カテゴリ:音( 186 )

ポストモダーンの波動

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承前)忘れないうちにメモしておかないといけない。前夜祭「ラインの黄金」は一幕もので休憩がないのだが、上演時間の二時間半近くは結構長く感じた。端の席に座って不自然な姿勢になっていたのも原因だが、バイロイトではどうだったか?あまり記憶にない。当夜は暗い中を宿まで車を走らせたようだが、終演までの時間が経つのが思いのほか早かったと思う。一つには上へ下へのカストルフ演出の次から次への動きに忙しかったためもあるかと思うが、二年目のキリル・ペトレンコのテムポも当日の実況放送の通り早かった。それに比較して、今回のクリンゲンブルク演出のます体操の動きはあるのだが、抽象的な動きとなっていて時間が比較的ゆっくりと進む。そしてテムポよりもリズムにもその時よりは余裕のある指揮で、決して滞ることはないのだがせかせかした印象は全くなかった。一つ一つの音符を拾って行くだけでも、簡単に飛ばせない。 ― スペイン語で書いている人が、初日とツィクルスAの双方のタイミングを計っていて、一回目2時間16分、二回目2時間13分としている。因みにバイロイトでは2014年が2時間16分30秒、2015年2時間15分24秒だった。全く印象とは反対でテムポは段々早くなっている。

その最も顕著な響きは、バイロイトの時に沈没しそうになった流れの渦は大きくうねることはなく、寧ろ方々で岸まで至って小さな渦が消えて行くような塩梅で、そこに剥き出しの音が飛び交うような演奏であった ― 要するに蓋無しの演奏実践となるのだろう。それでも演出に従って、いつの間にか始まるような太古の目覚めにおいても粒よりの揃った響きで始まると同時に、リゲティ作曲「ロンターノ」のようでもあり、そこにオーボエソロなどが乗っても小節を利かせたりとはならずに粒が揃ったままなので、バイロイトでのように大波に飲み込まれるようなことはない。そうした効果が一掃されることで、大味に音型が奏されて戯曲的な大げさなバロック的な効果ではなく、やはり舞台からすればポストモダーン的な効果へと傾く。同時に管弦楽の音量がとてもよく管理されることとなり、歌詞の律動やそのアーティキュレーションが伝わりやすい。管弦楽が寄り添おうが他の声部を受け持とうが声との間での連綿とした楽劇となっているのである。

実は往路の車中では、2014年にレフェレンスとして残りを揃えたヤノフスキー指揮のドレスデンでの「ラインの黄金」を流していて、はじめはバカにして久しぶりに聞いていたのだが、そこでの歌手陣の巧さとその叙唱風の歌などのデクラメーションの巧妙な演出に関心していた。なるほどこれならばドイツでも標準版として売れる筈だと思った。その反面このオペラ指揮者が振ると千両役者が歌うところの伴奏と、それ以外で管弦楽鳴らすところとかがブツブツと断片にされているようなのだ。要するにオペラ劇場の奈落から聞こえる凡庸な音楽がそこにある。

それに比較するまでもなく、比較的重要な動機などが出て来ては繋がりの流れが見事に収まるのは、そうした歌声を楽器の声部と同じように扱うからこそで、それは新聞評にもあったようにまさしくコルセットの紐で締め付けるような窮屈感を生じるものだろう。例えばラインの黄金のハ長調のファンファーレが流れる印象的な黄金の輝くところでは、弦は漣ではなくこれはクリムトの金箔のように光り、三人の乙女が照らされる訳で、通常の浮遊感のある聴き所よりもぎっしりと殆どシェーンベルクの光景のようにそこに収まる。こうした効果は全くバイロイトではなかったもので、クリーゲンブルクの演出だから音楽的に現出したものかもしれない。声の無重力感か、その場の波動を描くのかの系の相違とも言える。これこそがバロック表現とポストモダーンの差異であろうか。

因みに音楽とは関係がないが、「バロック風演出での白塗りも」と考えた件は、この演出を見ると当たってはいなかった。そして舞台でゴルダ・シュルツを見るとそれなりに地肌の色が表れていたので不自然な白塗り感はなかった。もしかすると少しファンデーションの扱いを変えたのか、それともそれがポストモダーンの演出としても最適だったのか判断がつかない。個人的には、演奏の響きとその舞台を見ているとどうしてもマンハイムの劇場で経験したジーメンス作曲のオペラを思い出してしまった。演じるラムぺの傾斜にそこでゴリゴリと鳴る音楽はまさしくそれを思い起こさせる。

コンツェルトマイスターには若いシュルトハイスが任を得ていた。あれだけの演奏となると経験するだけで座付き管弦楽団としてはとても貴重な体験だろうと思った。オーボエとフルートのペアーも山賊兄弟ではなかった。なにか出し物によって人選が決まっているようでとても面白い。(続く)



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
また泣いちゃったよ 2017-12-25 | 女
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by pfaelzerwein | 2018-01-15 04:29 | | Trackback

天才も実践から学ぶ

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承前)「修道女アンジェリカ」のフィナーレへの流れを聞いている。改めて興味を持ったのは、ミュンヘン「三部作」イタリア語初演での三日目の映像についての様々な意見を目にしたからだ。一つは、アンジェリカを歌ったエルモネーラ・ヤホファン側からそのカメラの切り替えに批判的な声が上がっているからだ。要するにヤホからキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽団へと切り替わってしまうことへの不満の声である。映像のカメラアングルに関しては永遠の問題で、マルティチャンネル映像にならない限り解決されない。音声のようにベストアングルが無い。

そこでヤホの歌うコヴェントガーデンのヴィデオを見つけて、更に今回の初日の音声を比較する。これはとても面白かった。こうでもしないとヤホ女史がインタヴューで語り、自らもそのインタヴューをリツイートするヤホの芸術「感情を人に伝えることが何よりもの喜び」からの呪縛から逃げ無くなれるからである。彼女は舞台でその感情を偽って作ってもそれは直ぐにばれると、それを改めて広報するのだから、可成りの拘りの人のようである。

先ず先日インタヴューで語っていたこの役に初めて挑んだ時のヴィデオを聴くと、恐らくパパーノ指揮で間違いないだろうが、全く異なる歌唱で、その演出にも関連しているのだろう可成りおとなしい ― その後よりドラマティックになったと自ら語っている。管弦楽は下支えするかのように思い切って鳴らしているのはこの指揮者の特徴のようだが、更に声が小さく聞こえる。丁度今回の二日目にペトレンコが鳴らしていたのを彷彿させるのだ。再び、三日目の音を聞くとやはりその表現の強さは全く異なっている。そして音にフィルターを掛けられたヴィデオも消去されるまでは観れる ― いずれは部分だけでも劇場からオフィシャルで出して貰いたい。

そして初日の録音を聞くと、可成りテムポもリズム取りも変わっていて驚いた。印象からするとヤホの歌の正確さをチェックしないといけないと思っていたのであるが、実際は異なった。この初日の歌は比較的コヴェントガーデンのそれに近く、自身のレパートリーとしてものにしている楽譜だった。そしてペトレンコ指揮のそれがせかせかしていて十分な拍が取れていない。歌のアーティキュレーションを見れば明らかなのだが、ペトレンコは出来る限りセンティメンタルにならないような拍打ちとテムポを意図したとしか思えない。それゆえに余計にヤホが頑張ったというのが初日の成功だったようだ。そこに聴く側は一種の危うさの様なものを感じていたのは間違いなかった。

そして再び三日目のそれに戻ると、管弦楽が歌にしっかり寄り添うようなつけ方に代わり、その三拍子の弱起の拍が強調されることで全く異なった。するとアーティキュレーションを超えて、リタルタンド、ラレンタンドなどがまた別な意味を持ってくる。歌詞の表現の幅が広がるということだろう ― この点に関してはイタリア語がそれほど得意ではなさそうなこの指揮者への僅かばかり残された気になる点だった。そうした拍打ちをすることで明らかに歌の流れが良くなっている。それと同時に思いがけないほどの表現効果が生じていて、まさしく印象主義から表現主義へとの流れを「パルシファル」以降の直接のそれとして実感させることになる ― 恐らくこの辺りもこの指揮者のレパートリー選択に関連していることなのだろう。勿論、リヒャルト・シュトラウスや「春の祭典」初演のプッチーニの体験などが強く影響していることは改めて言及する必要はないだろう。

ここからは勝手に想像するだけなのだが、キリル・ペトレンコの喝采を受ける映像の様子を見ていると、上から改めてピット内の恐らくコンツェルトマイスターリンに業務連絡をしているようでもあり、気になることを頭で反芻していたようでもあり、何か完成という顔付では全くなかった。この楽曲なども加味して三回目の公演での放映を決断していた訳だが、どうしてまだまだ課題が解決されていないということなのだろうか?確かにこの部分の初日から三回目の変化を見るだけでも、想定以上の変化があった。

本題の歌手と指揮者に関して言及すれば、その喝采を受けている舞台での様子を見ていてもその両者によっては緊張関係が見て取れる。それゆえに、ヤホが三回目に想定以上の反響に驚いた表情を示している事情が読み取れないか?その結果、歌手も指揮者も想定していなかったぐらいの音楽芸術的な成果が生じたのであると思う。彼女のこのレパートリーにおける表現は完全に深まったに違いない。今回のイタリアオペラに関しては、ジークフリートを歌ったシュテファン・ヴィーンケなどの歌手自身のイメージとの齟齬などの発言とは違って、イタリア言語であることも考えれば、天才指揮者でさえ実践を通して学ぶことが少なくないのではないかと思った。いずれにしてもこうして初めてプッチーニの音楽的価値を学術的な評価から抜け出して完全に実践で示したのではなかろうか。まさにこれが哲学用語としてのAufhebenである。(続く



参照:
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-12-27 23:35 | | Trackback

フルトヴェングラーの響き

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これで漸くクリスマスのストレスから解放される。毎年のように暗い広場の市場で魚のテリーヌを入手して、パン屋に寄り、肉屋で注文のものを回収して、買い物が済んだ。水曜日まではこれで籠れる。その間に頂上まで一度二度走れれば満足だ。

昨晩はミュンヘンのヘラクレスザールからのライヴ中継を聞いた。ブロムシュテット指揮のバイエルンの放送交響楽団の演奏である。食事のバラ寿司を作りながらなのであまリ真剣には聞けかったが、あまりにも不細工なジュピター交響曲の演奏なので録音していたものを直ぐに消した。なるほど同僚として挙げていたようにハーノンクールなどの奏法を取り知れていて、若返りを試みているが全くものになっていなかった。

日本などでは「この交響楽団は欧州有数」と恐らくその管楽器ポストなどがARDの優勝者の勤め先になっていることなどからか、それともあの強引なドライヴのヤンソンスの楽器になっているからなのかは知らないが、基本は昔から変わらず弦楽などのアンサムブルはあまりよくない。それがあまり上手くない棒で弾くとこうなるというお手本のようなもので、ヴィーナーどころかその面ではゲヴァントハウスなどとは比較にならないことを再確認した。流石にドサ周りのバムベルクの地方交響楽団とは違うが、遠くから出向いて聞くほどの管弦楽団ではないのは昔から変わらない。

老指揮者の管弦楽団次第の演奏は仕方ないのだが、その話しのインタヴューは聞き逃せない ― 体調はベルリンの時より大分良さそうだ。これほど話の巧い音楽関係者は他にいないと思う。流石の伝道師だ。今回もフルトヴェングラー話しが興味深かった。ブロムシュテットは、同じように自身で聞いたトスカニーニやブルーノ・ヴァルターとの比較でフルトヴェングラーを語るので、我々にとってはとても貴重な証言である。なによりも専門家であり、アメリカ人ならば他の指揮者と同時にフルトヴェングラーは聞けていないからである。

「フルトヴェングラーはロマンティックな音楽家で自ら作曲もして」と明らかに今でも通じるトスカニーニとは異なると断言している。これに関しては美学的な問題であるのでそのままは受け入れがたいが、それ以上に語り手の美学的な立場を反映している。そこで氏は、「自分自身はそもそも音楽学者志向」だからと述べていて、「フルトヴェングラーのテムポとか譜読みは最終的にその響き作りに最も都合のよいようになされている」とこれはとても重要な発言をした。そこで、例えばトスカニーニなどの譜読みとの比較になっていて、作曲家でもあるフルトヴェングラーの第二の創造であるというような意味合いと現在のブロムシュテット自らの立場を表明している。

メトロノームの半分しか刻まないフルトヴェングラーについてだけでなく、モーツァルトのテムポの可能性に関してもライポルト氏が質問していて、それに対して楽想ごとのテムポの相違とパウゼに関しても言及していてこれもとても面白かった。結局は最終的にキリル・ペトレンコの指揮のように技術が語ることの方が重要なのである。

我々がこの発言から驚愕するのは、やはりそのフルトヴェングラーの響きへの言及であり、まるで心霊写真かのように、なぜかフルトヴェングラー指揮の演奏録音は音がしっかりしない現象をいつも体験している人が「あれか」と思うその響きだ。この証言はやはりとんでもなく貴重だと思った。特に当時のドイツの音楽界を考えると、一方では新機軸のベーム指揮のシュターツカペレの様なノイエザッハリッヒカイトの響きがまさしくナチの芸術を音楽的に代弁していた訳だが ― 映像表現などともそのまま共鳴する、その一方でああした戦中から引き継がれる音楽芸術が存在した意味はあまりにも大きい。一体あの響きは何だったのか?

ブロムシュテットの譜読みの姿勢は、キリル・ペトレンコなどのそれにも共通する姿勢がみられるのだが、後半に演奏されたシュテンハムマーの交響曲二番においても87歳で初めて見つけて、それをやるか、やらないで終えるかの二者選択でやることにしたという、そのなんともこの人の人格を表しているのがまたその譜読みの姿勢でもある。これはある意味重鎮の音楽家にしてはとても危ういのであり、実際にその演奏にもそうした危うさが反映していた。

非常に実務的な態度であり、現場の空気をとてもよく伝えてくれる一方、その指揮の技術とか職業人としてのそれも可成り緩いな思わせるのだ。もう一域立ち入るとすれば、フルトヴェングラーのその響きというのは本人のエッセイなどを待つまでもなく、近代芸術音楽の構造の展開の根幹にある。一方では、和声関係からの所謂バロック音楽通奏低音に依拠する響きを古典的とする管弦楽運動が存在したことも事実であろう。この老指揮者が歌いそして解説するお話しが分かり易く格別面白いのは、まさしくそうした枠組みを一歩も踏み外さないからだ。それを芸術美学的に評価すれば、指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットがなぜ超一流から遠く、音楽先進国ではその話しの面白さに関わらずそれほど珍重されていないかの傍証になっていると思う。

今晩はプッチーニ「三部作」の三日目の中継である。日曜日にオンデマンドになるということもあり、映像はチェックだけにして音だけに集中して完璧に聞ければよいかとも思っている。今までの経験から動画の完全ダウンロードは難しいと思うからである。生放送の音だけでも完璧にDL出来ないだろうか。



参照:
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-12-23 20:26 | | Trackback

ペトレンコ劇場のエポック

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承前)ミュンヘンから帰ってきた。いつもなら旅行話から始めて、なんだかんだとその体験を回想する。しかし今度は三度目の公演も中継され、再び楽譜を見乍ら鑑賞できるので、その時にもう少し詳しく調べてみたい ― 凡人が準備中に想定していたことなどは天才は実践としてやり遂げていたのは間違いない。そのような細かなことよりもなによりも簡単に体験したオペラ鑑賞記をざっくりと認めておこう。

結論からすると、三幕「ジャンニスキッキ」が殊の外素晴らしかった。そして一幕「外套」は到底放送では聞き取れないほど繊細な内容だった。二幕はお待ちかねのヤホ女史の声が残念ながら初日のようには出ていなかった ― お陰で客席で号泣するような見っとも無いことにならなくてよかった。その分管弦楽が雄弁にドラマを支えていたが、若干次回の中継のための準備というような感じもした。それでも評判を聞いて駆け付けた人々は十分な喝采をしていた。因みに当日のキャスティング表にはヤホの名前の代わりにルート・イレーネ・マイヤーというちょい役とか合唱で歌っている人の名前が入っていた。案内所にはこれを尋ねる人が他にもいて、実際、真偽は確定不可だが、そこで確かめると「印刷ミス」という公式の情報だった。

「ジャンニスキッキ」が芸術的にも飛び抜けていたのは、そのコメディアデラルデ風の演出と、ストラヴィンスキーの「プルチネッラ」を想像するしかない偽後期ルネッサンスから初期バロックのそれを楽しめたからにほかならない ― とにかく「英雄の生涯」ではないが「ボエーム」や「バタフライ」だけでなく自作も含めて本歌取りを試みているようだ。予想通りに出だしは初日よりも快速だった。それでもオペラブッファ風に飛ばしたりはしない。プッチーニの音楽の行き着いたところだろう。例のヒット曲の歌も演出と合わせてとても良い出来で、歌ったロザ・フェオラという歌手は一流の人だと分かった。なるほど商業芸能世界でいつも求められているような歌唱ではなくて、全体の中での中々巧妙な歌なのだが完璧に熟していたと思う。相手役のパヴォロ・ブレスリィックという歌手も大したものである。しかし何といってもタイトルロールのアムブロジーオ・マエストリはその体格といい、声といい、この日の公演の目玉だった。まさしく、初日のヤホに続き、日替わり目玉連続公演である。これだけ上演の多そうなオペラであるが、様式的にも音楽的な成果も含めて中々これほど充実した上演はないのではないかと思った。

あり得ないという意味では、恐らく「外套」における管弦楽は、その精緻さでまるで昨年の「南極」世界初演に匹敵するような弱音で、王のロージェの横の席でも聞き取れないほどの音を弦楽が囀っていた。ゲネラルプローベから初日では殆ど印象派的な管弦楽と評されていたが、それには止まらない。それでも「南極」の時のように神経をすり減らすような弦楽にならないのは、しっかりとアンサムブルとして協和しているからで、このような管弦楽はオペラでは今まで存在しなかったのではなかろうか?この日の本当の縁の下の力持ちであり主役はバイエルン国立管弦楽団であった、そして音楽監督ペトレンコ以上に喝采を浴びていたことも記録されよう。

そのような繊細極まりない管弦楽がさざ波のように支えるものだから、大きな弧を描ての最後の破局への盛り上がりは尋常ではなかった。それがセーヌの霧が漂う中から始まり、背後のタイムマシーンで人々が過去へと、未来から過去へと一夜の中で行き来する訳だから、まさしくオールドファンには懐かしい米TVシリーズのそのままだ。これが音楽的な設計図である。予想通り、ヴォルフガンク・コッホは徐々に板について来ていて、どうしても「影の無い女」のバラックとその妻とのシーンを思い出してしまう。三幕まで決してシュトラウス的な響きも複調感もこの三部作には欠けない。それゆえに、初日への批評でも「落ち着かないヴィヴラート」とあったようにオランダの宝エヴァマリア・ヴェストブロックの今日的には荒っぽい歌がしっくりとこなかった。サイモン・ラトル指揮での共演は多そうだが、若干場違いな感が強かった ― 昨年イゾルテを聞いていて、その評判の悪かったことを後で思い出した。そこまでの違和感はなかったのはとても立派なヨンホー・リーの歌声で、しかしこのような管弦楽にはもう少し巧妙な歌唱が可能ではないかと思った ― 要するにバカでかい声で終わってしまう。

同じように声の力では二幕「修道女アンジェリカ」のミヒャエラ・シュスターが見事過ぎた。恐らく初日は小柄で華奢そうなエルモネーラ・ヤホが負けじと歌っていたのだが、流石にあれだけの鬼気迫る歌は毎回は続かないだろう。土曜日の中継に合わせてくるのではなかろうか。オペラ劇場通いはそれほどしておらず、初日も精々ザルツブルクに通ったぐらいなのだが、歌手陣に関してはやはり初日狙いというのがよく分かる公演だった。ペトレンコ指揮の管弦楽団に関してはどんどん良くなってくるのだが、これも劇場の常からすると例外的で、初日が一番緊張感があってよいというのは常識である。「南極」の世界初演ほどには、「ルル」の初日は、手探り感が強く、それほど特別ではなかったことも付け加えておこう。

ドイツの歌劇場の現代の歴史的エポックとして、ヴィーンのマーラー時代などと並んで、ベーム時代のゼムパーオパーとかが挙がるが、キリル・ペトレンコ指揮のバイエルン国立歌劇場はもはや歴史的な評価に達したと思う。オペラ評論として、今公演をして「永らくなかったような大成功制作オペラ」と評される意味は、勿論演出、音楽、配役を含めたことであるが、それは否定しようがないと思う。(続く



参照:
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
我々が被った受難の二百年 2010-04-04 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-12-21 22:27 | | Trackback

迫るミュンヘン初演

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承前)ユロウスキー指揮「ジャンニスキッキ」を聞いた。期待していただけに失望した。十数年前の変則的な公演だから仕方がないかもしれないが、管弦楽団の鳴らし方が悪い。交響楽団であるから流石に音の粒立ちや明白さはあるのだが、音符を歌に合わせる作業が出来ていない。これに関しては、キリル・ペトレンコ指揮のオペラ公演との比較になってしまって、それも現在と過去のそれであまりにも気の毒なのだが、管弦楽を厳密に弾かせない限りは、ケント・ナガノに代表されるような交響楽的なオペラ公演となってしまう。

なるほど音楽の運びは上手であり、しっかりとおいしいところを読み込んでいるのだが、そうした「助走」が有機的な音楽になっていないので、まるでプッチーニは効果のための効果の音楽を作曲したようにしか思われない。その意味からすると、シャイ―などがスカラ座を振ったものの方が如何にもオペラ的な音楽でとても自然なのだ。

楽譜を見て聞いていると、ここはペトレンコ指揮ならこういう風にというのが分かるので、とても物足りないのである。偶々同じ年齢のロシア系ユダヤ人というだけで同じように並べられてしまうとあまりにも不幸である。その他の指揮者と比較すれば若い時からとても良い仕事をしていることには間違いなく、この域に達している指揮者が他に浮かばない。やはり指揮の技術が秀逸というのが違うのだろう。この演奏でも、フィレンツェから手を切り落とされて追放されるぞの部分での音楽的な作りのは見事であり、やはりこの指揮者はオペラ向きだと思う。

そのようなことで益々今晩の初日の放送が楽しみになってきた。私がペトレンコ流に読み込んだところをその通りに演奏出来るのだろうか?特に歌のつかない早いパッセージでの細かな流れの変化や、上の演奏では感覚的に止揚がつけられていた個所を楽譜通りに、つまりプッチーニの意思をしっかり音化できるのかどうかである。

ちょうど真ん中あたりに例のヒット曲がある訳だが、その前後の更に前へと準備がなされていることが分かってきた。勿論動機的な表れから当然なのだが、リノの歌の辺りから音楽的な準備がなされていて興味深くなってきた。

なるほど、オペラ経験豊かな作曲家が晩年に作曲した楽譜であるから、座付き管弦楽団がなにが出来て出来ないのかは熟知している筈だが、本当にそのような流した作曲がなされているのか、それともしっかりと書き込まれているのかが分からない部分も少なくない。そのあたりは、ペトレンコ先生の演奏を聞いてみないと何とも言えかねる。少なくとも今日まではそこまで合わせた演奏はなされていないようだ。この三部作のミュンヘンでの初演*を楽しみにしよう。(続く

*正確には三部作は1959年12月20日にプリンツレーゲンテン劇場でドイツ語で上演されているが、国立劇場としては初演なのだ。



参照:
大人ではない子供の世界 2017-11-29 | マスメディア批評
週末から年末年始へ 2017-11-26 | 生活
趣味の悪くない劇場指揮者 2017-12-08 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2017-12-17 23:30 | | Trackback

細い筆先のエアーポケット

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ルクセムブルクの聴衆や会場については既に触れた。前日にゲヴァントハウス管弦楽団が想定を遥かに超えるアンサムブルを聞かせてくれた。なるほど二年前の新聞には欧州の四指に含まれていたのも、その切り口によっては賛意を示せるかもしれない。そしてここ二三年評判のクリーヴランドの交響楽団は、一月のシカゴ饗に続いて聞くことになる。それより前に聞いたアメリカの楽団はサロネン指揮のロスのそれかもしれない。

だからシカゴとの比較しか出来ないのだが、クリーヴランドが恐らく現在世界で一番上手い交響楽団であることは皆認めている通りではなかろうか。どうしてもベルリンのそれと比較してしまうのだが、弦楽合奏においては比較にならないほど精妙且つしなやかで、なるほどベルリンのそれも嘗ての様な事はなくなったが、つまりその芸術的な表現力ということではこの斜陽の工業都市の楽団に到底敵わない。そして管楽器も弦のしなかかさに合わせるような音出しが出来ていて、嘗てのショルティー指揮のシカゴ饗のように激しい針金のような弦に突き刺さるような音は出さない。

それは「利口な女狐」のプロローグの数小節で明らかになる。あまり練習の出来ていないであろう先日のベルリンでの演奏と比較してもアンフェアー極まりないが、木管の細かなバッタの音型の正確さと軽やかさで、そしてヴァイオリンとの掛け合いなど、これは異次元のアンサムブルだと思った。YouTubeでも練習風景などが出ていたが、最初から意識が異なるのは予想していたが ― 監督はインタヴューで技術的には準備が整っていて最初の稽古から言うことはないと ―、演奏旅行最終日でもだれることなくさらっと吹いてしまう鮮やかさはとてもプロフェッショナルだと思った。

そしてこの曲全体にとって重要な二拍子系と三拍子系の繋がりがとても絶妙で、ほとんどこの曲の演奏の根幹だと思った ― あの馬鹿正直な指揮も足しになっている筈だ。こうして記憶を辿っていくと直ちに疑惑が湧くのである。なるほどジョージ・セル時代にはスーパーオーケストラだったが、その後のマゼール監督時代はLP等で知っていて、フォン・ドナーニ監督時代もあり、元アドヴァイザーのピエール・ブーレーズの名録音も残っている。しかし、これだけの指揮をしているのは間違いなくヴェルザー・メストなのである。そして、地元の放送局で今でも流されるセル時代の実況録音は少なくともリズム的には硬直していて、現在のように音楽的な高みに全く達していない。

そして現在のこの楽団はリズムも鋭く、明らかにブーレーズの薫陶もあるようで ― この指揮者との最後の制作録音群が示す通り ―、特殊奏法などの鮮やかさもどこの楽団にも引けを取らないようだ。なによりも全てが調和された中で必要な響きが正確に取り出されているようで、なにもエルプフィルハーモニーなど更々必要ない。ゲヴァントハウスの楽団の英国での批評には第二ヴァイオリンに触れたものがあったが、ここでは何も対向型の楽器配置など採用しなくても必要なだけ同等に響く第二ヴァイオリン陣と、合の手を入れるアンサムブルに驚愕した。それはヴァルツァーにおけるそれもそこから四分の二拍子になるところも「お見事」に尽きて、このように演奏してこそと思わせる。流石にこれを聞いて、ヴィーナーヴァルツァー風で弾いてくれという数寄者はいないだろう。そこにトラムペットが乗ってくるのだがこれがまた抑制が効きながらも、どのようにしてこのような軽い響きが出せるのかと思わせる。NDRでのインタヴューでヴェルサー・メストは「我々のオーケストラは、太いピンセルで料理するのではなく細いピンセルで」ととても面白い表現をしている。

そして低弦が出てくるとこれがまた締まりに締まっているのである。なるほど、どの楽器もアメリカ大陸らしい乾き切った響きを奏でる訳だが、それを例えばJBLのスピーカーの様なマイクに乗りやすい響きとしてしまうだけでは ― それも音響芸術ではあるが、その芸術性を充分に語ったことにはならないだろう。この指揮者の演奏はオペラなど何回か聞いていると思うのだが、記憶に残っているのはフランクフルトの我々の会でのロ短調ミサの演奏で、今回と同じ印象で現代楽器演奏としては鮮やかで見事だった。

改めて演奏旅行前の壮行演奏会での録音を聞き返すと明らかにルクセムブルクよりも上手くいっていない部分があり、もしかするとアニメ舞台の関係などもあって演奏に集中出来ていなかったのだろうかとも想像する。今回の演奏は、舞台の上の合唱席の前にせりを作ってそこで動きながら独奏者が歌うような所謂コンツェルタントな形式だったので余計に管弦楽団の技術的には洗練されたのかもしれない。

なるほど軽いフットワークで器用に演奏されるので - 歌手陣も平らなところを適当に動くだけなので音楽的に決して管弦楽団に後れを取るようなことがなかった、所謂座付き管弦楽団のように声に合わせる一方、なるほどこれだけの美音が響くとクリーヴランドのお客さんの中には殆どミュージカル映画を見ているような気持ちの人たちも押し寄せたのだろうと想像した。

とにかく何もかもが鮮やかすぎて、発砲の音にしても全てが効果音ではなく楽音として決まっているために、思わず舞台上を覗き込んでしまうのである。それにしてもあれほど金管が弦楽などと音響的に合わせられるのは聞いたことがないのである。

この音楽監督の正しいてテムポを刻んでの明晰さは、あまりにその風貌や人間性のクールな印象も併せて不人気なのだろうが、例えば二幕のクライマックスをラトル指揮のそれと比較すれば、下手な地元の児童合唱団は差し置いて、どこまでも冷ややかな感じはヤナーチェックの達観した音楽や意思に決してそぐわないことはない。要するにこれは「土着性」というパラメータを美学的にどのように見るかであって、セラーズの演出ではそれが「普遍」と深層において組み替えられていたとなるのだろうか。もちろんそのことと「ディズニー化」は深い関連がある。

寧ろ三幕で明らかになってくる主人公の猟師の世界観はいつの間にか作曲家のそれになっていて、なにかこの指揮者のそれにも触れてきているようで、そこに特別なものに気が付かされた。リヒャルト・シュトラウスの「影の無い女」にも共通する「時代の環境」も描かれている訳だが、それ以上に独創的に六拍子での三連符が組み合わされたり、狩りのホルンが鳴らされて最後の落ちへと向かうのだ。その運びがこのクールな指揮者から示されると本当にエアーポケットに入ったような気持ちになった。

これほど素晴らしい演奏を体験すると、下手な管弦楽では御免だという気持ちになる。いつかバーデンバーデンで素晴らしいスーパーオーパーとして上演されることを楽しみにしていたいと思うようになった - ミュンヘンでは一寸比較にはならない。自己の葬送の音楽として作曲家はその最後の場の曲を望んだというが、確かに尋常ではない諦観がそこにある。

余談だが、あの会場が珍しくて会場の外を取り巻く回廊をぐるぐると一周以上した。緩い上りかと思っていたらいつの間にか下りになっていて、いつの間にか元に戻っていたその不思議さを感じたのだった。休憩を挟まずのこの曲の一時間半少しの時だった。



参照:
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by pfaelzerwein | 2017-11-02 20:58 | | Trackback

いぶし銀のブルックナー音響

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承前)初演をしたゲヴァントハウス管弦楽団の奏でたブルックナー作曲交響曲七番ホ長調の響きは正真正銘のブルックナーサウンドなのだろうか。

一楽章の再現部で、第二主題が展開されるとき、木管や他の弦とカノンするヴィオラに魅了されてしまった。これに近い弦楽部を聞いたのはシャイ―指揮のコンセルトヘボーぐらいで、ベルリンのフィルハーモニカ―のように自己主張するまでもなく、しっかりと和声の中声部を支えるだけでなく、これだけしっかりと仕事を果たしているヴィオラ群を聞いたことがない。そしてその合わせ方がまた座付き管弦楽団風なのだが、その響きの鋭さとアンサムブルはヴィーンやドレスデンの座付きとは異なる交響楽団のそれなのだ ― 英ファイナンシャルタイムズ紙などは、この特徴こそはブロムシュテットの後任の前監督シャイ―がなしたものだとしている。

そしてシュターツカペレとの録音とも最も異なっていたのは、デミヌエンドから続くコーダの「アラブラーヴェ」のテムポである。まるでチェリビダッケ指揮のそれのように十二分に落として大きなクライマクスを築いて、もうこれだけで十分と思わせるぐらいだった。

同じようにアダージョ楽章の三拍子モデラートの第二主題の第一ヴァイオリンでの旋律の繰り返しの歌いまわしは今までの録音よりも明白なイントネーションを与えていた。殆ど具体的な意味を持っているかのようで興味を引く部分で更にそれが繰り返されている。

また再現部でのブルックナー特有の第一主題を中心にしたクライマックスへの昇りでも ― やはり当日のガイダンスで、蒸気機関の大きな弾み車が一つ一つと回転を増して行き雪だるま式に巨大な確信へと昇り詰める、これが特徴であるとした ―、ヴィオラが楽章冒頭にも現れた付点四分二桁符八分の動機を管との間でユニゾンで合奏するのだが、これがまた絶妙なのだ。その他の弦とのバランスの良さは指揮者が簡単に作れるものではない管弦楽団の合奏能力でありサウンドである。かつて日本公演などでも「いぶし銀の響き」と称されたが、まさにこのことだったのかもしれない。そして、例の「ヴァークナーの葬送」がテムポを落として奏される。このデミムエンドに続くテムポ設定に関しては楽譜を見ていてもよく分からない。

三楽章のトリオは更に美しく、管と弦が別途に合奏をするのだが、ここでもヴィオラを中心に弦の織りなす綾の美しさは、まさしくこの楽団の弦楽四重奏団のある意味古典的な最上のアンサムブルを弦楽合奏に拡大したように上質なのだ。正直全く想定以上の高度な演奏だった。このような弦楽楽団奏を聞くのはいつ以来のことだろう?

終楽章の第三主題部の練習記号Kからのヴァイオリンの先端でのボーイングとまたヴィオラの同音進行がこれまた効果的でそのあとのトレモロがとても活きてくる。弦楽ばかりについて称賛したが、管楽器も、決してベルリンのそれのように名人技で例えばホルンが楽曲を先導するようなことはなく、そのような輝かしい響きではなく飽く迄も地味で座付き管弦楽団のような響きで以て、しかしとてもコントロールされていて、ヴィーンのチャルメラオボーエや派手な響きを奏でることもない。勿論先日のミュンヒェンでのそれとは全く異なるのはやはりコンサートホールのホームグラウンドの響きがあるからだろう。まさしく嘗てのゲヴァントハウスを東独時代に日本の青木建築が新しく建てた空間で養われた合奏が管と弦の間でも銀糸のように織られていたのだ。

備忘録のようなことばかり脈略のないことを書いたが、再びコンサート前のガイダンスに戻ると、ブルックナーの楽曲構成についてのおさらいとなる。その対位法的な主題と動機の扱い方に関しては改めて目新しいことはなかったが、用語的に各楽章の主題が最初の一分ほどかかる第一主題の反行のみならず韻律上の変形であり、そのデモフォルメであるとの意識を広げた。

更にいつもの解釈であるが、ブルックナーの三つの主題の三位一体の構成感にも思いを巡らす。そこでは既に扱った例えば第三主題などのリズム的にも旋律的にも廻旋する動機の扱いが繰り返される度に、丁度弾み車が螺旋を描いて大きく広がっていく様こそが、産業革命後の蒸気機関による世界秩序の新たな創造という信仰的な信念から導かれ、その典型的な表徴として19世紀の工場の教会を形作った建造物が挙げられる。またあの爆発的な音の束縛からの開放こそは、人力を超えた力の表徴であるということになる ― これは先頃の合衆国からの論文におけるマックス・ヴェーバーから導かれるブルックナーの社会的危険性ともなる。その点を理解するかしないかがブルックナーへの愛好の大きな分水嶺になるというのも面白い見解である。そしてそのような工業との繋がりというよりも、音の開放自体がもはやグスタフ・マーラーには表れないというのもとても興味深いだろう。

そこで最初の命題に戻ってくる。「ブルックナーの響きとは」となり、今まではヴィーナーフィルハーモニカーのそれが本場ものと考えていた。しかし、上のような音楽的特徴をあの楽団が表現出来ているかというととても否定的にならざるを得ない。そもそもその表現力を身に着けていない。その意味からすると、ブロムシュテット指揮のブルックナーは隅々まで納得が行くものであり、その表現をドレスデンのシュターツカペレよりも正確に交響楽的に表現できていたのは、このゲヴァントハウスの管弦楽団である。今までブルックナーの交響曲を何度も生で聞いてきたが、ここ十年ほどでもメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカー第八番、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカ―第四番、ギーレン指揮SWF第九番、ティーレマン指揮シュターツカペレ第五番、そして五月のヴィーナーフルハーモニカ―第四番など、そしてこれほど充実した交響楽を満喫したことは一度もなかった。

何よりもベルリンでは期待できない音色であり、シュターツカペレでは聞けない交響楽的なアンサムブルと、楽譜を読み込んでいる卒寿の指揮者の実力に他ならなかった。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はブルックナールネッサンスに近いと思う。それほど立派なものである。

もしキリル・ペトレンコ指揮からこれ以上の効果を期待しようと思えば、やはりフィルハーモニカ―の音質を充分に深みのある音へと各々の楽器が努力していかないと駄目だと思われる。サイモン・ラトル指揮のブルックナーはとても素晴らしいと思うが、この点で明らかに物足りなかったのであった。(終わり)



参照:
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
ブルックナーの真価解析 2013-12-17 | 音
反照の音楽ジャーナリズム 2012-02-27 | 音
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by pfaelzerwein | 2017-10-30 21:13 | | Trackback

思し召しのストリーミング

東京からのラディオストリーミング放送を無事聴取した。いつロケットが飛んで来て人迷惑なアラームで中断されるかとひやひやしていたが、金さまの思し召しで無事やり過ごせた。役にも立たたない警報で文化的な放送が中断されるとなると最早それは戦時態勢社会と呼ばれても仕方がないだろう。あの極右のポーランド政権でもそんな子供騙しのことはしていないと思う。いつものように日本とポーランドを比較すれば、ロケット防衛システムで合衆国と協調することはポーランドの国益に適うが、日本それは外交的国益に適わないどころか合衆国の軍事産業の育成でしかない。やればやるほど金さまの目標となり易く、国益に反するだけでしかない。如何にポーランドが現実政治の中で外交的見地から粋を尽くして、ロシアに対してもEUに対しても合衆国に対しても外交力を発揮しているかとの相違が甚だしく比較対象にすらならない。日本は未だに真面な外交すらしていない、恐らく明治維新以降ということだ。

前日から目覚ましを掛けて日曜朝7時空の放送に備えた。6時になる15分前に目覚ましを掛けていたのがスイッチを間違っていて鳴らず、タブレットのそれで目が覚めた。ルーターをリセットして万全を期す。VPNサーヴァーは前夜から見当をつけていて、中断無く完璧に作動してくれた。東京からの中継がアラーム中断の可能性が低いのか、関西の方が良いのかは分からなかったが、前夜の邦楽などを聞いた印象では東京の方が音質的に優れているように判断した。

承前)解説も前振りも全て聞いたが、キリル・ペトレンコを紹介して、ベルリンの監督に推挙される前から「オペラ界の巨匠」としたのは一歩踏み込んでおり、今回の演奏実践をマーラー演奏とヴァークナーのそれの基準になる可能性のあるものとしての言及も遠からずであるが、これも説明無くかなり踏み込んでいた。

総譜を広げながら放送を流していたのだが、10月10日のミュンヘンでの演奏会と明らかに異なっていたのは、例えば既に触れた「無駄な骨折り」での基本テムポと表現である。この指揮者の場合楽譜を読む時にテムポが完全に定まっている筈なので、たとえ伴奏であったとしてもその変化を不思議に思ったら、楽譜には「Gemächlich, heiter」 としか書いていない。八分の三拍子でこの言葉の意味「慌てずにゆっくり」で「楽しく」を含むと、ここで歌われているのはどう考えても遅過ぎて、シュヴェビッシュの言葉のアクセントも壊れてしまっている。恐らく東京での公演では、歌手のゲーネの意見を尊重すると同時に、放送での細部への配慮を考えてそれに従ったのではなかろうか?このテムポでは全く「楽しく」なく、ミュンヘンでの一茶のような俳諧も全く感じられない。その他の曲でもなるほどダイナミックスレンジは下に広がっていて驚くが ― NHKの収録技術共に ―、表現の精緻さや起伏はまだまだ狭く、プログラム一回目の本番演奏としては事故無しを第一に考えている様子である。収録の関係か、管弦楽団に対して声が可成り大きく聞こえるのは、管弦楽の音の押さえ方なのだろうか?

ミュンヘンでは、管と声の繋がりがとても良くて感心し、楽譜を確かめてみなければいけなかったのは「Und als das Korn/Brot」の一節目で、フルートとコールアングレが伴うところだが、この三節目の繰り返しの相違を確認するだけでもこの創作の意図が見えて来るのではないか。そして本番四回目の弦を合わせての精度には驚愕した。

その他、「原光」ではミュンヘンでは管と弦が物理的な距離もあってか ― オペラ劇場は舞台が深い ―、距離感があって大きなパースペクティヴを以って絶大の効果として響いたが ― これはその他においても管と弦が交わる以上に対抗・相槌の関係で響いた -、ここでは少なくとも放送ではそのようには響かない。

その他は、どうしても楽譜を見ながらとなると管楽器の演奏などが気になって、前打音が確り出ていなかったり、コールアングレが引っ込んでしまったりとその名人技には限界が見つかってしまう。それでなくてもこうしたよく出来たライヴものでも何回も繰り返させて聴かれるとなると、当然ながら修正しなければいけない傷は幾つも見つかる。余談だが、NHKの編集は、ドイツの番組時間ぎりぎりに押し込めているのと異なり、長めにフェードイン・アウトを使っていていい。

なるほど指揮の職人的な面とは別に、そこから楽譜をこうして調べることでその演奏実践から創作の本質的なところに手が届くようになるのが音楽であり、その努力を惜しむと何時まで経っても芸術を読み解くことが出来ないのである。そのような演奏がキリル・ペトレンコの芸術である。

後半の「ヴァルキューレ」第一幕も想定以上に所謂蓋の無い演奏実践として興味が尽きないが、あと三カ月もすれば2015年バイロイト以降初めての「ヴァルキューレ」演奏となるので、年末年始にこの録音も参考にして集中して触れたい。今回の舞台での演奏は、歌手の適役などの問題は明らかだが、来る一月の公演で必ず大きな意味をもってくると思うのでとても貴重な資料となった。(続く



参照:
オープンVPN機能を試す 2017-08-19 | テクニック
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-15 21:19 | | Trackback

マーラー作プフェルツァー流

承前)日曜日にNHKFMで10月1日の演奏会の録音が中継される。その前に忘れないうちに四度目の本番公演であったミュンヘンでの「子供の不思議な角笛」演奏について書き留めておこう。その演奏についての細部についてはラディオを聞いてから更に思い出すかもしれないので、大まかなことだけを纏める。

公演前のガイダンスで思いがけないことに気が付かされた。それは「子供の魔法の角笛」原文は方言色が強く、それも「無駄な骨折り」のシュヴェビッシュだけではなくて、プファルツの方言だというのだ。私に向かって言った訳ではないと思うが、全くそこに頭が回っていなかった。プファルツと言っても所謂マンハイム、ハイデルベルクのラインネッカー周辺のクアープファルツなのだろう。バイエルンからすればまさしくカールテオドール候のお里であり、植民地のような地域の感じになる。因みに、ドイツェホッホロマンティックとはハイデルベルク、ライン、イエーナ、ベルリンからなるらしい。

勿論少なくともグスタフ・マーラーが作曲したものに関しては、そうしたアクセントは強調されていないので、音楽的にはそれほどの意味をなさない。それでも一般的に言われるユダヤ的なリズムや例えばクラリネットでのクレズマーの冠婚の音楽やトリラ―の多用など、そのままのコラージュされる要素がより普遍的な意味を持つ。それをプファルツァーのアクセントに引っ掛けても決して違和感がないような感じがして、ローカルと日常、そのまるで万華鏡を覗き込むかのような世界観へとその意味合いが拡大する。今回の演奏でも「少年鼓手」での木管の上向き吹きなどに、どうしてもそこまでを聞いてしまうのだ。

あのおどけたような感じは、なるほど作曲家が書いているような市井のそれが取り囲む環境の自然に繋がりるという謂わば非芸術的な世界を描いているとなる ― 狭義のコラージュとなる。これを突き進めていけばもうそこにヨーゼフ・ボイスの世界が繋がっている。但しここではダダイズムやクリムトなどへと容易に考えを広げる前に、再び重要な点を思い出しておきたい。

一つは、ガイダンスでも挙がっていたタイトルの「子供」であり、先週末ラディオでマティアス・ゲーネが「子どもは関係ない」と電話口で語るのとは正反対の世界に留意しておくことだ。これは、復活祭の第六交響曲演奏前に語られていた所謂幼児世界のことを指す。マーラー研究の一つとしてまた恐らく精神分析的な見解として、この作曲家にとって表現されるべきとても「大きな世界」であったようで、それが根源的な前記の自然、環境認知へと結びついていて、そこでは最も日常茶飯なものが第一次資料となるということのようである。

その第一次資料として、作曲家は1906年に傾倒者であった作曲家アントン・ヴァ―ベルンに「子供の角笛の後は、リュッケルト詩しか作曲しない、それは第一次資料で、それ以外は第二次資料でしかないからだ。」と書いていることに相当する。

例えば今回最も素晴らしかったのは「無駄な骨折り」の殆んどオペラかリートか語りか分からないような歌唱であったが、会場がくすっと声が漏れるほどの効果があった。これなども本当に直截な表現であり、まさしく第一次資料による自然なのだろう。

それにしても東京からも指摘があったが、ゲーネの歌唱は嘗てギドン・クレメルが「ヴァイオリンソリストとしての最晩年」にやっていたような無音の音楽表現で全く声が聞こえないような呟きの歌唱になっていた ― 本人はヴォルフラム歌唱に際して管弦楽に合わせて声量を下げたなどと言い訳している。

それにしても「浮世の生活」での ― これは原題は「手遅れ」であるが ―、ヴァイオリンの八分音符のせわしない動きも見事に、それをまた声に合わせる精妙さは昨年の「四つの最後の歌」での絶賛に勝るとも劣らない名技だと思った。この管弦楽団ほど声に合わせられる管弦楽団は世界に存在しないと思う。同じように絶賛されたパガニーニでの演奏が恐らく「タンホイザー」を除くと今回の日本公演でのハイライトであったという指摘にも肯ける。ヴィーナーフィルハーモニカ―にあの精妙な合わせが出来るかと想像してみる必要もない。

繰り返すが日本からの放送が上手く聞ければ、また二つの異なる批評に目を通してから、全ての曲でたっぷりと音価を取ったその細部について触れたいが、今回は交響曲ではなかったが、明らかにグスタフ・マーラーの創造に新たに強い光が照らされるのを感じる。マーラー解釈に関してはレナード・バーンスタイン指揮のそれが途轍もない影響を与えてルネッサンスとされた訳だが、それ以前に今回の曲の一部もブルーノ・ヴァルター指揮国立管弦楽団によって1915年に演奏されているという。そこまで遡っての新たなルネッサンスということになりそうだ。既に学究的な立場からは様々な研究結果が出されているようだが、それらが全く演奏実践として反映されずに、バーンスタインの影響から逃れられなかったのが今日までの歴史だった。(続く



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
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by pfaelzerwein | 2017-10-14 18:04 | | Trackback

シャコンヌ主題の表徴

承前)ブラームスの交響曲4番で最も耳についたのは三楽章アレグロジョコーソ楽章のコーダでの並行短調つまりイ短調とハ短調音階に和音連結されるところであった。これは展開部でのffz‐pの和音連結の対比として響くのだが、ここではffの後にsempreと書かれているだけなのだ。これが通常はイケイケのアクセントとして響くのであるが、つまり強弱記号が無い四回の連結はffで演奏されるのが常のようだ。しかし今回はハ短調和音がその楽器編成と音高に見合った抑えられた感じで響いた。その真意は改めて考えるとして、同じように演奏している録音は殆んど見つからず勿論フルトヴェングラー指揮も通常通りだ。そこでYOUTUBEで見当をつけて探して聴くとあった。やはりチェリビダッケ指揮ミュンヒナーフィルハーモニカ―の演奏だった ― オリジナル楽器楽団をガ―ディナーが指揮した演奏も同じように響いたように思う。

しかしそれよりも何よりも音楽的にその場で感心したのは四楽章のシャコンヌ主題が再現部の26変奏で弾かれるところで、ここはあっと思った。通常の演奏では、ホルンに続いてヴァイオリンの三連符の波の中でオーボエに引かれるような感じで、その音高からして浮ついてしまうのだが、楽譜を見ると確かにオーボエはpになっていて、弦と同じように松葉のクレシェンドになっている。恐らくここはオーボエにとっては強起なのでどうしても出てしまうのだろうか。それに引き換え低弦部はしっかり出ないのが通常だ。しかしこれが効いていると、「シャコンヌ感」と「ソナタ形式感」がぐっと実感されて、その後のコーダでのヴァイオリンでの提示に影響するのは当然だ。天晴と言うしかなく、前記チェリビダッケでも野放図になっているところで、如何に巨匠と呼ばれる殆んど全ての指揮者が楽団の前で勢いと権威で仕事をしていて真面な楽譜読解力が欠けているかが明らかになって驚愕する。勿論パート譜を眺めて仕事をしている楽団員は何かをしようとしても全体での音の鳴りの中で自らの楽譜を音にするしか致し方ないのだから勢いが歴史的な演奏実践となってしまうのだろう。

その他一楽章から二楽章など動機のアーティキュレーションの正確さが要求されることで初めてブラームスの創作が音化されるのだが、やろうとしていることははっきりしていながらも流石に国立管弦楽団の優秀さをしてもとっても無理がある。例えば早い連符での強拍弱拍へのスラーなどはベルリンの樫本氏にお願いしないと無理ではないか。更に、折から投稿された日本の毎日新聞に「バイエルン州立管こそペトレンコのベストパートナーではないかと」などと頓珍漢なことが書いてあり、またこの座付き管弦楽団が「ヴィーンやドレスデン、ベルリンの座付きと同等の管弦楽団を目指す」と報じられているとなると、これはどうしても厳しい目で(耳で)批評しなければならない ― 兎に角、繰り返すが音楽著述を糊口の凌ぎとするような者は、少なくとも自分が感じた印象が、何か科学的に根拠があるのかどうかを ― 音楽の場合ならば楽譜にあたって ―、若しくは先ずは自らの置かれている環境を分析して、最低自問自答してみることはジャーナリズムの原点ではなかろうか。

後述する「子供の不思議な角笛」で聴かせた恐らくヴィーンなどでは到底不可能な次元でのアンサムブルや音楽を先ずは差し置くとして、例えば管楽器のその音色などは如何にそのホームグランドの劇場のコンサート会場としての音響を差し引いてもやはりあれでは駄目だ - 求心的な抑えた響きが出せていない、つまり喧しい。

日本でも最も厳しい評価として、初日の文化会館でのコンサートに「到底CPの合わない管弦楽」とあったが、それはある意味正しい。私自身もホームグランドでのアカデミーコンツェルトに出掛けたのは初めてだが、少なくともコンサートゴアーズが毎週のように超一流の世界の交響楽団を聞いていれば到底お話しにならないだろう。個人的にもミュンヘンまで行って聞くような管弦楽団ではないと再認識して、逸早くベルリンのフィルハーモニカ―とコンサートで指揮して欲しく ― 三回ミュンヘンにコンサートに行くぐらいならば一回ベルリンにペトレンコ指揮を聞きに行った方が遥かに良い ―、 オペラは残された期間ミュンヘンで、そして逸早くバーデンバーデンでスーパーオパーを聞かせて欲しいと思った。

なるほど、後述するようにフィルハーモニカ―では出来ないようなことがこの座付き管弦楽団には出来るのだが、期待していたブラームスの響きとしてもあの管楽器では致し方ないと感じた。勿論管楽器奏者も素晴らしい演奏をして、特にフルートのソリストは最後に舞台上で駆け寄って長話の特別な奨励を指揮者から授けられていたようだが、今後名人奏者が続々と入団する訳でもなく、やはり上手いといってもフィルハーモニカ―のように数年で粒が揃う訳ではない。ジェネレーションが変わるまで不断の努力をするほかないのである。ゆえに次期音楽監督は超実力者でないと務まらないのである。そうなれば、今の様に楽譜に忠実な演奏形態を座付き管弦楽団が希求するならば、殆んどスーパーオパーに近づいていくことは確実であり、他のライヴァルの座付き名門管弦楽団とは一線を隔することになるだろう。

今回のコンサートでの楽員の表情には、容易に満足できていない表情があからさまだった。流石に演奏者自身だから出来ていないことがよく分かっているのだろう ― たとえ歴史的にそれ以上に真面に弾いている録音が皆無だとしてもである。そして公演の「角笛」写真でも比較的硬い表情を見せていた。それはなぜなのか、日本での評価も踏まえて関心のあるところだった。(続く



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2017-10-12 21:31 | | Trackback