カテゴリ:文化一般( 244 )

表現主義の庭の歪な男たち

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承前)エミール・ノルデ展で油絵も幾つか面白いものがあった。その一つが北海に浮かぶジルトの対岸にあるゼーブルに1926年に購入した自宅の庭を描いた絵である。そこに現在の財団の本拠地でありエミール・ノルデ美術館があるようだ。

何よりも興味を持ったのは、所謂表現主義の反対概念でもある印象派的な画法で散りばめられた庭の花であり、その奥にはニムフのような女性が立っていて、前面で歪な男たちが語らっている絵面である。

そもそも言葉自体のEXPRESSIONとIMPRESSIONの対比とその画風の相違を観て、音楽における表現を考えることも少なくない。大まかなところでは、リヒャルト・ヴァークナーのドビュシーへの影響とか、ロシアの近代作曲家に於ける美術で言うディ・ブリュッケからデア・ブラウエライターへの流れ、遡ればユーゲント・シュティールとアントン・ブルックナーなど語りつくせないほどの材料がある。

しかし、ここでは何といっても、その二つが取り合わされたような画法が使われていて、恐らくこのノルデの特徴のようで、評論家からは配合を勧められてもより強い対照を主張したという。要するにそこにどうしても次元の乖離が生じて、そのグロテスクさが強調されている。

面白いのは、この画家の作品はゲッベルス博士の食堂に掲げられていたというが、ヒットラーがやって来る時には外されていて ― そもそもドイツ表現主義は反フランス印象主義の民族主義であって、ノルデも二度もナチの党員になっている ―、また所謂退廃芸術として認定されてからもダダイズムのグループらによって密かに買われていたということだろうか。なるほど、絵はキルヒナーの方が上手くて異常に高価に売買されているのかもしれないが、ダダイズム運動などが出てくると、そうなのかと思う。(続く)



参照:
百年後の現在の社会の構造 2015-06-04 | 音
市中で鬩ぐ美術品 2006-08-29 | 文化一般
即物的な解釈の表現 2006-03-23 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-30 23:23 | 文化一般 | Trackback

デフォルメされた秀峰の数々

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エミール・ノルデの美術展に出かけた。「グロテスクの数々」と題したヴィースバーデンでの展である。美術館に出かけるのは記憶する限り残念ながら2008年「クラナッハ」以来で十年ぶりかも知れない。今回出かけたのは、いつものように新聞に記事が載っていたからだが、その見出し写真の「マッターホルンが笑う」を見て、記事は兎も角、新たな関心が芽生えたからである。

その自費で製作して金銭収入にしようとしたという絵葉書シリーズから観た。1895年のアルプス登山から、一連のデフォルメされたヴァリスから東部アルプスまでの秀峰が描かれている。当然のことながら、後年のクレーへの影響などは無視できないまでも、同時にこの展のグロテスクと同時に次の時期に突き進むファンタジーの世界そして表現主義へとの繋がりが興味尽きない。

ファンタジー集として集められた黄色と黒の昔話シリーズなどは絵本などでも慣れ親しみのある挿絵のようなものだが、これも表現主義との関連だけでなく、その後の所謂ウェットインウェットという水彩画法つまり絵具を水で流すような方法と固着での作法との関連でも興味深い。

出展数絵画30展、その他80展で、朝一番に入場して待ち合わせの13時前までじっくり見て回り必要な写真も撮ったので、詳しくは改めて纏めたい。

折からの美術館工事で駐車などもう一つ不便に感じたが、朝一番では二三組の入場者しかなく、昼頃になっても無人の部屋で写真等も写せた。日曜日は込んで避けたいと思っていたが、この程度の入場者であればほとんど問題なかったであろう。

エミール・ノルデの作品は、バーデン・バーデンのフリーダー・ブルマ美術館にも常設展示されているということなので ― そこでは2013年の特別展に80展が紹介されて絵画数は多かったようだ、何れ訪問したいと思っているが、今回の展示会である程度その作風を一望できたと感じられた。その点今回は、寧ろ絵葉書など初公開の作品などに関心が向かった。因みにノルデ展がパリで最初に開かれたのは、2008年10月のごく最近のことだった。(続く



参照:
お手本としてのメディア 2008-01-20 | 雑感
情報巡廻で歴史化不覚 2008-10-27 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2017-05-28 22:50 | 文化一般 | Trackback

とても峻別し難いロマン派歌劇

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ミュンヘンの新制作「タンホイザー」二日目を体験した。今後まだ四回の公演があり、最後のオペラフェスでのものは野外中継且つネット中継されるので、また初日の録音等が存在するので、演出面を加えて音楽面では初日との差異などを中心に先ずはメモ代わりに書き留めておこう。しかし、この作品の本質若しくはヴァークナーにおけるこの創作の意味合い否ドイツェロマンティックにおけるこの創作の意味合いについては触れざるを得ない。

演出面を加えてと書いたが、音楽面とこれを峻別するのは難しい。それは、声楽と奈落にある管弦楽を峻別するのにも似ている。今回の立見席は視覚的には悪くはなかったが、音響的には決して良くはなかった。だから序曲から、その演奏の細かなところも十二分には聞き分け難く、そのテムポも初日よりも遅く感じた。そのような控えめな座付き管弦楽の響きを耳にすると同時に、おっぱい丸出しのバレー団が次から次へと登場するので、我々のような百銭練磨の強者でも、折角の音楽に心が中々回らない。

この演出を観ていると、バイロイトの音楽を邪魔にすると言われたカストロフ演出を思い出さずにはいられなかった。しかしそれに比べると情報量は少ないので、批評にもあったように目を瞑っておけばよいかと言えば、なかなかそうはいかない。何といってもエロスである。

そうこうすると今度はまた誰もが触れなければいられないエレーナ・パントラコーヴァが歌うヴィーヌスの丘の場面で、中々難しい歌を歌うのだが、それ以上に奈落の弦と木管の掛け合いなどが驚くべきバランスで吹いているのを聞いて、初日の放送事故の中継では聞こえていなかったものを確認する。そしてラディオでこそ聞けなかったのは、舞台裏のブラスバンドであり、当然ながらのその位置感でありその音響効果なのだが、愈々巡礼での合唱でのそれは圧倒的で、ここにきて漸く管弦楽団がそれ相応の大きさであり、ロマンティシェオパーとしてのバランスが示されているのを認識する ― 正直そこまではNHKホールの方が綺麗に鳴るのかもしれないが、東京では一幕後に高額席を捨てて立ち去る人も出るのではないかと思ったぐらいである。

しかし、この公演はそれだけでは到底済まなかった。つまり二幕になると管弦楽を抑えた効果が明白になってきて、二場のヴォルフラムの「静かに」の指定のある叙唱の効果などまるで彼のストラ―ラー演出の紗の中で演じられる「シモンボッカネグラ」を思い起こさせる遠近効果が甚だしかった。勿論そのスーパーオパーの歌唱技術が際立つということでもある ― FAZなどではリーダー風に口を開けずと揶揄されている。 

そしてゼンガークリークの場面から二幕のフィナーレへと進むのだが、そこだけについて言及するだけで、論文を二つ三つ書くに充分なほどの内容が示されていた。それは圧巻だった。(続く



参照:
昇天祭のミュンヘン行 2017-05-26 | 暦
先ずは週末までを準備する 2017-05-25 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-05-26 21:42 | 文化一般 | Trackback

異次元の大ヴィーナス像

承前)少し興奮状態で朝起きした。夕刻の初日の総稽古風景を観たからである。快晴になって横になってはいられない。早くから出かけるとパン屋がまだ開いていなかったのでその前に一汗かいた。まだまだ「タンホイザー」は頭に入っていないが、自身にとっても作品にとっても殆んど初演のようなものであることは、幾つもの演奏の録音を聴いていて分かっている。なぜこの作品の演奏が難しいのか、それともあの頃のヴァークナーの創作の問題なのかはよく分からない。恐らく、バレンボイム指揮の演奏のようにオペラ業界の伝統や慣例の中で上手にお茶を濁しておいた、つまり作品自体が作曲家の最後までの心残りであったことに関係しているのだろう。

ミュンヘンの新演出タンホイザー初日である。バイエルン放送で放送された総稽古の様子を観る。キリル・ペトレンコ指揮の演奏が次元が違うことは何時もの通りであるが、演出も次元が違っているようだ。但し成功するのかどうかは分からない。

ヴィーヌスをパンクラトーヴァが歌うという意味を知った。なるほど考えてみればヴィーナスは美しい女性でなければいけない。だからおばさんが「(今後ともお呼びがかからない)興味がない役柄」ということなのか?兎に角、肉襦袢を着ないでも充分だと思うのだが、「今までのタンホイザーとは次元が違う」ことは間違いないと保証してくれている。それにしてもおばさんのヴァリコフスキー演出「影の無い女」のバラックの妻の歌唱を思い起こせば、今回も立派な歌を演技を披露してくれるだろう、正しく体当たりの「大歌手」である。

それにしても自らフィッシャーディースカウの亜流というゲルハーエルのインタヴューを聞くと、結構面倒なことを語っている。エリザベートのハルテロスなど豪華キャスティングなのだが、どれもこれも一言ありそうな歌手陣で、指揮者は余程ずば抜けた力量が無いと纏まらないことは明らかだ。正しく、現在のミュンヘンの歌劇場でスーパーオパーが上演されている所以だ。いずれにしても、「影の無い女」の演出同様、そこで救済などされなくても、昨日から今日、今日から明日への時の流れがそこに河のように流れ続けているという感覚は共通しているようだ。

午前中にあるバイエルン放送交響楽団の番組の中で先ほど亡くなった指揮者スクロヴァチェスキー指揮のブルックナー交響曲二番が放送される。あのハ短調の響きが魅力的な曲であり,中々名録音が無いので夕刻の予行練習として録音してみようかと思う。(続く



参照:
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-21 19:51 | 文化一般 | Trackback

1861年版のドイツ語上演とは

承前)週末はやくざな上演モンテカルロからの録画「タンホイザー」で腹立たしい思いをした。結局三幕まで通して観て、楽譜に目を奪われていて観ていない演出動画は美しそうだが、短縮のヴィーン版というものをフランス語で上演したものと理解した。ヴィーン版とやらを改めて調べないでも良さそうで、そこで上演されているように折角新たなに筆入れした音楽があっても、あのような上演形態と質ならばほとんど何も効果を上げていないことも確認した。寧ろその管弦楽の演奏からバランスが悪いような思いは強く、なるほど死の直前、ヴァ―クナーがコジマに「この世に借りを残したままだ」と気にしていた理由も分かる。あれほどの楽匠でも長い期間をおいての古い作風への筆入れが面倒な課題だったことがよく分かる。

それにしてもあれだけの綺麗な舞台を制作していて、態々ヴィーン版をフランス語上演しなければいけなかった理由は納得できないのだが、最終的には音楽的な趣味の悪さということになるのだろうか。ストッツマンという女性指揮者は歌手として成功していて小澤指揮で最近までアルトで歌っている映像があるが、そのような清潔な音楽が出来るような指揮ではなかった。管弦楽団だけでなくて指揮者にも責任があるのは間違い無さそうで、拍節がはっきりしないでも完全にアンサンブルが崩壊してしまわないのが見事である。それはタンホイザーを歌うホセ・クーラの歌唱も指揮者の責任だけではないのは明らかだった ― 昨年のザルツブルク復活祭で「何を歌っているのか皆目分かっていない」と非難された歌の伴奏がティーレマン指揮だったのも偶然ではなかった。

小節を利かした歌唱をも包み込んでしまうような拍節が無くなるような音楽運びが、所謂「オペラ指揮の妙技」というものなのだろう。このような塩梅だから音楽愛好家はオペラ劇場などというものには足を運べなくなるのである。タイトルロールがマグロのように横たわっているのを見ると村芝居にもなっていない。

うんざりしてそうこうしているうちに、ベルリンでの1861年版らしき上演のヴィデオが見つかった。序曲から流してみたが、流石に座付き管弦楽団でも同じ首都でも流石に質が月と鼈の違いである。バレンボイムの指揮はいつもの通りだが、これは全曲聞いてみなければいけないと思った。

ミュンヘンの「タンホイザー」の新たなヴィデオが公表された。「弓と矢」の象徴らしい。矢に射抜かれるのはいつもタンホイザーらしい。ハープと弓の関係は面白いが、個人的にはやはり矢の運動性だろうか?

ヴィーン版をフランス語で上演するのに対して、ミュンヘンではパリ版をドイツ語で上演するのだという様子なのだが、ベルリンのそれとはどのように異なるのかの方が関心事になって来た。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-15 23:53 | 文化一般 | Trackback

様々なお知らせが入る

戦後西ドイツを代表する音楽評論家ヨアヒム・カイザーが亡くなったようである ― アドルノやシュテュッケンシュミットはについては今ここには含めない。詳しくは改めるとして、確かにエッセイストとして文章は上手いが ― 吉田秀和よりはましかもしれないが ―、なぜか音楽評論というのは美学的に程度が低い。その理由は分からない。結局文章の上手さではなくて技術的に本質にまで迫れる才能が居ないからだろう。また再現芸術が評論の対象になってしまっているので創作の機微に中々触れることが出来ていないというのもあるかもしれない。

漸くミュンヘンからお便りが来た。「タンホイザー」新制作初日へのお知らせである。週末には先駆けのお披露目マティネーが開かれる。総稽古の準備が出来たということだ。先ずは版の説明があって、これはパリ版採用なのだが、それのドイツ語版としてのヴィーン版に準拠しながら、更に遺言に忠実に従うということだ。つまり1861年版をドイツ語化してゼンガークリークの場面のヴァルターの歌などが補正されるということなのか。新しい響きを生かしヴィーナスの丘の場面の強調とそれに見合った修正が採用されて、短縮されないということなのだろう。

それに演出家は金の円盤を象徴的に取り入れて、日の出などタンホイザーの覚醒の度に表れてくるようで、仏陀の後光のようなものらしい。正直成功するのかどうかは疑わしいが、フォイヤーバッハの肉欲からショーペンハウワーの救済へと根拠は充分に用意されている。言うなればそもそものロマンティッシェオパー題目自体がヴァークナーの最終的な創作意図に合わない。要するにドレスデンでの初演を終えた後の楽匠自身の変遷そのものである。

この週末に「タンホイザー」のお勉強を一通り終わらせないと時間が無くなる。場末のオペラ劇場モンテカルロからのネット中継録画を観始めた。最初の生中継の時はこれはどうしようもないと思ったが、なるほどユダヤ人女性指揮者の無理な指揮や歓楽地の管弦楽団にはうんざりしながらも、とても価値のある上演であるようにも感じだした。とても貴重な記録で誰も見る人がいなかったのか殆んど完璧に録画できたのが幸いだった。

SWR放送交響楽団からプログラムが届いていた。シュトッツガルトとは関係はなくもなかったがバーデンバーデンとのような関係にはなっていなかった。だからなぜ届いたか分からなかった。中を見るとなるほど仲間が指揮をしている。最近はメールも来ていなかったので分からないが、他の関係ではないと思う。中を見て面白いのは、新しいメムバー表で、先ずは横滑りして合弁した形になっていて、両放送交響楽団が合わさった形になって総勢170人以上のメムバーである。どのように削減していくのかは知らないが、何年かのうちに普通規模になるのだろう。恐らくドイツで現時点で一番大きい管弦楽団だろう。

亡くなったと言えば先日名クラリネット奏者エドアルド・ブルンナーの訃報があった。一時は最も有名なクラリネット奏者だったと思うが、そのレパートリーなどから個人的にはあまり興味がなかった。バーゼル生まれのスイス人で享年77歳あった。



参照:
老練の老齢なレトリック 2008-10-22 | 文化一般
時代の相対化のサウンド 2015-12-08 | 音
時間の無駄にならないように 2017-05-09 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-12 20:12 | 文化一般 | Trackback

時間の無駄にならないように

週末は天候が悪く、重い空気の中で汗を掻いた。相変わらず調子が出ない。毎年この時期は運動能力が落ちている。理由は分からない。

キーボードを発注した。25鍵盤のMIDI鍵盤である。二オクターヴで和音を鳴らすには充分だろう。従来使っていたROLANDのシンセサイザーにMIDI変換ケーブルで繋げるかどうかは分からないが、ブルーテュース仕様なのでUSB以外にも電池で電源を取っている。

ケーブルが無く、膝の上に乗せても音が出せるのは嬉しい。PCのソフトシンセサイザーを使ったことが無いので真面にハモるような音が出るのかどうかは分からない。それほど時間的なずれはないということなのでストレス無しに使えるのではなかろうか?なによりも紐付きではないので、必要な時だけ手元に引き寄せるような使い方に向いているのではなかろうか。

もう一つ良さそうなのがLINUXでも使えるということで、将来性もあるような気がした。

音楽のお勉強もこれで再び歌劇「タンホイザー」に戻ることになる。初日まで二週間を切ったが、まだ公式のお知らせが出てこない。産みの苦しみがあるのだろうか。

ハムブルクのエルブフィルハーモニーの来シーズンのカレンダーが発表された。結局昨シーズンと変わらず態々出かけるまでのものは、ニューヨークに飛ぶ前のキリル・ペトレンコ指揮のコンサートしかなかった。そしてそれも、忘れていたが、バーデン・バーデンでの舞台神聖劇「パルシファル」の初日が重なっている。あとは態々遠くまで出かける必要のあるそうなものは皆無だった。精々クリーヴランドの交響楽団演奏会ぐらいである。フランクフルトのアルテオパーのカレンダーを見ると殆んど同じようなもので、如何に非芸術的な興業こそが商売になるかということしか感じさせない。ケント・ナガノは盛んにコンサートを振る機会が与えられているようだが、座付き管弦楽団を幾ら振っても詮無いことである。

お陰で無駄な交通費も掛からない、動かないことで環境も守れるので助かる。なによりも時間が無い。年に三回ミュンヘンに出かけて、バーデンバーデンに数日出かけるだけでも、お勉強している時間が無い。なんら準備せずに出かけていたものの多くが忘却の彼方に行ってしまっていて、プログラムなどを発見しない限りすっかり忘れてしまっているものが多いのである。如何に無駄な時間と金を費やしたことだろうと反省するのである。

以前はそれにアルコールなどをオペラや音楽会前に引っ掛けていたものだから、まさに娯楽つまり時間の無駄でしかなかったのだ。そのような時間があるぐらいならば生産的ではなくとももっと快い時を過ごしたいものである。



参照:
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
復活祭音楽祭の記録 2017-01-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-08 22:36 | 文化一般 | Trackback

感動したメーデーの女の影

メーデーの晩は、楽劇「影の無い女」を観た。手元にヴィデオは保存してあるので、折角のARD中継だからと、小さな画面を観乍ら録音だけをした。出だしの景と染物師バラックと嫁さんのいい場面を観ていて気が付いた。今まで観ているものとはカメラアングルが異なることに気が付いた。嫁さんの美しくないお尻を掴む場面で、そのあとにキリル・ペトレンコの指揮姿が映っていたのが、放送では綺麗な角度でそのまま舞台が映されていた。

調べてみると、ARD-Alfa放送のHPには12月1日の上演録画となっている。初日が2013年11月21日であるから、いつものように初日シリーズの最後の方で生中継録画されている ― 初日はラディオ放送があったのだろう。通常は劇場のネットストリーミングだけなのだが、このときは劇場再開50周年並びに音楽監督初新制作ということで通常のARDチャンネルで生放送されたようだ ― 残念ながらオペラなどには関心が無く、TVも観ないので全く記憶にない。つまり、今回放映されたのは、手元にあるフランスで生放映されたものとは、一部異なり、画像のみ編集されているのだろう。

音質は、最初の幕開けのPAを通った演出上の音は割れているが、今まで気が付かなかったようなプロムプターの声がひっきり無しに聞こえる位で、倍音成分も伸びていて、臨場感溢れてとても新鮮であった。だから今までのヴィデオに比して大分良好で、高音質録音した甲斐があった。個人的には劇場中継版で充分であり、演出作品を態々観ようとも思わないが、確かにカメラアングルがすっきりしていた。

今回改めて通してみて、歌手陣は2014年暮れの再演の時からすると初日シリーズは当然良い。そしてこの7月にも再演されるようだが、ティケットがまだ余っている ― 昨年「家庭交響曲」を学習してその影響が活かされる筈だ。少なくともコッホのバラックとパンクラトーヴァの嫁さん役だけでも間違いなく聴きものである。今回も名場面を観ているとこちらも感情が昂るほどの素晴らしい舞台である。そして先ごろ亡くなったボータの皇帝と乳母役のポランスキーが皇后を演じるピエチョンカを更に引き立てていて見事である。

こうして繰り返し観てもやはりペトレンコが「他のシュトラウスのオペラと比べて複雑で多面的で、見落とされがち」と語っている通りに、模倣の作曲家もここで「ばらの騎士」のエンターティメントから抜け出そうと戦っている。そして、7月のティケットが完売していないのにもみられるように、やはり多くの聴衆にとって難しい作品ということであろう ― 「モーゼとアロン」のイデオロギーでも無く、知的程度の高さでも無く、大地に根を張ったような文化やその教養が試されているからかもしれない。偶々予定があるので出かけられそうにないが、これだけ美しい音楽を三時間も楽しめるならば出来れば再訪したいと思う。音楽劇的にも全く古びておらず、内容的にとても新鮮だ。

それにしても久しぶりに三幕まで通して観て ― 三幕だけは天井桟敷の最前列で舞台が見たが、こうしてより新鮮な音質で聴いて、三年前のそれへの記憶が遠くなっているのに気が付いた。こうして良い音色で聞き返さないと感覚的に記憶を呼び起こされなということだろう。しかし視覚的には殆んど覚えていなかった。どうも初めてみる指揮ぶりばかりを眺めていたのに違いない。



参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-02 21:20 | 文化一般 | Trackback

美学的に難しい話し

引き続き寒気が居座っている。それどころか週の中半にかけてアルプス圏は大雪になるそうだ。ワイン街道に住んでいてよかったと思う。五月になろうかというのに冬タイヤが離せないなどとはシュヴァルツヴァルト周辺でも住みにくい。

だから、朝起きも辛く、ランニングの方もパンツを履いたままのジョギングペースから抜け出せない。胃腸の調子が完璧ではないのも寒さによる縮こまりが原因しているのだろう。暑いのは嫌だが、典型的な四月の天候でストレスが溜まっている。手足先なども冷えて、まだまだ靴下も必要だ。我慢して暖房を入れないとあとで頭痛がしている。

承前)週末に「タンホイザー」ドレスデン版を流した。そのEMI盤の演奏に関しては改めて付け加えることもなく、正直苦痛になるところも少なくはなかった。それでもその後の補筆やら死の直前まで気にしていた作曲家の逡巡のようなものをそのまま感じられたような気にさせるのである。もしかするとコンヴィチニー指揮のあの鈍いリズム感や演奏実践への配慮などが極一般的なドイツ音楽演奏環境の史実なのかもしれない ― 如何にフルトヴェングラー指揮の芸術が孤高だったかが分かり、本人がSWFで語っていた「指揮の才能があったから」が響き渡る。調べてみると、パリでの補筆で創作のロマンティックな不均衡なようなものに手入れされているようで、ベルリオーズが献呈された譜面に赤線を入れたり、また当時のシューマンの批評、更にどうしようもなかったメンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウスでの序曲演奏などに、「タンホイザー」の問題点が歴史的に傍証されている。

そもそもヴァークナーの初期中期のロマンティシェオパーに関心のない者にとって、「タンホイザー」が今ミュンヘンで上演される価値が分からなかったのだが、パリ版での楽劇「トリスタン」の直接的な音楽的影響以上に、ドレスデン版を扱うことで、そこへ向かう衝動のような流れがあからさまになるのではなかろうか?引き続き、パリ版とされるドミンゴがタンホイザーを歌っているシノポリ指揮の録音を聴いてみる。

版に関しても背後事情を調べると、かなり複雑でとても興味深い。これはどうも、先日探していたブライトコップ人民公社のハース版のミニチュアスコアがCD棚に見つかったブルックナー交響曲4番の版以上に、美学的に難しい話しのようだ。

ヴォルフガンク・ヴァークナー博士の書いたものによると、1985年にこの作品をバイロイトでリヴァイヴァルさせるにあたって、指揮者シノポリとドレスデン版を採用することに合意して、要するに1861年のパリ版の前の一幕冒頭のバレーを除いた1860年版を選択したということになるようだ ― 因みにコジマはバイロイト初演にあたって1875年のヴィーン版に1867年のミュンヘン版を混ぜたことになる。するとロンドンでのドミンゴが歌う1988年録音盤は1861年版採用ということになるのだろうか?(続く



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-04-24 19:18 | 文化一般 | Trackback

時間と共に熟成するとは?

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先日購入したブルゴーニュのサントネー2009年を開けた。色は思っていたよりも濃い目で、タンニンも効いていたが、時間と共に酸化して丸くなって来る。それでも土地柄か、ボーニュのように長持ちしそうなワインである。20ユーロ以下の価格帯からすれば、2009年のシュペートブルグンダーは最早入手困難なので、質的にはそれほどアドヴァンテージもなかったが、寝かしたものの購入価格として安かった。そもそもこの程度のワインにタンニンが効いていても八年ぐらいで熟成の結果はこの程度だ、初めから分かっている。

来月の新演出の練習風景写真などが出て来て焦りだした。あと一月を切った。この週末は1960年の「タンホイザー」全曲録音を聴いている。このように録音を楽譜に目をやりながら厳しい耳で聴くと、殆んどの場合は演奏上の問題しか聞こえてこない。今回もドレスデン版でなければシノポリ指揮のものなども聞いてみようかと思ったが、一方それも気の毒にも思った。

グリュムマーやホップなど名歌手を中心に若手のフィッシャーディースカウやヴンダーリッヒを採用した豪華キャストのEMI録音である。音響もベルリンの座付き管弦楽団の素晴らしい音響と思ってじっくり聞き始めた。そしてのっけから、高名な指揮者コンヴィチニーの鈍いリズム感に呆れた。こうしたオペラ指揮者にありがちに、歌うのがヴンダーリッヒやフィッシャーディースカウとなるとそれに合わせる形で管弦楽としっかりしたリズムを刻むことになる。そこで問題になっているのがグリュムマーで、持ち役のアーティキュレーションにも留意して音程もとっているのだが、充分に楽譜を読めていないものだから指揮者共々とても鈍い音楽になってしまっているからである。

先日のザルツブルクでのティーレマン指揮「ヴァルキューレ」でも、ハムブルクでのケントナガノ指揮「影の無い女」でも同じだが、こうした歌劇場の指揮者などは楽譜を読み込んで、それをしっかりと歌手に歌わせることが出来ないと音楽にならないのである。それをさせるためには管弦楽を完全に掌握していないと話しにならない。戦前は各々の役柄を数え切れないほど歌いこんだ歌手が存在して、それも作曲家の弟子などの薫陶を受けた歌手などがいたのだろう。そうした世界であったのだ、しかし現在のオペラ指揮者が経験を幾ら身に着けても楽譜が読み込めていなければ芸術的な質は一向に向上しない。先日も音楽家に「ミュンヘンに通っている」と話したときに、チューリッヒの歌劇場は何だけどバーゼルとなると出かける気がしないというのは当然だと思う。音楽に興味があると歌芝居劇場などには出かけられなくなるのは当然なのである。

新聞にラインガウの音楽祭のチラシが折り込みになっていた。中を見ると、レディデンスピアニストとしてイゴール・レヴィットの名があった。馴染みはないが、六月六日にミュンヘンからコンサートの生中継があり、今秋東京で繰り返す同じプログラムでラフマニノフを弾き、その前に台北でべートヴェンで共演するピアニストとして見た名前だ。勿論その名前からユダヤ系ロシア人で指揮者キリル・ペトレンコと同じなのであまり興味を抱かなかった。しかし調べてみると、劇場で働いていたピアニストの母親はハイリッヒ・ノイハウスの孫弟子だとある。そして何よりもフレデリック・レジェスキーの曲をCDアルバムに吹き込んでいる。それどころか他のコンサートは売り切れていても、何と作曲家とのデュオコンサ-トは売れ残っていた。このポーランド系ユダヤ人の作曲家とは間接的な付き合いもあり、これはどうしても聞き逃せないと思ってティケットを予約した。正直どの程度のピアニストなのかは分からないが、そのレパートリーなどを見ると、前回ペトレンコ指揮管弦楽団と共演したカナダのアムラン並みに期待できるのかもしれない。



参照:
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漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-04-23 19:38 | 文化一般 | Trackback