カテゴリ:音( 161 )

鍵盤の音出しをして想う

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鍵盤の音出しをした。合わせて10時間ほど掛かっただろうか。ソフトシンセサイザーを使うのは初めてであり、無料のソフトを使うのだから、なかなか難しい。ネット情報の助けを借りて、先ずは有線で音出しが可能となった。無線の方は、使用しているノートブックがブルートュース4ではないので、読み込まない。そこで昨年購入したアダプターを使ったのだが読み込んでもシンセサイザーソフトSTUDIO ONE3と交信しない。速度が問題なのか何が問題なのかは分からないが、更に研究が必要そうだ。やはり無線でないと気軽に音出しが出来ない。

その他の問題は、出力のサムプリングレートなどを合わせてやらなければいけないので、平素使っている音楽ソフト録音再生向きのアップサムプリング設定を変更しなければいけない猥雑さがある。いずれ新たなノートブックを購入する時までは若干煩わしい。

一番苦労したのは、鍵盤とソフトが交流していても、音を出す方法がなかなか分からなくてリズムボックスだけが暫くは流れていたことだ。そしてオーディオ再生に「音」が欠けていることに気が付いて、ようやくプレゼンスという音の素材のデータベースに行き当たった。しかしそこの楽器のリストを見つけるのにまた一苦労した。

しかしそれら無料のソフトの出来は今まで知っているハードのシンセサイザーと比較して予想以上の出来だった。鍵盤のタッチも悪くは無く、調整も可成り可能なようなので、少なくとも電子ピアノとかエレクトーンとかいうようなものは完全に無用になっているのを実感した。それどころか大きめの鍵盤を使えば専門的にピアノを研究しない限りこれでも充分だと思わせる。少なくとも私が知っているようなピアノの音大生徒程度ならばそもそもピアノなど要らないのである ― かの兼常清佐の有名な「猫が鍵盤の上を歩いても同じだ」という痛烈な皮肉を繰り返しておこう。

少し運指なども練習したいと思わせるほどに、楽譜を読み込んでおけばこのようなピアノでもかなり音楽が出来るのは確かであり、イングリッシュホルンなどの旋律やペダルの無いオルガン程度などはこれで充分に表現できそうだ。

ピッチの調整やその他の音の微調整の可能性も可成りあり、正直音合わせのつもりで購入したが、和音も問題なく響かせて、更に様々な楽器のアーティキュレーションも試してみることが出来そうで、ピアノ譜にあたるというよりもどうしても総譜から弦楽器ならば弦調や奏法などにもどうしても思いが至るので、とても勉強になりそうである。

まさかこうしたことが数千円の投資で出来るようになっているとは思わなかったほどの質の高さであり、やはりこれもデジタル技術の恩恵ということが言えるだろう。そこで作った音をスピーカーで流すと馬鹿にならない音響である。数年前までは小さな携帯用のキーボードを買おうかと思っていたが、こうした形態の方が拡張性があって遥かに高品質なのだ。



参照:
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
GEWA' GEWA' PAPA PAYA 2013-02-11 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-24 02:49 | | Trackback

楽匠の心残りから救済されたか

承前)「タンホイザー」新制作のミュンヘンからの中継を聞いた。前番組で中継事故があったので心配になっていたが、一幕は数十分ごとに二分間ほど中断された。冒頭から数回の中断と放送事故を防ぐためのテープが流れた。そのようなことで二幕、三幕も危ぶまれた。このようなことになるぐらいならば初日を良い席で聞けばよかったとも思った。しかし幸いなことに二幕、三幕は完全に中継障害が無くなって完璧な放送が楽しめた。あれだけの音ならば平土間の良い席と変わらないだろう。

そのようなことで一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。但し全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。

書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のようになぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。

なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。

初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが刻まれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。

そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。

タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。

総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の角落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。

終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。



参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-22 18:27 | | Trackback

愈々初日のタンホイザー

承前)バレンボイム指揮の2014年ベルリン制作「タンホイザー」を最後まで観た。楽譜はパリ版のように始まり、結局はドレスデン版の演奏であった。ゼンガークリーグでパリ版に直された部分があったが、古臭いロマンティッシュオパーのレチタティーヴが異様で、それに合わせるかのように三幕のテムポを落としていて長いヴォルフラムとタンホイザーの歌唱が続き、眠気を誘う。

なるほど歌手陣も管弦楽団も立派であるが、指揮者の設定したテムポなどは、この指揮者の常とは言いながら、美しさの反面角が落ちてしまっていてネオロマンティズムのようなものを感じさせてあまり愉快ではない。ザイフェルトの歌唱は、二幕ではまるでトラムプヘアースタイルになっていて馬鹿にしか見えないのだが、三幕では落ちぶれた姿で歌を聞かせる ― 演出の力が大きい。ヴォルフラムの声が威圧的過ぎて、まるでバスのように響く。合唱団がなぜ今一つ上手くないのかは不思議だった。

そのような版でもパリ版のヴィーナスの丘を入れていて、邪魔になるバレーがまるでピーター・セラーズの手の動きなものをひっきりなしにしているようで、バイロイトのカストルフ演出以上に邪魔になる。古典の新たな再生のような演出意図なのかもしれないが、モーツァルトなどのオペラのように扱うのは間違っている。そもそもこの版でこの曲を聴くとどうしても後年の作品群の習作のようにしか聞こえない。

いよいよパリ版にヴァルターの歌などが追加されたような版が楽しみになって来た。一方、ミュンヘンのヴィデオの続きがアップロードされていて、演出に関しては益々分からなくなってきた。演出家カステロッチがおかしなことを語りだしているからである。肉を描くとなるとどうなるのか、それも皮と中身の違いとなると触感が無くなることになる。よっぽど無機的な演出をしようというのだろうか?可成り危ない。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
RICHARD WAGNER: "TANNHÄUSER" (BR-KLASSIK)
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by pfaelzerwein | 2017-05-21 01:28 | | Trackback

モンテカルロのやくざな上演

承前)モンテカルロの「タンホイザー」は偉大な詐欺公演だった。パリ版と銘打ってフランス語上演されたそれはどうも後年短縮されたヴィーン版をフランス語で歌っただけというお粗末なものだったようだ。勿論フランス語の歌詞はヴァークナーが1861年のパリでの上演のために翻訳を依頼して、それに合わせたアーティキュレーションを変えたものがパリ版と呼ばれるようだ。そしてそれがこの上演で期待された訳だが、序曲からヴィーナスの丘へのみならず多数の短縮がある。つまりフランス語に翻訳された箇所も全部歌われていない。そもそも真面にフランス語で歌った歌手は殆んどいないようで、少なくともドイツ語版の楽譜を見る限りヴィーナス役のフランス人だけが真面に歌っている。それでもフランスの評ではスタイルが一人だけ異なると言われているので、なにか楽譜上の問題もありそうで、楽匠が苦心したそれが活かされているようには思い難いのである。

どの歌手も管弦楽もいかにも場末の演奏水準であったが ― 嘗ての首都の関係からかボンの劇場が共同制作しているので、斜陽のボンのみならず連邦共和国の音楽劇場の文化程度の問題が浮き彫りになる ―、フランス語が充分に歌えていないと評される主役の歌の通りに記譜されているとは誰も思わないだろう。

折角録画したのだが、三幕を続けて観てから消去するしか意味がなさそうだ。結局はネットではシノポリ指揮のパリ版だけが1861年版で、それが最も来週演奏されるミュンヘンの「タンホイザー」に最も参考になるようだ。(続く)

色々と言いたいことはあるが、そもそもマフィアのマネーロンダリングなどの泡銭で高度な芸術を期待する方が間違いで、幾ら財力があっても結局は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」のように、カジノ経済などは文化を一切支えない。カジノへの横の入り口から400人の劇場に数十人が集ってのオペラが呆れる。関係者を除くと数人しか物好きが来ていない勘定になる。こんな劇場と関係を結んでいるボンの劇場とは一体どのような劇場だ。

朝の雨の後に峠を攻めた。調子は一向に上がらないが、気温摂氏15度ほどで雷雲の下で汗びっしょりになった。若干胸元も苦しい感じもある。今年初めて初夏の陽射しを感じた。今年は新緑をあまり感じられなかった。このような年はどうなるのか。少なくとも暑い日は今までなく、今日が最も暑い日と感じる位だからである。ここまで気温が落ち着いていると夏も涼しくなるかもしれない。それを期待する。


参照:
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 22:54 | | Trackback

新たなファン層を開拓する齢

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承前)ブルックナー交響曲の版にまでは話は及ばない。しかし三楽章のスケルツォでどうしても、今回は演奏会前半に演奏された変ホ長調のそれを思い起こしてしまうのは仕方がない。ひき続けて交響曲演奏会などに出かけると、どうしても古典派から後期ロマン派と呼ばれる交響曲までの大きな流れの中でしか一つ一つの創作を認識出来なくなってくる。交響曲という形式の宿命であり、それ故にこうした古典的な演奏会形式というものが200年以上の長い期間催されていることの根拠でもある。

抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。

今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?

ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。

当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。

さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。

そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。

そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。

そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。

最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)



参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 00:28 | | Trackback

「白鳥の歌」は常動曲の主旨

承前)ブルックナーの交響曲の前にモーツァルトの交響曲を置いたプログラムであった。90歳になる指揮者ブロムシュテットは、この組み合わせで方々で客演しているようだ。来シーズンもベルリンで同様なコンサートを行うようである。秋にも生誕九十歳記念として、極東ツアーの前に、欧州ツアーの一環としてバーデン・バーデンにもゲヴァントハウス管弦楽団と演奏するが、その時はメンデルスゾーンの協奏曲とブルックナーとなっている。九十歳記念に世界旅行をするというのは聞いたことがあるが、30日ほどの間に各地で20回ほどの演奏会を指揮するなどは聞いたことが無い。

そのモーツァルトの交響曲の演奏自体がとても生半可なものではなかった。ラディオ中継でも聞いたように何よりも細部まで目が行き届いた指揮を心掛けていて、それをヴィーナフィルハーモニカ―も無視できない形にはなっていた。その39番変ホ長調の妙は、天才作曲家モーツァルトのセンスの良い、細やかな筆使いにあると思う。そうした細かな筆入れとか、その前後の楽章を睨んで記譜している時の細かな動機の扱いやアクセントやフレージングの妙が感じられるときに、私たちはこの天才作曲家の実体に初めて触れる気持ちがするのである。

モーツァルトの「白鳥の歌」と呼ばれるこの交響曲を読み込む文字通り暗譜する90歳になろうとする指揮者にとっては、当然のことながらそうした芸術的な動機付けが無し通常の管弦楽団レパートリーとしての演奏会など出来る筈がない。そうした隅々に亘る配慮がなされていた。なによりもスケルツォなどでもテムポがしっかりと弾むのが素晴らしく、その指揮ぶりを見ている限り二十歳代の指揮者でもこれ程生き生きしたリズムを刻めるだろうかと思わせる。

更に立派なのは終楽章の繰り返しが確りと常動曲になっていたことである。全ての繰り返しを行っているのはもとより、スケルツォのリズムに続いてこうして終楽章の最後で元に戻ることで初めて納得させられるものは可成りこの曲の本質である。因みに模範的な演奏であるカール・ベーム博士の演奏は常動曲にもなっておらず、スケルツォは固いリズムで遅い。勿論キリル・ペトレンコのモーツァルトのように表情がついたジョージ・セル指揮と比べても遥かに純音楽的であるのは言うまでもない。

「白鳥の歌」と呼ばれて室内楽版などが19世紀にはとても売れていたようだが、この常動曲にはチャイコフスキーの五番の終楽章や悲愴交響曲の三楽章に匹敵するぐらいの終結感とその続きの関係が感じられる。常動曲の主旨は、チャイコフスキーの「白鳥の歌」とは異なるが、「フォアエヴァー」効果である。

先日ツィッターを見ていて、「進歩などはない」という安易な反進歩主義観が引用されていたが、なるほど啓蒙思想花盛りの19世紀的な、音楽で言えば「魔笛」の、「今日よりも明日の自己の方が啓蒙されて居る」という進歩はないかもしれない。しかし、例えば2013年のミュンヘンでの「影の無い女」新演出上演の「明日が今日より良くなるかどうかは分からないが」少なくとも不可逆な時間軸に沿って「前へと一歩進みでている」ことには間違いないのである。

もしそうした不可逆の時間軸を無視するとすれば少なくとも上の常動性などは意味を持たなく、そもそも音楽などは芸術でもなんでもなくなってしまうことだけは間違いない。(続く




参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲 2017-04-29 | 音
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-10 22:17 | | Trackback

身を焦がすアダージェット

承前)日曜日に録音したキリル・ペトレンコ指揮フォアールベルク交響楽団演奏マーラーの第五交響曲を流している。不思議なことに繰り返し聞くと目立つ筈のあらよりも音楽的な構成や作曲の真意が聞こえて来る。更に不思議なことに繰り返し聞いているうちに実況録音の音質まで改善されているように聞こえる。放送の時よりは録音したものを再生する方がアップサムプリングされていることはあるが、繰り返すうちに改善される理由は無い。あり得るとすれば再生するときの音量などが適格に設定できるようになるからだろうか。しかし技術的には、同じファイルを再生するのでPCにキャッシュとして上手に残ることで、HDDとの受け渡し時の読み取りエラーが減るということだろうか?

この交響曲の演奏は、東京公演や台北公演に先立って、6月6日にミュンヘンで行われされて中継放送されるので、詳しくは改めることにする。それでも行進曲の密なテクスチャーのところの見通しや普通は余りに技巧的になって音楽的な意味を取りにくい箇所もとても音楽的に処理されている。今までテンシュテット指揮のものも含めて何度か実演でも聞いている曲であるが、バレンボイム指揮パリ管やシカゴ交響楽団よりもあの圧倒的なショルティー指揮のそれを想起させるのが面白い。それほど徹底して微に入り細をうがつ ように指導しているからで、超一流の管弦楽団でなくても楽曲の本質に迫る技は今までの経験の賜物だろう。弦合奏が充分に芯のある音を出せないでも誤魔化しをしていないことで成果を上げている。流石に管楽器などはソロが怖いので助っ人がボーデンゼー沿岸から集まってきたようで、芯を形作っている。

そして鬼気迫るような指揮のアダージェットは、殆んどあのバーンスタイン指揮を想起させるが、どんなに強く歌い込んでもリズムが滞らないので、今まで聞いたことのなかったような焼けつくような愛の歌になっている。恐らく今まで演奏された中で最も燃え上がる歌ではなかったろうか。終楽章ロンドにしてもチェリビダッケ指揮のように拡大鏡で覗くようで、バレンボイム指揮ではなされ得なかったことがここで実現している。それでも殆んどのユダヤ系指揮者がフォームを崩して独墺系の聴衆に嫌悪されるようなグロテスクにはならない。とても清潔で清々しく客観的な面を決して失わない。そのテムポ設定に関しては6月に再び検証してみないといけないだろう。

「若人の歌」で感じた特別な雰囲気は、ここでもいつもの客演の枠を超えないながらも、必死で棒を振ってテムポが甘くなりそうなのを鼓舞している様子が聞こえる。「故郷の管弦楽団」でなければ業界基準として下手な演奏がキャリアー上で不利になるようなこの程度の管弦楽団では指揮をとらせないのだが、多感な時代に「労働移民」の父親がそこで弾いていた裏側を見ていた天才指揮者としては尋常ではない思い入れがあるのは当然だろう。そうしたあらゆる要素がマーラーの交響曲の隅々にまで表現されていて、そうした要素が、通常はどんな名指揮者でも音符と格闘するだけに終わっているものが、過不足無く過敏に表現されいたのがこの演奏だ。



参照:
ストックの石突きを購入 2017-04-30 | 生活
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
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by pfaelzerwein | 2017-05-09 18:06 | | Trackback

ブルックナー交響楽の真意

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ブルックナー交響曲4番「ロマンティック」を聴いた。今年90歳になるヘルベルト・ブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカ―の演奏だ。19世紀後半を代表するブルックナーの交響曲は、その後のマーラーの交響曲に比較すると、今でも世界的には充分に理解されていない。理由ははっきりしているのだが、それよりも先にブルックナーの本質的な要素に触れたのがいつものようにシマンスキー氏の公演前のオリエンティーリングだった。

第九番のときにもそのスケルツォをして、蒸気機関駆動としてのイメージを挙げていたのだが、同じ主題の交響曲を書き続けたこの作曲家の場合、当然ながらそれを遡る形でここでも産業革命時代を代表する交響作曲家としてのブルックナーを読み解くことになる。しかし、当然ながらそれだけではないのは当然で、まさしくこの交響曲四楽章コーダーに、一挙に再起する主題群つまり、弦のトレモロの機械のカムの回転音、ホルンの日の出、呼び出しの主題と各々が三位一体をなしていることになる。

自然主義の日の出や鳥の囀りなどは、ブルックナー自身が当時の聴衆に説明した霧の中に浮かび上がる中世のお城の騎士の世界や狩りのホルンのロマンティックな夢想と決して相性は悪くが無いので、比較的馴染みのある純粋音楽へのイメージであろう。しかし、呼び出しの主題、つまり第一楽章でのホルンの響き自体が呼び出しであり、ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」とあまり変わらないことになる。その後半の三連符の上昇もまさにそのものとなる。そして何を呼び出しているかになるのだが、この作曲家のスヴェデンボルグ同様に神との遭遇を記録している神秘主義で密教的な書付けから、それは明らかとなる。つまり本人のビーダーマイヤーの世界観に訴えかけた解説では充分に言い尽くされていない部分である。

しかし恐らく一番問題になるのは、産業革命後の蒸気機関の響きがどこまでメカニックな形でこの交響曲作家の音楽主題になっていたかということであろうか ― それがなぜベートーヴェン的な動機処理ではなくなるのは容易に理解できるであろう。マーラーに至っては市電に乗り続けていた所謂てっちゃんであったことは知られているが、寧ろ音楽的にメカニック的なところはブルックナーの交響曲のようには目立たない。勿論ブルックナーの創作過程を見るときには、同時に例えば「タンホイザー」におけるヴァークナーとその後の「ジークフリート」のかなとこの音楽などを並行して観察することが助けとなるに違いない。つまりこの交響曲が作曲されたときにはまだまだヴァークナーはそこまでの近代的な創作をしていなかった。

いずれにしても産業革命の蒸気機関に代表される圧倒的な力こそが、密教的な感覚からしてもカトリック信仰の見地からしても、最も重要な時代の鼓動だったことには間違いない。そのメカニズムもエンジニアリング的な発想であればあるほど本質的となる ― それはコペルニクス的な発想に近いかもしえない。そうした意味で、ブルックナーの動機の扱いこそがデジタル的であり、アナログ的なマーラーの主題とは対照的とする考えは半世紀ほど前からよく知られていたが、それは強ち間違いではないであろう。(続く



参照:
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-05-07 22:29 | | Trackback

芸術の行つくところ

新聞に新しいドレスデンのコンサートホールが紹介されている。旧民主主義共和国文化宮内のホールが、ワインヤード型に一新されたようである。多目的に使われるようだが、ドレスデン市の名門フィルハーモニーカーがそこを本拠地としているらしい。そして興味深いのはエルプフィルハーモニーのそれとは正反対の音響を備えているということで、ユリア・フィッシャーのソロと管弦楽団は分離して聞こえても、全奏となるとプルームになるらしい。そもそも上手な管弦楽ではないのだから演奏が下手なのか、はたまた会場が悪いのかは分からないのではないか。所謂19世紀の和声の響きを美しく導き出すとすれば、現存の指揮者としてはハイティンクなどが有名なようだが、管弦楽団が超一流でなければただの場末のバンドになってしまうからどうしようもないのではなかろうか?

フラッターエコーなども目立つということで調整は必要であり、土間席では頭上を音が過ぎていくので、ベルリンのように舞台の高さを低くしなければいけないと書かれている。現在の指揮者ザンデルリンクは契約を延長しないことには変わりない。その名前の親父のインタヴューを偶々見た。エフゲニー・ムラヴィンスキーについて語るインタヴューである。キリル・ペトレンコの指揮台に落とされる視線を見ていてどうしてもムラヴィンスキーの指揮ぶりが気になったからである。そしてチャイコフスキーでも譜捲りをしているのを見て、全く同じだなと思った。執拗に練習する時間もとれたのであり、それだけの権力を持っていたのだから、その芸術の行きつくところが恐ろしい。

そのペトレンコは、来シーズンベルリンでプロコフィエフの協奏曲以外にリヤードフ、シュミットのプログラムを指揮するらしい。それぞれコーミシェオパーとケルンの放送管弦楽団での録音でYOUTUBEでは御馴染みである。四月にニューヨークから帰ってきて殆んど勉強する時間が無いのだろう。興味深いのは協奏曲にシナ人の若い女性をソリストとして迎えていて、まるで追い出すランランの代わりにシナでの市場でも反感を買わないように配慮しているようだ。

会見でサイモン・ラトルは、キリル・ペトレンコが後任として選ばれて、「とても幸せだ」として「彼は大物で、素晴らしい音楽家」と称賛した。そして、今後も自ら指揮台に登場することを示唆して、またブリクズィットについては、「破局、百難有って一利無し」と正直に言明している。現時点でもそのような声が出ることがやはり英国の苦悩はまだまだこれからと思わせる。来年六月にサイモン・ラトル監督のお別れ興業として欧州ツアーが組まれている。どうしてもそのあとのザルツブルクとルツェルン音楽祭のプログラムが気になるが、2018/2019年シーズンの初日と同じになる筈で、一体誰が指揮者でどのようなプログラムになるのだろう。

今最も請われている実力派指揮者と言えばルツェルン在住のあの人しかいない。来年91歳を超えるヘルベルト・ブロムシュテットである。初めてのその指揮ぶりを楽しみにしているのだが、さてどうだろうか?先週末の録音を繰り返し聞く限り、ここぞというところで一息入れて貯めて棒を振り下ろすような感じである。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ヴァルターの影響を受けたという指揮者であるが、実演ではその癖はどのように聞こえるのだろう。折角正確に譜面を読み取っているのだから、ペトレンコそのように律動を維持しながらアクセルとブレーキを自由自在に掛けられれば問題ないのだが、さてその真意はどこにあるのか。



参照:
エルブの容赦無い音響 2017-01-16 | 音
地方の音楽会の集客状況 2017-01-23 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-04 22:40 | | Trackback

特別効果の「さすらう若者の歌」

日曜日晩は予定通りフォアールベルクからの放送を聞いた。4月16日にモンタフォンの谷の出口にあるフェルトフォキルヒェでの演奏会実況中継録音である。演奏するのはフォアーベルク交響楽団で、指揮するのは同地へと移民してきたヴァイオリン奏者の息子キリル・ペトレンコである。交響楽団自体はもともとORFの放送交響楽団を母体としていたようだが解散後に新たに発足した交響楽団のようである。

スキー愛好家には、ザンクトアントンの名で代表されるフォアアールベルクシューレによって日本にもアルパインスキー技術が齎されたように、近代スキー技術のメッカとして有名である。しかし音楽の世界ではブレゲンツの湖上オペラや精々ホーヘネムス城でのシューベルティアーデぐらいしか聞いたことが無いだろう。実際には小さな音楽祭などはあって、そこでヒラーアンサムブルのメムバーなどがうろうろしていたのを覚えている。それよりも、谷を入ったところのブルデンツに名歌手シュヴァルツコップが最後の居を構えていたことで知られているかもしれない。要するに午前中に生放送を聞いた東の果ての帝都どころかハプスブルク家の居城インスブルックからもトンネルを超えて遠い。更に遠いザルツブルク音楽祭にシュヴァルツコップ女史が通っていた時は当然のことながらそこで長期夏季逗留をしていたのだろう。要するに細長いオーストリアの西端に位置して、ボーデン湖を挟むようにドイツ、スイス、リーヒテンシュタインなどが国境を重ねている場所である。

だから言語的にもアレマーニュ方言に近いと思う。そして今回の交響楽団にとってもハイライトとなると、助っ人として多くの名手が国境を越えて集まって来たということである。平常でも最近売れているミヒャエル・ホフシュテッタ―なども指揮をしているのだが、やはりドイツの大都市の管弦楽団とは比較出来ない。それが前半聴取後の感想である。

それでもペトレンコ指揮はとても面白いことになっている。楽団との練習時間も限られていただろうが、全く誤魔化すことにない指導をしているようで、音が十分に出ていなくても高度な演奏を求めているようで、中々演奏することで表現の幅が広がっていくようなことにはなっていないが、ベルリンのコーミッシェオパーでの演奏程度の表現には至っている。特に興味深いのは地元出身でフランクフルトでも歌っているというシュムッツハールトというバリトンが上ずった声で歌い ― そのものバイロイトでジークフリートを歌ったライアンを想起する ―、有名なフィッシャーディスカウの歌などよりも直截な若者の歌になっていて独特の効果をあげている。まるで少年合唱団員が声変わりしたような歌声になるのである。この人もレヴィン事務所の所属のようだが、この人を選ぶところがとても面白い。(続く



参照:
思春期のホルモンの様 2016-10-16 | 雑感
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-05-01 23:28 | | Trackback