけが目的ではない筈なので、そこが次の十年への土台となるということだろう。ベートーヴェンに関しては来年の夏にその研究の結果が聞かれると言うことだ ― 既に台北の練習風景動画でその方向性は予測可能となっている。



参照:
"Unser Publikum weiß, dass es mitdenken soll", Das Gespräch mit Kirill Petrenko führte Jörg Köningsdorf (Der Tagesspiegel)
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-11-13 21:18 | 文化一般 | Trackback

アインドィツェスレクイエム

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ヘルベルト・ブロムシュテットのブラームス「アインドィツェスレクイエム」シリーズ初回の番組を観た。30分番組の八回なので、ルツェルンの自室での本人の解説が半分以上だ。娘さん家族の家のようだが、アップライトのピアノしか置いていなくて、世界の大指揮者になった今としては何か特別に質素に感じる。中産階級としても少なくともフリューゲルは置いてあってもと思うのだが ― その書斎も老人の籠り部屋の広さほどでしかない ―、そこは娘さんの居候の身で仕方がないのだろうか。勿論財産は財団を作れるほどに大分貯めているのだろうが、一流人の仕事部屋にしてはとどうしても思う ― その宗教は清貧を説いているのであろうか。一流指揮者と言われる人でアップライトを使っている人は例えピアノが下手だとしてもそれほどいないと思うのだが、どうだろう ― どうもよく見ると後ろは壁になっていてフリューゲルを置いてあるようで、とんだ勘違いでも笑ってしまう。

そんなことはどうでもよい。やはりこの人の話には味がある。その解説にしても、音楽構造的なものを明らかにしながらいつもの調子でボンボンと歌う。一般の音楽愛好家に分かりやすい話をしているのだが、技術的な話を別にすると指揮台の上でも同じことを語っているに違いないと思った。やはりよく楽譜を読んでいるだけでなく、ここではルターのバイブルのテキストの韻にも、また原曲となる讃美歌も口ずさみながらのサーヴィス満点の解説だ。

この放送の本局はダルムシュタットの山の上にあるようだが、放送時刻が決まっていてもそれ以前にオンデマンドで呼び出せるようになっていて、生以上の映像をMP4で落とせるようになっていてこれがまたとても親切だ。演奏の方はデンマークの放送管弦楽団でゲヴァントハウスとは比較できないようで音響的には物足りなさを感じたが、番組自体は続きがとても楽しみになった ― ゲヴァントハウス管弦楽団の月曜日のNHKホールからの中継も楽しみだ。(続く))

先日発注したCDの中でライヴ録音と知っていて注文したフランクフルトの「パレストリーナ」が思っていた以上に聞き堪えがある。触りで聞いたようにそこの歌劇場の管弦楽団はそれほど良くないが、やはりコーミッシュェオパーとは違う。客演のキリル・ペトレンコの凝縮した響きで粗はあってもなかなか迫力がある。ミュンヘンでの初日の悪い時もそれほど変わらないので生録音のコレクションが一つ増えた感じで楽しめる。3枚組10ユーロしなければ、その豪華ブックレット製作費と考えれば、まあまあだろう。制作のプローベの簡単な動画などを付け加えておけば記録的価値が上がったと思う。



参照:
Selig sind, die da Leid tragen (HappyChannel)
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-11-12 18:45 | 文化一般 | Trackback

キリル・ペトレンコの十年

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2007年6月29日のターゲスシュピーゲル紙が面白い。キリル・ペトレンコの残されたインタヴューとして数少ない貴重なものだ。そしてその内容を読むとこの天才指揮者の今の活動の伏線の様なものが読み取れ、過去の十年から先の十年が想定可能となる。勿論相手は天才であるから量子的な跳躍までは我々凡人には予想もつかない。折角であるから忠実に訳しておこう。

ペトレンコさん、丁度コーミッシェオパーが上昇機運にあるというところで去られますが、本来は今こそ、過去五年間のお仕事の実りを摘み取ることも可能だったのではないでしょうか。

私は、辞めるのにこれ以上にまたとない時と思ってます。コーミッシェオパーがベルリンのオペラシーンでそのプロフィールが強化されたので、いい感じで去れるのです。そのプロフィールというのは、スターテアターではない、毎晩指揮者から舞台の裏方さんまでの尽力で出来上がっているという劇場です。最後の数年間は、市の劇場として本質的に求められているものに新たな感覚を注ぎ込めたと思ってます。そして聴衆は、ここに来てただ娯楽をするのではなく、一緒に考えなきゃとなっている。強い反応から拒否までそこでは想定されているのです。

その考えてみようというのは、先ず何よりも演出となって、その限りにおいてはですね、音楽的には別な結果を出すということにはなりませんか?

私のいつもの目標の最上位は、伝統やルーティンによって楽譜に溜まっている埃を取り除くことです。最後の新制作となった「微笑みの国」がとても良い例です。しばしばこの作品はポップ音楽に下げられて、いくつかのカットがなされて、テキストの厚いところでは管弦楽のパートも削られます。そこは、レハールの楽譜ではとても豊かな色彩とユニークなハーモニーがあるところです。それは、しばしばマーラーの、初期シェーンベルクをのも想起させ、宋チョン皇太子の動機は、殆ど「ヴォツェック」のように響きます。ですから、その深層を音化するのです。

演出からの影響を実践するということはありますか?ツェリカート・ビエイトの「(後宮からの)逃走」の激しさは、モーツァルトの響きとして尋常ならない過激さに反映されていたと思いますが。

あれは、寧ろ幸運な例で、上手くいきました。しかしモーツァルトの響きはヴィーンでの学生時代に形作られたもので、理論的にはニコラウス・アーノンクールのを批判的に研究したものです。コーミシェオパーでは、モーツァルトは可能な限り集中的に音楽を言語として扱い、その動機が、舞台上では全く語られていないのにも拘らず、溢していることです。エッジの効いた、透明なモーツァルトの響きにはとても満足で、この後五年間はモーツァルト休止にするつもりです。自身のモーツァルト演奏は恐らくその後は今ほど過激には響かなくなるでしょう。

古楽器の演奏実践は、指揮者キリル・ペトレンコのモーツァルトにとって重要なのか、それとも様式的にとても注意深いとされるのか?

それは本当に私にとっては基本的なことであります。ヴァイルの「マハゴニー」では、`20年代のジャズを聞くのです、昔のジャズです。古い録音で、とても重要な考えに当たります、しかしそれはドグマではありません。「ローゼンカヴァリエ」などは初演当時は今私が振るよりも間違いなく早いテムポで演奏されていました。細部まで明白にしようとして、しばしば遅くなることがあります。それでもきっとそれらの個所を今は再び早く指揮していると思います。自問自答すると、屡それが好ましいと思っているのですね。そのようなこともあって、コーミッシェオパーでは、「イェヌーファ」、「ローゼンカヴァリエ」とか「オイゲンオネーギン」などを何年かに亘って指揮して、そうやって自身の見解を発展させる機会を活かしました。(続く



参照:
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般

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by pfaelzerwein | 2017-11-11 23:18 | 文化一般 | Trackback

なんと、やはり生演奏会

パリでの公演「利口な女狐」のヴィデオを観た。ざっと流しただけだが、バレーを上手く使って、動物と人間世界の差が不自然でないような印象を受けた。そしてパリの管弦楽団が素晴らしい音を響かしていて、流石に座付き管弦楽団とは違うなと思わせ、指揮者の譜読みを綺麗に音化していると思う。それだからといって歌を邪魔しているようには聞こえない。それでも一幕の鶏の革命騒ぎのとこらでのアンサムブルは名座付き管弦楽団のようには行っていないようだ。

一幕で更に気が付いたのは二拍子系と三拍子系が上手に組み合わされていて劇的なアクセントを付け加えていることと、そこに三連符、四連符、五連符が散りばめられることで、言葉の抑揚も綺麗に収まっている。そして管弦楽は独奏的に中々難しそうだと改めて感じた。

更に二幕三幕と細かなところを見て行く前に、上の公演の全体の印象は、決定版かといわれると少なくとも演出面でも折角フィナーレで弧を描くように輪廻する筈が、その意図や効果は見当たらない。これは、ヤナーチェックを十八番とした指揮者マッケラスの譜読みにも係わっているのかどうか、より詳しく見ていかないと判断出来ないだろう。

少なくともヴォーカルスコア―を見る限り、チャールズ・マッケラスは楽譜にない何かを根拠として演奏しているところがあり、そこに正当性があるのかないのかを検証しない限り、手放しでは称賛し難い。一度流したぐらいではその根拠は見出せなかった。

土曜日のルクセムブルクでのコンサートには、ベルリンでの公演のヴィデオは間に合わなかった。そもそも演出ものであるから映像と音響の編集に普通以上に手間がかかることは予想できたのだが、生放送では真面に再生可能かどうか心許なかったので、生では観なかったのが間違いだった。年内のお愉しみとしよう。

金曜日のバーデンバーデンでのゲヴァントハウス管弦楽団の公演はネットを見るとがら空きのようである。ほとんど売れていなかった90ユーロの席に滑り込んだ。因みに私が購入したのは19ユーロのサイドのバルコニー席だった。四割りほどの入りで、よほどゲヴァントハウス管弦楽団は西ドイツでは評判が悪いのかなと思った。案の定メンデルスゾーンのヴァイオリニストも、最近話題のカラヤン二世指揮者のお友達のような音楽的に最低の奏者で、メンデルスゾーンでさえ子供のように弾けずに殆ど下手な学生オーケストラの奏者のようだったが、それが調子に乗ってバッハのパルティ―タをアンコールするものだからとても酷かった ― 明らかにサクラが入っていたようだった。それに合わすかのように、楽団はミュンヘンの同僚とは比較にならないほどの下手な合わせで、卒寿のご老体も適当に振っていたので、これはどうしようもないと肝をくくったのだった。ドレスデンやベルリンどころか、到底小編成のNHK交響楽団程度に及ばないと感じたのだが、ブルックナーの大編成になると全く事情は異なった。吃驚仰天した。あのメンデルスゾーンでの分厚いようなリードのオーボエに代表される鈍重な音は一体何だったのか?(続く



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
親しみ易すすぎる名曲 2017-10-24 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-10-28 07:17 | 文化一般 | Trackback