カテゴリ:音( 179 )

思し召しのストリーミング

東京からのラディオストリーミング放送を無事聴取した。いつロケットが飛んで来て人迷惑なアラームで中断されるかとひやひやしていたが、金さまの思し召しで無事やり過ごせた。役にも立たたない警報で文化的な放送が中断されるとなると最早それは戦時態勢社会と呼ばれても仕方がないだろう。あの極右のポーランド政権でもそんな子供騙しのことはしていないと思う。いつものように日本とポーランドを比較すれば、ロケット防衛システムで合衆国と協調することはポーランドの国益に適うが、日本それは外交的国益に適わないどころか合衆国の軍事産業の育成でしかない。やればやるほど金さまの目標となり易く、国益に反するだけでしかない。如何にポーランドが現実政治の中で外交的見地から粋を尽くして、ロシアに対してもEUに対しても合衆国に対しても外交力を発揮しているかとの相違が甚だしく比較対象にすらならない。日本は未だに真面な外交すらしていない、恐らく明治維新以降ということだ。

前日から目覚ましを掛けて日曜朝7時空の放送に備えた。6時になる15分前に目覚ましを掛けていたのがスイッチを間違っていて鳴らず、タブレットのそれで目が覚めた。ルーターをリセットして万全を期す。VPNサーヴァーは前夜から見当をつけていて、中断無く完璧に作動してくれた。東京からの中継がアラーム中断の可能性が低いのか、関西の方が良いのかは分からなかったが、前夜の邦楽などを聞いた印象では東京の方が音質的に優れているように判断した。

承前)解説も前振りも全て聞いたが、キリル・ペトレンコを紹介して、ベルリンの監督に推挙される前から「オペラ界の巨匠」としたのは一歩踏み込んでおり、今回の演奏実践をマーラー演奏とヴァークナーのそれの基準になる可能性のあるものとしての言及も遠からずであるが、これも説明無くかなり踏み込んでいた。

総譜を広げながら放送を流していたのだが、10月10日のミュンヘンでの演奏会と明らかに異なっていたのは、例えば既に触れた「無駄な骨折り」での基本テムポと表現である。この指揮者の場合楽譜を読む時にテムポが完全に定まっている筈なので、たとえ伴奏であったとしてもその変化を不思議に思ったら、楽譜には「Gemächlich, heiter」 としか書いていない。八分の三拍子でこの言葉の意味「慌てずにゆっくり」で「楽しく」を含むと、ここで歌われているのはどう考えても遅過ぎて、シュヴェビッシュの言葉のアクセントも壊れてしまっている。恐らく東京での公演では、歌手のゲーネの意見を尊重すると同時に、放送での細部への配慮を考えてそれに従ったのではなかろうか?このテムポでは全く「楽しく」なく、ミュンヘンでの一茶のような俳諧も全く感じられない。その他の曲でもなるほどダイナミックスレンジは下に広がっていて驚くが ― NHKの収録技術共に ―、表現の精緻さや起伏はまだまだ狭く、プログラム一回目の本番演奏としては事故無しを第一に考えている様子である。収録の関係か、管弦楽団に対して声が可成り大きく聞こえるのは、管弦楽の音の押さえ方なのだろうか?

ミュンヘンでは、管と声の繋がりがとても良くて感心し、楽譜を確かめてみなければいけなかったのは「Und als das Korn/Brot」の一節目で、フルートとコールアングレが伴うところだが、この三節目の繰り返しの相違を確認するだけでもこの創作の意図が見えて来るのではないか。そして本番四回目の弦を合わせての精度には驚愕した。

その他、「原光」ではミュンヘンでは管と弦が物理的な距離もあってか ― オペラ劇場は舞台が深い ―、距離感があって大きなパースペクティヴを以って絶大の効果として響いたが ― これはその他においても管と弦が交わる以上に対抗・相槌の関係で響いた -、ここでは少なくとも放送ではそのようには響かない。

その他は、どうしても楽譜を見ながらとなると管楽器の演奏などが気になって、前打音が確り出ていなかったり、コールアングレが引っ込んでしまったりとその名人技には限界が見つかってしまう。それでなくてもこうしたよく出来たライヴものでも何回も繰り返させて聴かれるとなると、当然ながら修正しなければいけない傷は幾つも見つかる。余談だが、NHKの編集は、ドイツの番組時間ぎりぎりに押し込めているのと異なり、長めにフェードイン・アウトを使っていていい。

なるほど指揮の職人的な面とは別に、そこから楽譜をこうして調べることでその演奏実践から創作の本質的なところに手が届くようになるのが音楽であり、その努力を惜しむと何時まで経っても芸術を読み解くことが出来ないのである。そのような演奏がキリル・ペトレンコの芸術である。

後半の「ヴァルキューレ」第一幕も想定以上に所謂蓋の無い演奏実践として興味が尽きないが、あと三カ月もすれば2015年バイロイト以降初めての「ヴァルキューレ」演奏となるので、年末年始にこの録音も参考にして集中して触れたい。今回の舞台での演奏は、歌手の適役などの問題は明らかだが、来る一月の公演で必ず大きな意味をもってくると思うのでとても貴重な資料となった。(続く



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-15 21:19 | | Trackback

マーラー作プフェルツァー流

承前)日曜日にNHKFMで10月1日の演奏会の録音が中継される。その前に忘れないうちに四度目の本番公演であったミュンヘンでの「子供の不思議な角笛」演奏について書き留めておこう。その演奏についての細部についてはラディオを聞いてから更に思い出すかもしれないので、大まかなことだけを纏める。

公演前のガイダンスで思いがけないことに気が付かされた。それは「子供の魔法の角笛」原文は方言色が強く、それも「無駄な骨折り」のシュヴェビッシュだけではなくて、プファルツの方言だというのだ。私に向かって言った訳ではないと思うが、全くそこに頭が回っていなかった。プファルツと言っても所謂マンハイム、ハイデルベルクのラインネッカー周辺のクアープファルツなのだろう。バイエルンからすればまさしくカールテオドール候のお里であり、植民地のような地域の感じになる。因みに、ドイツェホッホロマンティックとはハイデルベルク、ライン、イエーナ、ベルリンからなるらしい。

勿論少なくともグスタフ・マーラーが作曲したものに関しては、そうしたアクセントは強調されていないので、音楽的にはそれほどの意味をなさない。それでも一般的に言われるユダヤ的なリズムや例えばクラリネットでのクレズマーの冠婚の音楽やトリラ―の多用など、そのままのコラージュされる要素がより普遍的な意味を持つ。それをプファルツァーのアクセントに引っ掛けても決して違和感がないような感じがして、ローカルと日常、そのまるで万華鏡を覗き込むかのような世界観へとその意味合いが拡大する。今回の演奏でも「少年鼓手」での木管の上向き吹きなどに、どうしてもそこまでを聞いてしまうのだ。

あのおどけたような感じは、なるほど作曲家が書いているような市井のそれが取り囲む環境の自然に繋がりるという謂わば非芸術的な世界を描いているとなる ― 狭義のコラージュとなる。これを突き進めていけばもうそこにヨーゼフ・ボイスの世界が繋がっている。但しここではダダイズムやクリムトなどへと容易に考えを広げる前に、再び重要な点を思い出しておきたい。

一つは、ガイダンスでも挙がっていたタイトルの「子供」であり、先週末ラディオでマティアス・ゲーネが「子どもは関係ない」と電話口で語るのとは正反対の世界に留意しておくことだ。これは、復活祭の第六交響曲演奏前に語られていた所謂幼児世界のことを指す。マーラー研究の一つとしてまた恐らく精神分析的な見解として、この作曲家にとって表現されるべきとても「大きな世界」であったようで、それが根源的な前記の自然、環境認知へと結びついていて、そこでは最も日常茶飯なものが第一次資料となるということのようである。

その第一次資料として、作曲家は1906年に傾倒者であった作曲家アントン・ヴァ―ベルンに「子供の角笛の後は、リュッケルト詩しか作曲しない、それは第一次資料で、それ以外は第二次資料でしかないからだ。」と書いていることに相当する。

例えば今回最も素晴らしかったのは「無駄な骨折り」の殆んどオペラかリートか語りか分からないような歌唱であったが、会場がくすっと声が漏れるほどの効果があった。これなども本当に直截な表現であり、まさしく第一次資料による自然なのだろう。

それにしても東京からも指摘があったが、ゲーネの歌唱は嘗てギドン・クレメルが「ヴァイオリンソリストとしての最晩年」にやっていたような無音の音楽表現で全く声が聞こえないような呟きの歌唱になっていた ― 本人はヴォルフラム歌唱に際して管弦楽に合わせて声量を下げたなどと言い訳している。

それにしても「浮世の生活」での ― これは原題は「手遅れ」であるが ―、ヴァイオリンの八分音符のせわしない動きも見事に、それをまた声に合わせる精妙さは昨年の「四つの最後の歌」での絶賛に勝るとも劣らない名技だと思った。この管弦楽団ほど声に合わせられる管弦楽団は世界に存在しないと思う。同じように絶賛されたパガニーニでの演奏が恐らく「タンホイザー」を除くと今回の日本公演でのハイライトであったという指摘にも肯ける。ヴィーナーフィルハーモニカ―にあの精妙な合わせが出来るかと想像してみる必要もない。

繰り返すが日本からの放送が上手く聞ければ、また二つの異なる批評に目を通してから、全ての曲でたっぷりと音価を取ったその細部について触れたいが、今回は交響曲ではなかったが、明らかにグスタフ・マーラーの創造に新たに強い光が照らされるのを感じる。マーラー解釈に関してはレナード・バーンスタイン指揮のそれが途轍もない影響を与えてルネッサンスとされた訳だが、それ以前に今回の曲の一部もブルーノ・ヴァルター指揮国立管弦楽団によって1915年に演奏されているという。そこまで遡っての新たなルネッサンスということになりそうだ。既に学究的な立場からは様々な研究結果が出されているようだが、それらが全く演奏実践として反映されずに、バーンスタインの影響から逃れられなかったのが今日までの歴史だった。(続く



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-10-14 18:04 | | Trackback

シャコンヌ主題の表徴

承前)ブラームスの交響曲4番で最も耳についたのは三楽章アレグロジョコーソ楽章のコーダでの並行短調つまりイ短調とハ短調音階に和音連結されるところであった。これは展開部でのffz‐pの和音連結の対比として響くのだが、ここではffの後にsempreと書かれているだけなのだ。これが通常はイケイケのアクセントとして響くのであるが、つまり強弱記号が無い四回の連結はffで演奏されるのが常のようだ。しかし今回はハ短調和音がその楽器編成と音高に見合った抑えられた感じで響いた。その真意は改めて考えるとして、同じように演奏している録音は殆んど見つからず勿論フルトヴェングラー指揮も通常通りだ。そこでYOUTUBEで見当をつけて探して聴くとあった。やはりチェリビダッケ指揮ミュンヒナーフィルハーモニカ―の演奏だった ― オリジナル楽器楽団をガ―ディナーが指揮した演奏も同じように響いたように思う。

しかしそれよりも何よりも音楽的にその場で感心したのは四楽章のシャコンヌ主題が再現部の26変奏で弾かれるところで、ここはあっと思った。通常の演奏では、ホルンに続いてヴァイオリンの三連符の波の中でオーボエに引かれるような感じで、その音高からして浮ついてしまうのだが、楽譜を見ると確かにオーボエはpになっていて、弦と同じように松葉のクレシェンドになっている。恐らくここはオーボエにとっては強起なのでどうしても出てしまうのだろうか。それに引き換え低弦部はしっかり出ないのが通常だ。しかしこれが効いていると、「シャコンヌ感」と「ソナタ形式感」がぐっと実感されて、その後のコーダでのヴァイオリンでの提示に影響するのは当然だ。天晴と言うしかなく、前記チェリビダッケでも野放図になっているところで、如何に巨匠と呼ばれる殆んど全ての指揮者が楽団の前で勢いと権威で仕事をしていて真面な楽譜読解力が欠けているかが明らかになって驚愕する。勿論パート譜を眺めて仕事をしている楽団員は何かをしようとしても全体での音の鳴りの中で自らの楽譜を音にするしか致し方ないのだから勢いが歴史的な演奏実践となってしまうのだろう。

その他一楽章から二楽章など動機のアーティキュレーションの正確さが要求されることで初めてブラームスの創作が音化されるのだが、やろうとしていることははっきりしていながらも流石に国立管弦楽団の優秀さをしてもとっても無理がある。例えば早い連符での強拍弱拍へのスラーなどはベルリンの樫本氏にお願いしないと無理ではないか。更に、折から投稿された日本の毎日新聞に「バイエルン州立管こそペトレンコのベストパートナーではないかと」などと頓珍漢なことが書いてあり、またこの座付き管弦楽団が「ヴィーンやドレスデン、ベルリンの座付きと同等の管弦楽団を目指す」と報じられているとなると、これはどうしても厳しい目で(耳で)批評しなければならない ― 兎に角、繰り返すが音楽著述を糊口の凌ぎとするような者は、少なくとも自分が感じた印象が、何か科学的に根拠があるのかどうかを ― 音楽の場合ならば楽譜にあたって ―、若しくは先ずは自らの置かれている環境を分析して、最低自問自答してみることはジャーナリズムの原点ではなかろうか。

後述する「子供の不思議な角笛」で聴かせた恐らくヴィーンなどでは到底不可能な次元でのアンサムブルや音楽を先ずは差し置くとして、例えば管楽器のその音色などは如何にそのホームグランドの劇場のコンサート会場としての音響を差し引いてもやはりあれでは駄目だ - 求心的な抑えた響きが出せていない、つまり喧しい。

日本でも最も厳しい評価として、初日の文化会館でのコンサートに「到底CPの合わない管弦楽」とあったが、それはある意味正しい。私自身もホームグランドでのアカデミーコンツェルトに出掛けたのは初めてだが、少なくともコンサートゴアーズが毎週のように超一流の世界の交響楽団を聞いていれば到底お話しにならないだろう。個人的にもミュンヘンまで行って聞くような管弦楽団ではないと再認識して、逸早くベルリンのフィルハーモニカ―とコンサートで指揮して欲しく ― 三回ミュンヘンにコンサートに行くぐらいならば一回ベルリンにペトレンコ指揮を聞きに行った方が遥かに良い ―、 オペラは残された期間ミュンヘンで、そして逸早くバーデンバーデンでスーパーオパーを聞かせて欲しいと思った。

なるほど、後述するようにフィルハーモニカ―では出来ないようなことがこの座付き管弦楽団には出来るのだが、期待していたブラームスの響きとしてもあの管楽器では致し方ないと感じた。勿論管楽器奏者も素晴らしい演奏をして、特にフルートのソリストは最後に舞台上で駆け寄って長話の特別な奨励を指揮者から授けられていたようだが、今後名人奏者が続々と入団する訳でもなく、やはり上手いといってもフィルハーモニカ―のように数年で粒が揃う訳ではない。ジェネレーションが変わるまで不断の努力をするほかないのである。ゆえに次期音楽監督は超実力者でないと務まらないのである。そうなれば、今の様に楽譜に忠実な演奏形態を座付き管弦楽団が希求するならば、殆んどスーパーオパーに近づいていくことは確実であり、他のライヴァルの座付き名門管弦楽団とは一線を隔することになるだろう。

今回のコンサートでの楽員の表情には、容易に満足できていない表情があからさまだった。流石に演奏者自身だから出来ていないことがよく分かっているのだろう ― たとえ歴史的にそれ以上に真面に弾いている録音が皆無だとしてもである。そして公演の「角笛」写真でも比較的硬い表情を見せていた。それはなぜなのか、日本での評価も踏まえて関心のあるところだった。(続く



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-12 21:31 | | Trackback

ブラームスの交響曲4番

冬以降初めて入浴した。寒かったからでもあるが、早い夕食で時間が出来たということもある。久しぶりに湯船に浸かるとやはり気持ちよかった。予想通り交感神経が緩んで起きていられなくなり早めに床に就いた。ぐっすりと眠ったが未明に目が覚めてこれまたぐっすりと二度目した。朝寝したが、とても効果があった。

来年一月のホテルを予約した。ミュンヘンへの観劇は通常は日帰りだが今回は一泊劇場から歩ける範囲でアパートメントを借りた。価格は適当で、必要なければ無料でキャンセルすればよい。車も劇場下に泊めて置けるので楽である。

来週の音楽会のために車に燃料を満タンにした。折からガソリンが安くなっているので助かった。もう一度出かける前に入れて満タンにしておけば比較的安上がりになりそうだ。

お勉強の方も始めたが、「角笛」と交響曲4番のプログラムで想定していたよりもオタマジャクシが多いように感じた。なによりもブラームスにおいても主旋律と対旋律ぐらいでしかその目の詰んだ織物を考えていなかったが、その声部毎のダイナミックスやアクセントを拾っていくととてもそれでは済まないなと感じた。恐らく歴史的な演奏実践の継承として、先ず何よりも和声的な観点でアーティキュレーションがなされていて、常套手段として解決されているのだろうが、よくよく見ると態々そのように作曲家が書き込んだ意味を考えさせるところが多々ある。

それとは別に一楽章の第二主題部での三連符などでもブルックナーなどではいつも決まったように納まっているのだが、ブラームスではその動機と他の動機との繋がりが気になって来て、たとえ対位法的と言われても到底主と従の様には処理出来なくなってしまう。

二楽章のフリジア調の主題とその後の経過の三連符と弱起のアーティキュレーションとの繋がりがとても面白く、とても細かに作曲されていて、やはりとても興味深い。

三楽章の三連符から第二主題の変形での大きく動機を拡張、対比と、第一主題のスラーの掛かった動機対比など、やはりこれは対比する主題の展開や縮小などではなく動機の組み合わせであることがよく分かる。

終楽章のパッサカリアでも三連符でクライマックスを迎えるのは良いが、それ以上に展開部へのリタルタンドとコーダでのポコリタルタンドを除いて、強拍にもつけられる数々のディムニエンド指定が目につく。

作曲経過を読むと四楽章のあとに三楽章が書かれていて、なるほどなと思った。全体の見通しがよく効いているからである。また初演がキリル・ペトレンコが音楽監督だったマイニンゲンの管弦楽団を作曲者本人が振ったとある。

恐らくブラームス演奏では最も権威があり歴史的にも重要なカール・ベーム指揮の録音などを聞くと、ここぞというところでおかしくならないようにそれを準備するようなテムポの運びをしていて、如何にノイエザッハリッヒカイトというようなものがその最大の効果を計算されたものであるかがよく分かる ― 要するにそこに至る準備を滞りなくして指揮台に立っているのがよく分かる。但し残念ながら管弦楽団が座付きのそれなので崩れることはないが全く楽譜の指定に無頓着な演奏が繰り広げられている。幾らでも録り直しの必要な箇所もあるのだが、指揮者もそこまでの意志も無いのか最初から無駄だと思っているのか分からないがそうしたものがこの曲の代表的な録音になってしまっている。

実はその前にいつものようにフルトヴェングラー指揮の戦中のライヴ録音を聞いたのだがそれは全く駄目だった。それについて触れずに、YOUTUBEで1949年のヴィースバーデンでの録音を聞いて驚いた。楽譜の情報が確り表現されていて、座付き管弦楽団とは違うのは当然ながら、ベルリンのフィルハーモニカ―を指揮してしっかりと楽譜が音化されている。今録音が残されている指揮者では、フルトヴェングラーはピエール・ブレーズと並んで、キリル・ペトレンコの楽譜の読みに迫る指揮をしている数少ない天才であることがこれでも分かる。そのテムポに関しても幾らでも自由自在になるのは、本人がバーデンバーデンのラディオで「幾らでもきっちり振るのは簡単で、自分は偶々指揮の才能があったから」と話していた通り、いつでも正しいリズムが打てる天分があったからなのだろう。



参照:
逆説の音楽的深層構造 2017-10-04 | マスメディア批評
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-08 03:47 | | Trackback

「子供の不思議な角笛」曲集

「子供の不思議な角笛」のお勉強を始めた。総譜は手元にあったので、曲集の曲順などが気になった。この日曜日にNHKホールで演奏されて放送されるキリル・ペトレンコ指揮の演奏ではバリトンだけの歌であるが、どのような選曲、曲順になるのか?

先ずは手元にあるフィルハーモニア版では、以下のようになる。

1.1 Der Schildwache Nachtlied 番兵の夜の歌 
1.2 Verlorene Mühe 無駄な骨折り デュエット
1.3 Trost im Unglück 不幸な時の慰め
1.4 Wer hat dies Liedlein erdacht この歌を作ったのは?
1.5 Das irdische Leben この世の営み
1.6 Revelge 死んだ鼓手

2.1 Des Antonias von Padua Fischpredigt 魚に説教するパドバのアントニオ
2.2 Rheinlegendchen ラインの伝説
2.3 Lied von Verfolgten im Turm 塔の中の囚人の歌 デュエット
2.4 Wo die schönen Trompeten blasen トラムペットが美しく鳴り響くところ
2.5 Lob des hohen Verstandes 高き知性への賛歌 
2.6 Der Tamboursg‘sell 少年鼓手

バリトンのマティアス・ゲルネは、ルツェルンではここから七曲、つまり2.2・2.4・1.5・Urlicht・2.1・1.6・2.6の順で歌っているようだ。Urlichtは交響曲2番に使われたので曲集からは除かれている。そしてブラームス交響曲4番の前にこの「不思議の角笛」が演奏される10月のアカデミーコンツェルトの資料を見ると以下のようになっている。

Gustav Mahler 
Lieder aus Des Knaben Wunderhorn 
2.2 „Rheinlegendchen“
2.4 „Wo die schönen Trompeten blasen“
1.5 „Das irdische Leben“
„Urlicht“
1.2 „Verlorne Müh’!“
1.6 „Revelge“
2.6 „Der Tamboursg’sell“

つまり、「魚に説教するパドバのアントニオ」の代わりに「無駄な骨折り」が入っている。どのように違ってくるのか、どのように決定したかは分からないが、東京でもこの順で演奏されるのだろう。勿論プログラムは最後の最後まで変更があるのかどうか分からない。 一曲一曲曲集全体の中で見ていかないといけないかもしれない。(続く)



参照:
言葉の意味と響きの束縛 2006-04-15 | 音
ベッティーナ-七人の子供の母 2005-03-16 | 女
お宝は流れ流れて 2005-03-15 | 文学・思想
ドイツ鯉に説教すると 2005-03-14 | 文学・思想
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by pfaelzerwein | 2017-09-29 23:52 | | Trackback

身震いするほどの武者震い

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キリル・ペトレンコの管弦楽団への言葉を知って身震いした。彼が自兵の管弦楽団に「はっきりと正確に」と言うとは、そこまで来たかという思いだ ― 楽団員は武者震いしたのではなかろうか。音楽監督が、ホールの音響故にとは言いながら、ある意味究極の目標を示したことになる。如何に管弦楽団が曲を弾きこんでるかということだ。

そして弱音への表現の幅の拡大は、とても座付き管弦楽団の仕事の領域ではなく、それでも芯のある通る音を発するというのは器楽奏者にとっても声楽家にとってもとても高度な課題である。交響楽団においてもそれに近い弱音の表現はラトル指揮ベルリンのフィルハーモニカ―によるベルリオーズ演奏とかシカゴ交響楽団のもしかすると若干異なるがパリ管の演奏会などでしか経験したことが無い。オペラではベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―ぐらいだろう。

我々凡人が考える二歩も三歩も先を見据えているのが天才である。テノールのカウフマンは、「キリルは難しいことでもちょいちょいと簡単にやり遂げてしまう」と言い、バリトンのコッホには「この世界で生きていて本当の天才と思ったのは彼しかいない」と言わせるように、日本の聴衆は今回そのなせる業を目(耳)の当たりにしたことになる。オペラにおける弱音への試みは驚愕そのものである。想像するにいつか彼は、「日本デビュー公演はとても大きな成果があった。管弦楽団にとってのみならずコンサート指揮者としての表現の幅を広げるために、そして日本の聴衆の集中した聴態度には大きな示唆を受けた。」と語るのではないか。要するにコンサート指揮者としての管弦楽表現の大きな可能性を試したということになるのだろうか。

勿論今までも昨年のオペラ「南極」世界初演での繊細極まる管弦楽などは大きな効果を上げていたが、通常の奏法でそうした弱音の効果はオペラの特に奈落の中では更に難しい。なるほど新聞が書くように歌手が管弦楽に合わせて音量を落とすなどは前代未聞だ ― ブレーキを掛けるのはアリアであまりに力み過ぎる歌手を抑える位でそれとこれはまた違うだろう。

なるほどミュンヘンでの蓋の無い「指輪」上演で最も問題になったのはあまりに管弦楽が生に聞こえる事だったが、2015年の「神々の黄昏」再演ではダイナミックの頂点を「ジークフリートの葬送」に持ってきてとんでもない効果を出していた ― ティムパニーの叩きもあるがその音の充実度は、彼のフルトヴェングラー指揮で天井が抜けそうとされたようなもので、ショルティー指揮のシカゴ響などの軽い金属質のそれとは比べ難い凄みがある密度の高い深い響きだった。そして今回弱音の方にスカラーが広がったとなると、ペトレンコ指揮のバーデンバーデン上演までの最後の「指輪」も棄てることなしに出来る限り聴きに行こうと思った。南ドイツ新聞には、次の日本公演に関する会議が持たれるとあったが、新たな支配人の下でのこととなるので具体的な話しにならないだろうということだった ― アントニオ・パパーノが次期音楽監督とされている。

「タンホイザー」二幕において合唱がずれたと話題になっていたが、一幕や三幕とは違って歌合戦前は正対しての音楽的に緩い部分での合唱であり指示が明確に出されているので事故の起こりようがない、アインザッツの問題も重唱になる部分は、ソリスツとのアンサムブルで作品の要となるので、最も更っていて最大の注意が働いている筈だ。ここが決まらなければ台無しである。それもあり得ないと思うので不思議で堪らない。コーダ前での一小節でのアッチェランドどころの話ではない。するとエリザベートの歌の直前の掛け合いとなる。

そうした興奮冷めやらぬ思いで買い物前にボールダーに寄った。久しぶりに天気が良くて乾いていた。最近は腹具合も悪く腹の膨らみが気になるので全然ダメかなと思ったが、簡単なところながら全然悪くはなかった。寧ろパワーを感じたので乾燥度と気候が幸いしているのかと思った。その後の疲れもあまりなかったので、なかなか体重をベストに持っていくのは難しいなとも思った。



参照:
徹頭徹尾はっきり正確に演奏… 2017-09-26 | マスメディア批評
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-09-27 01:45 | | Trackback

指揮台からの3Dの光景

夏時間の今日この頃は朝起きも大変だ。通常ならばまだまだ気温が高いので気持ちよい筈だが、冷えて来ると布団を離れがたい。それでも思い切って出かける。東京では、キリル・ペトレンコのデビュコンサートのリハーサルが始まっていた。フェースブックに載っている指揮台からの3Dの光景が面白かった。すでに御馴染みのアジアツアー向きのミュンヘンの座付き管弦楽団の陣容で、オペラが始まれば再編成となるだろう面々を指揮台から見る。文化会館の舞台の写真はやはり今までのそれとは違ってちょっと緊張した面持ちで、音楽監督の立場なら上手く解し乍ら、ザッハリッヒに要点に持ち込んで部分部分を修正していかなければいけないところだろう。

緊張を解すには肝心の実務に熱心になるのが一番良い。汗を掻くのが一番良い。上野で開演の頃に家を出て、ラフマニノフをイメージしながらパン屋に駆け込み、駐車して走り出すころには「トリスタン」のアンコールが間違いなく頭に響いていた。坂を走りながら、ピアノのレヴィットのアジアでのそれまでの三回のアンコール曲の選び方を考えていた。台北での一日目はその客層などを考えて「エリーゼ」だった。二日目はベートーヴェンの夕べなので、今度はゴールドベルク変奏曲をもってきて、ソウルでは意外にもショスターコーヴィッチだった。東京はミュンヘンと同じ「トリスタン」だと確信していた。何よりも15時始まりで時間的に余裕もあり、この管弦楽団との最後の演奏会だったのでこれしかないと思った。通常よりも長いアンコール曲であるので台北での聴衆には絶対無理と考えたのは当然だろう。また時差ボケのある中であれを聞かされると管弦楽団も緊張感が飛んでしまうかもしれない。

外気気温摂氏7度ほどと充分に涼しかった。それでもなんだかんだと考えながら峠から走り下りてくると汗を充分に掻いていた。上野では今頃葬送行進曲が始まったかなと思った。座付き管弦楽団の各々の準備万端の顔を見ていたので、大きな事故は無いだろうと思っていた。

自宅に戻ってPCを覗くと休憩時に幾つものとても肯定的な感想が載っていた。ここまでは想定内である。その後のマーラーの交響曲がどうなったのかに気を揉みながらシャワーを浴びて、朝食を摂る。終了して続々と感想が出て来る。

そもそもミュンヘンでの同じプログラムの演奏会にも出かけておらず、そのアカデミーコンサートもこの10月に初めて出かける位で、寧ろこの一流座付き管弦楽団の演奏会よりも二流のフォアアールベルクの交響楽団のマーラープログラムの演奏会の方が興味があったのだ。もちろん後者は多くのエキストラを加えなければ事故続出でしかなかった訳だが、実際に放送された録音を聞いても叱咤激励されながらも座付き管弦楽団とはやはり違った演奏をしていた。それでも手兵の座付き管弦楽団は、昨年九月のボンでの欧州ツアーの演奏会など何回かの本番を重ねるうちに素晴らしい演奏をすることは分かっており、ベルリンでの家庭交響曲と並んでボンでのチャイコフスキーの第五交響曲は名演だった。

ソウルでの反応にも座付き云々の話はあったが、それはドレスデンでも先日生放送のあったベルリンの対抗馬でも同じで、前者もシノポリ指揮でマーラー六番の内声部が混濁してしまい、後者も重い和音しか弾けないので実力はそれほど変わらない。ピッチ外れのヴィーンが特殊なだけで、「音が汚い」という感想は、クリーヴランドやフィラデルフィアともその辺りの放送管弦楽団とも違うので、ある意味正しいのかもしれない。やや重めのそれがどのように奈落で響くかとかが基準となるので、交響曲演奏上のそれは座付き管弦楽団の評価には当たらないことになる。

逆に、ベルリンのフィルハーモニカ―も現状のままでは十二分には音が出せていないことは悲愴交響曲の一楽章の展開部で示唆されており、新監督就任までの課題となっているに違いない。そのようにものになるまでは超一流交響楽団でも時間が掛かることを確認すれば、現在この座付き管弦楽団の演奏は如何に的を得ているかということが理解できる筈だ。そのような意味から、10月のブラームスの交響曲でも聞いておこうと思った次第である。今回の上野での演奏は大きな事故も無かったようで、本番5回目であるから可成りな程度に達していたことは窺えた。そのマーラー解釈に関しては、劇場の冊子にペトレンコの手記が付いていたようで ― ボンでもソウルでも笑顔の広報の同じ女性が配っている ―、その多声的な捉え方など、実際にこの10月に生で体験してみないと断定できないが、幾つかの感想の中に書かれている通りバーンスタイン編のシャブ中的なものからは遠い。交響曲の中心においているグスタフ・マーラー作品の演奏実践にこの指揮者の交響曲解釈の基本があると思う。

それは、昨年のリゲティの演奏でも示しており、または「マクベス夫人」でも、グロテスクに陥ることでの創作の歪曲とは程遠い演奏実践であることは間違いない ― 前者をノット指揮、後者をヤンソンス指揮と比較すればどちらが正しいかは故人である作曲家に聞くまでも無く一目瞭然だ。もし何らかの聞きなれない小節や拍があれば、先ずは楽譜に当たってみてその成否を吟味することが、この指揮者の演奏実践を批評する意味において最も有効で容易い方法に違いない。少なくとも日刊紙においても批評を生業とする者であれば、十二分に楽曲を勉強しておいて、その「ペトレンコ先生」の演奏を楽譜で確認してから何かを発言すべきである。日本での評論を楽しみにしている。少なくともこちらを訪れて真面な発言をした専門家も居ないようで、今回も呼び屋さんがこの指揮者を「気鋭」としていたのには驚いた ― その後「世界が注視する」と直されていた。台北で大師と呼べるのはメディアからの束縛が弱いからだと気が付いた。



参照:
https://twitter.com/ ペトレンコ
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
身を焦がすアダージェット 2017-05-10 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-09-18 01:16 | | Trackback

「全力を注ぐ所存です。」

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ミュンヘンの歌劇場のアジア公演に関して一段落して、様々な感想が載っている。劇場のHPにはまた別のマーケッティングの人がここまでの旅行記を書いていて、台北とソウルから東京到着までについて短く旅行記としている。

18時間の移動の果ての六時間の時差ボケがあるにもかかわらず翌朝10時に入りで、キリル・ペトレンコがやって来ると120%の集中力で稽古に入り、意気が上がっていたことが語られる。結局二回の稽古で、全ての曲が通して演奏されたが、一小節に数分掛かることもしばしばだったようだ。台北の会場の音響には慣れる必要があったが可能性を充分に活かすことも可能だったとある。

面白いのは、台北の若くラフな薄着の聴衆で、楽団についても音楽監督についてもなんら聞いたことが無いという具合だった驚きである ― これについてはヴィデオで短パンの若い女性に気が付いたが、流石にその気候如何に拠らず欧州の夜の文化ではやはりあり得ない。台湾の呼び屋さんも親切な女性ばっかりで世話に当たったようである。 

コンサートでの喝采は、両手を上げてといった感じで ― ヴィデオで見た通り二通りの聴衆の一つだろう ―、とても直截なもので、最初の緊張感は一挙に解れたとある。ペトレンコ指揮管弦楽団とレヴィットの組み合わせで、台湾では知られていなかったのがこれで一挙に知られることとなったとあり、少なくとも二回目のコンサートへの入りで、コンサートが始まる前から我々スタッフにも拍手が送られたとある。そして劇場のロゴの入った手提げが20分で売り切れてしまい、「台湾人って手提げが好きなんだなー」と思ったとある。

食事の面では臭豆腐については評価は分かれたが、意外にもソウルでのBQが人気だったようである。但し旅行前にはそこでの滞在に関しては大きな不安もあったようだ。翌日のフリーには六人がゲーテインシュティテュートのコンサートとマイスターコースを開いたようでカメラが入っているのでいずれ断片が観られるのだろう。

コンサートホールは、僅か90分の稽古でも入るや否やご満悦で、本番では二曲各々にロックコンサート並みの喝采があり、翌日の早出を忘れるほどの反響だったという ― 聴衆の撮ったヴィデオを見返すとこちらでとは異なって、なるほどいい演奏をしたのだろうが楽団への喝采と指揮者への喝采の差はミュンヘンなどよりも遥かに小さい。韓国の聴衆はオタクも間違いなく多いだろうが、やはり東京などとは違ってミュンヘンの古い座付き管弦楽団初来演ということで訪れている人も少なくないのかもしれない。また台北とは違う意味で東京とも違うということだろう。そして喜びに溢れての東京到着で、どこか古い友人に再会したような馴染みの東京、各々が自由に出かけたとある。そして二週間ほど過ごすホテルに落ち着いたようだ。

同時に、南ドイツ新聞も東京に人を送って、ペトレンコ接近を試み、タンホイザー演出の日本での反響を見る。しかし様々に提供される写真には綺麗にキリル・ペトレンコの肖像は切られていることからすれば、写真家の専属権もあるがマネージメントがしっかりと防御をしているのは間違いなさそうだ。それでも音楽誌「クラシックホイテ」のHPには以下のような音楽監督のメッセージらしきが出ている。他には見当たらないのでプレス向きに出されたというよりも、日本向けの冊子やプログラムに掲載されるのかもしれない。

Generalmusikdirektor Kirill Petrenko gibt mit dieser Tournee sein Asien-Debüt: „Ich war noch nie in Japan. Daher bin ich sehr gespannt auf unser großes Gastspiel im „Land der aufgehenden Sonne“! Auch auf Wagners Tannhäuser freue ich mich schon sehr. Kurz vor unserem Gastspiel hatte im Mai unsere Neuinszenierung von Romeo Castellucci Premiere, da ist so vieles Neues zu entdecken, für alle Beteiligten! Wir werden jedenfalls alles dafür tun, den Erwartungen gerecht zu werden, und wollen unser Bestes geben. Ich freue mich sehr auf diese Reise!“

 ― 日本は初めてで、「陽が昇る国」での客演大公演がとても待ち遠しい。そして、ヴァークナーの「タンホイザー」をとても楽しみにしています。今客演が始まる前の五月のロメオ・カステルッチ新演出初演で皆に沢山のことが明らかになりました。ご期待に沿うよう全力を注ぐ所存で、最高の成果を示したいと思います。とても楽しみにしています。 ―

先ずは、日曜日の演奏会の出来とその反響に私達の関心は集まるところである。この「インタヴューは時間の無駄」と言い切る指揮者の類稀な藝術に対する真摯な姿勢とそのマネージメント能力は、既にこのアジアツアーでも端々に表れていて、しょてっぱなから東京の聴衆に問うてくるのは間違いない。ラディオ中継が無くて本当に残念である。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-09-16 21:42 | | Trackback

Nach Tokio! Nach Rom!

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愈々、ミュンヘンの座付き管弦楽団は東京へ移動する。日曜日にラフマニノフ、マーラーのプログラムでのコンサートで、同時に木曜日「タンホイザー」初日への稽古に入るのだろう。ピアニストのイゴール・レヴィットは帰国して、次はボンでのリサイタルだろうか。同じように帰国する人もいるのだろうが、歌劇場本隊は直接東京入りなのだろう。

ソウルでのコンサートの様子は、流石に携帯電話大國だけのことがあって、インスタグラムの量が凄く、劇場から直接上げているようだった。それを見るとトラムペット奏者も喝采を浴びているようで上手くいったのだろう。明らかに台北の初日とは違って落ち着いた感じがあるので、恐らくかなりいい演奏になったのではなかろうか。因みにレヴィットのアンコールはショスタコーヴィッチのバレー組曲一番「ヴァルツァー」となっている。

兎に角、今までツアーの状況をSNS等で追ってくると、旅行計画自体もとても完璧に思える。何といっても台北初日の時差ボケの興奮状態と、二日目のベートーヴェンでの反響を見ると、想定以上に順調に進行している様子だ。寧ろ管弦楽団の夏休み中の準備かどうかは分からないが、昨年の欧州ツアー時よりも一段と管弦楽団として成長しているようにしか思えない。それは、ピアノ協奏曲三番の断片を見ていても、なるほどベルリンで共演したピアニストとは違って、指揮者とピアニストの間の意思疎通が顕著で、遥かにフィルハーモニカ―との演奏時よりも素晴らしそうだ。交響曲の方も練習風景で見たように、またコーダの風景のテムポを見ても中々のもののようで、楽団員が聴衆以上に満足しているのは時差ボケの興奮とはまた違うだろう。

台湾では、「ミュンヘンは南国的なキャラクターで」と書いてあるのを読むと、なるほどその台湾の雰囲気が分かるようで、そこで二回のコンサートから始めたのは大成功だったのではなかろうか。打楽器奏者が言うように、「ペトレンコは可成り這入り込んで」いて、時差ボケの興奮だけでなくて、やはりこの指揮者はこうした一種のアジア的な多幸感というかそういったものも自身の気質として持っている人だと感じる。時差ボケでのマーラーの指揮風景などを見ていると首を痛めて東京公演は大丈夫かなと心配になるほどで、「楽員に確りと視覚的に伝えることに留意している」と言うが、それにしてもあの七番の第二主題部のステップは真似の出来る指揮者はどこにもいないのではないか? ― 流石に卒寿にして益々足取りの軽い指揮者ブロムシュテット爺でも難しかろう。

表題のように、楽器がソウルのアートセンターの楽屋口から東京へと向けて運び出される報告にコメントしたが、まさしく巡礼がローマへと叫ぶように、管弦楽団にとっては管弦楽市場のメッカでもある東京への巡礼でもあり、そしてその二幕フィナーレで叫ばれるように「タンホイザー」へと流れる。担当者と劇場として二つもいいねを貰ったが、とても大きな期待が膨らむアジアツアーもいよいよ佳境に入って来る。そう言えばソウルの会場で冊子を配っていた広報の笑顔を絶やさない女性とはボンで言葉を交わした。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-09-14 23:19 | | Trackback

台北での第七交響曲練習風景

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未明、寝床でタブレットを弄っていると、昨日のキリル・ペトレンコ指揮のプローベでの七番の交響曲のヴィデオが出てきた。驚いてとび起き上がってPCで4.13MBのMP4を落とした ― こうなるとコレクター趣味の病気である。昨日見た台北の國家兩廳院でのプローベの録音は、どうも劇場の記録宣伝用で、報道ではなかったようで、その位置からヴィデオが撮られている。想像以上に空のホールの鳴りが素晴らしいが、それ以上にベートーヴェンの管弦楽の引き締まった響きに驚いた。クライバー指揮の同じ名前の管弦楽団とは思えない、旅先とは思えない素晴らしい響きを奏でている。再来年辺りにベルリンのフィルハーモニカ―の演奏でも、ザルツブルクなどの各地のフェスティヴァルで鳴り響くことだろう。

劇場のサイトを見ると、昨日までアップロードしていた担当者はNHKホールに先乗りしていて、ピアニストのイゴール・レヴィットがその任を請け負っている。更に自分自身のサイトもアップしているのでとても小まめだ。

演奏会中継はないようで残念だが、徐々に様々な映像が出てくるかもしれない。上の映像もペトレンコ指揮の練習風景としては、先頃の映画での「マイスタージンガー」とトリノでの「指輪」のほか短い断片しかないので、僅か54秒の風景も貴重である。先ずは、ラフマニノフ、マーラーでのプログラムの初日の反響が待ち遠しい。

ナーヘでのワイン試飲会の帰路、ラディオからベートーヴェンフェスト初日の中継が流れていた。なによりもの話題は、指揮者ゲルギーエフが登場ということで反対運動が盛り上がったということだ。そしてそのデモンストレーションは予め予告されていて、主催者側も「思想の自由」ということで運動を肯定的に解釈したということである。それでもボン市長や州の大臣などに並んで開会の挨拶に立ったニケ・ヴァークナー女史は、ゲルギーエフの言葉を引用して「演奏会は、演奏者と聴衆がお互いに理解し合って成り立つ、だからベートーヴェンの第四交響曲に続いてロシア音楽の名人としてチャーミングなシェーラザードを楽しみにしよう」と拍手を貰っていた。

一曲目の「ローエングリーン」の一幕への前奏曲が流れるが、そもそもペテルスブルクの管弦楽団の力量やそのレパートリーを考えれば、勿論ミュンヘンの交響楽団でもそれほど変わらないが、なぜこのようなものを初日に持ってきたのか分かりかねた。なによりも低予算でテーマを示したいというお手軽な手配だったのだろうが、これがパスキエ女史の手腕ならばもっと興味深く問題の無い演奏者を集められたのではないかと思う。

プーティンをロシア人として支持するのは構わないのだが、そしてその政治的な立場を表明することも構わないが、結局その音楽家や芸術家は思潮的にもそれによって値踏みされるどころか、音楽や芸術が分かる者ならば其奴がそもそもその程度の表現しか持ち得ていないことを知っているのだ。それ故にこの指揮者に開幕をさせた主旨が不可思議なのである。



参照:
文化の中心と辺境の衝突 2017-09-09 | 文化一般
外から見計らう市場 2017-09-07 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-09-09 18:28 | | Trackback