カテゴリ:文化一般( 229 )

三段論法で評価する

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竹で木を継いだような歪な構成で上演されたのがピーター・セラーズ演出のアンティオペラ「ルグランマカーブル」らしい。その一度目の挑戦であったザルツブルクの初日はグロテスクのみがサロネン指揮によって強調されていたことで、作曲家リゲティの怒りをかったのを目の辺りに見た ― それ以降全集録音は取り止めになって、この指揮者の欧州大陸での活動は限られることになったのが事実だろう。だから演出家にとっては不幸にも大きな称賛を浴びるまではいかなかった。しかし今回はサイモン・ラトル指揮の演奏会形式でヴァイオリン協奏曲などが歪に挟まれたことなどと、何よりもフィルハーモニカ―が中々の熱演をしたようで、より抽象化されたそれが大変上手くいったようだ ― 核廃棄物などが意匠として使われているようだが、原子力マフィアだけでなくアンティ原子力マフィアが扱われているようでとても興味津々である。ベルリン以外でも公演があったが北ドイツに限られて態々出向くほどでは無かったので、デジタルコンサートでの映像が楽しみである。

チャイコフスキーの悲愴交響曲のお勉強を始めた。先ずは参考資料として三種類の録音を流した。小澤征爾指揮ボストン交響楽団、フルトヴェングラー指揮ベルリナーフィルハーモニカ―、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハーモニー管弦楽団の演奏など代表的な録音である。一番楽譜に忠実に丁寧に情報を取り出して演奏しているのはフルトヴェングラーの1938年のSP録音原盤だった。傷はあっても演奏技術的にもサウンド的にも、恐らく歴代この交響楽団が残した制作録音の代表的なものではないか。第一楽章などは本場ものとは違っていることは分かっていても交響曲芸術としてとても優れたものだ。しかしその他の楽章ではどうしてもブラームス作曲などのように聞こえてしまって明らかにリズムの譜読みが間違っていることが分かる。ムラヴィンスキーの演奏はその点は間違いなくても、三楽章のスケルツォなどは流しているところもあってリズムが弛緩するところもあり、旅先のヴィーンでの恐らく一発勝負の録音だから仕方ないのかもしれない。また弦の合奏などは超絶技巧なのだが木管楽器などの音色や合わせ方などは当時の流派らしく、またプロレタリアートの簡易な音楽になってしまっている。それでもダウンボーでの弱起から最初のテーマの全体的な意味付けが明晰になって、流石に当時最もこの交響曲を指揮していたであろう巨匠の実力が示されている。小澤の演奏は期待していたほどに細部や対・内旋律などが浮かび上がらなくて、軽やかさどころかとんとん拍子の浪花節になっていて失望した。当時日本で言われていたようなニュートラルな演奏解釈などでは決してなく、ツルツルテンテンの管弦楽演奏になっていて、伝えられるところの一音一音、一点一画もゆるがせにせずのトウサイ先生流とは全く異なるということだろうか。

フルトヴェングラーの超名録音で思い出したが、丸山眞男の愛読書が宇野功芳著「フルトヴェングラーの名盤」とは気がつかなかった。考えてみれば当然の帰結なのかもしれないが、あの二人が全く結びつかなかったのである。これだけを考慮しても、吉田秀和よりも宇野功芳の方が褒賞に値するのは言うまでもない。「丸山眞男音楽の対話」に載っている手書きのメモを見るとこれ程熱心に宇野の文章を読んでいる人物こそが日本を代表する学者なのである。

ネットを見ているとミュンヘンの座付き管弦楽団が17席も募集していた。世代交代もあるのだろうが、管楽器などを中心に先ずはキリル・ペトレンコの下でオペラをやって、力がある人はベルリンのフィルハーモニカ―にでも行こうと思う人がいてもおかしくはないと考えたのだろうか。少なくとも今ならば可成り優秀な若い応募者が集まると考えたのかもしれない。少なくともあと数年はまだまだ上手くなる管弦楽団であるから楽しみである。



参照:
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-02-27 19:38 | 文化一般 | Trackback

地方の音楽会の集客状況

エルブフィルハーモニー会場関連の記事は続いた。興味深いのは開会の時のメドレーからリーム作曲の世界初演曲が独仏文化放送局ARTEの番組からはカットされて放送されたということだ。勿論この専門局は必ずしも大衆文化向きの放送局ではないのでまた北ドイツ放送政策の放送権の問題ではない。寧ろ不思議に思うのはZDF系のこの放送局が態々ARDの制作ものを流す必要があったのかどうかということだろうか。フランス人に見せたかった意味も分からない。

兎に角、本当の芸術的な会場はその後のケント・ナガノ指揮のヴィットマンの新曲の初演にあったとあり、またムーティ―指揮シカゴ交響楽団の素晴らしさが書かれている。名匠に棒によって弱音が響きとか書いてあるので同じプログラムがバーデンバーデンでどのように響くかが楽しみである。また昨年前の席でガールフレンドと一緒に聞いていたフリードリッヒ・ハースの作品がアンサムブル・レゾナンスで中劇場で演奏されて、なぜ大劇場でできなかったかなどと書かれていて面白いと思った。編成は分からないがハースの作風も大ホールで集客可能なものである。

そしてベルリンでの管弦楽団について同じ新聞で書かれていると、コンサートというのがやはり北欧のものだと感じさせる。それでもハムブルクは七割程度と連邦共和国内では下位で、八割から九割の客席占有のベルリンの聴衆は飽きもしないコンサート好きとなっている。東ドイツの旧放送交響楽団が未だに存在して演奏活動をして、RIASのそれと並んで存在しているというから驚きである。片や戦前からのMDRに続く二番目に古い放送交響楽団で片や進駐軍のとなり、東ベルリン、西ベルリンの異なる聴衆層がいるのだろう。

前者は新任ユロフスキー指揮で意欲的なコンサートを行いミュンヘンの放送交響楽団に競り合いたいというのである。前任はマルク・ヤノフスキーであってあくまでもローカルな指揮者であったのがペトレンコのあとを受けてバイロイトデビューしたことが驚きだったとされる。なるほどヴィデオにある通り、フィルハーモニーを一杯にする人気老指揮者が振る演奏は如何にもローカルな放送交響楽らしくない荒っぽいもので、マタチッチ指揮N響ののそれを思い起こさせる。新指揮者の指揮は魅せるものを自覚しているようだが、腰振りのクリスティアン・イェルヴィやダンスマスターのネゼセガンなどとは異なりとても演奏とシンクロされていて息遣いのようだとされる。

もう一つの西側の後者もティチアーティという1983年生まれの指揮者が就任するようで、コンサートを開いた。それによると、前任者のテーュガン・ソコロフのシューマンを引き継いでも、不干渉で殆んど叶わなかった幻想性や瞬発性をもったフレージングという面が、新任者ではなくなったと評価が高い。

合唱団を入れて四つの団体の資金面は2020年までは確保されているという。しかし一流の管弦楽団を二つ維持することはバイエルン放送局でもなく、最大のNDRでもんない。SWRの一つは潰された。東西ベルリンの特殊事情や聴衆の数はあるだろうが二つが同じ方向で維持継続されることはあり得ないだろう。所謂ポピュラー音楽名曲演奏の管弦楽はまだほかにもあるようだから、フィルハーモニーよりも意欲的なプログラムを提供する放送交響楽団ならば存在理由はあるのかもしれない。



参照:
ヤノフスキーのワンパターン 2016-07-28 | 文化一般
TV灯入れ式を取り止めた訳 2017-01-02 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-01-22 15:00 | 文化一般 | Trackback

復活祭音楽祭の記録

ムソルグスキー作曲「ボリスゴドノフ」を流している。来週のシカゴ交響楽団演奏会への準備でもある。手元にある録音は、ザルツブルクの復活祭で演奏された機にフィルハーモニーで録音されたものである。クラウディオ・アバド指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の代表的な録音だと思うが、今回聞いてみるとなぜか物足りない。響きも美しく明晰な線も出ているのだが、歌詞と音楽の特に歌詞の多い場面に来ると違和感のようなものを感じだした。夏にはゲルゲーエフ指揮でヴィーンの座付き管弦楽団演奏で同じものを体験しているがこれと比べて優れた面はそれほどなかった記憶しかない。この曲も前任者のフォンカラヤンが得意としていたのだ。

先日腰痛で横になりながらつまらない新書本を開いた。丸山眞男の音楽に関する証言として書かれた本だが、上手にエピソード等をまとめているが如何せん「不肖の弟子」の仕事なのでその音楽への見解が充分に読み込めていない。フルトヴァングラーへの見解以外には全く期待していなかったのだが、ヴァークナーなどについても触れられていて、逆に丸山の音楽や芸術恐らく美学や哲学に関する見識の限界が弟子によって明らかにされることになっている。趣味教養の音楽愛好者としては素晴らしいものであるが、我々はどうしてもこうした日本を代表する学者にはそれ以上のものを期待してしまうのである。

例えばヴァルキューレ第二幕二場のヴォータンの歌からフリッカの責めに移る部分での下降旋律の挫折といわれるような動機を挙げて語らしているのだが、なるほどそこからの変容が大きな意味を持っていても、ここにおいては明らかな進行になっていてそこで話題となっている様な楽譜を読み込む個所ではない。寧ろ我々は丸山がそうした権力の滅亡についてどのような意識でいたかなどに興味が向かう。それは同様に楽匠がスイスでの個人的な一悶着を超えてどのような世界観で創作にあたったかということにもなる。正しく芸術の受容の本質はそこにあって、不肖の弟子たちのような大衆が娯楽にどのように反応するかというようなことではないのである。

折角であるから、お蔵入りにしていたフルトヴァングラー指揮の最後の録音とフォンカラヤン指揮のザルツブルクの復活祭のあとに録音された演奏を聴き比べる。キリル・ペトレンコ指揮でも2014年と2015年を比較してみる。大成功の2015年の録音でも寧ろ当該の動機よりもその前に同じように剣の動機が鳴り響いたあとに出て来る指輪の動機の方が印象に残る。フルトヴェングラー録音の方はズートハウスなどの達者な歌手が歌う叙唱風のところが絶品である。

こうして音盤などを聞き比べしてしまうとどうしても一つの結論めいたことへと思考が向かってしまう。特にフォンカラヤンの「ヴァルキューレ」などはこの復活祭に復活上演されるというが、この録音を聞く限りにおいては、とてもその企画を疑問視するしかないこととなる。

そのLPボックスの解説書にはカラヤンの演出に関しての文章が載っている。それによると音楽面でフォームを大切にして対位法書法などに留意しながら指揮者の経験の中でヴァークナーの楽劇を主要レパートリーにしていったというような書き方をしている。そしてヴィーンに続いてザルツブルク復活祭を始めるに及んで「権力者とその葛藤」を中心に描くことになったのだという。つまり、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」並みの意識での自己陶酔の演出だったとなる。

この文章を読んでも分かるように、まさしく音楽の正しいスタイルを全く表出できなくても同じように自らの舞台つくりにこの楽劇を利用するというその姿勢が演出の特徴となる。それをこの復活祭に50年目の記念ということで1967年のカラヤン演出を復刻させるというのだ。バイロイト初代音楽監督はカラヤン財団との関係でその娘などを利用しながら芸術監督になろうとでもいうのだろう。兎に角考えていることが時代錯誤が激しいようで、ビジネスモデルが極東市場狙いとはいってもそのようなものを有り難がる人が今時いるのだろうか?



参照:
水道水に癒されるこの頃 2016-07-02 | 雑感
ネットでの記録を吟味する 2015-11-30 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-01-20 16:00 | 文化一般 | Trackback

ピエール・ブーレーズの家構想

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エルブフィルハーモニー開館の話題が新聞に載っている。しかしその前日のロマーン・ヘルツォーク元大統領の訃報ほど関心はない。何といっても大統領として最も価値のある発言を数多く残した大統領であり、最も印象に残った眼はヴァイツゼッカー元大統領のそれだったが、言葉においては遥かに知的で深みがあった ― そして死の直前にも最高勲章の授与を辞退して話題になっていた。このように書けばどのような元憲法裁判所の判事だったか分かるだろう。

フィルハーモニーの開館は式典がネットで中継されることは知っていたが直ぐに忘れていた。昨年からのいろいろなプログラムを見ていたがフランクフルトのアルテオパーで聞けないものはNDRの放送管弦楽団とハムブルクの座付き管弦楽団演奏会位でその他は殆んど興行師が同じだった。要するに現支配人は、ベルリンでペトレンコ体制の支配人となるのだが、あまり業界で企画などが出来る人ではないということだろう。

それよりも興味深いのはバーデンバーデンのピエール・ブーレーズ邸が売りに出されているという記事である。同時にその利用の可能性が提議されている。ハムブルクのそれとは違って僅か三億円ほどのことであるから税金を注入しても容易い筈だ。

1958年にその50部屋ある家の二階の間借り人となってから次々と買い足していったということである。550平米あるその家で数々の名作が作曲された。丁度トンネルの反対側のブラームスの夏の短い滞在とは異なる創作の場所である。遺言等はなくとも本人の意思から、ミュージアムやその他の扱いではなくて、フェストシュピールやZKMなどと活きた音楽の館として使っていきたいという案がある。

既に所有のクレーの名画などは相続人11人の中で売却されており、また音楽的な自筆譜などの資料はバーゼルのパウル・ザッハー財団に寄与されていることから、この自宅が大きな相続物件となっている。ブーレーズアカデミーにバーデン・ヴュルテムベルクの援助がされる可能性があり、ベルリンのフィハーモニカ―やSWR音楽部や元管弦楽団員、カールツルーヘのZKM、ドナウエッシンゲン音楽祭のシュペートケーラー未亡人などが名を連ねているが、まだまだハウス維持への協力者を広く求めているということである。既にロシア人から不動産物件への投資の問い合わせが入っているというので急がなければ売却されてしまうというのだ。

バーデンバーデンの祝祭を文化的にも定着させようと思えば何らかの形でブーレーズの家構想に地域社会も協力すべきだろう。ベルリオーズとかリストなどとの公爵時代の関係とブラームスやロシアの文豪の夏の保養地というだけではモーツァルトのザルツブルクとは勝負にならない。ブーレーズから連なる現代音楽の新たな活動拠点として定着すれば若い人々の活動や行き来も増えるに違いない。


写真:赤丸の大きい方から、クアハウス、祝祭劇場、ブーレーズハウス。



参照:
ピエール・ブレーズ追悼記事 2016-01-08 | 文化一般
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
右の耳が痒いから 2005-04-23 | 歴史・時事
普通の国のまともな大統領 2010-06-02 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-01-13 21:59 | 文化一般 | Trackback

イスラム化を阻む漫画化の威力

車中のラディオは、ムスリムを取材して、インタヴューを流していた。女性の祈りや金曜午後の仕事時の祈りの時間やその作法などについてである。そして一人がムスリムとしての信心について語る。「神は命」であるのになぜ自殺テロなどが起きるかとの問いに答えてである。それによると、「今起きていることは神が与えた試練であって、皆がムスリムになれば解決する」ということらしい。キリスト教の救済もユダヤ教の何もかも同じであるが、簡単に現実的に成就するようなことでは宗教にはならないのである。それを称して信心という。イスラム教も宗教としてサブカルチャー化して仕舞えば解毒出来るのだがカトリックなどと同じようにその勢力も衰えていくことになる。

新聞にクララ・シューマンが日本の漫画化されていることが報じられていたが、音楽芸術などもサブカルチャー化されることで本来の爆発力も影響も失われてしまうので、ムスリムがモハメッドをコミック化することに過激に反対するのもある意味正しいのである。コミック化というのは ― デフォルメと言い換えることが出来るが ―、それがアニメ―ションでありどのような形であり、解毒化、サブカルチャー化としての非文化化にとても大きな威力があることがこれでもよく分かる。このことは美学的にとても興味深い。

またニュースでは、連邦共和国の税収が再び膨らんだと伝える。労働市場の好況とまた相続税の伸長などで増えているらしい。更にアウトバーン用の通行税をEU市民からも徴収するとなると可成り公共投資にもまた将来のための研究開発などにもテコ入れが出来るようになる。モスリムもその他いろいろ外国人労働者も含めての税収であって、皆喜んでドイツで仕事をしている限り何一つ文句の出ない好況である。政府を小さくして無駄を省いていくことは大切であるが、役人も含めて公共事業などで豊かになるならば、文句の言いようもない。



参照:
まだ言論の自由がある? 2006-02-17 | BLOG研究
啓蒙されるのは誰なのか 2015-01-16 | 文学・思想
クリスマスマーケットなんて 2016-12-21 | マスメディア批評
愛おしくて、侮れない 2016-08-23 | ワイン
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by pfaelzerwein | 2016-12-23 19:43 | 文化一般 | Trackback

高尚な数寄者の審美眼

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最近はコムピューターとかその手のことしか書いていなかった。ソフトについては書いていたが一寸ハードだった。久しぶりにワイン醸造所に出かけて話を聞いたりした。そして、また2012年産ハレンベルクのリザーヴを初めて開けた。辛口で定評のあるシェーンレーバー醸造所の残糖を残したリースリングである。二年ほど樽で寝かしただけあってこなれている。いつかバッサーマン・ヨルダン醸造所にゲストとして来ていた時にこれの2008年産を試して感動したが、2012年は久しぶりにそれに匹敵する出来だと思って購入した。それでもそこまではクリーミーになっていなくて若干中途半端な感じがするが、糖が浮いてこないのは安物の半辛口とは異なる。

長く樽で寝かすのがドイツのリースリングのトレンドになってきている。ドイツの醸造所の旗振り役であるビュルクリン・ヴォルフ醸造所は、これを徹底させてきている。つまりグローセスゲヴェックスでは18ヶ月の木樽熟成と16ヶ月の瓶熟成が基本となりつつある。つまり摘み取りから三年ほどして初めて売りに出るようになる。手始めに2015年産のグローセスゲヴぇックスが発売されるのは2017年秋である。それに準じて、PCなども漸く発売され、予約分で殆んど売り切れた。そしてまだ発売されていないオルツリースリングなどもある。私自身まだ受け取りに行っていないオルツリースリングのマグナムが2014年産で飲み頃は数年先である。

要するにドイツのリースリングは、その繊細さからまたその飲み頃を見極める難しさから ― 例えば100ユーロもするリオハも寝かせば寝かすほど丸くなるだけで分かりやすいが、リースリングはふにゃふにゃでは駄目なのだ -、 だからブルゴーニュ以上に益々普通の人には分かり難くなり、大枚を叩いて購入するのは数寄者と通人だけとなる。恐らくそれで正しいのだろう。そうでなければ高価なワインは全てシナマネーで買われて通人には入手不可能となるからだ。勿論フランスのそれのようにその間に業者が入って更に市場価格が跳ね上がっていくようになる。製品の質や管理体制からしてリースリングの市場価格がブルゴーニュのピノノワールを上回るのは時間の問題だと思われる。我々事情通はその間隙を縫って安くて価値のあるリースリングを集めていくしかないのである。一本70ユーロ以上するようなものはやはり買えない。

全く同じようなことが他の市場にもあるようだ。ベルリンのフィルハーモニカーが来年に再び日本へも立ち寄るようだ。主目的は、2018年以降は共演が不可能となったランランとシナで最後の競演をすることにあると思われるが、そこまで無理をしてサイモン・ラトルが極東旅行に出かける市場価値があるということだろう。その金の動き方は分からないが ― 少し考えてみれば分かる、シナではランランが出たヴァルトビューネの野外コンサートが最大のイヴェントであったのだ、つまり観光まで含めるとベルリンにとっては欠かせない立役者なのである ―、兎に角、正しく歯に衣を着せぬ批判をしていたキリル・ペトレンコが音楽監督となれば二度と共演はあり得ないのである - しかし歯には歯をでティーレマンを自ら駆逐するような稚拙なことをする人間ではないと考える。またそうしたシナ向けの公演に便乗して喜んで招聘するフジサンケイグループがあるというのが面白い。まるでオバマ大統領の為にTTPを強行採決する日本政府のようで自虐的なこと甚だしい。

日本では引っ越し公演などいろいろとあるようだが、どうも相対的に見ると1980年代に比較しても何もかもが日本の実力のその馬脚を表してきているようで、真面な文化需要もエリート層の高尚な趣味もなくなってきてしまっているようだ。するといつも結論として思い出すのは私自身がハムブルクの歌劇場の東京公演「影の無い女」でなに一つ理解していない評論家や聴衆に失望して移住への動機つけとなったことであり、文化理解の難しさを再認識するだけのことである。



参照:
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
東京の失われた時の響き 2016-03-06 | マスメディア批評
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2016-12-19 05:36 | 文化一般 | Trackback

過去を学ばなければいけない

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年の瀬も近づいてくると今年のベスト何とかというのも見かける。今年は個人的にはオペラ年だった。モルティエー監督時代のザルツブルクでも三演目も価値ある新制作を立て続きに経験することはなかった。「サウス・ポール」、「マイスタージンガー」と「マクベス夫人」とどれも記憶に残るものだった。条件が整えば再訪してみたい前二作だが、最後の一つはどうであろうか?

承前)実演体験後初めて初日の新聞評などを再読する。オペラ評論家女史の文章だがなぜか多くを音楽や管弦楽団や指揮者について費やしている。不思議に感じた。特に興味深かったのは新校訂された楽譜についてであって、それによると過度なドラマ化を避けた初演版を校訂したものとある。アンチテーゼとしてヤンソンス指揮演奏などを思い浮かべたのだろうか?それ故か、「他の指揮者がするように、一寸した手の動きでアクセントをつけてフォーカスさせて、個性を出していた」としながらも、「音楽が内包する真実を、音楽的な今日から過去のそして未来への論理性で、明らかにしていた」とその音楽性を絶賛している。当日のプログラムには楽譜については明記されていない様だが来年にかけての一連の上演で同じ貸し譜が廻るのだろう。

その演出面での良さについては既に触れたのだが、中々後を引く音楽劇場となっていたことは確かであり、あの雲の形にしても雷雲だったのかそれともとかなどと北国特有の高い霧などを思い浮かべると切りがない。それでも新聞は、「あまりにも正確に夢の如く音楽と合わせる登場人物や群衆の動かし方の熟練ぶり」に触れて、そこでも、「ペトレンコ指揮の正確な音楽によって登場人物の矛盾した性格が集合的に表出された」と、結局音楽的な成果を寄与させている。まるで私がいつも女史の論評を批判していることに答えたかのような書きぶりである。

当然のことながら、ここでその内容に触れるならば、プログラムにあるようにゴーリキのいう「学ばなければいけない、国やその過去を、現在を将来を学ばなければいけない」とするように、音楽創造の内容もそこにある。こうして、この作品を体験すると少なくともこの交響作曲家の第一番から四番の交響曲を避けて通れなくなる。特に出世作第一番の才気と第四番の音楽語法を見ていくと、同時にアルバン・ベルクが「ヴォツェック」と原作「ヴォイツェック」の表題を読み違えた原因を作った自然派フランツォーゼと作曲家の接触など、その創作裏事情の興味深いことが分かって来る。

創作に関する作曲家の手記を読むと分かるように、警察官の場面を原作に書き加えており、そうした社会的な風刺とグロテスクなどを上手にバランスを取ろうとした意識がそこからも窺い知れるのである。

その1920年代30年代のソヴィエトの事情はそこに生きていない限り追体験しようと思っても複雑でどうしようもないのだが、それは1960年70年代のドイツ社会民主主義共和国においても同じことである。そして今、そうした人達が連邦共和国大統領、首相、そして最高齢の演出家としてミュンヘンで喝采を浴びているという事情もここ連邦共和国に生きていない限り分かり難いと思う。

その意味からすると、二十世紀は遠くなると思う反面、我々が生きてきた時代がこうして音楽劇場作品としてその真実像を反照することで、益々あの冷戦時期には我々は一体何を考えて何を見た心算になって生きていたのだろうと三省するしかないのである。彼らから見ると我々は、この舞台のように企業家の工場の片隅のバラックの中で、管理され抑圧された生活を送って来たということでしかないのであろう。(続く



参照:
意志に支配される形態 2006-01-05 | 音
初日の放送で何を聞くか 2016-11-28 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2016-12-17 00:15 | 文化一般 | Trackback

カンボジア風バッハの破壊力

ラディオの番組でバッハのチェロ組曲が流れた。それを弾いているのは子供の時にカンボジアからドイツ社会民主共和国に貰われてきた人である。どういう経歴の人かは知らないが技術的に素晴らしくカンボジア風に弾いている。彼の話しの様に「バッハをアジア風に弾く」というそのものの殆んどカンボジア語の特徴丸出しのバッハなのだ。彼のドイツ語も子供の時から使っていたとは思えないほどカンボジアの発生発音そのものだ。ブラジル風バッハとかスイングバッハとかいうよりも一寸面白いと思った。こうした音楽の強さには、日本風バッハを意識していないスズキのバッハにはないものだ。鈴木のバッハの洗練とは比較の仕様がないとしても、そうしたクロスオーヴァー文化の方法が日本風なだけで本質は変わらないということなのかもしれない。カンボジア風バッハの破壊力はスズキメソッドを遥かに超えている。要するにバッハの破壊力ということになる。

フランクフルトのバッハの会から知らせが来ていて、総会のプロトコールとして2018年までのプログラム予定がある。ヘルヴェッヘやキット・アームストロングが戻ってくるのは良い。しかしグルノーブルのバッハは頂けない。何よりも良いのは、コストの割には入場券収入が増えていて赤字にならなかったことだろう - 客席の状況から信じ難いが。伝統的な団体は凌ぎ方を心得ているのかもしれない。

先ほど成功した通電ステージS3からのサスペンド起動の遠隔操作である。電源を切っていて、そこに繋いであるラズベリーパイの為に、テーブルステープルの電源オンにするとワークステーションまで起動して驚いた。BIOSで電源消失の場合に再び電源が来たときはオンにすると設定してあったからだ。三種類設定があって、その他に「前の段階に戻す」というのがあり、オフにするというのもある。オフに設定しておくと遠隔再起動にはならないようで、中間の設定にする。しかし、その場合も最初だけは手動で起動させなければいけない。そのあとは電源が入っている限り、何回でも起動が可能となる。

使わないときは主電源を切ることが前提であり、ラズベリーをモニター端末として使う度にワークステーションが起動するのも厄介であるので、この辺りが妥協策である。必要な時は最初だけは手動で起動させて、当分必要が無ければ主電源を落とせばよい。こうして同時にラズベリーの電流とワークステーションのスタンバイの電流を遮断すれば旧年以上に節約可能な筈である。それでなくても、グーグルキャストやDACなどの電流が流れる時間は増えていて、ダブルモニターなどで余分に点けているので、総合的に増減を調整していかなければいけない。シナモンのPCやモニターやスキャナーの電源部にもスイッチを挟んだので不必要な時には待機電流も流れないようにした。



参照:
歌心のないドグマの響き 2012-05-29 | 音
軽く回り過ぎるエンジン 2016-12-02 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2016-12-15 18:25 | 文化一般 | Trackback

初日の放送で何を聞くか

いよいよ初日である。アムステルダムの上演は前半しかなかったが、ハンガリーでの上演は全部あった。先ず続きの後半から観た。農民の酔っぱらいの場面などはシュトラウスの「こうもり」のようで、警察署での動きなどはツィンマーマンの「ディゾルダーテン」のようで、終幕の橋からの無理心中飛び込み入水はまるで「トスカ」のようだった。演出はこうして全曲を出すほど自信があったものなのだろう。

なるほど、その音楽にまたはアルバン・ベルク作品のパロディーなどが散りばめられていて、オリジナリティーを探すのが難しいぐらいかもしれない。そうしたところに留意した演出だったのだろうか。ここでも交響曲のように一筋縄ではいかぬというか、明らかに視点をずらしたような作品に聞こえるような演出である。

音楽的にはこうしたセマンティックな解釈がショスタコーヴィッチの解釈を複雑にしているかもしれないが、反対に今日まで興味を繋ぐことにもなっている。勿論敢えて不明瞭にしなければ表現不可なことを行間に読み取らせようとする解釈が発生するのを見越している。

特にスラヴ系の舞台表現というか、その言葉や文化からのそれがマジャールの意識で、強調されているように見えるのがこの上演の面白さで、音楽自体も表現主義的な響きと従来のロシア的な響きをモザイクのように繋げているように響かしている。ヨーナス・コヴァーチという指揮者はブタペストやベルリン、ハムブルクでも活躍しているようで、この十年前の演奏もその実力を示している。現在のハンガリーを代表する指揮者のようだ。

前半も一幕を観たが比較的上手に処理しているが、逆手にとって使たような性描写でこれも煩わしい。性の扱い方によって、後半の暴力装置たる警察官などの扱い方が変わる筈で、この辺りをハリー・クッパーはどのように処理するのだろうか?警察署の椅子の写真などが出ていたがあれはあれで官僚主義的な雰囲気が出ていて美術としては納得がいきそうである。

先ずは月曜日に音楽を聴いて、他の演出のヴィデオ映像などとスリ合わせて、上演の質を評価できるのではなかろうか?あそこまでの敢えての性描写に釣り合うのは官僚主義の本質でしかないのだろうが、それがクッパーの語る専制主義の犠牲ということとどのように係るのだろうか。

正直この演出家の仕事はバイロイトのその演出も十分には知らないので、想像の仕様がない。但し、フフェルゼンシュタインのリアリズムの手堅さとは別に音楽との協調作業に秀でている老演出家なようなので、ラディオで中継を聞けば大体の方向性はライヴで観るまでに想像できるであろうか。

ラディオインタヴューなどを聞くと、舞台を帝政時代の最終期つまり革命前と定めているようだが、当然のことながら内容的にはスターリン独裁政権が作曲の基本にある。スターリンが美学的に受け入れられなかったというよりも、危険な舞台作品と考えたのは間違いないとしても、するとその性描写などの扱いが再びここで問題となる。音楽的にしか回答仕様がないものではなかろうか。

そこで今回のショスタコーヴィッチの音楽がどのように響くのかが楽しみである。作曲技術的に手の込んだところが確りと示されて、その音楽の構造自体にすべてを語らすならば、それが効果の狙いとは無関係に、その効果の構造というものが見えて来る筈である。演出家は音楽に語らすことをモットーとしているようだが、その演出と音楽的な構造に矛盾が生じなければ劇的な効果が生じる筈である。

三通りの映像表現を観たが、ロストロポーヴィッチ指揮演奏の後付け映画は論外として、ハンガリーでの上演はなるほど音楽劇場作品として成功していて、またアムステルダムでのヤンソンス指揮の上演は音楽的にも劇場作品としてもあまり説得力がなかった。



参照:
ポルノオペラは御免だ 2016-11-22 | 音
違和感が消えるときは 2016-11-20 | 雑感
あまり機能的ではない展開 2016-11-01 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2016-11-28 19:48 | 文化一般 | Trackback

あまり機能的ではない展開

日曜の朝のラディオは日本での「閉じこもり」取材が流れていた。なによりも興味深かったのは、日本ではそれらを称して「機能障害」と診断するという言葉である。その単語はファンクションであり、まさに中共で言えば共産党幹部ということになる。要するに社会が機能するための歯車ということであり、それに不適応と診断するのがこの機能障害なのだろう。日本の社会はもはや追い付け追い越せでもないのに、そうした機能性が要求されているということの証であり、日本社会が真面な社会として落第であることを彼らの存在が示しているということになる。しかしその奥は深く、如何に日本社会が近代化の中で病み続けてきたかという事だろう。そして明治維新以前もその社会はあまり変わりなかったのかもしれないとすると、なんら可能性の無い社会となる。日本独自の社会が優れているとかどうとか以前の病弊のようなものだろう。

フランクフルトのアルテオパーでのプログラムが変更になっている。アンドレ・プレヴィンが自作自演でロンドンのシムフォニカーを指揮することになっていた演奏会で、恐らく動けないのだろう。バイエルンの放送交響楽団は、フランクフルトで演奏してから関空に飛ぶらしい。西宮で同じプログラムを演奏するようだ。

承前)引き続き「マクベス夫人」の全曲盤の残りを聞き通した。ストラヴィンスキー並に民族的なものも豊富に取り入れる一方グスタフ・マーラーのパロディーのようなところもあるが、基本的には表現主義的なものを狙っていて、そこが西欧モダニズムとして批判されたのだろう。場の通し番号も参考になるが、もう少し映像の資料なども集めて繰り返し調べてみたい。最後の最後までおいしい所が用意されていて、作曲家の才気を再認識するとともに、充分に楽譜が音化されていないのも確認した。可成りしっかり合わせないとグロテスクで終わってしまう所もあるので、初演からこの方もう一つ真意が聴衆に伝わっていないところがあるのかもしれない。この時点で具体的にキリル・ペトレンコ指揮に期待できるのは、なんといっても重なり合った音響での丁寧なバランスで、今までは聞けなかったサウンドである。それに値する創作をしているということでもあり、サイモン・ラトル指揮の交響曲の痙攣したフォルテシシシシモとは異なる柔軟な鳴りが期待出来るということでもある。ラトルなそうした楽曲の読みが本当に正しいのか、それとも解釈に過ぎないのか。

その意味からはこの世界初録音盤は限られた目的を達成している。また感じたのは1970年代のEMIの優秀録音でアナログステレオの完成期の録音の優秀さである。同時代のDGでさえも立派な録音が出ていた時代である。カラヤン指揮録音などはあまり良くないのだが、ここでは成功している。それでも効果音などの不器用な扱いはデジタル時代でなくても考えられないほど稚拙である。

ソコロフのリサイタルツアーが始まっている。シューマンの作曲技法に関心を以てその準備もしたいと思う。上手くいけば今回でシューマンのそれが大分分かるようになるのではないかと期待しているのである。あまり時間がないので参考素材など早めに集めなければ間に合わなくなる。いつものことであるが、付け焼き刃とならないようにしなければいけない。



参照:
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
笑ってしまう靴下の右左 2016-09-30 | 生活
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by pfaelzerwein | 2016-10-31 20:25 | 文化一般 | Trackback