カテゴリ:文化一般( 260 )

教養ある世界一の聴衆

キリル・ペトレンコ指揮凱旋コンサートを前に、マティアス・ゲーネがバイエルン放送協会の電話インタヴューに答えている。東京で「子供の魔法の角笛」を歌って帰国したところである。十数年歌い続けているマーラーの歌曲についての考え、想いを語っている。それに続いて質問に答えて、日本の聴衆についてコメントする。独逸との比較において「電話が鳴ることなど経験したことないし、その会場がザワザワすることが無い」とその集中と静かなこと以外に、彼に言わせると、「音楽教養をもった人々が、インターナショナルにオープンになって来て、世界で恐らく一番素晴らしい聴衆の一つが日本のそれだ」となる。これは私が最も知りたかったことの一つである。

嘗てから特に東京の音楽会場では、所謂音楽教育を受けた人々と、今でいうクラシックオタクの人達によって、上の言葉で言えばとてもクローズで硬直した聴衆がその特徴だった。なるほど世界の大都市でその比率からして恐らく最も音楽の高等教育を受けた専門家の割合が多い都市だったが、それ故に、また制作メディアとの比較という方法で、技術的間違い探しの様な聴習慣がある聴衆だったのだ。言葉を変えると、教育は受けていても教養が無いのが東京の聴衆だったかもしれない。同時に今でも話題になっている知ったかぶりのオタクによる拍手のファールなどに見られる聴衆層がそれを特徴つけていたのだった。

今回の日本公演は色々な意味から文化的な評価をしてよいと思う。なによりも上に述べられているような、要するに教養のある人々が、そうした首都の文化を支えているということを確認したということである ― 中産階級の破壊とはといっても信頼できる良識人の存在である。それは、ミュンヘン側からすると前回のフクシマ寡に伴う大キャンセル問題もあって、神経質になっていたことは想像出来るので、聴衆の反応を殊の外注意しなければいけなかったということでもある。更に、今回の関心の的でもあったキリル・ペトレンコの特殊な立場である。

この天才指揮者も2015年にサイモン・ラトルの後継者として漸く世界的脚光を浴びることになったのだが、その特徴は日本ではCD等の録音が殆んど無い音楽家として知られており、これは業界から見ると商業メディアが関与しないつまりその広告費や活動費が一切使われないタレントとなる。それ故に日本側の招聘元を除くと、劇場の広報がその予算から最大限の活動をしたとみている。それに我々もSNSを使って各々協力したのであった。要するにBMWなどが直接関与した台北とは異なり、ミュンヘン側からすると飽く迄も非商業的な活動であったのだ。つまり今回の公演での日本の聴衆の反応はそのもの商業的なイメージ作りの影響を殆んど受けていないということでもある。

上述のように日本の聴衆の反応を分析することが様々な意味合いで興味深いのはその点である。キリル・ペトレンコが今現在までメディア契約をせずにこうして世界的に注目を浴びるということは、業界的な視座を越て革命的なことであり、この指揮者が純粋に芸術的な枠を超えて途轍もない破壊力を示したことになる。このことに関しては、昨年の欧州ツアーから極東ツアー、そして来年のニューヨークツアーへと繋がることになる。

月末のメルクーア紙は、ベルリナーモルゲンポストが報じたようにそこでのインタヴューをもとに、国立管弦楽団の四度目の「今年のオーケストラ受賞」と今後の抱負について伝える。楽団はペトレンコ音楽監督のお陰で今後ヴィーンやドレスデンやベルリンに並ぶだけの自信を語っており、自主的なプログラム構成などを模索しているようだ。これも他の楽団などと同じく、マスメディア離れした自立とマーケティングへの試みである。そして、次期監督として、これまでの成果を継続するべく、管弦楽団として更に成長していきたいということで、ボストン交響楽団音楽監督アドリス・ネルソンズが第一希望らしい。併任のゲヴァントハウスで上手く行かないようならば、オペラ歌手の奥さんのことも考えればミュンヘンに来るだろう。しかし現実的には、コンサート指揮を見込んでパパーノとユロウスキーの二人の指揮者と交渉中ということのようである。

SNSなどの手段の恩恵のみに限らず、やはり人々は少しづつでも学んできているに違いない。全てが商業化されて、そうした価値観しか通用しなくなったかに思えたのだが、やはりそうはならない。芸術文化において明らかにそうした反響が認識されたとき、人々の世界感は間違いなくそれに続くようにして変わって来る。



参照:
DER BARITON MATTHIAS GOERNE, 06.10.2017 von Sylvia Schreiber (BR-Klassik)
Die Eisenbahner vom Bayerischen Staatsorchester, Markus Thiel (Merkur.de)
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
身震いするほどの武者震い  2017-09-27 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-10-10 16:06 | 文化一般 | Trackback

ブラックリストの芸術家たち

d0127795_21464263.jpg
ベルリンでは尹伊桑の生誕百年記念の演奏会が開かれているようだ ― 最後に作曲家の顔を見たのはその死の二年ほど前だったので百周年と聞いて本当に驚いている。春にバーデンバーデンで会った、平壌にも招聘されたスイス人が「南鮮が積極的ではないので、尹の家構想が暗礁に乗りあがっている。」と話していた。なるほどそうかなとも思ったのだが、新聞はこの作曲家は韓国では充分に評価されておらず、寧ろ北鮮で重要なのだという。それでもその無調の音楽などは、そのスイス人が語るように、到底北では棒にも箸にも引っかからないものでしかない。

その作品にも描かれているような拉致と拷問と死刑判決の朴政権の歴史の後代への流れが、今回の娘の大横領失脚逮捕で明らかになった。1995年に亡くなった作曲家が再び先政権のブラックリストに載っていたと日本語のサイトに書いてあった。

そしてあの娘は安倍何某と同じで所謂朝鮮文化風の怨念というのを政治姿勢にしていたのだと思うと馬鹿らしい。まさしく尹を語ることはその暗殺された父親朴正煕の悪行を永遠に歴史に留めるもので、娘としては世界の歴史に朴家が汚名を刻むことになると考えたのだろうか。要するに安倍政権も前朴政権も儒教的世界観で同じ文化圏の日朝とてもよく似ていたことになる ― 当時のセマウル号の車窓は原風景のように感じたものだ。

明仁天皇の高句麗神社訪問ではないが、もし何か役に立つなら平壌に飛んでも良いと思うようになった。1970年代にソウルのインスボンの岩壁を登りに行った時も朴政権で逮捕されて帰って来れないかというような注意を受けた訳だから、時は少し異なっても朝鮮半島自体はそれほど変わらない。そして日本政府は金大中事件の時も何一つしなかった。今はもっと東京の外務省は悪質化している。だからもし不慮の事態で人質になったならメルケル政権が救ってくれると期待してのことである。

そのメルケル政権も次期は薄氷の上を歩くような連邦共和国始まって以来の三党連立が余儀なくされるようである。今回の選挙は今までになく多くの有権者が期日前投票をしているという。そして二大国民政党は大きく票を減らすといわれている。先日の車中のラディオは、選挙に行かない層が増えていて、丁度日本の無党派層のようになって来ているようである。二千万人ほどの人が浮動票で、それを五つのグループに別けていた。一番興味深いのは、政治に特別に関心があるばかりに現在の世界情勢や大きな問題に直面して政治課題としている政党は無いという層で、先日来AfDに攻撃を掛けているピアニストのイゴール・レヴィットの話などはこれに相当するかもしれない。

勿論そうした致し方が無い現実社会での政治を補う面も芸術文化にはあることは誰も否定出来ないだろう。例えば今回の日本公演での「タンホイザー」の作曲家リヒャルト・ヴァークナーは革命家として国外に亡命しており、その創作の真意を探れば探るほどその劇場作品やそれが上演される劇場の社会的な意味が明白になって来る筈だ。その一方、「ヴァルキューレ」の一幕を称して「私の栄養分」としてエンターティメントとしての興業性を見込んだことも事実である。まさしくこの一幕だけの上演をして作曲家の意志に反しているとするキリル・ペトレンコの言及は正しい。

それに比べるまでも無く「タンホイザーの上演を通して皆に明らかになった」というものは何かと考える。それは何も演出だけの成果ではなく、それを通しての音楽的な精査であったりする訳なのだが、やはりどうしても今回も誰かが上手く表現していたような三幕の「おくりびと」の風景が気になって来る。そしてその伝え方や劇場空間の構成の仕方で、カステルッチ演出がモダーンであるというのが漸く分かるようになってくる。つまり月並みな意匠を並び繋げただけに思えたのだが、今回の新制作にしてもミュンヘンでの反応を含めての劇場空間なのだと認識した ― そこになんらかの道を探るとしても良いのかもしれない。音楽劇場分野ではピーター・セラーズなどの劇場の壁を超える劇場が最も今日的とも思っていたが、流石に年齢も若く欧州の劇場人だけあって、― 芝居はオペラなどとは違って遥かに興味があるのだが ―、こうした出し方は芝居としても経験したことが無い劇場空間だった。

東京での三幕上演をして、キリスト的なものを感じたとの感想もあって興味深かったが、まさしくこの演出の核心は、二幕での並行上演されている「魔笛」のト書きの日本風の狩りの意匠などよりも、「一神教における非宗教」であるという宗教性だろう。ヴィーンの役者であり演劇人であるバッハラー支配人と新音楽監督が協調して進めて来たここまでの新制作の数々は一貫してそこに重点があることが分かって来る。そうしたものがミュンヘン的に思えるのは、ラッツィンガー教授法王時代に恐らくもっともカトリックからの離教をみたのは保守的なカトリックのバイエルン州でありミュンヒェンであったと思う。つまり三十年程前にはキリスト教社会同盟が圧倒的な支持を集めて、市民は、そうした世界観をよりどころとしていた時代とは打って変わって、先に述べたようにそうした政党において、なんら現在の世界をより良い方へと進める具体的な政策を出すと期待させるような理念と世界観の一致を見いだせないということになるのである。ドイツにおけるキリスト教離れはここニ十年ほどでも甚だしい。AfDが主張するような反イスラムへの支持も実は自己の世界観への懐疑でしかない。

それ故に、そうした視座を示唆しているカステルッチ演出「タンホイザー」の日本での反響が気になるとして記者を出しているのは南ドイツ新聞で、昨年東京での「ブルックナーツィクルス」におばさんを派遣したフランクフルターアルゲマイネよりも意味がある活動だろう。なるほどその読者層は、明らかに教養的に落ちていて、精々職業訓練のための高等教育を受けた新興アカデミカーぐらいでしかないので、南ドイツ新聞はその文章も内容も日本の朝日新聞ぐらいに程度が低いのだが、もしこの点に関して深く言及しているようであれば期間限定でお試しをしてみようかとも思っている。

繰り返すがカステルッチ演出のこうした世界観への懐疑とそれを俎上に載せる行いこそが19世紀のリヒャルト・ヴァークナーの創作の核にもあって、その革命性が「近代演劇の始まり」とする考え方は正しい。シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」との相似点などの指摘があったので驚いたが、漸くこれでその意味をも理解した。音楽的に解決されるべきこともそこにあった訳で、この点も音楽監督キリル・ペトレンコが指摘している意味で、ミュンヘンの初日シリーズでは歌手たちがこの演出へのレクチュア―をみっちりと受けていたことも窺える。キリル・ペトレンコが行う新制作の演出がいつも駄目だという意見があるが、そのようには思わないのはこうした理由からであり、それどころか演奏会形式での上演とかの話しは大間違いであるのは、この「タンホイザー」の本質と成果を見れば当然過ぎる帰結である。

余談ながら、「指輪」上演にはふた付きとふた無しの二通りがあるとするキリル・ペトレンコの見解は、その劇場的な解決の方法であって、演出とか演奏会形式とかとは全く別の次元の議論であり、なによりもその音響の話しでしかないのはいうまでもないことだろう。



参照:
「尹伊桑(ユン・イサン)」は、なぜ韓国政府の「ブラックリスト」に載っているのか、金成玟 (HUFF POST)
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
ホタテの道の金の石塁 2017-08-21 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-09-24 21:43 | 文化一般 | Trackback

ロメオ演出への文化的反照

d0127795_20134186.jpg
東京での「タンホイザー」初日の朝だ。朝一番で走りに行く。森の中は摂氏6度しかなかった。早めに切り上げる。汗を流してPCの間に落ち着いて座ると、一幕後の幕間に感想が入って来る。否定的なものが目についた。これもある程度想定内だった。自分自身もあの演出では腑に落ちない面が多くあったからで、録音で聞いても弓を引く音などがいらつかせた。ようやく最近になって録音録画を繰り返して聴くうちに落ち着いて評価出来るようになったぐらいである。それ故かどうかわからないが、一幕終了後に多くの聴衆が退場していったことを後で知り、バイエルン放送はそのことを報じている

立ち去った人たちは自身で大枚を叩いて券を購入した人は少ないのだろうが、たとえ企業やその他の関係で招待されていても最後まで観ずに会場を後にするということは全く以って理解出来ない。難し過ぎて面白くないとかいうことだろうか。勿論そうした聴衆の比率はオペラ劇場では少なくなく、それでも雰囲気を楽しむエンターティメントとして社会に定着している。もしこれが「魔笛」の上演ならば帰る人は少なかったのかもしれない。なにが楽しめなかったのかは興味深いが、もしミュンヘンでも全く知識無しにBMWの招待で同じ「タンホイザー」に人を集めたとしてもやはり似たようなことはあるのかもしれない。バイエルン放送は、「五時間の時間が長すぎるのか、それとも演出が気に食わなかったのか」と「クラシック音楽好きの日本人が」と驚いている。

前記のようなあの落ち着かなさは裸体の羞恥にあるかと思っていたが、もしかすると全体の舞台の与える印象もあったのかとも思うようになった。FAZの新聞評などには、「舞台上のスペースが空き過ぎでまるでヴィーヌスとタンホーザーが遠くでディアローグしているようで登場人物への演出が希薄になり」とかあったが ― 実際に劇場で見るよりもVIDEOの方が演出が効いていた ―、舞台構成上での印象も影響しているのかもしれない。背後の壁を穿つサークルも眼でもあり、カステルッチが解説するように眼の中のまた瞳があってと、これまた見られているようでの落ち着かなさが助長されている。

この演出について、皆が思うように、更に考えたいなどと露ほども思わないのだが、心理的な影響はかなり強く、無意識層に働いているのは間違いない。そのように気が付くと二幕、三幕とこの演出家の魂胆のようなものが見えて来る。この演出に腹立つ思いがするのは一幕で、そのあとは舞台への諦観もあるが、三幕まで筋が通っていて、そうでなければあの三幕の落ちは只馬鹿らしいだけのものになる。実際に録画を繰り返して見ているうちに、三幕が納得出来るようになった。正直最初に見た時はこの三幕の演出にはなんら関心が無く、新聞評の通りだった。

その点、密かに期待されていたように、バッハラー支配人が「何も日本に合わせて演出した訳ではない」のだが、三幕への支持は初日幕直後から強く、どうも全くその受け取り方がミュンヘンとは違うようだった。この三幕は、ショペンハウワー的な「仏教が再解釈されている」というロメオ・カステルッチの言葉が最も具体的に表れるところで、あの永遠の死の様な光景は、新聞では「母体より出でた時から始まる死」のルターの言葉をそのまま批評としていた。

その反対に、二幕のアンサムブルや最もこのオペラの山となるエリザベートの歌からフィナーレに掛けてへの言及が日本では全く見られないのは、嘗てあり得ない質のアンサムブルが技術的に巧くいかなかったとは思わないが、このオペラにおいて最もプロテスタン的な意志を以って最も心理的で情動的な部分なので ― 勿論音楽的にもここが頂点である ―、やはり文化的な視座が異なるのかとも考える。

もし今回の「新制作」を引っさげた引っ越し公演が、文化芸術的に何らかの意味を持ち得るとするならば、やはり様々な社会におけるこうした文化的な受容というものに注目しなければいけない。それは日本の西洋音楽界にとって、パンダの顔見世興業ではなく、その近代西洋音楽の在り方や音楽劇場の可能性についてまで考察しなければいけないということだ。台湾や韓国でのそれとは全く異なり、日本社会の教育やその文化の受容という意味でのその反響は、やはりこちらにとっても自らの文化的な視座を確かめるための音波を跳ね返す対象物のような意味さえあるのだ。その意味からもなかなかの文化芸術的な道具を与えて呉れたのはロメオ・カステルッチである。ミュンヘンの劇場らしい演出だ。

NHKホールの舞台の幅や奥行きに合わせて照明などの変更があったが、何よりも三幕のヴィーナスが歌う隠れた場所が無くて、「オルガンの中に入って歌って背後の反響が嬉しい」とカステルッチに代わって日本での修正にご満悦なパントラトーヴァ女史の様子をラディオは伝える。なるほど、この演出を通して歌手の一人一人までが明白な意図をもって舞台を完成させていると音楽監督キリル・ペトレンコの言う通りだ。



参照:
「全力を注ぐ所存です。」 17-09-04 | 音
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-09-22 20:14 | 文化一般 | Trackback

上野での本番などの様子

d0127795_4472920.jpg
早朝から霙交じりになるのではないかと思うほど肌寒かった。就寝時からタブレットが立ち上がらなかったので、走りに行くことなく、弄っていた。何かの拍子にシステムが壊れたらしいが原因はまだ分からない。簡単にリセットして仕舞えば立ち上がるだろうが、折角だから時間を掛けてPCに繋いで復旧作業をしてみようと思った。時間が掛かるのは、リセットしてそれを元通りに戻すにも無駄な時間が流れるから同じだ。それに比較すれば、結果は分からないが、復旧作業をする方がアンドロイドを学ぶことになり、上手く立ち上がればそれで終わりだ。そして以前よりも自由自在に動かすことが出来るようになる筈だ。丸三年間使ているものであり、この機会を逃しては徹底的に弄る機会はなかなか訪れないだろう。問題はこの寒い時に寝床の中で出来る作業ではなく、また直るまでタブレットが使えないが仕方がない。

そうした早朝に見つけたのが日曜日の上野でのコンサートの断片映像である。ラフマニノフの終わりから拍手までである。カメラの関係もあるが会場がとても明るく、音以上に明るいのかもしれない。日本の音楽会場ってあれほど明るいとは思ってもいなかった。恐らく舞台の照明の関係で文化会館は特別明るいのかもしれない。あれならばそのまま客席で楽譜が読めそうである。それにしても、自身の記憶以上に日本の特に東京の聴衆はクールで、演奏者はその静けさと共にさぞかし緊張するだろうと思う。

バイエルンのローカル紙が、そのリハーサルから記者会見そして本番までのことを纏めている - そしてこれからのタンホイザーの反響待ちのようだ。演奏は、マーラーの交響曲の演奏としてヤンソンス指揮放送交響楽団をドリームチームとしながら述べているが、先ずはスリル満点であるアンドレアス・オェットルのトラムペットのファンファーレと、三楽章のヨハネス・デングラーのホルンソロを称賛している。そして、その間のヒステリックに暴走しない「嵐のような動き」は、形式感を与えて且つその地下にどよめく動きを示してくれたとキリル・ペトレンコを称賛する。

キリル・ペトレンコのテムポの正しさと要を得た指揮は、多くの指揮者がテムポを弛緩させてしまうアダージェットにおいても流れを絶やさずに、それどころか世界中で月並みなマーラーの演奏実践の指揮者の勝手なルバートやテムポ変化などの垣根を取り払ってくれて、それによってコラージュがテムポの対比ではっきりと輪郭付けられたという。それらによって、空っぽの大見えやお涙頂戴で安物のおセンチ無しに、力漲る構成的でありつつ弁えた、マーラーにしたとある。

それにも益して三者の幸福な共演であるラフマニノフを挙げ、指揮者とピアニストであるイゴール・レヴィットのなりそめについて触れる。三年前のイスラエルでのベートーヴェンで、ピアニストの想定を超えた共演となって、今後他の管弦楽団との共演が今回との比較対象となってしまうとの大きな問題となった。どうも、最初は天才指揮者と座付き管弦楽団を少し軽く見ていたような感じを個人的には持っている。自身も語るように彼がとてもいい経験をしたのは間違いないと思う。まだまだ若い。

このピアニストが典型的なドイツのユダヤ人ならば、やはりキリル・ペトレンコは大分違う。これは年齢だけでなくて、移民としての環境も異なったのであり、今回の記者会見での第一声も殆んど外交官のように考えつくされていた。残念ながら同時通訳の限界でこの指揮者の言葉の選び方や心境までは即座に日本語に出来ていない。一部しか聞いていないが、何よりも感じたのは、言葉の背後には、「フクシマ禍を乗り越えて来て生きている人々への大きな畏敬のようなものを表明しており ― その背後には劇場支配人と六年前の大キャンセル騒動とその影響への危惧が話されているのだろう ―、同時にソヴィエト時代のシベリアの果てにおいて恐らく親戚などからも聞いていた日本の現状などへのイメージが、殆んどドイツ共和国大統領の第一声の様な練られた言葉で語られていた。あの人はいつも自分でメッセージをしっかりと自分で生真面目に書いているに違いない。だから、継ぎ足しに冗談にふった日本食などが強調されたのは忍びない。ドイツ側からしてみてもあまり触れたくないことなので敢えて聞き落そうとする心理が働いている。



参照:
Ein vertrauensvolles Miteinander, Marco Frei, Bayerische Staatszeitung vom 19,9,2017
上野での本番などの様子 2017-09-19 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音 
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-09-20 04:48 | 文化一般 | Trackback

謝謝指揮大師佩特連科!

d0127795_21151755.jpg
ネットで教えて貰って20年ぶりぐらいでバレンボイム指揮の中継をBGMで流した。キッチンで仕事をしながらなので細かくは分からないが、バスにしっかり積み重なるような和音をベルリンのスターツカペレが奏でていた。この音響は到底ミュンヘンどころかヴィーンでもドレスデンでも聞かれないなと思い、見事だと思った。バレンボイムのブルックナー演奏はLPでシカゴでのそれをリファレンスとしているぐらいなので信頼しているが、シカゴ響やパリ管での演奏と異なって到底細かな音符まで読み取ることも無く、結局は超優秀とは言いながら座付き管弦楽団に演奏させている以上のものではなかった。バイロイトでの指揮が如何に優れていても所詮BGM的な美しい音楽以上の楽譜を読み込むところまではいかないのを確認していたのと同様に一流交響楽団でないと指揮者としての化けの皮が剥がれてしまうようだ。それ故に今回の交響曲九番だけでなく、同じ座付き管弦楽団で録音した大量のメディアでこれといった成功した制作は殆んど無い。八番などもDL出来るようなので序に聞いてみようと思う。しかしそこにはそれ以上に素晴らしい音源があって、アンサムブルアンテルコムテムプランやパリ管などがある。面白いのを探してDLしてみたい。

それにしてもコンツェルトマイスターが前に立って調弦をしてという様がまるでプロシアの軍隊式で、現在のフィルハーモニカ―がインターナショナルな雰囲気に溢れているのに対してまるで東独のそのままの趣で驚いてしまった。この座付き管弦楽団はスイトナー指揮のモーツァルトのオペラやカール・ズスケの独奏や四重奏ぐらいでしか馴染みが無かったので吃驚した。いづれベルリンにも仕事の拠点を作ろうと思っていた矢先なので、あのようなプロシアの軍事指揮を見せられると嫌気がさした。そもそもベルリンは外国人ばかりなのであまり住み易そうでも無く、週末のラディオで十五万人のユダヤ人はドイツでのユダヤ居住地となっていて、イェルサレムと姉妹都市を結ぶフランクフルトとは大分違う。チューリッヒのようにオーソドックスのユダヤ人がうろうろと目立つことはないと思うが、下着の洗濯とか何とかラディオで聞くととても面倒でそれには到底付き合えない。

そうしてこうした皆がもっている本心をポプュリズムに乗じて政治的な発言としてちらちらと見せることで票を集めるのがAfDという政党である ― 要するにぶっちゃけトークで人気を集める話し手でしかない。選挙が近づくにつれてあちこちで反AfDへの運動が盛んになっている。そうした種明かしの抵抗がどこまで功を奏して奴らの躍進を出来る限り最小に抑えることが可能なのか?

反AfDと言えば、ピアニストのイゴール・レヴィットが拾ってきたネタに、政党のキャムペーンポスターを揶揄するものがあった。そこには、水資源をドイツの手にと言うのがあって、如何にも反グローバリストにも受け入れられやすいコピーであるが、写っているのが海岸の波打ち際で、「これは塩水です。飲んではいけません。」と投稿者は書く。要するにAfDなどはそれほどのギャグの政党である。どこかで同じような程度の主張をしている二流指揮者がいるのを思い出してもらえばよいだろう。

台湾の音楽会主催者が、キリル・ペトレンコ指揮演奏会二日目の数時間後には批評をサイトに載せていた。驚きでしかない。前日の分と合わせて用意していた原稿があるにしても日本の新聞批評に匹敵するようなもしかするとそれ以上の内容を直ぐに纏めている。殆ど徹夜で仕事をしているのだろう。

一番興味深かった専門的な批評は、ヴィーンの大学で17年前にペトレンコ指揮を聞いていたという作曲家の林芳宜のコメントである。特にベートーヴェンの第七交響曲の序奏四拍子(poco sostenuto)から六拍子(vivace)への経過句についてのどの録音よりもゆっくりと生き生きした緊張感で聴かせ、それに続く第一主題を分かり易く気持ちよく響かせる手腕を第一に挙げている ― その主題部は練習風景のヴィデオで充分に確認できる、その歌と分析の確かさがペトレンコの演奏解釈であるとしている。前日のマーラーに比較して、その柔軟性とテムポが、ベートーヴェンにおける古典的な声部間のバランスと共に称賛されているペトレンコ指揮の演奏実践である。但し作曲家はマーラーにおいては十二分にラインが出ていなかったと批判している - 座付き管弦楽団の限界を含ませている。次に二楽章のアレグレット指定のテムポが早く感じられたがそれは楽譜通りで、その「原光」が聴きとられなかった始まりも、弦の粘度を下げるような弓使いで、徐々に軽さを増していくようで、とても楽しめたとある。そして、その流れの良さに反する持続性にも感嘆していて、要するにそのリズムとテムポの自由自在のことに他ならない。

この作曲家がフルトヴェングラーの録音を比較したかどうかは分からないが、大管弦楽団でのベートーヴェン演奏実践において、それに作曲家も楽しみにしているベルリンのフィルハーモニカ―とのキリル・ペトレンコ指揮ベートーヴェンがそれ以上に意味が生じるとは容易には思えないが、このように聞くと少なくとも漸くそれに比較可能な演奏実践がなされる期待が膨らんでくる。兎に角、欧州ではまだ暫く待たなければいけないことなので、こうしていの一番にペトレンコ指揮のベートヴェン解釈について触れることが出来るのはなんとも羨ましい限りだ。イゴール・レヴィットの「エリーゼのため」にはまるで禅味と表現していて分かり易い。

その他、二日目はゴールドベルク変奏曲の一部が演奏されたようだが、その他には管弦楽団はアンコールを弾いていない。東京では一体どのようなアンコール曲がレヴィットにより弾かれ、更に最後に何かあるのだろうか?

その他の評は、日本の評論のオタクの様な程度で、微に入り細にベートーヴェンのテムポに触れたりしているが、あまり参考にはならず、結局はペトレンコはオペラ指揮出身だからと未だに全く頓珍漢なメロディーを聴いている人もいるようで、同時に楽団員長のギド・ゲルトナーの「交響楽団と座付き管弦楽団」への言及も載せていて何とかバランスを取っている。この辺りは、日本などは専門家よりもいい加減な音楽文筆業界が広く存在するために、余計にオタク状態が激しい。まさしく上の作曲家が言うように、こうした機会に演奏に興奮するだけでなく音楽を本当に学ばなければいかんと言うのが正論に聞こえる。

因みに牛耳藝術の牛耳は、ドイツ語ではスポックの様なSpitzohrとか英語のナイフイアーズとかになるが、審美眼の眼ではなく、耳が尖っていることを意味するようだ。



参照:
MNA超級樂季 完美開幕 (MNA 牛耳藝術)
作曲家林芳宜的五分鐘非樂評! (樂樂文化・HM網 Happy Music)
文化の中心と辺境の衝突 2017-09-09 | 文化一般
土曜日から日曜日のハイ 2017-09-11 | 雑感
台北での第七交響曲練習風景 2017-09-10 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-09-11 21:15 | 文化一般 | Trackback

文化の中心と辺境の衝突

台北からの写真が幾つか入って来ている。一枚は劇場のテュイッターで、もう一枚はイゴール・レヴィットのもので、お昼ぐらいから始まったリハーサル模様だ。最初に交響曲七番のプローベのようで、副調整室のようなところからピアニストが写しているので、その後にピアノ協奏曲ハ短調なのだろう。ベートーヴェンプロは10日日曜日なので、明日9日にこの6月に演奏されたプログラムのプローベなのだろうか。

このピアニストに、そんなそこからでも ― なぜ客席からではないのかは分からないが -、「ペトレンコ指揮の七番は圧倒的な響きだ」と書かれると、こちらまで興奮してしまう。ペトレンコ指揮によって特別な音響が響きわたる訳ではないが ― 中華圏ではインタヴューでの独自の響きに話題が集まっているようなのが彼らの西洋音楽受容として興味深い ―、カルロス・クライバー指揮のそれなどよりは圧倒的に引き締まったベートーヴェンが響くに違いない。そしてああした音楽がアジアでどのように響いて、立錐の余地なく入った会場で響くのを想像すると文化の衝突というようなものをどうしても想起するからである。

それは何も台湾、朝鮮からだけでなく、東京からにおいても注目される現象なのだ。今更ながら交響楽演奏世界のメッカの様な日本において改めて文化の衝突を想起させるのは、やはりペトレンコ指揮の管弦楽団の演奏行為が歴史的な源流を遡る行為だからであろう。特に、台湾、朝鮮などの管弦楽演奏はフォンカラヤン以降の管弦楽を抜きにしては語れないので、漸く本物の西洋近代音楽がその地で奏でられることになるのだろうか。

リハーサル会場にはドイツからの報道カメラが入っているようで週末には報じられるだろう。ソウルや東京にすれば日常のルーティン化されたシュービズの一風景かも知れないが、こちらからすると違うということだ。意味は全く異なるが、「もしあのフルトヴェングラーが幻の東京オリムピックに合わせてフィルハーモニカ―と凱旋していたならば」とか考えてしまうのである。文化の衝突の様な興奮をそこに感じる。

新聞に、エステルハージのアイゼンシュタットで開かれていた「ハイドンの日々」が今年からその州の援助のもと郊外へと追いやられた話が載っている。その音響的中心にあったハイドンフィルハーモニカ―は気鋭の指揮者の下エステルハージ財団の元の場所で演奏続ける一方、その生みの親である大物指揮者アダム・フィッシャーに率いられた自兵のこれまたデンマークの放送協会から駆逐された私立の管弦楽団が、ここで再び駆逐されて郊外の町で、その一件の怒りに燃えて演奏したことが伝えられる。そこでは、70歳になろうとする指揮者は、嘗て批判されたようなものをかなぐり捨てて、「その年齢に達したと見えて、なりふり構わぬ演奏を繰り広げた」ように響いたようだ。テムポ、パウゼ、音量の変化、挑発的な奏法などが、交響曲などでと同じように宗教曲でも強調されることから、明らかに楽天的で欺瞞に満ちた信心のように響き、まさしく宮廷から野に放たれたようだと結んでいる。こうしたローカルな演奏行為にありがちな普遍とはならない音楽行為の典型かも知れない。



参照:
twitter.com/pfaelzerwein
bayerischestaatsoper (Instagram)
Bayerische Staatsoper,
MNA 牛耳藝術#bmw大7之夜,
誰是佩特連科? -談出身、成名之路、人格特質、音樂風格 (facebook)
Digitalisierung ändert Alles!? 2017-09-08 | BLOG研究
外から見計らう市場 2017-09-07 | 雑感
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-09-08 17:13 | 文化一般 | Trackback

ホタテの道の金の石塁

d0127795_225942.jpg
承前)カステルッチ演出「タンホイザー」を、その前に「兵士たち」のヴィデオを観たことで、よりよく理解した。細かな謎解きは幾らでもありそうなのだが、それが音楽の本質に根ざしていて、創作を理解することにどこまで役立つかのかどうかはとても疑問である。そして、先にアップした一幕の写真の金に輝く岩のように理解に役立つ意匠はそれほど多くは無い。

その巨岩に関してはプログラムには触れられていなかったが、劇場が後になってその意味するところをネットで謎解きしていた。それは、最近も益々「自分発見の旅」として人気の絶えないサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道(通称ホタテの道)にあるクルツデフェローの十字架の立てられた石の山を意味するということだった。その石の山は巡礼者によって運ばれた石で築かれていて、今でも多くの人々がそこに世俗の罪の石を棄てていくということである。そうして築かれた丘を岩を意味する。

そして三幕一場で、ローマから戻ってきた巡礼者たちは最早巨岩でなくて両手で抱えるような金の石を各々が携えている。そしてそれを携えたまま去っていく。その巡礼の列にエリザベートはタンホイザーを求めるが見当たらない。

タンホイザー役のクラウスと記された石棺に少し大きめの金の石が置かれたままだ。そこから永久の変容が始まる。ヴォルフガングが「おお優しい夕星を」と歌い、闇に染まるヴァルトブルクの谷の上に広がる天を見上げる。そこから途轍もない時が流れ、悠久の変容を重ねていく。ありとあらゆるものは掌から零れ落ちる砂と帰す。

実はクリーゲンブルクの「兵士たち」演出での黙示録的光景の中で、十字架によるカトリック秩序と過去から現在、未来への時間の推移が円環をなして、原始的な普遍的構造を有するという発想がここでも活きて来る ― ここでは時間は矢に表される。とんでもない時の経過を示すテロップが示すものは普遍的な存在を示すことになる。背後の環の中で蠢くものは生物であるのかもしれないが、必ずしも人類とは限らない。そう思うと二幕における意味不明の芋虫ごろごろのバレー団のマス演技も幾らかは理解できよう ― まるで日本の初等教育におけるお決まりのタンホイザーの音楽が流れる運動会風景であり、カステルッチは9月の東京引っ越し公演にこれを合わせたとしか思われないぐらいである。

そもそもこのオペラの内容自体が、ラインのロマンティックなどを超えて遥かに形而上のものであり、その音楽的に限られた素材の中で、楽匠を死の直前まで苦慮させたものである。今回の新制作のプログラムには御多分に漏れず逐条的、意匠ごとに言語的定義付けが試みられているが、そこから創作の苦慮が解き明かされるとは思わないのは、カステルッチ演出の謎解きの徒労と同じである。

とどのつまり音楽の抽象的で歴史文化的な面から内容を観察しないことにははじまらないのである。だから音楽的にも筋書的にも重要な要素である巡礼が時間的空間的な構造を定めているのは当然かもしれない。丁度それとは相容れないような形で、二幕の歌合戦の場では「芸術」と記された半透明のボックスが置かれて、その中の「営み」が具象化される。そもそもの一幕における乳出し祭りとその白い衣装は所謂ニンフのそれであって、エルザの白い衣装や何かを隠すヴェールにも共通していて、それがまた営みの発動となっている。当然のことながら「狩りの悦び」へ繋がれるのは、プロテスタントのクラナッハの「寓話」に描かれているそのものでしかない。なるほど、イタリア人でなければヴァークナーの「救済」にこれを描き出せなかったのかもしれない。それは二幕の「ローマへ」のフィナーレにおいては効果的に機能していたのだろう。

そのように辿っていくと、一幕での聴衆に与える一種の焦燥感と肉塊が、三幕では諦観と死体の腐乱へと引き継がれて、劇としての効果を上げていた。しかしそれが音楽劇場的な効果ではなく、エリザベートを歌ったハルテロスの渾身の役への同化的な芝居的効果となっている。結局は、音楽的な効果を待つことなくしては幕は一向に下せそうにない。(続く




参照:
聖なる薄っすらと靡く霧 2007-11-03 | 暦
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
辺りをふらついてみる 2017-08-07 | 生活
芸術的に配慮したarte新動画 2017-08-03 | マスメディア批評
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-08-20 23:01 | 文化一般 | Trackback

ストリーミングの昨日今日明日

d0127795_2111422.jpg
そろそろ新制作「タンホイザー」の続きを語らなければいけない。その間に、ベルント・アロイス・ツィンマーマン作曲「兵士たち」を観た。新音楽監督就任後三つ目の新制作だった。残念ながらこれは最後の2014年11月4日の上演も見逃している。既に7月にバイロイトの「指輪」でその稀有な才能に出合った筈なのだが、ミュンヘン詣ではクリスマス前の「影の無い女」まで持ち越された。この辺りの判断の遅れは、やはり二十年ぶりの歌劇場訪問でまさかそこまで上質な上演が平素行われているとは知らなかったからである。書いたものを調べると、その時に初めて指揮姿を観たことで詣でを決心したのだろうから、バイロイトであれだけの体験をしながらも見過ごしてしまう理由はあったのだろう。

しかしこの5月25日の新制作公演は、初日からとても評判が高く、その新聞記事の内容も覚えている。それでもバイロイト体験する前であるから、なぜこの曲がケント・ナガノ指揮で演奏されなかったのかと残念に思ったぐらいだった。ケント・ナガノ指揮ならば出掛けていたかもしれないということになる。今手元にあるのは、DLした4.93GBの5月31日上演のストリーミング録画である。音質的にはもう一歩もの足りないので、生で体験できていない分を埋め合わせることは叶わない。

クリーゲンブルクの演出も上出来で、また主役のバーバラ・ハンニガンも素晴らしく、誰がその代わりに歌えるのかも想像つかない ― 本日朝のラディオではルールビエンナーレでのメリザンドの歌唱と演技が評価されていたが、女性の非をも扱っている演出としていた。ツィンマーマンの戦後の多層的な音楽は、指揮者オクサーナ・リニヴをアシスタントとして高品質な演奏が繰り広げられている。新聞批評にあったように「そのシーズンにあった(世界のオペラ劇場での)新制作とは距離を置いて断トツの上演だった。」というのはとても上手に表現されていたと思う。要するに座付き管弦楽団がこの作品を演奏する場合の模範的上演ということだろうか。今回は、トレーラーにあるのと同じゲネラルプローベ時の映像などが新たに見つかったので、再度全曲を流してみた。

オープンVPNを便利に使えるSoftEtherVPNというPC向けのソフトをノートブックにインストールした ― LINUXにもインストールしなければいけないかもしれない。基本はアンドロイド用アプリと変わらないがPC用なので多機能で使い易い。なによりも同じリストでもViewが異なるのでその所在地まで分かる情報も書かれていて、別途調べる必要もなく、リストから直接所望の場所でのサーヴァーを選択可能となる。希望する所在地のサーヴァーにアクセスして接続すれば、PC全体がその土地にあるのと同様にネットサーフィン可能となる。リストは偏りがあるながらも世界的なネットになっているので、安定しているサーヴァーさえ選択すればOPERAのVPNサーヴァ―よりも遥かに可能性が広がる。RADIKOもブラウザーを開くとご当地の参加ラディオ局のリストが表れる。どこかに接続した場合はラディオ日本ぐらいしかなかったので可成り地方にあるサーヴーを選択したようだ。

VPNゲートに接続して、また必要なければ断続すればよいので煩わしさは殆んど無い。つまり通常のネットストリーミングと同じように使える。このまま進めばTVステーションというのが今後も存続するとは考えられなくなる。一方では日本の家電などが落伍したように高品質ハイヴィジョンがあって、一方にはネット配信しか観ないという人が殆んどになって来ている。ドイツの公共放送はネット配信を積極的に推し進めたので、聴視料も強制的に世帯事業所ごとに徴収するようになって、そして聴視料を払っていない限り海外では見られないようにブロックを掛けた。しかしこうしてVPNを使うとその効果も無くなる。やはり、報道などのネットワークも国際的な網を掛けないとグローバル化が思い通りに進まなくなる。そうしたネットワークの構築の弊害と混同されているのが著作権やその著作権徴収団体などだが、実は全くそれとは関係が無い問題なのである。因みに上記の劇場作品は著作権がまだ活きているので、地域限定で徴収するとその場合はやはり著作権料の徴収に問題が出る。



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-08-19 21:04 | 文化一般 | Trackback

文化需要の光と影のその間

d0127795_23571178.jpg
日本語のテュイッターをみたら面白いことが書いてあった。北欧で昼日中からヘッドランプを点灯しているので、「法的拘束があるのか」という投稿だった。それを読んで思ったのは日本では昼間にライトをつけるのは二輪車ぐらいしかないのだろうということである。なるほどドイツでも陽が落ちてから無灯火で走る馬鹿者が時々いるが、北イタリアなどで冬季の灯火が義務付けされてからドイツでも白昼の灯火は増えた。

日本はそもそも陽射しが違うので灯火の効果が限定的なだけでなく、夜間の明るさが異常である。夜間の高速道路でも街路灯がついているのはベネルクス三国以外に欧州では他に知らない。ポーランドも今は照明されていると聞いた。アウトバーンであると中途半端な光があると高速は出せない。だからハイビームが自動調整されるシステムが普及すると早く走れるようになる。

そんなことよりも考えたのは光と文化だった。前述の日本の陽射しに気が付いたのは日本に初めて降り立った時で、二三か月の欧州旅行からの帰宅時には全く気が付かなかったことだ。冬を通じて少なくとも数年以上は欧州に住み続けていないと分からない感覚で、若しかすると毎年夏に帰省しているような長期欧州滞在者にはいつまでも分からないのかもしれない。それでも移住を決心する原因の一つに、日本の夜の明るさでは文化的な活動が出来ないと考えたことがある。不夜城と見做されるアジアでも特に明るいのが東京を中心とした日本の大都市圏であるのは今やその衛星写真から皆知るところであるが、それは甚だしい。それでもネットにて夜の光害について扱っている人には一人にしか出会っていない。多くの日本人は気が付いていない様だ。

光の文化は、色彩とかそうした視覚的な印象を語るのだろうが、その影の文化は、遥かに豊かである。殆ど原始的な印象を人はそこに感じる。夜の闇でもある。そのように思うと手元にあるヴァルター・べンヤミンの「ベロリニアーナ」に手が伸びた。19世紀末から20世紀始めの子供時代のベルリンを語っている。とても多くの影が印象されるのはユダヤ人の生活感情の目を通しているばかりでは決してないだろう。そしてソヴィエトを訪れて理想の世界である共産主義国の張りぼての光と影を観て失望して戻って来た。我々が国境の向こうの東独の奇妙なネオン管の光の色に不思議な気持ちがしたのと同じようなものだったろう。

地上の境だけでなく、そこに境があると思う。これは二元論でもなんでもない。そこから芸術が始まるということだ。日本社会から影を奪った責任は松下幸之助にも間違いなくあった、それが豊かさであって、幸せであったのだ。そして近代化の日本社会の変遷でもあったのだろう。恐らくその環境への意識が西欧と最も日本が異なるところで、その文化的需要の質が最も異なるところだろうと思った。日本のE‐MUSIK需要の限界もそこにあるように思う。



参照:
街の半影を彷徨して 2005-12-11 | アウトドーア・環境
影に潜む複製芸術のオーラ 2005-03-23 | 文学・思想
技術信仰における逃げ場 2007-11-06 | 雑感
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-08-17 23:59 | 文化一般 | Trackback

音楽芸術のGötterFunke体験

d0127795_19172770.jpg
夕食を済ましてからザルツブルクからの中継を見聞きした。午後に行われたものをラディオもTVも時差を置いてゴールデンタイムに流した。arteのこの種の放送としてはミュンヘンの「タンホイザー」が話題だが、制作に手間暇を掛けているかどうかが問われるところだ。

新聞評はムーティ指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―が健闘しているとあまりに強調していたので、折角ならとラディオ高音質録音を試みた。しかしBRクラシックで今まで経験したことが無いぐらい最初から最後まで秒以下の中断があったりして、尋常ではないアクセスの集中が推測さられた。要するに我々が熱心になる「スーパーオパー」とは異なり「オペラ」上演ということで「三人のテノール」ファンのような人々までの関心の広がりがあるのだろう。出来るだけ拘わりたくないものであるが、1月のシカゴ交響楽団との演奏会での趣味の良いエンターティメント性はこのマエストロのオペラをも無視できなくした。

そのように期待してあまり十分でない放送を聞くと、座付き管弦楽団の下手さ加減だけが耳について楽しめない ― 最近はベルリンのフィルハーモニカ―とかペトレンコ指揮のスーパーオパーしか体験していないのでもはや普通の名演などでは耐えられなくなっている。モルティエ時代にしても結局は記憶にしっかり残っているのは、コンセルトヘボー管弦楽団の「モーゼとアロン」であったりするので、ヴィーンの座付き管弦楽団が真面に演奏していたのはカール・ベーム博士指揮の時ぐらいしかなかったことを思い出す。

但し、ヴェルディの書法を熟知したマエストロの指揮は流石であり、デビューで大成功をしたこの作品においても歌手の間合いなどをさきさきに見通しながらのテムポ設定や色付けそのドラマテュルギ構築が見事としか言えない。なるほどシカゴなどの超一流の交響楽団からの音楽と、座付き管弦楽団からの音楽では比較にならないのだが、普段のヴィーンの歌劇場ではなかなか体験できないオペラ上演がなされるのがザルツブルクでありその点でも最上質のエンターティメントに他ならない ― まあ、昨年の復活祭の「オテロ」とは流石に世界が違う。

お目当てであるアンナ・ネトレプコについては、売り出しの頃にゴールデンタイムのゴッチャルク司会のZDF番組で歌っていたのをいつも思い出すのだが、その時の印象は今回も変わらなく、技術的にもしっかりしていてということで、新聞評でも高いCとかピアノのAsとかの話しつまり声楽的な技術の職人的な評価が全てである。オペラファンというのは、コンサートゴアーズが指揮棒の上げ下げを云々するような感じでそうした職人技に関心がある人が少なくないのかもしれない。我々音楽愛好家からすれば、歌手のそれやオペラの音楽的な不正確さなどに言及するとなると上演などなり立たないと考えるので、あまりそれには関心が無いのである。

その意味からもマエストロのエスコートぶりは本物の名人芸である。ネトレプコは、TVで現在はオーストリア国籍とされていたが、指揮者のゲルギエーフと同じくプーティン支援者の代表的な存在で、たとえ厚遇されたとしてもスイスではなくオーストリアというのが興味深い。兎に角、この人気オペラの実演をバーデンバーデンで体験するようなことがあるようには思わないので、またその映像も手元に無いので先ずはDLしておく。HLSストリーミングファイルをストリーミングと同じように落とすので、3.256GBのDLで上演時間だけ時間が掛かった。三幕以降しか生で観れなかったので ― なぜかそれでもラディオよりも安定していた、初めて動画を流すことになる。

世界が違うと言えば、ボンのベートーヴェンフェストから冊子Ludwig!が届いていたので、それを捲ると昨年のPVの様子が写真として掲載されていた。当日会場にいたので海外放送局ドイツェヴェレによるそれは観れていない。だから探している ― ネット中継されているのでDW以外にもどこかに全中継コピーが存在する筈だ。これはと思って早速探すとやっぱりDWに障りがあった。これだけでもとても貴重である。個人的な思い出ではなく、あの時のテムポが記憶でなく記録として示されることで、可成りの部分が再現可能となる。あの特にチャイコフスキーからアンコールまでの流れは、キリル・ペトレンコ指揮演奏会の中でも屈指の量子的な飛躍のあった演奏で、まさしくGötterFunkeの体験である ― 永く音楽会に通っていてもこういう飛躍の時というのは稀であり、フルトヴェングラー指揮演奏会のようには行かない。

チャイコフスキーのコーダ近辺のテムポの推移などは基本テムポとその設定から演繹するしかないが ― この指揮者の演奏実践上でのテムポ設定とその維持また推移には恣意や偶然は無く、あるのは音楽構造であるから演繹可能となる ―、この短い障りからでも他の会場での録音のテムポとその会場で感じた体感の比較は可能となる。アンコールの「ルスランとリュドミラ」もカルロス・クライバー張りの管の短い跳ねなどは聴けないが、ややもすればムラヴィンスキー指揮のあの超高速のそれをどうして思い出してしまうので、ここでの快速の障りだけでもとても有り難い。

オペラの上演とコンサートの上演の体験の質は全く異なるが、エンターティメントの体験と芸術体験というのは往々にして相容れないということも確かであろう。だから私などは芸術体験の前には一切アルコールを口にしなくなったのである。演奏家がほろ酔い機嫌でヴィーナーヴァルツァーのようなことは出来ても、芸術などは全く表現できないのと同じことである。例えば同じ芸術表現でもレナード・バーンスタイン指揮の演奏会では体験できなかった芸術というのがそこではとても重要なことになる。



参照:
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
ドイツ的に耳をそばたてる 2016-09-18 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
[PR]
by pfaelzerwein | 2017-08-13 19:19 | 文化一般 | Trackback