カテゴリ:音( 166 )

普遍的なネットでの響き

お昼休み時間のRAI3を聞いた。その前から流していたが、イタリア語のラディオやTVを流していると落ち着かない。なるほどイタリア語の発声は明るく澄んでいるのだが、その抑揚などもどうしても喧しく感じる。歌うと素晴らしいベルカントになるのだが、少なくともメディアの喋りはかなわない。女性の喋りも苦手である。世界でこれほど心を揺さぶらない若い女性の喋りも珍しい。ドイツ語の女性の喋りもあまりに深い響きが続くとあまり気持ちはよくないが、フランス語ほどではないにして、騒がしくは感じない。山小屋などで出会う男性のイタリア語は、深く底光りするような響きがあって、あれはドイツ男性のそれよりも素晴らしいと思うのだが、中々そのような美声はメディアではなかなか聞けない。

昨年12月23日にトリノのオーディトリウムで催されたキリル・ペトレンコ指揮RAI交響楽団の演奏会から悲愴交響曲が放送された。じっくり聞けてはいないが、その響きが例えばチェロなどは倍音が響いてベルカントになっていて、ベルリンのフィルハーモニカ―との演奏とは全く違うように響く。演奏の質が違うということよりも、管弦楽が各々に描く響きが異なるとこのようになるのかと思う。なるほど弦楽の奏法なども異なるとしても、全く異なる想像力が働いているということになる。全くイタリア語の響きと変わらない。もう少し詳しく聞いていこう。

ネットで、ピエール・ブーレーズ指揮のものを探していたら、思いがけず「パルシファル」の録音が見つかった。2004年のシュリンゲンジーフ演出のもので、既に一つはDLしていたが、今回のものの方が音質が良い。圧縮が少ないのだろうか。但し一部にノイズが入っている。昨年の12月にアップされていて、知らなかった。

先月ベルリンではフランク・カストルフ監督のフォルクスビューネのさよなら企画が開かれていて、そこでシュリンゲンジーフの映像作品などが放映されたらしい。カストルフの「指輪」を体験してしまうと、あの2004年のシュリンゲンジーフの「パルシファル」演出が如何に真摯で、あそこまで真剣な演出はバイロイトでもなかなかなかったのではないかと改めて思う。その普遍的なカトリック的な価値観に、こうして音だけでもより迫真に満ちた音質で聴くと、改めて感動させられる。

当時はアクションアーティストとしての面だけが注目されていたが、そのあとの死に至るまでの経過を垣間見てしまうと、その演出のコンセプトの本筋しか見えなくなってしまうのである。同様に生演奏においても生々しいその音響と明晰さが記憶にはあったが、少しずつ思い出している。バイロイトデビュー時のブーレーズ指揮「パルシファル」と比較するまでも無く、ゆったりとしたテムポ感と広がる音響が、シュリンゲンジーフ演出の普遍性によく馴染むのが分かる。より上質のバイエルン放送のマスターを聞くと更に記憶が蘇ると思われる。YOUTUBEに上げられているものには一部舞台の写真が嵌められている。



参照:
アイゼナッハの谷からの風景 2017-07-17 | 音
TV灯入れ式を取り止めた訳 2017-01-02 | 暦
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
開かれたままの傷口の劇場 2015-12-15 | 文化一般
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-07-20 23:45 | | Trackback

アイゼナッハの谷からの風景

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承前)相変わらず新制作「タンホイザー」の六日目の録音を流している。しかし細かに楽譜に当たっての時間的精神的余裕はない。しかし一小節については楽譜を見ないでも確認している。つまり既に言及した第二幕のフィナーレのアッチェランドである。ここをがどのようになるかで全体のテムポ感が変わると思っている。

初日、私が聞いた二日目、そして六日目を比較可能である。結論からすると二日目だけが例外で、初日と六日目は最小のテムポアップが慎重になされている。二日目が事故という訳ではなくて、明らかに生放送には「安全運転」を心掛けたので間違いなさそうだ。当然のことながら、二日目のような急激なアッチェランドを掛けた方がフィナーレ効果は高い。それはテムポアップ以上の内容の強調となるので、圧倒的な意味合いがあった。しかし、アムサムブルが壊れるようなことを敢えてしないことをこの天才指揮者は歌劇場でのキャリアーで学んだようで、瞬時の判断が絶えず働くような職人的な修業がなされていると見た方が正しいのかもしれない。元来の天与の瞬発的な対応力に磨きが掛かっているということになる。

それでは楽譜にはどうなっているかというと、確かにテムポアップの幅はそれほど大きくなく、鮮やかにアチェランドを掛けるかどうかということになるのだろう。楽匠がそのように書いているのだ。しかしここではソリスツの重唱だけでなく合唱団とのアンサムブルがあるので安全運転で「放送事故」を起こさない配慮は当然だろう。この辺りが何回か繰り返すことが可能な制作録音と実況放送との最も異なる顕著なところである。制作録音ならば何通りか録り直して繋ぎ合わせられる。

その反面、この日の演奏では、一つの主要テーマでもある巡礼の歌の重要性が第一幕三場から増している。音楽的には最初は牧童の歌からト調のモデラート84で始まる。伴奏もイングリッシュホルンの一鎖を低弦のピッチカートで支えているだけなのだが、これがとても効果的で、第二幕のフィナーレを経験した耳にはとても印象深い。

この景のト書きには、アイゼナッハの谷から左に眺めたヘルゼルベルクと右のヴァルトブルクとあり、背景にカウベルが流れるとあるが、ここでは教会の鐘が鳴り響く。それが三層の狩りのホルンに導かれた次景へと進むのである。ここにおける演出は背景の日蝕と共に全体の鍵になる。しかしそれは音楽的に整理されて来ているからこそ言えることであり、演出だけを感覚的に判断していてもよく分からないだろう。(続く

来週20日木曜日正午から放送がある。昨年末に聞き逃したトリノでのキリル・ペトレンコ指揮のチャイコフスキー「悲愴交響曲」の録音が流れる。お昼休みの放送らしい。残念ながら前半のモーツァルトは知らなかったので再放送を聞き逃した。先週の水曜日だった。ベルリンのフィルハーモニカ―で演奏する前のもので生放送を聞いておきたかったものだ。しかし今、後先になるとそれ以下の演奏は聞きたくないと思う反面、ある程度時間が経ったので客観的に比較対象出来るだろうかという気持ちもある。この放送交響楽団もドイツのそれのような技術は無いが、今後も同じように同じプログラムの演奏会を先行して開いていくような様子もあり、気になる演奏団体である。自前の放送があるのが何といってもありがたい。

バーデン・バーデンの次期支配人のことが新聞にあった。現在ドルトムントのコンツェルトハウスの支配人であるベネディクト・スタムパという人だが、そこでピーター・セラーズやラトル指揮「ルグランマカーブル」、昨年のミュンヘンの座付き管弦楽団のツアーなどを執り行っていて、その活動に注目していた。ハムブルクで音楽学も習っている人なので少なくとも現在の支配人よりも芸術的な判断を下すようだ。現在の支配人のマネージメント能力、特にここまで経済的破綻から立て直した手腕は得難いが、引退するその人との協力関係を保ちながら、今後の芸術的な飛躍が期待される。変わりどころでは日本で人気のエサペッカ・サロネンとの関係からバーデン・バーデンでも、夏のゲルギーエフやヘンゲルブロックの両指揮者との関係もさらに深めつつ、新たな枠組みも出来そうで、日本からの観光客にも期待出来そうだ。なによりも、復活祭音楽祭の美学的な枠組みが本格的になるのを希求したい。



参照:
延々と続く乳房祭り 2017-07-10 | 文化一般
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
呵責・容赦無い保守主義 2007-11-19 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2017-07-16 18:57 | | Trackback

殆んど生き神の手腕

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承前)一幕二幕と順々にVIDEOを見ながらカステルッチ演出について触れて行こうかと思った。しかし録音だけを聞き返していると、そんなことは後回しという気が起こる。なるほど音楽劇場であるから劇場的な受容に音楽があるということなのだろうが、録音だけを聞いているともはやこれはスパーオパーであることに気付き、映像はどうでもよいという気持ちになる。それほど音楽的な完成度が高くなっている。

先ず何よりも最大の欠点であったアニヤ・ハルテロスの歌うエリザベートの歌唱が完全に修正されている。どのような経緯があったかは知るすべがないが、欠点であったリズム的な面で大分シャープになっていて、ピンボケ写真がアナログ的に随分と磨かれて来ている。ここでの批評と同じようなものに本人が留意したことはあり得るのだが、それ以上にFAZの「歌唱的に整理されていないばらばらの様式のアンサムブル」との指摘はある意味とても要を得ていたプロフェッショナルな指摘であったかもしれない。

つまり、一方ではゲルハーエルのような立派なドイツ語歌唱があって、どうしても他の歌手もその影響を免れない技術的な精査があり、そうしたなかで態々こまごまとプリマドンナの歌唱にいちゃもんつけるまでも無く、修正されていったという可能性は他の歌唱にも見つかる。如何にこのプリマドンナでも、十八番になっているようなマルシェリンなどであれば歌唱を変化させるのは難しいかもしれないが、「あまり若々しく響かない」との指摘もあったこのエリザベートに関しては修正してきたのだろう。兎に角、この修正はとても天晴で、可成り、その思考の柔軟性と芸術的な姿勢を見直した。

一方のゲルハーエルの歌唱も全体の中でよりアンサムブルにより適合するようになっていて、お手本であるフィッシャーディースカウのオペラ歌唱よりも完全に上を行っているのは間違いない。フォークトの指揮者好みのセンシティーヴなタンホイザーの歌唱も安定してきていて、録画保存されても恥ずかしくないものになっていて、ツェッペンフェルト、パンクラトーヴァ、そしてその他脇までとてもよく歌い込まれている。

そして何よりも要となっている管弦楽団が漸くこの音楽をものにしてきていることで、その弦楽の音色などはカラヤン指揮のベルリナーフィルハーモニカ―に匹敵するほど磨かれて来ており、その演奏技術の精緻さはとてもヴィーンの座付き管弦楽団では不可能な領域である。管楽器も度重なる事故を経験して漸く技術的課題を克服した感じである。

それにしても今更ながら、キリル・ペトレンコの音楽監督としての腕には驚愕するしかない。月始めの「影の無い女」上演に際して、南ドイツ新聞は「この二幕のフィナーレだけでも、この監督が在籍時に何をなしたが、将来とも語り継がれるであろう」というように評したが、正しくこの指揮者はバイエルンでは殆んど生き神である。

これで次の「タンホイザー」公演は東京公演であるが、折角のハルテロス女史も乗らないが、新制作シリーズで核となったゲルハーエルの歌唱が無くとも充分過ぎる水準を示せる準備は、これで完全に整っていることになるのだろう。とは言いながらも、演出面も考慮しながら、更に詳しく見ていく必要がある。なぜならば、この新制作の真意と言うのは、そのようにしか判断を下せないからである。(続く



参照:
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-07-12 18:13 | | Trackback

圧倒的なフィナーレの合唱

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承前)新制作「タンホイザー」初日第二幕の録音を一部確かめた。最後のフィナーレも大分異なっていた。件の一小節の効果は絶大で、初日には充分にアチェランドが掛かっていなかった。理由はテムポ設定にもあるようだが、それは二幕全体を聴き直して調べてみよう。最後の改訂版の激しい後奏が活きるのは勿論のこと偶然ではない。

それでも第三幕を聞き直してみると明らかにテムポ設定が充分に適切でなかったことが確認出来る。批評にあったようなゲルハーエルが歌う「夕星の歌」の遅過ぎるテムポ設定は寧ろまだ早いぐらいで、問題は全体のメリハリが充分でなかったことかもしれない。

バイエルン放送第二のローカルラディオ放送枠では、珍しく指揮への批判がある。恐らく「ティートスの寛容」以来の現音楽監督への批判であろう。それによると「街中安全走行」で所々疲れたようなテムポだと、ある意味貴重な批判となっている。このペーター・ユングブルートという人は知らないが、批判するのは素晴らしく、ネットでも一部にみられる批判を適格に代弁している ― 但しそこで流されている中継からのカットが若干意図を感じさせる。そもそも昨年の「マイスタージンガー」でも、初日には上手くいっていないのはいつものことなのだが、なぜか今回はその糊代を考慮しない感想があるのはなぜなのか?

演出に関しての言及でも、シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」がエポックメーキングとされているので驚かざるを得ないが、今回のカステルッチ演出が自動洗車機のような人の動きにしかなっていないというのはこれも共通した批判点かも知れない。そもそも異次元青年のようなタンホイザーのこちら側での接触が限られるとなると、どうしてもそのような感じになるのかもしれない。

私見からすると、アニア・ハルテロスの歌唱にもいつものように不満があるが、それ以外の点では初日以降大分改善されているのを確認した。要はメトロ―ノーム数値に準拠した正しい律動を刻んでおけば本当は正しい音楽が奏でられる筈なのだが、リズムよりもアーティキュレーションを重視するばかりに間延びしてしまうと充分な息継ぎも出来ないということになるのだろうか。

それでもこの初日の劇場の反応を聞き返すと第一幕終了時の喝采が二日目よりも大きく、テムポが早めに推移したのではないかなと感じたが、七月の最後の公演を観てみないと確信は持てない。感想などでも「この世のものとは思えない音色」とかがあったので、ある意味初日には間延びの傾向があって、メリハリが充分でなかったようだ ― なにか「キリル・ペトレンコが充分に温まっていないようだ」という感想もサイトにあった。だからこそ余計に二日目の最後の最後までの喝采の実情を本人も自らの眼で確認したかった想いがあったのだ。

フォークトの歌唱も初日は不安定だったが、パンクラトーヴァの歌唱はこの役としては慣れが無いだけで適格に熟しており、ゲルハーエルの歌唱があまりに作為的というのはやはり当たらないだろう。なるほどラディオで最初に聞いた時には違和感があったが、「フィッシャーディースカウよりも自然なオペラ歌唱」と批評されているのは事実である。合唱は初日よりも更に良くなってきている。

演出については最終的には中継動画を観なければ結論めいたことは言えないのだが、最初の射的の場面で700本ほどの矢が射貫かれたようだが、舞台上に跳ね返って落ちていたのはわずか一本だけだった。バレーリーナが半裸で弓を打つ練習をしなければいけないなど考えても見なかったが見事な成果である。

会場でしか気が付かないのは舞台上のバンドの音響効果で、これはドルビィサラウンドシステムならば若干異なるように響くのかもしれない。もう一つ最後のフィナーレの合唱の悠々としたテムポも二日目には決まっていたので、その効果は圧倒的だった。(続く)



参照:
備えあれば憂いなしの気持ち 2017-06-01 | 生活
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-06-05 01:53 | | Trackback

母体より出でて死に始める芸術

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承前)オペラ「タンホイザー」において、この二幕のフィナーレを理解するかどうかで終わってしまうと言われている。それは内容的に音楽的にも頂点を迎えているからで、最大の山がそこにある。その前に付け足されるような形で奏されるのが所謂「ジングクリーク」と呼ばれるそのもの「歌合戦」である。

後年の楽劇「マイスタージンガー」においても同じような光景が展開されるが、ここではタイトルロールのタンホイザーはヴィーヌス丘での所業から生き地獄に突き落とされることになる。そこからのフィナーレに全てが集約されて、主調で築かれる二つの山を経過的に繋ぐエリザベートの父領主ヘルマンの「ローマへ」が休止を挟んでト調で歌い始められる。そして、一小節のアッチェランドで短くモデラート60からプュモート76へと急加速されるとともに主調の合唱へと戻る。

そこでチェロと第二ヴァイオリンが先導するアッチェランドが、フィナーレをバッハの中部ドイツのプロテスタンティズム音楽を模倣するかのように弾かれることで、初めてこのオペラの意味合いが認識されるとしても良いだろう。FAZなどは演出をして、ルターの記念年を「母体より出でて我々は死に始める」と挙げて、カステルッチ演出はヴァルトブルクからルターと連想したものではないかとしているが、音楽的にどうも全く理解していないようだ — それもその筈で初日の演奏では充分なアッチェランドが掛かっていなかった。

そしてフィナーレが閉じられるのだが、この場面を経験して楽匠の真意が読めなければ、もはや楽劇「ジークフリート」より前の創作について言及することなどは無意味だろう。それどころか所謂ヴァークナー愛好家と自称することなどもおこがましい。そして当夜の公演は初日と比較できないほど、その意味が明らかとなっていた。いつものように、電光石火の加速などはたとえ天才指揮者でも管弦楽が手慣れて来ないと出来ないことで、初日には出来なかったものなのであり、弾けば弾くほど決まって来る。

序に言及しておけば、三幕では反対に小さな事故もあった。木管楽器が落ちて穴が開いてしまっていた。少なくとも生で聞いたペトレンコ指揮では初めての光景だったが、如何に木管楽器が前回以上に苦慮して吹いているかであって、レコーディング風景と同じように自己の要求が高まれば高まるほど一寸した一節が吹けなくなるのである ― 今年ベルリン フィルハーモニー初日でのポカも同じようなものだったろう。

二幕でその内容を掴めた聴衆は、当夜の管弦楽団も合唱団も何もかもが引けてからも ― 既にその前の通常のカーテンコールでペトレンコが奈落を覗き込むと誰も居ないので「もう帰っちゃったの」という仕草をしていた ―、最後の最後まで恐らく数十人以下の人は握手を続けたのである。指揮者自身も満足していたことは間違いなく、ソリスツ陣と一緒に大聴衆が引けたあとの大劇場でカーテンコールを浴びながら、聴衆の一人一人の顔を確認していた想いは充分にこちらにも想像がついた。どう見ても玄人筋の顔ぶれであった訳だが、それもミュンヘンの聴衆でありその質であることには変わりない。

そして、その支持を集めた対象が、決して演奏技術的な結果やベルリンに将来君臨するスター指揮者の功績では無く、だからと言って楽匠の創作における音楽的な成果や効果などでもなかった。その対象となるものは、楽匠が心残りとなっていた創作の本質に関するところであり、今回のカステルッチの演出がどれほどその本質を突いているのか、どうか?

初めて所謂「出待ち」らしき人々を確認した。最後まで拍手していた人々と重なるのだろうか。その対象となるものを考えると、あまりに蛇足のように感じるのは私だけではないと思う。(続く



参照:
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-05-29 23:09 | | Trackback

鍵盤の音出しをして想う

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鍵盤の音出しをした。合わせて10時間ほど掛かっただろうか。ソフトシンセサイザーを使うのは初めてであり、無料のソフトを使うのだから、なかなか難しい。ネット情報の助けを借りて、先ずは有線で音出しが可能となった。無線の方は、使用しているノートブックがブルートュース4ではないので、読み込まない。そこで昨年購入したアダプターを使ったのだが読み込んでもシンセサイザーソフトSTUDIO ONE3と交信しない。速度が問題なのか何が問題なのかは分からないが、更に研究が必要そうだ。やはり無線でないと気軽に音出しが出来ない。

その他の問題は、出力のサムプリングレートなどを合わせてやらなければいけないので、平素使っている音楽ソフト録音再生向きのアップサムプリング設定を変更しなければいけない猥雑さがある。いずれ新たなノートブックを購入する時までは若干煩わしい。

一番苦労したのは、鍵盤とソフトが交流していても、音を出す方法がなかなか分からなくてリズムボックスだけが暫くは流れていたことだ。そしてオーディオ再生に「音」が欠けていることに気が付いて、ようやくプレゼンスという音の素材のデータベースに行き当たった。しかしそこの楽器のリストを見つけるのにまた一苦労した。

しかしそれら無料のソフトの出来は今まで知っているハードのシンセサイザーと比較して予想以上の出来だった。鍵盤のタッチも悪くは無く、調整も可成り可能なようなので、少なくとも電子ピアノとかエレクトーンとかいうようなものは完全に無用になっているのを実感した。それどころか大きめの鍵盤を使えば専門的にピアノを研究しない限りこれでも充分だと思わせる。少なくとも私が知っているようなピアノの音大生徒程度ならばそもそもピアノなど要らないのである ― かの兼常清佐の有名な「猫が鍵盤の上を歩いても同じだ」という痛烈な皮肉を繰り返しておこう。

少し運指なども練習したいと思わせるほどに、楽譜を読み込んでおけばこのようなピアノでもかなり音楽が出来るのは確かであり、イングリッシュホルンなどの旋律やペダルの無いオルガン程度などはこれで充分に表現できそうだ。

ピッチの調整やその他の音の微調整の可能性も可成りあり、正直音合わせのつもりで購入したが、和音も問題なく響かせて、更に様々な楽器のアーティキュレーションも試してみることが出来そうで、ピアノ譜にあたるというよりもどうしても総譜から弦楽器ならば弦調や奏法などにもどうしても思いが至るので、とても勉強になりそうである。

まさかこうしたことが数千円の投資で出来るようになっているとは思わなかったほどの質の高さであり、やはりこれもデジタル技術の恩恵ということが言えるだろう。そこで作った音をスピーカーで流すと馬鹿にならない音響である。数年前までは小さな携帯用のキーボードを買おうかと思っていたが、こうした形態の方が拡張性があって遥かに高品質なのだ。



参照:
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
GEWA' GEWA' PAPA PAYA 2013-02-11 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-24 02:49 | | Trackback

楽匠の心残りから救済されたか

承前)「タンホイザー」新制作のミュンヘンからの中継を聞いた。前番組で中継事故があったので心配になっていたが、一幕は数十分ごとに二分間ほど中断された。冒頭から数回の中断と放送事故を防ぐためのテープが流れた。そのようなことで二幕、三幕も危ぶまれた。このようなことになるぐらいならば初日を良い席で聞けばよかったとも思った。しかし幸いなことに二幕、三幕は完全に中継障害が無くなって完璧な放送が楽しめた。あれだけの音ならば平土間の良い席と変わらないだろう。

仕方なく一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。だから全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。

書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のように、なぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。

なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。

初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが打たれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。

そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。

タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。

総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の飛車落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。

終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。



参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-22 18:27 | | Trackback

愈々初日のタンホイザー

承前)バレンボイム指揮の2014年ベルリン制作「タンホイザー」を最後まで観た。楽譜はパリ版のように始まり、結局はドレスデン版の演奏であった。ゼンガークリーグでパリ版に直された部分があったが、古臭いロマンティッシュオパーのレチタティーヴが異様で、それに合わせるかのように三幕のテムポを落としていて長いヴォルフラムとタンホイザーの歌唱が続き、眠気を誘う。

なるほど歌手陣も管弦楽団も立派であるが、指揮者の設定したテムポなどは、この指揮者の常とは言いながら、美しさの反面角が落ちてしまっていてネオロマンティズムのようなものを感じさせてあまり愉快ではない。ザイフェルトの歌唱は、二幕ではまるでトラムプヘアースタイルになっていて馬鹿にしか見えないのだが、三幕では落ちぶれた姿で歌を聞かせる ― 演出の力が大きい。ヴォルフラムの声が威圧的過ぎて、まるでバスのように響く。合唱団がなぜ今一つ上手くないのかは不思議だった。

そのような版でもパリ版のヴィーナスの丘を入れていて、邪魔になるバレーがまるでピーター・セラーズの手の動きなものをひっきりなしにしているようで、バイロイトのカストルフ演出以上に邪魔になる。古典の新たな再生のような演出意図なのかもしれないが、モーツァルトなどのオペラのように扱うのは間違っている。そもそもこの版でこの曲を聴くとどうしても後年の作品群の習作のようにしか聞こえない。

いよいよパリ版にヴァルターの歌などが追加されたような版が楽しみになって来た。一方、ミュンヘンのヴィデオの続きがアップロードされていて、演出に関しては益々分からなくなってきた。演出家カステロッチがおかしなことを語りだしているからである。肉を描くとなるとどうなるのか、それも皮と中身の違いとなると触感が無くなることになる。よっぽど無機的な演出をしようというのだろうか?可成り危ない。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
RICHARD WAGNER: "TANNHÄUSER" (BR-KLASSIK)
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by pfaelzerwein | 2017-05-21 01:28 | | Trackback

モンテカルロのやくざな上演

承前)モンテカルロの「タンホイザー」は偉大な詐欺公演だった。パリ版と銘打ってフランス語上演されたそれはどうも後年短縮されたヴィーン版をフランス語で歌っただけというお粗末なものだったようだ。勿論フランス語の歌詞はヴァークナーが1861年のパリでの上演のために翻訳を依頼して、それに合わせたアーティキュレーションを変えたものがパリ版と呼ばれるようだ。そしてそれがこの上演で期待された訳だが、序曲からヴィーナスの丘へのみならず多数の短縮がある。つまりフランス語に翻訳された箇所も全部歌われていない。そもそも真面にフランス語で歌った歌手は殆んどいないようで、少なくともドイツ語版の楽譜を見る限りヴィーナス役のフランス人だけが真面に歌っている。それでもフランスの評ではスタイルが一人だけ異なると言われているので、なにか楽譜上の問題もありそうで、楽匠が苦心したそれが活かされているようには思い難いのである。

どの歌手も管弦楽もいかにも場末の演奏水準であったが ― 嘗ての首都の関係からかボンの劇場が共同制作しているので、斜陽のボンのみならず連邦共和国の音楽劇場の文化程度の問題が浮き彫りになる ―、フランス語が充分に歌えていないと評される主役の歌の通りに記譜されているとは誰も思わないだろう。

折角録画したのだが、三幕を続けて観てから消去するしか意味がなさそうだ。結局はネットではシノポリ指揮のパリ版だけが1861年版で、それが最も来週演奏されるミュンヘンの「タンホイザー」に最も参考になるようだ。(続く)

色々と言いたいことはあるが、そもそもマフィアのマネーロンダリングなどの泡銭で高度な芸術を期待する方が間違いで、幾ら財力があっても結局は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」のように、カジノ経済などは文化を一切支えない。カジノへの横の入り口から400人の劇場に数十人が集ってのオペラが呆れる。関係者を除くと数人しか物好きが来ていない勘定になる。こんな劇場と関係を結んでいるボンの劇場とは一体どのような劇場だ。

朝の雨の後に峠を攻めた。調子は一向に上がらないが、気温摂氏15度ほどで雷雲の下で汗びっしょりになった。若干胸元も苦しい感じもある。今年初めて初夏の陽射しを感じた。今年は新緑をあまり感じられなかった。このような年はどうなるのか。少なくとも暑い日は今までなく、今日が最も暑い日と感じる位だからである。ここまで気温が落ち着いていると夏も涼しくなるかもしれない。それを期待する。


参照:
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 22:54 | | Trackback

新たなファン層を開拓する齢

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承前)ブルックナー交響曲の版にまでは話は及ばない。しかし三楽章のスケルツォでどうしても、今回は演奏会前半に演奏された変ホ長調のそれを思い起こしてしまうのは仕方がない。ひき続けて交響曲演奏会などに出かけると、どうしても古典派から後期ロマン派と呼ばれる交響曲までの大きな流れの中でしか一つ一つの創作を認識出来なくなってくる。交響曲という形式の宿命であり、それ故にこうした古典的な演奏会形式というものが200年以上の長い期間催されていることの根拠でもある。

抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。

今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?

ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。

当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。

さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。

そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。

そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。

そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。

最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)



参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 00:28 | | Trackback