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索引 2013年3月


早く走ってみる意味合い 2013-03-29 | 生活 TB0,COM0
無垢な祝祭のアルファー 2013-03-28 | 文化一般 TB0,COM0
ゴムの柔らかさを変えてみる 2013-03-27 | 生活 TB0,COM0
メルヘンから思春期を超えて 2013-03-26 | 音 TB0,COM0
「魔笛」初日の解読の鍵 2013-03-25 | 文化一般 TB0,COM0
試着に悪戦苦闘する午後 2013-03-24 | 生活 TB0,COM0
とても感じの良い謎の電話 2013-03-23 | 女 TB0,COM2
感慨深い靴の計ここにあり 2013-03-22 | 雑感 TB0,COM2
出演者変更の電子メール 2013-03-21 | 生活 TB0,COM0
質実剛健のパン焼き機 2013-03-20 | 雑感
復活祭への実存の二週間 2013-03-19 | 暦 TB0,COM0
アンティエイジング登攀 2013-03-18 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
アドレナリン全快の勉強会 2013-03-17 | 生活 TB0,COM0
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般 TB0,COM0
町中に鐘が鳴り響く 2013-03-15 | 暦 TB0,COM0
最も著名なブロガーの人格 2013-03-14 | BLOG研究 TB0,COM0
滑るに滑る春の雪 2013-03-13 | 暦 TB0,COM0
足を通してみてドキドキ 2013-03-12 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
間違ったヴェクトルの矯正 2013-03-11 | 生活 TB0,COM0
匙ならず賽を投げたその時 2013-03-10 | 女 TB0,COM2
理由も無く不安な気持ち 2013-03-09 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
積極的な心理の青い表徴 2013-03-08 | 雑感 TB0,COM0
春らしい貝の観察 2013-03-07 | 料理 TB0,COM0
快さを含めての算段 2013-03-06 | 生活 TB0,COM0
大分マシの今日この頃 2013-03-05 | ワイン TB0,COM0
古臭いオジサンの世知話 2013-03-04 | 女 TB0,COM0
想われ面皰も笑窪の純情 2013-03-03 | 女 TB0,COM2
若年者への精神的影響 2013-03-02 | 歴史・時事
子供錠剤の甘味料に注意 2013-03-01 | 生活 TB0,COM0

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by pfaelzerwein | 2013-03-31 00:15 | INDEX | Trackback

順風満帆の船出に備えて

冬シーズン最後のクライミングだった。先ずは石切り場で新調の靴を試した。一人だったのでトップロープ紛いとなったが、六級プラスまで登って良い感じは得られた。何と言ってもリスに足先を捻じ込んだりしても全く足が痛まないのである。ゴムでしっかり巻かれていながらも先端が分厚くなっていないからである。なるほど使い始めで、石切り場のそぎ取られた壁の足場では、それほど馴染まなかったが、思い通りの角度で足場を使うことが可能になった。それゆえに手掛かりの昨年ならば下から引っ張るしかなかったものが、今はどの方向からでも一番良い角度で使えるようになった。一人であるから確保の手際が悪いのでもう一つであったが、恐らく今シーズンはそのレヴェルから始めることが出来そうだ。

そして何よりも足入れ感覚が、部屋の中で試し履きしているときと異なり、足にそれだけ力が入っているのでとてもナイスフィット感覚が得られた。暫く履いているうちにあたるところなども明白になるだろうが、アルプスのロングルートで使えることは間違いなさそうだ。

石切り場は乾いてはいたが、登り始めはフリースを着ていても気温は一ケタでフレッシュな感じだった。それでも登り始めると丁度良い気温になってきた。それどころか手に触れる岩肌が冷たくも生温くもなしでちょうど良い塩梅で、折からの日差しでとても気持ち良かった。汗を掻かないので手掛かりが楽しめる。

夕方にクライミングホールへと言うことになっていたので、電話して誘ってみたが、まだ外行きは億劫のようで、課題があるということで、一旦家に帰って違う靴をとってから出かけた。54日目である。折からの聖金曜日で殆ど人はいなかった。いくつか登っているうちにうっすらと汗を掻いた。結局石切り場で練習していた方がためになったが、本人が分からなければ致し方ない。こちらは無駄に燃料を使って駆けつけた分、昼飯が抜きになった。

もはや室内でやることは無い感じで、まだしばらくは寒さが続くようであるが、腕を休めながらお茶を濁して、熱心に走り込みで本格的なシーズンに備えよう。トレールランニングシューズとヘルメットが揃えば、先ずは順風満帆な船出となるであろう。



参照:
ゴムの柔らかさを変えてみる 2013-03-27 | 生活
時差ぼけが続く春である 2012-03-29 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2013-03-30 17:49 | | Trackback

早く走ってみる意味合い

アーモンドの花が一部咲かけていた。初めて気が付いたときである。パン屋に行って少し走るつもりで出かけたら気が付いた。峠まで走り抜け、駐車場まで走り下りた。登り24分、全体でも40分もかかっており不甲斐ないのだが、完走を心掛けたので仕方ないだろう。水溜りが凍っていたのに驚いた。通りで手が冷たくなった。しかし、ジョギングテムポで気軽に走り通せるようになったのを喜びたい ― 一つの願望だった。

強く締めた靴でのつま先立ちの下りのつま先の蹴りや着地の音に惚れ惚れして、左右のバランスは悪かったが満足していたので16分も掛かったことに驚いた。しかし、今後どのような方向で走るトレーニングをするか、どのようなトレイルランニングシューズを購入するかの基本となる考えに至る。

ハーフマラソンを目標としている訳ではなく、ジョギングを楽しむのでもなく、目的はつま先立ちでの足の筋力の強化と心肺機能強化、そして体幹強化でしかないから、今後無闇に距離を延ばす方向でもないだろう。

テムポを一定させながら、ピッチを伸ばしていくのも一つで、上り下りともそれだけで時間短縮でき、更に体幹の強化にもなるだろう。要は、あまり無理せずに気楽に頻繁に走る習慣をつけることで、30分ぐらいの距離をもう少し伸ばしたい。矢張り軽いシューズが必要ではないか?一度試してみよう。

先日、モスバッハー醸造所でプロヴァイン前の試飲をした。ソヴィニオンブランは黄味が勝った味筋で緑臭さが少なく、その一方香りは良かったのだが、早飲みであることを確認した。これはピノブランも同じで、酸が弱いので甘い感じになってしまっている。今年最初のカベルネ・ブランが最も青臭い。さて、グーツリースリンクも同じように早い出来で、柑橘系の味筋が明らかに2011年産よりも良かった。早飲みで香りが高いうちに楽しんでしまえる。その割に価格が高騰しているのが辛いところだ。2011年がなかなか難しかったのと若干異なって、本当に早飲みの年なのかもしれない。

買い物ついでにトレールランニングシューズを試してみた。初めて足を入れるマムートのそれは大変走りやすそうで、タグを見るとライケルとなっている。なるほど足に合う筈だ。サイズは41もしくは7.5となるようだ。そのあとでマインデルやローヴァを二種類試してみたが、走れるのはマムートだけである。マインデル社のものは足形が鈍く、今まで好印象を持ったことが無い。恐らく今後ともお世話になることはなさそうである。ローヴァの一つ目はつま先にヴォリュームがあり過ぎで鈍くて仕方がない、その反面踵の収まりは良かった。二つ目は殆ど今履いているものの改良品で、メッシュを使い心持軽くなっている。ENDURO LO MEN GTXと言う商品のようだ。とても良いのだが、今まで使っていたものと殆ど変らず、早く走ることなどは出来ない。重めで、分厚過ぎて、それでいながらアルプスのそこでもグリップが効かなく、スニーカーのように分厚い分だけ使い難いことは百も承知である。要するにハイキングシューズとの混合なのだ。もはやこうした靴で走るつもりもなく、岩場の上や下で使う気もない。やや中途半端な選択で、長い距離を歩くときには良いのだが、早く通過する靴ではない。

しかし、マムムートの試したMTR REMOTE程度では底が弱すぎて、素材もゴアテックスでないので駄目である。そうなると探す方向は徐々に決まってきた。重要なのはクレッターシューではないが、つま先の感覚が鋭く、蹴りに無駄の出ない靴である。



参照:
トレイルランニングに使える靴 2010-10-29 | アウトドーア・環境
久しぶりの寒いランニング 2013-01-15 | 生活
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by pfaelzerwein | 2013-03-29 00:41 | 生活 | Trackback

無垢な祝祭のアルファー

承前)月曜日の新聞を開いていなかった。マンハイムに買い物に出かけたりしていたからだ。それ以上に、土曜日に初日があったことを忘れていた。だから記事は火曜日ではなく月曜日の文化欄に間に合っていたのだ。個人的には敢えて舞台に関しては付け加えることはないので、新聞からかいつまんで紹介しておけば事足りる。

結論からすれば、奈落も舞台も全く関係ないことをやっていて、それどころか一流歌手を集めていながら全く関係なかったということに尽きるだろう。それどころか豪華な三人の侍女の三重奏さえ管弦楽に合わせられなくて残念と書いてあるが、そもそも座付管弦楽団のように誤魔化さない限り特に初日となるとどうしようもないことの方を指摘すべきで、如何に現在のスタンダードオペラの上演と言うものが歪なものであるかを読者に知らせるべきなのだ。

墓穴に寝込んでいる大蛇がペニスだろうが、ドラキュラの棺桶の穴がヴァギナだろうが、もはやどうでもよいことで、なるほどその感想通り、TVで大写しにしてもお茶の間で卑猥でなければメディアでの再生が可能となるのである。

寧ろフルートのセクシュアリティーを重要視すれば、まさしくフランスの女流映画監督カトリーヌ・ブレイヤが仏公共放送で制作した「眠りの森の美女」の名場面などを想起する。大蛇から逃げて気を失ったのも日本の王子タミーノならば、そこに纏わる王女パミーナもそのように描かれる訳である。

声楽陣への言及は、会場の反応の通りヘルマン・ヘッセの生まれ故郷カルプの少年合唱団の三人の名前を挙げて、反対に夜の女王にブーイングを投げかけた一人の間違った反応をして、「降りたクレメスのファンじゃないかしら、歌ったのが彼女でなかったから嫉妬したのでしょう」とするのは、多くの聴衆が感じた雰囲気を伝えている。またPAの上手な使い方無しには囁く通る歌唱などはあの大ホールで出来ないことなどを挙げて、街角の劇場でいつでも体験できる魔笛の上演にしてはCPが悪すぎると嘆く。

私などは、新聞が書くように「これほどの魔笛の管弦楽演奏は無い」 ― 実際、スタジオ録音の完成度を度外視すればクレムペラーやベーム指揮の名録音を凌駕している ― と言うことで歌手の多額のギャラを払うよりも高給取りのベルリナーフィルハーモニカ―のギャラを払うなら安いと思うのだが、どうだろうか?勿論一流歌手は指揮者以上に高額のギャラを持って行ってしまう。しかし、現在のこうした舞台の上演でそこにどれほどの芸術文化的な価値があるのかどうかは大変に疑問なのである。それならば「三人のテノール」のエンターティメントとなんら変わらないだろう。

その点に関してどうしても書いておかなければいけないことは、バーデン・バーデン祝祭の「杮落し」は成功だったかどうかである。その印象は、座席からすれば悪い安い席はまだ空いており、多くは招待などのスポンサーの関係で埋まり、国際的な関心度はとても低いどころか、駐車場の様子からフランクフルト辺りからも十分な集客は出来ていなかったようである。それどころかシュツッツガルトからの訪問者もあまり目立たなかった。少なくとも夏のザルツブルクとは大違いで、特別な会員を募っていたザルツブルクの復活祭のそれとも大分違うだろう。

なるほど言うように管弦楽団も小編成であり、歌手も重量級とはならずPAの助けを借りるとなると、こうした大ホールが矢張り徒になる。その一方でフライブルク周辺やアルザスからの ― ロシアングループと言うのもあるらしい ― 固定客層は堅実なようで、それなりに聴衆の層は安定してきているかに見られた。しかし所詮その集客力は知れていて、スイス人やルクセンブルクやフランスから集客出来て、日本からもツアーが出るようでないと厳しいに違いない。兎に角、もともと田舎に加えて高齢化が進んでいるとなると全く期待できないのである。

個人的には、いろいろと言いたいことはあって公的資金が流れて、二度目の倒産は許されないので、どうしても成功して貰わないと困る。フランクフルトに行くのとは違って、とっても優雅な気持ちでフランスの高速道路を走って、これだけの最高級の音色を楽しめるのであるから少しでも貢献できれば良いとは思うのだが、もう少し文化芸術的な底上げが必要だろう。(終わり)



参照:
Die schöne Integration des Mohren, Eleonore Büning, FAZ vom 25.3.2013
破瓜する死の恐怖の興奮 2013-02-06 | 文化一般
試着に悪戦苦闘する午後 2013-03-24 | 生活
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by pfaelzerwein | 2013-03-27 23:40 | 文化一般 | Trackback

ゴムの柔らかさを変えてみる

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靴を購入した。先週水曜日に目を付けていたものだ。ネットで注文しても良かったのだが、もう一度小さめのものを試して購入することにした。それ以上に新たにいろいろと試すことが出来た。エヴォルヴ銘柄の中の対抗馬を主に試した。勧められて「ゲシード」のマジックテープ締めを試すとやはり大きさは変わらず半サイズ大き目(US8.5)のものが必要だったが、紐締めと比較してそれほど利点も欠点も感じなかった。問題は、内側に先が曲がっているので足に当たる部分が増えて、その割にはしっくりと来ないのである。

同じようにポンタスの紐締めを試すが、大きさは8で良くとも、古い型のポンタスの感じでこれも紐に期待するほど締まりがよくない。その点、「ポンタス2SC」はラバーを張り巡らしていて、足の締まりがとても良い。その割に底がフラットで、親指へと力が集中するように先端を尖らしてあるので、とてもシャープな履き心地ながら、足が先端まで入るヴォリューム感もある。

結局ポンタスIIを購入するのだが、最後になってオリジナルの箱が欲しいので出して来てもらうと、若干異なる商品であった。双方とも米国生産なのだが、底のゴムの張り方や意匠が異なっていて、店頭で試着したものは緑色のTRAX商標で、真っ新の箱から出したものは黒色で、空気抜き穴 ― 張力調整かも知れないが ― が踵へと追いやられている。売り子は箱物が2011/12モデルだと言ったが、ネットで調べてみると新商品として発売されたのが2012年の春であるから、2011年モデルなどは秋にミュンヘンのISPOで紹介されたプロトタイプしか無い筈だ。

実際は分からないが、履いてみると若干履き心地が異なる。展示品のそれはゴムが固めで若干木靴のような感じが強くて、些か初心者向きのような感じがしていたのだが、箱から取り出したそれはゴムが柔らかく、ごつごつ感が無くなっている。どちらが機能的に高いかは明らかで、木靴のような感じではフットワークの限界が表れる筈だ。その点、柔らかい方は、細い足掛かりには立ち難くても、摩擦をより多く使える筈である。

最終的には実際に使ってみなければわからないが、現在入手可能なクレッターシューとしてオールラウンダーでは「アナザジ」と並び称されるのは分かる。しかし印象としては遥かにテクニカルな登攀向きで、フットワークに関してはオヴァーハング以外ではこれで出来ない技は無い筈だ。なるほど前者の木靴風の方は張ってあるゴムが厚そうで、ボルダーには若干使いにくい感じがあったが、薄い方ならばなるほど使えるだろう。なによりも指の関節などが当たりや易くなった感じがあるが、先端がこばが無いように造ってある靴なので、そもそも薄くフィットする感じがないといけない。

ネット散策するとニュージーランドのクライマーが既に二種類を試していて、前の製品を含めると三足目を昨年の秋に購入している。それによると若干無駄な領域が無くなった感じだが踵の締まりは変わらないとしている。現時点では人差し指・中指の付け根が押さえつけられる感じが強いが、ゴムがなれてきて、これでドロミテぐらいから登っていけるようになれば素晴らしい攻撃的な武器となるであろう。

日曜日には 久しぶりに峠まで駆け上がった。あまり自信が無かったので完走だけを目指したが、後半に余力を残したので二十三分ならば標準タイムであった。下りはゆっくりと山道を歩いて降りてきた。先週の木曜日あたりから、行者大蒜のペストを食した後などに奥歯が疼き顎まで来ることに気が付いた。いよいよ親知らずの虫歯が最終段階に近づいているらしい。そこで触ってみるとぐらぐらするので自分で抜けるかと思って、歯医者に電話する前にもう一度確かめてみると親知らずの後ろの最後の歯がぐらぐらしていたのだ。それを電話で話すと受付のおばさんは、「炎症ですね、抜かなければいけませんね。」と即座に答えた。ぐらぐらしているので簡単に抜けると思っていたら、親知らずではなく、その虫歯の影響で奥歯がぐらぐらしているようだ。奥歯を失うことは出来ないので、もはや躊躇している場合ではない。

それでなるほどと思った。虫歯に関しては分かっていたのだが、炎症となると可成りの免疫力の低下を招いていた筈だ。通りでここ三か月ほどは風邪をひきやすく、体調がもう一つであった理由となる。虫歯の炎症とは気が付かず、更に肩や腕の炎症とばかり感じていたようである。



参照:
感慨深い靴の計ここにあり 2013-03-22 | 雑感
垂壁の5.10への米国製靴 2012-03-22 | 雑感
エリート領域の蹂躙 2006-08-11 | テクニック
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by pfaelzerwein | 2013-03-26 19:29 | 生活 | Trackback

メルヘンから思春期を超えて

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承前)メルヘンオペラとは、ロマンティックの思春期オペラよりも、それ以前の形であるということにもなる。母性や父権を表象する夜の女王やザラストロに代表される姿や権威の裏側にはモノスタトスやパパゲーノの姿が表裏一体となっていることを成長とともに知っていくことが大人になるということなのである。

作曲家モーツァルトのそれが如何なものであったかは資料を調べないでも皆容易に想像がつくが、モーツァルトが天才であったのは、そうしたありとあらゆる経験を通して人々の細かな機微を創作と出来たことに違いない。

サイモン・ラトル卿がインタヴューに答えて、否定的な意味でのルーティンとなっていない交響楽団を指導することの意義を漏らしていたが、その作曲の一部始終に光を当てることは劇場付の管弦楽団では出来ないことは明らかだ。一点を挙げれば、オペラの歌の好い加減さをうまく隠すと言うものが座付のそれの伝統になっていて、そうした演奏方法がそのもの上手な超一流の歌劇団のそれなのだ。

今までにはコンセルトヘボーや英国の交響楽団ぐらいでしかこうした形式でのオペラを聞いたことはないが、少人数の古典的なものは古楽器のそれしか知らなかった。なるほど、ベルリンのそれも古楽器奏法のそれを活かして、軽やかで和声土台過多とはならない透明な音響を達成していたが、その機能性は全く異なり現代の行きついたそれであったことは断るまでもない。

指揮者ハーノンクールのそれも研究しているようだが、序曲からして全く次元の異なる精妙で明晰な楽の音が奏でられたこと違いなく、その一部始終に目が行き渡っているのである。それゆえに幾つか挟まれたカデンツャの類だけでなく、とても印象的なフェルマータや終止、テンポやダイナミックが必然的で、必ずそこにはリズム的な内声や動きがまさしく作曲家の鼓動のように終始一貫して流れているである。

この指揮者が若い時から目指していたその音楽表現には詳しい方だが、指揮の技術が上達したのではないかと思わせるほど手に取るようにその意思が伝達されていたのには驚いた。いつかのジルフェスターコンツェルトでのハイドンの交響曲のそれを彷彿されるほどの名演であり、歌手陣は正確に合わせるために歌うことで精一杯と言う感じをさせるのは、前記したように伝統的なオペラ上演ではないからである。もはや、ヴンダーリッヒもフィッシャーディースカウもヘルマンプライも必要なく、こうしたものに芸術性を与えるのは全く別なものなのである。

和声の陰陽が細やかにつけられて、どのような場面においても鳴り響く背景とはならずに、ロココのオペラで馴染みのある極限の感情表現が奈落を彩るとき、作曲家のその創作意図が文脈をもって修辞法として明白になる。それゆえに、指揮者がここは是非作曲家に質問してみたいと言うとても興味ある音楽の動きが見つかるのだ。なるほどそれは、オペラセリアでもオペラブッファでも無かった新しい表現としての萌芽であったかも知れず、決して枯れた作風ではないことは確かであろう。

蛇足すれば、バッハの演奏実践においてその後の伝統的な演奏法から遡る形での批判的な演奏ではなくてそこへと連なるバロックの技法の流れを研究すればよいのとは異なり、同じような経過をたどったセリアやブッファでは生じない疑問や難しさがこの歌芝居には付き纏うとする指揮者の意見は正しい。それでも創作時点から遡って考えることで初めて創作意図や意思が理解できることに他ならない。

だからグライボーンの音楽祭でハイティンクがロンドンのフィルハーモニカ―を振った魔笛を最高のものとするのは、今回の演奏でも想像できるところで、なるほどこの歌芝居の音楽の質や音響はカール・ベーム指揮録音のレファレンス盤においても実現していなかったことが明白である。なるほどこのように鳴らすのだと聞かされるともはや何一つ文句のつけようがない。

そうした音響から齎されるのが、機微に富んだモノローグ的な殆ど深層心理の感情であり、だからこそ我々の心を揺さぶる。しかしこの作曲家が、ブゾーニなどとは異なって、深層心理などと言う概念を持っていたわけではないので、彼のトラウマやその他の深い感情がこうした創作に吹き出しているにすぎないのだろう。

開かれたままの問いかけに答えるならば、こうした小市民の倫理やモラルそして躾や社会規範などで、大人として成長する過程で上手に整理されて仕舞い込まれてしまっている心理が、深層心理療法かテストのような芸術表現に触れて、一挙に噴き出す感情こそがその涙の源泉であったのだ。もちろんそこには人様々な抑圧された感情があるわけだが、本能的な死の恐怖とか生れ出たときの泣き叫びのような根源的な感情が基本になっているからこそ、そうした心理がしばしば宗教やらその他の文化的な文脈で理解されるのは致し方のないことなのである。

敢えてもう一度繰り返してみよう。なぜ作曲家モーツァルトは天才と呼ばれるのか。それは、金を出す貴族に合わせてロココやギャラントな作風をある程度自らの音楽語法で器用に作って見せたからではない。なるほど、その器用さの背景には、貴族の憂さ晴らしやその他の需要への職人的な勘や経験が積み重ねられていって、その背後にある心理へと通じるようになっていたことに他ならないからだろう。それが新しい市民層に向けての創作となると、異なった形で発揮された訳だが、特定の個人に対するのとは異なりより一般性をもって抽象的な形となって果実したからだろう。

ここまで書き殴ったからには、もう一つ風呂敷を広げると、現代の芸術文化において、そうした小市民的な感覚を超えて、時代の思潮をしっかりと捉えていない限り、そうした表現には至らないことは明らかであって、如何に本当の創作活動と言うものがとてつもない意味を持つことが分かるであろう。序に触れれば、ラトル卿の今回の精華は、そのもの彼自身が若いころから示していたセンシビリティーと言うような芸術家としての強い個性の表れで、本人の語る通り、もはやその齢になってまだ表現できない言い訳などはあり得ないとなる。(続く



参照:
「魔笛」初日の解読の鍵 2013-03-25 | 文化一般
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
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by pfaelzerwein | 2013-03-25 23:01 | | Trackback

「魔笛」初日の解読の鍵

モーツァルトの歌芝居「魔笛」初日についてどこから書き始めようか。サイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカ―の大勝利であったことは万人が認めるが、それに匹敵するほど公演前の短いオリエンティールングも素晴らしかった。思い切って、日本の文化の程度の低さを如実に示す文化勲章受章者故吉田秀和の文章を引用しよう。殆どは投げ売ってしまった彼の書籍の文章から強く記憶に刻まれている個所である。

「殆ど涙なしには聞き終えられないものだが、さてこの涙は悲しみから生まれたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない。」

彼はこの答えをいつもの調子で開かれたままの形でおいて、ドビュシーの「この人物はやがて死ぬ人間のもつあの無私無欲で予言的優しさをそなえている。こんなむずかしいことをドレミファソラシドだけで…」で受けて独特の余韻文化としている。まさに俳諧である。

しかし、学問とか芸術とかはそうはいかない。そのような余韻文化では構築的な学術体系も文化も文明も開かれないのである。さて、ダリウス・シマンスキー講師は、「陰陽」でこのなにかと問題になる歌芝居の構成を明確にして、社会学的な視線で切り込む。どうしても陰陽の二極対照化ですべての登場人物やその歌の特徴などを腑分けしていくと安っぽい分類となってしまいがちなのだが、初演された時代背景やエポックに注意して、聴衆と創作者との関係にまで踏み込んでいくと、ありとあらゆる複雑なものの背後にある骨組みが如実に表れてくる。

つまりである、この作品を初期ロマンティックの萌芽として、まさしくゲーテが関与を考えていたそうした作品として見ていくと、退廃のロココから啓蒙思想へと、つまり政略結婚で性愛の文化におぼれるしかなかった貴族趣味から勃興しだした小市民のモラルへと視線が移される。要するに、小市民にとっては如何に貴族のそれを凌ぐだけの文化的価値を自らが身につけていくかということが大切であって、この歌芝居にメルヘンの形として描かれた陰陽に色分けされた「一人の人物」の葛藤のモノローグとしても捉えられるということである。

そして啓蒙思想と言うのは、小市民に貴族に集中した富や権力が分配されることになって、今までの貴族以上の人物になっていかなければいけない、つまりあくなき進化で覚醒の度に生まれ変わっていかなければいけないという思想ともいえる。それは次の歌詞に説明される。

Wir wandeln / Ihr wandelt durch des Tones Macht
Froh durch des Todes düstre Nacht.

これを、輪廻転生と解釈しようが、フリーメーソンの教えとしようが、はたまた古代宗教の思想としようが、そのものずばり復活思想としようが、ここで創作家が言わんとしたことや聴衆の関心ごととのその核はまた違うということになるのである。

こうした芸術作品をその時代背景から読んでいくということは全く珍しいことでも何でもないが、我々の興味は全く別のところにあって、シカネーダーやなによりもモーツァルトがどのような表現意思をもって作曲したドレミファであるかを読み解く鍵を見つけることにある。(続く



参照:
試着に悪戦苦闘する午後 2013-03-24 | 生活
神々しい喜びよりも 2012-07-10 | 雑感
趣味や自尊心を穿つ 2006-02-26 | 生活
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by pfaelzerwein | 2013-03-25 02:44 | 文化一般 | Trackback

試着に悪戦苦闘する午後

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ディナージャケットの付け襟をアイロン掛けした。前回使ったのは大分前であり、洗濯屋ではそこまで細かなことはしていないので、自分でやらなければ只の立て襟となってしまう。今回久しぶりに普段使っていないシャツを点検したが、矢張り付け襟でないと駄目なことが判明した。

付け襟は二種類あるのだが、古い方を完全に黄ばんでいたので改めて自分で洗濯してアイロン掛けしてみた。色は綺麗になり、使えるように予備としたが、肝心の襟先が新しい方と比べるともう一つ冴えない。

そこでアイロンがけを練習してみて、新しい方が黄ばまないようにやってみると、先端が縫込みになっていて簡単に出来ることが分かった。色も中のシャツの襟よりもそこそこ白いので何とか使えるだろう。

ネクタイは、簡便のものばかり使っていると、手が慣れていないのでどうしても時間がかかる。それ以前にズボンを履いてみるとそれほど余分が無いことも分かり、矢張り二十年近く前と比べると決して痩せ細っていないことも判明する。

驚いたのは上着で、両袖を入れるのに苦労した。もともとタイトに仕立てあるのだろうが、体が硬かったら、簡単に裏生地が破れてしまっただろう。少しだけストレスを掛けてしまった。シャツは問題なくフィットしたが、付け襟やら袖の留めなどを記憶に頼って、着込むまでに紆余曲折がある。

一度来てしまったら簡単に着替えることなどは出来ないのは丁度女性の和服と似ているかもしれない。ディナージャケットもしくはタキシード、スモークなどと呼ばれる丈の短い軽装であるから、それほど面倒なことは無い筈なのだが、普段スーツもあまり着なくなっているので苦労する。

夏とは異なって気温が低いので少々悪戦苦闘していてもバテテしまうことはないのだが、洋服を試着するだけで一時間ぐらいは直ぐに経過してしまうのだ。如何に女性が出かけるとなると大変なことだか分かるのだ。

それにしてもラトルとベルリナーフィルハーモニカーの演奏は桁外れに素晴らしかった。前回のブルックナーの交響曲でも凄かったが、文化的な近代管弦楽団の演奏でラトルはもはや巨匠の域である。完全に花開いた感が強い。ある意味このような状況は永遠には続かないということでもある。



参照:
出演者変更の電子メール 2013-03-21 | 生活
ああ、バーデン・バーデン 2012-05-30 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2013-03-24 07:33 | 生活 | Trackback

とても感じの良い謎の電話

知らない男性の声で電話が掛かった。スピーカーの音を止めて電話に出ると、私のファーストネームらしきものに「さん」をつけて呼んだようだった。その電話番号で、ファーストネームを呼ぶのは全く分かっていない者か、女性ぐらいしかいない。しかし「さん」付けは一人だけだろう。前者でもなければ、後者でもない、あるのは省略したあだ名で呼ぶぐらいで、ドイツ男性では思い浮かばない。

先日からナーデャのことを思い出していた。今回「愛しの彼女」に対して賽を投げたと書いたが、あの時も同じような状況で、ナーデャを悲しませてしまったことが思い浮かぶ。それ以上に口説くことのなかったのに失望させてしまったのだった。今まで言い寄った女性中で最も美しかった彼女であるが、その涼しげな面長の顔立ちをしても、匙を投げてしまったのであった。

そのときも謎の人物から二回ほど電話が掛かったのだった。丁度彼女のおじいさんとおばあさんといった感じで間違い電話として少し喋ったのだった。そして今回の間違い電話は、否に愛想が良くて、感じが良い声でとても丁寧だったのだ。背後には食器洗い機かなんかのような小さな機会音と、誰かが働いている雰囲気があったのだ。

もしかして、愛しの彼女の親父さんかとも思ったのだが、それにしても「さん」と聞こえたのは不思議なのである。厳しい彼女の家庭であるから、親父さんが電話を掛けてくるということは無いことは無いだろう。電話番号は隠してあったので、真偽は分らない。

要するに賽を投げてしまってはいけないということを、ある女性のアドヴァイザーから聞いた。機会があるならばやはり言い寄らなければいけないということのようだ。いつまでもそうしなければいけないということらしいが、まあ、こちらもそう若くは無いのだから、そもそも永遠などでは決して無いのだ。



参照:
匙ならず賽を投げたその時 2013-03-10 | 女
囀りましょうか? 2005-06-01 | 女
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by pfaelzerwein | 2013-03-22 23:48 | Trackback

感慨深い靴の計ここにあり

独日協会の例会に出かけた。四月からは岩場にいることになり行けないので義理を果たすためだ。その前に少し登ってと思っていたが、ボルダーが閉鎖されていて果たせなかった。しかし、靴を試着に出かけて、収穫はそれ以上に大きかった。もはやがむしゃらに登る時期ではないが、とても良い感じが得られた。

先ずはそこでかつて試したことのあり、足に合うEVOLVの商品を試してみた。二年ほど前は半分以下の価格であったが、今や材質も高級志向になって、価格も他の商品と変わらない。それでも中国製などと書かれていると購買意欲を失くすが、米国製もあった。

先ずは、ゲシードなどを試すが、到底自分のサイズでは合わずに一つ大きいのが必要なことが分かる。なるほどそれでも使えるのだが、矢張り形状が足に合わないものと考える。次にポンタスを試すと、これは紐締めではないが三本締めで、自分のサイズでジャストフィットする。印象としては、ファイヴテンのヴェルデよりも感覚は鈍いが、その分使い勝手は遥かに良くて、摩擦登攀からリス登攀、オヴァーハングまで広範囲にスポーティーに対応するのが分かった。何よりも良かったのは、足が包み込まれる感覚で、足との一体感があり、踵を含めて足を使い切れることに尽きる。

その勢いて、シャーマンを試すが、同じ大きさで足は入るものの、先端が下に向いている分指の付け根が曲がって当たるので辛い。そこまで辛い思いをして登る場所は、オヴァーハングの足場とか穴状の足場を使う垂壁だろうか。難易度からすれば七級以上の感じで、今シーズンはそこまでのものは要らないだろう。まさしく十五分も履けば脱ぐ必要がありそうだ。店の者に勧められたのはロックパイラー社のオゾーンだ。履いてみると、きつくても締まりがあまりよくないので足に合わないようだ。

そしてそこにあるテスト岩でいろいろと試してみる。懸案は、上から乗る足場でなくて、横から荷重して手掛かりとともにバランスをとることのできる機能である。つるつるの石灰以上に摩擦のない人工岩で試すと、良い靴の場合は完璧に出来るのだ。我ながらこんな技術をどのように身につけたのだろうと有頂天になる。街着を着ながら試す姿は自ら惚れ惚れするほどのテクニシャンぶりである。

要するに、室内では発揮出来なかったような高等な技術を良い靴さえ履けば駆使できる可能性が高まった。もし感じた印象が正しければ、シーズン初めにトップロープで5.10bを登ってみて上手くいけば5.10cが見えてくるだろうか。5.11は今シーズンは考えないが、もしかすると大化けする可能性も否定出来なくなってきてとても楽しみである。

冬のシーズン最終局面で体を固めてクリッピング出来るようになってきたので、自由自在の体勢が取れるようになってきたことは、週末に見ていた嘗ての5.11クライマーの指導員に「上達したね」と褒められたことでも明らかだろう。一年前に購入したファイヴテンのヴェルデでとても出来ない体勢や技術を駆使できる靴を手に入れるだけである。月末の決算を待ってこうなれば経済的に無理してでも購入したい。それまでまだ数日あるので、入手可能なメーカーの靴を比較してみて決定したい。

一年でここまで来るとは思ってもいなかったが、昨年は事故も挟んで伸び悩みした年度であったとも言えるのかもしれない。少なくとも一年前の南フランスではボルダーで痛めた右手首と戦っており、感覚的に現在とは大分異なっていたことを思い起こす。



参照:
とんでもなく腕力が強くても 2011-12-18 | 雑感 
垂壁の5.10への米国製靴 2012-03-22 | 雑感
足に合うイタリアの靴型 2011-03-03 | 生活
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by pfaelzerwein | 2013-03-22 00:08 | 雑感 | Trackback