カテゴリ:文化一般( 241 )

異次元の大ヴィーナス像

承前)少し興奮状態で朝起きした。夕刻の初日の総稽古風景を観たからである。快晴になって横になってはいられない。早くから出かけるとパン屋がまだ開いていなかったのでその前に一汗かいた。まだまだ「タンホイザー」は頭に入っていないが、自身にとっても作品にとっても殆んど初演のようなものであることは、幾つもの演奏の録音を聴いていて分かっている。なぜこの作品の演奏が難しいのか、それともあの頃のヴァークナーの創作の問題なのかはよく分からない。恐らく、バレンボイム指揮の演奏のようにオペラ業界の伝統や慣例の中で上手にお茶を濁しておいた、つまり作品自体が作曲家の最後までの心残りであったことに関係しているのだろう。

ミュンヘンの新演出タンホイザー初日である。バイエルン放送で放送された総稽古の様子を観る。キリル・ペトレンコ指揮の演奏が次元が違うことは何時もの通りであるが、演出も次元が違っているようだ。但し成功するのかどうかは分からない。

ヴィーヌスをパントラトーヴァが歌うという意味を知った。なるほど考えてみればヴィーナスは美しい女性でなければいけない。だからおばさんが「(今後ともお呼びがかからない)興味がない役柄」ということなのか?兎に角、肉襦袢を着ないでも充分だと思うのだが、「今までのタンホイザーとは次元が違う」ことは間違いないと保証してくれている。それにしてもおばさんのヴァリコフスキー演出「影の無い女」のバラックの妻の歌唱を思い起こせば、今回も立派な歌を演技を披露してくれるだろう、正しく体当たりの「大歌手」である。

それにしても自らフィッシャーディースカウの亜流というゲルハーエルのインタヴューを聞くと、結構面倒なことを語っている。エリザベートのハルテロスなど豪華キャスティングなのだが、どれもこれも一言ありそうな歌手陣で、指揮者は余程ずば抜けた力量が無いと纏まらないことは明らかだ。正しく、現在のミュンヘンの歌劇場でスーパーオパーが上演されている所以だ。いずれにしても、「影の無い女」の演出同様、そこで救済などされなくても、昨日から今日、今日から明日への時の流れがそこに河のように流れ続けているという感覚は共通しているようだ。

午前中にあるバイエルン放送交響楽団の番組の中で先ほど亡くなった指揮者スクロヴァチェスキー指揮のブルックナー交響曲二番が放送される。あのハ短調の響きが魅力的な曲であり,中々名録音が無いので夕刻の予行練習として録音してみようかと思う。(続く



参照:
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-21 19:51 | 文化一般 | Trackback

1861年版のドイツ語上演とは

承前)週末はやくざな上演モンテカルロからの録画「タンホイザー」で腹立たしい思いをした。結局三幕まで通して観て、楽譜に目を奪われていて観ていない演出動画は美しそうだが、短縮のヴィーン版というものをフランス語で上演したものと理解した。ヴィーン版とやらを改めて調べないでも良さそうで、そこで上演されているように折角新たなに筆入れした音楽があっても、あのような上演形態と質ならばほとんど何も効果を上げていないことも確認した。寧ろその管弦楽の演奏からバランスが悪いような思いは強く、なるほど死の直前、ヴァ―クナーがコジマに「この世に借りを残したままだ」と気にしていた理由も分かる。あれほどの楽匠でも長い期間をおいての古い作風への筆入れが面倒な課題だったことがよく分かる。

それにしてもあれだけの綺麗な舞台を制作していて、態々ヴィーン版をフランス語上演しなければいけなかった理由は納得できないのだが、最終的には音楽的な趣味の悪さということになるのだろうか。ストッツマンという女性指揮者は歌手として成功していて小澤指揮で最近までアルトで歌っている映像があるが、そのような清潔な音楽が出来るような指揮ではなかった。管弦楽団だけでなくて指揮者にも責任があるのは間違い無さそうで、拍節がはっきりしないでも完全にアンサンブルが崩壊してしまわないのが見事である。それはタンホイザーを歌うホセ・クーラの歌唱も指揮者の責任だけではないのは明らかだった ― 昨年のザルツブルク復活祭で「何を歌っているのか皆目分かっていない」と非難された歌の伴奏がティーレマン指揮だったのも偶然ではなかった。

小節を利かした歌唱をも包み込んでしまうような拍節が無くなるような音楽運びが、所謂「オペラ指揮の妙技」というものなのだろう。このような塩梅だから音楽愛好家はオペラ劇場などというものには足を運べなくなるのである。タイトルロールがマグロのように横たわっているのを見ると村芝居にもなっていない。

うんざりしてそうこうしているうちに、ベルリンでの1861年版らしき上演のヴィデオが見つかった。序曲から流してみたが、流石に座付き管弦楽団でも同じ首都でも流石に質が月と鼈の違いである。バレンボイムの指揮はいつもの通りだが、これは全曲聞いてみなければいけないと思った。

ミュンヘンの「タンホイザー」の新たなヴィデオが公表された。「弓と矢」の象徴らしい。矢に射抜かれるのはいつもタンホイザーらしい。ハープと弓の関係は面白いが、個人的にはやはり矢の運動性だろうか?

ヴィーン版をフランス語で上演するのに対して、ミュンヘンではパリ版をドイツ語で上演するのだという様子なのだが、ベルリンのそれとはどのように異なるのかの方が関心事になって来た。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-15 23:53 | 文化一般 | Trackback

様々なお知らせが入る

戦後西ドイツを代表する音楽評論家ヨアヒム・カイザーが亡くなったようである ― アドルノやシュテュッケンシュミットはについては今ここには含めない。詳しくは改めるとして、確かにエッセイストとして文章は上手いが ― 吉田秀和よりはましかもしれないが ―、なぜか音楽評論というのは美学的に程度が低い。その理由は分からない。結局文章の上手さではなくて技術的に本質にまで迫れる才能が居ないからだろう。また再現芸術が評論の対象になってしまっているので創作の機微に中々触れることが出来ていないというのもあるかもしれない。

漸くミュンヘンからお便りが来た。「タンホイザー」新制作初日へのお知らせである。週末には先駆けのお披露目マティネーが開かれる。総稽古の準備が出来たということだ。先ずは版の説明があって、これはパリ版採用なのだが、それのドイツ語版としてのヴィーン版に準拠しながら、更に遺言に忠実に従うということだ。つまり1861年版をドイツ語化してゼンガークリークの場面のヴァルターの歌などが補正されるということなのか。新しい響きを生かしヴィーナスの丘の場面の強調とそれに見合った修正が採用されて、短縮されないということなのだろう。

それに演出家は金の円盤を象徴的に取り入れて、日の出などタンホイザーの覚醒の度に表れてくるようで、仏陀の後光のようなものらしい。正直成功するのかどうかは疑わしいが、フォイヤーバッハの肉欲からショーペンハウワーの救済へと根拠は充分に用意されている。言うなればそもそものロマンティッシェオパー題目自体がヴァークナーの最終的な創作意図に合わない。要するにドレスデンでの初演を終えた後の楽匠自身の変遷そのものである。

この週末に「タンホイザー」のお勉強を一通り終わらせないと時間が無くなる。場末のオペラ劇場モンテカルロからのネット中継録画を観始めた。最初の生中継の時はこれはどうしようもないと思ったが、なるほどユダヤ人女性指揮者の無理な指揮や歓楽地の管弦楽団にはうんざりしながらも、とても価値のある上演であるようにも感じだした。とても貴重な記録で誰も見る人がいなかったのか殆んど完璧に録画できたのが幸いだった。

SWR放送交響楽団からプログラムが届いていた。シュトッツガルトとは関係はなくもなかったがバーデンバーデンとのような関係にはなっていなかった。だからなぜ届いたか分からなかった。中を見るとなるほど仲間が指揮をしている。最近はメールも来ていなかったので分からないが、他の関係ではないと思う。中を見て面白いのは、新しいメムバー表で、先ずは横滑りして合弁した形になっていて、両放送交響楽団が合わさった形になって総勢170人以上のメムバーである。どのように削減していくのかは知らないが、何年かのうちに普通規模になるのだろう。恐らくドイツで現時点で一番大きい管弦楽団だろう。

亡くなったと言えば先日名クラリネット奏者エドアルド・ブルンナーの訃報があった。一時は最も有名なクラリネット奏者だったと思うが、そのレパートリーなどから個人的にはあまり興味がなかった。バーゼル生まれのスイス人で享年77歳あった。



参照:
老練の老齢なレトリック 2008-10-22 | 文化一般
時代の相対化のサウンド 2015-12-08 | 音
時間の無駄にならないように 2017-05-09 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-12 20:12 | 文化一般 | Trackback

時間の無駄にならないように

週末は天候が悪く、重い空気の中で汗を掻いた。相変わらず調子が出ない。毎年この時期は運動能力が落ちている。理由は分からない。

キーボードを発注した。25鍵盤のMIDI鍵盤である。二オクターヴで和音を鳴らすには充分だろう。従来使っていたROLANDのシンセサイザーにMIDI変換ケーブルで繋げるかどうかは分からないが、ブルーテュース仕様なのでUSB以外にも電池で電源を取っている。

ケーブルが無く、膝の上に乗せても音が出せるのは嬉しい。PCのソフトシンセサイザーを使ったことが無いので真面にハモるような音が出るのかどうかは分からない。それほど時間的なずれはないということなのでストレス無しに使えるのではなかろうか?なによりも紐付きではないので、必要な時だけ手元に引き寄せるような使い方に向いているのではなかろうか。

もう一つ良さそうなのがLINUXでも使えるということで、将来性もあるような気がした。

音楽のお勉強もこれで再び歌劇「タンホイザー」に戻ることになる。初日まで二週間を切ったが、まだ公式のお知らせが出てこない。産みの苦しみがあるのだろうか。

ハムブルクのエルブフィルハーモニーの来シーズンのカレンダーが発表された。結局昨シーズンと変わらず態々出かけるまでのものは、ニューヨークに飛ぶ前のキリル・ペトレンコ指揮のコンサートしかなかった。そしてそれも、忘れていたが、バーデン・バーデンでの舞台神聖劇「パルシファル」の初日が重なっている。あとは態々遠くまで出かける必要のあるそうなものは皆無だった。精々クリーヴランドの交響楽団演奏会ぐらいである。フランクフルトのアルテオパーのカレンダーを見ると殆んど同じようなもので、如何に非芸術的な興業こそが商売になるかということしか感じさせない。ケント・ナガノは盛んにコンサートを振る機会が与えられているようだが、座付き管弦楽団を幾ら振っても詮無いことである。

お陰で無駄な交通費も掛からない、動かないことで環境も守れるので助かる。なによりも時間が無い。年に三回ミュンヘンに出かけて、バーデンバーデンに数日出かけるだけでも、お勉強している時間が無い。なんら準備せずに出かけていたものの多くが忘却の彼方に行ってしまっていて、プログラムなどを発見しない限りすっかり忘れてしまっているものが多いのである。如何に無駄な時間と金を費やしたことだろうと反省するのである。

以前はそれにアルコールなどをオペラや音楽会前に引っ掛けていたものだから、まさに娯楽つまり時間の無駄でしかなかったのだ。そのような時間があるぐらいならば生産的ではなくとももっと快い時を過ごしたいものである。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
復活祭音楽祭の記録 2017-01-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-08 22:36 | 文化一般 | Trackback

感動したメーデーの女の影

メーデーの晩は、楽劇「影の無い女」を観た。手元にヴィデオは保存してあるので、折角のARD中継だからと、小さな画面を観乍ら録音だけをした。出だしの景と染物師バラックと嫁さんのいい場面を観ていて気が付いた。今まで観ているものとはカメラアングルが異なることに気が付いた。嫁さんの美しくないお尻を掴む場面で、そのあとにキリル・ペトレンコの指揮姿が映っていたのが、放送では綺麗な角度でそのまま舞台が映されていた。

調べてみると、ARD-Alfa放送のHPには12月1日の上演録画となっている。初日が2013年11月21日であるから、いつものように初日シリーズの最後の方で生中継録画されている ― 初日はラディオ放送があったのだろう。通常は劇場のネットストリーミングだけなのだが、このときは劇場再開50周年並びに音楽監督初新制作ということで通常のARDチャンネルで生放送されたようだ ― 残念ながらオペラなどには関心が無く、TVも観ないので全く記憶にない。つまり、今回放映されたのは、手元にあるフランスで生放映されたものとは、一部異なり、画像のみ編集されているのだろう。

音質は、最初の幕開けのPAを通った演出上の音は割れているが、今まで気が付かなかったようなプロムプターの声がひっきり無しに聞こえる位で、倍音成分も伸びていて、臨場感溢れてとても新鮮であった。だから今までのヴィデオに比して大分良好で、高音質録音した甲斐があった。個人的には劇場中継版で充分であり、演出作品を態々観ようとも思わないが、確かにカメラアングルがすっきりしていた。

今回改めて通してみて、歌手陣は2014年暮れの再演の時からすると初日シリーズは当然良い。そしてこの7月にも再演されるようだが、ティケットがまだ余っている ― 昨年「家庭交響曲」を学習してその影響が活かされる筈だ。少なくともコッホのバラックとパンクラトーヴァの嫁さん役だけでも間違いなく聴きものである。今回も名場面を観ているとこちらも感情が昂るほどの素晴らしい舞台である。そして先ごろ亡くなったボータの皇帝と乳母役のポランスキーが皇后を演じるピエチョンカを更に引き立てていて見事である。

こうして繰り返し観てもやはりペトレンコが「他のシュトラウスのオペラと比べて複雑で多面的で、見落とされがち」と語っている通りに、模倣の作曲家もここで「ばらの騎士」のエンターティメントから抜け出そうと戦っている。そして、7月のティケットが完売していないのにもみられるように、やはり多くの聴衆にとって難しい作品ということであろう ― 「モーゼとアロン」のイデオロギーでも無く、知的程度の高さでも無く、大地に根を張ったような文化やその教養が試されているからかもしれない。偶々予定があるので出かけられそうにないが、これだけ美しい音楽を三時間も楽しめるならば出来れば再訪したいと思う。音楽劇的にも全く古びておらず、内容的にとても新鮮だ。

それにしても久しぶりに三幕まで通して観て ― 三幕だけは天井桟敷の最前列で舞台が見たが、こうしてより新鮮な音質で聴いて、三年前のそれへの記憶が遠くなっているのに気が付いた。こうして良い音色で聞き返さないと感覚的に記憶を呼び起こされなということだろう。しかし視覚的には殆んど覚えていなかった。どうも初めてみる指揮ぶりばかりを眺めていたのに違いない。



参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-02 21:20 | 文化一般 | Trackback

美学的に難しい話し

引き続き寒気が居座っている。それどころか週の中半にかけてアルプス圏は大雪になるそうだ。ワイン街道に住んでいてよかったと思う。五月になろうかというのに冬タイヤが離せないなどとはシュヴァルツヴァルト周辺でも住みにくい。

だから、朝起きも辛く、ランニングの方もパンツを履いたままのジョギングペースから抜け出せない。胃腸の調子が完璧ではないのも寒さによる縮こまりが原因しているのだろう。暑いのは嫌だが、典型的な四月の天候でストレスが溜まっている。手足先なども冷えて、まだまだ靴下も必要だ。我慢して暖房を入れないとあとで頭痛がしている。

承前)週末に「タンホイザー」ドレスデン版を流した。そのEMI盤の演奏に関しては改めて付け加えることもなく、正直苦痛になるところも少なくはなかった。それでもその後の補筆やら死の直前まで気にしていた作曲家の逡巡のようなものをそのまま感じられたような気にさせるのである。もしかするとコンヴィチニー指揮のあの鈍いリズム感や演奏実践への配慮などが極一般的なドイツ音楽演奏環境の史実なのかもしれない ― 如何にフルトヴェングラー指揮の芸術が孤高だったかが分かり、本人がSWFで語っていた「指揮の才能があったから」が響き渡る。調べてみると、パリでの補筆で創作のロマンティックな不均衡なようなものに手入れされているようで、ベルリオーズが献呈された譜面に赤線を入れたり、また当時のシューマンの批評、更にどうしようもなかったメンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウスでの序曲演奏などに、「タンホイザー」の問題点が歴史的に傍証されている。

そもそもヴァークナーの初期中期のロマンティシェオパーに関心のない者にとって、「タンホイザー」が今ミュンヘンで上演される価値が分からなかったのだが、パリ版での楽劇「トリスタン」の直接的な音楽的影響以上に、ドレスデン版を扱うことで、そこへ向かう衝動のような流れがあからさまになるのではなかろうか?引き続き、パリ版とされるドミンゴがタンホイザーを歌っているシノポリ指揮の録音を聴いてみる。

版に関しても背後事情を調べると、かなり複雑でとても興味深い。これはどうも、先日探していたブライトコップ人民公社のハース版のミニチュアスコアがCD棚に見つかったブルックナー交響曲4番の版以上に、美学的に難しい話しのようだ。

ヴォルフガンク・ヴァークナー博士の書いたものによると、1985年にこの作品をバイロイトでリヴァイヴァルさせるにあたって、指揮者シノポリとドレスデン版を採用することに合意して、要するに1861年のパリ版の前の一幕冒頭のバレーを除いた1860年版を選択したということになるようだ ― 因みにコジマはバイロイト初演にあたって1875年のヴィーン版に1867年のミュンヘン版を混ぜたことになる。するとロンドンでのドミンゴが歌う1988年録音盤は1861年版採用ということになるのだろうか?(続く



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-04-24 19:18 | 文化一般 | Trackback

時間と共に熟成するとは?

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先日購入したブルゴーニュのサントネー2009年を開けた。色は思っていたよりも濃い目で、タンニンも効いていたが、時間と共に酸化して丸くなって来る。それでも土地柄か、ボーニュのように長持ちしそうなワインである。20ユーロ以下の価格帯からすれば、2009年のシュペートブルグンダーは最早入手困難なので、質的にはそれほどアドヴァンテージもなかったが、寝かしたものの購入価格として安かった。そもそもこの程度のワインにタンニンが効いていても八年ぐらいで熟成の結果はこの程度だ、初めから分かっている。

来月の新演出の練習風景写真などが出て来て焦りだした。あと一月を切った。この週末は1960年の「タンホイザー」全曲録音を聴いている。このように録音を楽譜に目をやりながら厳しい耳で聴くと、殆んどの場合は演奏上の問題しか聞こえてこない。今回もドレスデン版でなければシノポリ指揮のものなども聞いてみようかと思ったが、一方それも気の毒にも思った。

グリュムマーやホップなど名歌手を中心に若手のフィッシャーディースカウやヴンダーリッヒを採用した豪華キャストのEMI録音である。音響もベルリンの座付き管弦楽団の素晴らしい音響と思ってじっくり聞き始めた。そしてのっけから、高名な指揮者コンヴィチニーの鈍いリズム感に呆れた。こうしたオペラ指揮者にありがちに、歌うのがヴンダーリッヒやフィッシャーディースカウとなるとそれに合わせる形で管弦楽としっかりしたリズムを刻むことになる。そこで問題になっているのがグリュムマーで、持ち役のアーティキュレーションにも留意して音程もとっているのだが、充分に楽譜を読めていないものだから指揮者共々とても鈍い音楽になってしまっているからである。

先日のザルツブルクでのティーレマン指揮「ヴァルキューレ」でも、ハムブルクでのケントナガノ指揮「影の無い女」でも同じだが、こうした歌劇場の指揮者などは楽譜を読み込んで、それをしっかりと歌手に歌わせることが出来ないと音楽にならないのである。それをさせるためには管弦楽を完全に掌握していないと話しにならない。戦前は各々の役柄を数え切れないほど歌いこんだ歌手が存在して、それも作曲家の弟子などの薫陶を受けた歌手などがいたのだろう。そうした世界であったのだ、しかし現在のオペラ指揮者が経験を幾ら身に着けても楽譜が読み込めていなければ芸術的な質は一向に向上しない。先日も音楽家に「ミュンヘンに通っている」と話したときに、チューリッヒの歌劇場は何だけどバーゼルとなると出かける気がしないというのは当然だと思う。音楽に興味があると歌芝居劇場などには出かけられなくなるのは当然なのである。

新聞にラインガウの音楽祭のチラシが折り込みになっていた。中を見ると、レディデンスピアニストとしてイゴール・レヴィットの名があった。馴染みはないが、六月六日にミュンヘンからコンサートの生中継があり、今秋東京で繰り返す同じプログラムでラフマニノフを弾き、その前に台北でべートヴェンで共演するピアニストとして見た名前だ。勿論その名前からユダヤ系ロシア人で指揮者キリル・ペトレンコと同じなのであまり興味を抱かなかった。しかし調べてみると、劇場で働いていたピアニストの母親はハイリッヒ・ノイハウスの孫弟子だとある。そして何よりもフレデリック・レジェスキーの曲をCDアルバムに吹き込んでいる。それどころか他のコンサートは売り切れていても、何と作曲家とのデュオコンサ-トは売れ残っていた。このポーランド系ユダヤ人の作曲家とは間接的な付き合いもあり、これはどうしても聞き逃せないと思ってティケットを予約した。正直どの程度のピアニストなのかは分からないが、そのレパートリーなどを見ると、前回ペトレンコ指揮管弦楽団と共演したカナダのアムラン並みに期待できるのかもしれない。



参照:
腰が痛くて熟睡できず 2017-01-07 | 生活
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
石灰が効いた引き分け試合 2014-08-10 | ワイン
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-04-23 19:38 | 文化一般 | Trackback

入場者二万五千人、占有率93%

バーデンバーデンとザルツブルクでの復活祭が終わり、各々がその成果が発表されている。先ず前者は25000人の入場者を迎え占有率93%、後者は24000人、95.5%と、どうしても二者が比較される。後者の会員とその歴史から比較すれば、五年目の前者が健闘していることも分かる。後者の大ホールが2179席に対して前者が2500席である。来年は、今度は前者が「パルシファル」で、後者が「トスカ」となるので、その占有率の差が縮まるのだろう。

今年前者で公演された「トスカ」のヴィデオを観た。恐らく、初日などよりも質は高くなっているようだが、基本的な批判点はこの公演でも変わらない。演出や歌手に関しては批評を超えてそれに付け加えることはそれほどないが、演出に関してはバーデンバーデンでの公演の質を体現しているようでこれまた具合が悪い。ベルリンとの協議のやり方は分からないのだが、現監督のオペラ界での人脈から考えるとこの程度のものしかできないのも理解できる。これも次期監督に期待が集まるところで、少なくとも歌手に関してはレヴィン事務所が出て来るので全く質が変わるだろう。しかし最大の問題点は、現監督のオペラ指揮やその在り方で、これは今更なんだかんだ批判してもはじまらない。それがプッチーニとなると、より歌手を充分に歌わせることが出来ないとなると、たとえ立派な管弦楽を清潔にコントロールしてもはじまらないのである ― 改めて次期監督が2011年にフランクフルトで同曲公演の音を聞くと、下手さが目立つ管弦楽であってもその歌の運びなど、プッチーニの演奏に関してもこの二人のオペラ公演での実力における雲泥の差が際立つ。来年は、「五年間の功労に盛大なお別れ公演」として「パルシファル」が公演されるが、演出にも金を欠けるようだから、ある程度は期待できる。何よりも音楽的にも通常のオペラ指揮者にとっても難物なので、ある程度はアドヴァンテージを付加できるのではなかろうか?

ハムブルクでのリヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」新制作への新聞批評が載っている。これまたフランクフルトの「トスカ」と同じくアンドレアス・クリンゲンブルク演出らしいが、ケント・ナガノ指揮の管弦楽団が賞賛されている。あの楽劇で管弦楽団が主役になるというのはやはり問題が大きいかもしれない。以前のフォン・ドホナーニ指揮の演奏でもそれほど目立つことはなかったので、やはりナガノは交響楽的に鳴らしていることは障りを聞いても分かる。同時に最初期から変わらぬように鳴らし過ぎという批判もあるがそれなのになぜか交響楽団ではもう一つ成功していないのが、如何にもオペラ指揮者らしいところだろうか。一流二流とか様々あっても、ティーレマンなどの指揮者にも通じるものがある。

先日公演のあったキリル・ペトレンコ指揮で父親がコンサートマイスターを務めていたフォアアールベルクの交響楽団の演奏会がラディオで聞けるようだ。それもブレゲンツの会場からではなく、モンタフォンの会場の録音が、月末30日日曜日と翌週に分けて放送されるようで、今秋都民劇場で座付き管弦楽団で演奏されるマーラーの交響曲五番とマーラーの歌曲である。ローカル番組の枠組みなので一回のコンサートが二回に分けられるのは、まるで嘗て大阪のABCが大フィルの演奏会をAMで放送していた時のようである。



参照:
REICHLICH ÜBERFRACHTET (BR-KLASSIK)
Ein Klangmagier, der sein Wort hält (Vorarlberger Nachrichten)
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-04-20 21:42 | 文化一般 | Trackback

需要供給が定めるその価値

早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-04-18 21:33 | 文化一般 | Trackback

明るく昇っていく太陽

先週も三回走った。最後の峠攻めはゆっくり上がった分早く下りれて33分28秒で帳尻を合わせた。このところの不調は四旬節の食事が絶食まではいかなくても肉食が普段より減っているのでもう一つ意気が上がらなかったこともあるのかと思う。菜食でも先日のクライミングのパートナーでありツアースキーのリーダーのように二メートルの巨漢の元気な人がいるが、どうも私の場合は血圧が上がるようでなければ駄目なようだ。

失われたとされていた楽譜が確認されたという。グスタフ・マーラー作曲「亡き子を偲ぶ歌」のピアノ版で、管弦楽版として知られているものだ。「今しがた、太陽が明るく昇っていく」という第一曲で、残りの四曲とは異なって、ピアノ版が失われていたものである。道理でフィッシャーディースカウの全集に含まれていない訳だ。当時のアルマと作曲家が通っていたヴィーンの音楽サロンを催していたコンラート家の娘さんがミュンヘンへと移ったことで、見つかった楽譜もその時に搬送されたとされる。そのノートから、1901年から1904年に作曲されたこの第三曲、第四曲と同時期の作曲とされる ― 第六交響曲に関連して、アルマによって縁起でもないと言われていたリュッケルト詩に付けた曲集である。

承前)三月のペトレンコ指揮のコンサートをベルリンで体験して、それを称して「猛獣ショー」と書いている東京の人がいるようだ。その旨はなんとなく分かる。つまり、ベルリンのフィルハーモニカ―に戦後付き纏っていた高度成長からのイメージが被るからである ― 当時は合衆国のビッグファイヴもレニングラードもどこも同じようなものだった。そこの入団試験を受けたかどうかは知らないが、現在ミラノのスカラ座で弾いている二代目の団員がフィルハーモニカ―を称して語ったことを思い起こさせた。つまり彼に言わせると「そのアンサムブルの在り方や雰囲気が特殊で」と、所謂我々がイメージする戦後の西ドイツのあの雰囲気がアバド時代でもあまり変わらないとした見解であった。どこの交響楽団も、座付き管弦楽団とは当然異なるが、所謂ドイツの合理主義的なものに、これまた根源的な闘争心のようなものが加味された雰囲気である。そうした雰囲気が先入観念を形成しているのだろう。

しかし現実には、先日のバーデン・バーデンでも「冷たい音楽」と評されていることに関してその仲間の音楽家に話すと、モーツァルトの演奏のあとで即座に「楽員は充分に温まっている」と反応があったぐらいである。つまり誰が見ても分かるように、それどころかベルリン初日には緊張した楽員が上手く乗れなかったことを評して「とても人間的だ」という批評もあった位で、思い込みと現実の間には大きな隔たりがある。

芸術的な見解としては、先日のインタヴューで「音楽することと楽曲演奏実践の関係が議論」となっていた訳だが、現監督のそして同時にフィルハーモニカ―の弱点としてもこの問題が立ち覇だかっていて、前者の責任としては正しいテムポを絶えず与えたとしても、それを状況に合わせて、更に音楽作りをしていくということに関してつまり恐らく指揮のテクニックであり、その音楽的才能に弱みがあるということになるのだろう。この問題は、この指揮者のデビュー当時から我々のような熱心なファンは分かっていたのであり、それは将来とも変わら無いと指摘されていた。それでも演奏実践の完成度やそのプログラミングなどを含めて彼以上の才能が居なかったのも事実であろう。そこで、まさしくそこが自由自在の次期監督が選出された訳で ― 一例としてバイロイトでの楽劇「ジークフリート」当該箇所での歌いこみを挙げれば充分である ―、その棒に付いていくことが求婚した側として至上命令なのである。それによって、戦前戦中を引き摺る反作用としての戦後のクールなイメージから抜け出て、例えばフルトヴェングラー時代以前の恐らくニキシュ時代の新生交響楽団の一夜一夜完結するイヴェントであるようなコンサートが出来るようにという目標が設定される ― 例えばペトレンコ指揮コンサートのプログラムは、古典的なプログラム構成で、休憩前に協奏曲などを入れて、力の入れ加減を調整していて、演奏上の注意力などが失せないようになっている。それだけに120%も求められる高い目標が設定されている。「猛獣ショー」とは勿論カラヤンサーカスから観念連想する言葉であるが、実際には甚だしく的外れな言葉であろうことは、この事情からまたその目指すものからも明白であろう。



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by pfaelzerwein | 2017-04-17 22:19 | 文化一般 | Trackback