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音が鳴り響く環境の考査

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バーデン・バーデンの復活祭音楽祭のお陰で、また昨年のバイロイトのペトレンコ指揮の音楽を体験して、俄然オペラの音楽構造に興味が向かった。それは小澤征爾の言う「素晴らしい音楽の宝庫であるオペラ」とはまた違う意味合いもあるかもしれない。

興味の行く先は結局どこかというと、どうしても楽譜が必要になるのである。なるほど手元にはモーツァルトのオペラの総譜などはあるが、どうしても分厚くなって価格もはるのでなかなか買えなかったものである。最近は、著作権切れの楽譜は無料でダウンロードできるので問題がなくなったが、比較的新しい作品のそれは買わなければいけないので、なかなか入手できないのだ。それでもピアノ譜などはダウンロード出来たりするので助かる。

オペラの場合などは、特に奈落で管弦楽が演奏されるので、その多くは細部が聞き取れなかったり、所謂ルーティンの毎晩の仕事の中で可也いい加減な音化が一般化しており、要するに伴奏的なもしくは装飾的な演奏が常套化していることが多いとなると、どうしても楽譜で確認しなければいけなくなるのである。

オペラではないが、ベルリオーズの作品の楽譜をダウンロードしてタブレットで見るととても使いよい。何よりもPCのように雑音がないので、音盤を鳴らしながら指でページを捲る感じも使いよく、ざっと目を通すにはこれほど使いやすいものはない。こうしたものはとても便利になった。Pdfの一部を拡大するにもPCのように不都合はなく、タブレットの最大の強みと感じるほどである。

大分日にちが経ったが、アルテオパーで「マーラーサウンド」を体験したあとに、無料の演奏会があった。休憩後に席の移動を薦められたので、平土間の良い席へと移動した。アルテオパーであの辺りに座ったのはやはり同じように新しい音楽のフェスティヴァルの期間で、作曲家のスティーヴン・ライヒがプルトで音響調整するような一連のコンサートだった。

今回は旧SWF放送交響楽団が、ミクロトーン調律となっている六台のピアノと競演するものだ。実は四分音の試みで結局重ねると戻ってしまうという体験をしたことがあるので、その辺りに落ちがあると思って期待していなかったが、予想以上であった。つまり、四分音調律は一台で、二台は十二分音上下、二台は六分音上下、そして通常の調律と計六台になっていた。クラスター効果を求めた作曲であるが、2010年に最も成功した新曲ということで、なかなかオーバートーンの出方が微妙で、なるほどと思わせた。特に左手の可也低い打鍵でのそれがまるでロンドンかどこかの地下鉄駅で次の列車が迫るときの様な独特の暗黒音を発して、それに弦などの大管弦楽団が乗る効果は決してただのコロムブスの卵ではなかった。奇しくも、ブルックナーの第九交響曲の蒸気機関の大工場の騒音とこの地下鉄のそれが対応するぐらいの威力を感じさせるのだった。オーストリアの地下鉄は乗った覚えがないがこんな感じなのだろうか?

こうした響きがどこまでコンサートホールでも体験できるかが、こうしたコンサート形式が今後とも芸術的文化的な意味合いを持ち続けるかの鍵であり、サイモン・ラトルがミュンヘンのホール問題をして「コンサートホールが無い音楽の都」事情を「なるほどヘラクレスザールはバロックには向いているが」とした意味も分かるような気がする。



参照:
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-03-31 23:16 | | Trackback

索引 2015年3月


求められる新しい靴 2015-03-31 | 暦
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
席次次第ではない味 2015-03-28 | BLOG研究
はん旗が掲げられる日々 2015-03-27 | 雑感
受難オラトリオのコムニオン 2015-03-26 | 音
あまり快適でないこと 2015-03-25 | 雑感
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
ブロキュパイの果てに 2015-03-23 | 歴史・時事
革新から遠ざける教育 2015-03-22 | アウトドーア・環境
反射する喰われる太陽 2015-03-21 | 暦
更年期を乗り越える認知年齢 2015-03-20 | 雑感
99年8月11日の原発避難演習 2015-03-19 | 暦
少しは春らしい話題を 2015-03-18 | 生活 TB0,COM4
実像をうつす鑑 2015-03-17 | マスメディア批評
「自由な選択」のファーネス 2015-03-16 | 雑感
26CMで解決へのもう一歩 2015-03-15 | アウトドーア・環境
カモシカのようなしなやかさ 2015-03-14 | 女
解決へのヴェクトル合力 2015-03-13 | アウトドーア・環境
ライフスタイルに合わない 2015-03-12 | 生活
二度寝することなく早朝走 2015-03-11 | 生活
ソリューションの本当 2015-03-10 | アウトドーア・環境
スローフードの塩辛さ 2015-03-09 | 試飲百景
パンチの効いた破壊力 2015-03-08 | 文化一般
オーヴァーヒートさせない 2015-03-07 | アウトドーア・環境
皆に課された責任 2015-03-06 | マスメディア批評
石灰が詰まるか、花崗岩か 2015-03-05 | 雑感 TB0,COM2
「そこで聞くこれが最後ね」と 2015-03-04 | 暦
ずぶ濡れで五合目の感じ 2015-03-03 | アウトドーア・環境
ハイデカーの辺境地の都会化 2015-03-02 | 文化一般
辺境のバーデン・バーデン 2015-03-01 | 文化一般

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by pfaelzerwein | 2015-03-31 18:12 | INDEX | Trackback

求められる新しい靴

土曜日の雨が降りそうな夕方、週二回目のボルダーを試みた。降り出してもあまり雫がかからない課題を選択した。久しぶりに触るボルダーもあって、昨年の秋には皆目分からなかった攻略法が容易に飲み込めた。全く手も足も出ないそれに気がつくと、何とか解決しそうな雰囲気になってきたのだ。ただし肩を右上に上げて下から右手を岩襞に押さえつけて、立ち上がって、更に右手から左手へと手を変えるまでが、まるで人間万力の様な形になって肩に負担が掛かるのが怖い。

ここまでの慣れもあるが、靴の勢いもあるような気がする。なによりもの最大の成果は、この靴を以って可能性を掛けていた箇所で、右足のつま先が初めて引っ掛かったことだ。写真を見ると左足も掛かっているので探してみよう。右足の場所は一箇所しかなくて今までの試みでは到底加重することが出来ずに、滑らせて膝を打ちそうになっていたところだ。人によってはこの一歩を繊細極まると最も素晴らしいボルダーに挙げているサイトもあって、全く歯が立たなかったので悔しい思いをしていたのだ - 我々は日本でミクロの足場を嫌というほど練習していた自負があったからだ。これで左足をホールド出来れば課題解決へと時間の問題となる。

徐々に体が戻ってきた。これで肩の調子が戻ってこれば飛躍できる。肩が痛んで寝れない事はなかったが、違和感があったので、夏時間の始まりの八時つまり冬時間の七時には、日曜日に開きだしたパン屋に向かい、雨の降る前に峠への道をゆっくり走って体慣らしとした。

十日間ほど峠どころか長めの距離を走っていなかったので半信半疑で走った。調べてみると前回に18分の記録を出した三月七日以来峠を攻めていなかったようだ。明らかに記録が心の負担となっていて、あまり遅くなりたくないと思っていたようだ。それでも風が強くても雨に降られなかったお陰で、中盤から粘りの気持ちが出てきて、更に便意を催して、これで帰ってから快便が保障されたようなものだと意気が上がった。理由は分からないが、肉食が少ないためか、若干この一週間ほど調子が悪かったのだ。以前なら直腸が痛んでくるところだろうが、流石にそのようにはならなかった分余計に気になっていたのである。そのような感じで頑張りも効いて、峠までの比較的長めのスパートが切れた。20分台は堅いと思ったが、19分3191歩で、最高記録時の3009歩、その前の3075歩、3099歩に続いているので、午前中の記録としては三位ぐらいに入る。

下りにはライヴァルの白髪の婆さんといつもと同じぐらいの場所で擦れ違った。どうも登りはじめに来た車が婆さんのものだったようだ。彼女のことだから意地でも急いで歩いて来たに違いない。いつも同じような場所で擦れ違うこの奇妙さ。降りてきて34分5463歩、新しい靴が欲しくなって来た。安売りを探しているがまだ旧モデルも高い。急がずに在庫一掃セールを狙おう。



参照:
オーヴァーヒートさせない 2015-03-07 | アウトドーア・環境
至極当然のことなのか? 2015-01-20 | アウトドーア・環境
はん旗が掲げられる日々 2015-03-27 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2015-03-30 23:57 | | Trackback

苦労して獲得するもの

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承前)「若い人をどのようにしてコンサートホールへと誘うか?」とサイモン・ラトルは、次のロンドンでの仕事先のホールについて最も重要視している。パリで成功しているように、建築的にも視覚的にも魅惑するものでなければいけないとしている。ベルリンでの試みは道半ばでなかなか思う通りに行かなかったようだ。そもそも民間の交響楽団では商業的な存続が第一となるので、教育や社会的な使命を考えるならば、公的な母体でなければならないだろう。

ロンドン交響楽団は、「補強の必要もあるが将来的な展望がベルリンのフィルハーモニカーよりも大きい」とするのは当然で、たとえばアバド指揮の「春の祭典」の録音にそれが実証的に記録されていて、SWF放送管弦楽団張りの鳴りにはまさしく若い人を刺激するサウンドがある。クラシックな意味ではロンドンのフィルハーモニーなどの方が充実しているのだろうが、爺婆の聴衆を魅了できても若い人にはどうだろう?

それと、適合するか矛盾するかは分からないが、ラトルはこの二つの交響楽団をフランスの赤ワインに喩えていて、ベルリンのそれをシャトーヌフに、ロンドンのそれをピノとしている。云わんとすることは、前者が力強く、暗く、アルコールが高く、後者は軽やかさをも持つということで、それがベルリンで苦労して手に入れているものかもしれない。

一週間前のアルテオパーでのマーラーの交響曲六番の鳴りはそれはそれは鮮烈なものがあり、同時に高品質のものであったのだが、ロンドンの交響楽団がBBCのそれ以上に新たなサウンドを提供できるのかどうかが成功への鍵となるのであろう。云うならば、ベルリンのフィルハーモニカーにそうした将来性が無いことは残念ながら認めなければいけないであろう。アバドの就任によって、強制的に鳴りを変えたのだが、それ以上にはラトルが出来たのかどうかはとても疑問であろう。

しかし、「薔薇の騎士」で本人が目したように、ヴィーナーフィルハーモニカーとは違って、「微妙で髭剃り刃の裏に潜んでいるような和声のキチガイじみた移り行き」をあのような形で示せたのはアバドのフィルハーモニカーではなかったのは確かだろう。ただしこれが次の時代にどれだけ引き継がれるかは分からない。その意味から来週のベルリオーズでもう一度確かめてみよう。

その弦の内省的なサウンドは、フォン・カラヤン時代にもなかったもので、シュヴァルベの弟子の安永らの時代にも欠けており、クスマウル教授らが救援に来なければいけなかった原因でもあろうが、これは立派なもので、ドイツの放送管弦楽団やロンドンの交響楽団では出せないものだろう。ラトル自身がこれを求めていたのは、未完成な形としてバーミンガムなどで試みていたことは分かっていたが、これだけは間違いなく成果だろうか。一方、管などのサウンドは、現実には名人マイヤーのオーボエなどを代表に、表現の幅としてあまり十分とは云い難い。

なるほど、アルテオパーではマーラーの交響曲でもまたイタリアのマタイ受難曲でも最後まで我慢できずに会場をあとにした爺婆がいたが、流石に「薔薇の騎士」ではそのような人は見かけなかった。それでもBRのHPの評にあったように、「肝心のヴァルツァーの嫌味」が十分ではなかったとする批判に相当する俗受けがなかったのは事実である。そこが、この楽劇の核心でも落とし穴でもあって、最も俗なものが最も高貴なものへと移行する瞬間でもあるのだ。これが、なぜこの楽劇がドレスデン行きの臨時列車を出すほどの成功をして、未だに俗受けするミュージカル顔負けの出し物である理由である。だからこそ其処を表現できるかどうかが鍵なのである。

新聞のインタヴュー記事に、以前の発言とは全く正反対に、ラトル家はベルリンに住み着いて、ロンドンでは四ヶ月ほどしか住まないとあった。あのときのインタヴューでは家族のベルリンでの生活を気にしていたことも辞任の理由に挙がっていたので、これまた驚いた。理由としてロンドンでは英国人としてもプライヴェートが守れなくなっているということだ。ベルリンはスイスではないので、それほど税制的に有利とは思えないが、少なくとも奥さんの仕事はし易いに違いない。今回も不思議なことに、一番最後にあまり評判の良くなかったオクタヴィアンを歌った奥さんが侯爵夫人のあとに拍手を求めるなどやや不可解なことがあった - しかしその演じるところの「薔薇の騎士」こそタイトルロールだというのもみそか。決して悪い歌手ではないのだが、少なくとも旦那がラトルでなければベルリンのフィルハーモニーカーと共演することはなかったであろう。

2017年には、ロンドンとベルリンの双方で監督をするとして、アルテュール・ニキシュのライプツィッヒとの掛け持ちを挙げて、昔はそもそも英国とドイツの管弦楽団の間にそれほど差がなかったと語る。後任の人事に関しては、欧州の音楽家で蚊帳の外に置かれてやきもきしないで良いのは自分だけだと喜んでいる。(終わり)



参照:
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
受難オラトリオのコムニオン 2015-03-26 | 音
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
Diese Musik steckt voller Rasierklingen, FAZ vom 28.3.2015
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by pfaelzerwein | 2015-03-30 00:57 | | Trackback

伯林の薔薇への期待の相違

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ベルリンのフィルハーモニカーが創立以来初めて「バラの騎士」を演奏した。サイモン・ラトルのインタヴューで知って驚いた。つまりフォン・カラヤンは、復活祭音楽祭で割高の版権料のためかリヒャルト・シュトラウスを振っていないのだ。それにしてもフォン・カラヤンの主要レパートリーと考えられる「バラの騎士」をこの交響楽団が演奏したことがなかったのである。

その結果は、明らかにヴィーンのそれではなく、むしろカール・ベーム指揮のシュターツカペレ・ドレスデンの録音に近かった。その古典的とされる録音との近似点はテムポ設定であったろうか。そこから最も遠いのが、フォン・カラヤン指揮の演奏で、またはそれを模倣したものだったろうか。そしてなによりもヴィーンの座付き管弦楽団の演奏が対極にある。

さすがに悪い意味でのルーティンになっていないので、アルブレヒト・マイヤーのオーボエに代表されるようにとても正確に揺るがすことなく楽譜の音価を鳴らしていたので、普通はBGMとなるところが譜面を見るように精妙なバランスをとりながら音化されていたのだ。ラトルが語るように「オールスター的な楽員」なので、ルツェルンのそれには至らないながらも、ソロ的なパートにならなくとも室内楽的な精緻さもあり、歌声がそれに乗るという感じである。

それをしてラトルのオペラ指揮者としての経験や能力を云々するのは間違いであろう。そもそも舞台上の歌手の歌声の技術的な限界があるわけであり、こうして交響楽団が演奏することで余計にその落差が目立つ傾向があるのかもしれない。それでも第一幕における歌詞の明白さや特に侯爵夫人を歌ったアンニャ・ハルテロスなどの歌唱を聞けば、ある程度努力をすれば可能な領域があることが分かるのである。専門の座付き管弦楽団があまりに誤魔化しが上手いのでどうしても歌手の方もそこまでの正確さを要求されない可能性もあるだろう。

公演前のオリエンテーリングでは、モーツァルトとヴァークナーの間をとったパロディ的な創作群としての位置づけをしていたが、「ナクソス島のアリアドネ」の楽屋落ち的なものとは異なるこの歌劇の提示として成功していたのかどうか?

ファスベンダー女史の演出は、たとえばザルツブルクでの鏡を会場に向けて立てたヘルベルト・ベルニッケの演出と比較すると明らかに現場を知ったそして女性らしい細やかさのある演出であった。それは丁度最近新聞にも掲載されていたニコラウス・ニクソン撮影のザ・ブラウンシスターズの最新の写真を突きつけるのとは違って、更に普遍化されて、ある意味蒸留化されていたのは事実であろう。最後に彼女本人が舞台に現れるとブーイングがあったのも、この楽劇に対する期待との相違があることの表れでもあったろう。

同じことはサイモン・ラトルの解釈実践にも表れていて、この賢明な指揮者は、決して従来の印象をたとえばカルロス・クライバーやレナード・バーンスタインのように現代的に焼きなおした形で提供しないために、全く俗受けはしない。しかし、オリエンテーリングであったように、たとえばヨーデルが最も痛切な寂寥感として使われ、また虚構のヴァルツァーがコラールに変わる侯爵夫人のトリオへの流れなど、これほどの軽やかさをあの大交響楽団から引き出す妙を楽しませてくれた。このような落ち着きと精妙な響きは、上擦ったヴィーンの座付き管弦楽の響きからは求め得ないことであり、シュターツカペレドレスデンからもこの軽やかさは求め得ないものであろう。

この楽劇だけではないが、シュトラウスのオペラがどのような意味を持ちえているのかを考える場合、特にこの成功作のように殆ど「サウンドオブミュージック」のお手本であったり、ミュージカルの代表のようになってしまっている作品にまともな関心をひきつけることはとても難しいのである。そのひとつの解決策が今回少しは示されただろうか?メリハリのある台詞はその交響楽団が明確な線を描いているから得られたのである。(続く



参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
普遍性に欠けるR・シュトラウス 2014-05-28 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-03-29 06:20 | | Trackback

席次次第ではない味

2013年産シャルタヴァインを開けた。久しぶりなのでその変化に驚いた。もともと酸が大変効いていながら、樽で寝かしてあったので、秋にはとてもよい感じで楽しめたリースリングだった。その分、その背後にあるミネラルや素性が見えにくかったのかもしれない。そして、ここにきて酸は決して丸くはなっていないのだが、背後で支えるようになると、とんでもなくおかしな味が出てきているのだ。所謂2013年のスパイシーさの一種で、この場合はどちらかといえば拗ねた印象であまり快適ではない。それでも2013年産の特徴の優れた酸が通っているので、しばらく寝かして瓶熟成をするようになるのが待たれる。明らかにロベルト・ヴァイル醸造所のリースリングは正しい道を歩んでいるが、これだけ味に変化があると通以外は失望するかもしれない。2013年産のスパイシーさはまさにこの特徴にあり、酸が下支えしていることでどれだけ寝かす判断が出来るかどうかが評価の鍵となる。それでもプファルツのそれでも現在明らかに谷に入りつつあるので、飲み頃が難しくなってきている。追加購入しようと思っているので、勝負どころである。2014年産よりも本格派のリースリングになるわけではないが、きっりっと輝く通向きの繊細極まりないリースリングが将来話題になるのは間違いない。

何気なくアクセス数を見ていると、大きな数が混じっていた。5267件の訪問者数で、6559の観覧数であった。通常ならば三倍ぐらいの観覧数になるのだが流石にその様にはなっていなかった。二百十四万件のGooブログの中で29番になっている。長くやっているとスロットマシーン的にこのようなことがあるのだが、流石に二桁はなかった。日蝕であれ何であれ凄い席次である。入学試験模擬試験席次ならば東大の理科三類合格有力である。考えてみればその数からすれば数年前の数分の一の数でしかないだろうから、決して天文学的な数ではない。そもそも席次などは、合理的に目指していけば行き着くところに行きつくのである。それでもやはり一桁となると可成り空気が薄くなりそうだ。



参照:
合わせものの楽しみ 2015-01-27 | 生活
胸がパクパクする運動 2014-11-24 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2015-03-28 08:07 | BLOG研究 | Trackback

はん旗が掲げられる日々

水曜日に少しだけボールダーを試した。直前までスポーツ医が電話してきていて出遅れて、風が出てきていたが、一時間半ほど試せた。前回以上に靴が楽になって、逆にどこまで伸びていくのだろうと不安になった。それでも前回までは全く体が浮かなかったのだが、ようやく秋のように両手で体が乗るようになってきた。調子が出てきた理由は、気温もあるかもしれないが、先週金曜日にも室内で可也動けるようになってきた延長線上にあるからだろう。しばらく身体をこのように動かしていなかったので尻が重くなっていたのかもしれない。特に肩の故障箇所が意識されるぐらいに動かすようになったのも何かの変化かもしれない。火曜日から水曜日へと肩が痛むこともなかったので安心している。さらに靴への荷重の方法が徐々に分かってきたので、ボールダーでの鉛直下方以外の様々な加重が出来るようになってきていて、今まで以上に自由が利くようになった感じがある。特に横ばいになるところなどはヒールもトーもフック出来るので、結構難関の課題も解決出来そうになってきた。これは楽しみだ。

ジャーマンウィングスの事故を受けて即座に闘争中のパイロットのスト中止を発表したが、最新情報と重ねて、パーソナル面でマネージメントで問題があった可能性がある。エアバスの技術的問題がなければ結構だ。先日韓国から軍ヘリコプターの大量発注もあったので、またもやボーイング社の牙城を崩しかけているところなので、技術的な欠陥がないことが重要である。それにしてもフランス大統領の「生存者皆無」の早期の発表など、今回もフランスは軍を主導に情報の把握と発表などに軍事大国らしい裏側を感じさせた。まあ、レーダーで追尾していて時速700KM近い速度で山に激突しているのだから、その惨状を確認しないでもとんでもない状況であることは推して知るべしである。それほどの速度で地面に激突した例など今まであるのだろうか?フクシマの時のアレヴァの動きも早かった。911の時も同様であった。今回の事故でマインツで歌う予定だったバイロイトのアルベリヒ役の歌手が搭乗していて死亡したことが伝えられている。中央アジア出身の人でその体格の良さなど目に焼きついているが、歌唱はアルベリヒの存在感を表現できるだけの実力がなかったが、今後もあったことであり、ドイツにやってきて生活も安定していただろうからさぞ無念なことだろう。

コックピットが要塞となったのは911以降といわれるが、現在は暗証番号を入れて外から中から開けてもらうか、緊急時には外からも開けれることになっているらしい。その緊急モードを中から切ることが出来るが、時間限定なので必要があれば二度三度と切ることが必要らしい。要するに今回の場合は、緊急下降作業を含めて、故意にもう一人のパイロットを締め出して、外から開かないようにして、高速で山肌に体当たりした可能性が強いようだ。水平飛行に移って自動操縦になってから立ち上がったもう一人の操縦士が締め出されたということなのだろう。

中国のアジア投資銀行問題でドイツや欧州の事情が社説として載っていた。グーグル、ボーイングと同じで米国主導を避けたいということは書いていないが、そのまま今後期待されるインフラ土建投資の大きさを考えれば、アジアといっても中国が含まれていて、米国が理由付けするように中共の汚職などの問題回避よりも、欧州企業の受注や需要の大きさが決めてだったとある。まさしく国益に沿った決断であり、日本企業が米国側に繋がれて動きが出来ないならこれ以上願ってもない政治状況であるのだ。日本企業は日本政府の売国政策に付き合わされることになるのだろう。



参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
あまり快適でないこと 2015-03-25 | 雑感
革新から遠ざける教育 2015-03-22 | アウトドーア・環境
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by pfaelzerwein | 2015-03-27 00:31 | 雑感 | Trackback

受難オラトリオのコミュニオン

「普通とは違ったね」と齢を重ねたご婦人の声を聞いた。これが今回のマタイ受難曲の全てだった。そもそも日曜日に続いて、フランクフルトまで車を走らせる価値があるかと思ったのは、バーゼルの楽団の演奏であり、そこで学んだ指揮者アンドレア・マルコンの目新たしい名前でゆえだった。曲が鳴り出して、その管弦楽的な演奏姿勢や場違いな特にソプラノ歌手や不安定なアルト歌手のソリスツのバロックオペラティックな歌を聞いていて、ただただ失望したグルノーブルの団体や東京の鈴木教室のそれを思い浮かべるだけだった。オペラでもない叙唱のつまならさには、目を閉じると居眠りをしそうになる。それ以上に、中央ドイツの田舎者バッハの音楽には恥ずかしさを感じさせるほどの、先進国イタリアのバロックの眩い光を当てられて、どうしようもないみすぼらしさを感じさせたのだ。それは会場に居合わせた人たちも同じだったろうか。

その失望感はバス独唱の不明確な発声による29曲「喜んで私は覚悟しよう」で頂点となり、もはや33曲「かくしてわがイエスは捕まれたもう」に至ってはバロックオペラに身を委ねるのだ。だから第一部の終曲が終わって、通常なら要求されないところであるが、指揮者が求める拍手をしたのだった。会場の空気は、この内容ならばとそのようなものかと訝りながら、どこが指揮者の発言のように「宗教的」な演奏会なのだと感じた次第である。

そして期待なく二部も始まり40曲「わがイエスは不実の証言に黙したもう」で、まるでクラナッハの絵のような文字の分からない者にでも分かるような教条的ながらも嘲笑の衣装をも纏ったそれを「プロテスタント的」だと表出させるのだ。要するにここまでのそのやり方が、この受難曲オラトリオを生み出す比較的「新しい宗教」のそこまでの歴史的文化を見せてしまうのである。つまりそれは、第一部で感じた中央ドイツの遅れた地方文化圏の作曲家の仕事ぶりを客観的に見るということでしかない。

そして、バスの51曲「私のイエスを返せ」が引き続きオペラティックに響くのだが、61曲「わたしの頬の涙が」とアルトが歌うとその「hinein」がまさに方向性を以って表現されるとき、その内省的な「客観的な情景」が、あるところへと向かう収斂性をみて、66曲「来たれ、甘い十字架よ」にて、ヴィオラダガムバの激しい音楽が奏されるとき、今まで経験したことのない強い表現となっていた。

それがイエスが息を引き取り、コラール「わたしがいつかこの世を去るとき」で沈黙をおき、まるでカトリックのミサのサンクトュスもしくはコミュニオンの瞬間となるのである。恥ずかしながら、ルター教会のその時と、受難曲オラトリオのこの時が呼応するといううことを今の今まで気がつかなかったのである。しかし私が経験した中でこれを意識させる上演などは今までなかったのは事実であり、エヴァンギリストが語った後のコラールの意味を十分に理解できていなかったという事に他ならない。

こうなれば、今まではこのコミュニオンの時が過ぎてからの後の祭りぐらいにしか思っていなかった、些か面倒なプロテスタント的なコミュニオンの主観の客観の交じり合う経過の創作に明らかに光があてられたのだった。正直厄介どころだった75曲「わが心よ、汝を清めよ」から終曲78曲「われらは涙ながらにここにひざまずき」まで、そのとてもとても大切な創作を体験できたのだった。バッハの受難曲で、最後の最後までこれほど堪能できたことはなかったのである。合唱のベルリンの放送合唱団は、昨年のバーデン・バーデンで御馴染みだったが、すばらしいドイツ語の発声とともに、期待した純器楽的な楽団よりもはるかに私たちの世界との接点となっていた。



参照:
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
割れ窯に慰めなどあるのか? 2011-03-31 | アウトドーア・環境
期待してなかった以上の収穫 2012-03-20 | 音
屈曲した懺悔のデリカット 2012-03-21 | 音
ヨハネ受難曲への視点 2014-04-19 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-03-26 05:42 | | Trackback

あまり快適でないこと

夏タイヤに交換して、その翌朝も冷えた。通常ならば冬タイヤが丁度良い気温だ。それでも週末にはサマータイムになるので早めに切り替えた方がお得だ。もう一度スキーに行くことも考えたが、結局板を購入する経済的な余裕もなく、断念することになりそうだ。なによりも三月終わりからの復活祭音楽祭やその後の四月の予定など山済みで、五月を視野に入れながらスキーなどをやっている余裕は全くなくなってしまった。決まったアポイントメントのカレンダーに追われることにんまる。それどころか、来年の復活祭のカレンダーまで出してきて、ティケットを購入しなければいけなかったのだ。お陰で、同じ価格で良い座席は確保できたと思う。

今週になって一度も走っていない。金曜日の室内クライミングで肩の筋が張ったままなのもその影響があるかもしれない。その車の途上で、フェースブックがEUでは違法ではないかが検討されるというするニュースを聞いた。それによるとオーストリアの27歳の法学生が自らの個人情報がアイルランドのフェースブック欧州から親会社を通じて合衆国のNSCへと流されて将来的な問題を生じたという訴えでがあり、EUで検証されるということになったようである。

アイルランドや英国の欧州議員にも、フェースブックの違法性が問題になってきており、今回の検証を通じて、さらにそれが議論されることになるようだ。先日日本からのお客さんにフェースブックを勧められて、いつものような経験を話したのだが、その申請自体はかなりいい加減であるというのだが、仕事で使うならばいい加減な申請も出来ず。また唯で情報をユダヤ人組織に呉れてやる必要はないと思っているので、こうした話題が出るととても興味がわく。もし違法性があるとするならば、それを修正させればよいということだが、少なくとも合衆国の情報の扱い方は宣伝目的の市場分析ばかりでなく様々な国防などと結びついているのでEUのそれとは相容れないので、合衆国と基準のフェースブックはEU憲章下では受け入れられないものなのだ。

零度の近い中を走るのは、手袋をはめるでもない状態では、あまり快適ではなかった。往路12分2093歩、往復25分4200弱でお茶を濁したという感じだろうか。靴下が良くなかっただけでも気持ちが良くなかった。

格安飛行のジャーマンウィングスが落ちたようだ。ニースの西北らしい。バロセロナからデュッセルドルフへの朝の便だから日系の企業人も遭遇しただろうか。ルフトハンザが経営していることから整備などには問題がなかったとは思うが、操縦などは安い外国人を使うことから親会社のストライキ問題になっているのではなかったか。それでも機体A320-211は1990年初飛行であるから、25年経過していて、親会社ではありえないのではないか?

高度11000M上空でSOSを出して、信号が途切れる2100Mまで数分かけて降下していて、完全に墜落しているようだ。そこから落下速度が、毎分約1000Mとされて、不時着に相当するらしい。離陸後20分ほど経過した安定した定常飛行に入ったところだとすると、またまた速度計の凍結だろうか?それとも書かれるように突然気圧が下がるようなことがあったのか?しかし緊急事態で降下していることからすると、そのような突発の事象がなかったとも考えられない。

現地はこちらと同じで寒戻りで、その近くでは丁度深雪滑りをした経験から雪のふるような視界の効かない状況だったようだ。あの区間を飛ぶものなら皆知っているように、アルプスの全山が迫っていて、その高度ではそこに激突することは分かっていた筈だから、可也操縦が自由にならなかったのだろう。そこまで高度を下げて、不時着しようとして、コムピューター制御の問題ということはないと思われるが。



参照:
確認するまでと主張する横着 2011-08-03 | 雑感
解明されたロールスロイスの不都合 2010-11-12 | 雑感
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by pfaelzerwein | 2015-03-24 21:48 | 雑感 | Trackback

二十世紀を代表する交響曲

最後のフランクフルト公演を聞いた。メッツマッハー指揮のSWF放送交響楽団の演奏を最後に聞けたのは幸運だった。ルツェルンの復活祭音楽祭でこのあと公演するようだが、さぞかし話題になることだろう。当初は、ご当地所縁のミヒャエル・ギーレン指揮で同じマーラーの第六交響曲が演奏される予定だったが、昨年の秋に指揮棒を置くことになった。そのお蔭で素晴らしい交響曲演奏を体験できた。この曲では、ルツェルン祝祭管弦楽団のガリー・ベルティーニ指揮の演奏、そしてシュターツカペレ・ドレスデンでのジョセッペ・シノポリ指揮の演奏を経験している。最初の圧倒的なユダヤ風の歌いまわしの迫真の演奏、壷を押さえながらも技術的な限界を示した座付管弦楽団とも全く異なる演奏だった。なによりもドイツ風のこの曲の演奏は初めてだった。ドイツ風と言ってもそれは、あの作曲家アントン・ヴェーベルンが指揮したこの曲の本質をそのまま印象させるものだった。その意味から初演後百年以上経って漸く当時の若い作曲達に響いたが初めて響き鳴るようで感慨深い。

細部に触れる前に、本来指揮をする筈だったギーレン氏の第二楽章にアンダンテを据える楽譜ではなくて、従来通りのスケルツォを持ってきたことで、メッツマッハー氏のコンセプトは自ずから知れた。要するに二楽章における「打楽器」的な弦にヘ短調のモティーフが最大限に凝縮されて強調されることで、この交響曲の動機的な骨組みが出来上がることになる。そもそもそれが従来のこの交響曲への視点であったのだが、こともあろうにギーレン指揮で「新しい版」がザルツブルクでも演奏されて大喝采を浴び、余計に「古い視点」が浮かび上がることになったのだ。要するに、この従来の版を選択するということ自体が楽曲解釈の表明なのだ。

予想されたように旧SWF放送交響楽団でしか出来ないほどの無機的で、余韻を排した即物的な響きが暴れ散るのだった。殆どクセナキスの管弦楽曲を連想するようなそれは他の管弦楽団ではなかなか聞くことが出来ない性質の音響である。なるほど第一楽章の提示部の最初の総秦の鳴りが明らかに曖昧だったので、正直失望したのである。指揮者がのびのびと和声を響かせさせることが出来ないのではないかとも思ったのだ。しかし提示部繰り返しもそれは変わらなかったことから、敢えて長調短調へのモットーの源泉の三和音の並行がここではトロムボーンでそのまま奏されるだけなのだが、それが強調されることで自ずとモットーを暗示する効果を上げているのだった。

他の録音を比較しても、主題の提示ということでは明晰に鳴らすことへと配慮がされるのが一般的であり、そこで既に暗示効果を示している演奏解釈は殆どないようである。逆にここでシカゴ交響楽団の録音が示すように余りにも明晰に分離よく鳴らされることで ― 言い換えれば単純化されるということでもある、その後への予兆が変わってきて、モットーの意味が薄くなってくるようだ。特にショルティ―指揮などに代表される無機的な演奏を目指すところでは、大きな影響を及ぼす。そして、はじめて展開部の完全な頂点が築かれる時に、分離よく明晰さが示されるべきであるという大きな相違が生じる。可成り知能犯の演奏実践であり、ここまでなせば、当然のことながら終楽章のフィナーレまでの完ぺきな構成感がそこで築かれていることになる。

この一楽章の小気味よいテムポの素晴らしさは、当然のことながら即物的な二楽章のスケルツォの響きとなり、四楽章における管と弦の本来の個性を超えた響き合いを準備しているのである。新ヴィーン学派の作曲家たちがどれだけこの曲に圧倒され影響を受けたかが目のあたりに示されるのである。

さて、最も繋がりの薄い筈の第三楽章のアンダンテにおけるクライマックスにおいても結局トロボーンにてモットーが強調されて、一挙に世界が変わってしまうのである。勿論そこは作曲家の娘の死への暗示とされてきたのだが、そこで世界がトランスするのがこれによって明白になり、まるで熱気球が上へ上へと成層圏を超えてしまうかのような世界が広がるのである。そこに至ってこそ、初めてこの交響曲が私小説的なセンチメンタルとは一切関係がない第三楽章を戴くにいたるのである。

そこを通ると、最初から指摘されていたように、第四楽章でモットーにハムマーが撃ち落されて一度目二度目、三度目と徐々にその破局の落差が小さくなっていくのである。哲学的なことにここで触れるつもりはない。しかし、明白なことは最初から最後まで、それが準備されていて、スカシ構造的な中に途轍もない落差と響きが炸裂しており、全曲の構成の中で解決されているのである。20世紀を代表する交響曲であることを確信するに十分な体験であった。(続く



参照:
多感な若い才女を娶ると [女] / 2005-08-22
第六交響曲 第三楽章 [ 音 ] / 2005-08-21
お花畑に響くカウベル 2005-06-23 | 音
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by pfaelzerwein | 2015-03-24 03:15 | | Trackback