カテゴリ:文化一般( 254 )

ホタテの道の金の石塁

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承前)カステルッチ演出「タンホイザー」を、その前に「兵士たち」のヴィデオを観たことで、よりよく理解した。細かな謎解きは幾らでもありそうなのだが、それが音楽の本質に根ざしていて、創作を理解することにどこまで役立つかのかどうかはとても疑問である。そして、先にアップした一幕の写真の金に輝く岩のように理解に役立つ意匠はそれほど多くは無い。

その巨岩に関してはプログラムには触れられていなかったが、劇場が後になってその意味するところをネットで謎解きしていた。それは、最近も益々「自分発見の旅」として人気の絶えないサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道(通称ホタテの道)にあるクルツデフェローの十字架の立てられた石の山を意味するということだった。その石の山は巡礼者によって運ばれた石で築かれていて、今でも多くの人々がそこに世俗の罪の石を棄てていくということである。そうして築かれた丘を岩を意味する。

そして三幕一場で、ローマから戻ってきた巡礼者たちは最早巨岩でなくて両手で抱えるような金の石を各々が携えている。そしてそれを携えたまま去っていく。その巡礼の列にエリザベートはタンホイザーを求めるが見当たらない。

タンホイザー役のクラウスと記された石棺に少し大きめの金の石が置かれたままだ。そこから永久の変容が始まる。ヴォルフガングが「おお優しい夕星を」と歌い、闇に染まるヴァルトブルクの谷の上に広がる天を見上げる。そこから途轍もない時が流れ、悠久の変容を重ねていく。ありとあらゆるものは掌から零れ落ちる砂と帰す。

実はクリーゲンブルクの「兵士たち」演出での黙示録的光景の中で、十字架によるカトリック秩序と過去から現在、未来への時間の推移が円環をなして、原始的な普遍的構造を有するという発想がここでも活きて来る ― ここでは時間は矢に表される。とんでもない時の経過を示すテロップが示すものは普遍的な存在を示すことになる。背後の環の中で蠢くものは生物であるのかもしれないが、必ずしも人類とは限らない。そう思うと二幕における意味不明の芋虫ごろごろのバレー団のマス演技も幾らかは理解できよう ― まるで日本の初等教育におけるお決まりのタンホイザーの音楽が流れる運動会風景であり、カステルッチは9月の東京引っ越し公演にこれを合わせたとしか思われないぐらいである。

そもそもこのオペラの内容自体が、ラインのロマンティックなどを超えて遥かに形而上のものであり、その音楽的に限られた素材の中で、楽匠を死の直前まで苦慮させたものである。今回の新制作のプログラムには御多分に漏れず逐条的、意匠ごとに言語的定義付けが試みられているが、そこから創作の苦慮が解き明かされるとは思わないのは、カステルッチ演出の謎解きの徒労と同じである。

とどのつまり音楽の抽象的で歴史文化的な面から内容を観察しないことにははじまらないのである。だから音楽的にも筋書的にも重要な要素である巡礼が時間的空間的な構造を定めているのは当然かもしれない。丁度それとは相容れないような形で、二幕の歌合戦の場では「芸術」と記された半透明のボックスが置かれて、その中の「営み」が具象化される。そもそもの一幕における乳出し祭りとその白い衣装は所謂ニンフのそれであって、エルザの白い衣装や何かを隠すヴェールにも共通していて、それがまた営みの発動となっている。当然のことながら「狩りの悦び」へ繋がれるのは、プロテスタントのクラナッハの「寓話」に描かれているそのものでしかない。なるほど、イタリア人でなければヴァークナーの「救済」にこれを描き出せなかったのかもしれない。それは二幕の「ローマへ」のフィナーレにおいては効果的に機能していたのだろう。

そのように辿っていくと、一幕での聴衆に与える一種の焦燥感と肉塊が、三幕では諦観と死体の腐乱へと引き継がれて、劇としての効果を上げていた。しかしそれが音楽劇場的な効果ではなく、エリザベートを歌ったハルテロスの渾身の役への同化的な芝居的効果となっている。結局は、音楽的な効果を待つことなくしては幕は一向に下せそうにない。(続く)



参照:
聖なる薄っすらと靡く霧 2007-11-03 | 暦
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
辺りをふらついてみる 2017-08-07 | 生活
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-08-20 23:01 | 文化一般 | Trackback

ストリーミングの昨日今日明日

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そろそろ新制作「タンホイザー」の続きを語らなければいけない。その間に、ベルント・アロイス・ツィンマーマン作曲「兵士たち」を観た。新音楽監督就任後三つ目の新制作だった。残念ながらこれは最後の2014年11月4日の上演も見逃している。既に7月にバイロイトの「指輪」でその稀有な才能に出合った筈なのだが、ミュンヘン詣ではクリスマス前の「影の無い女」まで持ち越された。この辺りの判断の遅れは、やはり二十年ぶりの歌劇場訪問でまさかそこまで上質な上演が平素行われているとは知らなかったからである。書いたものを調べると、その時に初めて指揮姿を観たことで詣でを決心したのだろうから、バイロイトであれだけの体験をしながらも見過ごしてしまう理由はあったのだろう。

しかしこの5月25日の新制作公演は、初日からとても評判が高く、その新聞記事の内容も覚えている。それでもバイロイト体験する前であるから、なぜこの曲がケント・ナガノ指揮で演奏されなかったのかと残念に思ったぐらいだった。ケント・ナガノ指揮ならば出掛けていたかもしれないということになる。今手元にあるのは、DLした4.93GBの5月31日上演のストリーミング録画である。音質的にはもう一歩もの足りないので、生で体験できていない分を埋め合わせることは叶わない。

クリーゲンブルクの演出も上出来で、また主役のバーバラ・ハンニガンも素晴らしく、誰がその代わりに歌えるのかも想像つかない ― 本日朝のラディオではルールビエンナーレでのメリザンドの歌唱と演技が評価されていたが、女性の非をも扱っている演出としていた。ツィンマーマンの戦後の多層的な音楽は、指揮者オクサーナ・リニヴをアシスタントとして高品質な演奏が繰り広げられている。新聞批評にあったように「そのシーズンにあった(世界のオペラ劇場での)新制作とは距離を置いて断トツの上演だった。」というのはとても上手に表現されていたと思う。要するに座付き管弦楽団がこの作品を演奏する場合の模範的上演ということだろうか。今回は、トレーラーにあるのと同じゲネラルプローベ時の映像などが新たに見つかったので、再度全曲を流してみた。

オープンVPNを便利に使えるSoftEtherVPNというPC向けのソフトをノートブックにインストールした ― LINUXにもインストールしなければいけないかもしれない。基本はアンドロイド用アプリと変わらないがPC用なので多機能で使い易い。なによりも同じリストでもViewが異なるのでその所在地まで分かる情報も書かれていて、別途調べる必要もなく、リストから直接所望の場所でのサーヴァーを選択可能となる。希望する所在地のサーヴァーにアクセスして接続すれば、PC全体がその土地にあるのと同様にネットサーフィン可能となる。リストは偏りがあるながらも世界的なネットになっているので、安定しているサーヴァーさえ選択すればOPERAのVPNサーヴァ―よりも遥かに可能性が広がる。RADIKOもブラウザーを開くとご当地の参加ラディオ局のリストが表れる。どこかに接続した場合はラディオ日本ぐらいしかなかったので可成り地方にあるサーヴーを選択したようだ。

VPNゲートに接続して、また必要なければ断続すればよいので煩わしさは殆んど無い。つまり通常のネットストリーミングと同じように使える。このまま進めばTVステーションというのが今後も存続するとは考えられなくなる。一方では日本の家電などが落伍したように高品質ハイヴィジョンがあって、一方にはネット配信しか観ないという人が殆んどになって来ている。ドイツの公共放送はネット配信を積極的に推し進めたので、聴視料も強制的に世帯事業所ごとに徴収するようになって、そして聴視料を払っていない限り海外では見られないようにブロックを掛けた。しかしこうしてVPNを使うとその効果も無くなる。やはり、報道などのネットワークも国際的な網を掛けないとグローバル化が思い通りに進まなくなる。そうしたネットワークの構築の弊害と混同されているのが著作権やその著作権徴収団体などだが、実は全くそれとは関係が無い問題なのである。因みに上記の劇場作品は著作権がまだ活きているので、地域限定で徴収するとその場合はやはり著作権料の徴収に問題が出る。



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-08-19 21:04 | 文化一般 | Trackback

文化需要の光と影のその間

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日本語のテュイッターをみたら面白いことが書いてあった。北欧で昼日中からヘッドランプを点灯しているので、「法的拘束があるのか」という投稿だった。それを読んで思ったのは日本では昼間にライトをつけるのは二輪車ぐらいしかないのだろうということである。なるほどドイツでも陽が落ちてから無灯火で走る馬鹿者が時々いるが、北イタリアなどで冬季の灯火が義務付けされてからドイツでも白昼の灯火は増えた。

日本はそもそも陽射しが違うので灯火の効果が限定的なだけでなく、夜間の明るさが異常である。夜間の高速道路でも街路灯がついているのはベネルクス三国以外に欧州では他に知らない。ポーランドも今は照明されていると聞いた。アウトバーンであると中途半端な光があると高速は出せない。だからハイビームが自動調整されるシステムが普及すると早く走れるようになる。

そんなことよりも考えたのは光と文化だった。前述の日本の陽射しに気が付いたのは日本に初めて降り立った時で、二三か月の欧州旅行からの帰宅時には全く気が付かなかったことだ。冬を通じて少なくとも数年以上は欧州に住み続けていないと分からない感覚で、若しかすると毎年夏に帰省しているような長期欧州滞在者にはいつまでも分からないのかもしれない。それでも移住を決心する原因の一つに、日本の夜の明るさでは文化的な活動が出来ないと考えたことがある。不夜城と見做されるアジアでも特に明るいのが東京を中心とした日本の大都市圏であるのは今やその衛星写真から皆知るところであるが、それは甚だしい。それでもネットにて夜の光害について扱っている人には一人にしか出会っていない。多くの日本人は気が付いていない様だ。

光の文化は、色彩とかそうした視覚的な印象を語るのだろうが、その影の文化は、遥かに豊かである。殆ど原始的な印象を人はそこに感じる。夜の闇でもある。そのように思うと手元にあるヴァルター・べンヤミンの「ベロリニアーナ」に手が伸びた。19世紀末から20世紀始めの子供時代のベルリンを語っている。とても多くの影が印象されるのはユダヤ人の生活感情の目を通しているばかりでは決してないだろう。そしてソヴィエトを訪れて理想の世界である共産主義国の張りぼての光と影を観て失望して戻って来た。我々が国境の向こうの東独の奇妙なネオン管の光の色に不思議な気持ちがしたのと同じようなものだったろう。

地上の境だけでなく、そこに境があると思う。これは二元論でもなんでもない。そこから芸術が始まるということだ。日本社会から影を奪った責任は松下幸之助にも間違いなくあった、それが豊かさであって、幸せであったのだ。そして近代化の日本社会の変遷でもあったのだろう。恐らくその環境への意識が西欧と最も日本が異なるところで、その文化的需要の質が最も異なるところだろうと思った。日本のE‐MUSIK需要の限界もそこにあるように思う。



参照:
街の半影を彷徨して 2005-12-11 | アウトドーア・環境
影に潜む複製芸術のオーラ 2005-03-23 | 文学・思想
技術信仰における逃げ場 2007-11-06 | 雑感
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-08-17 23:59 | 文化一般 | Trackback

音楽芸術のGötterFunke体験

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夕食を済ましてからザルツブルクからの中継を見聞きした。午後に行われたものをラディオもTVも時差を置いてゴールデンタイムに流した。arteのこの種の放送としてはミュンヘンの「タンホイザー」が話題だが、制作に手間暇を掛けているかどうかが問われるところだ。

新聞評はムーティ指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―が健闘しているとあまりに強調していたので、折角ならとラディオ高音質録音を試みた。しかしBRクラシックで今まで経験したことが無いぐらい最初から最後まで秒以下の中断があったりして、尋常ではないアクセスの集中が推測さられた。要するに我々が熱心になる「スーパーオパー」とは異なり「オペラ」上演ということで「三人のテノール」ファンのような人々までの関心の広がりがあるのだろう。出来るだけ拘わりたくないものであるが、1月のシカゴ交響楽団との演奏会での趣味の良いエンターティメント性はこのマエストロのオペラをも無視できなくした。

そのように期待してあまり十分でない放送を聞くと、座付き管弦楽団の下手さ加減だけが耳について楽しめない ― 最近はベルリンのフィルハーモニカ―とかペトレンコ指揮のスーパーオパーしか体験していないのでもはや普通の名演などでは耐えられなくなっている。モルティエ時代にしても結局は記憶にしっかり残っているのは、コンセルトヘボー管弦楽団の「モーゼとアロン」であったりするので、ヴィーンの座付き管弦楽団が真面に演奏していたのはカール・ベーム博士指揮の時ぐらいしかなかったことを思い出す。

但し、ヴェルディの書法を熟知したマエストロの指揮は流石であり、デビューで大成功をしたこの作品においても歌手の間合いなどをさきさきに見通しながらのテムポ設定や色付けそのドラマテュルギ構築が見事としか言えない。なるほどシカゴなどの超一流の交響楽団からの音楽と、座付き管弦楽団からの音楽では比較にならないのだが、普段のヴィーンの歌劇場ではなかなか体験できないオペラ上演がなされるのがザルツブルクでありその点でも最上質のエンターティメントに他ならない ― まあ、昨年の復活祭の「オテロ」とは流石に世界が違う。

お目当てであるアンナ・ネトレプコについては、売り出しの頃にゴールデンタイムのゴッチャルク司会のZDF番組で歌っていたのをいつも思い出すのだが、その時の印象は今回も変わらなく、技術的にもしっかりしていてということで、新聞評でも高いCとかピアノのAsとかの話しつまり声楽的な技術の職人的な評価が全てである。オペラファンというのは、コンサートゴアーズが指揮棒の上げ下げを云々するような感じでそうした職人技に関心がある人が少なくないのかもしれない。我々音楽愛好家からすれば、歌手のそれやオペラの音楽的な不正確さなどに言及するとなると上演などなり立たないと考えるので、あまりそれには関心が無いのである。

その意味からもマエストロのエスコートぶりは本物の名人芸である。ネトレプコは、TVで現在はオーストリア国籍とされていたが、指揮者のゲルギエーフと同じくプーティン支援者の代表的な存在で、たとえ厚遇されたとしてもスイスではなくオーストリアというのが興味深い。兎に角、この人気オペラの実演をバーデンバーデンで体験するようなことがあるようには思わないので、またその映像も手元に無いので先ずはDLしておく。HLSストリーミングファイルをストリーミングと同じように落とすので、3.256GBのDLで上演時間だけ時間が掛かった。三幕以降しか生で観れなかったので ― なぜかそれでもラディオよりも安定していた、初めて動画を流すことになる。

世界が違うと言えば、ボンのベートーヴェンフェストから冊子Ludwig!が届いていたので、それを捲ると昨年のPVの様子が写真として掲載されていた。当日会場にいたので海外放送局ドイツェヴェレによるそれは観れていない。だから探している ― ネット中継されているのでDW以外にもどこかに全中継コピーが存在する筈だ。これはと思って早速探すとやっぱりDWに障りがあった。これだけでもとても貴重である。個人的な思い出ではなく、あの時のテムポが記憶でなく記録として示されることで、可成りの部分が再現可能となる。あの特にチャイコフスキーからアンコールまでの流れは、キリル・ペトレンコ指揮演奏会の中でも屈指の量子的な飛躍のあった演奏で、まさしくGötterFunkeの体験である ― 永く音楽会に通っていてもこういう飛躍の時というのは稀であり、フルトヴェングラー指揮演奏会のようには行かない。

チャイコフスキーのコーダ近辺のテムポの推移などは基本テムポとその設定から演繹するしかないが ― この指揮者の演奏実践上でのテムポ設定とその維持また推移には恣意や偶然は無く、あるのは音楽構造であるから演繹可能となる ―、この短い障りからでも他の会場での録音のテムポとその会場で感じた体感の比較は可能となる。アンコールの「ルスランとリュドミラ」もカルロス・クライバー張りの管の短い跳ねなどは聴けないが、ややもすればムラヴィンスキー指揮のあの超高速のそれをどうして思い出してしまうので、ここでの快速の障りだけでもとても有り難い。

オペラの上演とコンサートの上演の体験の質は全く異なるが、エンターティメントの体験と芸術体験というのは往々にして相容れないということも確かであろう。だから私などは芸術体験の前には一切アルコールを口にしなくなったのである。演奏家がほろ酔い機嫌でヴィーナーヴァルツァーのようなことは出来ても、芸術などは全く表現できないのと同じことである。例えば同じ芸術表現でもレナード・バーンスタイン指揮の演奏会では体験できなかった芸術というのがそこではとても重要なことになる。



参照:
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
ドイツ的に耳をそばたてる 2016-09-18 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-08-13 19:19 | 文化一般 | Trackback

反レーシズム世界の寛容

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四川の重慶に電話をした。嘗ては日本軍が絨毯爆撃をした揚子江の中州にある大きなハイテクの町だ。要件の序に、地震のことも尋ねると、成都の親戚は揺れたということだったが重慶では感じなかったという。先にメールを送っていた件も尋ねた。シナで先日のarteの乳出しヴィデオが見れるかどうかということだ。中共はそんなものには関心が無くて検閲は政治的なものだけという話しだった。これが中共であり、我々からすれば性事も政治も芸術も容易には線引きが出来ないが、中華人民の文化程度ではそのような高尚な話にはならないのである。

来週3Satで放送されるピーター・セラーズ演出の「ティーテュスの寛容」を一足先にORF2で観た。国内でしか観れないようになっている。そのセラーズもジェラルド・モルティエの時代にはモーツァルトどころか古典の演出さえもさせてもらえなかった ― 当時からそのモーツァルトヴィデオは知られていたが、パトロンとしてもそれを受け入れられたとは思わない。それがまさかザルツブルクでこのようなモーツァルトが上演されるとは思いもしなかった。ザルツブルクは少なくとも二十世紀の後半はお行儀のよいカラヤン好みのスノブなお客さんが集うところで、同時にとびっきり上等なモーツァルトが上演されていた。

それでもセラーズはやはり天才的な演出家で、その上演にはとても感動させられた。古典に帰りながらの現実投影という意味で、アラブのテロを舞台として黒人を多く集めた歌手陣にアメリカの人種を反映させる。どうしても西欧の聴衆にはそれが意識され、当然それが大きな効果として計算されている ― ザルツブルクはロスではないのだ。そのアフロアメリカン的な個性や ― 実際には南アフリカ出身の歌手もいる ― 表情などがとても印象的に利用されているのだが、セラーズの演出はその個性的な表情や人種的な特徴が全人格的な普遍的な表現に変容していく様を見せる。恐らくこれがアメリカにおける人種というものなのだろう ― 少なくとも西欧から見るとそのように映る。それがここでは中東における歴史的、文化宗教的な葛藤に大きな網を掛ける形で劇場表現される。

要するに、劇のあるべき本来的な姿、つまりここではとても情動的な表現とセラーズの儀式的で様式化された体の動きが相まって普遍化されるものが示される。そしてモーツァルトの音楽はクレンツィスの指揮によって情動的で脱様式化された音楽に編曲される ― 作曲家が晩年どのような創作をしたかなど知ったものではなく、モーツァルトなどはショービズのための唯の道具で衣装でしかないということだ。なるほどこの指揮者は、その自由自在の指揮からして、その技術は一流なのだろうが、音楽家としては三流としか思われない ― だから今回の公演でSWR内部が色めきだったに違いない。まだその交響楽団の指揮者に就任していないがその契約を全うできるのかとても怪しい。金満の工業都市シュトュッツガルト市の音楽文化など所詮その程度である。

フランス人のマリアン・クルバッサのセストは従来のザルツブルクでも充分に通じる演技と歌唱であり、二月にミュンヘンでゾフィーの口パクを歌ったゴルダ・シァルツのヴィテリアも素晴らしかったが、重唱などでは駄目な歌手陣だった ― ゴスペルではあれほど合うのにまるでその気がない様だ。しかしその情動的な音楽運びもアンサムブルも全て指揮者の責任である。8月4日の四回目の上演では、初日とは大分状況は違ったのではなかろうか ― アンサムブルはやればやるほどに悪くなるのか?終演後のそれは全てセラーズへの称賛のように聞こえた。そしてFAZやSWRが伝えたような初日のファンの集いが無かったのか、この収録日には指揮者はピーター・セラ-ズのようには聴衆の喝采を浴びることはなかった。明らかにこの指揮者がそうした大衆コマーシャリズムの中で虚像として存在していることが明らかになる証拠である。

次は、ムーティ指揮の「アイーダ」が放送されるらしい。アンナ・ネトレプコが黒塗りで登場するが、決して人種的な問題がが音楽に持ち込まれないのは間違いない。マエストロはそんなことには全く興味がないから、そんなことは初めから分かっている。

こうして無料でDLしてこのような「ロスアンジェルスオペラ」を一気に観てしまったが、これを何十ユーロかの入場券を払って態々フェルゼンライトシューレの駐車場まで車を飛ばしたかというと答えははっきりしている。やはり昔のケント・ナガノが振ったり、ブーレーズが振っていた時のような価値は無い。



参照:
寛容の海を泳ぐ人々 2017-07-31 | マスメディア批評
同一化批判の新ドイツ人 2015-02-22 | 歴史・時事
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-08-10 15:57 | 文化一般 | Trackback

「笛を吹けども踊らず」

新聞に先日の2017年バイロイト音楽祭初日「マイスタージンガー」の評が載っている。終わりまで読んでおかしいなと思ったら、期待していたおばさんの評ではなかった。あれほど、ここだけでなく方々で叩いたので主幹から落ろされてしまったのだろうか。まあ、私と同じように、本当のことを語ってしまうと ― 音楽的に百点満点中五十点と生放送で言い放った ―、 批判対象である指揮者もパリのオペラ座の音楽監督をしているようだから、劇場との関係が悪くなるかもしれない。更にヴィーンのシムフォニカーの指揮者も務めているようなので驚かされる。

その年齢からするとチューリッヒぐらいで会っていることもあるかもしれないが、テムポの保持も難しそうな伴奏指揮者がなぜそこまで活躍しているのか一向に分からない。あまりにも劇場慣れし過ぎているという指摘もあり、実際にfazは三幕の五重唱を幾ら盛り上げようとしても歌手が付いてこなかったとある ― 笛を吹けども踊らずである。態々繰り返して聴き返してみることも無く大体の印象はその通りで、動かなかったのはそもそもリズムも悪くテムポが安定しないので、その設定にオーソリティーが無く、始めから歌手の目線などを見ていてもその結果は想像できた。Wikiを見てスイスロマンドとの繋がりが漸く分かった。あれは親父さんアルミン・ジョルダンだったようだ。「パルシファル」の廉価全曲録音などで名前は知れていた。今で言うところのナクソスムージシャンだ。なるほど。

今更バイロイトの音楽的水準に改めて触れる必要はないが、初日の日の新聞の文化欄全6面の4面はバイロイト特集だった。しかしそれ以上に面白い情報はその前日に載っていた。ヴィーラント・ヴァークナー記念公演に関する記事だった。そこでは、指揮者ヘンへェンが初めてベルクとヴェルディの作品を祝祭劇場で演奏したことなどよりも、カタリーナ―が従妹一人一人の名前を挙げて呼びかけたことがなによりも注目されたというのである。

その背景には、昨年末、ニケ・ヴァークナー博士が起こしていた現在の劇場貸与契約つまり執行体制への異議を、有限会社バイロイト音楽祭とバイロイト財団を相手取り、申し立てて破れたことがあり、それは決してカタリーナ体制の勝利を意味するのではなくて、ニケ・ヴァークナーが根拠とするヴァークナー家の既得権益が法的に限定されたことを意味するらしい。つまり、現在の体制を定めた根拠の中で資金を出し長く過半数の採決権を有しているバイエルン州と連邦政府の議決権が重要視されるということのようだ。

なるほど、だからニケが「もはやバイロイトには興味を失った」、「ヴァークナーばかり扱うのでは退屈だ」と言い出したのはこういう法的判断が背景があったことになる。そして初代音楽監督もカタリ-ナも昨年までのようにスキャンダルを起こしていたのではもはや務まらないということらしい。財政問題などはその一つであって、何か問題が起これば益々公の手が入って来るということなのだろう。おとなしくしていろと法的に鈴をつけられたことになる。

ある意味、バイロイト市をはじめとする当事者にとっては、ヴァークナー音楽祭はノイシュヴァンシュタイン城の様に観光収入源でもあり、その期間の世界中からの観光客を見逃す訳にはいかない。コスト対効果で安定した収入を上げていくことが肝心なのだろうと思う。音楽祭の規模も飽きられることが無いぐらいに適当に活気をつけて、いずれはシナからの大観光団も呼び寄せられるようなオープンエアーやパブリックヴューイングなどが成功するように整備されるのだろう。まあ、そこまでもやらないでもあのオバーフランケン地方としては充分な数の数寄者達が押し寄せて、弁護士や医師に代表されるような経済的にも余裕のある層が充分なお金を落としてくれればそれでよいのだ。

そもそも我々のような芸術云々や音楽美学とかなんだかんだとほざくような輩は金を落とさない。地元当事者の立場になって考えれば単純明快な答えである。芸術的な価値など腹の足しにもならないのである。漸く腑に落ちた。



参照:
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
迫る清金曜日の音楽 2008-08-27 | 文化一般
オーラを創造する子供達 2007-09-24 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-07-28 18:56 | 文化一般 | Trackback

意地悪ラビと間抜けドイツ人

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バイロイト祝祭「マイスタージンガー」初日を観た。NHKとの共同制作であるので、ドイツ国内でしかネット放送は観れなかったようだ。日本に住む人はNHKに苦情すべきもので、貴重な聴視料がこのようなところに浪費されている。しかし我々連邦共和国市民ももネット視聴料を強制的に徴収されていることも間違いない。

初日は、王のロージュに待ち構えたバイエルン放送協会のインタヴューアーがメルケル首相とスェーデン女王やバイエルン首相にコメントを取っていた。メルケルは、「個人で来るときは平土間で、招待はロージュ」ということだった。今回招待を受けた理由は、バイロイト音楽祭初のユダヤ人演出家で幕開けすることによるものだったろう。要するに問題の多いカタリーナ体制でこの首相に招待を受けさせる大きな口実だった。

オーストラリア出身の演出家バリー・コスキーはベルリンのコーミッシェオパーで仕事をしているようで、指揮者のスイス人と同じようにドイツ語をよく喋る ― このジョルダンと称するスイス人指揮者は全くの書き言葉ドイツ語を喋っているので名前通り完全にフランス系である。そしてとても意地悪な発言通り、とても人の悪い演出を繰り広げていた。流石に終演後は演出チームにブーイングが飛んでいたが、私なら一幕から徹底的に意思を示していただろう。こんなものに拍手するドイツ人はやはり自虐的で間抜けである。

コ―ミシェオパーの様子はキリル・ペトレンコ音楽監督時代のものを見ても、如何にも東独人民が喜びそうなソープオパーには違いなく、今回はそれに管弦楽も歌手も合唱も同じような体で合わせていたのには驚いた。バイロイトの管弦楽が良いという人もいるが、今回のそれを聞けば、とても一流どころの座付き管弦楽団とは比較にならない、その通りドイツのローカルな中都市のオペラ劇場の管弦楽団程度だとよく分かるだろう。これほどまでに下手な演奏は流石に残っている録音では聞いたことが無く、要するに我々が体験している音楽劇場というものがスーパーオパーであるということを示している。問題は、上演後の出口でのいつもの評論家の立ち話ではないが、ミュージカルとオペラの差ぐらいに似ても非なる通常のオペラ公演とスーパーオパーとを同じようなジャンルとして認知している素人のみならず専門家までが存在することであろう ― 珍しくFAZのおばさんが私と同じく批判的で、楽匠が「何を作曲したのかが重要である」と、まるで私の批判記事を読んでいるようだ。

それでも細かな台詞や演技指導などに職人的な腕を見せていて、BRクラシックもそこだけは評価している。例えば二幕のザックスのイライラでハンマーを叩いて次にはもう叩けない様子や台詞と演技の調和がとても取れていた。なるほどミュンヘンなどで、常連のおばさんらが「ペトレンコ指揮には台詞の精妙さは求められない」と話していた意味は、こうしたオペラ的な細やかさのところを指すのだと理解した。要するにその瞬間瞬間場面場面を繋げていくようなオペラ芸術の日常オペラとスーパーオペラの差異だろう。同じように、皆が「なにがニュンベルク裁判だ」と思いながらもユダヤ人演出家の前には強い異議も示すことが出来ない一方、ザックスが最後にニュルンベルク裁判の証言席で歌う場面はそれなりに説得力があった。

今回一番批判を受けていたのはエーファを歌った歌手であるが、あれならば外見までも批判された昨年ミュンヘン初日のそれの方が体格も声もあった。そして序曲からトレモロで体を上下に刻んだりする動作をエーファに最後までさせていたのには意味があるのだろうか? ― あれはコケットという動作ではない。まるでクェーカー教徒かアスペルガー症状の様にしか見えなかった。そのような意味不明の細かな演技指導も含めて、あまりに程度が悪いとしか思えなかった。要するにバイロイトの監督陣の知能程度以上の上演は出来ないということだろう。

ここでもヴァークナー狂信者とかオペラ愛好家とかというのは、高等な音楽芸術や音楽劇場とミュージカルの差異も分からない教養の無い人たちでしかないということが明白になっただけだろう。オペラ演出家はまだ芝居を村芝居でもミュージカルでも立派に上演できるが、上のスイス人のようなオペラ伴奏指揮者などが真面に音楽を奏でることがないので、音楽愛好家がオペラ劇場を嫌煙する所以である。「オペラ劇場では目を瞑って楽しむ」とか分かったようなことを書く人が少なくないが、我々から言わせると「耳を塞いで舞台を楽しむ」ぐらいがオペラ劇場ではないかと思う。d0127795_17192347.jpg




参照:
楽劇「指輪」四部作の座席 2017-07-24 | 雑感
ミュンヘンのマイスター 2016-10-10 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-07-26 17:21 | 文化一般 | Trackback

コーディロイの袖を通す

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コーデュロイのシャツが届いた。ワクワクして箱を開けてみた。色合いも写真の通りだ。サイズも注文した通りであることを確かめる。手に取ると、思っていたよりずっしりしている。これは間違いないと思った。指で触れてみるとぬったりとした。独特の手触りで、ビロードとは異なるしっとり感がある。寧ろ皮革の肌触りか。

早速開いて、袖を通す。予想していた袖の長さは無く、寧ろ肩で幅を取るので、丁度いい。長過ぎない。短過ぎないので肘への負担も減少するだろう。そしてフォームも思っていたよりも遥かに美しい。そして期待していたよりも温かい。

そして肝心のコーデュロイをしげしげと観察する。ネットの写真ではよく分からなかったものだが、その細かさを見て初めて合点がいった。この細やかさではネットでは表示できないことを。このような生地を見て、人並み以上に標準男性以上には色々な生地などの造詣はある心算だったが、こうしてコーデュロイを見せられると、今まで履いていたり着ていたそれはいったい何だったのかと思う。少なくともこれだけ細かなものは身に着けていたことが無い。

この手のシャツも着ていたことがあるので、その印象からこれも冬場の普段着に使おうと考えた。しかしこうして試して見ると想像を超えていた。一つは糸が細いので生地も薄く感じる反面、暖かさが増して何といっても身体に馴染む。つまり、フラグタルに表面積だけでなく期待される空気層も充分に保温層として機能するのではなかろうか。あの純綿のごわごわ感から程遠い。

洗濯は40度のアイロン掛けとなっている。本当に洗濯後もこの風合いも色合いも戻るのだろうか?因みに流石に英国製ではなく、EU製となっている。東欧製かポルトガル製ぐらいだろうか。しかしこれでこの冬まで常用していた英国製の純毛シャツを手洗いする覚悟が出来た。三シーズン以上洗濯していない。乾燥している日に手洗いしてみよう。

それにしてもリスト価格は遊び着としては安くはない。だからセール価格に送料で65ポンドはやはりとても嬉しい。EU換算でカード会社がどれだけ請求するかは分からないが、独アマゾンで70ユーロ以上でも使えるようなものは見つからない。前記のメリノのシャツは破格の57ユーロで購入した。しかしロンドンのアパレルメーカーの一着限りの放出だった。

要するに、嘗てのように大量生産すれば安く上質の工業製品が提供できるというような所謂フォード式の工業生産とそれ以前の家内工業的な生産とは、其々の市場が異なるということだろう。今こうして王侯貴族や新興の成金でなくともとても高品質な製品が入手できるというのは、その市場が小さくて更に常連さんというものが安定した市場を形作っているからだろう。

新聞記事から日本へそうした製品を販売するためには数を要求されるので、それまでの生産規模では対応出来ないということを何度も読んだ。つまりこうした上質の小さな市場の製品は市場規模が限られているからこそ可能な生産であり商品と言うことになる。価格を抑えられるのも無駄に生産規模を大きくしないで良いからであろう。

今更ながら衣料文化にも留意させられるような経験をするとは思ってもいなかった。そもそも日本の夏の暑さに堪えれれなくて移住した訳だが、実は日本の衣料も身体に合わなく、英国のものが合ったことも移住を後押ししたのだった。今回のシャツに袖を通すと、この夏の清々しさと共に、その生地の温もりに愉悦の一時を感じるのだ。



参照:
秋から冬に備える今日この頃 2017-07-14 | アウトドーア・環境
初雪初積雪の冬真っ只中 2014-12-04 | 暦
とても小さい万単位の需要 2012-04-30 | 女
時差の影響を感じる日々 2013-10-29 | 生活
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by pfaelzerwein | 2017-07-15 18:48 | 文化一般 | Trackback

延々と続く乳房祭り

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前日に帰宅して、日曜朝、峠を攻めた。今までで一番苦しかった走りだ。実際20分を切るところを23分かかっていた。足の踵の豆の皮剥けだけでなくて、脚に力が無い。やはり靴のお陰で余分な脚力を使ったとしか思えない。力が入らないので、蹴りが無く、坂を上るのは苦痛でしかなかった。だから下りは思いがけずスピードが出ていたようで、高度順応の成果が表れていたのだろう。スキーでも経験したことのないような疲れた足での走りだった。

坂道を上がりながら、夜のミュンヘンからの「タンホイザー」中継録画の仕方等を頭で練っていた。一つは二種類の中継が同時に行われることと、もう一つは録音だけを高品質にしてみたかったからだ。平素よりも複雑になるので、手順だけでなく技術的な問題点も整理しておかなければいけないからだ。

具体的には、通常の画像録画ソフトに加えて先日から使いだしたAudacityの録音機能を使いたいと考えたのだ。録画ソフトでもFlacをmkvとして収録出来るのでそれほど悪くはないのだが、音量も調整出来ない位なのでWAV24Bit4800kHzには至らない。先ずは問題が無く両方のソフトが動くかどうかを試した。音源出力を独占仕舞うと駄目だからだ。ネット画像録音録画を試して見て技術的に問題が無いことを確認。

もう一つの決断は難しかった。つまり中継が安定している筈のARTE局のストリーミングを使うか、劇場のポータルを使うかである。常識的には独仏TV局のものとなるが、結果は異なった。それよりも始まりが早かった劇場のそれの前プログラムが終わり、他方TV局のものは予定時刻に始まらなかったので致し方なく、劇場プログラムを流した。そしてその決断は正しかったようだ。

序曲からのバレー団の乳房祭りが永遠と続く。画像の質は昨今のHD仕様からすると物足りないが、それでも劇場とは異なるズームアップが綺麗に映る。こちらの目的は滞りなく終わりまで放送が流れてくれることにあるのだが、やはりこの辺りは高品質画像が欲しいところであり、ARTEでのその質が気になった ― こちらの方は何れネットで出てくるだろう。

この場面はパリ版のバレー場面と割り切ればよいのだが、やはりこの演出の核心であると思うようになった。要するに、「おっぱいの形がいいな」とか穏やかににやにやして見るとはやはりならないのだ。どうしても音楽を聞く耳とこの視覚的なものがしっくり来ないのにいらいらさせるのだ。この演出の狙いに違いない。

そして延々と乳房祭りが続いて、タイトルロールのタンホイザーが出てくると、歌舞伎の宙摺りのように射的の的になっている壁を登っていくものだから、いったいこれはと思わせるのだが、バイロイトのカストルフ演出のようなギャグはここには無い。寧ろカストルフの方が知的で、カステルッチ演出の方は独特な感覚的な効果が大きいとなるのだろう。(続く



参照:
とても峻別し難いロマン派歌劇 2017-05-27 | 文化一般
固いものと柔らかいもの 2005-07-27 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2017-07-10 16:19 | 文化一般 | Trackback

齢を重ねて立ち入る領域

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ビュルガーガルテンを開けた。2014年産である。このリースリングは、英国人評論家ピゴの見解と私自身のそれがとても似ていて双方とも評価していたワインである。それ故に少なくとも二年は寝かしてから評価をしようと最後の一本を寝かしておいた。瓶詰め二年をほぼ迎えた折に試してみた ― 比較対象として同じクラスの幾つかの2014年ものを寝かしている。

香りは開いている感じではないが、それでも独特の黄林檎とか梨の中間のようなものを感じるが、味としては甘いアーモンドの中にそうした果実風味が混じる。このワインはヨードのような味が特徴でそれがどのように開くかが興味津々だったのだが、今はそれが消えてどのように変わったのかは今一つ分からない。敢えて言えばアーモンドの趣になったのかもしれない。少なくとも固まっていたものが無くなっている。

このワイン自体がステンレス熟成ワインであり、ビュルガーガルテンの土壌からすればこれ以上のミネラル風味などを求めようがないかもしれないが、これの上級のグローセスゲヴェックスを考えればこの特徴は充分に魅力的であり、2014年産雑食砂岩リースリングの一つの出来と評価出来るかも知れない。これで秋以降に試せるグランクリュ「イムブロイメル」が楽しみになって来た。

指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットの90歳の誕生日に因んで出版された「音楽の宣教」が売り切れるほどの評判が続いている。5月に初めてその指揮姿に接して、10月にゲヴァントハウス管弦楽団との演奏会を楽しみにしていて、嘗てFAZで魅力的な音楽批評を展開していたシノポラ女史のインタヴューで進められるこの書籍には少なからぬ関心がある。新聞紹介が載っていて、以前のラディオでのそれなどを読み比べているととても興味深い。口述筆記であり態々単行本で買おうとは思わなかったのだが、文庫本が出るまで待てるだろうか?

SWRサイトには、「もはや90歳になるブロムシュテットが、なによりも厳格に楽譜から作曲家の創意を指し示し、音楽の深みへと立ち入っていることを証明する必要などは無い」と書いてある通りだ。後輩のキリル・ペトレンコがその天才と意志によって立ち入る領域にこの老人はその経験から踏み込んでいることは間違いないだろう。そして面白い言い方をしている。

「自立して作品に忠実にいう方向で一貫していると、誰がどのように言ってるのか、どのように演奏しているのか、そうした外側の全てなことは、以前ならば無関心でいれなかったものが、齢を重ねるにつけ、どんどん重要ではなくなってきます。私には聖書の読み方も変わらなく、誰がどのように聖書を読んでいるかなんてことよりも、真実を見つけるという自らの努力でしかないのです。全く同じことは楽譜にも通じ、そこにあるものに、責任をもって、年齢を重ねるほどにですね、怖がってはいけないのです。」。

その他にも歯に衣を着せない語り口乍ら人を傷つけることなく語っているとされていて、マズーア監督後のゲヴァントハウス管弦楽団その状況やハムブルクのNDRの演奏モラルなどについて語っていて、更に故バーンスタインのセックス、アルコール、ニコティンへの心身を滅ぼすほどの依存についても漏らしている。同時にその指揮者への驚愕と共に、「一人の指揮者がどれほど熱心に、その感情の豊かさを示したとしても、そんなものは全て、音楽において根拠がない限りは表面的にしか作用せず、全く不味い。」と単刀直入に語っているようだ。この歳になって期待されるものはまさしく音楽的にもそうしたものであろう。

面白いのは、グスタフ・マーラーの音楽については「その交響作品はセンチメンタルでどうしようもないものだと思い、理解していなかった」と言いながら、膨大な蔵書の中からシューレム・アレイヘムを読んで、「その音楽の引用はそのままゲットーで日常的に響いていたものであったことを知った。」と考えを改めたと語られている。これも本質的な言及ではなかろうか。



参照:
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
芸術の行つくところ 2017-05-05 | 文化一般
次世代の醸造のための経営 2016-01-29 | ワイン
デキャンテ―ションしようよ 2015-10-27 | 試飲百景
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by pfaelzerwein | 2017-07-01 00:19 | 文化一般 | Trackback