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索引 2007年10月


PAの瞼に残るプァルツ [ 文学・思想 ] / 2007-10-30 TB0,COM3
猪の川から愛をこめて [ 暦 ] / 2007-10-29 TB0,COM4
純潔は肉体に宿らない [ 文学・思想 ] / 2007-10-28 TB0,COM0
案じるような結果となるか [ 生活 ] / 2007-10-27 TB0,COM0
居たたまれない赤味 [ 暦 ] / 2007-10-26 TB0,COM2
環境世界的発展史観 [ 歴史・時事 ] / 2007-10-25 TB0,COM0
もうすぐ、夜明けは近い [ 暦 ] / 2007-10-24 TB0,COM4
古典に取り付く島を求め [ 文学・思想 ] / 2007-10-23 TB0,COM2
馭者のようにほくそ笑む [ 文化一般 ] / 2007-10-22 TB0,COM0
アップ・ダウンされる趣 [ 雑感 ] / 2007-10-21 TB0,COM2
つい魔がさす人生哲学 [ 文学・思想 ] / 2007-10-20 TB0,COM0
容易にいかない欲張り [ 文学・思想 ] / 2007-10-19 TB0,COM0
どうも哲学的な美の選択 [ 文学・思想 ] / 2007-10-18 TB0,COM0
緑茶に想う影響する土地 [ 雑感 ] / 2007-10-17 TB0,COM4
豚の煮汁に滲む滑稽味 [ 生活 ] / 2007-10-16 TB0,COM0
目的と効果の情念の表現 [ 文学・思想 ] / 2007-10-15 TB0,COM0
Vintage:1826,1907,1921,2006 [ 暦 ] / 2007-10-14 TB0,COM0
独精神についての疑問視 [ 音 ] / 2007-10-13 TB0,COM0
音楽教師の熱狂と分析 [ 文学・思想 ] / 2007-10-12 TB0,COM0
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11 TB0,COM0
ワイン三昧 四話2007年 [ ワイン ] / 2007-10-10 TB0,COM4
対人関係の社会計算説 [ 女 ] / 2007-10-09 TB0,COM0
道に迷って思わぬ出会い [ 試飲百景 ] / 2007-10-08 TB0,COM2
健康に前景気に湧く [ 暦 ] / 2007-10-07 TB0,COM0
想像し乍ら反芻する響き [ 文学・思想 ] / 2007-10-06 TB0,COM4
週間を通した習慣つけ [ 生活 ] / 2007-10-05 TB0,COM0
痴呆化と単純化の伝統 [ 文化一般 ] / 2007-10-04 TB1,COM0
生きてる内にもう一度! [ 文化一般 ] / 2007-10-03 TB0,COM2
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02 TB0,COM2
黄金晴れのロココ日和 [ 暦 ] / 2007-10-01 TB0,COM2

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by pfaelzerwein | 2007-10-31 02:23 | INDEX | Trackback

PAの瞼に残るプファルツ

d0127795_3463427.jpgエバーバッハの町で食事はしたが、見学はしなかった。しかし、先日からひょんなことで、この町とはいくつもの交わりがある。

何よりも、マンの「ファウストュス博士」にて重要な登場人物クレッチマーの故郷の音楽文化を語るのに、この町がプファルツのエバーバッハとして出てくるのである。敢えてクア・プファルツとしていない。もちろんそうなればハイデルベルクもプァルツであろう。

ハイデルベルクのネッカー上流に位置するこの小さな町は、クレッチマーの文化的土台を作る宗教者ヨハン・コンラート・バイセルの生まれ故郷である。因みに、早く新教化したこの町もティリー軍の侵攻後旧教が復権する。バイセルは、貧しい酔っ払いのパン職人家庭の生まれで教育も無く、自ら職人として南ドイツを転々とする内に敬虔派再洗礼派の影響を受けてハイデルベルクへ戻ってくると、宗教活動を始める。それにより逮捕された事から米国へ移住する。南ドイツの三十年戦争以降の分派活動が背景にあるが、新天地で自由な宗教活動が続けられて、清教徒を中心に複雑な米国の文化の基礎が築かれていく。ここではEPHATAと呼ばれるアーミッシュのペンシルヴァニア、ランカスター圏の町が舞台となる。現在も双方に姉妹都市関係がある。

その話は地元で余り聞いたことがなかったが、どうも今もそこのコミュニティーで使われている言葉は古いプファルツ方言のようである。しかし、詳しくみていくとなると、プロテスタント宗教史や言語学や民俗学の専門領域のようなので、余り簡単に触れる事は出来ない様子である。

マンは、米国で出会ったドイツ系の移民に、同じようにハレからの敬虔派の流れと再洗礼派の流れの双方を扱うことになる。その扱われ方についてはなお詳しく見ていかないと分からないが、重要なのはそうした推測の契機を与えて、ツヴィングリやカルバンまでを視野に入れる必要性を読者に示唆することである。それが主旨であろう。

写真は、エバーバッハの町から近い裏山にあるエバーバッハ城である。ヴォルムスの司教に仕えるフォン・エベルバッハ伯によって12世紀に建造され、15世紀には帝国のテリトリー争いの中で潰された。後に宗教者となるバイセルにとってはペンシルヴァニアに移ってからも瞼に残っていた廃墟の姿であろう。


参照:
Pennsylvania Dutch(m's New York cafe)
Kutztown Pennsylvania German Festival(m's New York cafe)
アーミッシュの人々(時空を超えて)
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by pfaelzerwein | 2007-10-30 03:45 | 文学・思想 | Trackback

猪の川から愛をこめて

d0127795_527565.jpg

エバーバッハ、直訳すると猪の川となるようだ。そのネッカー川沿いの町からオーデンヴァルトの最高峰へと歩いて降りてきた。

なにか日本のマンガ「エロイカより愛をこめて」と言うのからこの町が日本でも有名となり、観光客が思いかけず日本から訪れることで作者の青池保子さんは名誉市民に輝いたと言う。ネットをみると登場者の少佐がフォン・デム・エーベルバッハとあってこの土地の出身なのだろう。それにしてもデムと言う定冠詞が出身地の名前に入っているのには曰くがあるのだろうか?大変珍しい。

残念ながら同行者にはこのマンガについて詳しい者はいなかったが色々とこの町の事などを知るようになった。

秋も深まり夏時間が終わったその日の森歩きは、視界は余り利かなかったもののそれなりに風情を味わった。
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by pfaelzerwein | 2007-10-29 05:29 | | Trackback

純潔は肉体に宿らない

ラジオ放送「ファウストゥス博士」の第四回放送を聞いた。先週聞き流したハレ大学宗教学教授の講義内容が、主人公のエメラルダとの肉体関係の意味合いを示す伏線となっている。

そのような理由で再び第三回放送に相当する部分を読み直す。しかし、その全体の内的構造を把握するのは、困難なほど各部分が他の部分に強く関連している。ベートーヴェンやシェーンベルクらの作曲を意識した凝った構造で作文している。

しかしながら、シュレップフス博士のプロフィールに関連させて宗教改革と魔女裁判を扱い、そこに善と悪を、悪が存在することで善をクローズアップさせまたその反対を浮き立たせると語る。その構造に、基本となる悪の意識を、中世トーマス・アクィナスの第四の秘蹟、要するに告解の秘蹟としておくと分かり易いだろうか。

つまり、肉体が病気にかかったとき薬がなくては死ぬが、精神においても薬が必要であり、「悔恨は、罪の苦しみであり、それによって罪を犯さない意志となる。」さらに「罪のありのままの認知」が挙げられ「良き行いによる贖罪」となる。

上の教授は、この境界を越える自由を獲得することで、倫理の枠組みを定義することで、その対照がより良く示されるとして、主人公の友人であり語り手は、自らの肉体経験に続いて、主人公アードリアンの経験を語る。

つまり、この男においては、純粋が鎧を被り、純潔があり、知的な自負があり、そして私、語り手に取って神聖な、彼を取巻く大胆な皮肉があると言うのだ。「肉体を持った生命には宿らない純潔」、「精神的自負を恐れない本能」、「拒絶する自然の高慢が彼の細胞を弁済する」とする考えは、罪の意識以外に、苦悩に満ち、憚られるものだから、神の意に則したこの人類への、動物への屈辱が、最も優しく精神的に高まったものとして、愛の没頭に満たされる覚えのある感覚によって履行されるという希望を持つとある。だがしかし、こうした精神は、アードリアンのような本性には余りないと結論する。

この部分だけをこうして読み取ると、弁証法の思考方法が、カントを越えて中世ストア神学に至る流れと宗教改革に因む流れを巧く止揚している様にも見えるが、実際はそうした小さなエピソードが大きな流れとなっていたりする。

そのように雑多ないくつもの主題が散りばめられているかと思えばそれが大きな主題へと合流するような形になっているのは、モンタージュ技法をその出来上がった作品から分析する時に見える光景だろう。本人がモデルとされてその内容に難色を示した作曲家シェーンベルクであるが、それがLAサンタバーバラ校にてこの作品をネタに何度も講座を開いている動機ともなっているかもしれない。

分析的に読めば、繰り返し繰り返し読んでもネタが尽きないが、実際の物語の進み様は、そうした理性的なものではなく、心理的な流れが重視されていて、それも尋常ならざる効果を上げている。そうした心理の山がこうして幾つか築かれていくのも、この作家がある種の抽象音楽の構造をここにも活かしているからだろうか。
 


参照:
■トーマス・マン「ファウストゥス博士」より some of them are old
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
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by pfaelzerwein | 2007-10-28 01:30 | 文学・思想 | Trackback

案じるような結果となるか

案じていたのだが、とうとう電気髭剃りの網の刃が傷んだ。騙し騙し壊れた物を使っていたので、刃を替えるのは、買い替えを意味していたからだ。だから、皮膚を切ってシェーヴィングローションをつけることになっても、文字通り自分まで騙して知らない振りをここ数日していた。

しかし、フランス製のローションは使い出すと髭剃りよりも高くつく。それに刃が突き刺さって大怪我しそうなのである。仕方なく、面倒だと思っていた、ネットサーチで情報を集めた、

何よりも壊れやすく、ものによっては250ユーロを越える高価で、部品などを含めて売り上げを上げることが、商品の品質よりも重要になっている米国資本ジレットに入った老舗ブラウンには、金輪際一銭も投じる気はしなかったのである。あまりにも壊れ易い。

ネットでの最新製品に対するユーザの思いの篭った製品批評作文がなかなか面白い。「動作音が静かなのが、ただ一つの長所だと思ったら、百回も顎を行ったり来たりさせたのに、それはその筈、髭剃り前と後は何も変わらず」だとか、反対に「スイッチを入れてこんなに驚かされたことはない作動音」とか、「網の目が髭より細いのではないか?」、「以前の商品を愛用していたのに、フィリップスよりも悪くなっている」とか、「ドイツ市場を実験台にして、改良をしているのだ」とか、「直ぐに棚の肥しにして昔のものを再び使っている」とか、評判はすこぶる悪い。

しかしである、この壊れた7000シリーズは比較的評判が良く、壊れた箇所を訴えているものは見つけられなかった。またその洗浄装置やその髭剃りの機能は優れていることを自ら確信しており、問題は廉くて使えるものを探し出すことであった。それは、一般の批評の最たるもので、「なぜ、倍もするような商品が壊れたり、剃れなかったりするのに、衛生品と言うことで返還が出来ない」、「この価格で半額以下の商品よりも充電が効かないとか、機能しないとかどうかしている」との価格に対するルサンティメン的怒りが殆どである。しかし、一度は壊れた洗浄装置であるが、今また修理して作動している事から、それに使える同じシリーズの髭剃り機を探した。再び7000シリーズである。

ネット販売で80ユーロ少々のものを見つけたので、応急的に替え刃を購入して、これを使える格安商品をネットで購入すればそれで良かった。しかし、替え刃どころか髭剃りは売り場から撤退して、スーパーでは売っていなかったので、結局デパートへと出向いた。素材疲労で故障したブラウンの7000シリーズを購入した店である。

そして、そこで見かけたのは、現在使用しているのと殆ど同じ一つ格上の商品が殆ど半額で、他のシリーズの上級品と一緒に棚卸されている状況であった。このデパートは同じシリーズの中級以下の商品を品ぞろいしてそれの上位の格の商品は入れない購入体制であるが、それにも関わらず売れ残っているのである。

上位の商品の良さそうなのは、プラスチックよりもアルミを多用していることであり堅牢性に優れている。しかし、安売りされているのは格下商品であり、乗用車と同じでそうした商品が本当は売れ筋なのだろう。それでもその価格は、洗浄機つきで89ユーロとあり、ネット販売価格と比較しても替え刃の耐久性の良い商品としては格安なのである。そして、現在使っているものと殆ど同じとなれば、故障した場合に直し易い。

今度は何年壊れずに使えるか判らない、しかし今度は構造的な弱点を知っている。前回よりも長く使える可能性は高いだろう。ネットで調べると壊れていたところの部品を注文すると約30ユーロであるのを見つけた。それに壊れた替え刃等を別途購入すると25ユーロ程となる。〆て約55ユーロである。

本体と消耗品の価格を比べたりして何をどのように使うかは難しい。キャノン社のようにインクやトナーで財をなしている世界的企業も多い。

そして何よりも廉く手に入ったので文句も余り出ない。一層のことこの調子で電気剃刀が総値崩れしてくれればと思っている。それにしても同一商品で販売価格が三倍ほどの上下幅があるとはどうしたものか?やはり、どこかおかしい。
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by pfaelzerwein | 2007-10-27 03:49 | 生活 | Trackback

居たたまれない赤味

d0127795_3341292.jpg一昨日当たりは、熱気味であった。寒くなると散歩も億劫になって回数が減っている。しかし、先週よりも色が濃く黄色から赤みが交じってきた様子を見ると、居ても立ってもいられなくなった。

歩き出すと、夏の夜半よりも体が温まり難く、どうしても距離を歩いてしまう。夏の内は汗を掻きそうになれば戻っているのだが、今ともなれば体が温まるのが丁度その頃で、それから同じだけ離れたところまでやってくると、結局全体で四倍もの時間と距離を歩いてしまっている。

何よりも、今の時期は葡萄は殆ど摘み取り去れていて、耕運機を使って、足元を耕しているかと思うと、枝を切り落として葡萄の古木を抜こうとしている地所もある。昨年は収穫出来ずに、今年もあまり良くない葡萄が実っていたプリミエクリュの地所である。ミクロ気候を考えていたのだが、土地改良してクローンの入れ替えをするのだろう。d0127795_3352161.jpg

また一列だけ残して、アウスレーゼかアイスヴァインを狙っているものもあって、ネットの間から写真撮影する。

同じように綺麗に耕した地所を見ると掘り起こした石が置いてあって、典型的な雑食砂岩が見られるのはフォルスター・エルスターであった。黒く玄武岩が交じっているのが面白い。d0127795_3375020.jpg

今これを書きながら今年の日常消費ワインを飲んでいる。既に間違いなく三ダースは消費している。しかし、驚いたことに、昨日までとは異なり、再び成長しているのである。先ず、今まで一度も感じなかったペトロの匂いが幻か思い、再び確認すると、今度は石油コンビナートに続いて一面のお花畑が広がりそうなのである。

これほど単純なリースリングで、手ごろな価格で、何杯(倍)も楽しませてくれるワインは珍しい。ただ美味いとか不味いとか、好きとか嫌いとかの問題ではないのだ。時間の流れと共に、発見し合いながらお互いに成長して行く、若い恋人達のような関係を、こんなに何処にでもあるような普通のワインともち得る幸せなのだ。そして、別れは必ずやって来るのである。
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by pfaelzerwein | 2007-10-26 03:40 | | Trackback

環境世界的発展史観

EUの特にドイツはの環境・エネルギー政策は理想主義的で、現実的ではないとするのが、日本国外務省の見解のようだ。川崎二郎代議士は、メルケル首相の英断に感服しながら、ドイツのこの分野での指導的立場を、嘗てのように日本の名人技でもってドイツを真似しなければいけないとして、ベルリン政府の政策を全面的に支援したいとしている。しかし、日本国外務省は、上のような評価をしており、不公平な京都議定書さえ誤りであったとして、「現実政策」へと進み出ていると言う。

理想主義を批判するのは理解出来るのだが、この問題は背水の陣で挑んだ緊急の課題であった訳で、先ず何はさて置きはじめるかはじめないかの問題ではなかったのか?これも、将来とも歴史的に判断が下されるされる問題であり、中国人やインド人や一部の米国人と共にもしくは理想主義者か、どちらかが責任を取らなければいけない。

しかし、こうした「責任ある判断」を端から否定するような思考方法を、日本語のBLOGを見ると、歴史家と自ら名乗るような人物が表明している。そこに、どれほど深遠な歴史観や哲学が存在するかは判らないが、その如何にも中立的で学術的に見せ掛けた態度 ― 唯物論の反転焼き直しなのであるが ― には、全く修正主義者と同じような姿を見るのである。つまり、「歴史はその当時の観察と判断を検証しなければ、その時の判断と行いを正しく評価できない」と言う至極常識的な言明は、現在の観察者つまり語り手の視座を上手く消そうとする魂胆でもあり、歴史的な時間の経過を通した現在立脚しているその結果を都合良く無視している。つまり、どのような判断にも将来の責任を逃れることの出来る口実を作っていて、そうなれば歴史の意味さえ無くなるのである。そして、過去から現在の歴史を直視することなく、再び同じ過ちを繰り返す愚行となる可能性が甚大なのである。余談ながら、先日プーティン大統領が、その非民主的な国内運営を棚に上げて、「核戦争を起した国は一つしかない」と、ブッシュ政権の第三次世界大戦を避けるためのイラン侵攻を否定する言葉には、その歴史の真実がある。

しかし、どのような歴史観が東京の外務省に蔓延しているのだろう?同じような思考方法は、先週報道された、ハンガリー貴族ガスチョン家に嫁入りした当時世界一の工業家ティッセン鉄工所の娘マルギットやティッセンファミリーの罪の追及には、甚だしく当てはまらない。手短に言うと、彼女は、オーストリア国境に近い城を、赤軍が進撃してくる最後の最後まで護ったのだが、地元ナチス関係者へのその最後の慰労パーティーで、城の地下に牢獄されていた二百人もの極度に衰弱したユダヤ人強制労働者を棒などで殴り痛めつけたうえ銃で処刑する余興が催されたと言う事実が、今再び大きな話題となっている。そうした事実と共に、共産党政権下で起訴されて、本人は父親が戦時中に行なったようにスイスで悠々自適の生活を送りながら一味を囲い、逃した事とその後も家族の虐殺への関わりが未だに明白になっていない事を纏めた書籍のドイツ語版がシュプリンガー社からをなかなか出版されない経緯などが新聞に報告されている。

要するに、上のような修正主義者は、こうした事象を見て、その証拠の吟味において議論の余地がないがと見ると、今度はその行為自体の正統性とか当時の社会情勢を主張するようだ。つまりである、それら修正主義者は、「ユダヤ人は滅亡されなければいけない」とした当時の事情を尊重して、その行為をも正当化しようと言うのだろう。

しかし、この記事を扱ったターゲス・シュピーゲルは、マルキストの発展史観をもって、既にハンガリーでかたがついていた事件の「関与のその証拠」に拘るのである。そして、FAZの記事をドイツジャーナリズムの反乱かと揶揄する。そして、これら発展史観の裏返しにこそ修正主義者の思考が存在している事をここに顕著に表わしている。

我々は、何れにせよ、我々の現在からしかその過去を観る事しか出来ないので、自然法信奉者で無くとも、死者や敗者は語る術を何ももたないのを知っている。そして、史的唯物主義でも歴史修正主義でもないところに、最も重要な核心となる世界観があり、それが上の外務省の判断に活かされていないように思われるが仕方ない。なぜならば役人に政治哲学を求めるのは間違いだからである。


参照:
Kyoto war ein Fehler“ Klaus-Dieter Frankenberger, FAZ vom 23.10.07
Die Gastgeberin der Hölle“ David R. L. Litchfield, FAZ vom 18.10.2007
Was wusste Thyssen?“ Tagesspiegel vom 19.10.2007
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
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by pfaelzerwein | 2007-10-25 03:12 | 歴史・時事 | Trackback

もうすぐ、夜明けは近い

夜明けが一層遅くなった。七時半でも暗く、電灯を煌々とつけないといけない。もう直ぐ夏時間終了である。

なぜか今年ほどこの時差を感じることはない。夏時間の間は、それほど明るい寝室ではないのだが、明るくなると寝ていられなく、歳のせいかとも思ったりした。しかし今、朝起きが知らぬ内に遅くなり、夜更かしになって来ている。

夏の最盛期に比べると、三時間ほど遅くなっている。就寝時刻は、まだ空が明るい夜十時に寝ることはなかったが、朝は早く、今のように朝が遅くなると、夜一時過ぎまで眠れなくなって来ている。

朝が暗ければ何時までも寝れそうなのである。しかし、普通の時間に戻されると、こちらもまた自然に受動的に標準の生活態度に戻る。

夏時間の実施で、体内時計が狂うとか頻繁な時差調整は寿命を短くするとか言われるが、もし夏時間の調整がなく体内時計にあわして生活しているとなると、日常生活に支障を来すことが予想出来る。

出来る限り体内時計で暮らしたい。
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by pfaelzerwein | 2007-10-24 02:49 | | Trackback

古典に取り付く島を求めて

d0127795_411634.jpgラインガウのシャルタヴァインを飲んでいる。2006年産は大変酸が強く、パイナップルの皮のような独特の香味となっている。単体としての個性が強い割には、目的の食事用のワインとしての素直さが薄い。果物のような香りはそれなりに素晴らしいが、これを単体で楽しむとなると面白さが必要になる。取り付く島もない。

金曜日に、地元ダイデスハイムの石灰分が多いカルクオッフェンのグランクリュの地所を散歩した。ヘアゴットザッカーから小さな谷を越えて、その谷に落ちるほそく伸ばされたモイズヘーレの地所を十メートルほど登ると石塀の上にカルクオッフェンが広がる。その塀の上からダイデスハイムの町中には一つの斜面が落ちている。そこの横の地面の石が擦られて白く光っていた。

やはりリースリングワインの楽しみは、その特殊性を如何に客観視して味わうかに掛かっており、無難な詰まらないワインには客観を与える特殊性も無く、要するに一般化にも寄与しない。実感が薄いのである。面白味が判らなかったのは、昨日書いた記事をチェックのために読んで、あまりにも言葉足らずと思った部分である。

つまり弱起即ちアウフタクトに、ヘーゲル教授は、モーツァルトのミサ曲などを思い浮かべながら、その同じ作曲家の純器楽曲の清澄さに比べそのテキストの韻に捉えられる欠点を挙げて、音楽の韻を考えている。それは、実はギリシャ・ローマからの古典詩の韻を踏まえていて、同じようにクラッシック音楽におけるアップビート・ダウンビート並びカデンツ構造を考えている。つまり、その文学部門におけるイタリア・フランスのラテン語の歴史的優位に対しての見解でもあったのだ。ギリシャの「ムザエウスの弱起は一般的で、強起はメランコリックで夢想に溢れて沈静している」のを、ゲーテが示していると述べている*。

ここでまた閉口するのは、ヘーゲル教授の真意自体が周知のように、如何せんそうした対になったテーゼとアンチテーゼの止揚から導き出されるので、一様に絶えず反定立が用意されているのがちらつくことである。更に、この思考態度で、楽聖ベートーヴェンの特に後期の作品を眺めていくと、この同じ歳の哲学者が古典詩から導いて来た「形式への見識とその弁証法の思考態度」自体を悉く暴いて行くような反定立の卓越が存在しているのを知ることが出来る。一方、ヘーゲル教授にとって、疾風怒涛芸術はそのままロマン主義に渡されているような様子がある。

楽聖の知識や教養の程度は、ここでも評論家ヨアヒム・カイザーの弁として触れたが、シラーの美学への傾倒などに限らず、同時代人としての革新性は、たとえその直後のロマン主義に与えた影響を取り去っても、20世紀にまで活き延びた秘密でもある。
d0127795_3581736.jpg
参照:
*24. August 1826
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by pfaelzerwein | 2007-10-23 04:03 | 文学・思想 | Trackback

馭者のようにほくそ笑む

d0127795_0472965.jpg金曜日の紅葉狩りは楽しかった。本日、日曜日は晴天で冷えた昨日とは変わり曇天となったので、晩に散歩が出来るかどうか分からない。だから、晩秋の金曜日の妙趣を思い起しておこう。しかし、春の京の花見を描く谷崎文学のように筆が運ぶ訳ではないので、色々と考えながら歩みを進めるのである。

色である。黄色に染まったその色は、ヘーゲル教授に言わせると、そこに静脈動脈の赤と青色が混ざり、その色が緑に近くなる皮膚の色の親近感を見る。色の三原則を導くよりも、その葉の小さなモザイクのような抽象的なパターンをここに見る。

ヘーゲル教授は様々な文化のパターンにシンボルを見て、実際は仮想である一般性を語り、キリスト教文化圏における特殊性を客観視する。色づいた葡萄の葉を見て、そこからキリストの一生に思いを馳せることのないように、不可逆な客観性がそこに存在する。

車を停めて、一組の中高年夫婦をやり過ごしてから、トランクルームの革靴に履き替えていると、観光客らしいおばさんが声をかけてきて、町の中心にある泊まっているホテルの名前を言い、「少し間違ったかしら」と尋ねる。小さな丘を降りてきた所であり、反対側へ戻るにはそれを越えなければいけないので、「降りて行ってもそれほど遠くはないよ」と教えてあげる。

ワイン産地でない地域からの旅行者で、ワインの試飲買い付けを兼ねてやってきているのだろうか?きっと連れが歩くのを面倒がって、ホテルで少し情報を入れて一人で裏山を歩いてみたのだろう。思い掛けなく道が分岐していたり、小さな丘があって、その間には小さな谷に小川のようなものが通っていて道を失ったのだろう。それでも、一般的な方向感覚は確かで、ワインの山とその作業道が確実に町へと向っている。

どの地所も同じように見えるかと思うと、反対の一角からは他の一角が想像も付かないと思ったに違いない。そこでは、歩く人の主観的な妙趣があり、その人を客観的に見る妙趣がある。分岐路から分岐路へと何気なしに誤って進む面白さと滑稽味がここにあって、それは、道を逆戻りして正しく折り返しても妙趣が無いように不可逆であり、一般性に対する特殊性がそこに存在するのである。

ヘーゲル教授は、デューラーのそれに対してラファエロの版画を反証として挙げて*、また音楽においては、ドイツ音楽の弱起のアウフタクトを特殊性としてイタリアやフランスのそれと区別して**客観性を得ている。

破天荒な「ディアベリの主題による33の変奏曲」は、ベートーヴェンの最後の三大ソナタや「荘厳ミサ」に前後する創作で、ベティーナ・アーニムを通じて知り合ったフランクフルトのブレンターノ家の娘アントニーに向けられている。その二馬力か三馬力の推進力で揺られる馬車に乗せられるような、その弱起は、シンコペーションを掛けられてついついと眠気を誘うかと思うと、急激なリズム変化や不意打ちのはぐらかしを掛けられて吃驚してはたと眼が覚める。それを見る馭者台に陣取る作曲家は振り返りほくそ笑む。そして暫らくすると何もなかったように、強引に飛ばしたり揺らしたりと、殆ど脱輪したかのようなグロテスクな表情さえ見せるのである。ぎょっとして、その馭者の顔に嘗ての即興演奏家の面影を見て、知らぬ間に再び、馬車に揺られながらうとうととするのである。

秋の葡萄の間を巡り、区画を別ける小さな石塀の間に積んだ石段を滑らないように、左足右足と一つ一つ確かめて降りたり、一段飛ばししてみたり、塀の上から飛び降りてみたりと、何の変哲もない道を寄り道しながら昇り降りするようなものなのである。
d0127795_0504366.jpg参照:
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19  
どうにも哲学的な美の選択 [ 文学・思想 ] / 2007-10-18
*7.Heft
**18.August 1826
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by pfaelzerwein | 2007-10-22 00:51 | 文化一般 | Trackback