カテゴリ:音( 163 )

圧倒的なフィナーレの合唱

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承前)新制作「タンホイザー」初日第二幕の録音を一部確かめた。最後のフィナーレも大分異なっていた。件の一小節の効果は絶大で、初日には充分にアチェランドが掛かっていなかった。理由はテムポ設定にもあるようだが、それは二幕全体を聴き直して調べてみよう。最後の改訂版の激しい後奏が活きるのは勿論のこと偶然ではない。

それでも第三幕を聞き直してみると明らかにテムポ設定が充分に適切でなかったことが確認出来る。批評にあったようなゲルハーエルが歌う「夕星の歌」の遅過ぎるテムポ設定は寧ろまだ早いぐらいで、問題は全体のメリハリが充分でなかったことかもしれない。

バイエルン放送第二のローカルラディオ放送枠では、珍しく指揮への批判がある。恐らく「ティートスの寛容」以来の現音楽監督への批判であろう。それによると「街中安全走行」で所々疲れたようなテムポだと、ある意味貴重な批判となっている。このペーター・ユングブルートという人は知らないが、批判するのは素晴らしく、ネットでも一部にみられる批判を適格に代弁している ― 但しそこで流されている中継からのカットが若干意図を感じさせる。そもそも昨年の「マイスタージンガー」でも、初日には上手くいっていないのはいつものことなのだが、なぜか今回はその糊代を考慮しない感想があるのはなぜなのか?

演出に関しての言及でも、シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」がエポックメーキングとされているので驚かざるを得ないが、今回のカステルッチ演出が自動洗車機のような人の動きにしかなっていないというのはこれも共通した批判点かも知れない。そもそも異次元青年のようなタンホイザーのこちら側での接触が限られるとなると、どうしてもそのような感じになるのかもしれない。

私見からすると、アニア・ヘルテロスの歌唱にもいつものように不満があるが、それ以外の点では初日以降大分改善されているのを確認した。要はメトロ―ノーム数値に準拠した正しい律動を刻んでおけば本当は正しい音楽が奏でられる筈なのだが、リズムよりもアーティキュレーションを重視するばかりに間延びしてしまうと充分な息継ぎも出来ないということになるのだろうか。

それでもこの初日の劇場の反応を聞き返すと第一幕終了時の喝采が二日目よりも大きく、テムポが早めに推移したのではないかなと感じたが、七月の最後の公演を観てみないと確信は持てない。感想などでも「この世のものとは思えない音色」とかがあったので、ある意味初日には間延びの傾向があって、メリハリが充分でなかったようだ ― なにか「キリル・ペトレンコが充分に温まっていないようだ」という感想もサイトにあった。だからこそ余計に二日目の最後の最後までの喝采の実情を本人も自らの眼で確認したかった想いがあったのだ。

フォークトの歌唱も初日は不安定だったが、パンクラトーヴァの歌唱はこの役としては慣れが無いだけで適格に熟しており、ゲルハーエルの歌唱があまりに作為的というのはやはり当たらないだろう。なるほどラディオで最初に聞いた時には違和感があったが、「フィッシャーディースカウよりも自然なオペラ歌唱」と批評されているのは事実である。合唱は初日よりも更に良くなってきている。

演出については最終的には中継動画を観なければ結論めいたことは言えないのだが、最初の射的の場面で700本ほどの矢が射貫かれたようだが、舞台上に跳ね返って落ちていたのはわずか一本だけだった。バレーリーナが半裸で弓を打つ練習をしなければいけないなど考えても見なかったが見事な成果である。

会場でしか気が付かないのは舞台上のバンドの音響効果で、これはドルビィサラウンドシステムならば若干異なるように響くのかもしれない。もう一つ最後のフィナーレの合唱の悠々としたテムポも二日目には決まっていたので、その効果は圧倒的だった。(続く)



参照:
備えあれば憂いなしの気持ち 2017-06-01 | 生活
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-06-05 01:53 | | Trackback

母体より出でて死に始める芸術

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承前)オペラ「タンホイザー」において、この二幕のフィナーレを理解するかどうかで終わってしまうと言われている。それは内容的に音楽的にも頂点を迎えているからで、最大の山がそこにある。その前に付け足されるような形で奏されるのが所謂「ジングクリーク」と呼ばれるそのもの「歌合戦」である。

後年の楽劇「マイスタージンガー」においても同じような光景が展開されるが、ここではタイトルロールのタンホイザーはヴィーヌス丘での所業から生き地獄に突き落とされることになる。そこからのフィナーレに全てが集約されて、主調で築かれる二つの山を経過的に繋ぐエリザベートの父領主ヘルマンの「ローマへ」が休止を挟んでト調で歌い始められる。そして、一小節のアッチェランドで短くモデラート60からプュモート76へと急加速されるとともに主調の合唱へと戻る。

そこでチェロと第二ヴァイオリンが先導するアッチェランドが、フィナーレをバッハの中部ドイツのプロテスタンティズム音楽を模倣するかのように弾かれることで、初めてこのオペラの意味合いが認識されるとしても良いだろう。FAZなどは演出をして、ルターの記念年を「母体より出でて我々は死に始める」と挙げて、カステルッチ演出はヴァルトブルクからルターと連想したものではないかとしているが、音楽的にどうも全く理解していないようだ — それもその筈で初日の演奏では充分なアッチェランドが掛かっていなかった。

そしてフィナーレが閉じられるのだが、この場面を経験して楽匠の真意が読めなければ、もはや楽劇「ジークフリート」より前の創作について言及することなどは無意味だろう。それどころか所謂ヴァークナー愛好家と自称することなどもおこがましい。そして当夜の公演は初日と比較できないほど、その意味が明らかとなっていた。いつものように、電光石火の加速などはたとえ天才指揮者でも管弦楽が手慣れて来ないと出来ないことで、初日には出来なかったものなのであり、弾けば弾くほど決まって来る。

序に言及しておけば、三幕では反対に小さな事故もあった。木管楽器が落ちて穴が開いてしまっていた。少なくとも生で聞いたペトレンコ指揮では初めての光景だったが、如何に木管楽器が前回以上に苦慮して吹いているかであって、レコーディング風景と同じように自己の要求が高まれば高まるほど一寸した一節が吹けなくなるのである ― 今年ベルリン フィルハーモニー初日でのポカも同じようなものだったろう。

二幕でその内容を掴めた聴衆は、当夜の管弦楽団も合唱団も何もかもが引けてからも ― 既にその前の通常のカーテンコールでペトレンコが奈落を覗き込むと誰も居ないので「もう帰っちゃったの」という仕草をしていた ―、最後の最後まで恐らく数十人以下の人は握手を続けたのである。指揮者自身も満足していたことは間違いなく、ソリスツ陣と一緒に大聴衆が引けたあとの大劇場でカーテンコールを浴びながら、聴衆の一人一人の顔を確認していた想いは充分にこちらにも想像がついた。どう見ても玄人筋の顔ぶれであった訳だが、それもミュンヘンの聴衆でありその質であることには変わりない。

そして、その支持を集めた対象が、決して演奏技術的な結果やベルリンに将来君臨するスター指揮者の功績では無く、だからと言って楽匠の創作における音楽的な成果や効果などでもなかった。その対象となるものは、楽匠が心残りとなっていた創作の本質に関するところであり、今回のカステルッチの演出がどれほどその本質を突いているのか、どうか?

初めて所謂「出待ち」らしき人々を確認した。最後まで拍手していた人々と重なるのだろうか。その対象となるものを考えると、あまりに蛇足のように感じるのは私だけではないと思う。(続く



参照:
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2017-05-29 23:09 | | Trackback

鍵盤の音出しをして想う

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鍵盤の音出しをした。合わせて10時間ほど掛かっただろうか。ソフトシンセサイザーを使うのは初めてであり、無料のソフトを使うのだから、なかなか難しい。ネット情報の助けを借りて、先ずは有線で音出しが可能となった。無線の方は、使用しているノートブックがブルートュース4ではないので、読み込まない。そこで昨年購入したアダプターを使ったのだが読み込んでもシンセサイザーソフトSTUDIO ONE3と交信しない。速度が問題なのか何が問題なのかは分からないが、更に研究が必要そうだ。やはり無線でないと気軽に音出しが出来ない。

その他の問題は、出力のサムプリングレートなどを合わせてやらなければいけないので、平素使っている音楽ソフト録音再生向きのアップサムプリング設定を変更しなければいけない猥雑さがある。いずれ新たなノートブックを購入する時までは若干煩わしい。

一番苦労したのは、鍵盤とソフトが交流していても、音を出す方法がなかなか分からなくてリズムボックスだけが暫くは流れていたことだ。そしてオーディオ再生に「音」が欠けていることに気が付いて、ようやくプレゼンスという音の素材のデータベースに行き当たった。しかしそこの楽器のリストを見つけるのにまた一苦労した。

しかしそれら無料のソフトの出来は今まで知っているハードのシンセサイザーと比較して予想以上の出来だった。鍵盤のタッチも悪くは無く、調整も可成り可能なようなので、少なくとも電子ピアノとかエレクトーンとかいうようなものは完全に無用になっているのを実感した。それどころか大きめの鍵盤を使えば専門的にピアノを研究しない限りこれでも充分だと思わせる。少なくとも私が知っているようなピアノの音大生徒程度ならばそもそもピアノなど要らないのである ― かの兼常清佐の有名な「猫が鍵盤の上を歩いても同じだ」という痛烈な皮肉を繰り返しておこう。

少し運指なども練習したいと思わせるほどに、楽譜を読み込んでおけばこのようなピアノでもかなり音楽が出来るのは確かであり、イングリッシュホルンなどの旋律やペダルの無いオルガン程度などはこれで充分に表現できそうだ。

ピッチの調整やその他の音の微調整の可能性も可成りあり、正直音合わせのつもりで購入したが、和音も問題なく響かせて、更に様々な楽器のアーティキュレーションも試してみることが出来そうで、ピアノ譜にあたるというよりもどうしても総譜から弦楽器ならば弦調や奏法などにもどうしても思いが至るので、とても勉強になりそうである。

まさかこうしたことが数千円の投資で出来るようになっているとは思わなかったほどの質の高さであり、やはりこれもデジタル技術の恩恵ということが言えるだろう。そこで作った音をスピーカーで流すと馬鹿にならない音響である。数年前までは小さな携帯用のキーボードを買おうかと思っていたが、こうした形態の方が拡張性があって遥かに高品質なのだ。



参照:
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
GEWA' GEWA' PAPA PAYA 2013-02-11 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-24 02:49 | | Trackback

楽匠の心残りから救済されたか

承前)「タンホイザー」新制作のミュンヘンからの中継を聞いた。前番組で中継事故があったので心配になっていたが、一幕は数十分ごとに二分間ほど中断された。冒頭から数回の中断と放送事故を防ぐためのテープが流れた。そのようなことで二幕、三幕も危ぶまれた。このようなことになるぐらいならば初日を良い席で聞けばよかったとも思った。しかし幸いなことに二幕、三幕は完全に中継障害が無くなって完璧な放送が楽しめた。あれだけの音ならば平土間の良い席と変わらないだろう。

仕方なく一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。だから全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。

書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のように、なぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。

なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。

初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが打たれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。

そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。

タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。

総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の飛車落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。

終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。



参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-22 18:27 | | Trackback

愈々初日のタンホイザー

承前)バレンボイム指揮の2014年ベルリン制作「タンホイザー」を最後まで観た。楽譜はパリ版のように始まり、結局はドレスデン版の演奏であった。ゼンガークリーグでパリ版に直された部分があったが、古臭いロマンティッシュオパーのレチタティーヴが異様で、それに合わせるかのように三幕のテムポを落としていて長いヴォルフラムとタンホイザーの歌唱が続き、眠気を誘う。

なるほど歌手陣も管弦楽団も立派であるが、指揮者の設定したテムポなどは、この指揮者の常とは言いながら、美しさの反面角が落ちてしまっていてネオロマンティズムのようなものを感じさせてあまり愉快ではない。ザイフェルトの歌唱は、二幕ではまるでトラムプヘアースタイルになっていて馬鹿にしか見えないのだが、三幕では落ちぶれた姿で歌を聞かせる ― 演出の力が大きい。ヴォルフラムの声が威圧的過ぎて、まるでバスのように響く。合唱団がなぜ今一つ上手くないのかは不思議だった。

そのような版でもパリ版のヴィーナスの丘を入れていて、邪魔になるバレーがまるでピーター・セラーズの手の動きなものをひっきりなしにしているようで、バイロイトのカストルフ演出以上に邪魔になる。古典の新たな再生のような演出意図なのかもしれないが、モーツァルトなどのオペラのように扱うのは間違っている。そもそもこの版でこの曲を聴くとどうしても後年の作品群の習作のようにしか聞こえない。

いよいよパリ版にヴァルターの歌などが追加されたような版が楽しみになって来た。一方、ミュンヘンのヴィデオの続きがアップロードされていて、演出に関しては益々分からなくなってきた。演出家カステロッチがおかしなことを語りだしているからである。肉を描くとなるとどうなるのか、それも皮と中身の違いとなると触感が無くなることになる。よっぽど無機的な演出をしようというのだろうか?可成り危ない。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
RICHARD WAGNER: "TANNHÄUSER" (BR-KLASSIK)
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by pfaelzerwein | 2017-05-21 01:28 | | Trackback

モンテカルロのやくざな上演

承前)モンテカルロの「タンホイザー」は偉大な詐欺公演だった。パリ版と銘打ってフランス語上演されたそれはどうも後年短縮されたヴィーン版をフランス語で歌っただけというお粗末なものだったようだ。勿論フランス語の歌詞はヴァークナーが1861年のパリでの上演のために翻訳を依頼して、それに合わせたアーティキュレーションを変えたものがパリ版と呼ばれるようだ。そしてそれがこの上演で期待された訳だが、序曲からヴィーナスの丘へのみならず多数の短縮がある。つまりフランス語に翻訳された箇所も全部歌われていない。そもそも真面にフランス語で歌った歌手は殆んどいないようで、少なくともドイツ語版の楽譜を見る限りヴィーナス役のフランス人だけが真面に歌っている。それでもフランスの評ではスタイルが一人だけ異なると言われているので、なにか楽譜上の問題もありそうで、楽匠が苦心したそれが活かされているようには思い難いのである。

どの歌手も管弦楽もいかにも場末の演奏水準であったが ― 嘗ての首都の関係からかボンの劇場が共同制作しているので、斜陽のボンのみならず連邦共和国の音楽劇場の文化程度の問題が浮き彫りになる ―、フランス語が充分に歌えていないと評される主役の歌の通りに記譜されているとは誰も思わないだろう。

折角録画したのだが、三幕を続けて観てから消去するしか意味がなさそうだ。結局はネットではシノポリ指揮のパリ版だけが1861年版で、それが最も来週演奏されるミュンヘンの「タンホイザー」に最も参考になるようだ。(続く)

色々と言いたいことはあるが、そもそもマフィアのマネーロンダリングなどの泡銭で高度な芸術を期待する方が間違いで、幾ら財力があっても結局は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」のように、カジノ経済などは文化を一切支えない。カジノへの横の入り口から400人の劇場に数十人が集ってのオペラが呆れる。関係者を除くと数人しか物好きが来ていない勘定になる。こんな劇場と関係を結んでいるボンの劇場とは一体どのような劇場だ。

朝の雨の後に峠を攻めた。調子は一向に上がらないが、気温摂氏15度ほどで雷雲の下で汗びっしょりになった。若干胸元も苦しい感じもある。今年初めて初夏の陽射しを感じた。今年は新緑をあまり感じられなかった。このような年はどうなるのか。少なくとも暑い日は今までなく、今日が最も暑い日と感じる位だからである。ここまで気温が落ち着いていると夏も涼しくなるかもしれない。それを期待する。


参照:
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 22:54 | | Trackback

新たなファン層を開拓する齢

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承前)ブルックナー交響曲の版にまでは話は及ばない。しかし三楽章のスケルツォでどうしても、今回は演奏会前半に演奏された変ホ長調のそれを思い起こしてしまうのは仕方がない。ひき続けて交響曲演奏会などに出かけると、どうしても古典派から後期ロマン派と呼ばれる交響曲までの大きな流れの中でしか一つ一つの創作を認識出来なくなってくる。交響曲という形式の宿命であり、それ故にこうした古典的な演奏会形式というものが200年以上の長い期間催されていることの根拠でもある。

抽象的な表現の為には自ずから形式が存在しないことには、創作自体が自己完結することもあり得ないのだろうが、管弦楽団という同じ楽器を使って演奏されることで更にその形式の枠組みが定まって来るということだろう。四分の三拍子であり、三部形式であり、ソナタ形式であり、それが形骸化しても腐っても鯛なのかもしれない。

今回のブルックナー交響曲四番の演奏はやはりヴィーナーホルンに否応なく耳を傾けることになるのはそのホルン主題からして致し方ない ― そして初めて補強のホルンが第二ホルン者とソロホルン奏者を囲むようにして、テューバの横に座ることを知った。前回この曲を聴いたのはサイモン・ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の演奏だったが、流石にピッチの高いヴィーンの響きは華やかで、ベルリンの抑制の効いた音響とは対照的で ― ラトルはマーラーよりもブルックナー向きのデジタルに媒体する指揮者だと思うが ―、作曲家は本当にこんなに派手な音響のバロックオルガンのようなものを想像していたのかと思った。調性の関係もあるかもしれないが、前回八番ハ短調をメータ指揮で聞いたときは感じなかったのはなぜだろうか?

ブロムシュテットの指揮はここでもとてもリズミカルな軽やかな足運びで驚愕するしかない。あのよれよれリズムのヴィーナーフィルハーモニカ―がこれ程軽やかなリズムを刻むのを聞いたことが無い。2013年に85歳でヴィーナーフィルハーモニカ―定期公演デビューというが、オペラ指揮者でないからヴィーンに呼ばれることも少なかったのだろう。

当夜は七割ぐらいの入りだったので、前半に目星をつけておいて、二階正面バルコンの前から数列目の真ん中近くに座ってみた。左右は分かっているが真ん中は初めてだった。ブルックナーの場合には想定通りその音響効果は大きく、テューバとトロンボーンを挟んで右にトラムペット、左にホルンの掛け合いはステレオ効果満載で、作曲家はどこまで意図したのだろうかと感じさせる。勿論右奥のヴィオラの旋律が圧倒的で、これも管などとの合いの手がとても効果満点に聞こえる。

さて、今回演奏された1878/1880年版と呼ばれるファクシミリ整理番号19476はハース版として手元に東独ブライトコップ社のものと同一である。しかし細かく見ると二楽章の強弱などは手書きには今回演奏されたように書かれているようだ。指揮者ブロムシュテットはファクシミリを参考にしているのか新しい校訂版を参考にしているのかは分からないが、可成り調べて正確に演奏しているのは間違いない。リズムをはっきり明確に切っていて、16分音符のスピカートが動機を刻むようにつけられていて、ブルックナー動機のゴリゴリした動機の形状が音化されている ― まことに残念ながらブルックナーを得意としたカラヤン指揮ではリズムが暈けてしまって全くそのようになっていない。当然のことながら弱拍に付けられたアクセントなどがとても活きる。

そのように主旋律と対旋律や動機などの組み合わせがとても上手く噛み合っていて、これが座付き管弦楽団の演奏であったことを忘れさせて見事というしかない。当然ながらスケルツォの躍動感も驚くほどで、同時にテュッティーでもギュンター・ヴァント指揮のように音像が野放図に解放されてしまうことが無くコントロールが効いていて多声の造形が崩れない。気になっていたルバート気味にトュッティに移行する傾向はブルックナーの場合は殆んど全休止の意味と同じように使われているような感じで上手く嵌まっていた。

そのような指揮のお陰で ― 真ん中の席のお陰だけでなく ― ブルックナーの交響曲における声部間の掛け合いや合わせ方がとてもよく分かる演奏だった。一般的な評価のように必ずしもブルックナーの管弦楽書法が不器用なだけとは言い切れず、ヴィオラの中声部の活かし方やファゴットなどの残留音などなるほどと思わせた。

そして、最終楽章のフィナーレコーダに至るのだが、これが如何にも後年の曲に比較するとストンと終わるのは良いが物足りなさを感じることになる。それでも、前記した金管楽器の掛け合いなどはとても「見応え」のあるものだった。このコーダーを含めて全体的にこの版の形でそれなりの均衡は保っているというのがこの版に関する感想で、これ以上制御の効いたシックな演奏となると前回のラトル指揮ベルリナーフィルハーモニーの求心的な響きしか対抗できないと思った。

最後に付け加えておかないといけないのは、当日の会場は今まで見たことが無いほど押し車などの補助無しに動けない爺婆たちが来ていたことだろう。売れ残りがあったので、身障者に券を配ったかどうかは分からない。しかし少なくとも90歳になろうとする同年輩の爺さんの指揮姿が健康への動機づけになることは間違いなく、この指揮者には新たなファン層が開拓されるのを感じた。秋にはゲヴァントハウス管弦楽団とのブルックナーの第七交響曲が楽しみで、出来ればまたヴィーナーフィルハーモニカ―でも聞いてみたい。(終わり)



参照:
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
モーツァルト:交響曲第25番/バーンスタイン=WPh (Zauberfloete 通信)*
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by pfaelzerwein | 2017-05-14 00:28 | | Trackback

「白鳥の歌」は常動曲の主旨

承前)ブルックナーの交響曲の前にモーツァルトの交響曲を置いたプログラムであった。90歳になる指揮者ブロムシュテットは、この組み合わせで方々で客演しているようだ。来シーズンもベルリンで同様なコンサートを行うようである。秋にも生誕九十歳記念として、極東ツアーの前に、欧州ツアーの一環としてバーデン・バーデンにもゲヴァントハウス管弦楽団と演奏するが、その時はメンデルスゾーンの協奏曲とブルックナーとなっている。九十歳記念に世界旅行をするというのは聞いたことがあるが、30日ほどの間に各地で20回ほどの演奏会を指揮するなどは聞いたことが無い。

そのモーツァルトの交響曲の演奏自体がとても生半可なものではなかった。ラディオ中継でも聞いたように何よりも細部まで目が行き届いた指揮を心掛けていて、それをヴィーナフィルハーモニカ―も無視できない形にはなっていた。その39番変ホ長調の妙は、天才作曲家モーツァルトのセンスの良い、細やかな筆使いにあると思う。そうした細かな筆入れとか、その前後の楽章を睨んで記譜している時の細かな動機の扱いやアクセントやフレージングの妙が感じられるときに、私たちはこの天才作曲家の実体に初めて触れる気持ちがするのである。

モーツァルトの「白鳥の歌」と呼ばれるこの交響曲を読み込む文字通り暗譜する90歳になろうとする指揮者にとっては、当然のことながらそうした芸術的な動機付けが無し通常の管弦楽団レパートリーとしての演奏会など出来る筈がない。そうした隅々に亘る配慮がなされていた。なによりもスケルツォなどでもテムポがしっかりと弾むのが素晴らしく、その指揮ぶりを見ている限り二十歳代の指揮者でもこれ程生き生きしたリズムを刻めるだろうかと思わせる。

更に立派なのは終楽章の繰り返しが確りと常動曲になっていたことである。全ての繰り返しを行っているのはもとより、スケルツォのリズムに続いてこうして終楽章の最後で元に戻ることで初めて納得させられるものは可成りこの曲の本質である。因みに模範的な演奏であるカール・ベーム博士の演奏は常動曲にもなっておらず、スケルツォは固いリズムで遅い。勿論キリル・ペトレンコのモーツァルトのように表情がついたジョージ・セル指揮と比べても遥かに純音楽的であるのは言うまでもない。

「白鳥の歌」と呼ばれて室内楽版などが19世紀にはとても売れていたようだが、この常動曲にはチャイコフスキーの五番の終楽章や悲愴交響曲の三楽章に匹敵するぐらいの終結感とその続きの関係が感じられる。常動曲の主旨は、チャイコフスキーの「白鳥の歌」とは異なるが、「フォアエヴァー」効果である。

先日ツィッターを見ていて、「進歩などはない」という安易な反進歩主義観が引用されていたが、なるほど啓蒙思想花盛りの19世紀的な、音楽で言えば「魔笛」の、「今日よりも明日の自己の方が啓蒙されて居る」という進歩はないかもしれない。しかし、例えば2013年のミュンヘンでの「影の無い女」新演出上演の「明日が今日より良くなるかどうかは分からないが」少なくとも不可逆な時間軸に沿って「前へと一歩進みでている」ことには間違いないのである。

もしそうした不可逆の時間軸を無視するとすれば少なくとも上の常動性などは意味を持たなく、そもそも音楽などは芸術でもなんでもなくなってしまうことだけは間違いない。(続く




参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲 2017-04-29 | 音
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-10 22:17 | | Trackback

身を焦がすアダージェット

承前)日曜日に録音したキリル・ペトレンコ指揮フォアールベルク交響楽団演奏マーラーの第五交響曲を流している。不思議なことに繰り返し聞くと目立つ筈のあらよりも音楽的な構成や作曲の真意が聞こえて来る。更に不思議なことに繰り返し聞いているうちに実況録音の音質まで改善されているように聞こえる。放送の時よりは録音したものを再生する方がアップサムプリングされていることはあるが、繰り返すうちに改善される理由は無い。あり得るとすれば再生するときの音量などが適格に設定できるようになるからだろうか。しかし技術的には、同じファイルを再生するのでPCにキャッシュとして上手に残ることで、HDDとの受け渡し時の読み取りエラーが減るということだろうか?

この交響曲の演奏は、東京公演や台北公演に先立って、6月6日にミュンヘンで行われされて中継放送されるので、詳しくは改めることにする。それでも行進曲の密なテクスチャーのところの見通しや普通は余りに技巧的になって音楽的な意味を取りにくい箇所もとても音楽的に処理されている。今までテンシュテット指揮のものも含めて何度か実演でも聞いている曲であるが、バレンボイム指揮パリ管やシカゴ交響楽団よりもあの圧倒的なショルティー指揮のそれを想起させるのが面白い。それほど徹底して微に入り細をうがつ ように指導しているからで、超一流の管弦楽団でなくても楽曲の本質に迫る技は今までの経験の賜物だろう。弦合奏が充分に芯のある音を出せないでも誤魔化しをしていないことで成果を上げている。流石に管楽器などはソロが怖いので助っ人がボーデンゼー沿岸から集まってきたようで、芯を形作っている。

そして鬼気迫るような指揮のアダージェットは、殆んどあのバーンスタイン指揮を想起させるが、どんなに強く歌い込んでもリズムが滞らないので、今まで聞いたことのなかったような焼けつくような愛の歌になっている。恐らく今まで演奏された中で最も燃え上がる歌ではなかったろうか。終楽章ロンドにしてもチェリビダッケ指揮のように拡大鏡で覗くようで、バレンボイム指揮ではなされ得なかったことがここで実現している。それでも殆んどのユダヤ系指揮者がフォームを崩して独墺系の聴衆に嫌悪されるようなグロテスクにはならない。とても清潔で清々しく客観的な面を決して失わない。そのテムポ設定に関しては6月に再び検証してみないといけないだろう。

「若人の歌」で感じた特別な雰囲気は、ここでもいつもの客演の枠を超えないながらも、必死で棒を振ってテムポが甘くなりそうなのを鼓舞している様子が聞こえる。「故郷の管弦楽団」でなければ業界基準として下手な演奏がキャリアー上で不利になるようなこの程度の管弦楽団では指揮をとらせないのだが、多感な時代に「労働移民」の父親がそこで弾いていた裏側を見ていた天才指揮者としては尋常ではない思い入れがあるのは当然だろう。そうしたあらゆる要素がマーラーの交響曲の隅々にまで表現されていて、そうした要素が、通常はどんな名指揮者でも音符と格闘するだけに終わっているものが、過不足無く過敏に表現されいたのがこの演奏だ。



参照:
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入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-05-09 18:06 | | Trackback

ブルックナー交響楽の真意

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ブルックナー交響曲4番「ロマンティック」を聴いた。今年90歳になるヘルベルト・ブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカ―の演奏だ。19世紀後半を代表するブルックナーの交響曲は、その後のマーラーの交響曲に比較すると、今でも世界的には充分に理解されていない。理由ははっきりしているのだが、それよりも先にブルックナーの本質的な要素に触れたのがいつものようにシマンスキー氏の公演前のオリエンティーリングだった。

第九番のときにもそのスケルツォをして、蒸気機関駆動としてのイメージを挙げていたのだが、同じ主題の交響曲を書き続けたこの作曲家の場合、当然ながらそれを遡る形でここでも産業革命時代を代表する交響作曲家としてのブルックナーを読み解くことになる。しかし、当然ながらそれだけではないのは当然で、まさしくこの交響曲四楽章コーダーに、一挙に再起する主題群つまり、弦のトレモロの機械のカムの回転音、ホルンの日の出、呼び出しの主題と各々が三位一体をなしていることになる。

自然主義の日の出や鳥の囀りなどは、ブルックナー自身が当時の聴衆に説明した霧の中に浮かび上がる中世のお城の騎士の世界や狩りのホルンのロマンティックな夢想と決して相性は悪くが無いので、比較的馴染みのある純粋音楽へのイメージであろう。しかし、呼び出しの主題、つまり第一楽章でのホルンの響き自体が呼び出しであり、ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」とあまり変わらないことになる。その後半の三連符の上昇もまさにそのものとなる。そして何を呼び出しているかになるのだが、この作曲家のスヴェデンボルグ同様に神との遭遇を記録している神秘主義で密教的な書付けから、それは明らかとなる。つまり本人のビーダーマイヤーの世界観に訴えかけた解説では充分に言い尽くされていない部分である。

しかし恐らく一番問題になるのは、産業革命後の蒸気機関の響きがどこまでメカニックな形でこの交響曲作家の音楽主題になっていたかということであろうか ― それがなぜベートーヴェン的な動機処理ではなくなるのは容易に理解できるであろう。マーラーに至っては市電に乗り続けていた所謂てっちゃんであったことは知られているが、寧ろ音楽的にメカニック的なところはブルックナーの交響曲のようには目立たない。勿論ブルックナーの創作過程を見るときには、同時に例えば「タンホイザー」におけるヴァークナーとその後の「ジークフリート」のかなとこの音楽などを並行して観察することが助けとなるに違いない。つまりこの交響曲が作曲されたときにはまだまだヴァークナーはそこまでの近代的な創作をしていなかった。

いずれにしても産業革命の蒸気機関に代表される圧倒的な力こそが、密教的な感覚からしてもカトリック信仰の見地からしても、最も重要な時代の鼓動だったことには間違いない。そのメカニズムもエンジニアリング的な発想であればあるほど本質的となる ― それはコペルニクス的な発想に近いかもしえない。そうした意味で、ブルックナーの動機の扱いこそがデジタル的であり、アナログ的なマーラーの主題とは対照的とする考えは半世紀ほど前からよく知られていたが、それは強ち間違いではないであろう。(続く



参照:
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-05-07 22:29 | | Trackback