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石油発掘場のアナ雪の歌



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さて問題の第一夜「ヴァルキューレ」である。批評では昨年も前日祭「ライン黄金」での感興が萎むほどに穴となっていたと評されていた公演である。結果からすると修正されたのだろうか?昨年の今頃は公開されていなかった「フローズン - アナ雪」のパロディーである。そもそも公開されていなかったもののパロディーである訳がないので修正されたのか、それともディズニーがいつものように模倣したのか?勿論昨年の夏の時点では誰も気づかない。

第一幕におけるジークリンデのミュージカルを意識した演出はそのもの楽匠が狙っていたものであり、当時は今のようにハリウッド文化などは無かっただろうが、そのものなのだ。まさしく、石油発掘場で繰り広げられるブッシュ一家のような利権と権力の掌握と行使のゴットファーザー家族に繰り広げられる物語であり、若い二人の兄妹の物語である。昨年の舞台写真にもあるように、ジークリンデが「非常の剣」を振り回す情景は、この夜のハイライトであったことは誰もが認めるであろう。そしてその手を広げ、膝を入れての体の表現は、「レティッゴー」そのものなのだ。演出のカストロフがミュージカルを意識していたのは間違いないのである。そしてこうしたパロディー精神がこの創作そのものでもあったのは既に楽匠の言葉として紹介した通りである。

そして第二幕になると場所は全く変わってロシアの油田や天然ガス採掘の利権に纏わる苦悩の世界となる。演出家のフランク・カストルフは東ドイツ人であり、我々とはまったく違って、アンゲラ・メルケル首相と同じでロシアを本当に知っている人種である。だから今現在起こっている冷戦後の権益を巡る米露の争いを最も第三者的に眺めることが可能な人種なのである。

我が子に手を掛けてまでもして得る権力、もはや言葉の意味を失うほどの「愛」を捨てることで初めて獲得できる権力とその運命的な魅力は、前夜祭で何度も示された水に浮き、軽く身体に乗せられる「金の延べ棒」の不可解でありえない摩訶不思議な演出になんらかの謎解きとなっている。それに比較して、第三幕でご披露される決して飛行など出来ないヴァルキューレの娘たちの重量感やハチキレる贅肉の重さは、若者ジークムントのぼてが入った肉体でもあり、なぜかここでは只一人だけ若々しい身重になる前のジークリンデなのである。

この演出は昨年の時点での発想であり、まだウクライナ問題は加味されていない。しかし、これをみればその背後にある事象は継続しているに過ぎないことが描かれていて、そこに描かれているのは決して米露だけでなく中国や欧州などのありとあらゆるヤクザな現実社会なのである。

さて音楽面では、第一幕のクナッパーツブッシュ指揮の演奏にきかれるようなあのどうしようもない重さと鈍感さとは正反対の運動性も高く音楽がミュージカルのパロディーを満遍なく表現していたが、第二幕ではやはりドイツ語が聞き取れない限りは叙唱の面白さが伝わらない。ペトレンコ指揮の殆ど劇場の奈落が改造されたのではないかと思われせるほどの活き活きとして精緻で篭らないサウンドでさえ、これではどうしようもない。歌手も高みより板につけて歌わすことが殆どで、更にライヴヴィデオがあまり使われないことでその口の動きも分りにくいために聞き取れないのである。どうしても冗長な印象は免れない。第三幕はその点、舞台の動き同様に音楽的にも盛り沢山なので十分に効果を挙げていた言えるが、結構舞台上で石油が茫々と燃える火の効果はオリムピックの成果の如く、火事にならないかと緊迫感を盛り上げ、第二夜へと関心を繋ぐことになるのである。

要するに、起承転結で言えば、まさしくこの楽劇「ヴァルキューレ」は承であり、それが穴だとするならば第二夜の「ジークフリート」に大きな期待ができると言うことになる。そもそも音楽的にその終幕はそのように出来ており、一般的に思われているように「ヴォータンの別れ」でカタリシスへと導いてしまうような上演は誤りなのだろう。その音楽的な処理と表現は、また最も喝采を浴びる指揮者の力量と、その続きをどうしても聞き逃せない気持ちにさせる魅力なのであった。そして演出に関しても可也徹底してきていることを十分に予期させた。

余談であるが、田仲龍作ジャーナルが悲惨なガザの状況を赤裸々に報じている。こうした子供たちの骸の写真や報道を見て、心が動かない者は居ないに違いない。しかし劇場や芸術では、ライヴヴィデオが示すような多角的な視野を獲得することで、もしくは権力の裏側をのぞき見ることで、そこからが創作の世界となる。アンゲラ・メルケルも初日を止めて、この指輪四部作の再演を訪問すると言うが、そうした多角的な視野を共有することは決して悪くはないのである。権力闘争のオペラとしてヴェルディ「シモンボッカネグラ」などは特にストーラレル演出のそれで評判は高いが、こうしたヴァークナーの演出を見ればその多面性でそれとは比較は出来ない。



参照:

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by pfaelzerwein | 2014-07-29 19:57 | | Trackback

やくざでぶよぶよの太もも

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フランケンのスイスで5.13から5.14のオーヴァ―ハングを見学して、シャワーを浴びてからバイロイトに向かった。

ラディオ中継があったので世界中で聞かれたと思うが、その音楽は恐らくバーム指揮以来の高品質だと評価されよう。なるほどその管弦楽団の精緻さと躍動感から、ブーレーズ指揮のそれに匹敵して、歌手陣はかなり演出が援護していたと思われる。恐らく現役最高のバレンボイムや人気のティーレマンのそれを完全に凌駕すると予想される。

全く中継後の放送でも囁かれるように総譜を見て確かめないといけないといわれるような木管の色つけや弦のフレーズが浮き上がり、皆がカルロス・クライバーに期待した音楽が聞かれた。

そのギャングスターの社会に移された演出は現時点では評価のしようがないのだが、これが上のペトレンコの演奏実践もそのカストルフの演出に決してそぐわないわけではなく、二時間半も係らずに気が付かない早いテムポで歴史的な演奏を成し遂げた。そして歌手こそが、バルコニーのような高台で歌うことと、口元もアップされるようなライヴカメラ映像で ― ライヴエレクトリック効果と同様 ― とても有利に働いたのであろう。

演出のコンセプトに関しては現時点では言及できないが、少なくとも音楽的な効果をそのおかしな演劇効果が強めてしまうということではヴィーラント・ヴァークナーのそれを思い浮かべさせる。勿論カストールの職人的な力量は大したものであることは間違いない。

そのベーム指揮の時のように、音楽に集中させるような演出とは正反対の寧ろ音楽の感興をそぐような演出なのだが、その音楽の細部や構造をとても客観的に示してくれて、まさしく色町のやくざの世界を描いた点では北野武のそれに相当するのだ。歌手陣がこの演出によって、神話の世界と同じぐらいリアリィティーを以て歌唱できたかどうかは分からないが、少なくとも音楽などの世界は普通の健康な市民社会とは異なって、やくざな世界であることは確かなので決してのめり込まなかったわけではないであろう。

ぶっとくぶよぶよの太ももをさらけだすラインの乙女やどうしようもない歌手の体を見るにつけ、午前中に多く見かけたポーランド娘の肢体とは比較にならない汚さこそが、この演出の核であり、それは超巨大国米国やロシアのそれだと誰もが気付くのである。要するにグロテスクなのだが、そのグロテスクな故に完全に音楽的な精緻さとのコントラストとなっているのである。



参照:
フランケンのスイスとの比較 2014-07-13 | アウトドーア・環境

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by pfaelzerwein | 2014-07-28 16:16 | | Trackback

「詐偽師」本人による実証

STAP細胞捏造事件の記事が科学欄に載っている。十年ほど間に起こった韓国での捏造事件に続く大スキャンダルの続報である。特に有名なネーチャー誌が、あまりにも突拍子もない発見に尋常ならない証明が必要とされることを断りながらも、今回の事件が、ネーチャーの発表のあり方と出版機関のありかたに光を当てたと反省している。

一方において、理研が予算獲得のために、若い研究者をスターに祭りたてるためにあまりにも杜撰な管理をしながら、一夜にしてその仮面を剥ぎ取って詐偽師として落着させようとした経緯に強い批判を受けていることをして、またなかなか論文の撤回どころか、再び年末までこともあろうにその「詐偽師」本人に実証事件をさせていることを伝える。

つまり、STAPが全くのいかさまなのか、そうでないかは、分らないとして、画像から始まって細胞そのものの偽装の疑いを払拭すべく研究を再開したと言うのだ。勿論、最新の微細に亘る彼女自身の実験日誌の発表にも拘らず ― 初耳である ― 小保方嬢の手業でのみ可能なものがあったとしての結論だとする。

その一方病理学者高橋女史が理研を批判して、如何にこの分野における倫理などの問題と、「なによりも実用化」ということでの多くの患者の期待に応えるための緊迫した状態が存在するのだと言う。イタリアでも先日、政府を揺さぶる肝細胞詐偽研究所への犯罪捜査となったとある。

つまりこの問題はなにも日本だけの特殊事情ではなくて、世界の科学界を揺さぶっていて、なにも盗作とか画像処理の問題ではなくて、ありとあらゆる科学雑誌においても、新たなソフトウェアーの導入で、不正が益々明らかにされていくことになるとある。

なるほどある意味論文が全てであるが、68年紛争で博士号廃止や拒否などの動きが、少なくともキャリアー志向とその結果のありとあらゆる価値が金額で評価されるようになるともはやそうした高尚な意志は省みられることがなくなってしまったのだろう。



参照:
Der Labor-Laptop-Komlex, Joachim Müller-Jung, FAZ vom 9.7.2014
見て見ぬ振りの共犯関係 2014-06-18 | マスメディア批評
手練手管の質やその価値 2014-02-21 | 数学・自然科学
学会よりも出版やメディア 2014-03-20 | マスメディア批評
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by pfaelzerwein | 2014-07-27 20:58 | 文化一般 | Trackback

へロー、タブレットと釜

日本に商品を注文した。今年になって二回目であり、昨年から三回目だろうか?全部あわせると結構な額面になるので日本の経済にも一寸は貢献しているだろうか。今回は、良い機会なので、二十年以上経つ炊飯器を発注した。まだ壊れていないが、釜のそこが焦げて塗装が剥げてきているのでいずれ穴が開くと思ったからだ。

もう一つ、円安で日本円を今ユーロに替えることも出来ないので、出来る限り有効に使いたいからである。景気が良いのかどうか知らないが、トヨタなども日本企業としては驚くほど配当しているのだが、円安とすると円で使うしか方法はないのである。勿論この機会に日本へ旅行して大判振る舞いに豪遊すればよいのだろうが、フクシマ以降そんな気持ちにはさらさらならないのである。

そのような事情で今季初めてイージーペイと言うのを使ってみた。こちらではペイパルが便利だが、銀行によって信用の問題があるのか、日本のそれは何かややこしい。無事それが使えた。

炊飯器は、仕事の関係もあって、インダクションヒーターのものを試しに注文した。蓋にも入っていると言うからこれは欧州のテーファルにもない発想だろう。なんでもないことなのだが、米にあれほど拘るのは世界中で日本だけだろう。当方からすれば安物の恐らくスペイン産の米をどのように炊いても日本食にはならないのだが、炊飯器はやはりあると便利なのだ。卵茹で器と同じでなにも考えないで待っていればよいからだ。

つまり世界から見れば隙間であるが結構旨い市場がそこにあって、極東の競争相手にも容易にまねの出来ないノウハウがあるのだ。そもそも日本人以外に誰もそこまで考えないのである。「はじめちょろちょろ」の日本文化だ。そして意外にも米食の習慣は世界中に分布している。刺激すればまだまだ大きくなる市場である。

それに比較するとコムピューターの市場などはコピーも容易で独自のノウハウなどよりも先駆けしていく商品しかないのだろう。そのような市場に将来性などある訳がない。今回序に興味を持ったのは、キンドルだった。いつもネットで「へローへロー」と執拗にCMが流れているキンドルペーパーホワイトだ。向こうの狙った通りに、耳につくほど聞かされてヘキヘキしているのだが、そのアナウンス効果から内容が気になってくるのだ。そして、面倒ながら時間を掛けて色々と比較してしまったのだ。

なるほど、BLOGなどでも書かれている通り見やすく使いやすいことには間違いなく、読み易いだけでなく、辞書機能などを直ぐに使えるのは、私の場合フランス語の本を読むときに大きな力になるのは間違いない。そして色々と調べているうちに、只文章を読むだけならば手軽な価格で何処でも容易に使えることも分った。しかし色々な紹介記事を読んでいるうちに、それ以上にアンドロイドを使えばよく、白黒だけでなくキンドルをタブレットで使ってみてから考えればよいとあった。

タブレットは使っていないので、欲しいとは思っていたが、その効率的な使い方を十分に認知していなかった。プレゼンテーションやその他の使い方はみていても分ったが、アンドロイドを使いこなすと言うことは考えてもみなかった。要するに、アイフォンもアイポッドもタブレットを使っていなければ、アップルであろうがアンドロイドであろうが同じなのだ。しかし、キンドルのファイアーを調べると、通常のタブレットほど自由度がないとあって、アンドロイドは結構遊べるOSだと分ったのだ。こうなれば、たとえ使い勝手は良くなくても適当なアプリケーションなどの多いアンドロイドの方が遊べそうで、興味がそこに移ってしまうのは仕方がないのである。

中国製のタブレットなどは世界中価格は全く変わらない。そもそも仕事で使いこなすほどの予定もなく、円安の影響もあって適当なものを購入して試すことにした。上手く、次世代のアイフォンやスマートフォンへの橋渡しに試してみるのである。なんと言ってもタッチスクリーンの使い勝手を会得したいと思っているのだ。

若しこうしたタブレットがあれば、今回の小旅行にもノートブックを持って歩く必要はなくて、可也長い充電後使用時間を考えれば、楽劇のVIDEOやPDF楽譜などを持って歩けるのである。さて、先ずはノートブックを持ち歩いてみよう。



参照:
理解出来ないこの世の現実味 2010-10-16 | 女
暖かい一月の物価高 2008-01-27 | 生活
伸び縮みも確りした素材 2014-07-18 | 雑感
終に逝かれたもう一つの蝶番 2012-11-20 | テクニック
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by pfaelzerwein | 2014-07-26 19:24 | 雑感 | Trackback

ヴァークナー熱狂の典型的な例

いよいよ、第三夜楽劇「神々の黄昏」である。プリングスハイムに日記によると、この楽劇の稽古が七月五日から率先して集中的に行われている。その第一幕では、その効果や迫力に感動しているものの管が弦の細やかな表現を消してしまっていると嘆いている。この件は、その後何度も話題となっていて、その責任は劇場の音響の悪さにあるとして、ルービンシュタインとの間でも論争となっている。しかし楽匠はまったく取り合わないかのように、会場に客が入れば間違いないと思っているようだと報告される。

またミュンヘンの楽長レヴィとスコアを見ながら、まだまだ明らかなテーマが確りと演奏されていないことを確認して、改善を期待する。そして既にベルリンで管弦楽演奏されていた前奏曲の今度は楽劇としての遥かなる効果に胸躍らせる。

この楽劇には第一幕に先立って、序幕があって、ここではそれに触れれていない。なるほどベーム指揮の1966年度の演奏でもそれに先立つノルンのトリオから、心なしせかせかと演奏されていて、更に言葉も聞き取りにくい。この序幕は今までの経過を繋ぐための創作で、敢えて劇に集中させるよりも紙芝居のように前振りをするようになっているのは確かである。1964年のカルショーの制作によるショルティーの指揮では、そのテムポと流石に最晩年の楽匠の響きと織物のような声部の扱いがとても美しいが、なるほど声の内容がよく通るかと言われれば、それはそのようにはなかなか上手く行っていない  ― 総じてこの制作は失敗だったに違いない。当然の事ながらクナパーツブッシュがこれ以上の成果を出せは筈もなく、マルチトラックのような録音方法では演奏にも大きな影響が生じたようで、ニルソンを始め答辞の最高の歌手人が力を示せていない。いずれにしても劇場の中で既に演奏された三夜を辿るような意味合いでは実況録音の劇場感覚があり、パルシファルような形でのこれを単独とする場合とは演出も含めて異なるのは当然かもしれない。それにしても前奏曲からノルンの予言の場面へと素晴らしい始まりである。

そしてジークフリートとブリュンヒルデの最後の愛の歌でのトリスタン後の集大成と改正の成果は当時どのように響いたのだろうか?これは、第二幕の復讐と場面での終結にも共通する「パルシファル」にはないまだまだ枯れていない到達点でもあろう。ノルンのトリオから間奏における日の出を通してこの愛の二重唱のハイヌーンの流れは、全体の流れとパラレルにあってそれがコムパクトに扱われているのは言うまでもないが、そこにおける表現はドュビュシー「海」やその後の「グレの歌」へと繋がるもので、なるほど「日の出」はトリプヒャンで対岸に見えるレギの日の出からの創作とされても全くさし使いのないものである。トリスタンとはまた異なるこの輝きは少なくともマーラーには可能だったがRシュトラウスには果たせなかったものではないだろうか。

第一幕への間奏曲「ジークフリートのラインへの旅」においても、また第三幕に於ける圧倒的なブルックナーの交響曲のフィナーレのような既出の動機の重ね合わせなど、バイロイトの定礎式後に訪れて三番と二番の交響曲を見せたブルックナーの影響がここにあるのだろう。逆の影響はいつも語られるのだが、それを機に器楽曲の作曲に楽匠が熱心になったことなど今回調べてみて始めて知り、なるほどと思った。

七月六日土曜日には第二幕のルービンシュタインのピアノ伴奏の稽古があり、それではあまりにも失われるものが多過ぎて感興も中庸だと語る。ハーゲンと男たちと、グンターの歓迎の辞の間の場もヴァークナー特有の効果だと評価して、まさに栄光だと評する。

この箇所の感想もなるほどテンポの早い中での様々な音楽内容の提示がとても優れているのだが、しかしそこでの力感はなにか古いヴァークナーのオペラを髣髴とさせて若干げんなりさせないこともない。なにがここまでこの数学者が感動させたのか?寧ろ、ハーゲンとグンターのディアローグでも改めてそこまでの関連を音楽的にも上手に再現させているのが見事である。要するにこの楽劇はそこまでの三夜に続けて体験しないとその価値が分らないのかもの知れない。

翌日金曜日は、同じく二幕が管弦楽で演奏され全く異なった成果を挙げたことで、この幕のハイライトは男たちの合唱だと改めて確信している。それに続く、ジークフリートの裏切りの復讐のブリュンヒルデとハーゲンとグンターのトリオを称して最もこの作品で理解を困難にする場面だろうと語る。勿論イングリッシュホルンとバスクラリネットの音楽と相似した最終幕の三人のラインの乙女のトリオとは全く対極に置かれる。

兎に角この二幕はこの作品の中で決してハイライトではなくて、音楽的に不毛で動機が繰り返されるだけだと言うのである。もしくはあまりにも突発に動機が飛び移り、ハーゲンの復讐の動機が絶え間なく死を呼び起こして、折角の美しい場面も追いやるとする。その中で男たちの合唱は素晴らしいと執拗に繰り返すのである。

勿論復讐の場の劇的な効果は認めざる終えないとしてもこうした欠点が台無しにしているという意見である。だから、ハーゲンと夢に現れるアルベリヒとの対話も同じだとなる。兎に角、この数学者は、言葉が聞き取れなく、弦の細かな表現が聞けないと、この祝祭劇場の音響に欝になっている。

正直我々からするとこの感覚は、現在においても所謂ポピュラーな音楽を愛する向きから同じような感想が聞くかもしれないが、幕開けのハーゲンとアルベリヒの場面のパルシファルを髣髴させる音楽も見事であり、初演当時の全く異なる感覚を読むととても興味深いのである。少なくともこの数学者は、その場で編曲を試みるように決して音楽の素人ではなく、更にトリスタン以降の発展を喜ぶ一方、なぜかそれゆえの和声展開には距離感を感じているのである。

さて、十一日火曜日、お待ちかねの第三幕に、この数学者は早々前奏曲から魅了されている。ラインの乙女の八本のハープには見えない効果に驚き、稽古であるに関わらず終わると長い間演奏者が拍手に答えなければいけなかったことが報告される。そしてなによりも「ジークフリートの死」の葬送行進曲に - 二つの十六分音符をゆっくりと記して - 打ちのめされるのだ。そこから最近もCD化された、アルフレート・プリングスハイムの編曲が毎日のように時間を惜しんで書かれるのである。

正しくその後に続く最初期のヴァークナー熱狂の典型的な例をここに見て取れるのだ。定礎式から、マンハイムでのヴァークナー協会創立の作曲者の演奏指揮など、またルートヴィッヒ二世とのやり取りなど興味深いことも多いが、初演におけるルートヴィッヒ一人のための一夜の上演や音響の関係からその後は訪問者を入れての総稽古などこの日記には記されていない様々な舞台裏に関する文献があるようだ。



参照:
愛があるかエコの世界観 2014-07-21 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
前夜祭ならではの祝祭感 2014-07-08 | 音
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by pfaelzerwein | 2014-07-25 21:40 | | Trackback

チャイナ製の昔の名前など

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CDプレーヤーが終に壊れた。この日が訪れるのは覚悟していたが、突然やってきた。そろそろとは思っていて、今年になってからSACDについても書いていた筈だ。トレーにお気に入りのザビーネ・マイヤーのCDを入れたときに、なんとなく動きがおかしかった。それが最後トレーの動きで、ゴム紐が切れてしまったのである。適当なゴムが入手できれば自力でも直せる可能性はあるが、外したときに歯車などが外れてしまったので、面倒な作業になりそうで、先ずは諦めた。

ソニーのX202ESと称する製品で、製造年月日は1993年10月になっている。当時オーディオマニアに人気のあった製品で確か400マルクほどで所謂人気商品であったのだ。上級のX303ESとか505ESとかは、より音が素直であったが、デジタル臭いと嫌われていたので、自分の嗜好よりも市場の人気商品ということでレフェレンスプレーヤーとして購入したのだった。約二十年間、一度の故障もなく使っただろう。当然の事ながら修理などはもはやソニーのドイツ代理店ではしないのである。ドライヴだけでも入手できるかと思ったがこれも難しそうである。ゴム以外は完動品とはいってもそうした機種でありあまり愛着もなく、それはそれで仕方ないかと考える。お気に入りのCDを傷をつけずに回収できただけでよしとしよう。

一先ずは、ボーズのライフスタイルに御椀型のNECのCDプレーヤーが付いているので、それにCDを乗せて鳴らす。BGMとしては、そのような最新のPCのそれよりも悪いようなドライヴでも、結構普通に鳴るどころか、また一寸違う周波数特性を持っているのでそれはそれで面白いのだ。要するにCDプレーヤーなどは、もはや過去の産物であり、そもそも音響的にも当初からあまり変わらないものだったのである。しかし、流石にあんちょこのプレーヤーであると情報量も限られていて、仕事のリフェレンスとしての試聴用には使えない。

さて、恐る恐るネットでSACDプレーヤーの価格を覗く。皆目知らなかったのだがSACDの本格的なプレーヤーはハイエンドにしかないようで、1000ユーロ以下ではあまり真面目な商品は見つからない。SACDの将来に関しても不透明であり、基本はCDが今まで以上に鳴って、本格的なSACDも試聴できる製品を求めることになる。

そうなるとこちらがもっぱら関心があるのは、デジタル関連の性能であって、アナログな音作りとかそうしたものではない。因みにDATの12BITのDAコンヴァーターの方が遥かに良かったので、それ以上に質が上がれば問題ない。DATも開閉が危うくなってきているのでそろそろである。一時は、これに繋いでCDドライヴだけを高級なものにしようかと思っていたのだが、SACDなどのこともあるのでやはりプレーヤーを購入することになる。

デンノンのシリーズは、ドライヴを自作していて、更に32BITのDAコンヴァーターで192kHz処理になっているというのである程度は期待できるだろう。また欧州向けの商品は日本のそれよりも音作りも大人しくしているということだがどうだろうか。 但し箱などが大き過ぎて鬱陶しいので欧州物の手ごろなものがないかも調べたい。

オーディオの山水電気が倒産したとか、パイオニアのオーディオ部門が売られるとかで、嘗ての市場も無くなっていて、そもそもSACD自体がハイエンドの世界となっているようで、PCM導入当初から予想されていたように、デジタル音響市場は消滅するしかなかったのである。寧ろ三十年間も粘っていたことの方が驚きなのである。

兎に角、今回SACDプレーヤを購入するとすれば、デノンなど日本製が狙いとなる。HIFIだけは、シナ製とか、タイ製とかならば買わないのだ。勿論ブランドだけの昔の名前などは要らないのである。



参照:
理のある変換とその転送 2006-04-20 | テクニック
我が町のエネルギーミックス 2014-02-15 | アウトドーア・環境
聖霊降臨祭のミサは如何に 2012-04-19 | 音
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by pfaelzerwein | 2014-07-24 19:43 | テクニック | Trackback

証人喚問を終えて摩訶不思議

地元警察での証人喚問は終わった。何度も訪ねている所であるが、証人喚問は初めてであった。いつもは車の事故などの関係で車で乗り付けるのだが、今回は道端に車を駐車して、丸腰で伺った。

現在ドイツで問題になっているように、ガザ地区進攻の抗議運動に絡んで、反ユダヤ主義のパージに、昨日のネオナチ風のパンの写真が引っかかった訳ではない。

インターフォンを鳴らすとカメラで確認して通用門を開けてくれた。受付でアポイントメントを告げると、確認後に内側から受付の婦警がドアを開けてくれた。残念ながら美しく若い婦警さんは見かけなかった。

上で相手が待っているということで階段を上がって行くとそこで待っていた。初老とヴェテランの刑事といった感じだが、明らかに詐偽担当という感じだった。と言うか、地元の小さな警察ではそれほどの知能犯罪も凶悪犯罪もあまり居ないので、専門と言うのはないのだろう。

さて、座って話を始めると、こちらが予想していたものとは若干違っていて、個人名よりも団体名が使われたようで、寧ろ警察が団体名から個人名を割り出して連絡してきたようだった。

犯行は六月四日にオンラインバンキングで、ウルムの人の口座から五千ユーロを送金しようと試みたが、失敗したようだ。その節に、送金目的に団体名が使われたと言うのである。

勿論、その団体には全く関係ないことは直ぐに説明できた。つまり団体名を使われただけとなる。そこで自分自身のぺイパルのフィッシング詐取のことを説明したが、どうも面倒で事件として取り上げる心算などは毛頭なかったようだ。

被害が出ている訳ではないので、難しいのかもしれないが、当該の事件の場合も成功はしていないのだ。しかし口座番号等が明らかに使われたのだろう。所謂未遂なのかもしれない。それならばこちらの場合はパスワードが解って、ログインされたところで同じ状況となる筈だ。いずれにしてもウクライナ人かロシア人かは知らないが、名前を挙げられている人物がドイツ国内でフィッシングから詐取を試みたのだろう。

そのときになぜ当方の団体名を利用したのかは皆目分らない。寧ろ実在することで足がつき易くなる可能性があると思うのだが、どうなのだろう。そもそも送金目的ならばなんでもいい加減なことを記入すればよいのだ。それ以上は犯人に聞いてみなければ分らない。若し犯人が逮捕されているならば答えは分っているのだろうから、まだ参考人としても出頭していないのだろう。もしかすると既にウクライナに戻っているかもしれない。

それにしても結局こちらが書き込む前に、警察は私の情報を殆ど書き込んでいた ― 嘗てはそうではなかったのだ。もはや常習者のようで気持ちが悪い。それにネットに十分過ぎる情報があるので今更と言う感はある。フェースブックに情報を渡すよりも地元警察に渡した方が価値があると思うのだが、どうだろうか?尋ねようかと思ったが、まあ、出頭回数などだけでも少なくないので、虻蜂取らずになるよりも、寧ろある程度情報を握って貰っておいた方が安全な気もするのである。

肝心の証言調書であるが、流石に年長者だけでなく上手に手際よく纏めていた。団体との関係、そしてその活動と現状。そして、犯人とされる人物の名に覚えがないことで、警察で証言したことである。それに証明して終了。



参照:
コムピュータ犯罪の証人尋問 2014-07-20 | 生活
泣きべそで「この豚!」 2012-07-09 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2014-07-23 22:24 | 生活 | Trackback

卍への酵母の萌芽

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冷蔵庫を開けて、いつも入っている酢漬けのきゅうりの瓶を見て驚いた、白いものが酢の上を塞いでいたからだ。PHが低いので通常の菌や黴などは生えないつもりでいたからだ。なるほど開けてみると上面醗酵のワインやビールのように上部が白く泡立った感じになっている。それを捨てて、液中のきゅうりを取り出すと肉も確りしていて異常は見つからない。滑り気もなかったので、さっと水洗いして、瓶を洗って改めて酢に漬けておいた。

その白いものは酢酸菌のようだ。通りで上面醗酵の酵母に似ているはずなのだ。実際に瓶に汚れなどもなかった筈なので、不思議に思っていた。流石に生で食してみる勇気はなかったのだが、一度試してみようとして酢漬けにして置いたのである。

菌が何処からやってきたのかはわからないのだが、事情は分ったので、先ずは料理に使ってみることにする。中華のじゃんじゃん麺のために使ってみよう。酢漬けにしておいたきゅうりの状態は良さそうなので、そこに大蒜の欠片の唐辛子を放り込んでおいたので、味もまた良くなるかもしれない。

ラディオでは、先日の反イスラエル行動のデモ隊が反ユダヤ主義禁止法に抵触する言動があったとかで、起訴される事例があったようだ。イスラエル批判が容易に出来ないドイツの御家事情なのである。そう言えば、ウクライナの独立派が高度な兵器の扱いをハンガリーで演習しているという情報がニュースで流れた。ハンガリー政府も一部で反ユダヤ問題で批判されているが、大変巧妙にやっていると言う話も聞いている。

しかし、先日来パン屋で売っている新商品を「星」と言って購入したのだが、家に帰ってきて眺めて驚いた。まさにこれは卍だったのだ。逆にすれば勿論ナチスのハーケンクロイツとなる代物で、故意ならば直ぐに逮捕される可能性もあるだろう。パン屋の親仁は到底ネオナチにも見えない。手伝いをして平日はパンを焼いている少女もそこまでやると思わないので、新製品であるから親仁と相談のうえでなにかの本や型から形をとってきているに過ぎないのだろう。

先日のブランデンブルク門での黄金のナショナルチームのガウチョダンスも一部では恥として批判されたが、前回のドイツ大会のときならいざ知らず、あれから更に連邦共和国は解放されていき、もはやそうした逆差別のようなことすら神経質に考えないでよいような社会になってきている証拠なのである。もし差別などに過敏であればダンスを踊ったムスタフィやクローゼといったドイツ社会の中で被差別の対象とされるような選手がやるわけはないのである。なるほど彼らの多くはドイツ外で喜んで金を稼いだりしているのだが、それと移民大国となったドイツ社会の開かれた一面とは異なることなのである。

今回の報道でも、所謂左翼といわれる論調がこうしたことへの批判をしていて、社会一般においてはもはやそうした神経質なことから開放されている。イスラエル批判に関しては当事者が居ることから中々難しいかもしれないが、少々のことに目くじらをたてることがなくなるようになることが目安である筈だ。その一方で軍属や警察その他一部にはネオナチの萌芽が絶えないことも事実である。



参照:
プーティンの情報宣伝活動 2014-03-26 | 歴史・時事
復活祭月曜日朝の思い 2014-04-23 | 生活
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by pfaelzerwein | 2014-07-22 17:47 | 料理 | Trackback

雷雨の合間の蒸し暑さ

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今年一番難しいルートを登った。折からの雷雨の合間をぬった蒸し暑い天候で、雨が降り出したので結局登り切れなかった。それでも昨年挑戦することが躊躇われたルートで、その後の練習の賜物だ。核心部の割れ目の入口は苦労したが、次は中間支点の按配が分かったのでそれほど苦労なく抜けれるだろう。

そしてオーヴァーハング帯の一本目から二本目へのリングに何回か挑戦して苦労したが、完ぺきにこなした。これもボールダーの技術が役立った。最初の割れ目への入り口も後で思い起こせばそこで習った技術を上手に使えたのだ。苦労したのは中間支点の問題だった。

これが実質的にシーズン後半の始まりだろうが、明らかに昨年とは異なる技術や経験が備わってきていて、シーズン最後までには何とかものになるだろうか。少なくとも上のルートならば問題なくこなせ、その次の段階へと進めるだろう。

気候がよくなってきたとき、どこまで爆発力や持久力を使えるかで、技術的にもボールダーの技術をそのままルートでも使えるように磨きをかけて、初見のところでどのように上手に使えるようになるかであろう。早く中間支点が上手に一発必勝でとれるようになればうれしいのだが。



参照:
割れ目登攀の煩わしさ 2014-06-08 | アウトドーア・環境
ひりひりするほどの痛み 2014-05-27 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2014-07-21 18:51 | アウトドーア・環境 | Trackback

愛があるかエコの世界観

さていよいよ第二夜「ジークフリート」である。この楽劇の良さは、なんといっても叙唱とアリアが完璧に解消された形としての楽劇の完成によるところが多いだろう。第三幕が「トリスタン」や「マイスタージンガー」以降の作曲ということで、その対位法的な技法やそれに伴う和声的な自由さは有名であるが、第一幕においてもリズミカルな進行などで大変魅力ある作品となっている。

7月20日木曜日、シークフリート第一幕の稽古で、数学者プリングスハイムは、まだ一場の新鮮で力強い鍛治の情景に比べて、二場のさすらい人とミーメの謎解きのディアローグは一寸長過ぎと、作曲家の意思を理解しながらも批評する。ということで若干モノトーンに聞こえるというのだ。

その反面、第二幕におけるミーメとアルベルヒのニーベルング族の争いの場における不協和音の連結に苦言を呈しており、更に多くの部分はレヴィも認めるように非音楽的で、全体の印象も分かれるものだとする。つまり「森の鳥の歌声などはとても素晴らしいものだが」というのである。

プリングスハイムも、既に当時評価が定まっていたのか、その音楽技法上の発展を評価している。つまり、第三幕には顕著になる和声展開の自由さから得られるようになってきた多声的な扱いと同時に、叙唱的な流れを淀めるものがなくなることを指すのである。それをして、プリングスハイムは、ヴァルキューレの二重唱と、ジークフリートのそれを比較してみるがよいとしている。勿論、そこでは「トリスタン」と「マイスタージンガー」のヴァークナーの作曲技法の進化を称えているのだ。

しかしその進化とは、具体的に挙げられるとしても、例えば第一幕二場から始まるさすらい人の折角の音楽が、歌手とのバランスのために、奈落の底ではっきりせず、バスチューバの合奏などであまりにモノトーンになってしまっているということに表れているというのだろうか?これは、なるほどその作曲技法の問題があるとしても、進化前と後で容易に峻別されるのか?

今回色々と調べる中で面白い記述や指摘があった。最ももやもやとした思いが晴れたのは、プリングスハイムも指摘しているジークフリートと鳥との対話とそしてその森の音楽の捉え方でもあった。ヴェステルンハーゲン著「ヴァークナー」に、スイスでの体験と三幕でのクライマックスの心象が重ねられていることだ。ヴァークナーが初期アルピニズムの影響を当時の文化人として受けていたことは驚かないのだが、我々が知っているあの帽子を被った伊達姿でアルプスを歩き回り氷河を仰いで感動している姿とは重ならなかった。

スイスでの滞在は、チューリッヒ湖やルツェルントリプヒャンの対岸やアルプスの遠望や、ヴィリアム・テル縁の場所の探訪だけでなく、インテルラーケン方面へと足を伸ばしたアルプス紀行と重なっているのである。そうした影響が直接その音楽や歌詞に表れているとされるのが、selige Öde auf wonniger Höheやブリュウンヒルデが眠る岩壁からヴァルハラ城への高みであって、勿論それは鉛直状への三次元的思索ではなくて、訪問者の一人でもあるニーチェの思想などと同一の時代性であったことは間違いない。

そのような視点からすると、「ヴァルキューレ」の後の度重なる中断の成果であるだけでなく、既に述べたその第二幕などでの試行錯誤から継続した創作活動として、決して「ジークフリート」の第三幕において解決を得たことにはならないのは当然であって、実際に「トリスタン」と「ジークフリート」の作曲が複雑に前後しているのである。更に見落としてはならないのは当時世界の工場であったロンドンでの安らぎの無い滞在などが途中にある。

アントン・ブルックナーが交響曲において、英国の蒸気機関の大工場を音楽としているならば、その先駆者である楽匠は、ニーチェもしくはショーペンハウワ-などの時代の気分で、アルピニズムにおける工業化と自然の克服というある意味相反する意識を芸術としているのである。例えば、「ジークフリート」における第二幕の森の場面から第三幕の断崖そして高みへの構図と、それらを模倣したリヒャルト・シュトラウス作曲のアルプス交響曲を比較してみると、如何に後者がツーリズムというレジャーの世界のそれであるかが一目瞭然となる。面白いことに、既に述べたように家庭交響曲という名で描かれているその世界もヴァークナーにおいて、その御手本がここにあったのだ。

周知の通り、この楽劇四部作はゲルマンの神話を扱っているのだが、実際には十九世紀後半の工業化社会において、科学技術による自然の克服が、一方においてはアルピニズムなどに代表される近代的自我の挑戦と一方においてはビーダーマイヤーなどに代表される小市民的な生活感覚の葛藤があり、その裏側には無限に膨らむ巨大な欲望と世界観への恐れが対峙していたのだ。

先頃逝去したパトリシス・シェローのバイロイトの1976年の演出は、マルキズムの側面が強調されていた訳だが、それから四十年も経つと流石にその社会思想自体が歴史的なものとなってきている。今ここでこうしてこの作品を読み直していくと、そこにはっきりと見えてくる風景があって、当然の事ながらあの時はダムや工場として描かれていたものは現在からすればフクシマやチェルノブイリの爆発した原発でしかなく、その他の風景も全く異なっているのだ。正しく権力掌握する指輪こそは、金融市場のコムピューターシムレーションでしかないのである。そこには愛などがあってはいけないのである。



参照:
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
前夜祭ならではの祝祭感 2014-07-08 | 音
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by pfaelzerwein | 2014-07-20 23:47 | | Trackback